[39] 日本国滋賀県蒲生郡日野町大字小野は、 鈴鹿山脈の琵琶湖側に位置する山村です。
[373] 小野の集落の形成の時期は不明ですが、平安時代中期を遡らないと考えられています。
[33] 天神社は集落東方にある氏神です。 棟札銘文には潤色も考えられますが、 小野の集落の形成の上限が寛弘年間と推測できます >>90。
[1093] 小野は当初西明寺村に属していました。 西明寺村はその名の通り西明寺の所在する村でした。
[1094] 小野は西明寺の参道の村で、 しかも石材を算出する石造美術の村でもあったと推測されます。 >>76 p.46
[1095]
そのため別院や末寺のようなものがあったかもしれません。
地名に堂前、堂後
[26] 小野村の氏神で中心集落の東方にある天神社と、 中心集落から見て西方にある鬼室神社は、 古来室徒と呼ばれる有力者グループが運営してきました。
[30] 江戸時代以来、 室徒と鬼室集斯を関連付ける説がありました。 しかしこうした主張に客観的な根拠は伴われていないのが実情です。
[937] 実のところ「室徒」の「室」を鬼室の「室」であり、 帰化人集団の呼び名だとする説は、 誤りとされます。 >>1080 p.45
[1089] 「むろと」は「もろと」が訛ったものと思われ、 鈴鹿山脈の多くの山々の村に古代宮座の制度があって 「もろと」 と呼んでいるのが転じて、灯篭などに刻むため漢字を当てたものだといわれます。 >>1080 p.45
[27] つまり室徒とは, 近江を中心とする, 村の宮座の座株保有者 (ないしはその家筋) を意味する語とされます。 >>90
[729] 鬼室神社は、 元々「室徒」で祭礼を行っていましたが、 昭和時代初期の時点で、 集落全体の行事となっていました。 >>2104
[6] 東桜谷志は、 小野村の社守は東桜谷の他の字 (藩政村) に見られない伝統的な定めがあり、 昭和時代当時も継承されている、と説明していました。 当時は村人全体で神事を行っていました。 しかし勤め人が増えてきたため徐々に改正して強制しないようになってきました。 >>76 p.675
[8] 村人の35,6歳の男子から4人が選ばれて組を作り、 年長者から1年交替で社守を務めました。 社守の組に選ばれた人を「おとな」と称し、 4年毎に組み替えが行われました。 >>76 p.675
[439] 鬼室神社の祭礼は、 平成時代の頃の時点で、次のような神道の儀式でした。 まず宮司が祝詞を奏上します。 次に巫女が神楽や湯立などを行います。 最後に参列者が玉串を捧げます。 神前の供物は、 氏子が年番で勤める神主が、 斎戒沐浴して女手を借りずに当日早朝に調理します。 飯、つぼ、ひら、ちょく、汁、漬物などの熟饌を黒塗りの器に入れる他、 酒、米、魚、大根、林檎などの生饌もあります。 >>437
[1026] 時点で、 鬼室神社の秋の例祭には近隣の神社の神主を呼んでいました。 >>1017
[1027] 時点で社守を担当していた住民によると、 鬼室神社には神主が不在で、 毎年社守を小野の住民が持ち回りで担当し、 清掃、整備、管理を行っていました。 管理費用は住民から集めており、 大きな費用が必要なときは広く寄附を募っていました。 文化財指定されていないため、 公的な補助もありませんでした。 住民は誇りと親しみを持って協力していましたが、 天神社の管理も合わせ、費用的な負担になっていました。 >>1017
[14] 東桜谷志に資料一覧がありますが、 江戸時代の文書が森下太郎次家の1件、 辻久太郎家の5件しか掲載されていませんでした。 >>76 p.776 村の有力者の家にはもっと大量の古文書が所蔵されていそうなものですが、 昭和時代の時点で既に失われていたのでしょうか。 それともここに掲載されたのは一部だけなのでしょうか。
[35] 昭和時代後期から平成時代初期の鬼室神社関係の文献には、 辻家で江戸時代の文書を閲覧したとする記録があります。 少なくても同家には、東桜谷志の一覧に未掲載の文献資料がいくつも眠っているのではないでしょうか。
[37]
近現代の研究者が辻家で文献を閲覧したという記録は少なくなく、
アポ無しで突撃したのに見せてもらったという話もありました。
[1152] 昭和時代後期の東桜谷志によると、 当時の当主は辻久一郎でした >>76 p.633。
[38] 平成時代時点で小野に「辻久一郎」宅がありました。 >>23
[42] 東桜谷志の編集委員に辻久太郎がいました >>76 p.786。 別人でしょうか?
... と大字の代表者的地位を持っていました。
[43] 近江国蒲生郡では中世、南北朝時代頃から辻氏が記録に残り、 祖先の可能性が指摘されています。 >>90 しかし確証はありません。
[44] 辻家には過去帳が伝わります。 その一部が公表されています。
[1153] 昭和時代後期の東桜谷志によると、 辻家の仏壇に過去帳が祀られており、 その最初に次のように朱書されていました。 >>76 pp.633-634
鬼室集斯が庶孫にして室徒中の筆頭株司なり 代々庄屋を勤め郷士として帯刀御免の家柄なり 名は代々久
右衛門と称す。
近江国蒲生郡奥津保郷小野村の住人、辻󠄂久右衛門尉、宝永三年正月釈念心
[210] 昭和時代後期の論文およびそれを引いた平成時代初期の論文によると、 巻頭の条に次のようにありました。 >>90 (注釈も >>90 のまま), >>2124 (>>90)
鬼室集斯が庶孫ニシテ室徒中ノ
筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士
トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々
久右衛門ト称ス
近江国蒲生郡奥津保郷小野村
之住人(略)
辻久右衛門尉
宝永三年正月 釈 念心
[46]
記載内容は同じですが、
書き方は違います。
翻刻の方針の違いでしょうが、
原文に近いのは後者でしょうか。
ただし巻頭に朱書という重要そうな情報が後者には書かれていませんでした。
後者にだけある「
[61]
昭和時代後期時点で、辻家には
「
[16]
過去帳内には、
「
[207] 小野の辻久太郎家が、鬼室集斯の末裔 (宗孫 >>58) を称しています。 >>58, >>90 その根拠がこの過去帳なのではないかと思われます。 ただしその系譜関係は不明です。
[820] 平成時代の日永伊久男は、 過去帳を根拠に小野には鬼室集斯の子孫が代々住み着いてきたとしました >>2124。
[13]
東桜谷志は
「
[49] 過去帳の内容の詳細は不明ですが、 この冒頭朱書から書き始めて、 それ以後の辻家の人々を書き連ねたものなのでしょうか。 過去帳というものの性質上、 宝永3年に成立したのではなく、 その後長年書き継がれたはずです。
[214] ここでの「庶孫」は子孫の意味と解され、 鬼室集斯墓碑銘文との関係性が指摘されます。 >>90
[48]
しかしそれだけでなく
「
[50]
に西生懐忠が銘文を解読するまで、
墓碑に
「
[51] 調査に来た学者に村役人として立ち会った可能性が高い辻家の人々は、 どうして過去帳の記述を秘密にしていたのでしょうか。 宝永3年から約100年ありますから、 書いた当人ではないにせよ、 その子か孫が西生懐忠やそれ以前の挑戦者達を案内したのではないでしょうか。
[996] 鬼室集斯墓碑の銘文解読以前、 それは人魚塚と言われていました。 平成時代のブログ記事は、 「祖先である鬼室集斯の墓が人魚塚呼ばわりされるのを、黙って見ていたということか? 西生懐忠が来るまで、墓碑の存在を知らなかったということか?」 と疑問が呈していました。 >>2, >>1003
[53] そう考えると、 朱書部分が宝永3年に書かれたものかどうか、 慎重に検討するべきように感じられます。
[54]
延宝7(1679)年
[17] 石小山の麓の小高い山を恵忍坊山、恵忍山と呼びます。 昔小野村の恵忍坊が、 土中に埋められて読経し続けて往生すると何億年かの後に菩薩に生まれ変わると信じ、 この山で実践したと伝えられます。 >>76 pp.619-620
[18] 「宝永三年正月 釈念心」 が恵忍坊である「とも」いわれています。 >>76 p.620
[55] 延宝7年と宝永3年には約30年の差があります。 宝永3年に朱書した人物が恵忍坊だとすると、 延宝7年は何の日付でしょうか。 それともどちらかの日付が誤っている、 あるいは釈念心は恵忍坊ではないのでしょうか。
[56] 延宝7年の記事がある過去帳の巻頭に宝永3年があるのはどういうわけでしょうか。 後から朱書したのでしょうか。それとも宝永3年に古い過去帳から書き写したのでしょうか。
[659] 江戸時代時点で、近郷に「美成」を氏とする農民がいました。 伴信友は鬼室集斯墓碑にある「美成」の子孫としました。 >>41 近郷というのは小野村近辺の他の村を指すのでしょうか。
[835] 頃の記録で、 近くの「美成」姓の家が西宮神社を守っていたとされます。 >>20, >>23 室徒の1家なのでしょうか? 出典は不明です。
[891] 平成時代時点で小野には「美成」姓はいなかったとされます。 >>23
[216] 近江のこの近辺には、 「鬼」や「室」の姓氏の記録があり、一部は現存しているとされます。 鬼室集斯の後裔の可能性が指摘されています。 >>90 ただしその根拠は居住地域の近さと名前の類似くらいで、 十分に検討されているとは言えなそうです。
[59] 近辺というのがどこかは不明です。