[38] 一系統二例のみ知られています。
[35] 日野観音寺大般若経のうち、奥書に沙弥広覚の名前があり、 日付の記載があるものを集めると、この通りとなります。
六百巻の経は、長い年月のうちに散逸し、現在は四百巻余りを残すのみである。
奥書は、現存のうち百三十二巻にあり、その奥書によって至徳三年(一三八六)から応永八年(一四〇一)に写経されたものと判明する。
施主には三十五人の名がみられ、中でも源朝臣錦部義利(幕府方の武将)は二十四巻を施している。また、筆者には二十三人がみられ、その中の沙弥広覚(観音寺の僧)は百八巻を書き写している。
[40] 用例は一系統二例のみ知られています。 一覧表などに掲載されて名前は広がっていますが、 本格的な議論は一件のみで、 十分に検討されているとは言い難いのが実情です。
[39] 用例二件を含む写経奥書群 (>>12) は、巻数が飛び飛びながら日付順と一致しており、 前後を並べると
... となります。
[45] つまり、応永年間の一時期に使われたものであって、 その期間は最長で応永2年1月から応永2年12月まで、 最短で応永2年3月下旬から応永2年6月中旬まで、と理解するのが穏当と思われます。
[46] 書写は当地の僧侶によるものと理解されます。実施地は、 日本国大阪府富田林市彼方の嶽山に所在した嶽山城とされます (>>25)。
[47] 一般的な大般若経の書写の奥書であり、 この行為と記述それ自体に特段の政治的背景は見出し難いですし、 写経という以上の特殊な宗教行為と考えることも困難です。 仮に特殊な意味を持った私年号だとすると、わずか二巻でのみそれを用いたことの説明が付きません。
[48] 南朝残党の追慕による利用とする説もあります (>>26) が、 その説明者自身が疑問視している (>>27) ように、 史料的根拠は皆無です。
[49] かつての南朝の拠点となった地域であり、 同地の他の私年号である永宝も南朝勢力に結び付けられ、 共に当地の特色を表すものと説明がなされています (>>31)。
[50]
しかし、興徳に直接的根拠がないだけでなく、
永宝でも根拠が疑わしく
[51] また、永宝と興徳は平和願望から生まれた (>>32) とする説明もありますが、 南朝残党という説明に整合するとも思えませんし、元号名から導き得る解釈とも思えません。
[19]
の史料集は、
>>12
を紹介して、
「
[34] おそらくこれが最初の紹介と思われます。
[21] 千々和到 (昭和61年) 以後の一覧表等には応永2年の私年号として掲載されていることが多いようです。 >>9
[22] 日本語版ウィキペディアの表には初期から掲載されています。 >>20
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 興徳 - 応永2年(1395年) 不明 大阪府河内長野市観音寺蔵『大般若経』奥書
[33] 京城府史 第一巻, 京城府, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1921007/1/39?keyword=%E8%88%88%E5%BE%B3
[6] 三朝北盟會編/卷009 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%9D%E5%8C%97%E7%9B%9F%E6%9C%83%E7%B7%A8/%E5%8D%B7009
起宣和四年六月二十四日辛亥盡九月二十三日己卯
改建福元年為興徳元年。
[7] 通説によれば
[1] 朝鮮研究会刊行書 漢唐遺事, 朝鮮研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/945734/1/56 (要登録)
[5] 第10話 興徳 - 丹生谷王朝興亡記(淡嶺雲) - カクヨム, https://kakuyomu.jp/works/1177354054883759276/episodes/1177354054884070754