[17] 日本近江国蒲生郡日野から東に3里ほどの山中に古びた石碑があって、 正面に「鬼室王女」、 その下に 「施主 國房敬白」、 右の旁に「朱鳥三年 戊子三月十七日」 と彫ってあるらしいといいます。 >>41
[4] 現在の所在は不明です。
[1] 苔がむして文字が読みづらくなっていたのを、 日野の大蓮寺の僧が読んだものだといいます。 >>41
[2] 日本の江戸時代の研究者伴信友が記録に残しました。 >>41 伴信友自身が実物や拓本を見たのではなさげです。 情報源は不明ですが、 存在したという情報は信用していたようです。
[69] 発見の時期は定かでありません。 江戸時代の郷土史家西生懐忠らのグループが知っていたなら鬼室集斯墓碑と関連付けて語っていたでしょうから、 知らなかったのでしょう。 西生懐忠の時代より後、 伴信友の時代までに発見されたのでしょうか。
[68] 日本古代史研究者井上通泰は、 妄言であり、 実在するなら偽作としました。 といっても伴信友の記述を引用しただけで、 独自の調査は行っていないようです。 >>2104
[55] その後もしばしば言及されますが >>16, >>54, >>15、 伴信友以上の情報を持ったものは無いようです。
[3] 実見の報告が1つもないのは不審です。
[51] 伴信友は、 鬼室集斯の娘が父親に先立って死んで葬ったという伝承があって国房が碑を建てたと解しました。 「王」とあるのは鬼室集斯のことを崇めたものだとしました。 国房は鬼室集斯の後裔としました。 「施主」や「国房」は古いものとは思えないとしました。 >>41
[76]
偽作だとしても子が親より先に葬られたとするのは不自然です。
(