[69] 日本の紀年法は、中国大陸や欧州で発展した手法を取り込んだり、 独自に運用して改良したり、 それらの知見を参考に新たな手法を開発したりといった形で発展してきました。
[70] 時期によって違いはあれど、特定の手法に完全に統一されることなく、 様々な手法の良いところを取り込み共存させてきました。 そうした選択は意識的に行われたものもあれば、 自然に起こったものもあります。
[71] 結果として、様々な出自の異なる手法を組み合わせて独自に発展させ、 多様な考え方を平和的に共存させるという、日本文化の典型的なパターンを示しています。 今後の紀年法の改良運動も、広く社会に浸透することを目指すならこれを大いに研究するべきでしょう。
[66]
日本への紀年法の伝来は正確には定かではありませんが、
古墳時代には干支年が日本列島で使われることがあったのは確実です。
飛鳥時代には干支年が行政において日常的に使われるようになっていました。
[2]
大宝時代、
大宝律令
の制定により、
すべての公文書で元号が使われるようになりました。
その過程に詳しい記録は残されていませんが、
唐制に倣ったものであり、
文書行政の発達のため従来の干支年 (60年周期)
よりも長期間を取り扱えるようにするためもあったとする説もあります。
[49]
大宝律令,
養老律令
は元号を使い従来のように干支年は使わないとしていました。
しかし実際には元号と干支年の併記が広く使われるようになりました。
組み合わせによってそれぞれの長所短所を補い合う形が好まれたのでしょう。
[68]
飛鳥時代頃、
元号制定以前の時代を天皇即位紀元によって記述する方法が使われるようになりました。
日本書紀の編纂によってこの方法は公定の紀年法となりました。
[63] 中世には改元に院や幕府などその時々の権力者が関与するようになりましたが、 明確な制度として確立されたものではなく、政権幹部らの力関係によって変動していました。
[64]
中世には改元時に武家がそれぞれの行政上の施行手続きを行うようになりました。
また、統治の状態や流通その他の変化によって改元の伝達と施行の状況も変化していきました。
[50] 中世の武家の文書では、 様式 (用途や格式) によって、 元号を書くものと、年を書かないものがありました。
[51] 江戸時代の武家や庶民の文書では、 元号や元号と干支年を書くものの他に、 十二支年だけを書くものが多く使われました。 文書行政の発達と日常化によって簡易的な様式が好まれるようになったのでしょう。
[59]
中世期には宋の文化からの影響で複雑な表記も流入し、
金石文や書写奥書の日付などで好んで用いられました。
近世には出版物の発行日や序文の日付などの表記でもそうした「雅」な表記が好まれました。
[65] その他この時期には多くの変化がみられるものの、権力構造や文化潮流の影響を受けたものに過ぎず、 紀年法の在り方を積極的に変化させようとする改革運動のような能動的なものは中世期にはみられませんでした。
[61]
江戸時代初期、
禁中並公家諸法度
によって公武共同して改元を行う制度が明文化されました。
[62]
江戸時代前半は従来のような天皇の代始改元をはじめとする朝廷主体の改元の影は薄まり、
江戸幕府の将軍の代始改元的性格が強くなりました。
しかしこれは制度化されなかたっため、時代が下ると従来の伝統的な改元の性格へと回帰していきました。
[3]
江戸時代、
蘭学の発達や開国により基督紀元を知る者が増えて、
紀年法や暦法の改良案も提出されるようになりました。
[14]
明治への改元と同時に一世一元の制が導入されました。
[8] 皇紀も使われるようになりました。
明治政府は皇紀を法制化し、
元号と併用することとしました。
[96]
明治時代初期、
元号にかえて皇紀に統一することを提案する人もいました。
[72]
干支年は明治改暦時に併記が廃止されました。
[21] 明治時代の哲学者で後の東洋大学創設者である井上円了は、 明治時代後期に紀年法の改良を提案しました。 >>20
[22] 井上円了は大化から明治までの元号が多すぎて覚えるのもほとんど不可能で不便であるとし、 いくつかの候補案を出しました。
[76]
日露戦争期に国内及び戦地で多くの人が征露を使いましたが、
一時的な現象で、紀年法の使われ方に大きな影響を残すには至りませんでした。
[13]
大正改元、昭和改元を経て、
短い年数でリセットされる元号制度を不便と感じる人達が皇紀を好むようになりました。
[88]
日本軍の制式名称においては、
当初は元号が用いられていましたが、
昭和時代に皇紀が用いられるようになりました。
大正時代が短く元号を省略した時区別が難しいことが理由とされています。
現代では西暦が用いられています。
[77] 幕末の政情不安で改元が乱発され明治維新で一世一元が歓迎されたといわれるのと同様に、 40年以上も続いた明治が終わった後に15年空けて2度改元が立て続けに行われたことは、 改元システムを不便と感じさせる要因の1つになっていそうです。
[97]
尾崎行雄は改元を廃し明治の元号を継続することを提案していたといいます。
[35] 尾崎咢堂全集 第8巻, 尾崎行雄, 尾崎咢堂全集編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2982340/1/365 (要登録)
[173] 帝国教育 (64)(383), 帝国教育会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1570347/1/67 (要登録)
[174] >>173 元号は計算が不便で、 貴重な皇紀を使わないで祖先崇拝を阻害しているので、 元号廃止して皇紀を使うべき、 と主張しています。 大正3年なので、大正改元で不便を感じて書いたものでしょうか。
[175] 実施方法も提案しています。といっても特に独創性のあるものでもなく、
ということを提唱しています。ということは制度としての元号を廃止するのではなく、 皇紀中心に移行していくことを求めていたようです。 元号は有害無益と書いているので最終目標は元号を制定もしないことなのかもしれませんが、 そこまでは求めるとは特に書いておらず、フェードアウト狙いだったのでしょうか。
[53] 法律春秋 2(3), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262294/1/20 (要登録)
[54] >>53 昭和改元直後。元号よりも皇紀を使い、世紀で100年単位で区切って時代区分とするのがいいという提案。
[85] 川合教授還暦記念論文集, 川合貞一教授還暦祝賀会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1223528/1/217 (要登録)
[86] >>85 論文著者は歴史に短期の元号より長期の紀年法が便利であるとし、 歴史学で皇紀が一時使用されたものの、依然元号が主体、 翻訳ものは西暦とバラバラで、 史学における紀年法の統一の機運が挫かれたことを遺憾としている。 (事例紹介いくつかあり。) 世界の紀年法は西暦に収束傾向にあり、 日本の歴史記述でも西暦を採用するのが良いと提唱している。
[87] >>85 昭和6年に皇紀と西暦の併用の請願があり、その審議で文部大臣が新年の新聞を調査したという結果を紹介している。 記事から広告まで含めて、19紙のうち皇紀関連が9箇所、西暦関連が227箇所。
[37] 世界紀元は天理教の教義に基づく紀年法ですが、 発案者は世界中で使われるようになるものだと信じていました。
[79]
紀年法の改良を目的としたものではありませんが、
日本への編入に対抗する手段の1つに紀年法が使われた運動もありました。
日清戦争終結直後の台湾在住清国公務員らは独自政府を樹立し、
独自の元号を制定しました。
[78]
日本国の紀年法の改革ではありませんが、日本国内に於いて行われた紀年法改革運動もありました。
辛亥革命前夜の在日漢人留学生らが黄帝紀元などの新しい紀年法を考案し、
雑誌などで使っていました。
[83] 折しも紀元2600年の節目であり、皇紀の普及が進みました。
[82]
時世柄、西暦の利用に反対する動きがありました。
[26] 皇紀よりも更に大きな年数の紀年法を提案する人もいました: 肇国ノ紀元
[80]
この時期に日本軍が旧支配者を追放した独自の新政府支配地域では、
旧支配者によるキリスト紀元等にかわって、
新政府が新たな紀年法を制定したり、旧来の伝統的な紀年法を復活したりしました。
[81]
旧支配者の追放後に日本軍による統治が続けられた地域では、旧支配者によるキリスト紀元にかわって皇紀が使われました。
[7]
大東亜戦争後、
GHQ
の介入のため元号制度は存続の危機に陥りました。
[9] 昭和時代後期に従来の制度をほぼ踏襲した 元号法 が制定されたことでこの問題は収束しましたが (国民の大多数は現状維持派でした)、 それまでに (そしてそれからも細々と)、 いろいろな案が提出されました。
[16]
昭和時代後期から西暦が普及を続けています。
[17] 一方で基督紀元、西洋の紀年法を日本で使うことへの抵抗は根強く、 元号を重視する意見のほか、 皇紀の活用や、 新しい紀年法の提案なども止むことがありません。
[19] 真面目な提案とは思われないネタレベルのものも含めれば、 無数の紀年法案や改元案が Web や SNS では観測できます。
[18] その他、社会全体への普及を目指さない集団や個人のレベルの現代日本の私年号は日々増加を続けています。 価値観の多様化に伴い、国の制度が全国民のすべての紀年法生活を統制する時代でもなくなっています。 西暦 (キリスト紀元) へ統一せよとの主張も、かえって時代遅れといえるでしょう。
[73] 情報システムの発展により、機械内部では年という単位を持たない (= 紀年法の概念が存在しない) 時刻系も (人間が知覚しないところで) 極めてよく普及しています。 利用数だけでいえばこれが日本で最も普及している「紀年法」ということすら可能です。
[47]
紀年法の多様性は、文化発展の土壌にもなっています。
古今東西の文化や考え方が混じり合って新たな価値を生み出す日本文化の在り方の1つの現れともいえます。
[38] 第五回西安旅行記, , http://seian.co.jp/h-xian/xian8.htm
2月20日(日)
西大門を見学したあとは、碑林博物館へ。。中には、日本の昭和、平成などの元号を頂いた論語などもありました。でも、余談ですが、元号、もう止めませんかね、止めないまでも、中国の古典からとるの止めましょうよ。いつまでも日本は中国の属国のように思われますよ。だいたい日本のネーミングは気に入らない。日本アカデミー賞、日本アルプス、日本ライン下り、日本ロマンチック街道、原宿シャンゼリゼ、中野ブロードウエイ、もう恥ずかしくてしょうがありません。もういい加減止めましょうよ。サルマネは。でも、いくら中国から頂かないといっても、ミレニアム元年、2年なんてのはだめですよ、南セントレア市みたいな。
[84] 真正太陽暦 : 暦法の提案に加えて紀年法については、キリスト紀元を廃止し皇紀を採用することを提唱している。
[42] ℒ.さんはTwitterを使っています: 「令和に変わるとき、新しい元号は「西暦」にして 2019 から始めればいい、って解決法を提示したのが森博嗣。」 / Twitter, , https://twitter.com/slet_ikke/status/1671855196358717443
[48] Xユーザーの山城守厳三郎(愛国、憂国の士だけが国民)さん: 「令和は不吉。 元号法なんてクソ喰らえ。 すぐに災異改元を 公的書類は全て西暦に 安易に改元を 災異改元の復活を #元号法の廃止 #災異改元」 / X, , https://x.com/gonzablow/status/1742498168775065873
という複雑な立場。要は元号を実用から切り離して呪術的存在に移行させよということか。
[43] 元号がいいと言っている人で西暦をなくせと言っている人はあまりいなくて併用すればいい派や各人好きにせよ派が多い印象。 それに対して西暦がいいと言っている人は元号はやめろ、 元号を使わせるな、公文書から排除しろ、 天皇制もやめろと攻撃的な人ばかりの印象。
[44] 元号をなくせと言い始める人は定期的に出てくるので、そういう人は多いのかと思ってたけど、 そうでもないとわかったのが令和改元のとき。 現状維持派の人は普段とくになにか意見表明する必要性がないから黙ってるだけで、 いつも元号なくせと言っているのはノイジーマイノリティーだとわかってしまった。
[45]
あと、普段は何も考えずに西暦使ってるはずの「普通の人」の中にも、
和暦をやめて西暦を使おうと言い出す人が現れたときには、
なんでキリスト紀元にしないといけないんだ、
と不満を表明する人は案外多い (
[46] ありそうでまだ見たことがないのが、大正復活案。 よくいわれるように大正、中華民国、主体は年数が同じ。 自国の紀年法を使っているようで実は日本と台湾の共通紀年法になっている、 というのはおもしろい構造のような気がするし、 嬉しい人は実は多いのではなかろうか。
[75] 暦法改良案と連動した紀年法改革案も、ないことはないのだけど、 少ない。紀年法の取り替えに比べると技術的ハードルが高いからだろうか。