東櫻谷志

東櫻谷志

[1] 東櫻谷志は、 日本国滋賀県蒲生郡日野町東桜谷地域の地域史書です。

[2] 東桜谷志と紹介されることもありますが、 外箱、表紙、奥付等すべて東櫻谷志の表記で統一されています。

成立

[4] 昭和五十九年四月一日発行>>11

[12] 著作権表示一九八󠄂九>>11

[5] 本文内の最近の出来事や直近に予定される事項の記述を見るとの発行と整合します。 再版等の記載はなくなぜと書かれているのか謎です。 昭和59年の「9」が混じったのでしょうか。

[34] 本書 p.405 に、出店時期が「昭和中期」と書かれている店が2箇所ありました。 昭和時代が終わりつつ有るという認識を持つ人は当時も少なからずいたのかもしれませんが、 まだ昭和時代がいつ終わるか確定していないのに 「中期」 というのは不思議です。


[13] 工業化と近代化の進展で伝承行事も消え去りつつあり、 郷土史を作って祖先の顕彰と伝承の記録が必要との機運が古老の間で高まっていました。 >>9

[14] 折しも昭和49年の東桜谷公民館建設20周年を迎え、 記念行事として郷土史刊行が決まりました。 >>9

[15] それから10年間の編纂事業の末に昭和59年の東桜谷公民館建設30周年を記念して、 完成の運びとなりました。 >>9


[6] 編者東桜谷郷土志編集委員会発行者東桜谷公󠄃民館館長 奥村重太郎>>11

[16] 編纂は東桜谷地域の各 (大字藩政村に相当する地域区分。) を代表する「各字委員」らにより行われました。 各字委員は古老で伝承者として生き字引と称されていますが、 学術的には素人ばかりでした。 >>10

[17] そこで日野町 (東桜谷地域外に在住。)郷土史家瀬川欣一を講師に招いて資料集めと基礎的な学習を4年余続けました。 >>10

[18] 当初は300-400ページ程度の郷土の歴史手引書を3年で製作する計画でしたが、 調査結果の網羅的な集大成に方針転換されて10年近くで800ページの超大作となりました。 >>10

[22] 名簿によると、 編集委員長1名と字ごとの委員が各1-4名の計18名がおり、 その他に瀬川欣一、 写真担当の野口写真館、 書紀1名で編集委員会が構成されていました。 >>10

[28] 東桜谷は、明治時代でした。 昭和の大合併日野町に合併し、 地方公共団体としては消滅して既に何十年か経過していたのですが、 公民館を核に、の連合した地域のまとまりとして、 積極的な活動が続いていたことがわかります。

内容

[7] 約800ページの辞書レベルに分厚いハードカバーの本体と外箱に加えて、 東桜谷地域の地図2枚が付属します。 本体は巻頭カラーの図版が数ページ分、 巻末に3つ折りで白黒複写の絵図が1枚分あって、 それ以外の本文は白黒印刷です。


[19] 本文は歴史編、 文化遺産編、 伝説物語編、 資料編に分かれています。 >>10

[20] 歴史編の江戸時代末期までは瀬川欣一が執筆しました。 >>10

[21] 歴史編の明治以後および残りの編は編集委員一同が執筆し、 瀬川欣一監修しました。 >>10


[24] 歴史編は通史的に古代から現代までを説明していくものです。 現存する金石文や文献資料、あるいは近代の地誌などを適宜引用していますが、 近現代の学術研究の引用はほぼありません。

[25] 伝説物語編には地域に伝わる伝承等が集められています。 史料のある歴史と伝承は一応区分されているように見えますが、 歴史編から伝承的要素が排除されているわけではなく、 独立したストーリーとして収録したものが伝説物語編、 地域史に組み込まれたものが歴史編に分かれているようです。 例えば人魚や落人などの伝承は、ある程度の考察と共に歴史編でも語られています。

[26] 興味深いことに、執筆時点からほとんど時代を遡らない明治時代昭和時代の怪異や動物との関わりのストーリーが、 伝説物語編に収録されています。

[27] 文化遺産編や資料編には、 寺社の縁起や祭礼の説明、 現存する遺物や文献資料等の目録が収録されています。 惜しいのは一部の金石銘や棟札などが収録されているだけで、 内容のほとんどが省かれていることです。 内容まで収録しようとすると資料編でもう1冊か2冊作れそうなので、 分量的にも編纂作業的にも難しかったのでしょうが...


[29] 歴史編は執筆者によって江戸時代までと明治時代からの2分されますが、 通読してみると古代から中世前期の第I期、 中世後期から近世の第II期、 近現代の第III期の3つに分かれるようにも思われます。

[30] 第I期は史料に乏しく、根拠が不明な記述で無理に時代を埋めている感が否めません。 例えば都の公共事業に動員されて苦しんだに違いない、 のような被支配者として苦しんだ祖先を称える(?)記述が散見されますが、 地元の文献も伝承も紹介されておらず、 境遇の似た他の地域の事例からの類推でもなさそうです。 それどころか当時当該地域に村落が既に形成されていたかどうかも十分検証できないまま、 国史の出来事を当てはめて推測を重ねているように見えます。

[32] そして出典がある記述かと思えば椿井文書のオンパレードという悲惨な状況です。 もちろんすべての文献を無条件に信用しているわけではなく、 他の資料と比較検討して弾いている箇所もあるのですが、 他地域でも見られるように、 資料の乏しい中世史を描く上で都合の良い椿井文書が見つかる、 という現象がこの地域にも起こっていたようです。

[33] 江戸時代椿井政隆がこの地域に出入りして椿井文書を持ち込んでいました。 そのことは東桜谷志にもはっきり書かれています。 江戸時代のこの地域の住民坂本林平 (?-) は、 椿井政隆の言動に若干の疑問を持ちながらも、 その様子ともたらされた情報を楓亭雜話に記録して残しました。 東桜谷志は古代・中世史の記述に楓亭雜話をかなり活用しました。 楓亭雜話東桜谷志も、 椿井文書に不審を感じながらも、偽書と見抜くことができなかったようです。

[31] 第II期は現存資料も多いため、そうした根拠の怪しい記述は少なくなります。 第III期は資料に加えて生存中の人も多いためか、 分野別にかなり詳細な記録が入ってきています。

入手

[3] 新品の入手は不可能と思われますが、 古書は比較的安価で入手できます。

関連

[23] 関連記事: 小野村, 奥津野保左久良十七郷摠絵図, 淡海温故録, 鬼室集斯墓碑, 野洲郡大篠原鬼室集斯墓碑, 日本南北朝時代の元号, , 二二, 年の字, 楓亭雑話, 明治改暦, 人魚塚

メモ