[2]
世界紀元は、
天理教 (に異端とされた) 研究者の大平隆平が提唱し利用していた紀年法です。
[77]
元号名は紀元または世界紀元です。
[49]
計算を誤っていたとして訂正されたため、新旧の2種類があります。
[56]
新式 (y~4103) では、
元年はです。
[65]
旧式 (y~4104) では、
元年はです。
[68]
新旧の切り替え時には、折衷的な
10 0010 0077年2月12日が1例あります。
前後を見ると
- 10 0000 0077年1月14日
- 09 0010 0077年2月07日
- 09 0010 0077年2月11日
- 10 0010 0077年2月12日 >>27
- 09 0010 0077年2月13日
となっていて、これらの日付がその日に書かれたものか、
後から書かれたものかはわかりませんが、
いずれにしても誤記または誤植の可能性が高そうです。
[4]
天理教の始まりであるが、
人類創造から900099999年だとする天理教の宇宙論に基づいています。
>>1
[63] 現在の天理教でも、
この間、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みをもって育てられ、子数の年限を経過した約束の時が立教の元一日である。
と説明されています。
>>61
[70]
天理教では億を万進法によらず、 1億 = 10万とする数え方がある
>>69 とされます。
この数え方が天理教でどの程度行われているのかよくわかりませんが
(現在の天理教関係のウェブサイトでは教義上の9億年は科学的な地球や生命の歴史の億年と同列に扱われているようです。)、
[80]
旧式から新式への訂正はこの数え方から万進法への変更です。
[81]
旧式の「十億」がこの数え方を意図していたのか、万進法を意図していたのかは明記されていません。
[71] 当記事では、新旧どちらでも「億」を万進法により解釈しています。
[82] 万進法でないなら「十億」ではなく「一兆」と表現する >>69
のが適当と考えられるためです。
[5]
旧式は、大平隆平が大正5年の年賀状や著書等で用いました。
>>1
大正4年末頃に使い始めたと思われます。
大正5年の1月14日に相当すると思われる日付が最新です。
[64] ただ国立国会図書館所蔵の同書は新式になっています。
>>9 所蔵されているのは再版で、新式への切り替え後の発行日になっているため、
新版発行時に旧版から訂正したと思われます。
[73]
新式は、大平隆平が大正5年の2月頃から自身の文章等で用いました。
2月7日夜が同時代用例と思われる最古の日付です。
[74]
大平隆平らによる雑誌新宗教でも使われたと思われます。
>>9, >>10 の記事も同誌から収録したものかもしれません。
[6]
大平隆平は、この紀年法は世界の標準となるべきものと考えていました。
>>1
[75]
大平隆平は若くして大正5年に没しました。
その後も天理教の一部で使われ続けたようで、
昭和時代初期の用例があります >>8。
[76]
現在のウェブ検索では実用例を発見できません。現状は不明です。
- [21] #page=1 「今試みに紀元十億三十七年十二月大晦日の夜の銀座の一角をとつて研究せよ。」
- [22] #page=14 「(紀元十億七十七年
一月六日)」
- [23] #page=28 「(紀元十億七十七年一月九日)」
- [24] #page=46 「(紀元十億七十七年一月十四
日)」
- [25] #page=52 「(紀元十億七十七年一
月十四日)」
- [26] #page=59 「(紀元九億十万七十
七年二月十一日)」
- [27] #page=62 「紀元十億十万七十七年
二月十二日」
- [28] #page=63 「余は紀元九億十万七十六年(大正四年)の六月より同年の十一月にわたつて天理教界革
命の声を書いた。」
「(紀元九億十
万七十七年二月十六日)」
- [29] #page=74 「(紀元九億十万七十七年二
月七日夜)」
- [30] #page=76 「(紀元九億十万七十七年二
月十三日)」
- [31] #page=80 「(紀元九億十万七十七年二
月十九日)」
- [32] #page=83 「(紀元九億十万七十七年二月
二十三日)」
- [33] #page=96 「(紀元九億十万七十七年二月
廿七日)」
- [34] #page=97 「(紀元九
億十万七十七年二月二十八日)」
- [35] #page=97 「(紀元九億十万七十七年二月二十八日)」
- [36] #page=98 「(紀元九億十万七十七年三
月一日)」
- [37] #page=99 「(紀元九億十万七十七年三月一日)」
- [38] #page=101 「(紀元九億十万七十七年
三月三日)」
- [39] #page=102 「(紀元九億十万七十七年三月六日)」
- [40] #page=104 「(紀元九億十万七十七年三月五日)」
- [41] #page=106 「(紀元九億十万
七十七年三月三日)」
- [42] #page=108 「(紀元九億十万七十七年
三月八日)」
- [43] #page=111
「彼女が天保九年十月二十三日宇宙の根本神霊の神憑があつてから明治二十年正月二十六
日此の土此の肉を捨てゝ霊界に帰る迄五十有余年の間はこれ全然連続せる迫害の歴史であ
つた。
天理教祖中山ミキ子の生れたのは紀元九億九万九千九百五十九年寛政十年四月四日であ
る。
其の後一男五女の母となつて模範的の婦人生活を続けて来たが紀元九億九万九千九百九
十九年即ち天保九年十月二十三日彼女に神憑があつてから選ばれて世界最後の救世主とな
りもつて万人の典型となるに至つた。」
「紀元九億九万九千九百五十九年四月四日! (紀元九億十万七十七年三月十一日)」
- [44] #page=113 「余が新宗教創刊号(紀元九億十万七十六年四月発行)に於て天理教祖は弥勒菩薩の化身
なりと説いたのは全然根拠なき想像ではない。」
「天理教祖の生れた年は丁度釈尊滅後二千三百十九年に相当する。即ち末世末法の世の始
まりである。この時に於て世界最後の救世主として中山ミキ子の生れて来たのは決して偶
然の出来事ではないのである。」
「(紀
元九億十万七十七年三月十一日)」
- [45] #page=114 教祖降誕祭の制定と信徒の心得
「(紀元九億十万七十七年三月十一日)」
- [46] #page=128 「(紀元九億十万七十七年三月十六日)」
- [47] #page=129 「(
紀元九億十万七十七年三月十七日)」
- [48] #page=130 「(紀元九億
十万七十七年三月十七日)」
- [16] #page=139 「(紀元九億十万七十七年三
月十九日)」
- [17] #page=140 「(紀元九億十万七十七年三
月十九日)」
- [18] #page=140
「道の友三月号の警告に就いて本部に問ふ
道之友三月号は警告として色紙に左の文を掲載した。
警 告
大正五年三月
紀元九億十万七十七年三月十九日
大平 良平
」
- [19] #page=142
「私が天理教を研究し始めたのは一昨々年(紀元九億十万七十四年)の五月であるがいよ
いよこれならば自分の信ずる宗教だと確信のついたのは一昨年(紀元九億十万七十五年)
の七月である。」
- [20] #page=146 「紀元九億十万七十七年三月二十二日」
[10] sinsyukyo3.pdf, , http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/book/sinsyukyo/sinsyukyo3.pdf
- [11] #page=109 「今試みに紀元十億三十七年十二月大晦日の夜の銀座の一角をとつて研究せよ。」
- [12] #page=122 「(紀元十億七十七年
一月六日)」
- [13] #page=136 「(紀元十億七十七年一月九日)」
- [14] #page=154 「(紀元十億七十七年一月十四
日)」
- [15] #page=160 「(紀元十億七十七年一
月十四日)」
[3]
現在の天理教は、宗教創設を起点とする立教を使っています。
[79]
この世界紀元は日付表示に実用された紀年法の中では最大の値かもしれません。