[31] 天靖 (旧字体: 天靖) は、 後南朝の元号とされるものの1つです。
[356] 近世を遡る実用例がなく、 天靖および関係する元号がどのように成立し今に伝えられたのかは謎が多いです。
[23] 読みは「てんせい」とされます。 >>1 /82, >>5, >>11, >>12
[435] 長慶天皇の落人伝説に関係して天崝
(新字体: 天崝󠄂)
と大道を後南朝の元号とする江戸時代の元和8年付けの文書があり、
明治時代以後に出版されています。
[49]
天崝󠄂は天靖の誤りではないかといわれています。
[315] 天晴
[283] >>319, >>20, >>366 は天靖から変化したもの。
[119]
昭和時代初期の
最新日本歴史年表
は、
嘉吉3年との両方に
「
[121] 日本私年号の研究は、 この資料だけが両説を挙げることを紹介しつつ、 根拠がないため通説通りに嘉吉3年としています。 >>69
[150] 近い時代の「3年」で、掲載ページも1枚めくってまったく同じ位置です。 何らかの編集作業上の手違いで発生した誤説の可能性もあります。
[255] 昭和時代に日本国兵庫県伊丹市で発見された 上嶋譜 は、 上嶋氏の系図ですが、 南朝関係の次のような日付がみられます。 >>162
[257] 日付表記の方法の揺れはあるものの、 初出は丁寧で徐々に省略されていくという規則性に気まぐれのようなぶれと誤記が混ざった感じなので、 系図になる前の原資料の表記揺れが反映されているかは疑わしく、 系図作成者のある程度の統一の意図が感じられます。
[258] ところどころ誤記または誤写はあるものの、 公年号と干支年の対応はほぼ完璧で、 独自元号の自己矛盾もなく、 どこかの段階で年表のようなものを見ながら正確に年を表記できたと思われます。
[259] 南朝退転の記事の後に独自元号が途切れると共に記事自体が少なくなるので、 元号と記事は何らかの後南朝資料から採取したと考えられます。
[261] 南朝時代の世代と天靖からの世代がきっちりわかれていて、 両者にまたがる世代がなく、 その間の記事もないことには注意が必要かもしれません。
の範囲の日付が含まれています。
[330] よく知られている天靖の他に、 天統, 天泰, 天和, 延治, 保和, 健享と一連の元号が使われています。
[312] ないしの明応説にちょうど接続しそうにも見えますが、 不思議とその時期の直前で終わっています。 これは偶然でしょうか。筆者は明応を知らなかったのでしょうか。
[331] 他の史料にまったく見られず、これを直ちに史実と考えるのは大変躊躇されるものですが、 近世頃にこうした元号で後南朝を記述しようとする人がいたことはおそらく認めてよいと思われ、 貴重な史料です。
[333] 元号名は一般的な私年号と違って仏教色が見られず、 他の公年号に使われがちな文字で構成されていることに着目できます。 ただし「靖」と「健」はあまり例がありません。 「健」は「建」を意図していた可能性もあります。 「靖」は宋や明に例がいくつかあります。
[334] 天統 (天統六年), 天和, 延治は立原翠軒が採録した賀名生堀家の家譜に用例があるとされます。 この家譜の紀年は 上嶋譜 とは一致しないところがあるとのことです。 >>157
[265] 生理学研究 2(11), 国民生理学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1544667/1/9 (要登録) 左
[43]
武家功名記 (本朝武家高名記)
の上島、下島両家の章に、
「
[44] 後醍醐天皇の5世の正統の主を奉じて南朝を再興したとの記事です。 >>42
[153] 編纂当時に使われた原資料と深い関係が想定される 上嶋譜 (>>255) が昭和時代に発見され、 天靖の記述があることが平成時代末期に報告されました >>162。
[327] 上嶋譜 には 本朝武家高名記 にない天靖より後の元号も書かれています。 上嶋譜 の原形ないし原資料と 本朝武家高名記 の原資料の関係の解明が待たれます。
[328] 本朝武家高名記 には天靖1件以外の日付が書かれていないのは気になる点です。 それ以外は些事として省かれたのでしょうか、 それとも 本朝武家高名記 の原資料には存在していなかったのでしょうか。
[329] 上嶋譜 も 本朝武家高名記 も、細かな表現は異なるものの、 南朝の元号や天靖に「北ハ」と北朝の元号を注釈する形になっています。 これは注釈まで含めて元号部分が共通の原資料に由来するとみていいでしょうか。
[50] 江戸時代以来多くの研究者がこれを直接または間接に参照しました。 江戸時代から現在までのほとんどの天靖の情報は遡ると本書に到達します。
[56]
江戸時代の水戸学者小山田与清の
松屋叢話
は、
武家功名記
に天靖元年と書いて嘉吉3年と注釈されており、
後南朝がこの頃まで年号を建てていたと考えられるとしていました。
>>53
(また、中世私年号全般を後南朝に関係づけていました。
[33] 江戸時代の研究者伴信友によると、 忠義王が嘉吉の頃に私に天靖と建元したことがあり、 上島下島両氏の古家牒に記されているといいます。 >>208, >>66 明記されていませんが、 武家功名記 を直接または間接の出典としている可能性があります。
[71]
昭和時代の日本私年号の研究は、
伴信友の逸年号表補考から武家功名記を引いています。
>>69
[51]
江戸時代から明治時代に一部で主張された私年号
(中世東国私年号を含む。)
を後南朝の元号とする説の中でも、
武家功名記
が引かれました。
[151] 江戸時代以後に作られた後南朝をテーマにした史書の多くが天靖の改元記事を置いています。
[30] 江戸時代の研究者飯田忠彦の 野史は、 嘉吉3年に天靖元年と私に建元したと書いています。 続正統記、 紀伝、 上月記を出典としています。 >>2
[57] 江戸時代から明治時代の研究者菅政友の 南山皇胤譜 は、 松屋叢話 (>>56) を引いた上で、 それを時代から尊秀王に比定しました。 >>58
[61] 昭和時代の 南山遺響 は、 松屋叢話 (>>56) を引用して天靖を使っています。 >>60 /88
[62] 編年には公年号を使っていますが、 天靖も併記しています。
[63]
巻末まで併記は続き、最後は「
[21]
明治時代の研究者林嘉三郎による史書南朝遺史は、
「
[29] 嘉吉3年9月までは、南朝の元号と合一後は北朝の元号で編年されています。
[24] 天靖元年条に、嘉吉3年を天靖と改元したとあり、 嘉吉3年10月から長禄2年までとあります。 >>1 /82
[25] 吉野の奥十津川を御所とし天靖と改元したとの記事があります。 続正統記、 南方紀伝、 上月記、 野史、 上島下島家牒、 残桜記が出典とあります。 >>1 /83
[114] うち、 続神皇正統記 >>116, 史籍集覧本南方紀伝 >>115, 上月記 >>112, >>113 には改元関係の記述がありません。 他の記述に関する出典と思われます。
[26] 残桜記によると改元は神器を犯擁したためとされます。 >>1 /83
[102] 天靖13年乙亥条まであります。
[28] 翌年は「
[73]
明治時代後期に編纂された地誌
大日本地名辞書
の近江国甲賀郡の
南朝󠄃遺󠄃史󠄃云、嘉吉三
年、楠二は空因法親王を奉し甲賀郡に忍󠄄び、攺元し て天靖の號󠄂を建󠄁つ、信樂谷小川村大光寺は法親王の暫 く留まらせ給ふ所󠄃歟云々。
とあります。 >>72
〔南朝󠄃遺󠄃史󠄃〕 嘉吉三年、楠二は空因法親王を奉し甲賀郡に忍󠄄び
改元して天靖の號󠄂を建󠄁つ。信樂谷小川村大光寺は法親王の暫く 留まらせ給ふ所󠄃歟云々。
とあります。 >>74
資料
2 『南朝遺文』にも、その根拠となる資料はあげていないが、嘉吉三年に楠正儀の子孫の二郎という者が、空因法親王を奉じ甲賀郡に及び、改元して天靖の号を建つ。信楽谷小川村大光寺は法親王の暫く留まらせ給ふ
所歟 と、述べている。
とあります。 >>69
[84] 南朝遺史 について、 国会図書館デジタル, Google検索, 国書データベースのいずれでも、 >>1 と異なる本の存在は確認できません。
[85] 南朝遺文 について、 国会図書館デジタル, Google検索, 国書データベースのいずれでも、 該当しそうな書籍は確認できません。 昭和時代の詩 >>86 は明らかに異なります。 平成時代の文化財報告書に引用があります >>87。 他は 日本私年号の研究 の孫引きと思われるものしかありません。
[88] >>73 >>75 >>76 は細部が違いますが、明らかに同系統の文章です。 これらに一致する部分は >>1 に見い出せません。 が、その構成要素は >>1 に含まれています。 >>73 は「南朝遺史云」で文を始めていますが、 原文のそのままの引用ではなく要約だったりするのでしょうか。
[89] >>73 >>75 >>76 は互いに参照していませんが、 国会図書館デジタルの全文検索の範囲では >>73 が初出と思われます。
[148] 日本私年号の研究 はこの資料を元に、 武家功名記 系とこの資料と少なくても2系統の異なる伝承があると判断しました (>>96)。
[149] しかるに、オリジナルの 南朝遺史 まで遡ると楠氏が云々、甲賀郡が云々といった情報と天靖の改元の情報は必ずしも結びついていません。 南朝遺史 が出典として示す資料も、 改元のことを記すのはみな 武家功名記 系統の資料です。
[369] なお甲賀郡改元説はその後発展を見なかったようで、 平成時代以後これに言及したものは見当たりません。
[16] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/104 (要登録)
小倉宮と尊義王を擁立して南山で蜂起、 嘉吉3年改元して天靖、 記録に残っている、 吉野あたりの古文書は合一後も北朝元号を使っていない
[14] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/137 (要登録)
嘉吉3年10月 天靖建元
[17] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/122 (要登録)
嘉吉3年10月 天靖元年 建元 自天王 川上村の奥三之公
[18] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/95 (要登録)
嘉吉3年10月 南方、天靖と建元
[123] 吉野川上村史, 福島宗緒, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/68 (要登録)
南朝遺史から「
[124] 昭和時代の研究者田村吉永の私年号六題は、 吉野川上村史 が 後南朝記 を引いて天靖は13年までは記録に残っていると報告し、 吉野川上村史 は 後南朝記、 残桜記、 国史便覧 を引用していると紹介しました。 >>69, >>379
[125] これは具体的には >>123 とその前後のページを参照していると思われます。
[380] また、私年号六題は後南朝論集 (昭和31年12月2日発行) で滝川政次郎が嘉吉の乱のとき北朝と別の元号を建てたと書いていること、 しかしその元号自体については何も書いていないことも紹介しています。 >>69
[381] 田村吉永は、天靖が13年続いたものなら、これこそ私年号というべきものだと述べています。 しかし、出典のいずれも二次資料であり、「当時の史料としての記録」 には見出し難く、当該元号を書いた「文書記録を一見したいものである」とまとめています。 >>69
[382] 昭和32年という時点で天靖の実在を確定できる史料が皆無であることを指摘できたのは慧眼というべきでしょう。 近現代歴史学の基本とはいえ、天靖の存在が広く信じて疑われなくなっていた時代のこと、 他の研究者はみな実在を前提にしてしまっていました。
[383] 奈良県下で私年号史料を探し求めた田村吉永だからこそ、 人々の記憶から消えていた私年号が出現するのに、 13年も続き知名度も高い天靖の実態がまったく掴めないことに疑問を持ったのでしょう。
[19] 後南朝史論集 : 吉野皇子五百年忌記念, 後南朝史編纂会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3006092/1/148 (要登録)
[341] 大塔宮之吉野城, 中岡清一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1256257/1/277 (要登録)
[342] >>341 に阪合部村大字上野 櫻井後藤次所蔵の 櫻井氏系圖 が収録されています。 (わかりにくいですが) その続きと思われる人物説明中、 宣澄なる人物の条に、 南朝天靖7年春、同九年、同十三年とあります。
[343] それに対する注釈で、後亀山天皇の皇子小倉宮の御子が吉野朝の回復を目指して吉野郡で即位し、 天靖と称した、 と説明があります。
[347] この注釈が誰によるものかわかりませんが、人物説明が漢文であるのに対し注釈はかな漢字混じり文で、 大塔宮之吉野城の著者によるものと思われます。
[364] 櫻井後藤次家所蔵文書は史料集などで参照されていることがありますが、 桜井家系図やそれを参照した論文などはウェブ上では他に発見できません。 いつ成立したものかなど不明です。
[344]
>>345 /52
は
「
[346] それがどこにあるどのような性質の資料なのかまったく説明がありませんが、 昭和時代初期に同名の書籍があり、 そこに収録された系図資料中の一節 (>>341) の漢文を書き下して語句を補ったものです。
[348] 改変して引用したものに原文収録書籍の題名を付けて史料と呼ぶのは斬新です。 或いはその中間的な資料が何か (昭和時代の誰かの読書メモとか?) 存在していたのでしょうか。 どちらにしても信頼できる史料といえないことは確かですが...
[349] こちらの大塔宮之吉野城では、 南朝天靖七年春には宝徳二年カ、 南朝天靖九年には享徳元年カ、 南朝天靖十三年正月には康正二年カと注釈があります。
[350] 注釈は通説通りの公年号への換算ですが、「カ」と確定させないのはなにか理由があるのでしょうか。
[351] なお乙亥年文書について日本南北朝時代の日時参照。
[352] 本書は川上村住民により執筆されたものです。 美作後南朝説に対しては懐疑的ながらも肯定も否定もせず参考にはできるという温度感で紹介しています。
[353] 天靖に対する温度感はちょっと興味深いですね。地元にそれを使った記録がないからでしょうか (>>342 は一応奈良県域ですが)。
[371] 昭和時代初期、 天川村出身の井頭利栄は、 天靖を用いた古文書が天河社家に保存されているはずと書いています (が具体例は示していません)。 天靖元年から天靖十三年まで天靖を使って出来事を記述しています。 >>370
[362] 吉野朝と高野山 : 並芳山千株乃遺薫・長慶院御陵立証, 岩谷白嶺, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1264647/1/101 (要登録)
[363] >>362 嘉吉3年10月に改元の記述があり、 その後天靖13年まで年表上で併記されています。
[378] 平田篤胤全集 〔第4〕, 室松岩雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1088265/1/55 (要登録) 左上
玉たすき: 私に年号を立て天靖元年
[11] 谷崎潤一郎 吉野葛, , https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56867_58205.html
[79] 後南朝を題材にした作品ですが、単なる歴史小説ではなく、 作家の随筆の形を取っています。
[4] https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00790001-0043.pdf?file_id=70361 #page=16
[7] 和州探訪 ~いにしえの旅人とゆく深く美しい日本~, , http://www.enyatotto.com/yamato/sannoko/sannoko.htm
[77] 18.shibata_ronnbun.pdf, , https://www.tufs.ac.jp/common/fs/ics//journals/2018ics22/18.shibata_ronnbun.pdf#page=12
[358] 後南朝には謎が多いため、独創性が大いに発揮された説がいくつもあります。 しばしば元号にも独創性が表れています。
[359] 天靖は1次資料が皆無 (= 新設定を入れ込む余地が大きい) である一方、 江戸時代以来その実在性は研究者も含めて広く信じられている (= 信憑性の根拠にできる) という便利な元号のようです。
[374]
令和時代の独創的な歴史観を披露したブログ記事の中に、
南朝元号として天
[34] 美作後南朝説では西暦1443年10月29日に美作の植月御所で尊義親王 (高福天皇) が即位したとされます。 >>12, >>37
[35] 美作後南朝説は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。
[36] 改元は西暦1443年12月 >>15 25日 >>37, >>285 のことだとされます。 >>15, >>37
[117] 嘉吉3年12月25日という日付は三河吉野朝説にも出現し (>>108)、 何らかの共通の元ネタがありそうに思われますが、不明です (それともどちらかの独自説を他方が採用したのか)。
[366] >>365 では元号名が天晴とされ、即位改元がになっています。
[275] 興福天皇は天靖九年辛未正月八日 () の譲位で即位と改元して大明としたとされます。 >>45 /42, >>45 /102, >>285
[276] 興福天皇は大明八年戊寅八月二十八日夜 (長禄2年) に死去したとされます。 >>45 /45
[48]
東作誌所収土居妹尾家 (本陣妹尾良之助家) 所蔵古文献
仁田四郎忠常跨猪図 落款に
「
[277]
忠義天皇はの8月28日に即位、
10月1日に改元して明応 (明應 >>285) としたとされます。
>>45 /48, >>45 /102, >>285
大乗院雑事記により実証されたとされます。
>>45 /48, >>45 /102
[47]
乙亥七月十八日、乙亥八月八日の文書の「乙亥」は、
続け字の誤読で応仁元年丁亥とされます。
>>45 /49, >>45 /50
[46] 明応20年丁酉 (文明9(1477)年) に譲位したとされます。 >>45 /51, >>45 /103, >>285 それ以後は後南朝年号不明とされます。 >>45 /103
[279]
この明応は論者により少しずつ違う説もあります。
[280] 寛永3年 (とされるが誤りか、史実では) 10月20日に譲位された高仁天皇が寛永4年 (史実では) 1月に天晴と改元したとされます。 しかし寛永6年(史実では西暦1629年)11月8日に後水尾天皇から明正天皇に譲位されました。 >>273 (寛永6年の譲位は史実通りですが、美作後南朝説ではその間に高仁天皇が割り込んでいたことになっています。) 明言はないのですが、元号も当然高仁天皇の即位抹消で消滅したことになっているのでしょう。
[368] >>367 にも寛永4年に天晴に改元された説があります。
[282] 天晴という日本国高知県を中心に使われた幕末の私年号がありますが、 無関係です。
[376]
平成時代初期の日本国高知県の郷土史家の論文によると、
日本国岡山県の人が高知県の天晴の用例を、
南朝の元号ではないかと言ってきたそうです。
[377] 高知県の人は時代が合わないと取り合わなかったようです。 岡山県の人もそれで納得したのか、 美作後南朝説側に高知県の用例が組み込まれたという話は見当たりません。
[288] 昭和時代後期の論文 >>285, >>287 は美作後南朝説の全体を信じていないものの、 その中にも有用な情報はかなり含まれるとみて検討しているように思われます。
[104] 三河吉野朝説では楠木氏により三河国で擁立された南朝の中興天皇の元号が天靖であるとされます。
[105] 三河吉野朝は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。 昭和時代初期に提唱されました >>106。
[108] 嘉吉3年12月25日に空因法親王が即位して中興天皇となり、 天靖と改元したとされます。 >>106 /114, >>106 /144
[107]
「
[110]
一部はなぜか
[111] 天靖は13年まで、 天請󠄄は14年と15年の用例があります。
[109] 南朝遺史 に従い吉野を調査しても遺跡が見つからないので、 三河が真の地だと主張しています。 >>106 /145 天靖も 南朝遺史 の説をそのまま転用したと思われます。
[267] 三河に於ける長慶天皇伝説考 : 民族学の視点から南朝の史蹟と伝説を探る 本編, 藤原石山, 南朝史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537843/1/28 (要登録) 右下
楠公秘史から引用、 嘉吉3年9月23日蜂起南朝中興天皇即位、 12月25日天靖改元。
/29 右下 「
/29 左上 御贈位並位階御陞叙申請書 嘉吉3年9月23日蜂起南朝中興天皇即位、 12月25日天靖改元。
[268] 三河玉川御所と広福寺 : 南朝の秘史を伝える, 松井勉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537874/1/23 (要登録) 左
嘉吉3年天靖改元 (出典はとくになし)。
[317] 熊沢天皇は昭和時代に有名になった自称天皇ですが、 その系統の後南朝説も昭和時代に出現しました。 信頼できる史料に基づかない説です。
[337] 昭和時代のある本では本文と年表に後南朝の元号を使っています。 >>316
[318]
年表の南朝欄は南北朝合一で一旦空欄になりますが、
応永25年に「
[319]
年表の嘉吉3年は頁境界を挟んで2箇所あって、
1つ目は「
[320]
年表の南朝欄はしばらく空欄に戻った後、明応に続きます。
[321]
本書中、天晴は年表の1箇所のみで、誤記または誤植の可能性が高いと思われます。
その他はすべて天請です。
天靖は1例もありません。
本書は他に長禄も誤記または誤植しています。
[322] 天請の由来は不明です。 ほとんどが天請で天靖は0個なのですから、筆者は天請だと認識していた可能性が高そうです。 天靖と明らかに同じで、天靖の方が古いのですから、 天靖から生じたものとするべきですが、 筆者がこれを誤読、誤記したものか、原資料の記載に由来するのかは不明です。
[323] 天請 (>>313), 天晴 (>>315) とも他にも用例があり、偶然同じ誤記が生じたのか、 継承関係があるのか検討の余地があります。
[324] 小倉宮尊義親王は中興天皇に即位して >>316 /87, >>318 /118、 嘉吉3年10月25日に天請と改元したとされます。 >>316 /87, >>318 /118, >>318 /129 天請2年に即位式があったとされます。 >>316 /87, >>318 /118, >>318 /127
[325]
>>316 /129 には「
[326]
>>316 /129 には「
[336] 昭和時代の別の本では本文と年表に後南朝の元号を使っています。 >>335
[338]
年表の嘉吉3年10月1日に「
[339]
自天皇,
興福天皇の即位を経て長禄2年が「
[340] こちらの本には天請や天晴は出現しません。 >>316 >>335 はほぼ同時期に出版され似た内容も多いのですが、違いも多いです。
[41] 天靖は江戸時代に後南朝や元号の研究者の知る所となりました。 後南朝史の記述には必ずといっていいほど登場する有名な私年号でした。
[103]
中世東国私年号を後南朝のものとする説のベースにもなりました。
[70] 明治33年から昭和37年まで主要な辞典類はすべてこの私年号を収録し、 嘉吉3年に比定していました。 >>69
[126] 昭和時代の私年号六題で紹介されました。 一次史料が見当たらないことが指摘されています。 (>>124)
ことから、現存するのはすべて二次資料であるとはいえ、
「
[128] また、
と分析しました。 >>127
[99]
以後、平成時代の千々和到の表 (
[100]
千々和到の表では元年が使われたとのみしています。
[101] ウィキペディアの表は15年まで継続としています。 >>10 根拠は不明です。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 天靖 - 嘉吉3年(1443年) 15 『武家功名記』などの二次史料。後南朝関係者が使用。
[269] 法学紀要 = Journal of the Law Institute (6), 日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/8 (要登録)