[1] 李氏朝鮮時代末期から大韓帝国時代は、 旧来の支那式日時制度から西洋式の日時制度や独自の日時制度へと移行していく激動の時代でした。
[262] 高麗国にかわって成立した朝鮮国 (李氏朝鮮) も、支那王朝 (明国、のち清国) の属国でした。 政治や文化の諸制度と同様、日時制度も支那の制度をベースとしていました。
[415] 李氏朝鮮は、 紀年法として支那の元号や干支を使っていました。
[263]
しかしすべての場面で支那の元号をそのまま用いていたわけではなく、
例えば明国滅亡後清国の属国となってからも、
旧宗主国の明国の元号を使い続けました。
[264]
正史の朝鮮王朝実録では、
干支や支那の元号だけでなく在位紀年が用いられました。
現在でも李氏朝鮮時代の記述では在位紀年がしばしば用いられています。
[331]
日本との外交文書では、当初明の元号, のちに干支年を用いました。
日本側は日本の元号, 時折干支年を用いました。
[73] 李氏朝鮮や支那では、 当時近代的標準時制度は未実施でした。 各地の真太陽時が用いられました。
[118] tzdata は元の LMT を
Asia/Seoul
は 、
Asia/Pyongyang
は
としています >>116。
[364] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 「朝鮮では当代 国家の都の地(首都)に位置する子午線を本初子午線にして標準時を定め、1日を12時 間とする時間制を制定して使用してきた」 >>360 とし、 李氏朝鮮やそれ以前の王朝が標準時を制定していたと主張しました。 1日を12分割するというのは、十二支の時法のことでしょう。
[265] 首都の時刻を全国で標準的に用いていたとすると、 時刻を朝鮮半島全体に送信できる技術を朝鮮国が保持していたことになりますが、 その根拠は示されていません。
[309] 明国属国朝鮮の国王の世宗は、 日時計や水時計を作らせました。 昼は日時計が、夜は水時計が用いられました >>410, >>411。
[413] 、 蒋英実は水時計の自撃漏を製作し、 景福宮南側の報漏閣に設置しました。 自撃漏は標準時計となりました。 >>412
[414] >>37、 蒋英実は日時計の仰釜日晷 (앙부일구, Angbu Ilgu) を製作し、王宮に設置しました。 これが漢陽の標準時となりました。 >>410, >>411
[266] 仰釜日晷が設置されたのは惠政橋 (혜정교) と宗廟 (종묘) だった >>39 といいます。
[267] 韓国語版 Wikipedia の過去の版は、 これを 126°58′41″ = であるとしていました。 現在の版や英語版 >>410, >>411 では としています。 変更の理由は不明です。
[74] 李氏朝鮮の暦は、正式には宗主国の明国や清國の農暦であり、 支那の地方時に基づき計算されたものでした。
[2] 1442年以後、
朝鮮国の地方時に基づき計算した七政算を独自に運用するようになりましたが、
宗主国の暦と一致させるため、何度も改暦や本来の計算結果と異なる修正が行われました。
(それでも清国と異なる日付となったことが何度かあったようです。)
[87] 京城には天文台がありました。 高さは20呎でした。 天体に異状があるときは 国王に奏上し、 国王は北京朝廷に報告していました。 >>81
[84] 1894年まで、 李朝の星学家は毎年支那から取り寄せた暦本を理解し応用する程度でした。 天文台は暦本発行の義務を有していましたが >>81、 天文台長が支那の原本と異なる暦本を発行したときは、 遠島の流刑の厳罰に処されていました。 にも関わらず天文学は“旧来の星學や魔法の範囲”に留まり未発達でした。 >>80
[470]
清はに時憲暦を採用しましたが、
属国の朝鮮はから時憲暦を採用しました
>>388 p.
[471]
しかし清は朝鮮が時憲暦の全般的な知識の習得を禁止しており、
朝鮮ではその運用が進みませんでした。
朝鮮が十分な知識を得て運用するようになったのは、
18世紀後半でした。
>>388 p.
[472]
北京と漢城は時憲暦における経度12度30分、時間42分の経度差がありました。
そのため清の暦書と漢城基準暦は月の大小や閏月が異なる場合がありました。
正祖時代に自国の暦書を使う機運が高まりましたが、
朝鮮国内からの批判がありました。
そのため清の暦書と著しく異なる場合に、
暦法を改変してでも清の暦書と一致させました。
>>388 p.
[182] 李朝時代末期の記録によると、 子供が生まれるとその出生の時刻を正確に記録し、 将来を占っていました。 年齢は数え年を使っていました。 >>9
[183] 「正確」がどの程度のものかは不明ですが、 それなりの時刻を知る方法があったということになります。
[186] 官衙や高等行政官 (郡長知県など) の住宅は、 市内北壁付近の高台にあり、 周囲に高さ一丈一尺の壁と門がありました。 門の上には四方に開いた瓦葺きの櫓があり、 朝夕は太鼓で報時していました。 >>12
[230] 現在でもソウルには鍾路と呼ばれる道路があり、 繁華街で周辺の地域名ともなっています。 鍾路の由来は李氏朝鮮時代の普信閣の時鐘とされています。 4時に33回、 19時に28回鳴らして城門の開閉の合図としていました。 >>214
[313] 李氏朝鮮が を標準時として採用した >>189 とする説があります。 かつて韓国語版 Wikipedia は李氏朝鮮中後期に北京の が標準時となったとしていましたが、削除されました >>327。 いずれも根拠は不明です。清国の属国であったことから、 清国末期以降の支那海岸時 を類推したものでしょうか。
[369] の11時 (どの時刻で?) までは 、 それ以後は とする説もあります >>368。 妙に具体的な数字が出ていますが、 事実と全く異なり ( への移行は、 日韓併合は、 中央標準時 への移行はでどれも少しずつ違います)、 根拠は不明です。
[486] jic084_302.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134678/1/jic084_302.pdf
[162] 、 大日本帝国と朝鮮国は日朝修好条規に調印しました。 その日付は、
[392]
日本側が提示した原案では
「大日本神武紀元二千五百三十六年明治九年」、
「朝鮮国丙子」
でした。
>>388 pp.
[389]
従来、日本は日本の元号を、
朝鮮は干支年を使っていました (
[416]
しかし協議において朝鮮側は両国の対等性に強いこだわりを持っていました。
そこで開国紀元を加える形の修正が行われたのです。
>>388 pp.
[270] 日朝修好条規は朝鮮國を独立国と定めていました。 実際には未だに朝鮮は清の属国でしたが、 だからといって清の元号を使うわけにもいかなかったようです。
[167] これが開国年号の始まりとされています >>13。 だとすると開国年号は皇紀に触発されて使い始められたということでしょうか。
[165] 、 大朝鮮國と大美國は朝美修好通商條約に調印しました。 正文である漢文版には、 朝鮮側は 「大朝鮮國開國四百九十一年 即中國光緖八年四月初六日」、 米国側は 「大美國一千八百八十二年五月二十二日」 とありました。 >>163 英文版には、 「May the 22nd, A.D. 1882」 とありました。 >>164
[271] 朝美修好通商條約は清国と米国によって起草され、 清国立会の元朝鮮国と米国が調印しました。 そのため支那の元号も併記されたのでしょう。
[421]
条約締結と同時に、
朝鮮が中国の属国で内政と外交は大朝鮮国君主の自主による旨の照会文が米国大統領に送付されました。
その日付は、
「大朝鮮国開国四百九十一年即光緒八年三月二十八日」
でした。
>>388 p.
各条約で踏襲されました。
>>388 p.
[354] の条約: 大日本国明治、大朝鮮国開国 >>353 /384
[419]
このときの済物浦条約・日朝修好条規続約以後の条約は明治と開国が使われました。
取極や往復文書等では朝鮮は干支年のみを使うことが多くありました。
>>388 p.
[423]
10月、
中国朝鮮商民水陸貿易章程
が制定されました。
日付は光緒のみでした。
なお前文で朝鮮は中国の属国と明記されていました。
>>388 p.
[159] 、 朝鮮政府の統理衙門博文局が初の近代的新聞である 漢城旬報 を創刊しました。 第1号では欄外に「中國光緒九年」と併記されていました。 第4号以後支那の元号は欄内に併記されるようになり、欄外には 「西歴一千八百八十三年十一月三十日」 と西暦 (グレゴリオ暦) が併記されるようになりました。 >>160
[446] 関連して兪吉濬が書いた 創刊辞 冒頭には、 「檀君開国四千四百」 と途中まで書いて削除され、 「大朝鮮開国四百九十二年」 と修正されていました。 >>447
[449]
兪吉濬は同時期に皇紀への言及があり (
[356] 明治19年1月の契約: 大日本明治、大朝鮮 + 干支年 >>353 /402
[649] この頃朝鮮半島に滞在していた欧米人や日本人は、 日常生活では自国の日時制度 (西暦 (日本人は日本の元号)、 グレゴリオ暦 (露国人は露暦)、 西洋式時刻) を使っていたとみられます。 時刻は地方時が一般的だったのでしょうか。
[397] 以後、 在漢城日本公使館では定時の気象観測が行われていました >>395, >>393, >>207 (、、 >>207)。 時刻が何であったのかは不明です。 (これ以前にも観測が行われたことがありますが、記録は残っていません >>207。)
[458] 1887年頃から、 在朝鮮ロシア帝国公使のウェベル (Karl Ivanovich Weber, Carl von Waeber) による京城での定時の気象観測が行われていました >>207。 また朝鮮海関により元山、仁川、釜山での観測も行われていました >>207。 観測に用いた時刻が何であったのかは不明です。
[424]
、
朝鮮の駐日公使派遣の国書の日付は
「大朝鮮国開国四百九十六年朕御極之二十四年六月十三日」
でした。
>>388 p.
[425]
当時朝鮮へは清の干渉が強まり、
朝鮮は自主の拡大を企てていました。
即位紀年の利用は (清国以外に対し)
清の元号を使わないという意志の表れとされます。
>>388 p.
[355] 西暦1888年の条約: 大朝鮮国開国、 大露西亜 (西暦 + ユリウス暦) >>353 /399
[225] Shanks (2003) の KOREA, NORTH と KOREA, SOUTH は、 から (それ以前はLMT) としていました >>226。 根拠は不明です。 1890年代の時期不明を表している可能性もあります。
[363] の契約: 大朝鮮開国 + 干支年 >>354 /427
[428]
、
朝鮮は日本に倣った新式貨幣の発行を計画しました。
日本の大阪造幣局で彫刻された地金には
「大朝鮮国開国五百一年」
と刻まれました。
>>388 p.
[429]
これに対し、清の袁世凱は、
国号に「大」を付けたこと、
光緒ではなく開国を使ったことを、
属国では許されないことだと介入しました。
朝鮮は国際条約の先例を挙げて反論しましたが、
清は外交と内政は違うと一蹴しました。
>>388 p.
[430]
結局は
「朝鮮国五百二年」
と「大」を削って発行されました。
しかし発行量が少なく政治的影響は大きくありませんでした。
なおこれ以前にも開国入りの貨幣は鋳造されていましたが、
発行には至らず問題になっていませんでした。
>>388 pp.
[279] に仁川で出版された日本人著者の日本語書籍 仁川事情は、奥付の出版の日付を 「明治廿五年十月十五日、朝鮮開國五百一年秋八月廿五日」としていました。 >>280 (朝鮮で発行された初の日本語書籍ではないかと言われています。)
[281] 仁川の朝鮮海関の執務時間は、 原則として日の出から日没までと定められていました。 時間外の手数料は「夜の12時」が境界とされていました。 公休日として日曜日の他、 陽暦の年末年始と陰暦のいくつかの日が定められていました。 >>280 DjVu 16ページ
[431]
、
朝鮮国の軍国機務処議定存案
「今より以後、国内外の公私の文牒に開国紀年を書く事」
によって、
光緒にかえて開国を使うこととなりました。
>>388 pp.
[530] 李氏朝鮮の官報は、 と干支紀年で始まり、その次の年号が となり、以後開国年号となっていました。 >>168
[172] Wikipedia は、 に李氏朝鮮が開国年号を採用したとしています >>173, >>174。
[177] の日朝両国の条約は、 調印を としていました。 また本文中に とありました。 >>176
[451] 王命と国王への上書を管理した承政院 (改称して承宣院, 後に秘書院) の 承政院日記 (承宣院日記) は、
と変化しました。
>>388 p.
[455]
開化派政府が紀年法改革を行った後も、
王室側は情勢を見守っていたと推測されます。
は新任の日本の井上馨公使が内政改革綱領を示して王室に強圧的な姿勢を取り始めた時期に当たります。
>>388 p.
[468]
李氏朝鮮政府は、
翌の暦書として、
従来の
大清光緒二十年歳次甲午時憲書 ()
と内容は同様で紀年法が異なる
大朝鮮開國五百四年歳次乙未時憲書
を発行しました。
>>388 p.
[275] 、
東京帝国大学は台湾の標準時 (後の西部標準時) の検討にあわせて、
朝鮮国にある日本の官庁では西部標準時
を採用するべきであり、朝鮮国の標準時も
とするよう勧告するべきだ、と日本政府に提案しました。
これを受けた大日本帝国の勅令案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし内地と朝鮮国駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
朝鮮国の標準時はまた別であり時期尚早だとして、
削除されました。
[276] 東京帝国大学の検討では、 朝鮮半島の東岸では標準時と地方時の時差が30分以上となるものの、 北海道と中央標準時で時差があってもそこまで問題にはなっていないとしていました。
[650] 東京帝国大学や東京の日本政府の関係者が朝鮮国の事情にどこまで通じていたか不明ですが、 未だ近代的標準時を実施していないと認識していたことがわかります。
[433]
、
朝鮮国の内閣は、
大朝鮮帝国への改称、
国王の皇帝即位、
建元を
「伏候」
し、裁可されました。
>>388 pp.
[434]
、
日本を除く各国公館の反対のため、
皇帝即位は延期され、
太陽暦への改暦のみ詔勅で公布することになりました。
>>388 p.
[435]
、
開国504年11月17日をもって開国505年1月1日とする詔勅が
官報
号外に掲載されました。
>>388 p.
[155] 、 朝鮮国はより太陽暦を採用し、 建陽と建元し、 一世一元とすることと定めました。 >>154
[328] の翌日がとなりました。
[158] この頃既に官報掲載の郵便の時刻は「午前○時」、「午後○時」と記述されていました。
[469]
李氏朝鮮政府は、
翌の暦書として、
大朝鮮開國五百五年歳次丙申時憲曆
を発行しました。
清国の時憲暦の名称を引き継いでいましたが、
清の避諱を反映した前年までの時憲書ではなく、
時憲暦という書名になっていました。
また、
この年から従来の陰暦の暦書の内容の最下段に陽暦の日付と七曜が追加されていました。
>>388 p.
[76] 後に標準時が となるまで、 旧暦の日付は清国の農暦と同じままでしたし、 太陽暦を採用したにも関わらず曆は旧暦しか扱っていませんでした。
[450]
こうした一連の近代化政策には、
開国紀元の採用や建元や改暦などを含め、
の日清戦争当時に樹立された開化派政府の閣僚となった兪吉濬が主導していたとされます。
>>388 p.
[456]
承政院日記 (承宣院日記, 秘書院日記)
は、
開国と干支年と陰暦の日付を書いていましたが、
からはそれに加えて陽暦の日付が併記されるようになりました。
王家が内部では建陽の利用を回避していたことがわかります。
>>388 p.
[179] 李朝は 1897年分の曆として 大朝鮮建陽二年歳次丁酉時憲曆 を発行しました。
[462]
、
詔勅により、
王室祭祀では旧暦を幷用することとされました。
実質的には陰暦への復旧措置だとされます。
>>388 pp.
[436]
、
詔勅により
「乙未十一月十五日の詔勅」
が (建元と断髪) 取り消され、
新たな建元が命じられました。
>>388 p.
[145] 、 李氏朝鮮は新しい元号として光武を建元しました >>139, >>141, >>143。
[441]
、
議政府議政沈舜沢が「光武」と「慶徳」の2案を奏上し、
高宗が「光武」を選びました。
掌礼院が択んだ吉日の8月16日から開始されました。
>>388 p.
[146] その前後、までの官報定期分は、 旧元号の建陽を使っていました。 しかしとの号外は、 開国年号を使っていました。 から光武となっていました。 その後の発行分の記事内でも、 とは開国年号でした。
[126] 李氏朝鮮から日本政府への通知では、 より光武に改元し太陽暦を用いる >>125、とされていました。
[147] 中文版 Wikipedia は から光武としています。 >>132
[153] 大韓帝国の官報には、 この頃でも依然として内容が旧暦で記述された記事を少なからず掲載していました。 十二支時刻法もしばしば使われていました。 一方で郵便の時刻は「午前○時」、「午後○時」と記述されていました。 太陽暦や西洋式時刻が使われ始めたものの、 王宮内をはじめ旧来の日時制度が公式に使われ続けていたようです。
[457]
承政院日記 (秘書院日記)
は、
から、
「光武元年丁酉七月十九日」
のように
光武と干支年と陰暦の日付に陽暦の日付を併記する形となりました
>>388 p.
[463]
、
大君主、
王太后、
王太子、
王太子妃の誕生日は
「今より」
陰暦に従うものとされ、
翌年の暦に陰暦で記載することが裁可されました
>>388 p.
[473]
独立新聞
は、
甲午改革を継承して「国民化」 (文明化) 運動を民間から推進していました。
元は建陽と陽暦の日付を使い、
陰暦は使っていませんでした。
建陽二年八月十四日号の次は光武元年八月十七日号で、
それ以後光武と陽暦[グレゴリオ暦]]の日付を使うようになりました。
しかし改元についての論説はありませんでした。
>>388 p.
[474]
独立新聞
は、元は火曜日、木曜日、土曜日の週3回発行でした。
から週5回発行になり、
日曜日と月曜日が休刊でした。
>>388 p.
[464]
の皇帝即位儀式は明礼により行われました。
この頃から詔勅等も国漢文から漢文が主体に変わりました。
陰暦への揺り戻しも含め、
前政権が目指したような文明化ではなく、
(近代国家体制に触れて変容した) 小中華意識のもとでの皇帝即位でした。
>>388 p.
[180]
大韓帝国は
1898年分の曆として
大韓光武二年歳次戊戌明時曆
を発行しました。
この年から明時曆に改称されました。
内容は前年と同様でした >>388 p.
[467]
、
議政府議政沈舜沢が政治の重んずるところは敬天而授時であるとして、
新暦書名として「明時」と「一元」を奏上し、
高宗が「明時」を選びました。
>>388 p.
[362] 明治31年の契約: 大韓光武 グレゴリオ暦, 大日本明治 >>354 /413
[374] 1899年にまとめられた Milne の時差の表では、 Korea は とされていました。出典は英国政府や International Telegraph Bureau とされていました。 >>375
[273] 電信では が使われていたのでしょうか。 日本が大北電信会社に九州釜山線を敷設させたため、 釜山側 (や京城) でも中央標準時を用いることにした、 というような事情があったりするでしょうか? (しかし清国所有の北行きの電信で中央標準時が使われた可能性はなさそうです。) あるいはこの時既に日本から中央標準時が電信で転送 (>>635) されており、電信局で用いられていたのでしょうか。
[445]
、
韓清通商条約
が締結されました。
日付は
「光武三年」
「光緒二十五年」
でした。
>>388 pp.
[358] 西暦1900年の条約: 光武、 露曆 (ユリウス暦) >>354 /405
[206] 公式には太陽暦を採用し、西洋式時刻も使われるようになった一方で、 大韓帝国は依然支那由来の旧来の日時制度を運用していました。
[85] 1905年の日本政府の書籍によると、 大韓帝国には天文家と巫祝の育成のため天文学校が設置されていました。 次の三科がありました。 >>81
[640] また、漏刻官養成所が設置されていました。 この学校は 「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」 を測定する漏刻官を「養成スルノ装置」を有していました。 >>33
[641] つまりこの当時京城には未だ漏刻 (水時計) が稼働しており、漏刻官が運用していたのでしょう。 言及されていませんが、日時計もまだ利用していたのでしょうか。 韓國の「唯一の標準時」とはいいますが、 従来通り時鐘や太鼓で報時していたのであれば、 通用範囲は京城市内と周辺程度だったでしょうか。
[208] 京城の地方時は、 とされることが多いです。 かつて日時計があったとされる位置は に当たります (>>414)。 王城の景福宮は 、 城壁西側の京仁鉄道京城駅は 、 京城郵便局は です。
[639] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 地方ではまだ日時計が使われている >>724, >>725, >>726 としていました。
[260] Time Changes は、 1904年から1932年の変遷を示した後、 地方の民衆は日時計を使っていたとの注釈を加えていました >>1256。 同じ情報源によるものと思われます。
[351] より前の時刻を = 東経126度58分の Seoul City Hall とする実装がありました >>350。 出典は不明です。
[11]
の京釜鐵道の仁川の事業所からの報告によると、
当時鉄道時として、
內地中央標準時より 32分遅い
「仁川ニ於ケル韓國標準時」
を使っていました。 >>134
つまり「仁川ニ於ケル韓國標準時」とは
でした。
[644] 「仁川における」の意味は不明ですが、 仁川の地方時は で、京城の地方時 と約2分の時差がありました。 京仁鉄道は首都である京城の地方時を仁川でも用いていたことがわかります。 仁川市内でもこの時刻が使われていたのでしょうか。 京釜鉄道一部開業、京仁鉄道買収以前の状況は不明ですが、 京仁鉄道開通当初から首都の時刻が採用されていたと考えるのが自然です。
[634] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 次のように説明していました。
[119] これは現地駐在の米国人の報告によるのでしょうが、 日本の郵便電信局で が作成され、 鉄道などで使われているとあります。 しかし京仁鉄道は鉄道時を だとしていました (>>11)。 だとすれば郵便電信局も を使っていたとするのが自然です。 ただし当時は2分程度は誤差のうちだったとも思われます。 1908年の大韓国標準時 制定時も、 大韓帝国と韓国統監府のどちらも従来の京城時刻の標準化と認識しており、 2分の変更とは捉えていなかったようです (>>5, >>45)。
[294]
日本本国と直結された報時システムがいつ稼働したのかは不明ですが、
1894年の京城・釜山間の日本の軍用電線の架設後、
あるいはその後の日清戦争終戦の頃からでしょうか。
(それ以前の京城・釜山間電信線は朝鮮政府所有で、日常的に不通になる代物でした。)
この頃日本本国でも各地の郵便局に正午が電信で報時されていました。
[295] 京城以外の日本の郵便電信局も、 同様の方法で報時していたのでしょうか。 その時刻は地方時か、京城慣用時のいずれだったのでしょうか。
[296] 日本の郵便電信局の報時開始以前や、 日本人以外がどのように時刻を得ていたのかは不明です。 米国の資料に何の言及もないことから、 朝鮮政府や欧米諸国は近代的報時機構を有していなかった可能性が高そうです。 朝鮮半島の外国人は日本人と清国人がほとんどだったようですから、 欧米諸国が専用の設備を有していなくても不思議ではなく、 また清国本国もこの時代には西洋式ではない旧来の日時制度を運用していました。 西洋式時刻を使っていた欧米人や日本人は、 李朝の鐘や太鼓の伝統的報時機構により、 あるいは日時計によって時刻調整していたのでしょうか。
[320] 釜山側で開業し北へと延伸していった京釜鉄道南部線が使っていた時刻も不明です。 釜山の地方時は で、 京城の より8分ほど進んでいます。 釜山でも電信で京城時を再現することは可能だったでしょうし、 いずれ南北連結全線開業することを睨んでこの時刻を使っていた可能性はありますが、 釜山市内で使われていたであろう地方時との 8分の時差は、さすがにこの時代でも誤差の範囲を超えていたはずです。 後の鐡道時改正時の新聞記事には、 南北線のダイヤ改正の説明に特記なく「約三十分」の鐡道時改正の旨が記載されています >>305 から、 南線も中央標準時とは異なる時刻だった可能性が高そうです。 しかしどちらの地方時も「約三十分」の「韓時間」には違いありませんから、 南北線の時刻が同じだったかどうかは断定できません。 両線で時刻が違っていたため、全線開通で統一のための変更が必要になったと考える方が筋は通っています。
[89] 現代の文献で「日韓併合前」に が大韓帝国の標準時として朝鮮半島全域で使われており、 日本人は京城標準時と呼んでいた >>88 とするものや、 清国から大韓帝国が独立した際に東経126.97度で中央標準時より 32.12分遅い時刻が韓国標準時となった >>36, >>221 (126.97 は 。32.12分は32分7秒。) とするものもありますが、出典は不明です。
[34] Wikipedia は漏刻官に関する「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」 という記述 (>>640) を根拠に 「首都・漢城(現在のソウル)での平均太陽時が標準時とされており」>>32 と説明しています。 しかしこの記述を直ちに近代的標準時と理解することはできません。 また、真太陽時ではなく平均太陽時とする根拠も不明です。
[75] 京釜鉄道の 「仁川ニ於ケル韓國標準時」 (>>11) や「한국 표준시」 (>>440)、 日本領事館告示の「韓國標準時」 >>209 (ただし当時の表現そのままかは不明) のように、 当時 が実質的に韓国標準時だとする認識を持つ人々 (>>640 も含めいずれも日本人) が京城近辺にはいたようです。
[324] しかし李朝や大韓帝国が公式に近代的標準時を制定した形跡は見当たりません。 1908年の大韓国標準時制定の際にも大韓帝国、 日本の韓国統監府の双方が 「従来慣用の時刻」と呼び、旧標準時とはしていませんでした。 現在の大韓民国の政府当局の Webページ >>61 も、大韓國標準時以前には何も示していません。
[365] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 1884年国際子午線会議の決定 「に基づき、朝鮮封建王朝では、1日12時間体系を24時間体系に変更するとともに、 東経127度30分を本初子午線とする標準時を使用するようにした。」 >>360 としました。 文脈より1884年との間にそのような決定がなされたことになります。しかし、
... ということで、信用しがたいです。
[238] むしろ24分割というデマに従うなら、 日帝の 標準時採用の方が趣旨に沿っています。 しかも国際子午線会議決議を遵守したのは世界的に日本だけだったとされていますから、 それを過剰に評価する黄明哲は親日派の疑いすらありますw
[317] 20世紀初め頃の漢字ハングル混じりの朝鮮語新聞皇城新聞の本文記事では、 例えば >>316 のような支那式の西洋式時刻表記が用いられていました。 広告では「午后」や「正午」のような日本式の表記が用いられていました。
[624]
ロシア軍は平安道と咸鏡道(南北)に進攻しました。
ロシア軍の軍用時は不明です。
内滿洲のハルビン時あるいは外滿洲の浦塩時でしょうか。
あるいは各地の地方時でしょうか。
[1207]
、
日本軍は、
陸海軍各部隊に日時計と説明書を配布し、
東経123度子午線の時刻 = を
以降の「満韓地方の基準時」
とすることを通達しました。
これは滿洲の遼東半島付近 (遼河) の時刻に当たります。
時刻を一定のものとするため、と説明されています。
それまでは部隊ごとに、あるいは現在地ごとに異なる時刻を使っていたのでしょうか。
[129] 1906年の日本の学術雑誌記事は、
日露戦争開戦当時、韓国と遼東で平壌の地方時を用いる構想が陸軍内にあったらしい、
としていました
>>93。
ということになります。
満韓地方の基準時 との関係は不明です。
[203] 1904年頃発刊されていた朝鮮人向けの新聞である帝國新聞は、 各ページの日付を「大韓光武八年○月○日(○曜)」のように表記すると共に、 最初のページには、
檀君元年三千二百四十七年
箕子元年三千二十六年
開國五百十三年
孔子降誕二千四百五十五年
西歷紀元一千九百四年
日本明治三十七年
清曆光緒三十年
陰曆甲辰○月○日 (干支)
... のような各種紀年法による表示もありました。 >>202 1898年からまでは、 大韓帝国の元号のみでした。 - にはこのような表示がありました。 主たる読者だったであろう京城近辺の朝鮮人上流階級は、 大韓帝国の元号と太陽暦の日付を中心としつつも、 実生活上その他の各日付も必要としていたということなのでしょう。
[319] この頃発行されていた漢字ハングル混じりの朝鮮語新聞皇城新聞は、 「大韓元号漢数字年年漢数字月月漢数字日 曜日漢字曜」 のような陽暦と 「陰曆 干支年漢数字月月漢数字日日日干支」 のような陰暦を併記していました。 >>318, >>305 本文中では 「午前何時何分」、 「午后何時何分」のような表記が使われていました >>318。 「午正十二時十五分」 >>305 のような表記も見られました。 記事中の日付は特記がなければ陽暦と思われますが、 「陰九月十六日夜」や「陰八月初九日夜」のように陰暦のものも少なくなかったようです。 広告には「下午五時量」のような表記の時刻や「陰曆旧月卄二日」のような表記の日付も見られました。 依然として新旧両曆が混在し、むしろ陰暦によく馴染んでいた人々も多かったと見受けられます。
[633]
、
京釜鉄道株式会社は鉄道時を中央標準時
に変更しました >>134, >>1254, >>32。
京仁鐡道全線と京釜鐡道南北両線 >>305 の運転時刻が改正されました。
この変更は、
京釜鐡道が完工し南北両線が接続され、
全線での試運転が開始されることになったためのようです。
[440] 帝國新聞は、確認できる範囲では以降、 「午前|午後○時○分」 (漢数字) のような形で鉄道の発着時刻を掲載していました。 から の紙面には、 한국 표준시から일본 중앙 표준시に改める旨の広告がありました >>437, >>438, >>439。
[303] 皇城新聞にも韓國標準時から内地中央標準時に改める旨の広告が同時期に掲載されました >>302, >>305。 記事としても、 南北両線が連結され南北ともダイヤ改正があることが報じられると同時に、 韓時間から「約三十分」早い東京標準時に改められる旨が記されていました >>305。
[210] 、 在京城日本領事館の領事三増久米吉の告示により、 在京城日本領事館で韓國標準時より32分早い中央標準時が採用されました。 同時に在京城日本領事館警察署鐘楼で時鐘の報時が開始されました。 >>209, >>219
[608] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 次のように説明していました。
[1098] 日本の学術雑誌に掲載されたの釜山からの報告によると、 釜山の各国領事館その他官衙では以後日本の中央標準時が用いられることになりました。 >>97 付報告ではありますが、 施行の日は不明です。
[627] 、
日本軍は各部隊に対し、
以後中央標準時を用いるよう指示しました。
朝鮮半島北部と満洲の軍用鐡道もこの時刻によっていたかもしれません。
[298] この時系列より、 京釜鉄道の全線開通 (と軍用鉄道の北鮮、滿洲延伸) により単一の鉄道時が必要となり、 中央標準時が選ばれ、各市内の日本人がこれに追随したことがわかります。 中央標準時が選ばれたのは、 明確な大韓帝国の標準時が存在しなかったことや、 京釜鉄道が日本人により経営されていたことが理由でしょうか。 日本政府や日本軍の意向も反映されていたかもしれません。 全通後間もなく実現することになる日本の鉄道との連絡運行を見据えていた可能性もあります。
[329] しかし鉄道、郵便電信局、京城公使館、釜山領事館、日本軍の切替のタイミングが少しずつずれており、 日本政府・日本軍により、あるいは在京城日本公使館により戦略的に中央標準時に統一したのではなく、 鉄道時の変更がなし崩し的に波及していった可能性を検証する必要があります。 ただし鐘楼の建設や鐘の調達は数日でできることとは思えません。 以前から計画されていたのでしょうか。 それとも別目的で用意されていたのを転用したのでしょうか。
[297] 米国資料はを切り替えの日としていますが、 実際にはから鉄道時や日本公使館は切り替えていました。 鉄道時が郵便電信局の報時に依存していたとするなら、 郵便電信局と鉄道の切り替えは同時だったと考えるのが自然です。 の京釜鐡道ダイヤ改正と混同された可能性や、 鐡道時改正からやや遅れて市民が時刻を切り替えた可能性、 元々は「頃」の意だった可能性などが考えられるでしょうか。 あるいは郵便電信局のシステムと鉄道のシステムが共に中央標準時を受け取っており、 別個に京城時に修正していたとするなら、 両者の切り替えが別タイミングでもおかしくはないでしょうか。
[299] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 1906年の韓国統監府における の採用を大日本帝国の 「朝鮮の標準時を改変するための第一歩」であると主張しました >>360。 しかし1906年の決定は新設された韓国統監府による現状追認でしかありませんでした。 黄がなぜ1904年の出来事に言及しなかったのかは不明ですが (まさか知らなかったということはありますまい)、 大日本帝国にそのような意図があったとするなら、 それは1904年に中央標準時が採用された時だったとする方が自然です。 (日露戦争と絡めればより説得力も増しましょう。)
[300] しかしながら、実際には大日本帝国は朝鮮半島 (や滿洲や臺灣) における時刻に関して明確な戦略を有していたというよりは無計画に成り行きに任せていたと理解せざるを得ません。 もし本当に「朝鮮の標準時を改変」しようとしていたなら、 「第一歩」などと悠長なことはせず、 朝鮮政府に中央標準時採用を要求していたはずです。 遡れば1895年に既にその機会はありましたし (>>275)、 1912年までそうした要求ができなかった事情は見当たりません。
[268] Time Changes の CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF は、
から
Chosen (今の Korea) と Manchuria
が標準時 としていました >>1256。
[257] Time Changes の KOREA は、
から標準時 、
それ以前は標準時 としていました >>1256。
このという日付の根拠は不明ですが、
関係があるのかどうか、千島列島でも現れます (
[227] Shanks (2003) の KOREA, NORTH と KOREA, SOUTH は、 から としていました。 >>226
[223] Wikipedia 記事は、 1904年に支那海岸部、 朝鮮、満州でグリニッジ子午線基準の標準時が採用された >>420 としていますが、出典要検証とされています。
[301] これらの根拠は不明ですが、 米国資料と同じ情報源とみられます。 しかし支那や滿洲、果ては千島にまで対象範囲が拡大された理由は不明です。
[98] 鉄道開業当初の時刻については、 開通以来中央標準時だったなど不正確に言及される場合があるようです。 近い時代の資料では、 京釜鉄道開通当初から中央標準時 >>1097、 の京釜鉄道一部開通以来中央標準時 >>95、 朝鮮鉄道は明治37年以来中央標準時を使っていた >>113 などと表現されています。これらはいずれも実は正確な説明ですが、 一部開業と全線開通の違いや京釜鉄道による京仁鉄道買収など、 鉄道開業当初の複雑な経緯を理解していなければ誤解が生じる危険性があります。
[199] 朝鮮半島における日本政府の郵便局の消印では、 日本の元号である明治が使われました。 ただし欧文の国際郵便では、西暦が使われました。 >>198
[252] 、 大日本帝国台湾で 台湾標準時を韓国に採用せよ と題した論文が出版されました。 本論文は、大韓帝国の統治に大日本帝国が関与することになったことから、 朝鮮半島に台湾と同じ西部標準時 を採用するべきと主張したものでした。 >>346
[347] 台湾が日本の統治下に入ってから標準時を一定させ、 しかも内地と1時間の時差としたことから換算も便利になったように、 大韓帝国も交通、運輸、軍事上便利になるため、 すぐにでも標準時が実施されるべきだとされました。 >>346
[348] 西部標準時 の東経120°子午線は朝鮮半島の西部を通り、 西岸の地方時に近いこと、 東岸は30分近い時差があるとはいえ、 北海道の実績から問題ないと思われることが指摘されました。 >>346
[349] 台湾在住だったと思われる著者が、朝鮮半島の事情にどれだけ通じていたのかは不明です。
[48] 日本政府の韓国統監府は、 統監府令第13號により、 韓国統監府と所属官署の時刻を中央標準時と定めました >>47, >>1097。
[204] 鉄道や京城の日本公使館は 1904年末に既に中央標準時 を採用しており (>>633, >>210)、 朝鮮半島の日本人はこれに従っていました。 1906年の日本の学術雑誌の記事は、 韓國では既に京釜鉄道開通の頃から汽車発着その他普通の生活で中央標準時を採用してきた>>1097 としていました。 韓国統監府もおそらく設置当初からこれに倣っていたと思われ、 統監府令はそれを明文化したに過ぎないとみられます。 明文規定がないことで問題が生じたのか、単純に制度整備の一環だったのかは不明です。
[96] 統監府令は施行の日を明記していませんでした。 制定は付ですが、 日本政府の官報への掲載は でした。 1912年の学術雑誌の記事はからとしていました >>95。 朝鮮総督府の施政二十五年史 (1935) >>357 や 京城府史 (1936) >>217 は、 以来としていました。 統監府令第四號統監府令公文式は、 統監府令は各官庁に到達した翌日から起算し満7日を経て施行と定めていました >>306。 はの 7日後に当たります。
[91]
1906年の日本の学術雑誌は、
韓國はほとんどが地理的に中央標準時を用いることが当然可能だと評していました。
関東州と満鉄は中央標準時を用いている (
[121] 、 大韓帝国は隆熙に改元しました。 >>117 改元の日は明記されていませんが、 その後の出版分も含め官報ではまで光武、 から隆熙で明確に分かれていました。
[114] 大韓帝国の官報は、 この頃でも十二支時刻法を使った記事を掲載していました >>115。 「陰暦月日」のような形で旧暦に言及する記事も少なくありませんでした。
[461] 大韓帝国の官報 >>111 は、 以来国内各地の気象観測結果を毎日掲載していました。 その時刻がどのようなものかは不明です。
[234] 明治42年に日本で発行された学術雑誌の記事は、 大韓帝国の時刻のことを京城標準時と呼んでいました。 >>229
[100] 1904年末の鐡道と日本政府機関の中央標準時採用により、 朝鮮半島の時刻は京城慣用時 ないし と中央標準時 の (少なくても) 2つとなりました。 1908年時点の韓国統監府の見解では、 韓国人と外国人は京城慣用時を、 日本人は中央標準時を使っており、 不便が生じていました (>>45)。
[321] 不便が生じていたということからわかる通り、 朝鮮人、日本人、欧米人はそれぞれ独立に生活していたわけではありませんから、 この2種類の時刻も完全に人種で分かれていたとはいえません。 例えば朝鮮人や欧米人であっても鉄道に乗り遅れないためには中央標準時を把握しておかなければなりませんでした。
[325] 朝鮮半島には朝鮮政府の郵便局と日本政府の郵便局がありました。 朝鮮政府の郵便局は歴史が浅く運用が政情にも左右されていました。 この時代の状況は不明ですが、かつては欧米人も日本政府の郵便局を利用していました (>>314)。米国資料が日本政府の郵便局の状況を掲載していた (>>635) のも、 情報源であろう現地米国人の関心の範囲内にあったためと推察されます。 従って欧米人が郵便局を利用するに当たっても中央標準時に触れていたと予想できます。
[322] 1906年頃の米国資料では、 Korea の標準時は とされていました >>725。 鉄道時等の変更経緯を把握 (>>608) した上でそう記述していたということは、 少なくても米国本国では、 現地米国人がこれを使っていたと認識していたのでしょう。
[323] 釜山では各国領事館が中央標準時を採用したとの報もあり (>>1098)、 これが日本人からの報告であることを差し引いても、 少なくても1905年初め頃の釜山では欧米人が中央標準時を使うことがあったと思われます。 この頃の釜山は日本国内と見紛うくらいに日本人が居住しており、 日本人にとっては本国との連絡のためにも中央標準時が便利だったでしょうから、 そうした環境の欧米人にとっても中央標準時が便利だったことは想像に難くありません。
[492] 朝鮮貨幣1, , http://kodaimoji.chowder.jp/moji-list/a2kfol/h2k01.html
隆煕3年紀年銭
[254] 、 大韓帝国は を標準時として定めました。 >>136, >>357, >>217, >>218
[45] 機密統發㐧一五五號で大日本帝国の韓国統監府の副統監の曾禰荒助は統監の伊藤博文に対し、 次のように報告し関係機関への通告を依頼しました。 >>44
[249] 韓国統監府は、 駐韓軍司令部、 観測所、 鉄道管理局、 通信管理局にも時刻変更の同意を取り付けました。 >>44
[250] 、 伊藤博文は本国政府に時刻変更を通知しました。 >>44
[5] 大韓帝国の勅令第五號 大韓國標準時에關ᄒᆞᆫ件 (発行大韓帝国官報第三千九百九十四号所収) は、 「従来慣用」の「京城時刻」 すなわちグリニッジ東経127度30分の平時を大韓國標準時と定め、 施行としました >>149。 つまり当時京城で現に用いられていた を国家標準時として法制化しました。
[444] 発行大韓帝国官報第四千四號の 2ページ >>443 217ページ 末尾には、 正誤と題して勅令における学部大臣名の欠落の訂正が掲載されました。 (目録 >>443 143ページ では の官報4001号に収録されているものとして 大韓國標準時件中改正件 が挙げられていますが、 誤りのようです。) 勅令本文には変更はありませんでした。
[137] 大日本帝国の韓国統監府の統監府令第五號は、 統監府および所属官署の時刻を韓國標準時とし、 施行としました >>136, >>94。
[255] 、 大韓帝国駐在の日本軍司令部も韓國標準時に改めました >>94。
[232] 、 大日本帝国の韓国統監府の鉄道管理局は、 鉄道時を韓國標準時に改めました >>82, >>83, >>113。
[261] 朝鮮半島各地の日本租界その他在住の日本人は、 韓国統監府方針に従い大韓国標準時 に移行したものと思われます。
[391] 朝鮮半島各地の日本以外の諸国租界の対応は不明です。
[244] tzdata の Asia/Seoul
と Asia/Pyongyang
は、
を境に としています >>116。
[49] 朝鮮半島の日本人にとっては、 本国との関係上中央標準時 を使い続けるのが便利だったはずです。 2、30分の地方時の時差がある九州や沖縄でも中央標準時が問題なく運用されていたのと同様、 朝鮮半島でも大きな障害ではなかったはずです。 しかしながら、 大韓帝国政府や朝鮮人と同じ土地で時差を持って生活するのは、 それ以上に大きな問題だったのだと思われます。 大韓帝国政府と韓国統監府との関係が密接化し、 会合や文書のやり取りも増えていたはずですから、 時差によるトラブルも多かったのかもしれません。
[366] 朝鮮民主主義人民共和国政府の朝鮮社会科学院歴史研究所長の黄明哲は、 2017年の論文で、 1906年の韓国統監府における の採用を大日本帝国の 「朝鮮の標準時を改変するための第一歩」であるとし、 1908年の大韓国標準時採用は純宗による 「崩壊寸前の国権を維持しようと する試みの一つ」とし、日本は両国関係の悪化を懸念してこれを呑んだ >>360 としました。
[367] 実際には大韓国標準時の法制化は韓国統監府が提案したようで、 黄の論理は破綻しています。 仮に大日本帝国にそのような意図があるなら、 韓国統監府は を大韓国標準時として制定するよう要求したはずです。 の採用は「改変」の失敗を認めることになってしまいます。 しかし韓国統監府が 採用を躊躇した様子はなく、 むしろ推進し積極的に調整していました。
[326] 大日本帝国が特定の意図を持って戦略的に朝鮮半島の時刻に介入したと考えると、 二転三転し徹底しない日本の時刻の選択は不自然すぎて理解不能です。 その場その場の成り行きで局所的に好ましい手法を選択してきた朝鮮人、日本人、 欧米人の各勢力・事業者の思惑と判断の結果に過ぎないと考える方が、 この時代の朝鮮半島の日時の混沌を無理なく受け入れることが出来ます。
[181] 大韓帝国は、 1909年分として 大韓隆熙三年曆 を発行しました。 >>109 この年から題名が明時曆ではなくなり干支紀年が省かれるようになりました。 内容も太陽暦をベースに旧暦が併記される日本の曆に近い形式に改められました。 これ以後旧暦は日本の旧暦の日付と一致するようになりました。
[259] 、 韓国統監府鉄道は日本政府 (本国) の鉄道院に移管されました。 韓国鉄道管理局が設置されました。 鉄道院は、 鉄道院告示第八十九號で、 韓国鉄道の時刻を韓國標準時と定めました >>99。 既に韓国鉄道は韓国標準時 を採用していましたから、 これは鉄道院の制度としてそれを追認するものでした。
[120] tzdata の注釈は、2014年当時の Wikipedia 記事に に に変更されたとあるが、 他の記述と矛盾し不審である >>116, >>135, >>133 と述べています。 他にも1910年に変更されたとする記事がありますが >>188, >>215、 根拠は示されていません。 日韓併合の年に基づく推測でしょうか。
원문서명 通牒 발신자 學部秘書課長 金思重 발신일 隆熙二年二月四日 ( 1908년 02월 04일 ) 수신자 內閣法制課長 洪運杓 座下 通牒
大韓國標準時定行에 關 請議書 送交오니 照亮오셔 會議에 提出케 심을 爲要.
學部秘書課長 金思重
內閣法制課長 洪運杓 座下
隆熙二年二月四日
學秘機密發 第三七號
[7] 1905年の日本政府の書籍は、 朝鮮半島の旧暦のことを韓曆と呼んでいました >>79。
[63] Kyoto University Research Information Repository: 朝鮮における時憲暦の受容過程とその思想的背景 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/134678
[101] http://210.204.213.159/_Common/Download.nfm?filename=141119_press.pdf&dir=16
[103] http://210.204.213.159/_Common/Download.nfm?filename=01.pdf&dir=22&seq=4620
[105] 대한제국기太陽曆의시행과曆書의변화, 정성희 http://db.history.go.kr/download.do?levelId=kn_103_0020&fileName=kn_103_0020.pdf
[107] 唐突な千歳暦とグレゴリオ暦が謎だ。
[110] 민속박물관 - 주요 소장품 검색 () http://nfm.museum.go.kr/nfm/ownMuseumSearch.do?JSON=%7B%22DO_SEARCH%22%3A%221%22%2C%22SEARCH_MODES%22%3A%22DIRECTORYS%22%2C%22SEARCH_STR%22%3A%22%22%2C%22IS_OWNER%22%3A%221%22%2C%22MCBSCODE%22%3A%22PS09006001005%22%2C%22PAGE_ROW_COUNT%22%3A%2212%22%2C%22MASTER_MCBSCODE%22%3A%22PS09%22%2C%22MCCLEVEL%22%3A%226%22%2C%22CURRENT_PAGE%22%3A%221%22%7D
[332] アラベスク 二重丸印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-64.html
[333] アラベスク 二重丸印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-61.html
[334] アラベスク 使用済 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-57.html
[335] アラベスク 消印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-55.html
[336] アラベスク 偽印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3285.html
[337] アラベスク 偽印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3284.html
[338] アラベスク 梨花切手 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3030.html
[339] アラベスク ? (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2862.html
[340] アラベスク 販売用CTO? (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2057.html
[341] アラベスク e.t.c (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1750.html
[342] アラベスク 日本局消し (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1566.html
[343] アラベスク カバー (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1231.html
[344] アラベスク Last Day (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1213.html
[352] 제주 향교 문서 번역, 김 지 홍, https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:JJE8zvyBap8J:https://t1.daumcdn.net/cfile/tistory/2331074555BAC2BD1C%3Fdownload&cd=13&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
孔子降誕 二千四百八十一年 庚午(1930년) 冬
[370] https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=27746&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
は >>475
[480] >>479 は日本語の概要が付いていますが、冒頭がいきなり
本論文は、朝鮮人を愚民化することで、‘忠良なる臣民’に育成しようと 思った日帝の植民地政策が、初等學校教育と日常でどう行われたことを敎科書と暦を通じて理解することにある。
でなんかよくわからない陰謀論的結論ありきで行論します宣言しちゃってます。
は >>483
は
で、ウェブ上では閲覧不可。