[98] 寿慶 (旧字体: 壽慶) は、 日本の私年号の1つです。
[41] 情報源によって少しずつ記述が異なります。同じものを指しているとも思われますが、 よくわかりません。
[28] >>24 の仏像の様式は、南北朝時代に遡るのは難しいとされます。>>9, >>110
[115] 従って >>25 は旧本尊造立時の銘文を写したものと推測されます。 >>110
[116] 享保10年頃の記録に、本尊修造のとき旧本尊造立の銘文が見つかった旨の記載があります。 >>113, >>110
[94] 智仙は、 順徳天皇の子善統親王の子尊雅王の子です。 >>5
[88] その兄弟は延文4年卒 (78才)、文和9年卒 (77歳) です。 >>5
[89] 時代がちょうど合うので嘉慶の誤植と思われますが、少々問題があります。
[91] 文和は5年で改元されており、文和9年は延長年号です。
[90] 系図の配置が兄弟の年長順だとすると、生年が入れ替わってしまいます。
[92] 文和9年は不審ですが、文和元年だとすると3人中一番年長になってしまいます。
[96] 現在の通説では、 智仙こと智泉聖通の生没年は - となっています。 >>95
[97] 四辻善成 (源善成) の生没年は - となっています。 これによれば生年も矛盾ありませんし、 延長年号ではなく応永が正しいということになります。
[16] 本来嘉慶と書くべき元号の別表記 (おそらく誤表記) の可能性が高く、 しかも案外広範囲・長期間使われていたように見える。
[17] あまり注意が払われることなく校訂されて翻刻文に出て来ない (または校訂の注記があっても私年号的な観点では見落とされている) 用例がまだ他に埋もれているかも。
[52] 江戸時代、 奥羽を探索した研究者菅江真澄は、 >>46 を紹介し、 寿慶という元号はなく嘉慶の誤りであろう、 としています。
[70] 菅江真澄が編纂した地誌月出羽道 (までに成立) は、 >>46 を紹介しています。次のように書いています。 >>6
265 ページ
... 渡倍某といふ人の古・塚に生ひたる柳なりしが、近きころ共柳を人フブゃフミカタ cu4 なれは、寿慶は嘉慶を見誤れる 265 しいのは.
266 ページ
なれは、寿慶は嘉慶を見誤れるにゃ。寿と嘉と、文字形似たり。また、神皇九十五代後醍醐天皇、諱は尊治、後宇多第二の御子、御母は淡天門院云々。旧都には、戊寅の年の冬、改元して暦応とぞいひける。芳野の宮には本の延元の号なれば、国々や思ひくの号なり。おろこしにはかるためしれ ○十九代 ... 書ると* ~寿慶寿慶二年といふとしの号書たる大般若経、仙北郡金沢八幡宮神蔵に在り、此寿慶は南朝北朝にゃ見えじ。しむかし、年号の数に入らさるるありしか。其としの名にゃ、寿鹿の前に貞治あれば、そを編年に 0 百川秋田/郡雄鹿~浦に百河といふ村あり、 ...
74 ページ
... 百四十七〇貞治四年七月廿九日、此寿慶は嘉慶の誤なるべし。寿慶といふとしの号なし。嘉慶二(一三八八)年は戊辰にあたれり。そのころは百一代の帝後小松院の御宇也。□敬向、八幡大菩薩護敬白、金剛仏子実印、生年三十三才、寿慶弐年 1 五月廿三日( 44 )
75 ページ
... 十三○貞治年七月日、源朝臣義冬畦六作、五十一○貞治六年七月日、義冬、五十八〇貞治年七月十二日、善心、第卅五○貞治四年 ù 八月十七日、善心、一百廿八○貞治、年七》六、生年廿八実祐、乱葉〇寿慶弐年五月廿日、金剛仏子実印、八十九○貞治年呪 ...
78 ページ
さりけれどそのいにしへ、寿慶と製しとしの号の、寿永などの姉に年に不祥からぬ事ありて、寿慶を嘉慶と改め給ひし事もありやしらず。享保のころま( 44 )〇貞治年 2 七月日、寛祐、三百四十〇貞治年八月一日、閑、三百五十七〇貞治、、、、年八月十日、 ...
81 ページ
古筆梵本の大般若経残巻五百三本筆者甲斐国一宮住小笠原信濃二郎義冬いと多く、また僧俗あまた打交り貞治四年のとしの名のみ多く、応安は一年、康正も一年、嘉慶を寿慶と誤りて両三ヶ処に見ゆ。此事前になほ委曲なり。ツバラカミオモテハナオモテ力夕○興 ...
[51] 国立国会図書館デジタルコレクションではなぜか非公開ですが、次の2つの巻に収録があります。
菅江真澄全集 第8巻 (地誌 4)
内田武志, 宮本常一 編集 未来社, 1979.7
87 コマ: 慶弐年〓五月廿三口此寿慶は嘉慶の誤なるべし。寿慶といふとしの号なし。嘉慶二(一三八八)年は戊辰にあたれり。そのころは百一代の帝後小松院の御宇也。
菅江真澄全集 第11巻 (雑纂 1)
内田武志, 宮本常一 編集 未来社, 1980.12
158 コマ: 編年に書るとなれは、寿慶は嘉慶を見誤れるにや。寿と嘉と、文字形似たり。また、神皇九十五代後醍
[55] の書籍は、 の調査に基づき >>49 を紹介しています。 他の巻の書写の年代も踏まえつつ、 壽慶は嘉慶の誤記であろう、 としています。 >>4
[66] の論文は、 >>46 を紹介しています。 壽慶は嘉慶の誤記であろう、 との「先輩の説」があるとしています。 >>56
[107] の論文は、 >>46 を紹介し、 寿慶には嘉慶の誤りかと注釈を付けています。 >>100
九一 九十三卷貧祐二年九十七卷百卷山北 写(嘉慶かの誤二 5 誤力......一三八八) (裏表紙公裏)八十二卷貞治二年八月六日秀八%八十九卷寿慶式年五月廿日金剛瓜子印一七十六卷貞治二年七月十九日山北雄勝郡三侯滿福寺常住美祐七十九卷貞治二年七月十八日 ...
秋田県の紀年遺物 10K 宝雨誌之大旦那源朝臣里見義忠同義安右意趣者現当二世諸願成就鬥滿為也将又剩直四生離群類登瓜果菩提者也忘安二年(三六九)奥書横手市金沢八幡神社大般若經第百廿六卷應安二:八月:季:書續:筆者昌妙春秋五十八歲·寿慶(嘉慶小)式年(一 ...
[50]
昭和43年の日本私年号の研究は、
異年号のうち一字異音年号の1つとして、
>>46
を紹介し、
嘉と寿とで意味も相通ずるので、
寿慶は嘉慶を指すと見られる、
としています。
>>45
[118] の文化財資料集は、 >>24 を紹介し、 の誤りと思われるとしています。 また、様式が南北朝時代に遡るのは難しく、 旧本尊造立時の文と考えられるとしています。 その根拠に >>117 も引いています。 >>110
[27] の自治体史は、 >>24 を紹介し、 の誤りと思われるとしています。 また、様式が南北朝時代に遡るのは難しく、 旧本尊造立時の文と考えられるとしています。 >>9
[29] の自治体史は、 >>27 を引用しています。 >>11
[36] の書籍の私年号の表は、 >>2 を出典に寿慶を掲載し、 >>33 を紹介して元年をで3年継続か、としています。 嘉慶3年2月9日に暦応と改元されたことを注記しています。 >>21
[32]
の司東真雄の論文は、
>>30
に言及し、
「寿慶元年」に「
[38] の自治体史は >>32 を掲載する等で同じように注記しています。 >>22
[35] の司東真雄の書籍は、 >>32 を掲載しつつ、 私年号の一覧表に >>33 (のみ) を掲載しています。 >>2
[18] の司東真雄の私年号の一覧にも、 >>35 と同様に掲載があります。 >>23
180 ページ
神貫路郡のうち。大畑氏は郡上稗貫氏の家臣。大畑大日堂の本尊には,「大旦那大畑之禅門」「前出羽守時義」「寿慶三己巳歳三月廿四日開眼などの文字が見える。寿慶 3 年は南北朝後期の嘉慶 3 年にあたるか(県金石志)。室町期の永寧 8 年稗貫語十八ヶ城語が ...
792 ページ
寿慶 3 年は私年号で、南北朝期の嘉慶 3 年にあたるか(県金石志)。豊沢川の北岸の鐘撞森と呼ぶ小丘の西側に,空に囲まれた約 40 間四方の館跡があり、湯口氏の居館跡と推定されている(湯口村誌)。〔近世湯口村江戸期~明治 22 年の村名。稗貫郡のうち。
[86]
との自治体史は、
>>78
を紹介しています。元号名の壽慶の壽に「
[106] 日本私年号の研究が私年号の分類外としたためもあるのか、 私年号の表などにほとんど掲載例が見られません。
[42] に日本語版ウィキペディアの一覧表に追加されました。 この表への追加としては新しい方に当たります。 追加の出典は不明ですが、いくつかの私年号の同時追加であるため、 何らかの既存の表からの転載とも思われます。 当初参照された表になく、後からほかの編集者が参照した表にあったものが選ばれたのでしょうか。 >>39
[43] この表は、 >>40 を典拠とし、元年はか、としています。 継続年数は不明としています。また、嘉慶の誤記か、としています。 >>10 曖昧性が高いですが、これも出典の表記に倣ったのでしょうか。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 寿慶 - 元中4年/嘉慶元年(1387年)? 不明 岩手県花巻市白山神社蔵大日如来胎内銘。公年号「嘉慶」の誤記か。
[127] 書きやすい候補を選ぶことは元号選定手続についてで明文化されているので、 不文律ではありません。書きやすさと画数の少なさは、必ずしも等しくありません。 画数の少なさは元号選定手続についての基準にありませんから、 もしそれが要求されているなら不文律といえますが、どうでしょう。 なぜこの投稿者は「不文律」を知っているのでしょうか。
なお、湯口の白山神社大日如来胎内銘には「大旦那大畑之禅門前出羽守時義」と、稗貫氏の当主と思われる人名が記されており(建武年間に活躍した中条=稗貫出羽前司時長の子孫か)、寿慶3年の年紀があります(寿慶3年は私年号で南北朝期の嘉慶3年か)。
なお、湯口の白山神社大日如来胎内銘には「大旦那大畑之禅門前出羽守時義」と、稗貫氏の当主と思われる人名が記されており(建武年間に活躍した中条=稗貫出羽前司時長の子孫と推定)、「寿慶三年」の年紀があります。寿慶3年は私年号で南北朝期の嘉慶3年と推定。
なお、湯口の白山神社大日如来胎内銘には「大旦那大畑之禅門前出羽守時義」と、稗貫氏の当主と思われる人名が記されており(建武年間に活躍した中条=稗貫出羽前司時長の子孫か)、寿慶3年の年紀があります(寿慶3年は私年号で南北朝期の嘉慶3年か)。