[1] 李氏朝鮮時代末期から大韓帝国時代は、 旧来の支那式日時制度から西洋式の日時制度や独自の日時制度へと移行していく激動の時代でした。
[262] 高麗国にかわって成立した朝鮮国 (李氏朝鮮) も、支那王朝 (明国、のち清国) の属国でした。 政治や文化の諸制度と同様、日時制度も支那の制度をベースとしていました。
[415] 李氏朝鮮は、 紀年法として支那の元号や干支を使っていました。
[263]
しかしすべての場面で支那の元号をそのまま用いていたわけではなく、
例えば明国滅亡後清国の属国となってからも、
旧宗主国の明国の元号を使い続けました。
[264]
正史の朝鮮王朝実録では、
干支や支那の元号だけでなく在位紀年が用いられました。
現在でも李氏朝鮮時代の記述では在位紀年がしばしば用いられています。
[331]
日本との外交文書では、当初明の元号, のちに干支年を用いました。
日本側は日本の元号, 時折干支年を用いました。
[73] 李氏朝鮮や支那では、 当時近代的標準時制度は未実施でした。 各地の真太陽時が用いられました。
[118] tzdata は元の LMT を
Asia/Seoul
は 、
Asia/Pyongyang
は
としています >>116。
[364] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 「朝鮮では当代 国家の都の地(首都)に位置する子午線を本初子午線にして標準時を定め、1日を12時 間とする時間制を制定して使用してきた」 >>360 とし、 李氏朝鮮やそれ以前の王朝が標準時を制定していたと主張しました。 1日を12分割するというのは、十二支の時法のことでしょう。
[265] 首都の時刻を全国で標準的に用いていたとすると、 時刻を朝鮮半島全体に送信できる技術を朝鮮国が保持していたことになりますが、 その根拠は示されていません。
[309] 明国属国朝鮮の国王の世宗は、 日時計や水時計を作らせました。 昼は日時計が、夜は水時計が用いられました >>410, >>411。
[413] 、 蒋英実は水時計の自撃漏を製作し、 景福宮南側の報漏閣に設置しました。 自撃漏は標準時計となりました。 >>412
[414] >>37、 蒋英実は日時計の仰釜日晷 (앙부일구, Angbu Ilgu) を製作し、王宮に設置しました。 これが漢陽の標準時となりました。 >>410, >>411
[266] 仰釜日晷が設置されたのは惠政橋 (혜정교) と宗廟 (종묘) だった >>39 といいます。
[267] 韓国語版 Wikipedia の過去の版は、 これを 126°58′41″ = であるとしていました。 現在の版や英語版 >>410, >>411 では としています。 変更の理由は不明です。
[74] 李氏朝鮮の暦は、正式には宗主国の明国や清國の農暦であり、 支那の地方時に基づき計算されたものでした。
[2] 1442年以後、
朝鮮国の地方時に基づき計算した七政算を独自に運用するようになりましたが、
宗主国の暦と一致させるため、何度も改暦や本来の計算結果と異なる修正が行われました。
(それでも清国と異なる日付となったことが何度かあったようです。)
[87] 京城には天文台がありました。 高さは20呎でした。 天体に異状があるときは 国王に奏上し、 国王は北京朝廷に報告していました。 >>81
[84] 1894年まで、 李朝の星学家は毎年支那から取り寄せた暦本を理解し応用する程度でした。 天文台は暦本発行の義務を有していましたが >>81、 天文台長が支那の原本と異なる暦本を発行したときは、 遠島の流刑の厳罰に処されていました。 にも関わらず天文学は“旧来の星學や魔法の範囲”に留まり未発達でした。 >>80
[470]
清はに時憲暦を採用しましたが、
属国の朝鮮はから時憲暦を採用しました
>>388 p.
[471]
しかし清は朝鮮が時憲暦の全般的な知識の習得を禁止しており、
朝鮮ではその運用が進みませんでした。
朝鮮が十分な知識を得て運用するようになったのは、
18世紀後半でした。
>>388 p.
[472]
北京と漢城は時憲暦における経度12度30分、時間42分の経度差がありました。
そのため清の暦書と漢城基準暦は月の大小や閏月が異なる場合がありました。
正祖時代に自国の暦書を使う機運が高まりましたが、
朝鮮国内からの批判がありました。
そのため清の暦書と著しく異なる場合に、
暦法を改変してでも清の暦書と一致させました。
>>388 p.
[182] 李朝時代末期の記録によると、 子供が生まれるとその出生の時刻を正確に記録し、 将来を占っていました。 年齢は数え年を使っていました。 >>9
[183] 「正確」がどの程度のものかは不明ですが、 それなりの時刻を知る方法があったということになります。
[186] 官衙や高等行政官 (郡長知県など) の住宅は、 市内北壁付近の高台にあり、 周囲に高さ一丈一尺の壁と門がありました。 門の上には四方に開いた瓦葺きの櫓があり、 朝夕は太鼓で報時していました。 >>12
[230] 現在でもソウルには鍾路と呼ばれる道路があり、 繁華街で周辺の地域名ともなっています。 鍾路の由来は李氏朝鮮時代の普信閣の時鐘とされています。 4時に33回、 19時に28回鳴らして城門の開閉の合図としていました。 >>214
[313] 李氏朝鮮が を標準時として採用した >>189 とする説があります。 かつて韓国語版 Wikipedia は李氏朝鮮中後期に北京の が標準時となったとしていましたが、削除されました >>327。 いずれも根拠は不明です。清国の属国であったことから、 清国末期以降の支那海岸時 を類推したものでしょうか。
[369] の11時 (どの時刻で?) までは 、 それ以後は とする説もあります >>368。 妙に具体的な数字が出ていますが、 事実と全く異なり ( への移行は、 日韓併合は、 中央標準時 への移行はでどれも少しずつ違います)、 根拠は不明です。
「笠山日時計」は今から約350年前、第4代王である世宗が製作した「仰釜日晷」(韓国宝物845号)の複製である。17世紀半ばに西洋式時間測定法が加わり、それまでの「十二時百刻法」が「十二時九六刻法」に修正された後のもので、17世紀後半・李朝時代の宮廷内外で公衆時計として使用されていた日時計である。日時計の本体は韓国で玉石と呼ばれる黒御影石でつくられている。黒御影石は結晶が光を受けて反射し、近くに寄ると見る角度によっては光の輝きが宝石のように美しく変化する。また、熱膨張係数がきわめて小さいので、測定用の定盤や精密機器の台座として利用されている。15分間間隔の「真太陽時」と季節(二十四節季気)を知ることができる。
1434年(世宗16年)11月2日(旧暦10月2日):世宗大王が日時計(アンブイルグ)を作成ソウルヘジョン校(現光化門郵便局の北)と宗廟の前に設置する。時間という概念が必要なかった時代に漢城(ソウル)の時刻は、今日のUTC +08:28。
宝物第2号に指定された「普信閣(ポシンカク)」は、ソウルの繁華街・鍾路(チョンノ)の交差点にあります。この普信閣の鐘は朝鮮時代、時を知らせる役目をした鐘で、当時ソウルには人々が出入りする4つの大きな門があり4時に33回打てば城門を開き、午後7時に28回打つと閉め、都への出入りを規制するといった役割を果たしていました。
[486] jic084_302.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134678/1/jic084_302.pdf
[162] 、 大日本帝国と朝鮮国は日朝修好条規に調印しました。 その日付は、
[392]
日本側が提示した原案では
「大日本神武紀元二千五百三十六年明治九年」、
「朝鮮国丙子」
でした。
>>388 pp.
[389]
従来、日本は日本の元号を、
朝鮮は干支年を使っていました (
[416]
しかし協議において朝鮮側は両国の対等性に強いこだわりを持っていました。
そこで開国紀元を加える形の修正が行われたのです。
>>388 pp.
[270] 日朝修好条規は朝鮮國を独立国と定めていました。 実際には未だに朝鮮は清の属国でしたが、 だからといって清の元号を使うわけにもいかなかったようです。
[167] これが開国年号の始まりとされています >>13。 だとすると開国年号は皇紀に触発されて使い始められたということでしょうか。
[165] 、 大朝鮮國と大美國は朝美修好通商條約に調印しました。 正文である漢文版には、 朝鮮側は 「大朝鮮國開國四百九十一年 即中國光緖八年四月初六日」、 米国側は 「大美國一千八百八十二年五月二十二日」 とありました。 >>163 英文版には、 「May the 22nd, A.D. 1882」 とありました。 >>164
[271] 朝美修好通商條約は清国と米国によって起草され、 清国立会の元朝鮮国と米国が調印しました。 そのため支那の元号も併記されたのでしょう。
[421]
条約締結と同時に、
朝鮮が中国の属国で内政と外交は大朝鮮国君主の自主による旨の照会文が米国大統領に送付されました。
その日付は、
「大朝鮮国開国四百九十一年即光緒八年三月二十八日」
でした。
>>388 p.
各条約で踏襲されました。
>>388 p.
[354] の条約: 大日本国明治、大朝鮮国開国 >>353 /384
[419]
このときの済物浦条約・日朝修好条規続約以後の条約は明治と開国が使われました。
取極や往復文書等では朝鮮は干支年のみを使うことが多くありました。
>>388 p.
[423]
10月、
中国朝鮮商民水陸貿易章程
が制定されました。
日付は光緒のみでした。
なお前文で朝鮮は中国の属国と明記されていました。
>>388 p.
[159] 、 朝鮮政府の統理衙門博文局が初の近代的新聞である 漢城旬報 を創刊しました。 第1号では欄外に「中國光緒九年」と併記されていました。 第4号以後支那の元号は欄内に併記されるようになり、欄外には 「西歴一千八百八十三年十一月三十日」 と西暦 (グレゴリオ暦) が併記されるようになりました。 >>160
[446] 関連して兪吉濬が書いた 創刊辞 冒頭には、 「檀君開国四千四百」 と途中まで書いて削除され、 「大朝鮮開国四百九十二年」 と修正されていました。 >>447
[449]
兪吉濬は同時期に皇紀への言及があり (
[356] 明治19年1月の契約: 大日本明治、大朝鮮 + 干支年 >>353 /402
[649] この頃朝鮮半島に滞在していた欧米人や日本人は、 日常生活では自国の日時制度 (西暦 (日本人は日本の元号)、 グレゴリオ暦 (露国人は露暦)、 西洋式時刻) を使っていたとみられます。 時刻は地方時が一般的だったのでしょうか。
[397] 以後、 在漢城日本公使館では定時の気象観測が行われていました >>395, >>393, >>207 (、、 >>207)。 時刻が何であったのかは不明です。 (これ以前にも観測が行われたことがありますが、記録は残っていません >>207。)
[458] 1887年頃から、 在朝鮮ロシア帝国公使のウェベル (Karl Ivanovich Weber, Carl von Waeber) による京城での定時の気象観測が行われていました >>207。 また朝鮮海関により元山、仁川、釜山での観測も行われていました >>207。 観測に用いた時刻が何であったのかは不明です。
[424]
、
朝鮮の駐日公使派遣の国書の日付は
「大朝鮮国開国四百九十六年朕御極之二十四年六月十三日」
でした。
>>388 p.
[425]
当時朝鮮へは清の干渉が強まり、
朝鮮は自主の拡大を企てていました。
即位紀年の利用は (清国以外に対し)
清の元号を使わないという意志の表れとされます。
>>388 p.
[355] 西暦1888年の条約: 大朝鮮国開国、 大露西亜 (西暦 + ユリウス暦) >>353 /399
[225] Shanks (2003) の KOREA, NORTH と KOREA, SOUTH は、 から (それ以前はLMT) としていました >>226。 根拠は不明です。 1890年代の時期不明を表している可能性もあります。
[363] の契約: 大朝鮮開国 + 干支年 >>354 /427
[428]
、
朝鮮は日本に倣った新式貨幣の発行を計画しました。
日本の大阪造幣局で彫刻された地金には
「大朝鮮国開国五百一年」
と刻まれました。
>>388 p.
[429]
これに対し、清の袁世凱は、
国号に「大」を付けたこと、
光緒ではなく開国を使ったことを、
属国では許されないことだと介入しました。
朝鮮は国際条約の先例を挙げて反論しましたが、
清は外交と内政は違うと一蹴しました。
>>388 p.
[430]
結局は
「朝鮮国五百二年」
と「大」を削って発行されました。
しかし発行量が少なく政治的影響は大きくありませんでした。
なおこれ以前にも開国入りの貨幣は鋳造されていましたが、
発行には至らず問題になっていませんでした。
>>388 pp.
[279] に仁川で出版された日本人著者の日本語書籍 仁川事情は、奥付の出版の日付を 「明治廿五年十月十五日、朝鮮開國五百一年秋八月廿五日」としていました。 >>280 (朝鮮で発行された初の日本語書籍ではないかと言われています。)
[281] 仁川の朝鮮海関の執務時間は、 原則として日の出から日没までと定められていました。 時間外の手数料は「夜の12時」が境界とされていました。 公休日として日曜日の他、 陽暦の年末年始と陰暦のいくつかの日が定められていました。 >>280 DjVu 16ページ
[431]
、
朝鮮国の軍国機務処議定存案
「今より以後、国内外の公私の文牒に開国紀年を書く事」
によって、
光緒にかえて開国を使うこととなりました。
>>388 pp.
[530] 李氏朝鮮の官報は、 と干支紀年で始まり、その次の年号が となり、以後開国年号となっていました。 >>168
[172] Wikipedia は、 に李氏朝鮮が開国年号を採用したとしています >>173, >>174。
[177] の日朝両国の条約は、 調印を としていました。 また本文中に とありました。 >>176
[451] 王命と国王への上書を管理した承政院 (改称して承宣院, 後に秘書院) の 承政院日記 (承宣院日記) は、
と変化しました。
>>388 p.
[455]
開化派政府が紀年法改革を行った後も、
王室側は情勢を見守っていたと推測されます。
は新任の日本の井上馨公使が内政改革綱領を示して王室に強圧的な姿勢を取り始めた時期に当たります。
>>388 p.
[468]
李氏朝鮮政府は、
翌の暦書として、
従来の
大清光緒二十年歳次甲午時憲書 ()
と内容は同様で紀年法が異なる
大朝鮮開國五百四年歳次乙未時憲書
を発行しました。
>>388 p.
[275] 、
東京帝国大学は台湾の標準時 (後の西部標準時) の検討にあわせて、
朝鮮国にある日本の官庁では西部標準時
を採用するべきであり、朝鮮国の標準時も
とするよう勧告するべきだ、と日本政府に提案しました。
これを受けた大日本帝国の勅令案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし内地と朝鮮国駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
朝鮮国の標準時はまた別であり時期尚早だとして、
削除されました。
[276] 東京帝国大学の検討では、 朝鮮半島の東岸では標準時と地方時の時差が30分以上となるものの、 北海道と中央標準時で時差があってもそこまで問題にはなっていないとしていました。
[650] 東京帝国大学や東京の日本政府の関係者が朝鮮国の事情にどこまで通じていたか不明ですが、 未だ近代的標準時を実施していないと認識していたことがわかります。
[433]
、
朝鮮国の内閣は、
大朝鮮帝国への改称、
国王の皇帝即位、
建元を
「伏候」
し、裁可されました。
>>388 pp.
[434]
、
日本を除く各国公館の反対のため、
皇帝即位は延期され、
太陽暦への改暦のみ詔勅で公布することになりました。
>>388 p.
[435]
、
開国504年11月17日をもって開国505年1月1日とする詔勅が
官報
号外に掲載されました。
>>388 p.
[155] 、 朝鮮国はより太陽暦を採用し、 建陽と建元し、 一世一元とすることと定めました。 >>154
[328] の翌日がとなりました。
[158] この頃既に官報掲載の郵便の時刻は「午前○時」、「午後○時」と記述されていました。
[469]
李氏朝鮮政府は、
翌の暦書として、
大朝鮮開國五百五年歳次丙申時憲曆
を発行しました。
清国の時憲暦の名称を引き継いでいましたが、
清の避諱を反映した前年までの時憲書ではなく、
時憲暦という書名になっていました。
また、
この年から従来の陰暦の暦書の内容の最下段に陽暦の日付と七曜が追加されていました。
>>388 p.
[76] 後に標準時が となるまで、 旧暦の日付は清国の農暦と同じままでしたし、 太陽暦を採用したにも関わらず曆は旧暦しか扱っていませんでした。
[450]
こうした一連の近代化政策には、
開国紀元の採用や建元や改暦などを含め、
の日清戦争当時に樹立された開化派政府の閣僚となった兪吉濬が主導していたとされます。
>>388 p.
[456]
承政院日記 (承宣院日記, 秘書院日記)
は、
開国と干支年と陰暦の日付を書いていましたが、
からはそれに加えて陽暦の日付が併記されるようになりました。
王家が内部では建陽の利用を回避していたことがわかります。
>>388 p.
[179] 李朝は 1897年分の曆として 大朝鮮建陽二年歳次丁酉時憲曆 を発行しました。
[462]
、
詔勅により、
王室祭祀では旧暦を幷用することとされました。
実質的には陰暦への復旧措置だとされます。
>>388 pp.
[436]
、
詔勅により
「乙未十一月十五日の詔勅」
が (建元と断髪) 取り消され、
新たな建元が命じられました。
>>388 p.
[145] 、 李氏朝鮮は新しい元号として光武を建元しました >>139, >>141, >>143。
[441]
、
議政府議政沈舜沢が「光武」と「慶徳」の2案を奏上し、
高宗が「光武」を選びました。
掌礼院が択んだ吉日の8月16日から開始されました。
>>388 p.
[146] その前後、までの官報定期分は、 旧元号の建陽を使っていました。 しかしとの号外は、 開国年号を使っていました。 から光武となっていました。 その後の発行分の記事内でも、 とは開国年号でした。
[126] 李氏朝鮮から日本政府への通知では、 より光武に改元し太陽暦を用いる >>125、とされていました。
[147] 中文版 Wikipedia は から光武としています。 >>132
[153] 大韓帝国の官報には、 この頃でも依然として内容が旧暦で記述された記事を少なからず掲載していました。 十二支時刻法もしばしば使われていました。 一方で郵便の時刻は「午前○時」、「午後○時」と記述されていました。 太陽暦や西洋式時刻が使われ始めたものの、 王宮内をはじめ旧来の日時制度が公式に使われ続けていたようです。
[457]
承政院日記 (秘書院日記)
は、
から、
「光武元年丁酉七月十九日」
のように
光武と干支年と陰暦の日付に陽暦の日付を併記する形となりました
>>388 p.
[463]
、
大君主、
王太后、
王太子、
王太子妃の誕生日は
「今より」
陰暦に従うものとされ、
翌年の暦に陰暦で記載することが裁可されました
>>388 p.
[473]
独立新聞
は、
甲午改革を継承して「国民化」 (文明化) 運動を民間から推進していました。
元は建陽と陽暦の日付を使い、
陰暦は使っていませんでした。
建陽二年八月十四日号の次は光武元年八月十七日号で、
それ以後光武と陽暦[グレゴリオ暦]]の日付を使うようになりました。
しかし改元についての論説はありませんでした。
>>388 p.
[474]
独立新聞
は、元は火曜日、木曜日、土曜日の週3回発行でした。
から週5回発行になり、
日曜日と月曜日が休刊でした。
>>388 p.
[464]
の皇帝即位儀式は明礼により行われました。
この頃から詔勅等も国漢文から漢文が主体に変わりました。
陰暦への揺り戻しも含め、
前政権が目指したような文明化ではなく、
(近代国家体制に触れて変容した) 小中華意識のもとでの皇帝即位でした。
>>388 p.
[180]
大韓帝国は
1898年分の曆として
大韓光武二年歳次戊戌明時曆
を発行しました。
この年から明時曆に改称されました。
内容は前年と同様でした >>388 p.
[467]
、
議政府議政沈舜沢が政治の重んずるところは敬天而授時であるとして、
新暦書名として「明時」と「一元」を奏上し、
高宗が「明時」を選びました。
>>388 p.
[362] 明治31年の契約: 大韓光武 グレゴリオ暦, 大日本明治 >>354 /413
[374] 1899年にまとめられた Milne の時差の表では、 Korea は とされていました。出典は英国政府や International Telegraph Bureau とされていました。 >>375
[273] 電信では が使われていたのでしょうか。 日本が大北電信会社に九州釜山線を敷設させたため、 釜山側 (や京城) でも中央標準時を用いることにした、 というような事情があったりするでしょうか? (しかし清国所有の北行きの電信で中央標準時が使われた可能性はなさそうです。) あるいはこの時既に日本から中央標準時が電信で転送 (>>635) されており、電信局で用いられていたのでしょうか。
[445]
、
韓清通商条約
が締結されました。
日付は
「光武三年」
「光緒二十五年」
でした。
>>388 pp.
[358] 西暦1900年の条約: 光武、 露曆 (ユリウス暦) >>354 /405
[206] 公式には太陽暦を採用し、西洋式時刻も使われるようになった一方で、 大韓帝国は依然支那由来の旧来の日時制度を運用していました。
[85] 1905年の日本政府の書籍によると、 大韓帝国には天文家と巫祝の育成のため天文学校が設置されていました。 次の三科がありました。 >>81
[640] また、漏刻官養成所が設置されていました。 この学校は 「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」 を測定する漏刻官を「養成スルノ装置」を有していました。 >>33
[641] つまりこの当時京城には未だ漏刻 (水時計) が稼働しており、漏刻官が運用していたのでしょう。 言及されていませんが、日時計もまだ利用していたのでしょうか。 韓國の「唯一の標準時」とはいいますが、 従来通り時鐘や太鼓で報時していたのであれば、 通用範囲は京城市内と周辺程度だったでしょうか。
[208] 京城の地方時は、 とされることが多いです。 かつて日時計があったとされる位置は に当たります (>>414)。 王城の景福宮は 、 城壁西側の京仁鉄道京城駅は 、 京城郵便局は です。
[639] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 地方ではまだ日時計が使われている >>724, >>725, >>726 としていました。
[260] Time Changes は、 1904年から1932年の変遷を示した後、 地方の民衆は日時計を使っていたとの注釈を加えていました >>1256。 同じ情報源によるものと思われます。
[351] より前の時刻を = 東経126度58分の Seoul City Hall とする実装がありました >>350。 出典は不明です。
[11]
の京釜鐵道の仁川の事業所からの報告によると、
当時鉄道時として、
內地中央標準時より 32分遅い
「仁川ニ於ケル韓國標準時」
を使っていました。 >>134
つまり「仁川ニ於ケル韓國標準時」とは
でした。
[644] 「仁川における」の意味は不明ですが、 仁川の地方時は で、京城の地方時 と約2分の時差がありました。 京仁鉄道は首都である京城の地方時を仁川でも用いていたことがわかります。 仁川市内でもこの時刻が使われていたのでしょうか。 京釜鉄道一部開業、京仁鉄道買収以前の状況は不明ですが、 京仁鉄道開通当初から首都の時刻が採用されていたと考えるのが自然です。
[634] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 次のように説明していました。
[119] これは現地駐在の米国人の報告によるのでしょうが、 日本の郵便電信局で が作成され、 鉄道などで使われているとあります。 しかし京仁鉄道は鉄道時を だとしていました (>>11)。 だとすれば郵便電信局も を使っていたとするのが自然です。 ただし当時は2分程度は誤差のうちだったとも思われます。 1908年の大韓国標準時 制定時も、 大韓帝国と韓国統監府のどちらも従来の京城時刻の標準化と認識しており、 2分の変更とは捉えていなかったようです (>>5, >>45)。
[294]
日本本国と直結された報時システムがいつ稼働したのかは不明ですが、
1894年の京城・釜山間の日本の軍用電線の架設後、
あるいはその後の日清戦争終戦の頃からでしょうか。
(それ以前の京城・釜山間電信線は朝鮮政府所有で、日常的に不通になる代物でした。)
この頃日本本国でも各地の郵便局に正午が電信で報時されていました。
[295] 京城以外の日本の郵便電信局も、 同様の方法で報時していたのでしょうか。 その時刻は地方時か、京城慣用時のいずれだったのでしょうか。
[296] 日本の郵便電信局の報時開始以前や、 日本人以外がどのように時刻を得ていたのかは不明です。 米国の資料に何の言及もないことから、 朝鮮政府や欧米諸国は近代的報時機構を有していなかった可能性が高そうです。 朝鮮半島の外国人は日本人と清国人がほとんどだったようですから、 欧米諸国が専用の設備を有していなくても不思議ではなく、 また清国本国もこの時代には西洋式ではない旧来の日時制度を運用していました。 西洋式時刻を使っていた欧米人や日本人は、 李朝の鐘や太鼓の伝統的報時機構により、 あるいは日時計によって時刻調整していたのでしょうか。
[320] 釜山側で開業し北へと延伸していった京釜鉄道南部線が使っていた時刻も不明です。 釜山の地方時は で、 京城の より8分ほど進んでいます。 釜山でも電信で京城時を再現することは可能だったでしょうし、 いずれ南北連結全線開業することを睨んでこの時刻を使っていた可能性はありますが、 釜山市内で使われていたであろう地方時との 8分の時差は、さすがにこの時代でも誤差の範囲を超えていたはずです。 後の鐡道時改正時の新聞記事には、 南北線のダイヤ改正の説明に特記なく「約三十分」の鐡道時改正の旨が記載されています >>305 から、 南線も中央標準時とは異なる時刻だった可能性が高そうです。 しかしどちらの地方時も「約三十分」の「韓時間」には違いありませんから、 南北線の時刻が同じだったかどうかは断定できません。 両線で時刻が違っていたため、全線開通で統一のための変更が必要になったと考える方が筋は通っています。
[89] 現代の文献で「日韓併合前」に が大韓帝国の標準時として朝鮮半島全域で使われており、 日本人は京城標準時と呼んでいた >>88 とするものや、 清国から大韓帝国が独立した際に東経126.97度で中央標準時より 32.12分遅い時刻が韓国標準時となった >>36, >>221 (126.97 は 。32.12分は32分7秒。) とするものもありますが、出典は不明です。
[34] Wikipedia は漏刻官に関する「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」 という記述 (>>640) を根拠に 「首都・漢城(現在のソウル)での平均太陽時が標準時とされており」>>32 と説明しています。 しかしこの記述を直ちに近代的標準時と理解することはできません。 また、真太陽時ではなく平均太陽時とする根拠も不明です。
[75] 京釜鉄道の 「仁川ニ於ケル韓國標準時」 (>>11) や「한국 표준시」 (>>440)、 日本領事館告示の「韓國標準時」 >>209 (ただし当時の表現そのままかは不明) のように、 当時 が実質的に韓国標準時だとする認識を持つ人々 (>>640 も含めいずれも日本人) が京城近辺にはいたようです。
[324] しかし李朝や大韓帝国が公式に近代的標準時を制定した形跡は見当たりません。 1908年の大韓国標準時制定の際にも大韓帝国、 日本の韓国統監府の双方が 「従来慣用の時刻」と呼び、旧標準時とはしていませんでした。 現在の大韓民国の政府当局の Webページ >>61 も、大韓國標準時以前には何も示していません。
[365] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 1884年国際子午線会議の決定 「に基づき、朝鮮封建王朝では、1日12時間体系を24時間体系に変更するとともに、 東経127度30分を本初子午線とする標準時を使用するようにした。」 >>360 としました。 文脈より1884年との間にそのような決定がなされたことになります。しかし、
... ということで、信用しがたいです。
[238] むしろ24分割というデマに従うなら、 日帝の 標準時採用の方が趣旨に沿っています。 しかも国際子午線会議決議を遵守したのは世界的に日本だけだったとされていますから、 それを過剰に評価する黄明哲は親日派の疑いすらありますw
[317] 20世紀初め頃の漢字ハングル混じりの朝鮮語新聞皇城新聞の本文記事では、 例えば >>316 のような支那式の西洋式時刻表記が用いられていました。 広告では「午后」や「正午」のような日本式の表記が用いられていました。
○朝鮮國改元 朝鮮國ニ於テハ本月十四日ヨリ建陽ノ年號ヲ改メテ光武ト稱 シ仍ホ陽曆ヲ用フヘキ旨本邦駐箚同國臨時代理公使ヨリ本月十八日附ヲ以テ 外務省ヘ通知アリ
公式には甲午改革で成立した金弘集政権が1894年7月27日から採用
金弘集进行甲午改革,1894年7月27日採用。
光武(こうぶ、광무、クァンム)は李氏朝鮮・大韓帝国で用いられた元号。建陽2年(1897年)8月14日に改元して光武を用い[1]、同年10月に国号を大韓帝国と改めた。光武元号は1907年8月2日に隆熙に改元されるまで使用された。
光武(1897年8月16日—1907年8月2日)是朝鲜王朝大君主、大韩帝国皇帝高宗之年號,1897年8月16日改元光武,10月12日高宗称帝,改国号大韩帝国,1907年8月2日改元隆熙。
광무(光武)는 1897년 8월 17일부터 1907년 8월 11일까지 대한제국 고종 때에 사용한, 대한제국의 첫 번째 연호이다.
1894年7月31日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・開国503年6月29日|清国年号使用禁止と 李朝開国紀元の使用を定め る(1894年=高宗31年は、開国503年と表記)
[624]
ロシア軍は平安道と咸鏡道(南北)に進攻しました。
ロシア軍の軍用時は不明です。
内滿洲のハルビン時あるいは外滿洲の浦塩時でしょうか。
あるいは各地の地方時でしょうか。
[1207]
、
日本軍は、
陸海軍各部隊に日時計と説明書を配布し、
東経123度子午線の時刻 = を
以降の「満韓地方の基準時」
とすることを通達しました。
これは滿洲の遼東半島付近 (遼河) の時刻に当たります。
時刻を一定のものとするため、と説明されています。
それまでは部隊ごとに、あるいは現在地ごとに異なる時刻を使っていたのでしょうか。
[129] 1906年の日本の学術雑誌記事は、
日露戦争開戦当時、韓国と遼東で平壌の地方時を用いる構想が陸軍内にあったらしい、
としていました
>>93。
ということになります。
満韓地方の基準時 との関係は不明です。
[203] 1904年頃発刊されていた朝鮮人向けの新聞である帝國新聞は、 各ページの日付を「大韓光武八年○月○日(○曜)」のように表記すると共に、 最初のページには、
檀君元年三千二百四十七年
箕子元年三千二十六年
開國五百十三年
孔子降誕二千四百五十五年
西歷紀元一千九百四年
日本明治三十七年
清曆光緒三十年
陰曆甲辰○月○日 (干支)
... のような各種紀年法による表示もありました。 >>202 1898年からまでは、 大韓帝国の元号のみでした。 - にはこのような表示がありました。 主たる読者だったであろう京城近辺の朝鮮人上流階級は、 大韓帝国の元号と太陽暦の日付を中心としつつも、 実生活上その他の各日付も必要としていたということなのでしょう。
[319] この頃発行されていた漢字ハングル混じりの朝鮮語新聞皇城新聞は、 「大韓元号漢数字年年漢数字月月漢数字日 曜日漢字曜」 のような陽暦と 「陰曆 干支年漢数字月月漢数字日日日干支」 のような陰暦を併記していました。 >>318, >>305 本文中では 「午前何時何分」、 「午后何時何分」のような表記が使われていました >>318。 「午正十二時十五分」 >>305 のような表記も見られました。 記事中の日付は特記がなければ陽暦と思われますが、 「陰九月十六日夜」や「陰八月初九日夜」のように陰暦のものも少なくなかったようです。 広告には「下午五時量」のような表記の時刻や「陰曆旧月卄二日」のような表記の日付も見られました。 依然として新旧両曆が混在し、むしろ陰暦によく馴染んでいた人々も多かったと見受けられます。
[633]
、
京釜鉄道株式会社は鉄道時を中央標準時
に変更しました >>134, >>1254, >>32。
京仁鐡道全線と京釜鐡道南北両線 >>305 の運転時刻が改正されました。
この変更は、
京釜鐡道が完工し南北両線が接続され、
全線での試運転が開始されることになったためのようです。
[440] 帝國新聞は、確認できる範囲では以降、 「午前|午後○時○分」 (漢数字) のような形で鉄道の発着時刻を掲載していました。 から の紙面には、 한국 표준시から일본 중앙 표준시に改める旨の広告がありました >>437, >>438, >>439。
[303] 皇城新聞にも韓國標準時から内地中央標準時に改める旨の広告が同時期に掲載されました >>302, >>305。 記事としても、 南北両線が連結され南北ともダイヤ改正があることが報じられると同時に、 韓時間から「約三十分」早い東京標準時に改められる旨が記されていました >>305。
[210] 、 在京城日本領事館の領事三増久米吉の告示により、 在京城日本領事館で韓國標準時より32分早い中央標準時が採用されました。 同時に在京城日本領事館警察署鐘楼で時鐘の報時が開始されました。 >>209, >>219
[608] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 次のように説明していました。
[1098] 日本の学術雑誌に掲載されたの釜山からの報告によると、 釜山の各国領事館その他官衙では以後日本の中央標準時が用いられることになりました。 >>97 付報告ではありますが、 施行の日は不明です。
[627] 、
日本軍は各部隊に対し、
以後中央標準時を用いるよう指示しました。
朝鮮半島北部と満洲の軍用鐡道もこの時刻によっていたかもしれません。
[298] この時系列より、 京釜鉄道の全線開通 (と軍用鉄道の北鮮、滿洲延伸) により単一の鉄道時が必要となり、 中央標準時が選ばれ、各市内の日本人がこれに追随したことがわかります。 中央標準時が選ばれたのは、 明確な大韓帝国の標準時が存在しなかったことや、 京釜鉄道が日本人により経営されていたことが理由でしょうか。 日本政府や日本軍の意向も反映されていたかもしれません。 全通後間もなく実現することになる日本の鉄道との連絡運行を見据えていた可能性もあります。
[329] しかし鉄道、郵便電信局、京城公使館、釜山領事館、日本軍の切替のタイミングが少しずつずれており、 日本政府・日本軍により、あるいは在京城日本公使館により戦略的に中央標準時に統一したのではなく、 鉄道時の変更がなし崩し的に波及していった可能性を検証する必要があります。 ただし鐘楼の建設や鐘の調達は数日でできることとは思えません。 以前から計画されていたのでしょうか。 それとも別目的で用意されていたのを転用したのでしょうか。
[297] 米国資料はを切り替えの日としていますが、 実際にはから鉄道時や日本公使館は切り替えていました。 鉄道時が郵便電信局の報時に依存していたとするなら、 郵便電信局と鉄道の切り替えは同時だったと考えるのが自然です。 の京釜鐡道ダイヤ改正と混同された可能性や、 鐡道時改正からやや遅れて市民が時刻を切り替えた可能性、 元々は「頃」の意だった可能性などが考えられるでしょうか。 あるいは郵便電信局のシステムと鉄道のシステムが共に中央標準時を受け取っており、 別個に京城時に修正していたとするなら、 両者の切り替えが別タイミングでもおかしくはないでしょうか。
[299] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 1906年の韓国統監府における の採用を大日本帝国の 「朝鮮の標準時を改変するための第一歩」であると主張しました >>360。 しかし1906年の決定は新設された韓国統監府による現状追認でしかありませんでした。 黄がなぜ1904年の出来事に言及しなかったのかは不明ですが (まさか知らなかったということはありますまい)、 大日本帝国にそのような意図があったとするなら、 それは1904年に中央標準時が採用された時だったとする方が自然です。 (日露戦争と絡めればより説得力も増しましょう。)
[300] しかしながら、実際には大日本帝国は朝鮮半島 (や滿洲や臺灣) における時刻に関して明確な戦略を有していたというよりは無計画に成り行きに任せていたと理解せざるを得ません。 もし本当に「朝鮮の標準時を改変」しようとしていたなら、 「第一歩」などと悠長なことはせず、 朝鮮政府に中央標準時採用を要求していたはずです。 遡れば1895年に既にその機会はありましたし (>>275)、 1912年までそうした要求ができなかった事情は見当たりません。
[268] Time Changes の CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF は、
から
Chosen (今の Korea) と Manchuria
が標準時 としていました >>1256。
[257] Time Changes の KOREA は、
から標準時 、
それ以前は標準時 としていました >>1256。
このという日付の根拠は不明ですが、
関係があるのかどうか、千島列島でも現れます (
[227] Shanks (2003) の KOREA, NORTH と KOREA, SOUTH は、 から としていました。 >>226
[223] Wikipedia 記事は、 1904年に支那海岸部、 朝鮮、満州でグリニッジ子午線基準の標準時が採用された >>420 としていますが、出典要検証とされています。
[301] これらの根拠は不明ですが、 米国資料と同じ情報源とみられます。 しかし支那や滿洲、果ては千島にまで対象範囲が拡大された理由は不明です。
[98] 鉄道開業当初の時刻については、 開通以来中央標準時だったなど不正確に言及される場合があるようです。 近い時代の資料では、 京釜鉄道開通当初から中央標準時 >>1097、 の京釜鉄道一部開通以来中央標準時 >>95、 朝鮮鉄道は明治37年以来中央標準時を使っていた >>113 などと表現されています。これらはいずれも実は正確な説明ですが、 一部開業と全線開通の違いや京釜鉄道による京仁鉄道買収など、 鉄道開業当初の複雑な経緯を理解していなければ誤解が生じる危険性があります。
[199] 朝鮮半島における日本政府の郵便局の消印では、 日本の元号である明治が使われました。 ただし欧文の国際郵便では、西暦が使われました。 >>198
[252] 、 大日本帝国台湾で 台湾標準時を韓国に採用せよ と題した論文が出版されました。 本論文は、大韓帝国の統治に大日本帝国が関与することになったことから、 朝鮮半島に台湾と同じ西部標準時 を採用するべきと主張したものでした。 >>346
[347] 台湾が日本の統治下に入ってから標準時を一定させ、 しかも内地と1時間の時差としたことから換算も便利になったように、 大韓帝国も交通、運輸、軍事上便利になるため、 すぐにでも標準時が実施されるべきだとされました。 >>346
[348] 西部標準時 の東経120°子午線は朝鮮半島の西部を通り、 西岸の地方時に近いこと、 東岸は30分近い時差があるとはいえ、 北海道の実績から問題ないと思われることが指摘されました。 >>346
[349] 台湾在住だったと思われる著者が、朝鮮半島の事情にどれだけ通じていたのかは不明です。
[48] 日本政府の韓国統監府は、 統監府令第13號により、 韓国統監府と所属官署の時刻を中央標準時と定めました >>47, >>1097。
[204] 鉄道や京城の日本公使館は 1904年末に既に中央標準時 を採用しており (>>633, >>210)、 朝鮮半島の日本人はこれに従っていました。 1906年の日本の学術雑誌の記事は、 韓國では既に京釜鉄道開通の頃から汽車発着その他普通の生活で中央標準時を採用してきた>>1097 としていました。 韓国統監府もおそらく設置当初からこれに倣っていたと思われ、 統監府令はそれを明文化したに過ぎないとみられます。 明文規定がないことで問題が生じたのか、単純に制度整備の一環だったのかは不明です。
[96] 統監府令は施行の日を明記していませんでした。 制定は付ですが、 日本政府の官報への掲載は でした。 1912年の学術雑誌の記事はからとしていました >>95。 朝鮮総督府の施政二十五年史 (1935) >>357 や 京城府史 (1936) >>217 は、 以来としていました。 統監府令第四號統監府令公文式は、 統監府令は各官庁に到達した翌日から起算し満7日を経て施行と定めていました >>306。 はの 7日後に当たります。
[91]
1906年の日本の学術雑誌は、
韓國はほとんどが地理的に中央標準時を用いることが当然可能だと評していました。
関東州と満鉄は中央標準時を用いている (
[121] 、 大韓帝国は隆熙に改元しました。 >>117 改元の日は明記されていませんが、 その後の出版分も含め官報ではまで光武、 から隆熙で明確に分かれていました。
[114] 大韓帝国の官報は、 この頃でも十二支時刻法を使った記事を掲載していました >>115。 「陰暦月日」のような形で旧暦に言及する記事も少なくありませんでした。
[461] 大韓帝国の官報 >>111 は、 以来国内各地の気象観測結果を毎日掲載していました。 その時刻がどのようなものかは不明です。
[234] 明治42年に日本で発行された学術雑誌の記事は、 大韓帝国の時刻のことを京城標準時と呼んでいました。 >>229
[100] 1904年末の鐡道と日本政府機関の中央標準時採用により、 朝鮮半島の時刻は京城慣用時 ないし と中央標準時 の (少なくても) 2つとなりました。 1908年時点の韓国統監府の見解では、 韓国人と外国人は京城慣用時を、 日本人は中央標準時を使っており、 不便が生じていました (>>45)。
[321] 不便が生じていたということからわかる通り、 朝鮮人、日本人、欧米人はそれぞれ独立に生活していたわけではありませんから、 この2種類の時刻も完全に人種で分かれていたとはいえません。 例えば朝鮮人や欧米人であっても鉄道に乗り遅れないためには中央標準時を把握しておかなければなりませんでした。
[325] 朝鮮半島には朝鮮政府の郵便局と日本政府の郵便局がありました。 朝鮮政府の郵便局は歴史が浅く運用が政情にも左右されていました。 この時代の状況は不明ですが、かつては欧米人も日本政府の郵便局を利用していました (>>314)。米国資料が日本政府の郵便局の状況を掲載していた (>>635) のも、 情報源であろう現地米国人の関心の範囲内にあったためと推察されます。 従って欧米人が郵便局を利用するに当たっても中央標準時に触れていたと予想できます。
[322] 1906年頃の米国資料では、 Korea の標準時は とされていました >>725。 鉄道時等の変更経緯を把握 (>>608) した上でそう記述していたということは、 少なくても米国本国では、 現地米国人がこれを使っていたと認識していたのでしょう。
[323] 釜山では各国領事館が中央標準時を採用したとの報もあり (>>1098)、 これが日本人からの報告であることを差し引いても、 少なくても1905年初め頃の釜山では欧米人が中央標準時を使うことがあったと思われます。 この頃の釜山は日本国内と見紛うくらいに日本人が居住しており、 日本人にとっては本国との連絡のためにも中央標準時が便利だったでしょうから、 そうした環境の欧米人にとっても中央標準時が便利だったことは想像に難くありません。
統監府令第十三號
統監府及所屬官署ニ於テ用ユル時間ハ帝國標準時ニ依ル
明治三十九年五月二十六日
統監 侯爵伊藤博文
(表中臺灣時刻は西部標準 時にして、京城時刻は京城標準時)
一三七ページ 明治三十七年
十一月三増領事告示に、當館に於て来る二十八日本邦中央標準時(韓國標準時に比すれば三十二分早 し)を用ひ且同日より當館警察署鐘樓に於て半鐘を報ず
三八五ページ https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC&pg=PP42
朝鮮鐵道の運轉時刻ハ三十七年以来中央標準時ヲ用キタリシカ四十一年 四月韓國標準時(中央標準時ヨリ三十分遅シ)ニ依ルコトニメラレ四十五年一月舊制ニ復 シタルヲ以テ南滿洲鐵道ノ標準時ニ先ツコト一時間ナリトス
附録 年表 八ページ https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC&pg=PP11
明治四十一年 (隆熙二年)
四月一日 列車運轉時刻ヲ韓國標準時ニ依ルコトニ改ム
附録 年表 九ページ https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC&pg=PP10
明治四十五年
一月一日 列車運轉時刻ヲ中央標準時ニ依ルコトニ改ム
[217] https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP390 二八四ページ
朝鮮標準時 明治三十九年六月二日以来半島に於ける日本帝國の諸官署のみは日本標準時を 使用し、明治四十一年四月一日以後は半島に於ける日韓兩國官署共帝國中央標準時に封し三十分 の時差を置いて標準時としたが、併合後内地との關係が益密接となり相互の交通亦頻繁を加ふる に至り、之を統一する必要を認め明治四十五年一月一日より朝鮮の標準時は中央標準時に據るこ とゝした。
[315] https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP746 五九八ページ
[219] https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP894 七二六ページ
日本標準時の採用
十一月二十八日より日本中央標準時(韓國標準時に比すれば三十二分早い)を用ゐ、領 事館警察署鐘樓に於て半鐘を鳴らし之を報じた。
[218] https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP983 八〇一ページ
韓國標準時の採用
従前各官署の執務時間は日本標準時に準じ来つたが、四月一日以来統監府竝に所屬官 署は悉く韓國標準時によることに改めた。(二月十四日付統監府令第五號)然るに比の後二年を經明治四十五年一月一日より再び中央標準時に復歸した。
台湾標準時を韓国に採用せよ ABC[著] 台湾慣習記事 第5巻第7号 台北 台湾慣習研究会 1905/07 p57-59
君も亦其の實行の方法手段に關して、高見ある所、重ねて紙上に公けにせらる~に至方 墟こ遙を輻ひ L 《編者)〇壺灣標準時を韓國に探用せよ今や時局の發展這共に、韓國に 於ける諸般の政機は、我が政府の管理の下虻綜蹄するに至れるは、人の知る所なク、 ...
雜鑰 U 肇魘棵攤畔嚇韡口惦探川乜豪)第苀簷我が磨灘を領有するに際し、其の標準時 の]定を必要ビせし理由ど、灌も異なるこどな範なク、然'IT : I( 'て!_ˉ: . ' ‵尹 00 軘淳摑 ` oo 沖 o 曳心 00 らは劇作なる帖を憂把韓國の櫓準時ヒなすべ董ゃ他なし華騰の神 ...
鹼 LO 、潺石如< ‵内地の標準降即ち中央標準時に後くる、、こ w 」`正さ〟に一時間 なれば内地に於ける十時は[韓國の九時實なるの、筒盟なる時差を示すを以て]彼我の 交通往來に際し、時計の取扱弘上の簡易なるこ E 、亦多言ずろを要せぎるべし、されば.
(97) [鐵道運行 標準時間變更 件]
社第乙四八號
拜啓從來鐵道用時刻ハ韓國標準時ヲ用ヒ來リ候處來ヨリ內地中央標準時 (內地中央標準時ハ仁川ニ於ケル韓國標準時ニ比シ三十二分早シ) ニ依リ列車運轉致候ニ付此段御届申上候也
京釜鐵道株式會社 營業部 仁川出張所長 杉甲一郞
日本公使館 御中
In 1904, during the Russo-Japanese War the Chosen Keifu Railway, a privately-run company, introduced Japan Central Standard Time as its railway time instead of Korean traditional time (UTC+08:28).[28] In 1908, Chosen Keifu Railway adopted new Korean standard time (UTC+08:30).
大韓帝国時代初期は首都・漢城(現在のソウル)での平均太陽時が標準時とされており[1]、京城時[2]や韓国標準時[3]と呼ばれていた。京城時は、日本の中央標準時よりも32分遅かった[3][4][5]。
鉄道においては、日露戦争の起きた1904年より日本の標準時が使われることとなった[6]。1904年11月20日、民間企業の京釜鉄道は運転時刻を京城時から日本の中央標準時へ変更した[3]。1906年5月26日には、明治三十九年統監府令第十三号が出され、統監府及び所属官署において使用する時刻が日本の中央標準時と定められ[7]、1906年7月1日に京釜鉄道が統監府鉄道管理局へと引き継がれた。
しかし、二つの時刻が併存しているのは、錯誤が起き易く不便であったため、統監府は方針を転換し、韓国側の時刻を採用すべく韓国政府と協議を行い、韓国政府は1908年(隆熙2年)4月1日に官報第3994号(勅令第5号)で韓国標準時を定め、同日に統監府は府令を以って韓国標準時を採用することとなった[2]。この時は、漢城のやや東を通って朝鮮半島を南北に貫く東経127.5度を基準とし、UTC(当時はGMT)との時差は8時間30分であった。
隆熙(りゅうき、융희/륭희、ユンヒ/リュンヒ)は大韓帝国で用いられた元号。1907年8月2日に純宗が即位するとともに改元され、1910年8月29日に日本による韓国併合を迎えるまで用いられた。
隆熙(1907年8月2日—1910年8月29日)是大韩帝国皇帝纯宗之年號,1907年8月2日改元隆熙。1910年8月29日日韓併合,废除隆熙年号。
In 1904, during the Russo-Japanese War the Chosen Keifu Railway, a privately-run company, introduced Japan Central Standard Time as its railway time instead of Korean traditional time (UTC+08:28).[28] In 1908, Chosen Keifu Railway adopted new Korean standard time (UTC+08:30).
朝鮮では、日清戦争で、日本のおかげで独立 ( 1895年/明治28年)が転がり込んだ時、東経126.97度基準、日本の中央標準時よりも32.12分遅い 韓国標準時を採用しました。しかし国際基準は、原則 15度 ( 1時間 ) 刻みであり、基準を満たすものではありませんでした。 朝鮮国内の鉄道においては、1904年より日本の標準時を使用しており、複雑な時刻の並存は不便であり、朝鮮統監府は、韓国側の時刻を 改良採用すべく韓国政府と協議、韓国政府は1908年4月1日に、韓国標準時を東経127.5度基準、UTC+8:30としました。
朝鮮は日清戦争で、日本のおかげで独立 ( 1895年/明治28年)が転がり込んだ時、東経126.97度基準、日本の中央標準時よりも 32.12分遅い韓国標準時を採用しました。 しかし朝鮮国内の鉄道においては、1904年より日本の標準時を使用しており、複雑な 時刻の並存は不便であり、朝鮮統監府は、韓国側の時刻を改良採用すべく韓国政府と協議、韓国政府は1908年4月1日に、韓国標準時を 東経127.5度基準、UTC+8:30としました。
1876年、朝鮮政府は長い鎖国の時代を終え、開港を断行した。近代化の道を歩み始めた朝鮮半島(韓半島)は、西洋式の標準時として東経120度か東経135度を選択する必要があった。半島の位置としては、東経127.5度がもっと適しているが、世界の主な国々との時差が1時間単位ではなく、30分単位になる不便が生じる。
長い間、中国の影響力を強く受けていた朝鮮に対しては、中国の北京と同じ時間であることが便利だった。結果、東経120度の時間(GMT+8)を標準時として選択した。
日本との併合前に李氏朝鮮によって太陽暦が採用され、時差はGMT(昔だからね)+9時間が採用された。1時間単位の方が便利なのと、近くの大国日本に合わせたと思われる。つまりGMT+9時間と定めたのは日本ではなく李氏朝鮮。
北朝鮮が2015年8月15日から平壌時間を105年ぶりに復活させました。
実は1910年の韓国併合まで日本と北朝鮮の時差は30分ありました。 韓国併合において、日本の標準時に統一しました。
[492] 朝鮮貨幣1, , http://kodaimoji.chowder.jp/moji-list/a2kfol/h2k01.html
隆煕3年紀年銭
[254] 、 大韓帝国は を標準時として定めました。 >>136, >>357, >>217, >>218
[45] 機密統發㐧一五五號で大日本帝国の韓国統監府の副統監の曾禰荒助は統監の伊藤博文に対し、 次のように報告し関係機関への通告を依頼しました。 >>44
[249] 韓国統監府は、 駐韓軍司令部、 観測所、 鉄道管理局、 通信管理局にも時刻変更の同意を取り付けました。 >>44
[250] 、 伊藤博文は本国政府に時刻変更を通知しました。 >>44
[5] 大韓帝国の勅令第五號 大韓國標準時에關ᄒᆞᆫ件 (発行大韓帝国官報第三千九百九十四号所収) は、 「従来慣用」の「京城時刻」 すなわちグリニッジ東経127度30分の平時を大韓國標準時と定め、 施行としました >>149。 つまり当時京城で現に用いられていた を国家標準時として法制化しました。
[444] 発行大韓帝国官報第四千四號の 2ページ >>443 217ページ 末尾には、 正誤と題して勅令における学部大臣名の欠落の訂正が掲載されました。 (目録 >>443 143ページ では の官報4001号に収録されているものとして 大韓國標準時件中改正件 が挙げられていますが、 誤りのようです。) 勅令本文には変更はありませんでした。
[137] 大日本帝国の韓国統監府の統監府令第五號は、 統監府および所属官署の時刻を韓國標準時とし、 施行としました >>136, >>94。
[255] 、 大韓帝国駐在の日本軍司令部も韓國標準時に改めました >>94。
[232] 、 大日本帝国の韓国統監府の鉄道管理局は、 鉄道時を韓國標準時に改めました >>82, >>83, >>113。
[261] 朝鮮半島各地の日本租界その他在住の日本人は、 韓国統監府方針に従い大韓国標準時 に移行したものと思われます。
[391] 朝鮮半島各地の日本以外の諸国租界の対応は不明です。
[244] tzdata の Asia/Seoul
と Asia/Pyongyang
は、
を境に としています >>116。
[49] 朝鮮半島の日本人にとっては、 本国との関係上中央標準時 を使い続けるのが便利だったはずです。 2、30分の地方時の時差がある九州や沖縄でも中央標準時が問題なく運用されていたのと同様、 朝鮮半島でも大きな障害ではなかったはずです。 しかしながら、 大韓帝国政府や朝鮮人と同じ土地で時差を持って生活するのは、 それ以上に大きな問題だったのだと思われます。 大韓帝国政府と韓国統監府との関係が密接化し、 会合や文書のやり取りも増えていたはずですから、 時差によるトラブルも多かったのかもしれません。
[366] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 1906年の韓国統監府における の採用を大日本帝国の 「朝鮮の標準時を改変するための第一歩」であるとし、 1908年の大韓国標準時採用は純宗による 「崩壊寸前の国権を維持しようと する試みの一つ」とし、日本は両国関係の悪化を懸念してこれを呑んだ >>360 としました。
[367] 実際には大韓国標準時の法制化は韓国統監府が提案したようで、 黄の論理は破綻しています。 仮に大日本帝国にそのような意図があるなら、 韓国統監府は を大韓国標準時として制定するよう要求したはずです。 の採用は「改変」の失敗を認めることになってしまいます。 しかし韓国統監府が 採用を躊躇した様子はなく、 むしろ推進し積極的に調整していました。
[326] 大日本帝国が特定の意図を持って戦略的に朝鮮半島の時刻に介入したと考えると、 二転三転し徹底しない日本の時刻の選択は不自然すぎて理解不能です。 その場その場の成り行きで局所的に好ましい手法を選択してきた朝鮮人、日本人、 欧米人の各勢力・事業者の思惑と判断の結果に過ぎないと考える方が、 この時代の朝鮮半島の日時の混沌を無理なく受け入れることが出来ます。
[181] 大韓帝国は、 1909年分として 大韓隆熙三年曆 を発行しました。 >>109 この年から題名が明時曆ではなくなり干支紀年が省かれるようになりました。 内容も太陽暦をベースに旧暦が併記される日本の曆に近い形式に改められました。 これ以後旧暦は日本の旧暦の日付と一致するようになりました。
[259] 、 韓国統監府鉄道は日本政府 (本国) の鉄道院に移管されました。 韓国鉄道管理局が設置されました。 鉄道院は、 鉄道院告示第八十九號で、 韓国鉄道の時刻を韓國標準時と定めました >>99。 既に韓国鉄道は韓国標準時 を採用していましたから、 これは鉄道院の制度としてそれを追認するものでした。
[120] tzdata の注釈は、2014年当時の Wikipedia 記事に に に変更されたとあるが、 他の記述と矛盾し不審である >>116, >>135, >>133 と述べています。 他にも1910年に変更されたとする記事がありますが >>188, >>215、 根拠は示されていません。 日韓併合の年に基づく推測でしょうか。
曾禰副統監織道等二直接ノ關係ァルヲ以テ直チ二實行スル能ハス初メ周知セシムル爲 メ一定ノ期限ヲ定メ置クノ必要ホスへシ李首相韓人ハ餘リ時ヲ顧ミサルヲ以テ利害關係 ハ少キモ日本人-一ハ大二利益ァルへシ且ッ锥道等一一ハ直接二關係ヲ及如キ惡口モ止ムへシ曾騸副 統監本勅令發布セラルレハ日本人ノ正午モ韓人ノ正午モ同一トナリ彼ノ日本人カ午-一ァラサル時ヲ午ト云フカ李首相其 レハ實一一然リ曾禰副統監從來京城慣用時カ日本時ト三十分ナル簡明ノ差ァリタル事 ハ檫準時ヲ一定スル爲メ二ハ好都合ナリ李首相標準時ノ件ハ畢部ノ主管ナルカ故二 照會ヲ受領セハ其ノ勅令案-一依リ奏請 ...
원문서명 通牒 발신자 學部秘書課長 金思重 발신일 隆熙二年二月四日 ( 1908년 02월 04일 ) 수신자 內閣法制課長 洪運杓 座下 通牒
大韓國標準時定行에 關 請議書 送交오니 照亮오셔 會議에 提出케 심을 爲要.
學部秘書課長 金思重
內閣法制課長 洪運杓 座下
隆熙二年二月四日
學秘機密發 第三七號
統監府令第五號
統監府及所屬官署ニ於テ用井ル時ハ韓國標準時ニ依ル
附則
本令ハ明治四十一年四月一日ヨリ之ヲ施行ス
明治四十一年二月十四日
統監代理
副統監 子爵 曾禰荒助
公報 明治 41년 2월 15일 【統監府告示 第五號】 統監府 及 所屬官署에서 使用하는 時는 韓國標準時에 依함 附 則 本令은 明治四十一年四月一日부터 施行함 明治四十一年二月十四日 統監代理 副統監 子爵 曾禰荒助
●韓國時間採用
(日本時間より三十分遅る)
帝國鉄道廳にては來四月一日より韓國京釜 京義全線發着時刻改正と共に同發着時間は 韓國標準時を用ふる事となりたりされば今 後韓國に於ける鉄道時刻は總て三十分宛遅 る〻事となるべし
151 ページ
〇韓國の標準時
韓國政府は今回標準時の制度を定憐束經百廿七度牛の子午線の時を以て至國]般の
王となぜ葉是によれば日本の標準時と三十分の差あら即韓國曜報(二七) 韓日博報(一
...
152 ページ
韓日博報(一一八)ち日本の正午は韓國の午前十一時三十発韓國の正午は日本の午後
零時三十好に該営す従來韓國には二様の標準時ぁ』一は韓國側にして韓國標準時を
とろもの、一は日本側にして日本標準時をとるもの之與同一場所に於て二個の標準時あるは不便離少とせ ...
151 ページ
是にょれば日本の標準時と三十分の差あら即寶博熱・(二七)人)警察髖五十四入(日人)
配匱數髏覷廳五人) (各道四十九人)皿睜瓦十二人(內釁日人十三人‵韓人三十九入)
‵事'配櫪數詐覷醜三人(日人】人、韓人二人)各道四、十九人( B 入十二人‵韡人、三 ...
152 ページ
... 新化全國標準時玄定 U 丕江當軋日本側菴之怔工石三士杠垂、統監府及所在官廳
憶其口日豐告一不迂軋軍司命部恣遠加 5 蠻之化傚本在 5 ん。汽車`汽船郵便電信等
交遜機關の日本標準時なるを以て韓国側も勢ひ續て之に支配せらるる氣味な優しが茶
...
51 ページ
藝韓國の標準時韓國政府は今回標準時の制度を定め、束經百廿七度半の子午線の時
を以て全國一般のさとなせり。是によれば日本の標绺時と三十分の差あ 6、即铋國時報
(二七)警部,、査楚搭配& 61 人ず人十各道百三配&數干三十二人)配^ 6;配&數十七 ...
52 ページ
從來、韓國には二樣の標準時あり、一は韓國側にして韓國標^ -時をとるもの, 1 は日本
側にして日本標準時をとるもの之也。同一場所に於て二個の標準時あるは不便鈔少
とせず。韓國政府の新に全國標準時を定むるに當り、日本側も之によるととなケ統監府
及 ...
鐵道院告示第八十九號
韓國鐵道ニ於テ用井ル時ハ韓國標準時ニ依ル
明治四十二年十二月十七日
鐵道院總裁 男爵後藤新平
[83] 朝鮮総督府鉄道局『朝鮮鉄道史. 第1巻』(1929.10) | 渋沢社史データベース ( 版) http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12020&query=&class=&d=all&page=6
明治41年(1908) 4月1日 列車運転時刻ヲ韓国標準時ニ依ルコトニ改ム
勅令第五號, 大韓國標準時所關件。 裁可頒布。 【從來慣用京城時刻, 卽英國 구린위취 觀象台子午儀中心爲基本, 東經百二十七度三十分平時也。 定爲大韓國標準時, 自隆熙二年四月一日施行。】
古くの朝鮮では、東経127.5度(WoW! Koreaでは同127度としている)を基準にした標準時を採用しており、日本と30分の誤差があったが、日韓併合後の1912年に東経135度を基準とする日本標準時 (UTC+9:00) に合わせるようになった。また、韓国も1954年に東経127.5度を基準とした標準時に戻したが、経費の負担が増したことや在韓米軍の作戦への影響から、1961年に再び東経135度を基準とする標準時に戻されており、現在までUTC+9:00が用いられている。
ニ三ページ
「李太王実録」(六冊。資料二四冊)であるが、その第一の巻首の「第一章 総説 第一節 編修例言」につぎのよ うに書き記されている。
第五則 紀年ハ干支ヲ以テ一貫シ本邦紀年ノ下ニ其ノ他ノ紀年ヲ注記ス。
従来朝鮮ニハ一王ノ法徧ク行ハレスシテ公私ノ文書ニ雑多ノ紀年ヲ慣用セリ。太王一代ノ間ニ於テ特ニ多シ。 李氏開国紀年ハ一タヒ之ヲ江華条約ニ始用シ各国締約ノ文書ニハ往々之ヲ用ヒタルモ、国内ニ於テ慣用シタル ニハ非ス。明治二十七ニ至リ突然開国五百三年ノ紀年ヲ用ヒ建陽建元ニ至リ止ム。其ノ間二個年ニ満タサルナ リ。近年ニ至リ民籍ニ開国紀年ヲ用ヒタルハ後日ノ遡記ニ係リ徒ラニ紛更ヲ加ヘタルモノナリ。李王職ノ作成 シタル王公族牒籍ハ民籍ノ例ニ同シ。
清朝ニ朝貢セル時代ニ於テ事大文書並ニ国内ノ告身式ニハ清朝ノ紀年ヲ用ヒタルモ、哲宗王ノ墓表陰記ノ如キ ハ明朝ノ崇禎紀年ニ依レリ。
又即祚紀年ヲ用ヒタルモノハ、即祚ノ翌年ヲ以テ元年ト為スヲ例トセリ。而シテ建陽建元以後ニモ此ノ紀年法 ヲ用ヒタルモノアリハ、従来朝鮮ニハ建元ノ例極メテ少ナキヲ以テ、建元紀年ノ効用ヲ鮮スルモノ少キニ因ル。 干支紀年ハ上世以来彼我ノ同一ナル所ニシテ、拠テ以テ一貫ノ紀年ト為スヲ得ヘシ。干支周甲ノ場合ニ邵雍ノ 元会説ニ依リテ命名セルコト申翊聖ノ皇極経世書補編洪啓禧ノ経世指掌ノ書ノ如キモノアルモ、公行ノ例ナキ ヲ以テ、他ノ紀年法ヲ参用シ干支ノ上ニ本邦紀年ヲ冠シ、下ニハ王家ノ即祚紀年或ハ開国紀年元号紀年ヲ参用 シテ対照ト為ス。而シテ改元ノ年ニハ初日ニ遡リテ元年ト書シ、即祚紀年ヲ注記スルニハ単ニ即祚某年ト書シ、 前代君主ノ即祚紀年ニハ某王即祚某年ト書シ、開国五百三年以後ハ即祚紀年ノ注記ヲ省略シ、建陽建元以後ハ 開国紀年ヲ省略シタリ。
外国交際ニ関スル章節ハ或ハ清朝紀年ヲ注シ、或ハ西洋紀年ヲ注ス。彼我ノ対照ニ便スルナリ。
第六則 暦日ハ時用ノ制ニ従ヒ明治二十九年一月一日ヲ以テ分界トス 朝鮮ハ古来ヨリ固有ノ暦法アラス。太王ノ即祚ノ初年ニ千歳歴ヲ続纂シ、翌年甲子ヲ以テ元年ト為シ、之ヲ国 内ニ行用シ首ニ時憲書ヲ以テ起数ストノ一語ヲ加ヘテ、以テ清朝ノ正朔ヲ奉セサルニアラサルコトヲ示シタル ハ太陰暦ノ法ナリ。而シテ其正閏ハ必シモ我カ邦ノ太陰暦法ト一致セス。之ヲ行用シテ即祚三十二年○明治 二十八年 十一月十六日ニ至ル其ノ翌十七日ヲ以テ建陽元年○開国 五百五年一月一日トシ、明時歴ヲ用ヒタリ。其ノ太陽暦ノ法タル コト、我ト同一ナルモ陰陽歴ヲ併用シテ軽重スル所アラス。本書ハ朝鮮文書ヲ撮録スルニ当リ、其ノ記載ノ暦 日ヲ我ノ暦日ニ改定スルハ頓ニ堪ヘサルヲ以テ、明治二十九年一月一日ヲ以テ分界トシ、其ノ以前ハ彼ノ太陰 暦ニ依リ、以後ハ太陽暦ニ依リ彼我交渉ノ場合ニハ暦日ヲ対照シテ之ヲ註記ス。近時撰述ノ李太王行状及ヒ壙 誌ニ陰暦ヲ用ヰタルモノノ如キハ、時用ノ制ニ反スルモノニシテ王ノ薨年ニ一年ノ差錯ヲ生セリ。
三一ページ
「李熹公実録」(三冊。資料六冊)であるが、その第一の巻首の「第一章 総説 第一節 例言」につぎのように書 き記されている。
一 紀年ハ干支ヲ以テ一貫シ他ノ紀年法ヲ参用ス。周甲後モ亦タ同シ。 本書ノ資料ニ用ヰタル文書ニハ干支紀年ノモノアリ。公ノ従官録ノ如キ是ナリ。日本紀年ノモノアリ。我一切 ノ官公文書是ナリ。而シテ併合以前ノ朝鮮ニハ各種ノ紀年法並ヒ行レテ其ノ改廃モ一ナラス。李氏朝鮮ノ開国 紀年ハ明治九年丙子ノ江華条約ニ始用シタルモノナルモ民籍ノ懸録ニハ其ノ以前ノ事実ニ遡リテ之ヲ行用シ建 陽建元以後ニハ之ヲ行用セサルナリ。建陽紀年ハ明治二十八年乙未ニ一世一元ノ制ヲ定メ翌年ヲ以テ建陽元年 ト為シタルニ始マルモ、開国五百六年丁酉八月十二日詔ヲ以テ之ヲ繳消シ光武ト建元シタリ。光武紀年ハ光武 十一年丁未七月十九日李王ノ受禅ニ至リテ止ミ、同年八月三日ヨリ隆熈ノ改元ヲ行用シタリ。而シテ隆熈紀年 ハ其ノ四年庚戌八月二十九日併合ニ至リテ止メリ。此ノ他開国ノ初ヨリ明清ノ年号ヲ行用シタルモノアルモ、 明治二十七年甲午六月二十二日以後ハ清朝ノ年号ヲ用ヰス。又明ノ亡滅後ニ於テ故サラニ崇禎紀年ヲ用ヰタル モノアリ。哲宗王陵ノ表石陰記ニ崇禎紀元後二百四年辛卯六月十七日誕生ト書セル如キハ其ノ一例ナリ。又在 位国王ノ即祚紀年ヲ用ヰタルモノアリ。即祚ノ翌年ヲ以テ元年ト為スヲ例トス。近代ノ憲宗哲宗ヨリ李太王ニ 至ルマテ皆是ナリ。而シテ建元以後ハ之ヲ用ヰス。今本書紀年ニ参用註記スルニ当リ、其ノ開国紀年ハ遡及シ テ江華条約ノ先後ヲ論セス。降テ建陽建元ノ前年ニ止メタリ。建陽二年ハ略シテ之ヲ光武元年トシ、光武十一 年ハ略シテ之ヲ隆熈元年トセリ。而シテ李氏朝鮮ノ号タルヤ朝鮮ヲ以テ地域ノ名称ト為シタルニハ非スシテ、 李氏有国ノ国号ト為シタルモノナレハ、其ノ紀年ヲ称スルニ当リテハ朝鮮開国某年又ハ李氏開国某年トシ、建 陽元年ニモ李氏又ハ朝鮮ヲ加書スルヲ相当トスト雖モ、今ハ略シテ開国某年又ハ建陽某年トシ、又其ノ天下号 ヲ有セル時代ニハ大韓光武某年、又ハ大韓隆熈某年ト書スヘキモノナルモ、略シテ光武某年又ハ隆熈某年ト書 シタリ。而シテ即祚紀年ハ隆熈改元以後ハ重複ニ属スルヲ以テ、之ヲ略シ外国紀年ハ全ク之ヲ省略シタリ。
一 併合以前ノ暦日ハ明治二十八九年ノ交ヲ以テ分界トシ、前ハ千歳歴ニ依リ後ハ太陽暦ニ依ル。 近代朝鮮ノ暦法ハ明ノ大統暦清ノ時、憲書ヲ用ヰ太陰暦ノ法ナリシカ、明治二十九年丙申一月一日以後太陽暦 ノ法ヲ並用シ、明治三十年丁酉八月十三日ニ至リ其ノ暦書ヲ明時暦ト名ツケタリ。而シテ我邦ハ明治五年壬申 十一月開国四百八十一年李太王九年 太陽暦ヲ採用シ、其ノ十二月三日ヲ以テ明年一月一日ト定メタルモノナレハ、其ノ間彼我ノ暦 法ニ異同アルハ勿論彼ノ行用シタル太陰暦ノ法モ亦タ我ト其ノ暦日ヲ同シウセサルモノアリ。今千歳暦ニ依リ 最近李熹公ノ生弘化二年乙巳以後ニ於ケル彼我ノ異同ヲ対照スルニ、弘化三年丙午七月大八月小ハ彼ニ在テハ 七月小八月大ナリ。(中略)而シテ明治二十九年建陽 元年丙申一月一日以後ハ彼我ノ陽暦ニ異同アラサルヲ以テ陽暦 ノ暦日ニ依レリ。而シテ李熹公ノ従官録ノ日子ノ記載ハ併合後ニ至ルマテ尚ホ千歳歴ニ依リタルモノナレハ、 之ヲ鈔載スルニ当リ三正綜覧ニ依リ二暦ノ対当日子ヲ求メ、且ツ其ノ旧ヲ註記セリ。故ニ陽暦日子ノ下ニ陰某 日ト註セルハ皆千歳暦ノ推歩ニ従ヒタルモノナリ。
1897年 大韓帝国独自の農暦(1895年下関条約で清国から独立している)
1899年 京釜鉄道の時刻表は UTC+8:28 (京城時と呼ばれた)
1904年 UTC+9:00 (普通の日常生活で用いられていた)
1908年 大韓帝国がUTC+8:30にすると発表(平壤時間と呼ばれた)
韓国統監府もそれに合わせる
韓国併合 1910年 UTC+9:00 (2014年Wikipediaではこの年標準時設定となっている)
1912年 UTC+9:00 (1910年に韓国併合をしている)
[231] Wikipedia 以外出典不明で、書いてある内容も怪しい。
1897年 韓国標準時を制定(+8時間28分)
1904年 日露戦争時に日本の標準時を使用開始(+9時間)
1908年 韓国標準時(127.5度線を基準)の時間を再定義(+8時間30分)
1912年 日本の135度線と合わさる。(+9時間)
1935年 満州国も日本時間に合わせる。
1954年 韓国標準時を採用(127.5度線を基準)(+8時間30分)
1961年 135度線を基準とする標準時を採用(+9時間)
以下詳細をwikipedia より抜粋。
[7] 1905年の日本政府の書籍は、 朝鮮半島の旧暦のことを韓曆と呼んでいました >>79。
[63] Kyoto University Research Information Repository: 朝鮮における時憲暦の受容過程とその思想的背景 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/134678
[101] http://210.204.213.159/_Common/Download.nfm?filename=141119_press.pdf&dir=16
[103] http://210.204.213.159/_Common/Download.nfm?filename=01.pdf&dir=22&seq=4620
[105] 대한제국기太陽曆의시행과曆書의변화, 정성희 http://db.history.go.kr/download.do?levelId=kn_103_0020&fileName=kn_103_0020.pdf
大統暦1392-1653 / 時憲暦1653-1782 / 千歳暦1782-1894 / グレゴリオ暦1894-1897 / 明時暦1897-1905 / 千歳暦1905-1907 / 隆煕暦1907-1910
[107] 唐突な千歳暦とグレゴリオ暦が謎だ。
[110] 민속박물관 - 주요 소장품 검색 () http://nfm.museum.go.kr/nfm/ownMuseumSearch.do?JSON=%7B%22DO_SEARCH%22%3A%221%22%2C%22SEARCH_MODES%22%3A%22DIRECTORYS%22%2C%22SEARCH_STR%22%3A%22%22%2C%22IS_OWNER%22%3A%221%22%2C%22MCBSCODE%22%3A%22PS09006001005%22%2C%22PAGE_ROW_COUNT%22%3A%2212%22%2C%22MASTER_MCBSCODE%22%3A%22PS09%22%2C%22MCCLEVEL%22%3A%226%22%2C%22CURRENT_PAGE%22%3A%221%22%7D
先の招討使日記には「光緒」という清国の年号を使っているが、政府内では清国年号、日本に対しては「干支」、西洋国には「開国」年号を使い分ける、これが当時の朝鮮国なり。
[332] アラベスク 二重丸印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-64.html
[333] アラベスク 二重丸印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-61.html
[334] アラベスク 使用済 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-57.html
[335] アラベスク 消印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-55.html
[336] アラベスク 偽印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3285.html
[337] アラベスク 偽印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3284.html
[338] アラベスク 梨花切手 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3030.html
[339] アラベスク ? (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2862.html
[340] アラベスク 販売用CTO? (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2057.html
[341] アラベスク e.t.c (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1750.html
[342] アラベスク 日本局消し (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1566.html
[343] アラベスク カバー (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1231.html
[344] アラベスク Last Day (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1213.html
[352] 제주 향교 문서 번역, 김 지 홍, https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:JJE8zvyBap8J:https://t1.daumcdn.net/cfile/tistory/2331074555BAC2BD1C%3Fdownload&cd=13&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
孔子降誕 二千四百八十一年 庚午(1930년) 冬
[370] https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=27746&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
は >>475
[480] >>479 は日本語の概要が付いていますが、冒頭がいきなり
本論文は、朝鮮人を愚民化することで、‘忠良なる臣民’に育成しようと 思った日帝の植民地政策が、初等學校教育と日常でどう行われたことを敎科書と暦を通じて理解することにある。
でなんかよくわからない陰謀論的結論ありきで行論します宣言しちゃってます。
は >>483
は
で、ウェブ上では閲覧不可。