[4] 日本の南北朝時代とその前後には、 中央政府が2つに分裂し、 国内諸勢力の争いがありましたが、 元号も同時に2つ以上が使われる事態となっていました。
[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの元号が用いられました。 両勢力の複雑な争いにより、元号の廃止や復活もあって複雑になっています。
[187] 対応表や変換ソフトウェアは北朝と南朝を併記するものが多いですが、 一方のみ採用するものもあります。完全に併記とするもの、 北朝を原則とするもの、南朝を原則とするものがあります。 分裂や統合の境界部分の扱いが怪しいものもあります。 正平一統まで記述しているものはあまりありません。
[414] 雑な実装で、両方の元号を採用し、直近の改元があったものを使って表記する、
というものもあります。
[385] 南北朝時代、両朝廷はそれぞれの事情で改元したので、 タイミングと期間はまったく異なります。北朝の方が頻繁に改元しました。 同じ年にそれぞれ改元したこともあります。
[395] 日本の元号でただ一組、 弘和と永徳だけは、 前後の改元の年の組 (1381, 1384) が完全に一致しています。
[394] 北朝は京都で従来の改元手続きを基本踏襲していましたが、 南朝は改元の正確な日付すら一部現在に伝わっていません。
[203] 明治時代以後、南朝が正統とされ、天皇の代数は南朝基準で数えられています。 (それ以前は北朝基準でした。) どちらかを選択しなければならない場合、 元号も南朝側を採用するのが良いのかもしれません。
[422] ただし、本節で紹介する通り、南朝の元号に関する情報はあまり正確に伝わっていないようです。
[57] 伊豆加茂郡入間村三嶋明神の棟札に 「應長十三年」 とした延長年号例があったといいます。 >>13 普及版 p.425 (逸號年表補考)
西暦 | 北朝 (持明院統) | 南朝 (大覚寺統) | 備考 |
---|---|---|---|
1329 | 嘉暦4年 | 嘉暦4年 | |
1329 | 元徳元年 | 元徳元年 | 嘉暦4年8月29日改元 |
1330 | 元徳2年 | 元徳2年 | |
1331 | 元徳3年 | 元徳3年 | |
1331 | 元徳3年 | 元弘元年 | |
1332 | 元徳4年 | 元弘2年 | 元徳4年3月7日後醍醐天皇配流 |
1332 | 正慶元年 | 元弘2年 | |
1333 | 正慶2年 | 元弘3年 | |
1333 | 元弘3年 | 元弘3年 | 北朝正慶2年5月25日退位 |
1334 | 元弘4年 | 元弘4年 | |
1334 | 建武元年 | 建武元年 | 元弘4年1月29日改元 |
1335 | 建武2年 | 建武2年 | 8月足利尊氏出兵 |
1336 | 建武3年 | 建武3年 | |
1336 | 建武3年 | 延元元年 | |
1337 | 建武4年 | 延元2年 | |
1338 | 建武5年 | 延元3年 | |
1338 | 暦応元年 | 延元3年 | 北朝建武5年8月28日改元 |
1339 | 延元4年 | ||
1340 | 延元5年 | ||
1340 | 興国元年 | 南朝延元5年4月28日改元 | |
1342 | 康永元年 | 北朝暦応5年4月27日改元 | |
1345 | 貞和元年 | 北朝康永4年10月21日改元 | |
1347 | 興国7年 | ||
1347 | 正平元年 | 南朝興国7年12月8日改元 | |
1350 | 観応元年 | 正平5年 | 北朝貞和6年2月27日改元 |
1351 | 観応2年 | 正平6年 | |
1351 | 正平6年 | 正平6年 | |
1352 | 正平7年 | 正平7年 | |
1352 | 観応3年 | 正平7年 | |
1352 | 文和元年 | 正平7年 | 北朝観応3年9月27日改元 |
1353 | 文和2年 | 正平8年 | |
1356 | 延文元年 | 北朝文和5年3月28日改元 | |
1361 | 康安元年 | 北朝延文6年3月29日改元 | |
1362 | 貞治元年 | 北朝康安2年9月23日改元 | |
1368 | 応安元年 | 北朝貞治7年2月18日改元 | |
1370 | 建徳元年 | 南朝正平25年7月24日改元 | |
1372 | 文中元年 | 南朝建徳3年4月改元 | |
1375 | 永和元年 | 北朝応安8年2月27日改元 | |
1375 | 天授元年 | 南朝文中4年5月27日改元 | |
1379 | 康暦元年 | 北朝永和5年3月22日改元 | |
1381 | 弘和元年 | 南朝天授7年2月10日改元 | |
1381 | 永徳元年 | 北朝康暦3年2月24日改元 | |
1384 | 至徳元年 | 北朝永徳4年2月27日改元 | |
1384 | 元中元年 | 南朝弘和4年4月28日改元 | |
1387 | 嘉慶元年 | 北朝至徳4年8月23日改元 | |
1389 | 康応元年 | 北朝嘉慶3年2月9日改元 | |
1390 | 明徳元年 | 北朝康応2年3月26日改元 | |
1391 | 明徳2年 | 元中8年 | |
1392 | 明徳3年 | 元中9年 | 南朝元中9年閏10月5日退位 |
1392 | 明徳3年 | 明徳3年 | |
1393 | 明徳4年 | 明徳4年 | |
1394 | 明徳5年 | 明徳5年 | 明徳5年7月5日改元 |
[195]
江戸時代、日本近江国蒲生郡中之郷村に流布していた、
中之郷村にあったという善通教釈寺の梵鐘の銘文写本とされるものに、
「
[196] 江戸時代の中之郷村の知識人坂本林平は、 楓亭雑話にこの銘文を収録した上で、 出典不明で疑わしく、 「例ノ好事ノ偽作ナラン歟」 と疑っていました。 >>194 pp.122-123
[198] 蒲生古蹟考などにも 「南都興福寺官務帳写」 として掲載されていました。 ところが現存する興福寺官務牒疏には記載がありませんでした。 >>194 p.123
[197] 昭和時代の東桜谷志は、 楓亭雑話を引いて紹介しました。 興国元年は暦応3年、西暦1340年に当たるとし、 当時の領主は南朝にも北朝にも従っていて南朝年号が書かれても不思議ではないものの、 近くに北朝暦応2年金石銘が現存するように、 当時足利尊氏方にあった佐々木氏統治のこの地域にあったとは考えにくいなどと疑問視していました。 >>194 p.123
[201] 当銘文は椿井文書で、「例の好事」とは椿井政隆と思われます。 >>200 pp.98-99
[202] 現在の通説によると、 南朝興国元年 (延元5年4月28日から改元) は北朝暦応3年、です。 この付近の丙子年は、 (南朝は延元元年2月29日に改元) でした。 4年のずれがあります。
[206] 椿井政隆が何らかの意図を持って異なる干支を書いたのでしょうか。 それとも江戸時代当時の異説を信じてしまったのでしょうか。
[225] h22-2 49-54gou.pdf, , https://saitama-rekimin.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/1933 PDF 1頁
[232] https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29513/21393_1_%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A.pdf PDF 3頁
[233] 練馬区史 歴史編, , https://www2.i-repository.net/contents/myc/text_2rekishihen/rekishihen_honcho3.xhtml#honcho_page187
[234] vol23_h1-4_Fix-cs6_最終ol - kouhou23.pdf, , https://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/pdf/kouhou23.pdf#page=2
[284] 花園遺史, 尾上角兵衛, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3008717/1/15 (要登録)
[285] >>284 白黒で低解像度の写真、しかも本文との対応関係がはっきりせず (本文に翻刻があるのかも不明)
/15 「
/14 「
[178] 共立女子大学短期大学部紀要 (4), 共立女子大学短期大学部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1776351/1/17 (要登録)
[29] 興亜日本建国史 第3巻 (九州四国大観), 伽藍康裕, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1025004/1/88 (要登録) 右上
吉野の年号と私年号
[124] Wikipedia その他は、元徳の開始を嘉暦4年8月29日 (ユリウス暦1329年9月22日) としています。
[125] 南朝 (大覚寺統) は元徳3年8月9日 (1331年9月11日) に元弘に改元しています。 後醍醐天皇はその直後に京都を離れました (元弘の乱)。
[126] 鎌倉幕府はこの改元を承認せず、 後醍醐天皇を廃位し、北朝 (持明院統) の光厳天皇のもと、元徳4年4月28日 (ユリウス暦1332年5月23日) に正慶に改元しています。
[116] Wikipedia は正慶を元徳4年4月28日(ユリウス暦1332年5月23日)開始、 正慶2年5月25日(ユリウス暦1333年7月7日)終了としています。
[20] 国立天文台の日本の暦日データベースは、
[15] 関城書裏書 は、 大外記の注進に改元詔書があるものの「改元記」がなかった、 とします。 >>440
[16] 元弘日記裏書は、 大外記からの私的な注進があったものの改元詔書がなかった、 とします。 >>440
[17] いずれにせよ鎌倉幕府は正規の改元と認めなかったと理解されます。 >>440 (続史愚抄)
正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡した。5月25日(7月7日)に光厳天皇は退位し、正慶の元号は廃された。その翌年の元弘4年1月29日(1334年3月5日)には建武へと改元された。後醍醐天皇はこのとき、光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言した。
元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。
[19] HuTime - 時間基盤情報-暦変換(和暦) ( ( 版)) http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/calendars/Japanese.html
「大宝」以降
国史大辞典編集委員会編 『国史大辞典』(吉川弘文館刊)の記述に従っています。ただし、改元日があいまいな場合は下記のとおり扱います。これらの処置による暦変換への影響については、備考もあわせてご覧ください。
(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。
元徳から正慶: 「正慶」の項目には「元弘二年四月二十八日改元」とあるが、「元徳」の項目に「持明院統の光厳天皇は四年四月二十八日正慶と改元するまで、この年号を使用した」とあるので、暦変換で北朝が指定された場合は元徳4年4月28日に正慶に改元として扱う。
[128] Wikipedia は、 元弘4年1月29日 (ユリウス暦1334年3月5日) を建武の開始日としています。 終了日は、南朝建武3年2月29日 (ユリウス暦1336年4月11日)、 北朝建武5年8月28日 (ユリウス暦1338年10月11日) としています。
[222] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「中公新書『中先代の乱』を読んだけど、この本の底辺には北条時行へのロマンがぎっしり詰まってて、その上に歴史学を積んでるという感じがしました。」 / Twitter (午後2:38 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418445348742201347
[223] 巫俊(ふしゅん)さんはTwitterを使っています 「鎌倉近隣の北条氏ゆかりの寺院の僧侶が、中先代が鎌倉に入ったわずかな期間だけ、中先代が使用する年号を使ってたという記述が一番興味深かったです。鎌倉を追われるとすぐに年号を元に戻したそうで。」 / Twitter (午後2:48 · 2021年7月23日 , ) https://twitter.com/fushunia/status/1418447913823268868
翌二十三日、足利直義を井出沢に破った北条時行は、二十四日、ついに鎌倉を奪回した。時行は正慶の年号を復活させ、幕府復活を宣言した。
[129] Wikipedia は、 興国7年12月8日 (ユリウス暦1347年1月20日) を正平への改元日としています。 正平25年7月24日 (ユリウス暦1370年8月16日) までとしています。 開始日について「『七巻冊子』は4月、『南朝編年記略』『南朝公卿補任』は7月24日(8月11日)、『続史愚抄』は7月4日(7月22日)とするが、全て誤り。」ともあります。
[667] 九州に勢力を持っていた足利直冬は、
観応に改元せずに貞和を利用継続していました。
>>440 (足利直冬, 瀬野精一郎, 年号と東アジア所収南北朝期日本の不改年号と私年号), >>188
観応2年6月10日から観応を用い始めました。
>>188
中央政府との対立関係を表すとも言われていましたが (
[661] 観応2年11月7日、北朝は廃止されました。 この直後から、室町幕府 (足利尊氏政権) は正平 (6年) を用い始めました。 >>663 169ページ
[662] 足利尊氏と対立関係にあった足利直義は、 その後も観応を使い続けました (翌年2月26日没)。 鎌倉など東国は12月末頃まで足利直義の勢力下にありました。 >>663 169ページ
[665] 正平7年閏2月23日、足利義詮は観応 (3年) に復帰しました。 3月15日、足利義詮は南朝が進攻していた京都を奪還しました。 >>663 194ページ
[664] 正平7年3月12日、足利尊氏は南朝が進攻していた鎌倉を奪還しました (武蔵野合戦)。 鎌倉入後、足利尊氏は観応 (3年) に復帰しました。 >>663 192ページ
[113] Wikipedia その他は観応3年9月27日 (ユリウス暦1352年11月4日) に文和へ改元 (北朝) としています。
[668] 足利直冬は、文和へ改元せず、観応を使い続けました。 直冬は年末に九州から中国地方に移動し、 南朝に帰順しました。 >>663 208ページ
[666] 北朝文和2年6月9日、南朝が京都に進攻しました。 北朝後光厳天皇や足利義詮は京都を脱出しました。 7月24日、南朝は京都から撤退しました。 25日に北朝軍が京都を奪還、 26日に足利義詮、 9月21日に後光厳天皇が京都に復帰しました。
[21]
対照表や変換ソフトウェアで正平一統を反映するものはほとんどなく、
南北両元号併記の期間とすることが多いようです。
貞和七年
一三五一年。観 応二年(北朝年号) にあたるが、当時こ の地域で勢力を有し ていた足利直冬は、 実父の足利尊氏と対 立し、年号も改元せ ず貞和年号を用いて いた。
なお、直冬は観応と改元された後も約1年4カ月余にわたって貞和年号を使い続けた[25]。
この事もあり、観応2年(1351年)6月10日から直冬は貞和から観応の年号を使用するようにしている[33]。
(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。
観応から文和: 「文和」の項目には「正平七年九月二十七日改元(前年十一月の正平の天下統一により北朝の年号「観応」は廃止されていた)」とあるが、観応廃止の日付が確定できないこと、また、「観応」の項目に「三年九月二十七日文和と改元」とあるので、観応から文和に直接改元したものとして扱う。
[27]
建徳への改元日を多くの資料は正平25年7月24日としてきました。
しかし建徳元年2月5日の史料が残されています。
日本年号史大事典本文は改元日を
2月5日以前としており
(巻末一覧表は7月24日)、
他にも
2月5日とするものがあります >>104。
[118] Wikipedia は正平25年7月24日 (ユリウス暦1370年8月16日) を建徳への改元日としています。 「鴨脚本『皇代記』は4月22日(5月17日)、『伊勢之巻』は1月21日(2月17日)とする。」 ともあります。
[669] 康安元年12月、南朝は京都に進攻しました。 しかしその後すぐに北朝が奪還しました。
(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。
正平から建徳: 最も早い現存史料として挙げられている「『大徳寺文書』建徳元年二月五日重快・妙阿連署田畠売券」の記述に従い、正平25年2月5日をから年号を建徳として扱う。
1351 正平 1351 正平6年 (観応2年11月2日 正平一統により、北朝は南朝元号の正平を採用し、南北朝同一元号となる)
1352 文和 (1352年 正平7年9月27日北朝は再び独自の元号として「文和」に改元、正平一統は崩壊)
[10] 大町市史 第2巻 (原始・古代・中世) 本編, 大町市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539832/1/175 (要登録)
[282] 加佐郡誌, 京都府教育会加佐郡部会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1020163/1/78
(北朝元号を私年号と書いている)
[283] 山鹿素行全集 思想編 第6巻, 広瀬豊, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1266047/1/87 (要登録)
(北朝元号を私年号と書いている)
[460] 新田義貞が京にいながら延文に改元されて7日ののちも建武を使い続けた例があります >>440 (年号と東アジア所収南北朝期日本の不改年号と私年号)。 しかし期間が短く、政治的意図があったかは疑問視されています。 >>440
[149] これに政治的意図を見ていたのは北陸朝廷説絡みでしょうか。
[92]
奥州で延元 (5年で改元) の延長年号8年の用例が発見されました。
[96] Wikipedia は文中への改元日を不明としています >>95。 変換表も多くは不明としています。 値を示す表やソフトウェアも、その値は様々です。 具体的な日を示すものは次の通り。
グレゴリオ暦 | ユリウス暦 | 旧暦 | 出典 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1372-04-26 | 1372-03-22 | 確証を得ない >>95 | ||
1372-05-01 | 1372-03-27 | 元号一覧 (>>13) | ユリウス暦月初 | |
1372-05-04 | 1372-04-01 | 国立天文台の日本の暦日データベース 元号一覧 (>>347) , 元号一覧 (>>22), 元号一覧 (>>340), >>50, 元号一覧 (>>323) | 旧暦月初 | |
1372-04-05 | >>62 | 改元日範囲の最速 | ||
1372-05-31 | 1372-04-28 | >>99, >>102 | 史料初出 >>95 | |
1372-10-30 | 1372-10-04 | 元号一覧 (>>39) 備考, 元号一覧 (>>337) | 誤り >>95 | |
1372-10-24 | 元号一覧 (>>39) 備考 |
[158] 元号一覧 (>>39) は4月(日不明)としつつ、備考で10月4日と10月24日を挙げています。
改元の日付は三省堂の『コンサイス世界年表』[6]に拠りました。
源平争乱期と南北朝時代については、それぞれ源氏方と平氏方及び南朝と北朝の 年号を表示します(ただし白鹿はサポートしていません)。
南朝の「文中」改元は日付が不明になっていますので仮に4月1日にしてあります。 バージョン2.01から、明徳3年閏10月5日までバージョン1.Xに較べ1日長く「元中」 年号を表示するように変更しました。これは中国暦日表示の原則に合わせたためです。 他の時代にも、京都で次年号に改元後関東等で使用されていた年号があるようですが、 京暦に従いました。
改元日は史料を欠くために明らかにし難い。史料上の初出は、『金剛寺文書』の文中元年4月28日(1372年5月31日)付長慶天皇綸旨であり、これ以前の改元は確実視される。したがって、『南朝編年記略』・『続史愚抄』などが10月4日(10月30日)とするのは誤り。『七巻冊子』は3月22日(4月26日)とするが、他に所見がなく確証を得ない。
(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。
建徳から文中: 最もはやい確実な史料として挙げられている「河内『金剛寺文書』文中元年四月二十八日長慶天皇綸旨」の記述に従い、建徳3年4月28日から年号を文中として扱う。
[130] Wikipedia は文中4年5月27日 (ユリウス暦1375年6月26日) を天授への改元日とし、 天授7年2月10日 (ユリウス暦1381年3月6日) までとしています。 改元日について「『七巻冊子』は2月上旬とする。」とあります。
[119] 九州の征西大将軍の令旨は、 文中4年6月13日までのものと、 天授元年10月3日以後のものが確認されています。 >>101 PDF 8ページ
[114] Wikipedia その他は天授7年2月10日 (ユリウス暦1381年3月6日) を弘和への改元日としています。
[115] Wikipedia には「『南朝編年記略』は2月14日(3月10日)とする。」ともあります。
(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。
天授から弘和: 「弘和」の項目には「天授六年(一三八〇)の六月以降、同七年六月以前に改元が行われ」とあるが、「天授」の項目に「天授七年二月十日弘和と改元」とあるので、天授7年2月10日を改元日として扱う。
[111] Wikipedia は弘和4年4月28日/ユリウス暦1384年5月18日) を元中への改元日としています >>110。多くの対応表がこれを採用しているようです。
[112] >>103 は弘和4年11月5日を改元日としています。
[120] 九州の征西将軍宮の令旨は、 弘和4(1384)年5月16日までのものと、 元中元(1384)年11月21日からのものが確認されています。 >>101 PDF 9ページ
[22] 国立天文台の日本の暦日データベースは、
[117] Wikipedia は南朝側の元中最終日を元中9年閏10月5日 (ユリウス暦1392年11月19日) としています。
(2)改元日が確定しないものについては、改元後の年号で最も早い史料として『国史大辞典』で挙げられているものの日付を用いる。
弘和から元中: 最も早くみえる現存史料として挙げらている「『栄山寺文書』元中元年十一月五日後亀山天皇綸旨」の記述に従い、弘和4年11月5日から年号を元中として扱う。
(1)改元について前後の年号で『国史大辞典』の記述が異なる場合は、日付が確定する方を採用する。
元中から明徳: 「元中」の項目には「九年閏十月南北両朝の統一により北朝明徳の年号に統一され」とあるが日の記述がない。「南北朝の合体」の項目の「同五日神器が大覚寺から内裏に渡御し<中略>これで万事が完了した」の記述に基づいて、元中9年閏10月5日に明徳に改元として扱う。
[132] 当時の九州の状況について、 南九 で懐良親王生存中の天授元(1375)年から弘和2(1381)年の 8年間の南朝の元号の史料は69通 (8.6通/年)、 死後の弘和3(1382)年から元中12(1395)年の 13年間の南朝の元号の史料は48通 (3.6通/年) と激減しました。 死後の用例はほとんどが後宮の令旨と側近の書状で、 他は九州全土で北朝の元号が使われました。 >>101 PDF 19ページ
[133] 至徳元年・元中元年 (1384年) 以後、 阿蘇社の社務関係文書ではもっぱら北朝の元号が使われました。 南朝勢力の支配が失われたものとみられます。 >>101 PDF 19ページ
[221] 南朝残党 (後南朝) は南北朝合一後も元中を使い続けています。
[140] 伊勢国司の北畠顕泰は、 合一後も南朝の元号を使いました。 元中9(1392)年11月1日付文書が確認されています >>141 p.114 (古和文書)。 (が翌年9月までに幕府に帰順しました。)
[100] 九州の一部を支配した南朝の征西将軍宮は、 元中11年 (= 応永元年) まで令旨を発したことが確認されています >>97 p.189 (後征西将軍宮発給文書考, 川添昭二, 古文書研究 一九, 1982年)。 最後のものは元中11(1394)年12月19日とされます >>101 PDF 9ページ。
[134] 信濃、越後、陸奥など東国方面では、 南朝系勢力の新田氏が活動しました。 元中の元号が引き続き使われました。 >>97 p.190 (東国の元中年号文書と新田一族, 江田郁夫, 古文書研究 五五、 2002年)
『南方紀伝』・『続史愚抄』などによる。
九州征西府や東国新田氏を中心とする南朝勢力の間では、合一後もなお「元中」年号が使用され続けた。具体例としては、『阿蘇文書』に元中10年(1393年)、『五条家文書』に同11年(1394年)・同12年(1395年)、『市河文書』に同14年(1397年)[2]、『日枝神社文書』に同18年(1401年)の各年紀を持つ文書がある。
[143]
忠義王文書として、
年号がなかったり、
干支年のみで
「
[26]
後南朝の活動した吉野地方には他にも干支年のみの遺物があります。
[84]
北朝の元号を使うのをきらったものとも考えられますが、
政治的意図なくこうした表記にすることもあるでしょうから、
簡単に言うことはできません。
ただこの時代の文書で干支年の単記は日本には意外と見られませんから、
意図を推察することには意味がありそうです。
[123] 江戸時代の研究者伴信友の残桜記は、 「乙亥七月十八日」 と 「乙亥八月六日」 の色河家文書を紹介していますが、 天靖十三乙亥年と書くべき所が、 「南方私の年號」 であるので世に知られておらず、 かといって公年号を書くのも悔しく、 干支年を書いたものであろうとしました。 >>122
[159] 昭和時代の歴史研究者村田正志も伴信友の見解に従っています >>90 (南北朝史論所収忠義王文書を訪ねて)。
[156]
東京大学史料編纂所架蔵謄写本南行雑録 (浅草文庫本)
頭注に、
「乙亥ハ康正元年カ。北朝ノ年号ヲキラヒテ甲子バカリヲシルセ
ルカ。康正元年乙亥ヨリ長禄元年丁丑マテハ三年也。」
とあります。
東京大学総合図書館所蔵南行雑録 (南葵文庫本) になく、
後人の書き入れとされます。
>>90
[87] 江戸時代から明治時代の研究者菅政友の 南山皇胤譜 は、 乙亥は内容から康正元年に当たるとして、 公年号を使うのも悔しいので干支年のみにしたと推測しています。 >>86
[27]
明治時代の研究者林嘉三郎による史書南朝遺史
の天靖13年乙亥条には、
「
[121] 昭和時代の 南山遺響 は、 伴信友の見解 (>>123) を引用しています。 >>91
[131]
昭和時代中期の日本私年号の研究 天靖条は、
伴信友の見解 (>>123) を引用しています。
[162] >>161 は昭和時代の吉野住民による後南朝の本。 乙亥年は北朝の元号を避けたものと説明。 本書中には引用の形で天靖が記載されているものの、乙亥年との整合性は言及なし。
[31]
美作後南朝説では干支の間違いということになっています。
[150] ところで、 これらの文書の真偽や忠義王の実在性も現在では疑われていることに注意が必要です。 >>90
[1934] 南朝の元号が存在していたことは、 江戸時代の知識人にはよく知られていたようです。 情報に混乱があり、 南山巡狩錄 が出典を示して整理したといいます。 >>1731
[228] 武家年代記 (治承4年―明応8年(貞和5年―観応5年欠)) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム, https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444660000/55c00b842ca2429abec42d873f4c3f18?p=47
現在の説とは違う数え方の南朝年号
[7] 神皇正統記の基礎的研究 本論, 平田俊春, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12209112/1/374 (要登録)
[8] 海録, 山崎美成, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/945818/1/208
旧説に基づく贋作
[163] 後南朝については、戦国時代から現在に至るまで様々な独自の元号が存在したといわれています。 南朝や後南朝に属する諸勢力による独自の私年号も存在したといわれています。
[167] 職業研究者の説、郷土史家の説、自称天皇に関係する説、 偽書に使われる元号など様々な思惑が交錯しています。
[172] 後南朝勢力が独自の元号を実用した証拠や、 南朝・後南朝系の勢力が独自に私年号を制定した証拠は未だ発見されていません。 元号のみならずそれを使ったと主張される勢力の存在自体すらも怪しいものが多いです。
[137] 伴信友は、 次のように認識していました。 >>1731
[269] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/8 (要登録)
[271] >>269 南朝後裔の元号の例として天靖, 大長などがあると紹介しています。 しかし出典なく詳細は不明。
[18] 4月、 東軍 (後土御門天皇, 足利義政将軍) は兵革を理由に文明と改元しました。 >>440
[23]
その頃、西軍でも改元されたとの噂がありました。
>>440 (経覚私要抄 応仁3年5月4日条)
明応という元号名の噂もありました。
[24] 当時の人々に、正統性の主張として元号の掌握があり得るとの意識が存在したと考えられます。 >>440
[30] 西軍ではその後後南朝から西陣南帝を迎えたとされています。
[25]
しかし西軍の山名氏は、
応仁3年6月時点では「応仁三年」を使っており、
応仁4年4月までには「文明」を使うようになっています。
と書かれており、 太田元貞がものがたりきとあります。 >>33
[40] 太田元貞 (大田錦城) は江戸時代の儒学者です。 この話のどこからどこまで (全部?) が太田元貞によるものなのかはよくわかりません。
[41] 明治時代に出版された 松屋叢話 に付された注釈 (内藤耻叟と小宮山綏介によるもの) は、
と後南朝説を否定しています。また、蜀山人説を引いていますが、
これも後南朝説には触れていないものです (
[51]
明治時代の研究者細川潤次郎の
吾園随筆
に収録された
と書いていました。 >>49
[67] 出典は明記されていませんが、江戸時代以来の文献にそれぞれ似た記述が見られますから、 それらを拾ってまとめたものと思われます。
[82] こうした説は、私年号の全体像が未だ判明しない段階で、 後南朝の元号 (とされるもの) がその出自が明確だった (と思われた) ために、 それをすべての私年号に類推してしまった点が誤りでした。
[68] 戦国時代の九州の筑前国で勢力があり宗像神社とも関係が深かった河津氏と関係して、 長慶天皇の落人伝説があります。
[71]
河津貞広遺書
とされる文書に、
「
[72]
妙祐禅尼遺書
とされる文書の後の
[74] これら文安、 元和、 元禄の日付がどこまで信用できるものかは定かではありません。 現在見つけられた中では明治30年に出版されたもの >>69 が最古の引用です。
[75] 落人説と関係しない第3者によるものでは明治35年の言及 (>>64) が最古です。 内容は明治30年のもの >>69 に合致していますが、 >>69 を見て >>64 を書いたのか、 他にも同内容のものが流通していたのかは検証の余地があります。
[76]
天崝は天靖の誤りではないかといわれています (>>64)。
天崝表記はこれ以外に発見されていませんが、
崝
がJIS第4水準漢字で各種データベースや OCR
でまともに対応されていなそうなのが難点です。
(国会図書館デジタルでもOCRに誤認識されています。)
[79] 天靖と大道の「中」とあるのは、 これらが元号名で、 これらの元号の時代において、の意と解されています (>>64)。
[77] 天靖、 大道は江戸時代の研究者らによって後南朝の元号として有名になりました。 これらの「遺書」が真作なら後南朝元号説を裏付ける有力な史料となります。 逆にこれらの元号が後南朝のものでないなら、 江戸時代の学説に基づいた偽造したとする根拠になります。 なお現在の研究者は大道の後南朝説に否定的です。
[80] これらの文書は近現代の歴史研究者に参照されてこなかったようにみえます。 近現代の私年号研究の方面でもまったく知られていませんでした。
[94] 日本南北朝時代の元号は、 ある地域、ある人物がどの勢力に属したかを知る手がかりとされています。
[164] 庄内地方には、 正平や興国のような南朝の元号のある板碑がありました。 吉野を中心とする修験道を通じたつながりが指摘されています。 >>166 pp.364-365
[168] 奈良原山に宝篋印塔があって、 南朝の元号が使われました。 やはり修験道との関係が指摘されています。 >>166 p.365
[182] YasuさんはTwitterを使っています 「この契約状にみられる「仰 公方」も、島津家当主(島津元久)と断定されている。しかし、その根拠となる関連史料は掲示されていない。この頃島津は、幕府方に降参して間もない頃のようである。南朝の元号ではなく、北朝の元号を使用しているのも、幕府方であることを意味している。#公方 #一揆契約状 https://t.co/JHBNj0dgxq」 / Twitter, 午前3:53 · 2020年12月24日 , https://twitter.com/yasu197508161/status/1341819257609355264
[14] 徳島県史 第2巻, 徳島県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2993107/1/79 (要登録)
[229] 0203.pdf, , http://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf#page=2
生石延命寺の板碑はこの頃のものである。年号に注目すると、若干の差だが、南北朝前期に作られた板碑は南朝年号が多く、後期は北朝年号が多い。これは、当時の酒田周辺の南北勢力を表していると考えられている。出羽国では、はじめ南朝勢力が強かったが、康永2年※北朝年号(1343)には北朝が優勢になる。この時、北朝側には武藤氏(大宝寺氏)、余目安保氏がついており、最上川南側には北朝勢力、北側には南朝勢力が及んでいたと考えられている。
[230] dai2-2syou.pdf, , https://www.city.omura.nagasaki.jp/bunka/kyoiku/shishi/omurashishi/dai2kan/documents/dai2-2syou.pdf#page=10
正平十七年(一三六二)に波佐見居住の小領主として江串孫三郎橘光平の名が見える。この彼杵一揆は彼杵郡の小 豪族が南北朝の争乱期を地縁的関係で結束し、同一の軍事行動を盟約した連合体であった。その立場はこの場合「正平」 という南朝年号を用いているから、南朝方にあった。
#page=15
建武新政府時代であるから して南朝の統一年号を使用しているのは当然であろうが、改元の時期は中央における政変等の情報が混乱輻輳してい たと思われるので、その情報が地方まで伝達されるまでにはある期間タイムラグが生じ、そのために改元初年の時期 には旧来の年号を使った事例が目立つ。建武元年は元弘四年一月二十九日に改元されているので、延命寺五輪塔地輪 は「建武元年
八月八日」までには改元後の情報が正確に伝わっていたことを示している。 甲 戊 次に第二グループとして一三三六年から一三五二年までの間を区切ってみると、この時期は足利尊氏、足利直冬下 向と三勢力鼎立の時代である。それまで南朝年号を使用していた「青方」「福田」「深堀」「来島」各文書が、正平元年銘 の「深堀明願・小宮通廣連署押書」(「深堀家文書」)を除いて、ほぼすべてで北朝年号に変化し、その変化に添う形で対馬・ 多久頭魂神社梵鐘銘や諫早・慶厳寺名号石銘も北朝年号を刻んでいる。
ただ、一三五四〜五六年の二年間は南朝・北朝ともに使用する資料が認められるが、
#page=33
この一揆連判状は南朝年号を用いていることから、連名した三二人は南朝 方として行動したことが分かる。
#page=70
しかし、九州の南朝方はまだ抵抗しており、応永元年(一三九四)にもまだ南朝の年号「元中」を使用していた。
[231] 04郷土の文化財(第6版) #2860C9 - P55-82.pdf, , https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3010bunkazai/files/P55-82.pdf
南朝の征西将宮懐良親王に関係の深いこの寺に、北朝年号が刻まれた鐘があることから、当時の複雑な世相をうかがい知ることができ、非常に貴重な存在となっています。
[93] 中世文書の残存率が高い九州で元号によって北朝、 南朝に分けて数えた研究によると、 残存数は北朝 5 : 南朝 1 だといいます。 このことから南朝文書の多くが現在に伝わらないと推定されています。 >>97 p.5 (九州地方における南北朝時代文書の数量的分析, 瀬野精一郎, 日本歴史 313, 1974)
[9] 羽咋市史 中世・社寺編, 編集: 羽咋市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536989/1/56 (要登録)
[12] 千葉県史料 金石文篇 3 補遺, 千葉県企画部県民課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641996/1/79 (要登録)
[28] 徳島県史 第2巻, 徳島県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2993107/1/79 (要登録)
正閏論に依拠し、敢えて南朝元号を使用したと思われる刀工に、備中青江貞次がいる。延元、興国、正平5~13年の年紀があるが、この事実は興味深い。
なぜなら同流派で同時代、同地域に生きた次直が、「正平の一統」を含めてほぼ正確に北朝元号を採用しているからである。
同じ流派の青江直次も、正平の一統の際に多少の混乱はあったにせよ、ほぼ北朝元号を採用している。
貞次と次直、それに直次は同門で、備中国青江、現在の倉敷市のあたりに住み、日常的に顔を会わせる機会が多かったはずであり、情報を共有していたとするのに何ら不自然は無い。あえて貞次のみが南朝元号を用いたことには、明確な恣意性が認められる。
[160] 神奈川大学 学術機関リポジトリ, https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/14171 #page=11
[205] 河北町誌 上巻, 河北町誌編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569712/1/209 (要登録)
[218] 公家や上級武士はそれでいいと思われるが、それ以外の人々については一度その前提をひっくり返した方がいいのではないかなあ。
[219] 元号の利用と政治勢力を直結させる考え方は各時代において慎重論が優勢になってきているので、 南北朝時代だけがその例外でいられるかは厳しいかと。
[145] 小坂井町誌, 小坂井町誌編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569743/1/391 (要登録) 右
後亀山天皇の時代
[210] 豊前国佐田郷土史 上巻, 大隈米陽, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2989252/1/78 (要登録)
正慶に私年号と説明がある。暦応、応安には何も書かれていない。
[209] 日本及日本人 (玄冬)(1526), J&Jコーポレーション, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3368301/1/22 (要登録)
北朝元号を私年号と書いている
[211] 香亭遺文, 中根淑, 新保磐次, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/954004/1/23 (要登録) 右下
[212] >>211 良基 (二条良基) や明応元年12月日に「応安」の私年号があって文明の頃か、 としているが北朝の元号の応安と考えて何も矛盾しない。
[135] 大明洪武4年 (日本南朝建徳2年、西暦1371年) 10月、 南朝の征西大将軍の懐良親王は、 明国に朝貢しました。 明国の洪武帝は、 大統暦を与えました。 >>97 pp.192-193
[136] 大明洪武5年 (日本南朝建徳3年・文中元年、西暦1372年) 5月、 明国の使節は大統暦を持参し博多に来航しました。 しかし当時博多は既に北朝の今川了俊の統治下にあったため、 任は果たされませんでした。 >>97 pp.192-193
[139] 南朝勢力が独自の旧暦や大統暦を使用していたとする痕跡はみられません。 編暦できるスタッフを抱えていたのか不明です。