大内時頼

大内時頼

[2] かつて大内時頼なる人物がいたとされます。 日本国滋賀県蒲生郡日野町小野大内藏人時頼墓なるものがあったとする説があります。


[8] 小野鬼室神社に当たる部分に大内時頼なる人物の墓を描いた絵図が、 2種類知られています。

[1] 1つは、 文亀元(1501)年の絵図の複写だとされる 興福寺領近江国蒲生郡長寸郷奥津野保左久良十七郷摠絵図 >>1080, >>931 です。 当地には 「大内蔵人時頼墓」 がありました >>2124 (>>1080), >>2114, >>23 興福寺領近江国蒲生郡長寸郷奥津野保左久良十七郷摠絵図

[1104] もう1つは、 椿井政隆坂本林平に見せた絵図です。 >>76 p.85 椿井政隆は長寸城、 佐久良城、 四つ谷城などの古図を持ち込み、 坂本林平はそれを写して考証しました。 >>76 p.311 淡海温故録

[1105] 淡海温故録古城之図蒲生郡奥津保中ノ郷四ツ谷古城全圖 には、 次のようにありました。 >>76 p.85

承久年中 大内駿河守源惟信二男 蔵人時頼蟄居 此野仍号小野 亦於西明寺村 此人暫居云々

[1106] 楓亭雑話は、それに加えて 「今、其屋敷跡有り」 と書いていました。 >>76 p.86

[1107] 蒲生旧蹟考蒲生古蹟考には、 「古屋敷」として西の野という場所にある、 と書かれていました。 >>76 p.86

[212] 東桜谷志 巻末所収 四ツ谷古城図には次のようにありました (原文手書き、漢字は現行字体に改めた)。

蒲生郡奥津保中ノ郷四ツ谷古城全図

又古野村ニ近キ広野ニ古屋敷アリ 承久年中 駿河左衛 門太夫源惟信二男蔵人時頼蟄居ス則小野蔵人ト号ス又此 西明寺ニモ暫ク居ス𪜈云今其屋舗跡広野ノ内ニアリ

[374] 堂と墓碑らしきものは、 非常に簡略化されたものですが、司馬江漢の絵の構図に似ているようにも思えます。 鬼室集斯墓碑
[3] カラー図を見ると言うほど似ていないようにも思いました。
[664] 広原と呼ばれているのは、戦後に開墾された四ツ谷に当たる地域でしょうか。

[1108] 東桜谷志は、 大内惟信承久の乱で処刑されていることから、 大内時頼もそれに関連して流罪になったものと推測しました。 >>76 pp.86-87

[1110] 当時小野西明寺村に属していましたから、 西明寺に流され、その院があった (可能性がある) 小野に住んだと考えられます。 >>76 p.87

[1109] 絵図の記述は小野時頼が流されたので小野と呼ぶようになった、 と地名の起源を説明していました。 東桜谷志はこれを引きつつ、 大内時頼を 「いつしか彼を「小野の蔵人」と敬称するようになっていた」 と地名から人名になったと (根拠を示さず) 断定していました >>76 p.87

[1111] ところで、この大内時頼の記録は他に見当たりません。 西明寺戦国時代に焼失して記録がありません。 >>76 p.87 そして2つの絵図はいずれも椿井文書です。 だとすると、大内時頼という人物は、 小野の系図を飾り地名の由来を説明するために創造された架空の人物の可能性も検討せねばなりません。 西明寺に記録がないのも、そこにつけ込んで歴史に組み込んだのかもしれません。

[1116] 椿井政隆はこのような絵図を、 この地域の由来不明の塚を武将の墓に比定するなどの活動に使っていたようです。 まさにこの絵図も、 中之郷村住民の祖先の武士を特定する目的で持ち込まれたものでした。 淡海温故録

[1150] 小野新田の住宅内にある夏川地蔵堂は、 西明寺に続く八丁地蔵の1つですが、 小野蔵人時頼の墓所との伝説もあります。 >>76 p.607 (白黒写真あり)

[1151] 夏川地蔵堂では8月23日に >>76 p.607, p.664、 新田の大人が祭をしていました。 (同日に小野の他の地蔵でも祭が開催されました。) >>76 p.664

[727] 新田は、 鬼室神社から見て北西方向にある集落です。 「夏川地ぞう」 はその北西側 (神社の反対側) に位置しています。 >>76 附属の地図

[4] 東桜谷志八丁地蔵西明寺に至る参詣路に一定距離で置かれたことは説明していますが、 夏川地蔵堂の特別の事情は何も書いていませんでした。 鬼室神社と何か関係があるのかは不明です。

[5] 「伝説」の出典は明記されていません。地元の人々の間でそういわれているということなのでしょう。 いつからある、どれだけ信憑性のある伝説なのか不明です。

[6] 関連記事: 鬼室神社

[7] 時頼といえば北条時頼。関係あるのかな?