興徳

興徳

[37] 興徳は、 日本の私年号の1つです。

元号名

[11] 読みは「こうとく」とされます。 >>9

用例

[38] 一系統二例のみ知られています。

日時事例

[35] 日野観音寺大般若経のうち、奥書に沙弥広覚の名前があり、 日付の記載があるものを集めると、この通りとなります。

[36] 市指定 大般若経(四四七帖) - 河内長野市ホームページ, , https://www.city.kawachinagano.lg.jp/site/history/5547.html

六百巻の経は、長い年月のうちに散逸し、現在は四百巻余りを残すのみである。

奥書は、現存のうち百三十二巻にあり、その奥書によって至徳三年(一三八六)から応永八年(一四〇一)に写経されたものと判明する。

施主には三十五人の名がみられ、中でも源朝臣錦部義利(幕府方の武将)は二十四巻を施している。また、筆者には二十三人がみられ、その中の沙弥広覚(観音寺の僧)は百八巻を書き写している。

諸説

[40] 用例は一系統二例のみ知られています。 一覧表などに掲載されて名前は広がっていますが、 本格的な議論は一件のみで、 十分に検討されているとは言い難いのが実情です。


[39] 用例二件を含む写経奥書群 (>>12) は、巻数が飛び飛びながら日付順と一致しており、 前後を並べると

... となります。

[45] つまり、応永年間の一時期に使われたものであって、 その期間は最長で応永2年1月から応永2年12月まで、 最短で応永2年3月下旬から応永2年6月中旬まで、と理解するのが穏当と思われます。


[46] 書写は当地の僧侶によるものと理解されます。実施地は、 日本国大阪府富田林市彼方の嶽山に所在した嶽山城とされます (>>25)。

[47] 一般的な大般若経の書写の奥書であり、 この行為と記述それ自体に特段の政治的背景は見出し難いですし、 写経という以上の特殊な宗教行為と考えることも困難です。 仮に特殊な意味を持った私年号だとすると、わずか二巻でのみそれを用いたことの説明が付きません。

[48] 南朝残党の追慕による利用とする説もあります (>>26) が、 その説明者自身が疑問視している (>>27) ように、 史料的根拠は皆無です。

[49] かつての南朝の拠点となった地域であり、 同地の他の私年号である永宝も南朝勢力に結び付けられ、 共に当地の特色を表すものと説明がなされています (>>31)。

[50] しかし、興徳に直接的根拠がないだけでなく、 永宝でも根拠が疑わしく 永宝 、 独自の元号を使い得る南朝残党勢力の存在すら確認されていない現状では、 あまり説得力を感じられません。

[51] また、永宝と興徳は平和願望から生まれた (>>32) とする説明もありますが、 南朝残党という説明に整合するとも思えませんし、元号名から導き得る解釈とも思えません。

研究史

[19] の史料集は、 >>12 を紹介して、 「興徳元年 ((応永二年)) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>3

[34] おそらくこれが最初の紹介と思われます。

[2] の地域史は、 次のように述べています。 >>4


[21] 千々和到 (昭和61年) 以後の一覧表等には応永2年の私年号として掲載されていることが多いようです。 >>9

[22] 日本語版ウィキペディアの表には初期から掲載されています。 >>20

関連

[33] 京城府史 第一巻, 京城府, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1921007/1/39?keyword=%E8%88%88%E5%BE%B3

新羅の興徳2年 = 西暦827年。興徳王の即位紀年。

[6] 三朝北盟會編/卷009 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%9D%E5%8C%97%E7%9B%9F%E6%9C%83%E7%B7%A8/%E5%8D%B7009

起宣和四年六月二十四日辛亥盡九月二十三日己卯

改建福元年為興徳元年。

[7] 通説によれば


[1] 朝鮮研究会刊行書 漢唐遺事, 朝鮮研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/945734/1/56 (要登録)

架空の元号。

[5] 第10話 興徳 - 丹生谷王朝興亡記(淡嶺雲) - カクヨム, https://kakuyomu.jp/works/1177354054883759276/episodes/1177354054884070754

架空の元号


永宝

メモ