[3] 日本国滋賀県蒲生郡日野町小野304に、 鬼室神社があります。
[15] 白村江の戦いの折日本に帰化した百済人王族の鬼室集斯が合祀されています。
[649] 江戸時代には西宮 >>41, >>670、 不動 >>41 (不動の祠 >>670, 不動堂 >>2124) と呼ばれていました。
[1146] 小野の中心集落から西方に少し離れた位置にあります。
[375] 奈良時代前後の墳墓地は、 丘陵の末端に位置し、 前面に広い平地を望み、 左右は丘陵に擁せられ、 後方に山を負っているのが通例で、 しかも前面が南方に当たる場合が多いとされます。 >>360 (日本古代遺跡の研究 論考編, 斉藤忠, )
[376] 一方で当地は、 山間の小扇状地の田地の中央で、前川に望んでおり、 社殿および鬼室集斯墓碑は、集落との関係か、東方を向いています。 そのため奈良時代前のものとするには不自然と考えられています。 >>360
[244] 日野町小野の石小山は、 鬼室神社のある谷の南側にある山です。 北側中腹、鬼室神社から見て南東側に通称「石切場」 なる地があり、採掘跡が残されていました。 >>224, >>2124 (東櫻谷志) (>>224, >>2124 に地図あり。)
[1102] この近辺には人魚伝説の他、 聖徳太子、 鬼室集斯、 菅原道真、 惟喬親王、 蓮如といった貴人に纏わる伝承が多いようです。
[1103] しかも聖徳太子、 鬼室集斯、 菅原道真という日本を代表する学者達が小野村を訪れたことになっているのは、 大変興味深いものです。
[404]
江戸時代の西生懐忠は、
所在地を
「
[652] 江戸時代時点で、 封戸が1烟あったと言われていましたが、 「封戸屋敷」という地名が残るだけでした。 >>41
[665] 東桜谷志 >>76 の地図によると、 鬼室神社から見て南西側に少し離れた山の麓の当たりを指すようです。
[1147] 頃の由緒が引く創建の沿革は、 御鎮座一帯を佐平海道(一名西海道)といい、 集斯田(神主田)の神田もあると書いていました。 >>1133 (佐平は鬼室集斯の百済官位。)
[688]
東桜谷志 >>76 の地図によると、
鬼室神社から見て北東側が
「
[872] 平成時代時点で、 付近に近江鉄道 (バス) の鬼室神社前バス停がありました >>22。
[824]
神社近くの村道には、
「
[904] 他の位置にもあったようです。
[1018] 他の位置にもあったようです。
[878]
近くの道路には、
「
[970]
平成時代時点で、道中に
「老若男女
[464]
神社入口の右側には、
「
[823] 神社入口の左側には、 鬼室神社 と題した日本語と韓国語の併記の案内看板がありました。 日野町国際親善協会名の看板でした。 姉妹都市交流について記載があり、 平成時代初頭の締結以後の設置です。
[937] 神社横には 「国際交流広場」 と称する空間があります。 大韓民国の建築様式の東屋が設置されています。 平成時代に姉妹都市交流の関係で整備されました (>>1095)。
[1094]
東屋には、
「
[843] 百済後人は何者か不明です。 「その名のとおり、朝鮮半島にルーツを持つ人物でしょう」 と書く Webページもありますが >>841、 その根拠は不明です。
[885] 広場には、 「日野町国際親善協会・大字小野」名の解説看板がありました (>>1011)。 >>884
[836]
広場かその近辺と思われる場所に、
「
[844]
境内と見られる場所に、
「
[1126] 社殿前に江戸時代の石灯篭が2基、 石祠横 (>>709) に明治時代の石灯篭が1基あるようです。 各時代の記録はどれも断片的で、 増減がわかりにくいです (何々があったと書いても、それ以外にないとは書かれていないことに注意)。
[820] 社殿 (拝殿 >>113) は江戸時代中期頃には既に存在し、 現在も存在します。 その間少なくても1度は建て替えられたようです。 (棟札 >>194)
[582] 江戸時代、 草葺の不動堂 (社殿) がありました >>549。 草葺で、 2間四方ないし2間×1間半でした >>2124 (江漢西遊日記, >>795)。
[707] 昭和時代中期、 東面した社殿がありました。 鬼室集斯の廟とされていました。 >>2104
[799] 平成時代初期時点で社殿は瓦葺、 2間半四方でした。 >>2124
[888] 平成時代時点で、 社殿内部には写真が2枚掲げられていました。 大韓民国国立扶餘博物館所蔵の 韓国扶餘陵山里出土 百済金銅大香爐, 金銅弥勒菩薩半跏思惟像 とされていました。 >>889
[678] の不動堂建設以来 (>>655)、 明治時代の神仏分離まで、 不動明王 (不動尊 >>113) を祭っていました。 >>670, >>2124。 江戸時代に当神社・社殿を不動堂・不動と呼んでいたのはそれによります。
[1193] 不動明王像が祀られていたともされますが (>>887)、 神仏分離後の所在は不明です。
[680] 明治時代初期の神仏分離で西宮神社となってから昭和時代中期の社名改称まで、 軻遇突智命を祭神としました >>670。
[1194] 当神社の真の祭神が軻遇突智命で本地仏が不動明王という設定が以前からあったのか、 分離時に決められたのかは不明です。
[938] 昭和時代中期の改称以後、 訶遇突智命は祭神から消えてしまっているようです >>933。 合祀でなく追い出してしまうのって、 ありなんでしょうか?
[797] 、 社号の変更登記があって鬼室神社となりました >>76 p.569。 、 祭神が鬼室集斯となりました >>2124。 これ以後鬼室神社の祭神は鬼室集斯のみとされているようです >>933。
[1196] これ以前も鬼室集斯が祭神と説明されていたようですが、 実際には不動明王が祀られているので、 不安定な位置だったようです。
[825] 平成時代時点で、学業の神とされているようです。 >>20
[1022] 地元で「鬼室王」と呼ばれる >>1017 とされますが、根拠は不明。歴史的に正しいかも不明。
[1195] 地元の看板には「鬼室様」と書かれていました (>>970)。
[940] 平成時代時点で、鬼室祭と称していました >>933。 鬼室集斯の命日の祭と地元の人々に認識されていました >>1017。
[49] 伴信友の時代には毎年恒例行事となっていたようですが、 それがいつから続くものかは不明です。 また鬼室集斯の命日との認識がいつ生まれたものか、 途切れず継続したものかも不明です。
[2113] 鬼室神社境内に、 鬼室集斯墓とされる八角石柱があります。 >>2102, >>2114
[62] この石柱は偽作とされますが、 一部に真作説が江戸時代から現在まで続いているようです。 話をややこしくしているのは、 死亡直後の真作説と新しい時代の偽作説の中間の、 中世に子孫 (と主張する人々) が供養のために作った本物だとする折衷案的主張があるのに、 本物か偽物かの2分論で語られることが多いことのようです。 つまり「中世 (ないし近世) に作られた」という主張でも、 その背景の理解により真作説とも偽作説とも分類し得るのです。 また、 本物の墓なのかどうか、 本物の墓碑なのかどうか、 銘文がいつ作られたのか、 銘文がいつ彫られたのか、 本当の子孫なのかどうか、 祭祀が途切れず続いたのかどうか、 など論点が多い上に (真の子孫ではないが本当だと信じて中世に作った、 という「真作」もあり得ます)、 日朝関係や観光利用のような政治的思惑が交錯しています。
[711]
江戸時代の司馬江漢 (>>249) の図や古城図
[126] 明治時代まで、墓碑は風雨に晒されていました。 >>90 (>>95 写真), >>2124 明治時代に社殿裏手に石祠が整備されて収納されました (>>709)。 以後現在地にあります。 石祠が元の石柱の位置のままなのかは不明です。
[1026] 石柱は研究のため石祠からたびたび取り出されていました。 江戸時代にも調査のため持ち出されたことがありました (>>92)。 当時から現在まで、移動は困難ではないようです。
[470] 平成時代初期時点で、当地の発掘調査は行われていませんでした。 >>360 墓碑に関する議論は多いですが、 墓碑が設置された土地の性格 (>>376) はほとんど言及されることがないようです。 墓碑それ自体が象徴的に信仰されたものなのか、 あるいは本来この位置に意味があったのかは、 明らかではありません。
[709] 頃からの鬼室集斯顕彰熱の高まりで、 墓碑周辺が整備されました (>>129)。
[39] 石祠は普段は閉じられています。
[713] に研究者が訪れた際には、 石祠前方の石扉を開けようとしましたが、 案内人や車の運転手を動員しても開かず、 地元民が試しても開かず、 重い屋根石を持ち上げるとようやく扉も開きました。 明治時代に石祠を作ってから、 ずっと開いたことがなかったようです。 >>2104 その後は平成時代までしばしば研究者らが開いて墓碑を見ているようですが、 苦労したと書いたものは見当たりません。 頻繁に開けてメンテナンスするようになったのでしょうか。
[730] なお (>>689) や大正時代初期 (>>780) に拓本を採った記録がありました。
[73]
鬼と呼ばれるのを憚って墓碑を見せるのも嫌がっていたという話もあったようです。
ただし井上通泰はその真否は不明とも書いており >>2104、
こうした情報は村外の人から聞いたものかもしれません。
あるいは昔のことを推測した伝承なのかもしれません。
[856] 社殿横、石祠に近い位置に、 鬼室神社 と題した日本語と韓国語の併記の案内看板がありました。 説明文の他、 境内風景カラー写真と、 本殿裏の石祠に祀られている鬼室集斯の墓碑 として開扉した石祠のカラー写真が掲載されていました。 平成時代設置と思われます。
[916] 日本国内にも関わらず韓国語が上、 日本語が下に配置される珍しいレイアウトの看板です。 その意図を訝しがる人もいますが >>915、 それだけ日本人よりも大韓民国からの観光客を重視していたということでしょうか。
[712] 江戸時代の司馬江漢 (>>249) の図によれば、 野ざらしだった当時は八角柱の下には台座のような直方体が置かれていました。
[721] 昭和時代初期、 石祠内の墓碑の下に台石 (墓石, 板石 >>2124) がありました。 墓碑は台石の上にただ乗せてあるだけでした。 >>2104
[722] 台座への言及はあまりなく、古いものがそのまま残っているのか、 其の下がどうなっているのか不明です。 銘文の有無も不明です。 昭和時代初期の調査で何も記録されていないので見つからなかったのでしょうが、 裏面まで調査したのか、風化した文字跡の有無まで調べたのかは不明です。
[72] 墓石中央には、径3寸の孔がありました。 墓碑の基底はこれより大きいので、 墓碑をはめるためのものではありません。 また遺骨を器に入れて収めるにも小さすぎます。 >>2104
[720] 昭和時代初期の区長がその亡父から聞いた話では、 昔は孔に髪が入っていたのだといいます。 >>2104 石祠ができる前の頃の話でしょうか?
[725] 墓碑を移動させた西生懷忠がこれに言及していないのは不審です。 孔は土に埋もれてでもいたのでしょうか。 >>2104
[1205] 「墓石」とは呼ばれているものの、この石が元々意味のある石なのか、 ただの台座なのか、 石柱とどちらが古いのかなどは不明です。
[234] 墓碑の形状は、 平成時代の日野町教育委員会の調査 >>2124, >>224 (>>2124) によると、
[189] 重量は、大人1,2人で移動可能な程度です。 >>90
[366] 江戸時代の西生懐忠らの調査 >>625, >>362 によると、
[716] 昭和時代初期の井上通泰の実測 >>2104 によると、
[147] この奇妙な形状は日本にはあまり例が知られておらず、 注意を惹かせることになったようです (>>505)。
[134] 、 遠藤宗義 (>>450) は、 墓碑等に造詣が深いという京都の松井淳風に鑑定を依頼しました。 その結果は、 正しく朝鮮石で >>90 (>>95), >>57、 形状は唐土の方式によるものであり、 従来未だ曽て見ない古物で珍重するべき、 とのことでした。 >>90 (>>95) 鑑定の根拠は不明ですが、経験からの判断でしょうか。
[715] 昭和時代初期、 当時の集落の代表者らは、 墓碑の石は地元のものではないとしていました。 >>2104 根拠は不明ですが、 時代が近い遠藤宗義らの見解を踏襲したのでしょうか。
[137] 昭和時代後期、 日本の国立科学博物館地学研究部 >>90, >>224 は、 墓碑の 「ごく小さな石材資料」 を使ってルーペによる肉眼観察で鑑定し >>224、 流紋岩質凝灰岩としました >>90, >>224, >>2124, >>1080 p.38。
[136]
、
日野町に依頼された岩石学研究者の宇野光一
(日本国滋賀県の大津市科学博物館元勤務) は
>>2124, >>224, >>2124、
現地に赴き >>2124
ルーペによる肉眼観察で鑑定し >>224 (調査に立ち会った日野町小野の植田慶一)、
石小山産の黒雲母花崗岩としました
>>90, >>2124, >>224 (>>2124,
[243] 平成時代初期、 日野町の鑑定結果を知った胡口靖夫に依頼された柴田徹 (日本国千葉県の松戸市立博物館勤務) は、 「客観的な石材資料の偏光顕微鏡写真による比較」 で、 石質と産地に宇野光一と同じ鑑定結果を示しました。 >>224
[1208] 流紋岩質凝灰岩との鑑定結果は依頼者と思われる胡口靖夫が再鑑定結果を受けて撤回しています。 それ以後この結果を主張する者は確認できません。 鑑定者の見解は不明です。 誤鑑定の理由は不明です。 小片の観察のみということは現地調査ではなく石材を送付しての調査でしょうか。
[138] 黒雲母花崗岩は日本列島、朝鮮半島に広く分布し珍しくないもので、 朝鮮石との鑑定結果の根拠は不明です。 >>90
[819] 輸送手段の未発達な時代に石材の流通範囲は限定されていたと推測され、 しかも花崗岩というありふれた石材で、 近江八幡市岩倉も花崗岩産地として有名なこともあり、 日野を中心とする地域に流通したと考えるのが妥当と思われます。 >>2124
[245] 石小山の採掘の歴史を遡れば墓碑の造立の上限も決定できると考えられます。 >>2124, >>224 (>>2124) ただし平成時代時点で石小山は各所に自然崩落が散見され、 墓碑程度の原石はそこかしこに見られたため、 上限の決定は難しいとも言われています。 >>224
[1209] そのありふれた花崗岩が石小山産と (推測を超えて) 断定される理由は不明です。 比較により類似性が確認できたのでしょうが、 他のどの産地の花崗岩でもないとどう判断したのでしょうか。
[222] 胡口靖夫は、 流紋岩質凝灰岩との鑑定を前提に石質から風化等による摩滅の程度による年代の推測も行っていました。 この推測は、再鑑定で成立しなくなったとして撤回されました。 >>90
[223] 摩滅の具合は重要な着眼点と思われますから、 新しい鑑定結果に従い再検討が望まれますが、 削除されただけになっているのは残念です。
[431] 東桜谷志は、 やはり流紋岩質凝灰岩との鑑定を前提にしつつも、 次のような見解を述べていました。 日野町の石造美術品を掲載した近江日野の石造美術品 >>430 には、当墓碑は掲載されませんでした。 掲載されている最古は銘で現在より700年前でしたが、 風化でほとんど読めない状態でした。 石質はやや異なりますが、 それより更に古く文化3年時点でも1200年前の当墓碑が、 類似した気象条件でそのまま残るとは考えにくいものです。 >>1080 p.44
[432] 胡口靖夫も平成時代初期にこの近辺の中世金石文を網羅的に調査したようですが、 著書によるとそのほとんどは判読困難になっていました。
[601] 西州投化記に掲載されたものは、 水戸藩彰考館にあった拓本の模写とされます (>>108)。 原拓とその入手経路は不明です。
[603] 本図は文字の形を写し取ったものでした。 すべての文字のほぼすべての字画の形が、 はっきりと描かれていました。
[446]
この拓本は、
干支が「
[610] 「八」の「ノ」の揺すった字形も気になります。
[445] 胡口靖夫は、 自身の拓本 (>>158) と比較し、 かなり正確に描かれている模写で、 模写図故に墨痕鮮やかで細部の特徴がよく把握できる、 と評しました。 >>440
[604] しかしながら、その比較に使われた拓本は、 不鮮明な箇所が多く、たとえそこから同じように文字の輪郭を描いても、 これだけ鮮明な模写が作れるとは思えません。 風化が進んでいるのですから当然です。 果たしてそれを根拠に正確な模写と判断して良いものでしょうか。 当時も既に不鮮明だった箇所を想像で補った可能性もあります。
[605] 正確と評した胡口靖夫も、 死亡の文字が発見当初から判読不能だったと推測していました (>>164)。 ところが本図ではそれも明瞭に描かれ、 そのことが微塵も感じられません。
[1210] 西生懐忠が小野村長に贈った掛物に、 拓本が掲載されたとされます。 伴信友がその写しを入手しました。 (>>661)
[662] その写しの字形と西州投化記の字形は違いが多いです。 ただその写しは掛物の概要を示すために掲載されたと思われますから、 どれだけ原字形を忠実に写したかには疑問があります。 どちらも死亡の文字ははっきりと「殞」と書かれていました >>107, >>41 が、その字形も微妙に異なります。 写しは「戊」と書いていました。
[689] 、 木崎愛吉は現地訪問し拓本を作成しました >>113。 大日本金石史所収の銘文 (>>685) はそれに基づくものでしょう。 現在の所在は不明です。
[780] 大正時代頃、 喜田貞吉は現地訪問し拓本を作成しました (>>779)。 現在の所在は不明です。
[158] 昭和時代後期、 胡口靖夫は、 小野の辻久太郎の許可を得て墓碑を実見し、 拓本を作成しました。 後に著書に掲載されました。 >>90
[334] および、 胡口靖夫は、 各1回拓本を取りました。 >>316 全体の拓本か一部のみの拓本か不明ですが、 8月の「室」字部分のみが著書に収録されました。
[1219] 文字をいくつも読み取れますが、 何が書かれているか知っていないと完全に把握するのは難しいです。
[812] 、 日永伊久男は写真を撮影し拓本を作りました。 全ての面を撮影したのではないかと思われますが、 論文に掲載されたのはここに挙げたものだけでした。 >>2124
[148] 八角柱のうち正面と左右 (1面おき) の計3面に、 1行ずつ碑文が陰刻されていました。 >>2124, >>90
[155] 江戸時代に銘文を発見した西生懐忠は、 不鮮明だと書いていました。
[1223] それ以前の人々は文字を読み取ることすらできませんでした。
朱 亅 鳥三年戊子十一月八󠄂日殞鬼室集斯墓
(「戊子」は8割位の文字サイズで左右に寄せられ、 縦方向の中央軸付近には空間なく配置。)
[685] 大日本金石史 >>113 (傍点も >>113 のまま)
鬼室集斯 墓
「戊子」は8割程度の大きさの文字。
著者の井上通泰は現地で実見。
[157] 胡口靖夫は、 昭和時代に実見し (>>158)、 遠藤宗義の 鬼室集斯墳墓考 >>95 の銘文が正しいとしました。 >>90
(右) 朱鳥三年
十一月八日 戊 子 〓 殞の旁から貝と口の下線を除去 (正面) 鬼室集斯墓
(左) 庶孫美成造󠄃
[159]
胡口靖夫は、
干支は、
日本書紀通釈 の「
[690] 近代に実見した木崎愛吉は、 刻文の字様に多少の不満足を感じた、 といいます。 >>113
[561] 昭和時代に石村喜英は、 字体から偽作と見られていると紹介しました (>>180)。
[318] 平成時代に拓本 (>>158) を見た黒田正典 (>>317) は、 書家の作意の書ではなく卒意の書、 すなわち作品としてではなく記録・目印を後世に残すだけの書き方と評しました。 江戸時代の爛熟した、あるいは俗流の字ではないとしました。 >>316
[81]
「鬼」は康煕字典体で、「
[84] 「鬼」が日本でどう書かれてきたのか、さらに詳しい調査が必要とも思われますが、 「ノ」が書かれているとすると近世に書かれた可能性が高まります。
[83] >>2123 の拓影では「ノ」が書かれているように見えますが、 >>34 の拓影では不鮮明で判断しかねます。
[634]
西州投化記本 >>612 詩序考説 (>>625) 本文では、
鬼室集斯墓考の2つ目以降の「鬼」の字形が、
「
[479] 早稲田大学本の詩序考説 (>>625) 本文では、 単独の「鬼」は一貫して1画目を「ク」 と書いていました。書写者の書癖とも思われますが、 拓本模写の字形までそう書いていることが注意されます。 しかしこの拓本模写はあまり字形に注意を払わずに書かれたようにも見えます。
[594] 漢字字体規範史データセット単字検索, https://search.hng-data.org/search/%E9%AC%BC
[319] 拓本 (>>158) を見た黒田正典 (>>317) は、 江戸時代の書風ではないと推測しました。 その最も端的な特徴として「室」の「冖」左方の点の形状を指摘しました。 >>316
[320] それによると、この点の形状は (>>316 に図示あり) >>316、
[333] といった状況から、鬼室集斯墓碑近隣で撥形が皆無なら、 「本物説」の有力な証拠になると指摘しました。 >>316
[335] 胡口靖夫は、 3回採拓し (>>158, >>334)、 「室」が撥形と判断しました。
撥形の最末端部は、風化により石が欠けていて確認できないが、拓影に見られるウ冠の第二 筆の外郭の二線の延長線上に字画の存在を示す小黒点がいくつか残存しており、筆跡の推定が可能である。それによ ると「室」字のウ冠の第二筆は、筆を勢いよく抜き先端が尖っていることが了解できる。
... のだとしました。 >>316
[336] 専門家の黒田正典の判定は尊重するべきなのでしょうが、 挿絵として出版された拓影を見ても、 この判断の妥当性は容易に追認できるものではありません。 字形が不鮮明だからです。 胡口靖夫がわざわざ3回も拓本を作成して慎重を期しているのも、 客観的に撥形と承認され難いと懸念してのことではないでしょうか。
[818] 胡口靖夫が正確に描かれていると評した (>>445) 江戸時代の拓本の模写 (>>600) の「室」字は、撥形より押形に見えます。
[817] の日永伊久男の拓本 (>>812) の「室」字は、押形に見えます。
[337] 胡口靖夫は、 周辺地域の金石文の宀や冖の字形を調査し、
... の3種に分類しました。そして、
... との結果を得ました。 >>316
[345] ここから、次のように結論づけました。 >>316
[1225] なお黒田正典は撥形、押形の2分ではなく、もう少し細かく区分していました (>>320)。 胡口靖夫も字形の観察ではより細かな区分をしていました (>>337 および >>316 参照)。 しかし結論を導く段階で撥形、押形の対立軸に単純化していることには、 注意せねばなりません。
[656] HNG の 「室」 「宮」 「空」 のような宀のある字を眺めてみましたけど、 2,3種類に分類して似てる、似てないで編年というのは雑すぎなのではないのかなーと思いました。 規範文献の字体と金石文とではまた事情は違っているとは思いますけど。
[246] 岡田精司は、 墓碑に死者の名前を刻むのは近世に入って一般化する風習だと指摘しました >>225。
[434] 東桜谷志は、 日野町に残る無数の中世の墓石に、 葬者の名前や建立の年月を掘ったものは1個も発見されておらず、 それが中世以前の墓制だったとしました。 >>1080 p.45
[747] 墓石に戒名などを彫るのは江戸時代初期以降、 「何々之墓」と彫る形式は江戸時代後期のもので、 日野町での最古はでした。 >>1080 p.45
[433] 胡口靖夫は、 墓碑の形態に類似した石造物の類例は極めて少なく、 近世のものとは断言できないと反論しました >>224。
[1229] 「鬼室集斯」のような俗名の姓氏 (?) と名の組み合わせで、 百済の官位も日本の官位もないものが、 百済や古代日本での呼び方として、 または金石文に刻むべき書き方として、 当時あるいはその後の時代の様式として適切なのか、 という点も検討が必要かもしれません。
[2120]
朱鳥3年
[166]
江戸時代から現代に至るまで、
日本書紀
が1年だけとしている朱鳥が実際にはより長く用いられたとする説が唱えられていました。
その中には鬼室集斯墓碑を根拠とする者もありました。
逆に、
実際は長く用いられたことを根拠に鬼室集斯墓碑銘文の正しさを示す者もありました。
[168]
実のところ、
「朱鳥元年」も含め朱鳥時代当時に作られたことが確実な
「朱鳥」
の用例は現在に至るまで未発見です。
それ故に朱鳥は後代の制定とする追号説も有力説の1つとなっています。
[169] 朱鳥が当時存在しなかった、または朱鳥3年とは書かなかったとすると、 この碑文が当時のものでなく、 朱鳥3年という表し方が成立した後に書かれたものということになります。
[170] 逆に他の根拠からこの碑文が確実に当時のものと言えるなら、 朱鳥3年という表し方が当時から存在した証拠となります。 しかし現在までに判明している事項を総合すると、 そのような主張に説得力を持たせるのは難しそうです。
[167]
胡口靖夫は、
日本書紀
に朱鳥が1年しかないことが、
「
[1226] しかし 以文会筆記抄に偽造説の根拠は見つけられません >>102。 以文会の人々が偽造と判断した理由が日本書紀なのかどうかは不明です。
[693] もっとも、 朱鳥3年と書かれているのは死亡の日であって建立の日ではありませんから、 それよりずっと後に建てられた可能性は残ります >>113。 この日付のみをもって偽造 (事実と異なる記載の墓碑の建立) と断ずることはできません。
[538]
とにもかくにも、
この碑文は日本の古代の元号の研究史上重要なものとなりました。
[44] 江戸時代の西生懐忠は、 朱鳥元年の天武天皇の崩御後に持統天皇が称制し、 翌年が称制元年、 4年が天皇元年となっていて、 それまで朱鳥を使っていたのが、 後に称制元年を持統天皇元年としたものと解しました。 愚管抄、 皇代略記 が天武天皇没後7年まで朱鳥を使っていたとすることも言及していました。 >>41, >>40
[1820] 伴信友は 年号の論 (>>614) で銘文 (>>617) を紹介し、 朱鳥3年は持統天皇2年に当たるとして、 朱鳥が持統天皇時代に使われた根拠の1つとしました。 >>1731
[696] 大正時代の木崎愛吉 (>>691) も, 朱鳥の紀年は西生懐忠の説を採用していました。
[504]
江戸時代には、「
[67]
井上通泰は、
朱鳥に日本書紀/万葉集/日本霊異記の数え方と
万葉集所引日本紀の2種類の数え方があることを指摘し、
西生懐忠が判読困難だったと書いていたことから、
「
[703]
井上通泰は伴信友の説を引用し、
拓本を見たとは書いておりませんでした。
その時点で井上通泰はまだ墓碑を実見していませんでした。
これは釈文と説明文からの推測に過ぎなかったと思われます。
現存する拓本の「
[172]
昭和時代の研究者石田茂作によれば、
日本の金石文の紀年銘において
「
[173] これによれば、朱鳥3年は初出より何百年か遡ることになり、 当時リアルタイムで書かれたものとは考えにくいことになります。 >>90
[174]
なお平成時代のブログや Wikipedia で、
胡口靖夫の著書から
「「朱鳥三年
[175] これだけ見ると胡口靖夫の研究成果のようですが、 実際には石田茂作の論文の記述を胡口靖夫がほぼそのまま繰り返したに過ぎません。 胡口靖夫の論文には出典が明記されているので >>90 誤解はないのですが、 孫引きした Web 上の情報からはそのことがわからなくなってしまっています。
[963] 現地の案内パンフレットは、 干支年を奇妙な干支合字で書いていました (>>2130)。 拓本とは明確に異なります。
[607] 干支の「戊」は、多くの釈文は「戊」としましたが、 江戸時代の拓本の模写 (>>600) は「戌」としていました。
[608] 現在見られる拓本では、この部分に点があるのか判断するのが困難です。 各時代の研究者らが「戊」と読んだのか、 「戌」と読んで校訂したのか不明です。
[609] 「戊」と「戌」の混用はよくみられますが、 このような金石銘にもあったものかどうかは検討が必要です。
[80] 鬼室集斯の死去の時期は、 この碑以外の根拠が見当たりません。 日本書紀 には天智天皇の時代に近江に移住した後の動向が残されませんでした。 従って朱鳥3年説の真偽は不明というほかありません。
[220] 胡口靖夫は、 当碑の造立を平安時代後期から鎌倉時代後期と推定し、 当時辺遠の地だった小野で、 愚管抄 など朱鳥の延長年号を使った書物を参照できた可能性はほとんどなかっただろうとしました。 それ故に、卒年月日を記述した家伝が鬼室集斯の子孫に伝わっていた可能性が高く、 よって信憑性が高いとしました。 >>90
[221] この説は、「朱鳥3年」が死去当時ないしそれに近い時期に使われた表現であることと、 朱鳥時代の紀年の資料を参照できる人が墓碑造立に関与しなかったことが前提となります。 信憑性が高いと言う根拠にしては脆弱に思えます。
[247] しかし信憑性の高い根拠がなかったとすると、 この日付がいかなる方法で導かれたものかにも検討が必要となります。 まったくの偽造なら、敢えて日付まで捏造する必要性は低いとも考えられます。
[660] 11月8日は西宮の毎年の祭礼の日でした (>>729)。 伴信友は、 命日が祭礼日の由来としました >>41。
[663] 右面の最後の文字は摩耗しており、 「殂」「歿」「殞」 などと解されています >>2124, >>2102。 それより下に文字が入る余地はないとみられます >>90。
[160] 右面の最後の文字は、 西生懐忠 (掛物添書 >>661)、 西州投化記 拓本模写 (>>600)、 尚古年表 が「殞」、 伴信友 (鬼室集斯墓碑考 >>41, 年号の論 >>1731)、 日本書紀通釈 >>149、 大日本金石史 >>113 が「殂」、 近江蒲生郡志 が「歿」 >>150、 としていました。 >>90
[163] 伴信友は、 字形が不鮮明なので推測したと書いていました。 西生懐忠が「殞」としたことについて、 字形がそうは見えないとしました。 >>41, >>90
[161]
遠藤宗義は、
「
[162]
胡口靖夫は、
偏ははっきりしているが旁は下半分が書けていて
「
[164]
胡口靖夫は、
伴信友の検討を引いて、
発見当初から
「
[171] 「殂」「殞」「歿」 のいずれも、古代日本の墓誌銘文で鬼室集斯と同程度の位階の者に使った例が見つかっておらず、 不審とされます。 >>90
[962] 現地の案内パンフレットは、
「
[176] 碑文には庶孫の「美成」が作ったとあります。 この「美成」は人名とすることで各説一致していますが、 他の記録に見つからず、また鬼室氏の系譜も伝わらないため、 何者か確定されていません。
[177] 伴信友は、 鬼室集斯の嫡子、庶子が既に死去していたので、 庶孫 (庶子の子) の美成が家を継いで墓を立てたとしました。 >>41, >>1731, >>90 (日本書紀通釈も同じ説を書いていました。 >>149) 鬼室集信または鬼室集斯が庶子で、その子に当たる可能性もあるとしました。 鬼室姓でないのは、重複するから省略したのだとしました。 >>41
[178] 胡口靖夫は、 奈良時代までに断片的な記録が残る数名の「鬼室」氏が子孫の可能性があり、 伴信友の説が成立しないかもしれないと指摘しました。 更に、養老律令 から推定して「庶孫」が継承権を持っていたと考えにくいこと、 古代の墓誌で「庶孫」と表現した例が見当たらないことを指摘しました。 >>90
[215]
これらの解釈は、「庶孫」を古代の本来的な意味で理解し、
「孫」とは子の子だとして検討したものでした。
一方で小野の辻家過去帳の「庶孫」
は子孫の意味とされます。
[219] 胡口靖夫は明言しませんでしたが、 鎌倉時代後期から平安時代後期に鬼室集斯後裔の辻氏らが墓碑を造立したとする胡口靖夫の説 (>>218) に従うなら、 「庶孫」の美成は辻氏かそれに近い一族の代表的な人物ということになります。 そう解するのでなければ、辻氏らが「庶孫美成造」と偽ったとしなければならないことになります。
[1231]
江戸時代に
「美成」
を姓とする者がいたとする説があります。
[1232] 「美成」なる人名がどの時代の人名として適切なのか、 関係のありそうな「美成」を称する者がどの時代に確認できるのか、 といったこともこれまで検討されて来なかったようにみえます。
[505] 江戸時代の現地民は人魚塚と考えていましたが (>>584)、 知識人らは特徴的な形状 (>>147) から海外文化との関係に想像を巡らせていました。
[141] 漢土との関係性を指摘する >>113 根拠として、 次のようなものが挙げられました。
[723] 井上通泰は、 くびれに生贄を繋いだという説に対し、 装飾に過ぎなかろうとしました >>2104。
[184] 朝鮮半島との関係性を指摘する根拠として、 次のものが挙げられました。
[185] これら大陸のものは、影響が確実視できるほど似ているとは言えませんし、 距離だけでなく時代も離れています。 大陸に目を向けずとも、日本国内の次のようなものとの類似性も指摘されています。
[832] 関西学院大学の朴鐘鳴は、 八角形の石碑の歴史から11世紀以降のものと推定しました。 >>20, >>2102 (著書 (>>833) からか、他の出典からか不明。)
[507]
西生懐忠らの
[371] 本書では、 鬼室集斯や美成が住んでいたのは当地ではなく >>764、 墓碑は「別墓」で、子孫らが自分の村にもと移設または分祀したものとされました >>361, >>764, >>1080 p.47。 それは全国によくある風習だとしていました >>1080 p.47。
[542] 明治時代の村岡良弼も, 「義墓」 だと主張しました (>>393)。
[765] 本墓は古保志塚村だ (または伝聞 >>764) とする説と、 本廟は石塔寺大塔だろうと云うとの旨の2説が示されました。 >>362, >>764
[766] 古保志塚については、 奥州から逃れた蝦夷が山賊として住み着き 「鬼」 と恐れられていたので地名にも「鬼」 が残っていたと当時伝承されていましたが、 そうではなく鬼室集斯の「鬼」だとしました。 >>764
[491] しかしどちら「本墓」も、 平成時代に否定されました (>>377, >>380)。
[1099] 昭和時代後期の東桜谷志は、 そうした風習はもっと後世に生じたもので、 孫の美成が建てたとする銘文にも矛盾するとしました。 >>1080 p.47
[508] 西宮自体も朝鮮坊山から遷宮したとされます (>>1145)。 墓碑はそれと同時に移動されたものとする説もあります。 その真偽も現時点では不明です。
[194] 神社の創設時期は不明です。
[1326] 令和時代現在、 いくつかの有名サイトが鬼室神社を 「聖徳太子が建立した「48精舎」のうちの1つ」 で日野町最古の神社としていました。 >>1323, >>1324, >>1325 いずれも同じ文面ですが、出典は不明です。
[1328] 興味深いことにこれらのサイトは「公式サイト」として日野観光協会の Webページにリンクしていました。 その日野観光協会の Webサイトの金剛定寺のページに、 「日野町内で最も古く、聖徳太子が建立した48精舎の一つ」 とありました。 >>1327
[1329] この「48精舎」 (欧州数字表記) はウェブ検索で他の例がほとんど見つけられません。 これらのサイトは、 日野観光協会の資料提供を受け、 またはその解説文を参考にして説明を書いたと予想され、 日野観光協会が誤った資料を渡したか、 説明文執筆者が誤って写したと考えるのが妥当そうです。
[1330] それにしても日本気象協会やヤフーのような有名企業の Webサイトが他に確認できない出典不明の情報を堂々と掲載し続けているのは困りものです。 このままこれが新たな創建伝説として定着したら、 これらの企業はどう責任を取るつもりなのでしょうか。
[1233] 社殿の古い棟札とされるものが2つ伝わります。
[655]
江戸時代後期 (以前)、
伴信友が
「正長二年乙酉八月二十四日日尺一道人
[681] 大正時代時点で、 との社殿造営の棟札があった >>670 とされます。現物を確認したかは不明です。
[1117] 昭和時代後期の東桜谷志は、 鬼室神社に伝えられている棟札として、 蒲生郡志が引かれていました。 >>76 p.148 「伝えられている」といいながら現物に言及がありません。 当時既に現存しなかったのでしょうか?
[800] 平成時代初期時点で、 との棟札が伝えられている、 として遠藤宗義の鬼室集斯墳墓考が引かれていました。 >>2124 「伝えられている」といいながら現物に言及がありません。 当時既に現存しなかったのでしょうか?
[1234] に建設されたのは、 現行の社殿なのでしょうか。 現物に関する言及がないのは、棟札が容易に確認できず、 現地調査がされたこともないのでしょうか。
[1235] の棟札は、 その先代の不動堂と呼ばれていた社殿のものと思われます。 改築時に取り外されたのでしょうか。 実物がいつまで実在していたのか不明です。 (あるいは現存の社殿に使われていたりするのでしょうか。)
[801] 現在伝わる正長2年棟札は写しで、 「裏下」部は注釈として加筆されたものとされます >>2124。 どちらの棟札にも辻清保とあることから、 文政5年の改築時 (>>1247) に写したものと思われます >>2124。
[1236] の棟札は、 江戸時代時点で既に判読困難だったようで、 欠字が多く意味が取りづらいですが、
... といったようなことが書かれていました。
[1243] この棟札の信憑性の判断は困難ですが、 時点で欠字だらけの棟札の写本を捏造する動機は薄いと思われます。 内容はともかく江戸時代後期にそう書かれていた事実は信用して良いのではないでしょうか。
[1118] 小野村の西明寺村からの独立はとされます。 の棟札に 「小野村」 とありますから、正式分離より前に事実上の分離が成っていたとされます >>76 p.149。 しかし100年以上も引き上げてしまって良いものか躊躇されます。
[1119] 棟札に名前が挙げられた13人は、 後の室徒に当たる村の有力者と考えられています >>76 p.149。
[1245] 江戸時代後期の伴信友は、 「尺一道人」 とは菅原氏で唐橋在豊の叔父で、 名は芿栄だとしました (>>655)。 >>41 その根拠は不明です。系図か何かでしょうか。 それ以後の研究者等も「尺一」という名の僧だとの解釈 >>76 pp.148-149 で一致していますが、 この人物の素性にまで踏み込んだものは見当たりません。
[887] の棟札を根拠に、 尺一が不動堂を建てたとされます。 >>23, >>2114
[1244] 江戸時代後期の伴信友は、 正長2年8月24日に尺一が不動明王を本地仏として祭祀するようにした、 と説明しました。 >>41
[1145] 頃の由緒が引く創建の沿革は、 創建は不明ながら、 朝鮮坊山に鎮座していたものが正長2年に現在地に鬼室集斯墓と共に遷宮した、 と説明しました。 >>1133
[1246] 昭和時代後期の東桜谷志は、 尺一の元で住民13人により不動明王像が他から当地に移された、 と推測しました。 >>76 pp.148-149
[997] 平成時代の書籍は、 弘化年間の調書の一節 (>>804) が根拠に挙げて (それだけが出典かは不明)、 この時の経緯を次のように説明しました。 >>2 (>>731)
... という説があることがわかります。しかしいずれもその根拠はあやふやです。
[1263] 朝鮮坊山の位置は、小野村近辺と思われますが、不明です。
[1268] 遷座説の根拠は江戸時代後期の伝承の伝聞だけで、 どれだけ信頼できるものか不明です。 遷座が事実だとしても、それ以前の祭神が鬼室集斯なのか不動明王なのか謎です。
[1269] しかも墓碑が同時に移動されたとするのは重要な情報ですが、 これまで十分に検討されて来なかったようです。 現存の墓碑が (新造ではなく) 朝鮮坊山から移動されてきたというのでしょうか。 その際埋葬されていたものを改葬したりはあったのでしょうか、 それとも墓碑だけが移動されたのでしょうか。 別墓説 (>>507) とも関係するのでしょうか。
[1270] 遷座にはいかなる意義があったのでしょうか。 現在地はどのような理由で選ばれたのでしょうか。 小野村の中央集落から離れた地、 氏神とも反対方向の地が選ばれた理由はあったのでしょうか。
[995]
西宮は氏神の天神社の摂社で、
それぞれ集落の東側と西側に祀られていたとする説もありました
[1097]
東桜谷志は墓碑偽造説を採っており、
墓碑は元は西明寺の関係 (
[588] 成立と称する絵図 (実は江戸時代の椿井文書) に墓碑が描かれていました (>>212)。
[835]
5月、
室徒が社殿前の石灯篭2基を整備しました
(>>1126)。
これが「室徒」の確実な最古の記録のようです。
この時同時に氏神の天神社にも石灯篭が整備されました。
[587]
正月付の小野村の辻家の過去帳があり、
そこに辻家は鬼室集斯の子孫で室徒の代表であると書かれていました。
[249]
天明8(1788)年8月12日、
江戸の画家で蘭学者の司馬江漢は、
当地を訪問しました。
後日西遊旅譚や江漢西遊日記としてその様子が出版されました。
[506]
西遊旅譚は、
に江戸に戻った翌年までに弟子によりまとめられ、
それから4年で出版されることになったようです。
初刊行年は序文のまたはその翌とされます。
[12] 本書の天明8(1788)年8月12日条には、 次のようにありました。
[253]
江漢西遊日記
は、
西遊旅譚
を全編にわたって増補改訂したものでした。
全文と挿絵が書き直されていました。
人魚塚訪問から27年後に出版されました。
夫より田婦案内して人魚塚を見ンとて行ク事四五町、路の傍ラに四角なる塚ヲ指し示ス。 吾聞クに六角なりと云ニ、亦一人老婦の来りて、爰ヨリ西の方不動堂の前にありと教ル。行キ見ルに小サキ草ふきの堂アリ。ガマの大樹アリて、其傍ラ六角の塚アリ。 是人魚ツカなり。
[9]
京都の商人で国学者の村井古巌は、
古図纂, 古廟陵并埴物図などの名前で知られる図集を編纂しました。
その中に人魚塚の図が含まれていました。
本書は収録された図から、村井古巌の没後も編集が続いたことが知られます。
司馬江漢もその成立過程に関与しました。
[283] 古図類纂のように鬼室集斯墓碑を掲載しない >>497 PDF 104ページ 系統のものを除くと、 次の写本の現存が知られています。
[297] 古廟陵并埴物図 には不動堂の写生図が収録されていました。 >>287
江州蒲生郡
日野ヨリ北東之間
壹里余
小野村ニ
人魚
日本紀及 太子傳ニ出ル
江州
人魚
日本紀󠄅 及太子 傳ニ出ル
江刕蒲生郡日 野ヨリ北東之間 一里余小野村ニ 有之
人魚
日本紀󠄅及 太子傳ニ 出ル
日本紀推古天皇廿七年
七月摂津國有漁父沈𮊁
於堀江有物入𮊁其形如
兒非人不知所名
和州法隆寺繪堂
日本紀󠄅推古天皇
二十七年七月摂津
國有漁父沉𮊁於
堀江入𮊁其
[307] 西遊旅譚 (司馬江漢), 江漢西遊日記 (司馬江漢), 古廟陵并埴物之図 (村井古巌編) の図を見比べると、細かい違いはいくらでも挙げられるのですが、 全体の構図はよく似ています。 書き込まれた文字も同趣旨で、 文字が見えないと書いているのも同じです。 人魚墳には興味を示しながら、 不動堂や灯篭にはほとんど関心を払っていないのも同じです。
[503] 同じ位置から同じように眺めたから同じような図になった、 事前に一方の図を見てから現地を訪問したから似てしまった、 など別々に描かれたと主張できる余地はあれども、 同じ原図から派生したと説明されても納得できる程度の違いでしかありません。 どちらかといえば同じ司馬江漢の 江漢西遊日記 と 西遊旅譚 の図の方が違いが大きいとも言えます。
[501] 杉本欣久は、 人魚塚の図などいくつかの図が、 村井古巌の没後に江戸を出発した司馬江漢の西遊旅譚の挿図と共通することから、 村井古巌の編とされる各書の全部分を村井古巌が編纂したものではないとしました。 >>497 PDF 79ページ その場合、各書が現在の形で成立したのは村井古巌没後となります。
[308] 胡口靖夫は、 村井古巌と司馬江漢がそれぞれ別個に現地を訪問し描いたと考えました。 構図や内容の類似性を検討していないので、 図の流用を想定していなかったと思われます。 古廟陵并埴物図写本奥書から成立は天明年間と推定していました >>224。 天明年間といっても天明6年には村井古巌が没しますし、 天明5年には書写されているので、それ以前となります。 (上限も十分検討されていないようです。)
[311] 村井古巌が人魚塚を訪問していたとすると、 その時期は各書成立を更に遡る時期となりますが、 具体的には不明です。 西生懐忠は、自身らの碑文発見より前に村井古巌が調査し、 文字を一部読み取っていたと書いていました (>>382)。 村井古巌は京都を拠点に全国各地を回っていたようですから、 人魚塚やその付近を訪れていても不思議はありません。 しかし村井古巌自身による記録は残されていません。
[577]
村井古巌と親交のあった京都の国学者伴蒿蹊
(近江八幡の居住経験あり) の
[519] 西生懐忠によると村井古巌は文字の一部を読み取っていました (>>382)。 それを信じるなら、文字があるが見えないと書かれた 古廟陵并埴物之図 の絵は、やはり村井古巌とは無関係とせざるを得ません。
[309] 司馬江漢は、西行の途中、日野の中井家に滞在し、 そこから人魚塚へと向かいました >>265, >>224。 司馬江漢が人魚塚を知った経緯は不明です。
[502] 村井古巌が人魚塚を訪問し図を描いていたとする説に従うと、 江戸で写本を入手していた司馬江漢は、 不動堂と人魚墳のことを予め知っていて現地を訪問したことになります >>224。
[578] しかし司馬江漢が日野に滞在したのは知人の家があったからでした。 人魚塚のことも「六角」と不正確に尋ねていましたし、 村井古巌の図を知っていたなら把握していたはずの、 不動堂の隣りにある、川沿いにある、 といった基本情報を村人に提示した形跡もありませんでした。 >>265 事前に知識を得て計画的に訪問し、 村井古巌の図と同じ構図でスケッチしたと考えるのは、 難しいのではないでしょうか。 日野で知った、あるいは案内人に教えられたとするほうがむしろ自然です。
[537] 図は見ていなくても、村井古巌から聞かされたという可能性はあるかもしれません。 しかし村井古巌は人魚塚でなく儒家の墓と考えていたとされます (>>382)。 司馬江漢はそれらしきことを一言も書いていませんでした。
[271] 人魚塚の銘文について、各書の本文と図は、 「文字あれども見えず」 >>263, 「文字不見」 >>256, 「文字みえず」 >>573, 「文字ナシ」 >>270, 「文字有不見」 >>293 と一致しません。銘文がわからなかったことは共通しますが、 銘文があると判断したのか、ないと判断したのか不明です。
[580] 江戸時代偽作説は、この文字がないという記述を最大の根拠としていました。 ただし偽作説が主張された当時は、「文字ナシ」以前に出版された 「文字あれども見えず」が知られておらず、検討されていませんでした >>224。
[64] 江戸時代偽作説を否定する説は、 実見から時代が近い 「文字あれども見えず」 を重視し、 文字の存在を確認したものとしました。 「文字ナシ」とは、 全体図ではスペースの都合で省略し、拡大図では詳細に書いたに過ぎず、 同義と考えられました。 >>224
[579] 「文字あれども」とわざわざ書いているのにその文字が何か、 字形の欠片にもまったく言及していないということは、 文字らしい形跡というだけで、その一部すら読み取れなかったと考えるべきでしょうか。
[581] 文字があるという記述は、 司馬江漢以前に村井古巌も残しているとされたため、 ますます疑いのない事実であると考えられました >>224。 ただその村井古巌の図とされるものと司馬江漢の図とされるものが、 まったく独立して現地調査して図に描かれたものとは言い難いので、 この点は差し引いて判断しなければなりません。
[278] はじめに文字があっても読めなかったと書いていたのが、 文字がなかったと改められたのは不審です。 本文も図も文字なしと書くのではなく、 混在しているということは、 そこに強い主張はない表現の揺れに過ぎないと見るべきでしょうか。 だとすると細かな表現に固執して解釈を探っても得られるものは少ないかもしれません。
[279] 西遊旅譚 と 江漢西遊日記 の間に二十数年の時間の経過があり、 記憶が喪失してしまったとする説もあります >>224。 しかし前著をまったく確認しないで新著を執筆したと考えるのは不自然です。 前著を見なかったとしても、前著の原資料となった当時の日記を参照していたはずです。 前著より新著はかなり説明が詳細になっているからです。 そうだとすれば、門下生に編集を委ねた前著より、 自筆の新著の方が信用できる可能性も否定できません。 もちろん記録にない部分を記憶で補った可能性もあります。 いずれにしても時間の経過だけを根拠に前著を過大に評価するのは危険です。
[18] 江漢西遊日記 は「鬼室集斯墓」報告 (>>4) 後に整理されたものでしたが、 それに言及していませんでした。
[281]
司馬江漢は以文会に入会していたことが、
付山領主馬宛書簡で確認できます。
京都中心の以文会経由で西生懐忠の解読の情報を入手していた可能性はあります。
>>224 (
[280] 司馬江漢の晩年は不遇で自暴自棄な奇行が見られたことから、 西生懐忠の解読を否定する屈折した行動に出たのではないかとする説もあります >>224。 ただし司馬江漢と西生懐忠の関係性などは特に知られておらず、 軋轢のようなものが実在したかは不明です。
[310] 司馬江漢は碑文の発見を知らなかったのかもしれませんし、 発見前の訪問のドキュメンタリーにそれを注釈する必要性を感じなかったのかもしれません。 あるいは以文会の参加者らがあれこれ議論するまでもなく偽造と判断したように、 司馬江漢も言及するまでもない取るに足らない妄言と判断したのかもしれません。
[4] 文化2(1805)年 >>2124 または文化3(1806)年 >>2124, >>2127, >>1080、 仁正寺藩の藩医西生懐忠 >>90 が件の石柱を調査し、 これが鬼室集斯の墓だと報告して有名になりました >>2114。
[304]
仁正寺藩主の市橋長昭
(在位-)
は、
西生懐忠と日野の郷土史家で画家の谷田輔長に
[763]
西生懐忠と谷田輔長の時代に、
蒲生郡の古跡が多く発見され顕彰が進められました。
その後明治時代、大正時代に正確な史料が発見されると、
西生懐忠らの記録と一致しないことが多く、
疑わしいと考えられるようになりました。
本墓碑はその代表例に挙げられるものでした。
>>629
ただその嫌疑の根拠の中には椿井文書らしきものも含まれていました
[406] 銘文解読までには、次のような経緯があったとされます。
[50] 石柱は境内の草が茂っている中に埋もれたような状態でした。 >>41
[306] 銘文は摩耗して読めず、 「異説紛々」 でした。 >>625
[392] 秋の夕暮れ時にかろうじて何字か読み取れました。 >>625
[382]
村井古巌は、
繋牲 (犠牲を繋ぐ) の形であるため、
儒士の碣だろうと考えました。
「
[383]
余暇日に「
[384] 市橋長昭は、 郡誌の編纂に際してこの石柱について西生懐忠に諮りました。 石柱を藩庁に持ち込んで何度も磨きました。 すると 「鬼室集斯墓」 の5文字がはっきりと見えるようになりました。 >>625
[42]
2月、
石柱は藩庁から西宮に戻され祭られました。
西生懐忠は経緯を
[407] 以上の経緯は西生懐忠が当時書き記したものですが、 それ以後の文献で次のようなことも言われました。 (根拠はどうにもあやふやです。)
[471] 諸説とも大筋では一致していますが、細部で違ったことを言っています。 西生懐忠と市橋長昭がいつどのように知り合い、 西生懐忠と市橋長昭がいつ誰から墓碑を知ったか一定しません。 西生懐忠自身の記述を信用したいところですが、 多少の文飾の可能性も否めません。 西生懐忠は自身らの解読の「前史」を書いていましたが、 後世にはそれがあまり語られなくなって、 すべて全文解読したプロジェクトリーダーの西生懐忠だけの功績と化していきました。 子供が遊んでいたら通りかかったというエピソードはその後の附会を思わせます。
[517] 文化3年2月に返還された墓碑が、 持ち去られたのが文化2年の何月だったのか、 はっきりしません。 碑文解読は数ヶ月も要する大変な作業だったのでしょうか。 また西宮の11月8日の例祭はこの頃既に行われていたのでしょうか。 墓碑はその時現地にあったのでしょうか。 無かったとしたら、支障はなかったのでしょうか。
[472] 解読前まで 「異説紛々」 だったとされますが (>>306)、 解読に繋がった経緯しか書かれていないので、 いつ誰がどのような説を提出し、 どのような場面で議論されたのか不明です。
[474] 明記されたのは村井古巌の儒士説 (>>382) と、 一般の通説だった人魚塚説 (>>405) の2通りでした。 これだけなら 「異説紛々」 は大げさすぎるように思われます。 これは漢文の文飾だったのでしょうか。 それとも書かれていない説が他にもあったのでしょうか。
[313] 村井古巌が 「儒士之碣」 と述べたとされますが、 これは現存する村井古巌のどの著作にも見つかっていません >>224。 現存しない何らかの著作に書かれていたのでしょうか。 それとも現地調査等で口頭で発言したものでしょうか。
[476] 村井古巌が現地で銘文を読もうと試みたことが書かれていますが、 いつ訪れたのか不明です。 村井古巌はに没しているので、 それ以前と考えるとこの 「異説紛々」 は何十年も続いていたことがわかります。
[640] 西生懐忠の記録は、 祭鬼室集斯墓詩幷序 と 鬼室集斯墓考 の2部に分かれていました。 江戸時代後期の伴信友は前者を「詩序」、後者を「考説」と呼び、 合わせて「詩序考説」としていました。 >>41 昭和時代の胡口靖夫もこれに倣って「詩序考説」と呼んでいました。 >>90 前者はともかく後者を「考説」と呼ぶ理由は不明です。
[632] 現在 Web 上で閲覧できる本書の写しが少なくても4種類ありますが、 それぞれ少しずつ異なる本文を持っていました。 いずれも少しずつ不自然な点があり、書写時の誤字脱字を思われます。
[483] 西州投化記本は水戸藩彰考館伝来のもので、 その伝来経路は不明ですが (>>108)、4本中では最も古いと思われます。
[641] 江戸時代後期の伴信友は、 詩序と考説2通の写しを入手しました。 伴信友によると、 西生懐忠は拓本の上に詩序、下に考説を書いた掛物を作成し、 小野村長 (辻久右衛門 >>58) に贈りました。 その掛物には、 西生懐忠が碑銘を「目安く」書いたものが添えられたとのことです。 >>41
[661] その掛物は解読直後に作られた原本かそれに近いものでしょうが、 現存するかは不明です。
[484] 伴信友が入手した写しというのが、 早稲田大学本と思われます。 早稲田大学写本には、 詩序考説の写しと掛物の略絵が書かれていました。 小野村長の辻家で写されたもののようですから、 書写が忠実に行われたものであるなら、 原本に近い写本ということになります。
[489] また伴信友の論考に引用されたものは、 早稲田大学本由来と思われます。
[764] 近江蒲生郡志所引輔長考記 >>629 は、 書名から谷田輔長の記録と思われます。現所在不明。 詩序考説が収録されていました。 西生懐忠から直接入手したのでしょう。
[633]
西州投化記本 >>612
のみ
「
[135]
西生懐忠は漢詩
[364]
[43]
当初銘文は
「
[510] これは言うまでもなく不審です。以後の章で紹介するように、 西生懐忠ら西大路藩による偽造説が唱えられる原因となりました。 西生懐忠らにとって都合の悪いことに、 西生懐忠が説明した銘文解読の経緯を証明する第三者の記録は、 現在まで見つかっていません。 同時代および前の時代に文字がなかったという証言が残っていますが、 文字があったという証言はありません (読み取れない状態だったのですから)。
[250] 昭和時代の研究者らは、 江漢西遊日記 が墓碑を実見し写生した最古の記録と考えていました。 平成時代になって、 その基になった 西遊旅譚 や、 更に前に訪問した村井古巌の記録が知られるようになりました。 >>224 村井古巌や司馬江漢が文字があるが見えないと書いていたことが明らかとなり、 西生懐忠ら偽造説の大きな根拠が失われました。 >>224
[77] 同時代の坂本林平 (>>768) の証言は、 文字があったとする証言とは矛盾しますが、 読み取りが困難で判別できないほどのものだったとすれば、 文字がないと認識していてもおかしくないでしょう。
[63] 発見過程は極めて不審ですが、 捏造だとすると 「朱鳥三年」 という表記を敢えて使い、自ら解説を加えるという手間をかけているのが気になります。 また捏造なら死亡の文字を敢えて剥落させたりはしないように思えます。 完全な捏造よりは、強引に読み取ろうとして改変された可能性を想定するべきでしょうか。
[99] 鬼室集斯墓は有名になり、 遠方からも参拝見学に訪れたといいます。 >>95, >>670, >>58
[100] 訪問客らが記念に書き残した詩歌は数巻にも達しました。 >>95, >>58 昭和時代後期時点で、 小野の辻久太郎家には、 「その二巻」が残っていました。 >>90
[650] 文化6(1809)年4月12日、 宮津藩主松平宗発 (在位-) は、 当地の奉行に参拝させました。 奉行は詩を作りました。 >>251, >>41 江戸時代後期時点で、 詩を書いたものを小野村長が所蔵していました。 >>41
[984] 平成時代の郷土史家の瀬川欣一は、 「地元小野村の村役人たちはもちろん、日野町(江戸時代の)の知識人たちも、近郊の歴史愛好者たちも共々に驚き合い、喜び合いました。」 としました >>965。 具体的にいつのどのような記録を根拠にこう断言したのかは不明です。
[98] 平戸藩の藩主だった松浦静山 (在位-) は、 甲子夜話 (-執筆) 巻六十一に、 次のように書きました。 >>90 (注釈は >>90 にあるまま)
曰人は諸国を巡歴せし者にて、その語に近江の蒲生西宮と云所にて見しは、原野 の叢中に六角なる石塔あり彫て曰、
朱鳥元年
此下に何とかあらん 語れるは此ごとし 鬼室集斯墓
朱鳥は天武帝の年号。今に至て千百四十年。鬼室とは何人ぞ。若くは異邦人の来帰せしにや
[498] この旅行者がいつ墓碑を見たのかは不明ですが、 「鬼室集斯墓」 と掘られていると言っているので、 全文解読後でしょう。
[499] 「朱鳥三年」を「朱鳥元年」と誤っており、 その後の部分も書かれておらず、 松浦静山は旅行者から正確に聞き取らなかったのか、 旅行者も不正確に覚えていたようです。
[492] 原野の草の中にあったとされており、 草の中から発見したとする説 (>>50) はこうした噂から出てきたかもしれません。
[500] 碑文解読の情報はこのような形で全国に広がって行ったのでしょう。 までには水戸藩の研究者も拓本等を入手していました (>>598)。
[768]
中之郷村の坂本林平は、
楓亭雜話
を書き残しました。
[511] 碑文解読以前から近くの村に住んでいた坂本林平が、 碑文解読から時を置かずに記録したもので、 次のように書いていました。
[418] >>700
は
「
[419]
一方
東桜谷志
は、
「
[420] いずれも根拠は不明です。 楓亭雑話 の他の部分に出典があるのでしょうか。 なお「楓亭」も坂本林平の号でした。
[421] 「方円舎」は江戸の画家の号にありますが、 時代と地域に接点が見つかりません。
[423] 美濃国関連の写本に 「弄泉居主人」 と書き込んだ例があって時代が近いです >>422 が, 関係は不明です。
[776] 当時、 宮津藩主 (松平宗発 >>650 か) は、 京都の国学者の久雄に、 墓碑の調査を委嘱しました。 久雄は、 坂本林平に詳細を尋ねてきたので、 ありのままを話しました。 その後調査は停止されました。 >>770
[777] 近江日野町志は、 この調査が中止されたとの記述を、 「宮津藩主が委託」した正野玄三の調査の後何も無かった事 (>>687) に関係すると考えました。 >>629 しかし正野玄三の調査は弘化年間に京都所司代からの委託で実施されたと言われており、 一致しません。 なお宮津藩主松平宗発の京都所司代在任は-でした。
[516] 鬼室集斯の墓碑が「発見」されても、周囲の人々が必ずしもそれを好意的に受け止めたわけではないことがわかります。
[1125]
ただし坂本林平が大々的に否定説を触れ回ったという記録はありません。
楓亭雑話
は刊行されておらず、現存状況から見てせいぜい中之郷村内で流布した程度でしょう
(生前か死後か不明)。
坂本林平と西生懐忠に親交があったかは不明
[584]
小野には、
人魚伝説に関係する石塔が2箇所ありました。
1箇所は鬼室集斯墓碑で、
もう1箇所は少し離れた地点の四角柱でした。
[190] 鬼室集斯墓碑との認識が広まったためなのか、 銘文解読以後そちらを人魚塚と呼んだ記録は見当たりません。 人魚塚はもっぱらもう1つの方を指すようになりました。
[589] 人魚塚の存在は、 江戸時代中期までに既に都市の知識人の知るところとなっていました (>>577)。 そうだとすると、 これまで鬼室集斯墓碑研究の文脈で知られている以外にも、 小野を訪れた人がいた可能性があり、 当時刊行された書籍や近隣住民の記録文書等に、 何らかの記述が残っているかもしれません。
[8]
鬼室神社に当たる部分に大内時頼なる人物の墓を描いた絵図が、
2種類知られています。
[210]
これらの絵図は椿井政隆が東桜谷地区に持ち込んだ記録があり、
令和時代現在、椿井政隆が偽造した椿井文書と考えられています。
[212] 興福寺領云々絵図には、 の絵図の複写と書かれていました。
[85] 昭和時代後期の東桜谷志は、 この絵図が銘文発見以前のもので、 その時点で鬼室集斯墓碑伝承がなかったことを明らかに物語るとしました。 >>1080 p.45
[213] 平成時代初期の日永伊久男は、 東桜谷志から引いてこの絵図に言及していました。 >>2124 墓碑の性質の根幹に関わる重大事項にも関わらず、 大内時頼の墓と書かれていると触れるだけで、 不思議なことに何の検討もしていませんでした。
[214] 平成時代のブログ記事 >>23, >>2 やウィキペディア >>2114, >>2102 などは、 日永伊久男の報告を引いて (>>23 のみ出典不明) 鬼室集斯の墓碑とすることに疑問を示していました。
[216]
四ツ谷古城図の成立時期は不明ですが、
に椿井政隆から入手した記録がありました。
[217] 本図は東桜谷志にも収録されているのですが、 不思議なことに東桜谷志は鬼室集斯墓碑の検討でこちらの図には触れていませんでした。 そのためなのか、以後の論文やウェブ記事でも本図は参照されていません。 (東桜谷志を隅々まで読んでいる人はあまりいないのでしょうか...)
[312]
鬼室神社付近に、
興福寺領云々絵図には大内時頼の墓とだけ書かれていました。
四ツ谷古城図には大内時頼の墓と鬼室集斯の墓が併記されていました。
そして石塔らしきものと社殿らしきものが描かれていました。
[373]
鬼室神社の近くには、大内時頼の墓と伝えられる地蔵があります。
しかしその伝説にも疑問があります。
[374] 想像を逞しくすればいろいろな可能性を考えられますが、 いずれも妄想の域を出るものではありません。
[586] 一方の絵図にだけ鬼室集斯と書かれている点は、 作者の意図を推測する上で重要でしょう。
[585] 両絵図に描かれた墓碑は江戸時代中期頃の様子を推測する貴重な材料になるかもしれませんが、 江戸時代に中世を偽って描かれたという性質上、 相当慎重に扱わなければ危険です。
[591] 鬼室集斯墓碑が大内時頼墓とする資料があり、 小野に大内時頼伝説のある地蔵が現存する以上、 その関係性を明らかにすることが鬼室集斯墓碑研究には必須のはずです。 しかるに、 東桜谷志 >>76 およびそれ以後の研究は、 (この点を指摘したブログ記事等を除けば) ほとんど言及すらしていないのが不思議です。
[111] 江戸時代の研究者の言及がいくつか残されていますが、 多くは当墓碑に否定的な見解を示していました。 ただ残念ながら、 それらは判断の根拠は書いていませんでした。 議論の余地もなく明らかに偽作と考えられたのでしょうか。
[108]
水戸藩彰考館の研究者小宮山昌秀の
西州投化記 第九巻に、
拓本の模写 (>>600)、
[109]
拓本横には、
「
[110] なお本書第一稿本 (国立国会図書館所蔵) には摺本およびそれに関する記述がありましたが、 第二稿本および第三稿本 (国立国会図書館所蔵) では削られていました。 >>90
[598] 本書第1稿本の序文には日付がありませんでした >>596。 国立国会図書館所蔵の拓本のない異本には、 同じ序文の末尾に5月の日付がありました >>597。 本書第1稿本の成立はそれ以前でしょうか。 文化2年の碑文発見からわずか数年で情報が広まったことがわかります。
[101]
京都を中心とする知識人らのサークル以文会の記録
以文会筆記抄
[105] 江戸の研究者狩谷棭斎が金石文を集成した 古京遺文 (序) の目録に、 「近世所出田道碑、鬼室福信碑、皆係後人為託今亦不存録」 とありました。 >>90
[611] ただしこの箇所は大正時代に出版された本にはありましたが >>104、 明治時代に出版された本では少し違い、鬼室に言及していませんでした >>103。 本書は内容に違いの有る複数の本が伝わります。 この文の成立過程は検証が必要と思われます。
[106] ここで鬼室福信碑とありますが、 「近世」がちょうど鬼室集斯墓発見の時期を指すと見られること、 百済で殺された鬼室福信の墓碑が日本にあるのは不自然なことから、 鬼室集斯の誤りとされます。 >>90
[1247] 鬼室神社のの棟札が伝わります (>>1233)。 この時社殿が改築されたようです。
[1248] 棟札によると, 社殿は大破したため助力をかき集めてに再建されたものだといいます。 棟札には当時の小野村の有力者らの名前がありました。
[1249] 旧社殿破損の理由は明記されていません。自然災害でしょうか。
[613] 研究者の伴信友は、 本墓碑と銘文について検討し、 長等の山風所収年号の論 (-に草稿、以後晩年まで加筆) と比古婆衣所収鬼室集斯墓碑考 (弘化3(1846)年9月草稿) に書き残しました。 伴信友は江戸に住んでいましたが、 に京都に移住しました。
[614] 年号の論の当時から見て「近頃」、 伴信友は鬼室集斯墓碑を知りました >>1731, >>41。 近江近辺の人々に聞き取りし >>41、 拓本 >>1731, >>41、 詩序考説の写本等 (>>42) >>41 を入手して、 考察しました。
[615] 年号の論のこの部分は、 鬼室集斯墓碑考とみられる別稿を参照していました >>1731。 年号の論は加筆が続けられたといいますから、 鬼室集斯墓碑に関する記述がいつの時点で追加されたかは、 不明です。 朱鳥の延長年号の第1例に挙げられていますが、 最も有力な根拠としてその他の例の前に挿入したのだとすれば、 初めは無かったとも考えられます。
[48]
鬼室集斯墓碑考は、
鬼室集斯墓碑に関する考察を、
銘文 (>>617)、
[618] 伴信友は入手した拓本から銘文を検討しました。 字画は不鮮明でしたが、字体から推測して読みました (>>617)。 >>41
[619] 伴信友の拓本の入手経路は不明で、 その後の所在も不明です。
[441]
国立歴史民俗博物館蔵
穂井田忠友書簡(伴信友宛)
に、
「
[442] 大鹿久義はとしましたが、根拠は不明です。 胡口靖夫は、 同文書に記載のある正倉院文書の調査が天保6年、7年の頃だったので、 それからさほど下らない時期としました。 >>440
[443]
送り主は考古学者の穂井田忠友で、
文政年間後半に京都に住んだ、
以文会の会員でした
>>440 (
[447] 江戸時代後期の拓本として、 西州投化記 所収のもの (>>108) が伝わりますが、 伴信友の釈文とは干支の「戊」の字が異なり、 死亡の字も異なります。 >>440
[448] 胡口靖夫は、 このため伴信友の入手した拓本とは別種の可能性もある、 としました。 >>440 「戊」は校訂の結果改めた可能性もありますが、 死亡の字がはっきり読めたのなら、 伴信友の議論は無意味です。 模写図が死亡の字を勝手に推測で描いたのでもなければ、 別の拓本と考えざるを得ません。
[251] 早稲田大学図書館に鬼室集斯墓詩并序なる文書が所蔵されており、 Web 公開されています。 >>86
[276] その書誌情報は 鬼室集斯墓詩并序, 西生懐忠撰の成立、 伴信友写本としています。 また, 伴信友旧蔵、 荻野三七彦 (古文書学者、早稲田大学教授) 旧蔵としています。 >>86
[252] 実は鬼室集斯墓詩并序の写しは本書の前半だけで、 後半は他の鬼室集斯関連の写し等です。
[282] 本文は黒筆で書かれていました。 前半の鬼室集斯墓詩并序の写しはあまり崩れていない書体、 後半は崩れた書体で書かれていました。
[284] わずかに黒筆で文字を訂正した箇所が前半にあります。
[296] 朱筆で読点や訂正を書き込んだ箇所が前半にかなり多く、 後半にわずかにあります。
[539] 比古婆衣所引の詩序考説は、 本書のものとほぼ一致します (>>484)。 しかも比古婆衣の小野村から入手した情報の多く (すべてではない) は、本書の後半から得られたことがわかります。 従って本書は伴信友が晩年に入手し比古婆衣の執筆に使った資料と考えて間違いありません。
[152] 江戸時代後期の金石文研究者山本隠倫の 尚古年表 は、持統天皇2年 (= 朱鳥3年) の欄に鬼室集斯墓の銘文 (>>154) を掲載していました。 >>151
[153] 大正時代の刊本によると、底本には朱書で 「三香筆記云」として所在地が書き込まれていました。 >>151
[687] 弘化年間、 京都所司代酒井忠義 (在任-) から取り調べの沙汰がありました >>113。 信楽代官属吏加藤雄九郎を通し >>58、 日野の正野玄三に調査させました >>58。
[748] 正野玄三は古書類を調べ >>113、 墓碑の拓本を添えて、 に尺一道人が不動明王を本地仏として祭ったが、 本来の祭神は鬼室集斯であるべきだと報告しました。 >>58 回答書は昭和時代初期時点で正野家に現存していました >>629。
[804] 弘化年間に京都所司代邸に提出された調書には、 「一西宮 祭神小錦下学頭職鬼室集斯 (百済人) 後に正長二 年八月二十四日尺一道人 (名仍栄俗称菅原唐橋 在豊郷叔父) 不動明王を本地仏としたる故今は 不動なり」 とありました。 >>2124, >>23
[805] これを掲載した平成時代の報告は、 その出典を胡口靖夫の論文としていました。 その胡口靖夫の論文を収録した胡口靖夫著書 >>90 には、 それらしき部分がありません。 胡口靖夫の原論文にはあったのでしょうか?
[544] この記述は伴信友の晩年の著書のものとほぼ同じです (>>655)。 両文書の正確な成立時期は不明ですが近接しており、 一方が他方に参照されたとは言い切れません。 あるいは共通の原資料に依拠したものでしょうか。
[541] 江戸時代末期の伴信友の説は、 明治時代の近代的な学問にも多く引き継がれました。 墓碑の解釈も近代の研究者によって踏襲されました。
[669] 日本史研究者飯田武郷の 日本書紀通釈 (成立、没後明治年間に刊行) は、 日本書紀の注釈書でした。 鬼室集斯に関する注釈として、 墓碑の銘文と、庶孫についての見解がありました >>149。 いずれも伴信友の説と同じでした。 本書には他にも伴信友説が取り込まれているとされます。
[393]
法学者・日本史研究者の村岡良弼の
日本地理志料
(-刊行)
は、
篠原の鬼室集斯墓の記録 (>>775) を重視し、
篠原から6,7里離れた当地の墓碑
(出典は伴信友 (立入) の 比古婆衣 >>47)
は「義墓」の可能性があると指摘しました。
[450] 、 公務員 (後に郷土史家) の遠藤宗義は、 滋賀県蒲生郡長に就任しました。 まで務めました。 >>449 (蒲生郡教育会長 >>90, 教育会代表 >>57)
[461] 夏に遠藤宗義が郡長に就任した直後、 滋賀県多賀神社宮司の岡部大人 (岡部譲 >>113) が、 蒲生郡に鬼室集斯の古い墳墓が埋もれていると聞いているので、 探し出して顕彰するよう提案しました。 >>459, >>23 遠藤宗義は強く興味を抱きましたが、 多忙ですぐには着手できませんでした。 >>459
[462] 、 墓があるという東桜谷村の「長人」等にたずねましたが、 長く住んでいるが聞いたことはないと答えました。 >>459, >>2102 (鬼室集斯墓碑考, 遠藤宗義)
[463] その10日余の後、 東桜谷村の村役場を訪ねて墓の有無を確認しました。 するとそれが有るとわかり、 詳しく話を聞き古記録を見ました。 26,7町ほど歩いて小野の里に入り、 西宮の森のほとりの墓碑を拝みました。 以来数ヶ月間、 古い記録を調べたり、 古老に聞いたり、 実地調査したりしました。 >>459
[451] >>459, >>449 12月 >>76 p.571, 遠藤宗義は鬼室集斯墓碑に関する情報を、 鬼室集斯墳墓考 としてまとめました。 >>76 p.571, >>459, >>449
[208] 昭和時代後期の時点で、 小野の浦田栄治郎家に明治36年12月20日発行の鬼室集斯墳墓考が所蔵されていました。 >>76 p.776
[459] 本書は平成時代初期の時点で既に入手困難とされていました。 胡口靖夫の論文に、 緒言 冒頭部分のみ引用されました。 >>449
[989] 平成時代のブログでこの出版時期を 「朝鮮半島への関心が高まるなか」 と説明するものがありました >>986。 ブログ著者が時代背景の説明のため挿入したのか、 何か出典があっての説明なのか不明です。 瀬川欣一の説明 (>>985) と同系統でしょうか。
[452] 平成時代初期の時点で、 歴史研究者の中には、 本書は歴史学に無縁の素人の役人によるもので信用できないとする者がいたそうです。 >>449 その主張の詳細は不明ですが、評価は身分ではなく業績に基づき行われるべきでしょう。
[453] 鬼室集斯墳墓考 の功績として、次の点が指摘されています。 >>449
[457] 一方で誤った理解が含まれることも指摘されています。
といっても本件の他の発言者と比してそれほどおかしな主張とも思えません。
[75] 遠藤宗義の調査当時、 墓碑の知名度はそれほど高くなかったようです。 長く住んでいたのに知らなかった村民は、 小野以外の東桜谷村の大字出身だったのでしょうか。 それとも小野出身だったのでしょうか。 江戸時代中期に司馬江漢が訪れたときに小野村の住民すら知らなかった (>>549) ことが思い起こされますが、碑文発見後の参拝ブーム (>>99) も遥か過去の出来事になっていた >>2 のでしょうか。
[129] 遠藤宗義により鬼室集斯に注目が集まった結果、 鬼室集斯墓碑の石祠や玉垣 (>>709) が整備されました。
[1203]
この石祠自体には紀年がありませんが、
その造立は、
「
[128] 玉垣や石灯篭には明治41年の紀年があり、 それを重視し石祠も造立とする説もありました >>90。
[746] 遠藤宗義の鬼室集斯墳墓考が成立した明治36年から蒲生郡長を退いた明治41年までの出来事であるのはほぼ間違いありません。 石祠が他の石造物と同じく明治41年に作られたものなのか、 石祠だけ先立って明治36年に作られたとする記録が正しいのかは不明です。
[545] 、 鬼室集斯が祭神の1つとして合祀されたといいます (>>990)。 それも一連の顕彰活動の一環と思われます。
[985] 平成時代の日本国滋賀県蒲生郡日野町の郷土史家瀬川欣一は、 「明治四十年(一九〇六)。日本国は強引に朝鮮の国を日本の領土へ併合してしまいました。その時に、この鬼室集斯の墓の存在が意識的に大きくクローズアップされ、古代における日朝の関係から大いにPRされました。 だが墓石は風雨にさらされたままですし、神社も昔のままの姿です。日朝併合を記念して多くの参拝者も見えますので、このままではいけないと、翌明治四十一年に、小野の人々が中心となって神社の整備が進められ、野ざらしのままだった墓石を石祠の中へ納め…(中略)…現在に続く境内の整備がされました。」 と書いていました。 >>965
[1204] し、 日韓併合はのことでした。 それを記念した参拝者がいたとする根拠は不明ですが、 仮にそれが事実でもそれをきっかけに明治41年に整備することは不可能です。 なお明治40年には韓国統監府が設置されましたが、 それで多くの参拝者が訪れるかは不明です。 明治40年に「大きくクローズアップ」されたというのが具体的に何を指すかも不明です。
[988] 頃の記録というものを引いているブログがあり >>20, >>23、それともなにか関係しているのでしょうか.
[684] に滋賀県蒲生郡役所により刊行された 近江蒲生郡志 は、 西宮神社と、 そこにある西生懐忠らが発見した鬼室集斯墓のことが記載されていました。
[785] 本書は説明が主で、先行研究の引用や信憑性の議論はしていませんでした。
[46] 大正4(1915)年秋、 日本史研究者の喜田貞吉は現地を調査し、 鬼室集斯墓ではないと発表しました。 >>629
[778] その理由は、 身分に対して墓の規模が小さすぎることと、 判読できなかった碑文が藩庁に持ち出したら明瞭になったのは不審であることでした。 >>629
[779] 喜田貞吉が拓本を東洋史学者の内藤湖南に見せたところ、 笑って賛同しました。 >>629 書風などから一見して当時のものでないとわかるほどの違いを感じたのでしょうか。
[864] 喜田貞吉は鎌倉時代の偽作と強く主張したとされます >>29。
[691] 木崎愛吉は、 に実見し拓本を作りました (>>689)。 に著書で紹介しました。 西生懐忠 (>>91), 伴信友 (>>613) 比古婆衣, 遠藤宗義 (>>450) らの研究を紹介しつつ、 以文会筆記抄 (>>101) の偽作説寄りの解説を書いていました。 >>113
[695] ただし、 真偽を断じ難いものを無理に断定するのは研究者の姿勢として不適切だとして、 断言は避けていました。当碑は本編と別の 余録 に収録して区別してあり >>113、一覧表には 「一説偽作」と書いていました >>694。
[761] 、 滋賀県日野町教育会が 近江日野町志 を出版しました。 >>40
[781] 当時は昭和の大合併によるの新日野町成立前で、 東桜谷村小野も西大路村も含まない旧日野町の町史でしたが、 人物として西生懐忠が立項されており、 その業績が疑問視される例として鬼室集斯墓碑 (>>763) が取り上げられました。 >>629
[782] 西生懐忠の著作の他に坂本林平の証言 (>>768) が掲載され、 喜田貞吉の否定説 (>>46) でまとめていました。 編者は坂本林平の記録の疑問点を指摘するなど客観視に努めてはいましたが、 偽造説を支持する立場で書かれたことは明白でした。 とはいえ編者の独自の見解が多くはなく、 材料を提供して後考を俟つ態度を取っていました。 >>629
[783] 胡口靖夫は、 本書が墓碑の「フレームアップ説」(捏造説) を展開したと紹介し、 墓碑が藩庁に持ち出された際に偽造されたとするのが本書の主張だとしました。 >>224
[232] しかも、 それ以後日野町では偽作説が優位を占めて大きな影響力を持ち、 そのためもあってか、 日野町教育委員会は平成時代に至るまで、 墓碑の基礎的資料の収集すら実施しないでいた、 と本書の悪影響を強調しました。 >>224
[231] しかしながら、 本書中に編者独自の捏造説の記述は見つけられませんし、 本書出版後の昭和の顕彰運動や昭和の大合併を超えて、 本書記載の偽作説が新日野町で影響力を持ち続けたとする根拠は何も示されませんでした。 新日野町教育委員会が何らかの判断をしたのか、 その判断に本書が影響し得たのかには、 検証が必要と思われます。
[248] 胡口靖夫によれば、 後の瀬川欣一 (>>226) の偽造説は 近江日野町志 の偽造説 (実際には坂本林平の説) を焼き直したに過ぎないのだといいます。 >>224 確かに偽造のストーリーは共通するのですが、 瀬川欣一が挙げた 江漢西遊日記 について 近江日野町志 はまったく言及していないなど、論拠に重大な差異がありますから、 それらを一緒くたにするのは乱暴に思えます。
[784] 胡口靖夫は「真偽論争」で自説と対立する西生懐忠偽造説について、 過剰に批判的に扱っているように感じられます。
[793] 日野町教育委員会で調査した日永伊久男が、 「『近江日野町志』に代表されるように研究者の間では贋作説が優位を占めていた」 と説明していました。 >>2124 あるいはこれが根拠になって、 本書がきっかけで日野町教育委員会が調査をしない世論が醸成されたと書いたのかもしれません。
[1007] 、 東北地方の歴史研究者藤原相之助は、 墓碑および王女碑を、 当地近辺の「鬼」地名や蝦夷関係の伝承と共に著書で紹介しました。 本書は伴信友 比古婆衣 に全面的に依拠しており、 西生懷忠の業績を伴信友の功績と誤認するほどでした。 >>16
[705] 日本古代史研究者井上通泰は、 著書上代歴史地理新考 (刊行) で、 西生懷忠の詩序, 伴信友 比古婆衣, 遠藤宗義 鬼室集斯墳墓考 を引きつつ、 当墓碑に言及しました。その条の最後には 「昭和十三年五月十五日草」 () とありました。またその中で「附記」として 「昭和十三年五月七日」 () のことが書かれていました。 >>2104 7日以前に草稿を大筋で書き上げていたところに、 付記を足して完成させたといった感じでしょうか。
[70] 、 井上通泰は墓碑を現地調査しました。 予定のない突然の訪問だったようですが、 区長、氏子総代、宮守らは着の身着のまま駆けつけて喜んで協力しました。 井上通泰は地元の石ではないと教えられたため、 身分に比して小さいこともあり、 他で作られて移動された可能性が高いとしました。 >>2104 しかし偽造とまでは考えなかったようです。
[865] 頃の内鮮融和や顕彰を進める流れの中で、 当神社の整備も進んだとされます。 >>29 具体的には不明です。
[992] 、 鬼室集斯先生史蹟顕彰会が発足しました >>986。
[554] >>58、 当神社の社名と祭神が変更され >>58、 鬼室集斯を祭神とする鬼室神社 >>2114 となり、 宗教法人化されました >>58。
[548] 顕彰会の詳細は不明です。 日本国滋賀県出身の天台宗僧侶で仏教研究者、 京都日朝協会会長の山口光円らが尽力した >>58 といいますから、主要なメンバーだったと思われます。
[891]
神社入口には「
[555] 社号変更の折に鬼室神社奉賛会が御由緒記を製作したとされます >>76 pp.569-571。 に顕彰会がパンフレット 鬼室集斯と鬼室神社 を製作したとされます >>58。 両者は同じものを指すのでしょうか。 後者の内容は鬼室集斯墳墓考の要約でした >>58。
[209] 昭和時代後期の時点で、 小野の浦田栄治郎家に 鬼室集斯と鬼室神社 が所蔵されていました。 >>76 p.776
[1133] 神社と小野地域にとってかなり大きな出来事だったと推測されるのですが、 不思議なことに昭和時代後期の東桜谷志 >>76 には、 このときの経緯はほとんど何も書かれていませんでした。 鬼室集斯と鬼室神社から一部引用されている程度でした。
[944] 平成時代時点で、 この頃の経緯は既に忘れられていたようです。 問い合わせを受けた日野町役場は、 昭和の大合併 () の関係で改称したのではないかと回答しました >>2126 が、特に根拠があっての回答ではなさそうです。 財団法人滋賀県文化財保護協会も不明としていました (>>932)。
[559] 令和時代のブログ記事の年表で、 に山口光円による鬼室集斯を顕彰する 「鬼室神社参詣運動」 があったとするものがありました >>558。 根拠は不明ですが、 日朝協会関連の何らかの原資料に基づくものと思われます。
[560] 日朝協会は、 に設立された、 親朝鮮民主主義人民共和国の共産主義系の日本人の政治団体でした。 この時期から鬼室神社が朝鮮人や朝鮮文化と結び付けられて語られるようになりました。
[1264] 、 大日本帝国朝鮮生まれで大日本帝国内地に進学、就職し、 大東亜戦争の終戦後は日本国内で政治活動や朝鮮史研究を行った在日韓国人の金正柱は、 日本語の書籍 韓来文化の後栄 を出版しました。 鬼室集斯と墓碑に言及していました >>1267。
[698] 、 日本史研究者今井啓一は、 論文で墓碑および鬼室王女碑に言及しました >>697。
[114] 、 日本古代人名辞典は、 大日本金石史 の墓碑銘文 (>>685) を引いて紹介しました。 >>90
[115]
、
昭和時代の日本国滋賀県の美術研究者影山春樹
(当時公務員、後に帝塚山大学教授, 滋賀県文化財保護協会理事)
は、
近江の金石文資料稿本 >>116
(謄写版)
で
「
[182] 、 日本国滋賀県の仏教美術研究者宇野茂樹は、 様式からずっと後世に作られたもの >>183、 石造美術研究の立場から近世のものとみられる >>225 との見解を示しました。
[180] 、 仏教考古学研究者石村喜英は、 字体からも碑形からも偽作と見られているとし、 奈良時代末期頃に庶孫の美成が作ったものかと推測しました。 >>179
[638] 、 日本国滋賀県の郷土史家の満田良順は、 鬼室集斯の墓の偽作について との論文を発表しました 民俗文化 一三七号, 。
[228] 、 日本史研究者の岡田精司は、 自治体史中で昭和時代後期の胡口靖夫 (>>752) の説に言及しました。 平安時代後期を遡らないという上限には賛同しつつも、
[829] 作家の司馬遼太郎は、 に大韓民国を訪問し、 からにかけて雑誌連載し、 紀行街道をゆくの第2巻韓のくに紀行として出版しました。 >>827
[830] 本書の最後、 >>1255 には、 当地を訪問しました。 >>827, >>20, >>969 (一部引用), >>1017, >>1255
[956] 、 本作品を原作にしたテレビ番組 NHKスペシャル 街道をゆく 第1シリーズ 第1回 湖西のみち・韓のくに紀行 が NHK で放送されました >>954。 、映像商品として発売されました。 鬼室神社が大きく取り上げられて、 以後参拝者が増加したとされます >>949。
[563] 有名作家の司馬遼太郎の作品で紹介され、 雑誌、単行本、 NHKテレビ、映像商品と多媒体で展開されたことで、 鬼室神社は一躍有名になりました。
[657] その反響の大きさに、 日野町の人々が次第に鬼室神社を観光資源として扱い始めたのも、 自然な成り行きといえます。
[831] 本書原作は 「この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいない」 >>1250 と断定する他、 「江戸時代中期に江戸の儒者がここを訪れ、神殿を形どった石祠は儒礼による墳墓であると断定した」 旨の記載がある >>20 ようです。 いずれも根拠は不明で、また石祠は明治時代に初めて作られたものですから、 江戸時代の儒者はタイムワープ出来たのかもしれません。
[751] これらからわかるように本書は歴史研究者による考証を踏まえたものではなく、 司馬遼太郎の個人的な見解を書き連ねたものに過ぎなかったようです。 しかし司馬遼太郎が描いた古代の蒲生の歴史像は次第に既成事実化されていきました。
[753] 、 大日本帝国朝鮮生まれでに来日した在日韓国人の朝鮮思想史研究者姜在彦は、 著書で墓碑および神社を紹介しました。 明治政府に対して批判的な論調のなかで、 遠藤宗義の鬼室集斯墳墓考をもとに、 江戸幕府と明治政府に放置された百済人の墓が、 地元の人々の長年の想いがようやく実って祭神と認められた、 とのストーリーを描いていました。 >>58
[754] 姜在彦自身も執筆以前に現地を訪問し辻久太郎家文書を閲覧したようです。 >>58
[734] 、 姜在彦の著書に 鬼室神社探訪記-古代日本と朝鮮の一断面 が収録されました。同内容でしょうか。 >>733
[755] 、 大日本帝国朝鮮出身で幼少期に内地に渡りその後の大半を日本で過ごした在日朝鮮人の朝鮮文学作家金達寿は、 著書で本墓碑と神社を紹介しました。 >>57
[756] 金達寿自身も執筆以前に現地を訪問し辻久太郎家文書を閲覧したようです。 >>57
[636] 、 昭和時代の文学研究者で大学教授の斎藤正二は、 伴信友の説 (>>47) を引用して鬼室集斯墓碑を紹介しました >>635。
[752] 昭和時代後期から平成時代の歴史研究者の胡口靖夫は、 墓碑をはじめ鬼室氏の歴史を研究しました。 本墓碑の研究史の中で最も広く深く検討したのが胡口靖夫でした。
[465]
、
胡口靖夫は、
[466] 、 胡口靖夫は、 論文鬼室集斯墓碑をめぐって >>90 を公表しました。
[796] 、 胡口靖夫は、 日野町町民会館の記念行事で鬼室集斯墓碑について講演しました。 >>795
[1186] 、 胡口靖夫は、 その後の研究の進展を踏まえて墓碑の調査を再開しました (>>1216, >>243, >>130, >>137)。 (それまで約15年間記録がなく、 胡口靖夫による墓碑の研究は進んでいなかったと推測されます。)
[1271] 、 胡口靖夫は、 滋賀県の公共の団体 (本稿執筆時点で公益財団法人びわ湖芸術文化財団、 元公益財団法人滋賀県文化振興事業団。 当時の法人名不明。) の機関誌で墓碑について寄稿しました。 >>241
[61] 平成8(1996)年、 胡口靖夫は、 発表済の論文に新稿を加えて書籍化しました >>60。
[467]
鬼室集斯墓碑再考I
と
鬼室集斯墓碑再考II
は「
このうち
鬼室集斯墓碑再考I
には章末に
「
[468]
「
[469] 鬼室集斯墓碑再考II にはこのような推測ができる情報が含まれません。 文章が 鬼室集斯墓碑再考I を承けた形になっているので、 I、II の順に執筆されたのでしょうか。
[1272] 、 日本の総合研究大学院大学は、 本書と同内容とみられる博士論文により、 胡口靖夫に博士号を授与しました。 >>66
[1098] 胡口靖夫は昭和時代時点で、 朱鳥時代真作説が成り立たないとしながらも、 偽作であっても年代を決定し墓碑制作の背景を探ることの意義を訴え、 実物や現存資料を調査しました。
[2119] 銘文について、
... の4つの不審点を指摘しました。このうち朱鳥3年の表記はあり得なくもない、 死亡の文字と庶孫は他の解釈も考えられなくもないが、 干支年の表記法が決定的となり、他の疑問点も傍証となって、 死去当時のものとは言えないと結論づけました。 >>90
[201] なお、 本書を引いた平成時代のブログ記事やウィキペディア記事には、 このうち朱鳥3年の問題に言及していないこと、 死亡の文字と庶孫について鬼室集斯の身分を前提に検討した部分を省略していること、 >>2, >>2118, >>2122 という問題があります。
[202] 論旨が不明瞭になることを嫌って省略して引用したのでしょうが、 ウェブで得られる情報だけでは、 論拠が不十分にみえてしまいます。 ここに記して注意を促す次第です。
[203] 更に、墓碑造立の年代を主として
... を根拠に挙げ、また傍証として
... ということを挙げて、平安時代後期から鎌倉時代後期の
「
[218] そして、
小野の辻氏が鬼室集斯の後裔を称する
[317] 平成時代初期、 胡口靖夫は、 筆跡心理学研究者の黒田正典の助言の元で碑文の字形を検討しました。 >>316
[356] 江戸時代偽作説に対し、 その根拠となる文字なしとの記録が正確には文字があるが読めないの意であること (>>250)、 「冖」の字形が江戸時代の当地域に見られないこと (>>345) を指摘し、 成立し得ないとしました。 >>316
[357]
加えて、
「冖」の字形の検討から、
この字形が「
[358]
胡口靖夫の昭和時代の論文での説は造立を平安時代後期から鎌倉時代後期とするものでした
(>>199) が、このうち下限には疑問が持たれていました (>>228, >>229)。
今次の検討で下限が江戸時代まで下がらないと主張しましたが、
「
[65] そして、
墓碑の造立年代についての前稿の諸説を墨守する意図は毛頭ない。まだ、調査が不充分であるので本書では省略し たが、民間信仰や石造美術の面からの考察をも加味すると、墓碑は中世、なかんずく室町時代に造立されたと考えた ほうがよいのではないか、という試案も著者にはある。
... と明確な根拠を示さないながらも、実質的に昭和時代の論文での説を撤回しました。 >>316, >>2
[1187] 胡口靖夫の平成時代の著書の新稿では、 江戸時代偽作説も新史料を発掘して否定しました。 (>>308, >>64, >>280, >>783, >>68) 江戸時代偽作説の否定を重視したのは、 当時地元の郷土史家らが江戸時代偽作説を採っていた (>>416) ためでした。
[359] 結局この平成時代の著書を通して胡口靖夫が根拠を添えて明確に主張したのは、 江戸時代の偽作ではないということだけでした。 江戸時代より前のいつ作られたかの問題は振り出しに戻されました。 ここまで諸分野の知見を組み合わせて精力的に検討してきたにも関わらず、 最後に投げ槍なまとめで茶を濁すに至ったのは、何か事情があったのでしょうか。 昭和時代の検討と平成時代の検討から導かれる自然な結論は 「平安時代後期から江戸時代より前」 でしょう。不充分で省略したという考察を加味すると、 それは更に室町時代に絞られます。 問題は複雑にはなっていません。
[1211]
そして本書の出版後、
胡口靖夫の鬼室集斯墓碑研究はストップしたようです。
胡口靖夫はウズベキスタンに移住しました。
[230]
、
平成時代の仏教研究者中井真孝は、
自治体史中で胡口靖夫の昭和時代の説を引いて、
「
[1283] また、現存の墓碑が当時のものではなく「再造」である可能性を指摘し、 鬼室集斯が戊子年に没したこと、 庶孫の美成が造立したことは事実と認めざるを得ないのではないかとしました >>227。
[1275] 、 胡口靖夫は日本国滋賀県で開催された人魚サミットで、 コーディネーターを務めて全国から集まった関係者と 「人魚伝説を生かしたまちおこし」 を語りました。 >>1274 胡口靖夫に人魚伝説自体の研究は見当たりませんが、 鬼室集斯墓碑研究を通じて構築された人脈で依頼されたのでしょう。
[1278] 胡口靖夫は、 平成時代後期時点で毎年日野町にふるさと納税していました >>1279。 、 の日野町の広報誌に寄附者として掲載されていました >>1276, >>1277。
[1280] 、 日本国滋賀県蒲生郡日野町寺尻野田道遺跡の案内板設置除幕式が開催されました。 胡口靖夫も参加しました。 案内板設置は蒲生野を守る会の植田慶一が主導し、 胡口靖夫が寄附して実現しました。 日野町別所在住の日野町議会議員齋藤光弘は、 に議会で大陸文化の影響のある本遺跡や鬼室神社を 「日野の観光の名所」 として「あわせて発信」 することを求めました。 >>1279
[1081] 、 小野を含む日野町旧東桜谷村地域の歴史をまとめた 東櫻谷志 が地元有志らによって編纂されました。 >>76
[416] 本書には鬼室集斯や人魚塚等も収録されていました。 特に歴史編第1章第1節の中には 鬼室集斯をめぐる謎 と題した一節がありました >>1080。 本書収録の他の事項と比べてもかなり詳細に検討し、 鬼室集斯の墓であるのか疑わしいと説明していました >>1080。
[1083] 胡口靖夫 (>>752) は平成時代の自著で、 鬼室集斯をめぐる謎 という題名の瀬川欣一 (>>1281) の論文が 東櫻谷志 に収録されているかのような書き方で、 特に何の注記もしないで引いていました >>226。
[1084] 平成時代の日永伊久男は、 報告書で 東櫻谷志 とだけ書いて引いていました >>2124。
[1085] 前者の書き方だと論文集のような体裁の書籍に収録された独立した論文のように誤認してしまいますが、 実態は地域史を通史的に解説した一連の文章の章節の節よりも小さな見出しの付いた項1つに過ぎません。 しばしば小学校で使われる地域史の副教材が分厚くなったようなイメージでしょうか。
[1088] 本来それだけで完結した独立の文章ではなく、 前後の項との関連が分かりにくくなります。 実際本書は別の項でも鬼室集斯墓碑に関係する話題を収録していました。
[1086] 本書あとがきには執筆の分担が一応記載されており、 当該部分を瀬川欣一が書いたことはほぼ間違いないと思われますが、 論文集や章ごとに分担執筆した書籍のように個々に著者が明記されたものではなく、 全体として編集委員会の編著という体裁が取られています。
... を踏まえ、現在まではっきり読み取れる碑文が、 当時読み取れなかったのは不審であると指摘しました。そして、 西生懐忠を中心とする仁正寺藩関係者ら藩庁に墓碑を移動させた際に工作があったと結論づけました >>1080. >>226, >>224。
[428] 東桜谷志はまた、 近江日野町志も西生懐忠の仕事全般に疑問を呈し、 特に藩庁に移動して明瞭になった不審を指摘している点を引用し >>1080、 偽造説を補強しました。
[68] 胡口靖夫は、 著書で自身の旧論文の後の動きとして、 東櫻谷志から瀬川欣一 (>>1281) の偽作説を引き、 岡田精司の偽作説 (>>228) を発展させたもの (だが実は根幹では近江日野町志と同じ) と紹介しました >>224。
[69] ところが東櫻谷志の該当部分には岡田精司説にも、 胡口靖夫説にも言及がありません。
[1082] 約10年かかったという東桜谷志の編纂作業の最終過程、 出版の1年前の岡田精司説が東桜谷志説の枝葉ではなく根幹に影響を与えられたものか、 疑問があります。 岡田精司説を発展させたというのは、 そう書かれているということではなく、 胡口靖夫がそう理解したということに過ぎないのでしょうか。
[1273] 近江日野町志と同じというのも乱暴なまとめに思えます (>>248)。
[1079] そうしたものを自説への反論と一緒くたにし、 自説への反論の1つと誤読を誘うような書かれ方なのも気になります。 異説を否定し自説の正当性を主張しようとする余りに、 先行研究を要約して紹介する丁寧さを欠いてしまっているように思われます。
[1078] 東桜谷志の巻頭には、当時の滋賀県知事の序文があって、 人魚塚や鬼室集斯で有名だ、とこの地域の歴史の長さを讃えていました >>76 p.1。 それに続く編集委員長の序文には、 人魚物語や古墳があって歴史が長い、 と紹介されていて >>76 p.3、 鬼室集斯墓碑は触れられていませんでした。 ここに地域外の人々のイメージと当事者の認識との若干のずれが感じられます。
[1281]
本書は東桜谷地域の代表者らが集まり、
日野町 (の東桜谷地域外) の郷土史家の瀬川欣一の監修のもと編纂したものでした。
鬼室集斯墓碑を含む古代史部分は瀬川欣一が執筆を担当していました。
[1282] 住民達にとって、 地域の神社に祀られている墓が偽造といわれては、 決して良い気はしなかったはずです。 にも関わらず本書はばっさり偽作と切り捨てていました。 瀬川欣一が監修者であり分担執筆であるとは言っても、 編集委員一同の納得のいかない、受け入れがたい内容だったなら、 編纂作業が瓦解することもあり得たのではないでしょうか。 それでも本書が刊行されたということは、 地元の住民達が学術研究に対して冷静で理性的な姿勢を持っていたことの現れといえます。 本書が信仰と歴史は分けて考えるべきと語っている (>>1092) のは、その妥協点だったのでしょう。
[979] 瀬川欣一は小冊子 日韓友好親善のための鬼室集斯小伝 を出版しました。 >>978, >>965
[980] 時期は不明ですが、新日野新聞社の創刊40周年記念とされます >>965。 また時点で本書は入手可能でした >>978。 20世紀の末頃と見てよさそうです。
[981] 本書は司馬江漢の図や坂本林平の証言を根拠に、 墓碑を偽造としていました。 昭和時代の東桜谷志の主張 (>>229) と同趣旨と思われます。
[19] 歴史と信仰を分ける考え方は昭和時代 (>>1282) から変わっていませんでしたが、 平成時代に入って姉妹都市交流が始まった (>>787) ことを承けて信仰と国際交流を結び付ける新たな理論へと発展していました (>>982)。
[787] >>949、 日本国滋賀県蒲生郡日野町は、 大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面と姉妹都市提携しました。 この姉妹都市提携は、 鬼室集斯の父とされる鬼室福信を祀る社が恩山面に所在することによるものでした。 >>2124
[788] 時点で、 使節団が数次交換され、 鬼室集斯墓碑は国際交流に欠かすことができないものになったとされました。 >>2124
[53] 鬼室神社は、姉妹都市提携を契機に観光資源化されました >>2114, >>2124, >>2129。 その後 (時期不明)、 境内および周辺道路に多数の韓国語ハングルの案内看板等が設置されました (>>823, >>824, >>878)。
[233] 平成時代初期、 日野町教育委員会は墓碑の基礎資料を収集し発表しました。 これは、 姉妹都市提携と、 胡口靖夫らにより墓碑に注目が集まったことが契機といわれます。 >>224
[789] 、 日永伊久男は、 財団法人滋賀県文化財保護協会の機関誌で調査結果を 鬼室集斯墓碑について として報告しました。 姉妹都市提携の発端となった墓碑の公的な基礎資料を日野町が有していないため、 今後の交流の支障となる可能性があり、実態を把握することにしたのだといいます。 >>2124
[790] これが日野町教育委員会の調査と同じものと思われますが、 他に詳細な報告書があるのかどうかは不明です。 日永伊久男は日野町教育委員会や日野町文化財資料室に所属していた地方公務員の歴史研究者 (文化財行政担当者) と思われますが、 この当時の所属は不明です。 財団法人滋賀県文化財保護協会は発掘調査等を行う団体で、 滋賀県 (行政) と密接に関わりを持つ組織と思われます。 本稿には謝辞として、 財団法人滋賀県文化財保護協会調査整理課長の兼康保明が全般的に指導と助言をしたと書かれていました >>2124。
[791] 度の日永伊久男の調査では、 写真撮影、 拓本作成、 実測、 石材鑑定が行われました。 宇野光一と西国弘が現地に赴き協力しました。 当地の植田慶一夫妻と増田喜一郎も協力しました。 >>2124
[821]
日永伊久男は、報告で
「
[932] なおこの財団法人滋賀県文化財保護協会は、 時点で、 鬼室神社の由来に関する問い合わせに対し、 不明であると即答したようです >>930。 朝に出勤した直後にいち早く回答したらしき担当者の怠慢でなければ、 当時既にこの種の照会に答えられるような研究者が既に在籍していなかったのでしょう。
[1298]
ただ不思議なのは、
付の新聞に
「
[1089] 、 大日本帝国朝鮮生まれの大韓民国人朝鮮文化研究者任東権の鬼室神社についての韓国語の著書が、 大韓民国で出版されました。 >>1027
[732] 、 同書が日本語に翻訳されて日本国で出版されました。 >>731
[994] 当時鬼室神社の例祭には、 大阪在住の在日朝鮮人が多数訪れるようになっていました。 >>986 (>>731 p.222)
[1025]
本書には苧原鉄男,
森下太郎次,
植田慶一,
辻久一郎,
塚本義一らの名前が並んでいました。
[786] 、 新聞記事等を編集した 月刊文化財発掘出土情報 で現地の動きが紹介されました。 >>56
[315] 、 日本の国立歴史民俗博物館の阿部義平を団長とする総合的な研究調査団が、 墓碑の現地現物調査を実施しました。 >>224 その成果は不明です。
[1188] 、 滋賀県韓国商工会議所が記念碑を設置しました (>>844)。
[639] 滋賀県の高校教員藤野宗典は、 鬼室神社―鬼室集斯墓碑をめぐる謎 を発表しました (歴史研究, )。
[918] 当時の日野町を紹介する Webサイトでは、 鬼室集斯と鬼室神社が紹介されました。 >>917
[922] このWebサイトは、 度から度に日本政府の農林水産省むらづくり対策室が実施した美しいむらづくり対策事業の美しいむらづくりモデル地区に選ばれた >>923 日本国滋賀県日野町が、 同事業の補助で製作したものでした >>921。
[924] 本サイトの初公開時期は不明ですが、 Internet Archive に所蔵されるものはが最古です。 Webサイトのトップページの題名は 滋賀県日野町 で、題字が 「ようこそ近江日野商人と花のまち 滋賀県日野町の ホームページへ」 とありました。 連絡先に 「日野町役場産業経済課または日野観光協会」 が併記されていました。 >>923 当時のこのサイトは自治体の日野町と日野観光協会が共同運営していたと思われます (サイト内の一部という形で日野観光協会のページもありました)。 農林水産省のWebサイトも、本サイトを 「日野町HomePage」と紹介していました >>925。
[919] 紹介ページでは、 境内の写真の他に、 なぜか韓国語の説明文 (案内看板のものか?) の画像が掲載されていました。 >>917
[928] このサイトはその後日野観光協会の Webサイトになったようです。 鬼室神社のページは細かな表現が変更されつつ、 その後も存続しました >>927。
[929] 紹介文は更にその後も Webサイトでほとんど同じものが使われていますが、 韓国語の説明画像は削除され、 写真は新たに建設された東屋 (>>1095) のものに差し替えられたようです >>846。
[971] 時点で、 社殿には芳名帳があり、 大日本帝国内地生まれの在日韓国人で朝鮮人関連映画作家呉徳洙の名前がありました >>969。
[833] 、 在日朝鮮人の朝鮮史研究者朴鐘鳴の著書 >>834 で、 当神社と墓碑が紹介されました。
[972] この頃当神社は、 在日韓国人を売りにした掲示板利用者の連載記事で紹介される >>969 など、 朝鮮人が訪れる地として知名度が上昇していたようです。
[837] 、 「日本人と在日コリアンがともに手をたずさえ」云々を目指すと謳う日本国滋賀県大津市の渡来人歴史館は、 「秋の探訪 秋の近江路と渡来人」 というイベントを開催し、 参加者は当地などを巡りました。 >>27
[838] 、 日本国東京都の弁当店の広報紙昴は、 湖東の渡来文化を特集し、墓碑の写真や拓本を大きく掲載しました。 >>36 本紙は弁当店で購入者に配布されていたようです。 このテーマを選んだ理由は不明ですが、 編集長を務めていた書家の岡本光平はかつて京都に在住し、 古美術等と共に考古学を学び金石文を研究した経歴があり、 その方面からのつながりかもしれません。
鬼室集斯参拝頌
望郷百済
波濤千里
淡海渡来
鬼神感和
[1095] >>841、 「日野町・恩山面姉妹都市交流20周年記念事業」により >>1101, >>29, >>884、 神社横の広場「国際交流広場」 と東屋「集斯亭」 が整備されました (>>937)。
[739] 集斯亭は、 「曲線で構成された屋根や扇状の垂木、色鮮やかな丹青(たんちょん)など韓国の古式建築様式を模して」 いるのだといいます。 >>884 (現地案内看板), >>1101 にも同様の解説
[1163] この事業は日野町国際親善協会が実施したようです >>1101。 この団体は姉妹都市締結の直前のに設立され >>1164、 大韓民国との交流や韓国語講座などを日野町で開催しているようです。 事務局が日野町役場内に置かれ、 Webサイトが日野町公式サイト内に統合されている、 実質的に日野町の下部組織として機能している団体である模様です。
[1011]
姉妹都市の締結から当時まで交流に寄与した苧原哲夫が発案し高額の寄附をし、
またその他からも寄付を集めて整備が実施されたといいます。
>>884
(正しくは苧原鉄男と思われます。)
[1184] 寄付は地元住民等から集めたとされます >>1164 が、 東屋に書かれた寄付者名を見ると関東の人が案外多い >>79 といわれています。
[1183] 竣工の日は記念行事が開催されました >>1101。
[1162] 一連の行事には、 大韓民国から恩山面使節団が招待されました。 使節団はからまで日本に滞在し、 小野の他に、 石塔寺、 綿向神社、 日野町役場、 京都市内を訪問しました。 >>1101
[17] 大韓民国 恩山面 | 日野町ホームページ, http://www.town.shiga-hino.lg.jp/contents_detail.php?frmId=2103
[1033] 日韓関係悪化も中学生が韓国訪問「続けたい」鬼室集斯の縁, , http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1565774659/
[958] この頃パンフレットが配布されていました。 時点のもの >>949 と時点のものが同じか不明ですが、 文字起こしされたテキストと片面写真 >>909 がほぼ同文なので、全体的に同じだった可能性が高そうです。
[959] 掲載された墓碑は、 正面から撮られた写真でした。 文字らしきものが書かれていることがわかりますが、 何と書かれているかは知っていないと読むのが難しく、 知っていても完全にはわかりません。
[2130]
銘文が全文掲載されていました。
紀年は、
「
[960] 歴史学的な知識がわずかでもあれば、明らかに間違いだと気づく稚拙な内容です。 専門家の監修はおろか、 神社の歴史に関心を持つ人が制作に関わったかすら疑わしいと言わざるを得ません。
[866] から「5年以上前」、 NHK BS の歴史番組で墓碑が紹介されました。 >>32
[741] 、 朝鮮関連ノンフィクション作家で東京生まれの在日韓国人2世の康熙奉は、 大韓民国関連記事を扱う日本語の Webサイト ロコレ で、 当神社の訪問記事を発表しました。 「鬼室集斯はその職務を全うし、晩年は近江の小野(この)に住んだ。688年に没し、彼を慕う人々によって近江の地に埋葬された。」 と書きましたが、その根拠は不明です。 現地の石祠を見ましたが >>742、墓碑は実見しませんでした。 >>740
[950] 大韓民国との交流事業が活発化するのと反比例するかのように、 平成時代になって墓碑は学術研究の場にほとんど現れなくなりました。
[942] 、 近江・若狭・越前 寺院神社大事典 は当神社を紹介しました。 司馬江漢の 江漢西遊日記 が銘文なしと書いたことを紹介して、 西生懐忠らの偽作とする 日野町志 の説に従いました。 >>2127
[948] の 近江日野の歴史 第1巻は、 「西生懐忠が近江日野の小野に伝承地を定め、彼が偽作した碑文と推定」 しました。 >>947
[1290] 日本史研究者の鈴木靖民は日本大百科全書(ニッポニカ)で、 鬼室神社に「鬼室集斯墓」「朱鳥三年(戊子)十一月(歿)」の銘文の墓があるが、 真偽には議論があるとしました。 生没年は不詳としました。 >>1287
[1291] 平凡社の百科事典マイペディアは、 鬼室神社があるとしました。 >>1287 それが墓であるとは書いていません。
[1292] 平凡社の世界大百科事典 第2版は、 「滋賀県蒲生郡日野町小野の西宮境内に鬼室集斯の墓なるものがあるが確かではない」 としました。 生没年は不詳としました。 >>1287 この事典は鬼室神社という社名すら認めていないのでしょうかw
[745] 、 大韓民国の古代史研究者で、 大韓民国で修士号取得後日本で博士号を取得した崔恩永は、 胡口靖夫の論文を引いて、 真偽には議論があるとしました >>743。
[1289] ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典は、 小野に墓があって神社になっていると書きました。 >>1287
[1288] 日本史研究者の清田善樹は朝日日本歴史人物事典で、 胡口靖夫の昭和時代の論文を引きながらも、 鬼室神社に墓があると (だけ) 書きました。 生没年は不詳としました。 >>1287 引用しているだけまだマシですが、 死後すぐに作られた墓としか読めない説明でした。
[1293] 大韓民国との友好関係を強調した日野町の観光戦略は一定の成果を挙げたようで、 平成時代中期以後の Web や SNS には、鬼室集斯が小野の地で過ごし、葬られたと信じる人達が散見されます。 既成事実化は着々と信仰しているようです.
[861] 平成時代のブログ 「これが本物かどうか長い間論争がありましたが、ほぼ間違いありません。。」 「論争の結果、鎌倉時代であろうと。鬼室の子孫たちが後に作りました。これは飛鳥時代から鎌倉時代まで、彼らが先祖の功績を伝えてきたことを意味します。」 >>29
[1071] File:Kwisil Shrine2.jpg - Wikimedia Commons, , https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kwisil_Shrine2.jpg
[1076] 【しが】農村の魅力発信!:鬼室神社, https://shigamiryoku.shiga-saku.net/e685191.html
[1075] おはら野国‐大統領はハナさんはTwitterを使っています 「滋賀・日野にある鬼室神社に行って来た2012.8.14。神社の写真はググッてもらうとして、鳥居から小野(この)集落を望んだ。昔、半島からこの地に移り住んだ人たちが見た風景と変わらないだろう(違うのは田が圃場整備されたことと電柱か)里山 http://t.co/oJkJO7lH」 / Twitter, 午後9:29 · 2012年8月17日 , https://twitter.com/owaranoT/status/236439524182462465
[1073] JKDogmanさんはTwitterを使っています 「石塔寺の住職に伺った渡来人由来の場所、日野町にある鬼室神社 귀실신사を訪問。今度、扶余に行った時には福信将軍 귀실복신장군 をチェックしなくては。 http://t.co/EF1J6GN9Nq」 / Twitter, 午後5:36 · 2013年8月18日 , https://twitter.com/jkdogman/status/369014931179327489
[1072] ナリサワさんはTwitterを使っています 「鬼室神社のご神体が気になる。誰か行った人いるだろうか。八日市インターから15分くらい走った左手に看板出てくるあそこだ。 http://t.co/06UojkpWXW」 / Twitter, 午後10:41 · 2013年12月22日 , https://twitter.com/narusawasan/status/414752530443141120
[1070] あんのすけさんはTwitterを使っています 「地元の鬼室神社にて まさかこんなとこに鬼室が あるとは・・・ てか普通の人興味ない(¯▽¯) たぶん明日香時代だったような・・・ http://t.co/hwIiyqP2jh」 / Twitter, 午後5:05 · 2014年10月26日 , https://twitter.com/annosuke1980/status/526283447166189568
[1044] 普通のNYAN 國場 結いまーる〈チーム沖縄〉さんはTwitterを使っています 「滋賀県 鬼室神社 7世紀の百済からの渡来人 鬼室集斯の墓碑があることから 韓国との繋がりがある… とは言え日本の神社で ここまでするのか http://t.co/AfRbh7zdTD」 / Twitter, 午後4:30 · 2014年12月24日 , https://twitter.com/MARINA89583987/status/547655441044357120
[1069] あんのすけさんはTwitterを使っています 「鎌掛小出て日野城寄って鬼室神社寄ってで風きつくて鎌掛小でしか撮れなかったorzどうせ人おらんし近くだし又娘と撮りにこよう(´ω`) http://t.co/jwiFpjdBaQ」 / Twitter, 午後4:21 · 2015年5月10日 , https://twitter.com/annosuke1980/status/597300318737600512
[1066] うまはにわさんはTwitterを使っています 「今、鬼室神社に来ています。韓国式テラスがステキでした http://t.co/aVms5ygHt4」 / Twitter, 午後2:29 · 2015年10月7日 , https://twitter.com/q8AaOUq1YB5Tc12/status/651630434875342848
[1064] 木梨よこみちさんはTwitterを使っています 「夜の鬼室神社。 明るいとき再度いく https://t.co/ecNmTzK2wO」 / Twitter, 午後11:37 · 2017年1月4日 , https://twitter.com/takotokaze/status/816654773789147136
[1041] 風来無頼人さんはTwitterを使っています 「@akhila7 わが故郷。大津京の天智天皇御代7世紀に、初代学識頭(文科大臣)に半島から鬼室集斯(きしつしゅうし)氏を招く。茅屋から間近の湖東市日野町小野の彼を祀る鬼室神社は、今も学業の神さま。半島国家と大和の民は永らくの深遠な関係。成り上がり米国とは違い、大事にせにゃ。”万歳”とはおめでたい。」 / Twitter, 午後5:32 · 2017年9月23日 , https://twitter.com/huraiburaijin/status/911508471345901568
[1037] 高橋御山人@邪神大神宮さんはTwitterを使っています 「近江朝時代に百済より渡来した鬼室集斯を祀る鬼室神社(滋賀県日野町) #神社 #渡来人 #百済 #滋賀 https://t.co/WA5ThQY7TS」 / Twitter, 午後8:52 · 2018年11月23日 , https://twitter.com/jyashinnet/status/1065936007307026432
[1036] みっつたぬきさんはTwitterを使っています 「鬼室神社 鬼室集斯は百済の帰化人で日本書記に書かれている人物で700人余りともに近江蒲生郡に移住したとされています。司馬遼太郎の街道を行くにも紹介されていたような気がします。昔の半島のシトは先進技術を伝え我が國に貢献していたのに今はあかんですね! https://t.co/rfeCWmVWVm」 / Twitter, 午後5:58 · 2019年1月5日 , https://twitter.com/mittutanuki/status/1081475008076034048
[1061] タリスカーさんはTwitterを使っています 「鬼室神社から竜王山を望む https://t.co/74labKd8rp」 / Twitter, 午後0:44 · 2019年2月3日 , https://twitter.com/talisker12/status/1091905252964556800
[1034] 真庭ふしぎ@風来人さんはTwitterを使っています 「鬼室神社。百済復興の抵抗運動を行っていた百済王族、鬼室福信の子の鬼室集斯を祀る神社である。鬼室一族は百済滅亡後に日本に亡命した。 https://t.co/fpnUvXXwFp」 / Twitter, 午後8:54 · 2019年2月16日 , https://twitter.com/fusigi_plants/status/1096739505338441728
[1053] 矢島直樹さんはTwitterを使っています 「滋賀県日野町の鬼室神社。びっくりするくらい、小さかった。渡来してきた人がこんな田舎に縁があるとはね! https://t.co/suhOCJ7gfm」 / Twitter, 午後8:07 · 2019年8月31日 , https://twitter.com/donato8967/status/1167755746253033472
[1051] なぐさんはTwitterを使っています 「前から気になってた神社。案内板にハングル文字が書かれてるから「なんでやろ?」と思ってた。渡来人由来なんやね。 #鬼室神社 #きしつじんじゃ https://t.co/g3nRp0t9n2」 / Twitter, 午後3:18 · 2020年8月12日 , https://twitter.com/nag1967nag/status/1293431604673572865
[1050] 滋賀県 鬼室神社 韓国の神社 - 寺社仏閣の歴史と観光 政治・経済・文学 ・ 健康, http://tabikoramu.muragon.com/entry/590.html
[1049] makikoさんはTwitterを使っています 「鬼室神社☺️ 標識が出てたので、行ってみた(笑) あれ・・・🤣 調べると歴史のある神社でした😊 境内に咲いてた木槿が綺麗でした💕超久しぶりに見たアマガエルに ひとり興奮してしまった😅 #鬼室神社 #アマガエル https://t.co/kEqbaVHECZ」 / Twitter, 午前6:58 · 2020年9月12日 , https://twitter.com/makiko97497208/status/1304539866735104000
[1048] プルプルけいこさんはTwitterを使っています 「鬼室神社〜!! https://t.co/c6m46kEtjD」 / Twitter, 午後4:01 · 2020年10月25日 , https://twitter.com/pomo1971094/status/1320259235557429249
[1047] きりんこさんはTwitterを使っています 「鬼室神社 https://t.co/Q5dpWnnGvX」 / Twitter, 午後6:22 · 2020年10月25日 , https://twitter.com/loJC73gw63tGKeE/status/1320294731297873920
[1294] もちろん「公式」の説明を鵜呑みにする人ばかりではありません。 疑問を持って調査した結果をブログにまとめた人達もいました >>915, >>986, >>23。
[1295] ウィキペディアにも墓碑の不審な点が記載されました >>2114, >>2102。 ただし鬼室集斯の没年を「?」付きながらも墓碑の日付を採用していました >>2102。
[859] その他、 墓碑は11世紀以降 >>25, 中世以降 >>841, はるか後年 >>22 に鬼室集斯の子孫が作ったもの >>25, >>841 など、出典は不明ながら、墓碑の不審な点に触れつつ紹介した記事 >>32 もありました。
[1042] とうすけさんはTwitterを使っています 「石洞には鬼室集斯の名が刻まれた石柱が祀られている。真贋のほどは不明だが、偽物の可能性が高いそうな。 https://t.co/OQL42bT4yM」 / Twitter, 午後4:32 · 2016年8月28日 , https://twitter.com/ryosangata12/status/769799777626185729
[1035] 逆サイドアタックさんはTwitterを使っています 「こちらも司馬遼太郎の街道をゆくに出てくる鬼室神社。 百済からの亡命者・鬼室集斯の墓がある。伝説っぽいらしいけど。 https://t.co/92sbMeipVy」 / Twitter, 午後11:25 · 2019年1月6日 , https://twitter.com/torpedlosm0306k/status/1081919761217253377
[1074] 古社巡拝: ―私のこころの神々― | 上田 正昭 |本 | 通販 | Amazon, https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4311203489/wakaba1-22/
[1038] 虎子(昼顔)さんはTwitterを使っています 「@pic_naga @pomo1971094 蒲生の『八日市史』によると鬼室神社の近隣にある複数の山神社の祭で性行為の擬似神事が奉納されてたとか。山神自体は日本全土に分布してるんですが山神祭は近江しかも百済人が移住した土地に集中してて、祭日や祭場の様式が韓国のものと似てるらしい。集斯はいったい何を伝えたのか……」 / Twitter, 午後8:46 · 2018年10月9日 , https://twitter.com/Calystegia660/status/1049627125379031040
[1055] しがKM310さんはTwitterを使っています 「日野町防災行政無線 鬼室神社 局 https://t.co/GeWtclcEBT」 / Twitter, 午前9:10 · 2019年2月24日 , https://twitter.com/uruma0726/status/1099461544692244480
[1052] しがKM310さんはTwitterを使っています 「日野町鬼室神社の子局 修理完了したのだろうか #日野町防災行政無線 #防災資料KM310 https://t.co/zPThUkIsTF」 / Twitter, 午後2:28 · 2019年12月4日 , https://twitter.com/uruma0726/status/1202097342733791233
[1046] 鬼室神社(蒲生郡 日野町) - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=pgSLIWJ6_6k
[1045] kyon!!さんはTwitterを使っています 「鬼室神社に来た。風が強い。 https://t.co/5l49CRLnK5」 / Twitter, 午前11:21 · 2021年3月27日 , https://twitter.com/kyon_season2/status/1375634030876520452
[1305] 肯定説と違って否定説は明言されるとは限りません。 明白な偽作であるとか、 既に偽作と決着しているという認識の研究者は、 知っていてもわざわざ触れないことがあります。
[112] 寧楽遺文 (竹内理三, 昭和時代) や 日本の古代金石文 (岡崎敬, ) は、 本墓碑を収録していませんでした。 否定的な見解を暗に示したものと解されています。 >>90
[1306] しかしそれは状況証拠からの推測でしかありません。 知っていて無視したのか、 知らなくて書けなかったのか、 第三者にはわかりません。
[1307] 敢えて触れる価値すら無いと判断したのかもしれませんが、 現に墓碑が存在し、それを真作と信じている人が一定数存在しているにも関わらず、 それに言及しないのは悪手でした。 偽作説を知らない人は、 収録から漏れた新史料と誤解しかねません。
[1308]
「朱鳥三年」と書かれた本墓碑は、
仮に真作だとすれば日本の元号史の研究にとっても第一級の史料です。
伴信友をはじめ近世から近代の研究者は本墓碑を引いて古代の元号を議論していました。
[1309] しかし現代の元号研究の論文や書籍では本墓碑に言及されることはほとんどありません。 偽作説に従い無視しているのか、 偽作説が通説化して紹介されなくなったため存在を把握していないのかは定かではありません。
[1310] そこにつけ込んで専門の研究者が隠蔽する真実の歴史が云々といった陰謀論が蔓延る一因にもなっています。
[987] 平成時代以後、 本墓碑について江戸時代に真贋論争があって、 以後長く論争が続いているとの認識が広まっているようです。 例えば平成時代の論文が (胡口靖夫の論文を引いて) 江戸時代から真偽論争があった >>743, ブログ記事が銘文発見後真贋論争が起こった >>986, 長い間真贋論争があった >>29 などと説明していました。 ウィキペディアは (詩序と近江日野町志を引いて) 西生懐忠と坂本林平の真贋論争があった >>2102 としていました。
[1006] 昭和時代後期から平成時代初期にかけて諸説が提示され議論が積み重ねられた様は、 短い期間、狭い世界の出来事だったにせよ、 まさしく「真偽論争」「真贋論争」と表現するに相応しい現象だったと思われます。 果たしてそれは江戸時代にも起こり、近代、現代へと続いてきたものだったのでしょうか。
[1312] 江戸時代の西生懐忠の記録によると、 銘文が解読されるまで 「異説紛々」 でした (>>306)。 その「異説」の詳細まではわかりませんが、 それは銘文が未だ不明な段階の議論ですから、 「真偽論争」 と言うべきものとは思えません。 「真偽論争」 があったというのは銘文解読後だそうですから、 この 「異説紛々」 とは別件です。
[792] 平成時代初期の日永伊久男は、 胡口靖夫の論文と坂本林平の証言を引いて、 「発見当初から真偽論争が展開され」 たとしました。 そして胡口靖夫の論文とそれに対する反応を引いて、 「思山面との国際交流の盛り上がりと前後して、近年になってこの論争が再燃し」 たものと表現しました。 >>2124
[417] 昭和時代後期の東桜谷志は、 文化3年の銘文解読当時から真偽論争が 「激しくくり返され」 たとしました。 >>1080 p.38 本書は坂本林平の証言を引いていましたが、 繰り返された激しい「論争」は説明も引用もされていないので、 他に何を踏まえてそう書いたのかは不明です。
[1313] 「論争」の出典として引用されることが多い、 「論争」に言及した現在知られている最古の文献は、 胡口靖夫のの論文 >>90 でした。
が提出されたことを紹介しました。 >>90
があることを紹介しました。 これらをもって、 江戸時代の「真偽論争」が昭和時代にまで持ち越され、 未だ歴史的評価が定まっていないとしました。 それが研究の背景となる課題であると論文の冒頭で説明されたのでした。 >>90
[118] こう説明されると、 あたかも江戸時代に肯定派と否定派の間で論戦が起こり、 両派とも譲らず長年論争が続いてきた懸案かのように錯覚しそうです。 しかし墓碑の研究史を冷静に振り返ると、 それは少々大げさな表現のように感じられます。
[119] まず江戸時代について、 当時真作と肯定したのは発見者の西生懐忠を除けば、 伴信友のみしか論文には示されていません。 その伴信友の著作も刊行されたのは死後、 幕末か近代に入ってからでした。
[1315] 逆に否定したと示された文献も、 偽作だ、疑わしいなどと書いて簡単に済ませているだけで、 その判断の根拠までは示されていません。 積極的に否定したのは胡口靖夫が当時引用していない坂本林平くらいですが、 坂本林平の著作も刊行されたものではなく、 肯定派に届いたかどうか不明です。
[1316] つまり現在知られている文献で見る限り、 肯定派に反対派が意見し、それに肯定派が反論する、 といった形の議論が交わされた形跡はありません。 論争というよりは、 世を賑わせたが慎重な学者が多かった、 と評する方が適切に思えます。
[120] 胡口靖夫も当時の論文では「
[1320] これらから確実に言えることは、本墓碑は昭和時代当時でも一部では知られている、 という程度ではないでしょうか。 強いて言えば真偽の判断が不明瞭な状況が続いているのであって、 それは確かに江戸時代以来の傾向が継続しており、 改めて検討する価値があるという課題設定は首肯できますが、 「真偽論争」が続いているかのような書き方はいかがなものでしょうか。
[436] 胡口靖夫はその後の平成時代の著書では、 「殊に戦後」は古代史家や地元の郷土史家が江戸時代中期以降の偽造を主張し、 優位説となっていた >>435 と説明していました。真偽が不明なままだったという背景理解はどこへいったのでしょうか。
[121] 実は昭和時代の論文の後の部分では、 より明確に否定した昭和時代の文献を引いていました。 更に言えばこの論文は、 より明確に肯定した、または否定した明治時代や大正時代の文献も引いていました。 それらを整理して列挙するだけで、 江戸時代から昭和時代まで続く「真偽論争」 はより説得力を持って描けたのではないでしょうか。 昭和時代当時の論文では紙幅の制約もあったかもしれませんが、 平成時代の新稿を加えた著書に収録する際に、 研究史を俯瞰するような概説を書くべきではなかったでしょうか。
[181] 研究史を丁寧に眺めれば、 「真偽論争」 の不思議な非対称性も明白になっていたはずです。 すなわち、 昭和時代までの肯定派は先行する肯定派の業績を称えるばかりで、 否定派の主張をほとんど検討 (どころか言及すら) してきませんでした。 一方の否定派は江戸時代偽造説の状況証拠を重視し、 現地や現物に基づく議論をあまり行ってきませんでした。 偽作だとだけでも書けば良い方で、 存在自体を黙殺した文献も少なくなかったと思われます。 江戸時代以来、 両派の間で議論が交わされることなく行き違い続けたのが 「真偽論争」 の真の姿だったようです。
[1321] それが 「真偽論争」 「真贋論争」 といった言葉で雑にまとめられてしまったために、 いつしか本当に激しい論戦が続けられたように誤解され始めたのでしょう。
[388] 平成時代の日野町の人々が書いた説明文には、 あたかも大韓民国が百済の継承国家であるかのように書かれていました。
[386]
昭和時代後期の東櫻谷志には、
「
[920] 頃の Webサイト (>>918) 掲載の紹介文では、 「現在の韓国、時の百済(クダラ)国」 とありました。 >>917, >>927
[387] この表現はそれに先立って設置された案内看板や、 その後製作されたパンフレット >>949 のものと同じでした。
[389] かくの如き表現は地理的に誤っているとまでは言えません。 しかし新羅により滅ぼされ百済の地を追われた鬼室集斯の記述であることに鑑みれば、 果たしてこれが読者に亡命事情を円滑に理解せしめる解説となり得るものか、 疑問を抱かずにはいられません。
[390] 大韓民国との姉妹都市交流という政治的な背景があることを知ってから読み直すと、 どうもこれがそれに都合よくつなげるための説明に見えてしまいます。
[1189] 「国際交流広場」 には大韓民国様式の東屋が作られ、 大韓民国の国花のムクゲが記念植樹されました (>>937)。
[1322] 日野町の観光戦略は一定の成功を収めたようで、 平成時代に鬼室神社は朝鮮人の集まる観光地へと発展しました。
[55] 新羅に故郷を追われて逃げてきた鬼室集斯を祀る神社に、 新羅の後裔に当たる李氏朝鮮式建築って、 安住の地を何度でも新羅で上書きしてやろうって気なん... 鬼畜やなあ
[692] 大正時代の木崎愛吉は、墓碑を偽作としつつ (>>691) も、 古くから村民の崇敬を受け祭神として祀られている以上、 ただただ神聖視するしかないとの見解を評しました。 >>113
[1092] 昭和時代後期に地元住民が編纂した東桜谷志は、 墓碑を後世の創作と結論付けた上で、
しかしこれは、正しく歴史を理解するためのものであって伝承とか信仰など を毀そうというのではない。
伝承は伝承として継承していかねばならないし、信仰は信仰として崇敬の念を子孫に伝えていかねばならな いであろう。
... としました。 >>1080 pp.46-47
[1331] 日本各地の神社のほとんどがそこで祀られる神の墓では無いのと同じように、 鬼室神社が鬼室集斯の墓である必然性はありません。 たとえ一時鬼室集斯の墓と信じられたものが史実通りでないとしても、 鬼室集斯を祀ってきた人々の思いに嘘はなかったはずです。 偽造と確定したなら評判にはいくらか傷がつくかもしれませんが、 それは信仰の価値とは関係しないことです。
[1334] ところが平成時代、 「信仰」 は地元の人々の心の問題から、 日野町全体、 日本全国、 はたまた日韓関係に関わる大問題へと置き換えられていきました。
[982] 東桜谷志編纂を主導した瀬川欣一は平成時代に、 「本物であろうと、偽物であろうと、二百年も続いてきた鬼室神社信仰と、その信仰を中軸とした国際交流を進める活動には、何の関係も、何の影響もありません。」 としていました。 >>965
[983] それは 「いま鬼室神社という社名を掲げております以上は、そこに祀られている神霊は、鬼室集斯その人の神霊であることは申すに及ばず、蒲生郡に住んだ七百余人の霊も、摂津や神崎郡や東国で死んでいった亡命百済人全部の霊が、今は鬼室神社の神霊となっているのです。それが日本人的な信仰の心なのです。」 との理由によるのだそうです。 >>965
[1100] このような独特の信仰が日本全国的なものとは思えませんが、 日野町では一般的なのでしょうか。 東桜谷志は、 渡来人が
産業技術も生活文化も当時の日本のそれとは較べものにならない ほど高く、人々は進んで混血を希望し
... たので、古代の東桜谷は全国的に見て比較的高い生活文化水準の地域だった >>76 p.48 としていました。根拠は不明ですが、 その結果が瀬川欣一の説く信仰の形なのでしょう。
[1091] 平成時代に行政側の立場で墓碑を調査した日永伊久男は、 報告書 (>>790) 中で次のように述べました。 >>2124
仮に百歩譲って、墓碑やこの記述が作為的に捏造されたものだとしても鬼室集斯と大字小野を結び付ける何かがあったからだと考えるべきである。それが単なる伝承であろうともよいわけで、鬼室集斯を祭神とした鬼室神社が日野町大字小野にあるという事実だけで十分である。この事実によって大韓民国恩山面と国際交流が成立したのであり、墓碑の真偽 にかかわらず今後も両国のさらなる親交を深めてゆくべきであると考える。
[822]
どうやら、
墓碑はまさに鬼室集斯のもので、
辻家過去帳の記述通り小野に鬼室集斯の子孫が住む、
というのが日永伊久男の考えであるようです。
[1304] 付新聞記事で財団法人滋賀県文化財保護協会の堀真人も同様の見解を発表しました >>1297。
[1332] こうして信仰の正当性を盾に史実を軽視し町おこしを推進する姿勢には、 疑問の声も少なくありません。
何れにしても現在ここに鬼室神社があり、鬼室王の伝承を伝え、鬼室集斯の墓を守ってきた人々がいることが大切なことで、真実を明らかにすることが求められている訳ではないようだ。
そして、鬼室集斯の墓が発端になって大韓民国恩山面と国際交流が始まり姉妹都市提携に至っている。今更、鬼室集斯の墓は本物ではありませんでしたとは言えない。
一方、姉妹都市提携の大元になった鬼室集斯の墓の真偽がはっきりしないでいいのかという意見もある。偽りの墓で始まったのであれば、相手を騙したことになる。
... という状況であるようです >>23。何らかの資料から関係者の見解を拾ったのか、 著者の感想なのかはっきりしませんが。
この種のものは作ってしまった方が勝ちで、「火のない所に煙りは立たず」でいかにも信憑性を益してくるもの。
と辛辣な評価を下しました。 >>933
観光地が欲しい、という政治的な理由である。 姉妹都市との交流という名目で、税金で海外旅行がしたい、という欲望である。 地元に有名人がほしい、という虚栄心である。 西宮神社が鬼室集斯を取り込んでいく過程を見ると、政治の介在を強く感じるのである。
... と指摘しました。 >>986
神社が誰を祭神にしようが勝手だが、八角石柱が歴史的遺物であるとされるのであれば、歴史は嘘を語ってはいけない。
... と指摘しました。 >>23
[1333] 観光案内や訪問者の感想等を見れば、 研究の蓄積を無視して墓碑が史実であると既成事実化が進行(信仰)しているのは明らかです。 その反面、学術的な研究は停滞しています。 もしそれが観光や国際交流に差し障る異論を認めない空気感に起因するのであれば、 問題ではないでしょうか。 昭和時代の初期に日本古代史の研究が政治的に困難になった過ちは繰り返されるべきではありません。
[1337] そもそも歴史を生かして町おこしするのなら、 まずは前提となる歴史的経緯を検証するのが筋ではないでしょうか。 驚くべきことに、 昭和時代の神社名改称と祭神変更の経緯すら、 行政側は把握していませんでした (>>944)。 まだ当時の関係者が生存していたはずなのに、 聞き取り調査しようとした形跡すら見られません。
[1338] 時点では日永伊久男が調査していた (>>789) はずですが、それも公開されたのは墓碑の測定結果だけでした。 社殿や周辺の遺構の調査、 旧家所蔵文書や関係する幕府・藩の文書の蒐集など、 神社と墓碑の性格を評価するため当然行われるべき基礎的な研究すら取り組まれた形跡がありません。 不都合な調査結果が出るのを恐れて調査を打ち切ったと陰謀論が捗ってもやむ無しでしょうか。
[1043] 甘木水町さんはTwitterを使っています 「鬼室神社1|そもそも鬼室神社とは https://t.co/UtWzZpMkXV 滋賀県日野の鬼室神社は、百済から日本に帰化した鬼室集斯の墓碑があるそうだけど、江戸時代からの捏造らしい。日韓友好という正しさの為なら、歴史的な真贋はどうでもいい、というのは江戸しぐさと同じ。」 / Twitter, 午後3:23 · 2016年3月26日 , https://twitter.com/mizumachi_shin1/status/713612238620196864
[1335] 偽史による町おこしについては、 馬部隆弘が指摘した日本国大阪府枚方市の事例が有名になりました。 枚方市とは百済つながりで日野町とも交流があったようです。
[1336] そして枚方市の事例ほど有名ではないものの、 鬼室神社も偽史の代名詞的存在として知られるようになってきている様子が SNS から窺えます。 無名より悪名、これでも町おこしは成功したといえるのでしょうかね?
[1065] ひらっち(クラシカルP)さんはTwitterを使っています 「「行政の都合で検証に耐えない伝承をでっち上げる」という点では滋賀の鬼室神社の構図に近いような。 https://t.co/urKHWVCBrw」 / Twitter, 午前2:18 · 2016年7月21日 , https://twitter.com/hiratti_classic/status/755814099032825856
[1] 本ページの各節でたびたび述べたように、当神社と墓碑については、 まだまだ分からないことが多すぎます。 基礎的な事実確認すら十分に行われていないと評さざるを得ません。
[592] 墓碑の真偽論争のため特定の人物や文献ばかりに注目が集まり、 考古学的な調査も文献学的な調査もなおざりにされているように思われます (>>338)。 断片的に知られる神社の起源伝承にも注意が向けられていません。
[593] 「墓」と主張されるものであるにも関わらず、墓制の研究がほとんど (>>246) 欠けているのも不思議なことです。珍しい形という印象ばかりが先走り (>>505)、 既知の石造物の歴史の中に位置付けることにも成功していません。 もし既存の類型に当てはめられるなら、その系統のものである可能性が高くなります。 もし既知のどれとも本当に似ても似つかないのだとしたら、 貴重な文化財なのですから、もっと手厚く保護して研究しなければなりません。
[377] 日本国滋賀県東近江市市辺古墳群東市辺一号墳 (市辺コボシ塚, 壊塚) は、 江戸時代に鬼室集斯墳墓とする説がありました >>361 (>>765)。
[667] 伴信友は鬼室集斯の一族の墓と推測しました。 >>41
[378] 現在は磐坂市辺押磐皇子墓として宮内庁が管理している古墳です。
[379] 古墳時代と見られること、 鬼室集斯の官位に対して規模が大きすぎることから、 鬼室集斯墓の可能性は否定されています。 >>360
[380] 日本国滋賀県東近江市石塔寺大塔 (石造三重塔) は、 江戸時代に鬼室集斯廟とする説がありました >>362 (>>765)。
[381] 石塔寺の創設に百済人の関与があった可能性はありますが、 仏塔や墓制の発達史に照らしてこれが鬼室集斯の墓とは考えにくいとされます。 また石造三重塔は平安時代中期の創建とする説が議論されています。 >>360
[775]
日本近江国野洲郡篠原に、
鬼室集斯墓碑があったとする説があります。
しかし根拠となる資料は偽書とみられています。