黄帝纪年

黄帝紀元

[5] 黄帝紀元 (こうていきげん) は、 神話において漢民族の祖とされる黄帝基準とする紀年法です。 いくつかの流儀があります。

[11] 辛亥革命の頃に革命派によって採用され、 正式建国に至る前の中華民国軍政府が公用したものが最も有名ですが、 現在も漢民族道教紀年法として使われることがあります。

呼称

[70] 黃帝紀元 >>69, >>78 (POJ: Hông-tè kì-goân >>72) が最も一般的な (普及度においても、バリエーションのカバー度合いにおいても、 最も広範囲に通用する) 呼び方です。

[784] なお旧字体新字体のどちらで書かれることもあります。 も1画目の字形差があり得ます。

[56] 黄紀と略される >>1、 と説明されることがありますが、実は案外見かけません。 自然用例で元号名として実用した事例も未発見です。

[419] 黄帝曆とも呼ばれる >>78、 と説明されることがありますが、一部の解説記事等に見られるだけで、 実用例にはほとんどありません。 この分野で普通黄帝暦というと古代の6暦の1つの方 ( 四分暦 ) を指します。

[94] y~1724黄帝生年紀年とも呼ばれます。 >>10, >>8 元号名黄帝降生とされることもあります。

[95] y~1736黄帝甲子紀年とも呼ばれます。 >>10, >>8

[96] y~510黄帝開国即位紀年 >>10, >>8 とも呼ばれます。

[418] 以上3つの呼び方は、解説記事の一覧表や実装などで区別のために使われることがありますが、 実用例ではあまり見かけません。

[96] y~510中国開国紀元 >>13 とも呼ばれます。 元号名開国紀元, 黄帝, 中元とされることもあります。

[844] y~1736y~510元号名开元とされることもあります。

[853] y~1736元号名黄帝纪元开元, 黄帝开元とされることもあります。

[334] y~1736軒轅紀年 >>69, >>78 (POJ: Hian-oân kì-lîân >>72) とも呼ばれています。 軒轅黄帝の名前です。 中文维基百科は特に限定せずに示しているのですが >>78、 実用例を見ると y~1736 でのみ使われている呼称です。 中文元号名轩辕纪年ですが、 省略されて轩辕となることがあります。 英文では Huang Di, XuanYuan, X.Y, XY と表記されてきましたが、近年は単に XY と書くようです。

[815] これらの他に、道暦, 粥曆系の呼称 (>>540, >>695) があります。

[413] EnglishWikipedia は 「Yellow Emperor (Huángdì) year」 と呼んでいます。また y~510 を指して 「the Yellow Emperor Calendar (黃帝紀元, 黃帝曆 or 軒轅紀年)」 「Tau Calendar (道曆)」 「Huángdì year」 と呼んでいます。 >>367 呼称が一定しないのは、 説明的に英訳しただけで、 一般的な名称となっていないのでしょうか。

[414] 中文维基百科には黄帝紀年の 「直譯」が Yellow Emperor Calendar / Anno Imperatoris Flavi とあり、 AIF という略号が使われています。 >>78 「直訳」というからには逐語訳で、根拠があるものではないということでしょうか。 ウェブ検索ではウィキペディア関連以外の用例を発見できません。

[415] なお「前2697年+AD=AIF」とされていますが >>78、 この式はどういう意味なのかよくわかりません。 y~1736 でしょうか、 y~510 でしょうか。 記事内には y~510 の説明しかありません。 (ただし農暦正月前は y~1736 相当になるという説明はあります。 がそれをこの式が表しているようにも思えません。)

[53] 日本語ウィキペディアは、 黄帝紀元 (こうていきげん) 紀元黄帝紀年 (こうていきねん) をそれに基づく紀年法と区別すると解説しています。 >>1 実際上は必ずしもそう厳密に区別できるものでなく、 2つの表現は混用されています。 紀元 どちらかというと日本語では「紀元」の語の方が通りがよく、 中文では「紀年」と呼ばれる傾向があります。

[258] 黄帝紀黄帝紀中国開国紀元に大別されるとするものもあります >>13 が、用語法としてわかりにくいと言わざるを得ません。

[74] 蘭語WikipediaChinese jaartelling (支那の時代) という説明的な訳語で黄帝紀元を呼んでいます。 >>73 中文维基百科にも、 中元黄帝纪年法すなわち中華曆の略称だとする記述があります。 >>17 出典の記載はなくどこで使われている呼称なのかは不明です。

変種

[77] いくつかの変種があります。

n
整理番号
+
黄帝紀元 = 西暦 +
0
0年
1
1年
note
参考
n
[812] y~3799
0
西暦-2997年 (紀元前2998年) 癸亥590601
1
西暦-2996年 (紀元前2997年) 甲子0011
+
2997
n
[817] y~3797
0
西暦-2993年 (紀元前2994年) 丁卯3041
1
西暦-2992年 (紀元前2993年) 戊辰4051
+
2993
n
[801] y~1724
0
西暦-2711年 (紀元前2712年) 己酉450461
1
西暦-2710年 (紀元前2711年) 庚戌460471
+
2711
n
[816] y~3798
0
西暦-2699年 (紀元前2700年) 辛酉570581
1
西暦-2698年 (紀元前2699年) 壬戌580591
+
2699
n
[803] y~510
0
西暦-2698年 (紀元前2699年) 壬戌580591
1
西暦-2697年 (紀元前2698年) 癸亥590601
+
2698
n
[804] y~1736
0
西暦-2697年 (紀元前2698年) 癸亥590601
1
西暦-2696年 (紀元前2697年) 甲子0011
+
2697
n
[805] y~3796
0
西暦-2637年 (紀元前2638年) 癸亥590601
1
西暦-2636年 (紀元前2637年) 甲子0011
+
2637
n
[811] y~3800
0
西暦-2492年 (紀元前2493年) 戊子240251
1
西暦-2491年 (紀元前2492年) 己丑250261
+
2492
n
[802] y~1723
0
西暦-2491年 (紀元前2492年) 己丑250261
1
西暦-2490年 (紀元前2491年) 庚寅260271
+
2491

[761] 以上、紀年法として確実に存在すると思われるものが9種類あり、 その他に当記事に用例等を示す通り、 何らかの誤りの可能性が強いものや情報が不足しているものがいくつかあります。

[763] これら各説の違いは、 黃帝の生涯のどのタイミングを採るかの違いや黃帝の時代を現実の時間軸上のいつに比定するかの違いによるほか、 1,2年程度のズレは何らかの誤解から生じた可能性もあります。

[764] 黃帝の時代をいつに定めるかには古来諸説があり、 紀年法として存在することが確認されていない説もあります。 (解説記事等にはそれも「紀元」の一説として掲載していることがあるので要注意です。)

[765] なお現代の漢民族道教信者は民族・宗教の開祖としての黃帝を信仰するのみならず、 史実としてもその存在を信じていることがあるようです。

[766] 中国以外の研究者は一般的には黃帝神話上の存在と考えています。 中国人でも、黃帝は虚構で年代を決定できるはずがなく、 黃帝紀元には意味がないと考える人もいます。

[767] 信仰上の実在性は外野が口を出す問題ではありませんし、 たとえ実在しない、史実と違うとしてもそれを紀年法として使うことには支障はないのですが キリスト紀元, 皇紀 、 有力な一説に定まらないのは紀年法として不都合といえます。

[762] 解説記事、辞典類等はそのうちのいずれか、多くても3つ、4つくらいしか紹介していないことが多いです。

[271] 日本語ウィキペディア黄帝魂, 江蘇, 民報 の3種 (y~1724, y~1723, y~510) を示していますが、 これは 中国近代史詞典 の表に基づく >>62, >>13 ようです。

[365] 中文维基百科民報, 黄帝魂, 江蘇, 中國皇帝黄帝纪元 の4種 (y~510, y~1724, y~1723, y~3799) を挙げ、 民報 を強調しています。 >>78 民報 型を選ぶのは現用されているためでしょうか。 いずれもからの年数が示されていますが、 民報 型だけは現在の年数も示されています。

[76] 蘭語Wikipediaは、 元年を西暦紀元前2698年 (y~510)、 西暦紀元前2697年 (y~1736)、 西暦紀元前2637年 (y~3796) の3説とし、 西暦2000/2001年を 4637年 (y~3796 / -)、 4697年 (y~1736 / -)、 4698年 (y~510 / y~1736) であるとしました。 >>73 (「/」で併記した意味は説明がなく、前段と後段で順序が入れ替わっているのも謎でわかりにくい書き方です。)

[104] EnglishWikipedia にも同趣旨の解説があり >>14、おそらく同じ出典に由来するものでしょうが、 そちらではしかなく、 順序の入れ替わりもありません。 どちらが原型なのかは検討を要します。

[367] EnglishWikipediaChinese calendar 記事は支那における関係全般を雑然と扱う記事ですが、 黄帝紀年も扱っています。 >>366

  • [368] 連続的な紀年法の一覧表に 「Yellow Emperor (Huángdì) year」 (中文: 「黄帝紀年」) として y~1736, y~510 の2説が示されています。 17世紀の学説に由来すると説明されています。 >>366
  • [369] 清末期の説明として、
    • [370] 「Jiangsu province」 (江蘇省) が y~1724 を使い、 「Ming Pao (明報)」 (創刊の香港の新聞) が y~510 を使ったとされます。 >>366 説明がめちゃくちゃです。
    • [371] 劉師培が 「the Yellow Emperor Calendar (黃帝紀元, 黃帝曆 or 軒轅紀年)」 y~1724 を作った、 しかし20世紀に至る前に之が使われたとする証拠はない、 >>366 とされています。
  • [372] 道教はその後 「Yellow Emperor Calendar」 を採用して 「Tau Calendar (道曆)」と名付けたと説明されています。 >>366 出典は不明です。
  • [373] 孫文改暦改元で 「14 Shíyīyuè 4609 Huángdì year」 (黄帝4609年11月14日) が 「1 January」になったとし、 サンフランシスコ中華街など多くの華僑社会がその変更を採用 (adopt) した、 と説明しています。 >>366

[378] EnglishWikipedia のこうした記述およびその過去の版は、 執筆当時の英語圏で得られた資料の少なさのためやむを得ない部分も大きいにせよ、 多大な混乱を招いているようです。 当該記事の Talk ページも、当記事の雑多な内容の全般にわたって言及があるものの、 その中でも特に黄帝紀元に関係する記述が多いようです >>377。 混乱の大きさとともに関心の高さもうかがえます。

[14] Calendar era - Wikipedia, , https://en.wikipedia.org/wiki/Calendar_era#Political

China traditionally reckoned by the regnal year of its emperors, see Chinese era name. Most Chinese do not assign numbers to the years of the Chinese calendar, but the few who do, like expatriate Chinese, use a continuous count of years from the reign of the legendary Yellow Emperor, using 2698 BC as year 1. Western writers begin this count at either 2637 BC or 2697 BC (see Chinese calendar). Thus, the Chinese years 4637, 4697, or 4698 began in early 2000.

暦法

[769] 黃帝紀元各種のは、グレゴリオ暦月日と併用されることも、 農暦月日と併用されることもあります。 グレゴリオ暦月日と明記しているものもある >>88 ものの少数派で、多くの日時表示は明示していないので要注意です。

[99] 現代においては特に説明無くグレゴリオ暦月日と併用されることが多いですが、 逆に現代でも農暦月日と併用するものもあります >>97

[100] 過去の用法も、 中華民国の成立・グレゴリオ改暦より前は農暦のことが多いですが、 それ以前でもグレゴリオ暦の場合があります。

[101] 黃帝紀元日付を使ったものに対する解説等が、 暦法への注意を怠りグレゴリオ暦と誤解している場合があるので、 論文等であっても読者に暦法に関して注意を促していないものは、 ただちに信用しないほうが安全です。

[105] 欧米の文献等では黃帝紀元農暦と深く結合して解説されていることがよくあります。 農暦において支那では年番号を使わないが、 華僑黄帝紀年と併用することがあるとする解説 >>14 があり、一部の欧米の農暦の実装で黄帝紀年が基準となっている (>>52, >>102) ことと関係していそうです。

[770] 詳しくは各時代、各分野の項を参照。

発祥

[55] 黃帝紀元の発祥については、

があります。

[303] 現在知られている用例で確実に遡れるのは末までで、 後述の通り、清の元号を嫌った革命派によって新たに作られました。 それまでなかった慣習を創出したという意味では、 末に作られたというのは間違ってはいません。

[71] 一方で、 黃帝紀元はそれ以前から道教で使われており、 古籍に散見される >>69 とする説もあります。 道教方面ではの頃から黃帝紀元に基づく道暦が使われているとされています (>>545)。

[772] ただ道教方面でも、 末期よりも前に黃帝紀元年表示の形で明確に利用した事例は提示されておらず、 現段階ではその実態は不明と言わざるを得ません。

  • [292] 桃園穂鳥さんはTwitterを使っています: 「元号と干支紀年法が盛んであったが、紀元に相当するものとしては1911年、黎元洪が革命政府を樹立したときに黄帝の即位年から数える「黄帝紀元」を採用したことがあり、これは宋代以来の著述にみられることがある。中華民国設立以降は「キリスト紀元」が用いられている。日本では『日本書紀』の神武」 / Twitter, , https://twitter.com/cawaU/status/398366301300613120

清末

[253] 清末には黄帝に基づく紀年法がいくつも提案され、 実用され、競合していました。 >>13 主に後述の3種類の黃帝紀元があり、 その他にもいくつかの流儀がありました。

[305] 中国史叙論, 梁啓超, が近代の最初の言及とされます。 >>19 #page=12 (竹内1994)

[255] 黄帝紀元革命派の刊行物で使われ始めたとされます。 >>254

[888] https://soka.repo.nii.ac.jp/record/36965/files/soudaichugokuronsyu0_15_3.pdf

[889] 32_33.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/asiakyouikushi/32/0/32_33/_pdf/-char/ja


[281] 黄帝紀元や同時期の孔子紀元等の紀年法がこの時代に持て囃されたのは、 欧米キリスト紀元日本皇紀との接触から来ているとされます。

[280] 黃帝紀元雜誌における利用例は日本が多い >>270 といいます。 当時の日本には清国人の留学生等が多く滞在し、 反清活動の重要拠点となっていました >>46。 かつ清国官憲の目が届きにくく好きな紀年法が使いやすかったということなのでしょう。

[773] 在日清国人留学生の活動は日本政府にとっても必ずしも好ましいものではなく、 活動を停止されたり、出版を禁止されたりしたこともあるようですが、 黃帝紀元を使った出版物を日本で制作・販売したり、 所持したりすることをもって不興を買ったという記録は見当たりません。

黄帝魂

[7] 劉師培ら革命派は、排滿革命を目指し、 漢民族の始祖とされる黄帝を崇拝しました。 満州族の君主の元号紀年や礼教文化を軸とする孔子紀年には反対し、 種族を軸とする黄帝紀年を採用しました。 >>4 #page=9

[57] >>22劉師培黄帝紀年論元号孔子紀年に反対し、 黄帝の生誕年に基づきを黄帝紀元4614年としました。 >>1 y~1724

[63] 劉師培革命派の雜誌黄帝魂がこの方式を採用しました。 >>62, >>233 黄帝紀年論黄帝魂 に収録されました。

[781] 劉師培の提案した y~1724末の黄帝紀元のはじまりとされます。

[278] 元号名黄帝紀年黄帝降生が使われました。

[777] 日付農暦でした。 >>13

日時事例

[779] いつまで使われたのか書いたものが見当たらず、よくわかりません。

[66] 日本語ウィキペディアは 4614年 () から 4622年 () までを表に掲載しています。 >>1

[793] 誕生に起算することや元号名黄帝降生は、 キリスト紀元孔子紀元の影響を受けたものなのでしょう。

[794] 元号名に「紀元」と入れるのも東洋の伝統ではありませんが、 キリスト紀元孔子紀元 (や神武天皇即位紀元) に倣ったものなのでしょう。

[608] 中華人民共和国の解説記事で、

依辛亥志士刘师培先生的倡议,以黄帝生辰来追溯黄帝纪元,则今年西元2010年就是黄帝纪元四千八百二十八年了。

とするものがあります >>606。 しかしこの数え方は刘师培のものと一致しません。何からの計算の誤りでしょうか。 なおこの記事の末尾に記事の日付が黄帝紀元等で書かれていますが、 そこは他の数え方を使っています。

江蘇

[64] 雜誌 江蘇を4394年とする方式を採用しました。 >>62 その他いくつかの雜誌等が本方式を採用しました。 y~1723

[268] 日本国東京に発行された雜誌 江蘇 は、 最初は光緒を使用していました (「光緒二十九年」 >>22, >>778) が、 第3期より黄帝紀元を使いました >>13, >>778月日農暦でした。 >>13

[269] 「黄帝紀元あるいは紀元」を使い始めた >>13 とする説明もありますが、 ここでいう「紀元」とは何? 「清末雑誌の刊年表記は、光緒宣統のほかに、中国開国紀 元と黄帝紀元 (または紀元) などが使われていることが理解できる>>270 と書かれているので、消去法で西暦のこと?

[782] 江蘇 が代表例とされますが、 本方式は 江蘇 が発祥なのでしょうか?

[823] 黄帝紀年説が閏5月、 江蘇第3期が5月だとすると、 江蘇の方が古いことになりますが、 これはどういうことなのでしょう。

[274] 国民日日報 が採用していました。 >>13

[307] 浙江潮 >>22 が採用していました >>9

[279] 元号名黄帝紀元が使われました。

日時事例

  • [530] 江蘇 第三期黃帝紀元四千三百九十四年五月廿八日>>40
  • [235] 江蘇黄帝紀元四千三百九十四年閏五月一日>>13
  • [240] >>239

    25『漢聲』[湖北学生界第七八月号合冊](黄帝紀元 4394 年 6 月朔日)<雑俎>[奴痛]「記薛女士」

[780] いつまで使われたのか書いたものが見当たらず、よくわかりません。

[67] 日本語ウィキペディアは 4394年 () から 4402年 () までを表に掲載しています。 >>1

醒獅

[275] 日本国東京に発行された雜誌 醒獅 第1期 は、 黄帝紀元4397年としていました。 y~1723 とは1年のずれがあります。 >>13 y~3800

[792] 日付農暦です。 >>13

日時事例

[791] 現時点で他の用例は未発見です。何らかの誤りによるのか、それとも異説なのかは不明です。

民報

[257] を黄帝紀元4603年としたもの >>254 y~510 は、 末に最も広く使われた黄帝紀元です。

[273] 元号名中国開国紀元または開国紀元とするものと、 黄帝紀元とするものがありました。 この2つを区別して呼ぶ文献と、 特に断り無く前者も黄帝紀元と呼ぶ文献があるので要注意です。

[783] 中国開国紀元または開国紀元は早い時期に使われました。 やがて黄帝紀元に統一されていきました。

[68] 日本語ウィキペディアは 4603年 () から 4609年 () までを表に掲載しています。 >>1

民報型の発祥

[256] 宋教仁は、 満州族を始めとする外部勢力を排除する意志を、 清の元号のかわりに黄帝紀元を使うことで表現したとされます。 >>216

[58] 宋教仁は、 黄帝即位年の癸亥年に基づきを黄帝紀元4602年としました。 >>1 y~510

[65] 宋教仁はまず日記でを 「四千六百零三年」として使い始めました。 >>216 y~510

[218] >>58>>65 のどちらが真の初出なのか。

[219] 宋教仁は更に上海国粋学報 との間で考察を進めました。 各省の留学生の刊行物も黄帝紀年を採用しました。 >>216

[217] 中国同盟会の機関誌 民報 等、革命派の雑誌がこれを採用しました。 >>1 中国同盟会は、中華民国の成立まで、黄帝紀元を使いました。 >>4 #page=10

[289] 発行の宋教仁らによる雜誌民報 の前身である 弐拾世紀之支那 は、 奥付に開国紀元として黃帝紀元を使いました。 (>>288) 同誌所収宋教仁 漢族侵略史 は、

計自漢族開国元年癸亥自今年乙巳、都凡四千六百零三年

などとしてその数値を説明していました。 >>283

[298] なお同誌の誌名および同記事本文中で 「弐拾世紀」 「二十世紀」 とキリスト紀元世紀を使っている点には注意されます。 >>19 #page=2

[264] 日本国東京で創刊された雜誌 民報 は、 の創刊号から中国開国紀元, 西暦, 明治, 光緒を併記し、 グレゴリオ暦を使いました。 >>13

[259] 日本国東京で創刊された雜誌 復報 は、 創刊号から第7期まで農暦、 第8期からグレゴリオ暦を使いました。 >>13

[262] なおその第11期は4605年にもかかわらず「四千六百四年」と誤っていました。 >>13 第8期から既に正しく4605年となっていたのに第11期だけ誤ったのはどうしたことでしょう。

[266] 日本国東京で創刊された雜誌 漢幟 は、 の創刊号から中国開国紀元, 西暦, 明治, 光緒を併記し、 グレゴリオ暦を使いました。 >>13

日時事例

辛亥革命の黄帝紀元

[785] 辛亥革命では、 武装蜂起しから独立を宣言した各省の勢力が中華民国を称し、 黄帝紀元 y~510 を公式な紀年法として採用しました。

[59] 辛亥革命において設立された中華民国湖北軍政府宣統から黄帝紀元改元し、 を黄帝紀元4609年としました。 >>1, >>2, >>3

[110] 中華民国軍政府鄲軍督黎元洪は、 漢口在留各国領事に軍政府成立を通知しました。 その通知書の日付黄帝紀元でした (>>111)。 >>109

[128] の在上海日本国総領事有吉明からの電報によると、 蜂起勢力は中華民国軍政府と称し、 黃帝紀󠄄元曆を用いたとのことです。 黄帝紀元を使った文書を配布していたのでしょう。

[132] 黄帝紀元4609年10月13日、 黄帝紀元を使った仮憲法が発布されました (>>150) >>131, >>149

[364] 中華民国軍政府の公報でも黄帝紀元が使われました。 >>363

[82] 黄帝紀元の採用は武昌蜂起のあった10月10日からとされていますが、 農暦なのかグレゴリオ暦なのか混乱があります。 >>3 ただしくはグレゴリオ暦のようです。

[152] 当事者である革命軍は農暦を使っていたようです。

[112] >>110, >>132 の場合、日付農暦のようです。

[157] >>156 は12月とありますが、これはいつなのでしょうか。 農暦12月は、公式には中華民国元年1月 (グレゴリオ暦) になっていたはずです。

日時事例

[134] 在広東日本国総領事館によると、 清国から独立した広東省の都督の黃帝紀元4609年9月20日の布告で黃帝紀元が使われていました (>>135)。 また布告されたのは断髪令でしたが、その前半は黃帝紀元によりその正当性を述べていました。すなわち: >>133

  • [136] 開祖黃帝が甲子を作り紀元を定めて今に至る
  • [137] 異民族が国を乱してもこの紀元は続いてきた
  • [138] 滿洲朝廷が明末甲申年3月19日から今まで我々の甲子を奪い国を奪って支配してきた
  • [139] 以来天子が国を独占し奪い合ってきたので紀元年号「粉として断つ」
  • [140] これが軍政府、共和政府建設の志であり、 黃帝紀元でもって国制が全時代と違うことを表すのである

[141] 黃帝黃帝紀元漢民族の民族主義の象徴として担ぎ上げられたことがよく表れています。 これはほとんどプロパガンダというべき建国神話です。 黃帝干支を作ったとする伝承はともかく、 黃帝黃帝紀元を作ったというのは史実どころか伝承ですらありません。 漢民族漢土が異民族に支配されていたのも時代だけではありませんし、 清の元号干支年を使うほど「漢化」された国が、 紀年法についてそれ以前の歴代中華王朝と違うことは全くありません。

[295] >>294 このツイートは他の説 (皇紀の話) をデマだと否定する流れの派生。 しかしこのツイートの根拠・出典は説明されていない。 「黄帝紀元に戻」すとはどういう意味かよくわからない。 清の元号の前は黄帝紀元が使われていたかのような言い草だが、 そのような事実は確認できないし、そうだというなら根拠を示すべき。 デマを非難する者が対抗のためデマを流すとはどうしたことか。

[296] >>141プロパガンダと関係ある?

[760] また、 「黄紀」 という表記もウェブ検索でほとんどが日本語の解説記事で、 実用された根拠もありません。

[314] 日本の書籍に、 革命軍の参謀の1人に聞いたとの説明が掲載されています。 どこで誰に尋ねたのか不明ですが、それによると

のだといいます。 >>51

[317] 章太炎については清末民初の日時参照。

[786] 当時日本には紀年法についていろいろな説が伝わっていたようです。 何らかの根拠を持つものなのか、デマなのか謎なものもあります。 (>>115)

[2] 辛亥革命 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD

11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。

[183] 日支 2(6)(13), 日支問題研究會, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1490164/1/29 (要登録)


[192] 辛亥革命に先立つ黄花崗起義と呼ばれる蜂起失敗事件の死者は黄花崗七十二烈士と通称されますが、 その墓には清の元号をきらって 「黃帝紀元四千〇九年」 と掘ったものもあるそうです。 >>193

[194] これは4609年の誤植でしょうか。 汪兆銘による墓碑では4609年になっているようです (>>198)。

[195] そのようなものあるということは、そうでないもの、 清の元号によったものもあるのでしょうか。

日時事例


[531] の蜂起のうち貴州軍政府について、

1911年武昌起義後,貴州響應,所釋出《貴州軍政府檄文》,末署“大漢黃帝紀元四千六百五十九年”。中華民國政府建立後,認為黃帝紀年不甚適合,最後採用民國紀年。(陳旭麓:《清末革命黨人的紀年》,第111-115頁。)

とする論文があります。 >>40

[532] 該当する 貴州軍政府檄文ウェブ検索では発見できませんが、

[535] 近代史資料 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=yzk3AAAAIAAJ&q=%22%E8%B2%B4%E5%B7%9E%E8%BB%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%22+%22%E9%BB%84%E5%B8%9D%E7%B4%80%E5%85%83%22

貴州軍政府都督揚盡誠,副都督赵德全,樞密院院長張百麟,行政总理周培艺,大汉黄帝紀元四千六百零九年九月十四日。」派往各县屬接收的人,都能圓滿达成任务。只有黎平府,在接收人員未到以前,当地自治分社周培桥、張德榮招集四多团兵,意欲入城独立。

[533] 中華民國開國五十周年文獻 - 中華民國開國五十年文獻編纂委員會 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=8tu_79nZFegC&q=%22%E8%B2%B4%E5%B7%9E%E8%BB%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%22+%22%E9%BB%84%E5%B8%9D%E7%B4%80%E5%85%83%22

貴州軍政府為微知光復貴州公訂約法事: (二)貴州軍政府撤知公訂約法文黔軍於黄帝紀元四千六百零九年九月十四日宣告獨立,已派初等參贊袁來鄂連絡,以備來援北征。都督府楊。寒。(九月十四日) (錄自陳春生「辛亥貴州光復紀」稿本) ( 1 )貴州獨立致郭軍政府電 ...

[534] 辛亥革命資料彙輯 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=ljobAQAAMAAJ&q=%22%E8%B2%B4%E5%B7%9E%E8%BB%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%22+%22%E9%BB%84%E5%B8%9D%E7%B4%80%E5%85%83%22

貴州軍政府都督楊盡誠、副都督赵德全,稱密院院長張百麟,行政总理周培艺,大汉黄帝紀元四千六百零九年九月十四日。」派往各县屬接收的人,都能圓滿达成任务。只有黎平府,在接收人員未到以前,当地自治分社周培析、張德警招集四多团兵,意欲入城独立。

と、

  • [536] 「大汉黄帝紀元四千六百零九年九月十四日」
  • [537] 「黄帝紀元四千六百零九年九月十四日」

と称した文書があるようですから、4659年とするのは4609年の誤引用が疑われます。


[49] 当時黃帝紀元を題した暦書も発行されたようです。

日時事例

[327] 「選吉便民通書」と題していますから、当時一般で使われていた民間の暦書でしょうか。 「時憲書」ともありますが、当然清国政府の公式発行の暦書 時憲書 ではなく一般名詞化した農暦 (時憲暦) を意味したものでしょう。

[328] 黄帝紀元4610年壬子は日本国立大学法人東北大学の書誌も [宣統3 (1911)] 発行と推定しています >>321

[329] 「中華黄帝紀元歳次壬子」 とあるのは国名元号名「黃帝紀元」、干支年組み合わせです。 前年以前も清の元号で同様に記載していたのでしょうか。

[330] 本書は東北大学が所蔵しています。 昭和37年時点で目録に掲載されています >>45。 昭和40年には東北大学附属図書館で開催された展覧会に出品されました >>326。 現在も東北大学で保管されているようです >>321


[147] 革命軍に直接は関係しない一般の用例もあります。

[267] 清国重慶からに 287号発行された雜誌 広益叢報 は、 光緒, 宣統を使っていましたが、 の第278号 (第9年第23冊) から黄帝紀元の四千六百九年としました。 日付農暦でした。 >>13

[272] 東莞旬報黄帝紀元農暦を使いました。 >>13

日時事例

  • [148] 孤棲悶黄帝紀元四千六百九年孟夏」 (隷書) >>146
  • [166]黃帝󠄃紀󠄄元四千六百九 年春三月󠄃」 (明朝体) >>165
  • [173] 学校建物正面の大きな額面黃帝󠄃紀󠄄 元四千六百零九年」 (明朝体) >>172
  • [238] >>237

    彙録4には、つぎのようにある。

    [彙④3386]小説 渾沌国 『民国 報』第1号 1911年11月21日(黄帝紀 元四千六百九年辛亥十月初一日)

中華民国への改元

[60] 孫文は黄帝紀元4609年11月13日を中華民国元年1月1日 () に改元すると通達しました。 >>1 清国宣統帝の退位により禅譲され正統政府となった中華民国の建国がこの日とされるようになり、 以後現在に至るまで中華民国では建国紀元である民国紀元を使っています。 民国紀元

[787] 黄帝紀元が廃された理由について、 現在の定説によれば、 帝王である黄帝に基づく紀年法は民主共和の精神にそぐわないと考えられたためだといいます。 >>1

[163] 日本の大正時代の論文では、 黃帝漢民族の祖に過ぎず、満蒙回蔵の4族をも統括するには不適切とされたのだ、 と説明されています。 >>162, >>164, >>206 辛亥革命へ至る流れのはじめは漢民族による排満革命運動でしたが、 やがて朝の版図人民を漢民族中心の政府が統治する形態が目指されるようになって、 周辺諸民族をも包摂する理論体系 (五族共和) が求められ、 改元もその一環とするものです。

[208] 孫文と親交のあった緒方二三は、 その記憶が確かなら (とわざわざ断っているので何日かずれているかもしれません。)香港から上海へ向かう船上で孫文からを受け取りました。 >>207

[209] 孫文によると、 上海の幹部内では年号西暦黄帝紀元孔子紀元、 ○○元年のいずれにするか、未だ決していませんでした。 >>207

[210] 孫文緒方二三に問うたところ、 西暦孔子紀元も不可、 黄帝紀元も考えものだと答えました。 >>207

[211] 孫文は結局「淸之亡年 十二月何日」と書きました。 緒方二三は当意即妙、なかなか面白かったと振り返っています。 >>207 これは大事紀年とでもいうべきものでしょうか。

[228] 、 各省代表会があり、 黄興

を提議しましたが、なんなく決議されたとされます >>227

[788] これらの記録が正しいとすると、民国紀元は5日も満たないうちに決まったことになります。 (孫文の知らないところで動いていた可能性もありますが。) 「なんなく」決まったということは、黄帝紀元がよろしからざるという認識は共有されていた (そして根回しが済んでいた) ということでしょうか。

[232] 20世紀末に中華人民共和国政府系雜誌に掲載された日本語記事 (著者中華人民共和国人と思われる記者) は、 孫文黄帝紀元 y~510 を策定、施行しようと企てたものの、 歴史学界の意見が一致しないため押しきれなかったと断言しています。 >>231 その根拠は示されていません。

[508] 中華人民共和国の研究者张新斌黄帝紀元についての論文で、

辛亥革命之后,孙中山就任临时大总统的第二天(1912年1月2日),通令各省的电文中云:“中华民国改用阳历,以黄帝纪年四千六百九年十一月十三日为中华民国元旦。”因此,黄帝纪年在辛亥革命之初达到高潮。在共和政府成立之际,明确阳历革命酝酿过程中,最为畅行的是“黄帝纪年”.

と書きました >>29孫文改暦改元布告の頃が黄帝纪年の絶頂期であると書いていて、 文意にやや不明瞭なところもあるものの、 清末期の革命派が私用していた黄帝纪年が遂に政府の代表者が採用するまでに至ったことをもって大出世だと言っているように読めます。 この张新斌の論文以外でも、そのようなことが書かれたウェブページはまま見られます。

[509] 実際には当該布告は中華民国軍政府の公用紀年法だった黄帝紀元から正式発足した中華民国の新しい公用紀年法である民国紀元への改元黄帝紀元の廃止を発表したものなのですから、 このような解釈は疑問と言わざるを得ません。

辛亥革命と黄帝紀元、日本人の理解

[115] 武装蜂起の報とともに 「黃帝紀元」 は即座に日本にも伝わりました。 >>113, >>109, >>114, >>116, >>47, >>48

[122] 漢土ではいろいろな発明も何でも黃帝の功績にし >>114, >>117 /59漢民族を黃族、支那史を黃史と称する >>160 こともあり、 告示の紙も黄色である >>241 /34 というような風潮も伝えられていました。

[178] かかる思想は王夫之黃書の影響によるものだとされます。 >>177

[124] 黄帝紀元に「黃」と入っているので、 西洋の神経過敏の人は黄禍の記憶を新たにするのではと懸念する日本人もいました。 >>117 /14 黄禍論 (欧米の黄色人種差別思想) の歴史は長いですが、 ここでは北清事変頃のものを指すのでしょうか。

[123] 年数の算出理由も日本側で独自に推定したり、 当事者の文献から調査したりされています。 >>42, >>43 その年数も怪しいものだ、と指摘されつつも、 キリスト紀元だってずれているしどこもそんなものだとフォローされています。 >>114, >>129

[161] 大正5年の解説書では、 皇紀西暦に影響されたもので、 しかし孔子紀元の2500年では自尊心が満足されず >>160, >>169, >>174黃帝紀元に惹かれた者が多かったのだと分析しています。 >>160

[168] 別の説では、孔子紀元では儒教を信じる漢民族以外の異民族への配慮で孔子紀元ではなく黃帝紀元を採用したのだとされています。 >>167, >>169, >>174 (しかし同じ書籍で同時に革命の排満的漢民族主義と黃帝紀年の関係も指摘していて >>169 /22、この解釈には矛盾も感じられます。)

[250] 日本の新聞記事では国号は 「 (ちう) (くわ) (けう) () (みん) (こく) 」、 年号は 「 (こう) 帝󠄃 (てい) () (げん) 四千六百 (れい) (ねん) 」 (明朝体) としていました。 >>241 /38

[118] 革命当時の日本の雑誌記事で、

  • [119] 「黃」が国号
  • [120] 年号を定めて、湖北漢朝第一年と号し、文書には黃帝紀元四千六百九年と記す
  • [121] 清国の制朔を奉じない

と書いたものがありました. >>117 矛盾が含まれるようにも思われますが、どれだけ根拠があって書いていたのでしょう。

[126] 国号を湖北漢朝とし黃帝紀元を採用したとする雑誌記事は他にもありました >>125

[154] 大正3年になると、

(ねん) (がう) (くわう) (てい) () (げん) 四六〇九 (ねん) (あるひ) (かん) 朝󠄃 (てう) (くわう) (ふく) (だい) (ねん) (がう) し、

とする解説書が出ています。 >>153

[159] 大正4年には同じような内容で、しかし 「漢朝興復第一年」 と書いた解説書もあります。 >>158

[171] 大正時代の解説書は、 革命軍が当初から中華民国と称したのではなかったらしいことについて、 黃帝紀元を使い国号を湖北漢朝や黃国と称したと日本で報じられたことが、 事実だったのではないかとし、 革命時の文書で中華民国と書かれたものは後から書き改められたのだろうと述べています。 >>170 (ただし個別具体的な検討は行っていません。) この見解はその後も踏襲している研究者がいます >>214

[251] これらの国号や紀年に関する情報はどこまでが正確なものなのでしょうね? 混乱の中で、いろいろな立場の人が混じっていたでしょうし、 方針がころころと変わった可能性もありますから、 革命軍の全体であれ一部であれ史実としてあったことなのか、 伝言ゲームで生じた虚構なのか、 判断は難しそうにも思われます。

[220] 日本では辛亥革命前後に発表されたこれら解説等が再版、引用などの形でたびたび世に出続けていたことが、 国立国会図書館の蔵書の検索から確認できます。 多くは辛亥革命当時の經緯や思想の紹介の中で紀年に触れたものや、 世界各国の紀年法の紹介の中でこれに触れたようなもの、 ないし中国古代史の解説でついでに (おおむね否定的に) 触れたものでした。

[221] 本項で挙げたようなものを除けば、それ以上の新しい見解や紀元諸説の詳細な分析のようなものは出てこなかったようです。 昭和時代中期になると、 辛亥革命から時間が経過したことや中華人民共和国が成立したこと、 あるいは日本が満支から締め出されたことによるものか、 せいぜい簡単に一言触れる程度になっていきます (が逆に言えばその程度の言及はコンスタントに続いています)。

[222] 昭和50年代頃になると、時間経過により歴史学的な研究対象と意識されるようになったのか、 辛亥革命史や文学史の論文で言及されるようになります。以後21世紀にわたって、 紀年法と思想の関係や、同時代の諸紀年法の関係性などに考察が進められました。 >>223, >>224, >>226, >>13, >>302, >>306, >>19, >>21, >>20

清末、その他

[107] 日本で発行された年表に、 支那黃帝󠄃紀󠄄元(卽󠄂位六十一年甲子)元年日本紀元前1989年、 西暦紀元前2650年とあります。 >>106

[108] 日本紀元 (皇紀) と西暦の差が661年で、1年間違っています。 しかも甲子年とありますが、 皇紀前1989年すなわちは壬子年、 は辛亥年で一致しません。 どちらかといえば皇紀が同じ子年で意図に近いのでしょうか。

[789] 同書本体年表 >>106 /20 には黃帝の治世の始まりが 「日本紀元前二千〇二十九年壬申」 (明朝体) すなわちとあって (即位紀年では無し)、 これまた別の説になっています。

[790] 本書は本段落執筆時点で日本国立国会図書館デジタルの検索で発見できる 「黃帝󠄃紀󠄄元」 の初見です。 清国人による 「黃帝󠄃紀󠄄元」 の発明の同年、わずか数ヶ月後の出版なのは、偶然でしょうか。 それともその情報が伝わってのことなのでしょうか。 清国人の用法を知ってのことだとすると、 年数が一致しないのはどのような理由によるのでしょうか。


[200] 中国同盟会の設立の準備中だった第1次ベルギー会議で孫文らが作成した誓文の日付が、 「黃帝紀元前四千六百八󠄂十四年」 だったとされます。 >>199, >>203

[201] 「紀元前」は「紀元」の誤植でしょうか。

[202] 元年に当たります。 この数え方は他のどれとも一致しません。 また、日本の昭和時代の同系統の文章2本に日本語訳が掲載されているだけです。 実在した数え方なのか、何らかの誤りなのかよくわかりません。

近代中国大陸

[309] 公用されなくなったというだけで、中華民国成立後もしばらくは黃帝紀元は使われ続けていたようです。

日時事例

[630] 张之铭年表で、 黄帝紀元 y~1736 を使いました。 >>628

[795] 近代中華民国で発行された新聞には、民国紀元 (グレゴリオ暦) と黃帝紀元 (農暦) を併記したものがありました。 y~510 >>775, >>774, >>776


[796] 道教では黄帝を開祖として崇めており、 この時期も道暦と称して黄帝紀元を使っています (>>545)。


[187] 張鳴は、 中華民国建国後の在り方に不満を抱いて政治工作を続け、 中国復興党を結成して親日政策を目指しました。 その半生を紹介した昭和時代初期の日本語の書籍は、 西暦民国紀元を使い、 ときに日本の元号を併記していました。 >>186

[190] 同書最後の中国復興党の章では昭和黃帝紀元が使われました。 ここだけ敢えて黃帝紀元なのは、 中国復興党の採用した紀年法だったのでしょうか?

日時事例


[331] 阮伯卓が著した 皇越甲子年表 は、 越南の初代である鴻龐氏の壬戌年を、 西暦紀元前2879年であるとし、中國黄帝甲子元年の前に183年だと述べています。 中華王朝の歴史における起点の甲子年から更に3周遡った先の壬戌年だと算定理由が述べられています。 >>831, >>318

[332] 甲子年による黃帝紀元 (y~1736) だと言っていますが、 元期とすると壬戌年は-181年、 紀元前形式なら182年なので、1年ずれています。 起点の甲子年も合わせて183年という意味でしょうか。

[318] 涇陽王 - 维基百科,自由的百科全书 (, ) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%87%E9%99%BD%E7%8E%8B

阮伯卓《皇越甲子年表》凡例:一,謹按我越鴻龎氏起於壬戌年(西曆紀元前二千八百七十九年),是在中國黃帝(甲子元年)之前一百八十三年。

華僑および欧米

[797] 清末から中華民国初期の頃に、 黄帝紀元南洋欧米華僑にも広まったといわれています。

[75] 欧米の文献では、 黄帝紀元は現在では (中国大陸で) ほとんど用いられないものの、 華僑の一部では (農暦と共に) 使われることがある、 と説明されています。 >>73, >>14

[83] 台湾黄紀 y~510 使われたことがあるとする説があります >>3 が詳細不明です。 道教では現在でも台湾で使われており (ただし y~510 ではない)、 それとの混同かもしれません。


[41] 蘭領東印度 (現在のインドネシア) の華人は20世紀頃、 いろいろな紀年法を使っていました。 辛亥革命前後の時期には黄帝紀元の用例もみられます。 >>40

日時事例

[529] >>528 の戊午年は, , ですが、 どれも合いません。 >>40と推測しています。

[176] 大正時代蘭領東印度における支那人の祝日についての説明で、 黃帝紀󠄄元4559年、4560年と書いたものがあります。 これがどの年か明記されていないのですが、 イスラム暦祝日の説明には1341年、1342年とあります。 >>175 このイスラム暦に当たります。 黃帝紀元も同年なのでしょうから、 y~3796 ということになります。


[396] 欧米では干支年との組み合わせで黄帝紀元元期が使われることがあります (>>384)。

[390] 90年代からあった老舗の英語による中国情報サイト China the Beautiful は、 から新年ページに黄帝紀元

This is Year 4698.

のように書いています。 >>389

[391] このサイトの運営者らは欧米在住で、 その多くは中国人名らしき名を称しています。 移住して長い華僑か短期的な滞在者か、 あるいは欧米人が中国人名を名乗っているだけなのかは不明です。

[392] 同ページは 4698年 y~1736 説を採っていますが、 4638年 y~3796 説もあり得る (plasible) としています。 4699年 y~510, 4399年は間違いに違いない (almost certainly wrong) としています。 根拠は不明です。 >>389

[394] 翌年以後異説は省かれ第1説のみになっていますが、 かわりに他サイトの解説 >>393 が参照されています。

[395] そのサイトは、 を 「the 4709th Chinese year」 としています。 y~1736 そして4710年とするウェブサイトがあり y~510、 その理由はおそらく (possible answer) 黄帝の就任式が December 23rd, 2698 B.C. 頃の冬至であり、 その 2698 B.C. の8日間を含めて数えたことになるのだといいます。 >>393 出典は書かれていないのですが、著者の推定でしょうか?

[410] 米国サンフランシスコの中華街の支那新年行事の告知には、

February 6 – February 28, 2010 Lunar Year 4708

SAN FRANCISCO: Leap into The Year Of The Tiger on February 14th, Lunar Year 4708.

とあります。 >>409 y~510

[399] 21世紀初頭の英語圏でよく参照されていた、 National University of SingaporeHelmer AslaksenWebサイトは、 次のように説明していました。 >>397, >>398

[379] に開発された Archetypes Calendar農暦を強く意識して設計されていますが、 その紀年法は、 黄帝紀元 y~510 に相当するものです。

[807] 米国ニューヨーク市支那新年イベントは 「4721 Year of the Water Rabbit」 >>806 としています。 y~510

[808] 2023 SBCC Chinese New Year Celebration Dinner — South Bay Chinese Club - 南灣華人會, http://www.southbaychineseclub.org/events/2023/2/10/2023-sbcc-chinese-new-year-celebration-dinner

SBCC will be celebrating the Year of the Rabbit, Lunar Year 4721, on Friday, February 10, 2023 at the Pearl Bay Restaurant in Fremont.

Place: Pearl Bay Restaurant

43635 Boscell Road, Fremont, CA

y~510

[809] 2018 Year of the Dog, Helen-Editor, , https://www.international-excellence.com/china/99-2006-year-of-the-dog

According to the Chinese Zodiac and Lunar Calendar, on February 16, 2018 (Chinese calendar year 4722) we entered the Year of the Earth Dog.

他に例なく、何らかの誤りか?

現代中華人民共和国

[308] 黃帝紀元の公用を中華民国が取りやめてから久しいですが、 現在でも中華人民共和国では黃帝紀元を採用するべきという提案が続いています。 >>293 たまに日本語媒体でも紹介されています >>6, >>293。 提案する人がいるという以上の動きが出てこないので、 賛同者はそこまで多くはなさそうです。 しかしたびたび話題になる程度に熱心な人が一定数はいると考えられます。 中華人民共和国の改暦提案

[810] 公用を求める動きとは別に、道教等で現に私的に使っている人達もいます (>>545, >>695)。

[333] 中文维基百科黄帝纪元 記事は辛亥革命前後の用法を基調としつつも、 道暦としての用法も多少混ぜて説明しています >>78

[353] 中華人民共和国の研究者の論文によると、 それまでの100年ほどのうち黄帝紀元が注目されたのは辛亥革命1980年代から21世紀初頭の2回でした。 そしてかつてはを含む外国勢力による圧迫、弱体化から生まれたものだったのが、 今は中国の国力の発展によって文化的な特徴を押し出そうという機運が高まっているのだといいます。 それゆえ、将来的には中国の規則が国際標準となる可能性があるとし、 黄帝紀元を代表とする中国式の紀年を国家が採用したり、 中国と西洋の紀年を併用したりすることも考え得るのだと説きます。 >>29

[824] 確かに黄帝紀元の公用を主張する人々は、 中華人民共和国公元のみを使い、 国・民族の独自の紀年法がないことを揃って問題視しています。 末の人々もキリスト紀元皇紀に触発されていました。 黄帝紀元にせよ、 他の孔子紀元中華人民共和国建国紀元農暦の提案にしても、 西洋等他国とは違う優れた文化と長い歴史を誇る中華民族が、 キリスト教紀年法を借用せざるを得ない現状に負い目を感じずにいられないようです。

[825] 視野の狭い国粋主義、民族主義の復古思想と嘲笑するのは簡単ですが、 長く続いた伝統文化を捨てることは、アイデンティティーの拠り所を失うことであり、 一連の革命で多くの大切なものをなくしてしまったということなのでしょう。

[614] 光明日报は、 袁晓园が歴史学会に対して黄帝纪年を中国纪元とするよう提案したと掲載しました。 >>606, >>628

[615] の記事によると、 黄帝の故地とされる中華人民共和国河南省新郑は黄帝纪年を「自制」 して、国内外の人がこぞって複製している (纷至抄录) とのことです。 >>606 意味をよく取りかねますが、 黄帝を記念した何かがあるということでしょうか。

[616] 同じくの記事によると、 广州の某社が中英文对照纪年表を発行しているとのことです。 >>606 明言されていませんが、文脈からして、中国側に黄帝紀元を使っているということでしょうか。

[877] 実のところ現在の中華人民共和国で、 カレンダーの記述や祝日 (特に春節) の催事等の表記として黄帝紀元 y~1736 (たまに y~510) が使われるのは、 そう珍しいことでもありません。

[388] >>387カレンダーは、 農暦の「4710」年と書かれてあります。 y~1736

[872] 中华龙历y~1736 です。

[876] >>875農暦の年号は y~510。 (黄帝紀元とは明記せずに使っている。)

[874] >>873 の写真は黄帝四七二一年の具注暦。 西暦2013年なので y~510農暦数字の最後の公用紀年法なので黄帝紀元を使ったと注意書きがある。

[293] 黄帝の主な文化的貢献と黄帝紀元 | 中国伝統文化百景 | 大紀元 エポックタイムズ, 2016/03/10, https://www.epochtimes.jp/2016/02/25313.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

清代末期に革命派の提案により、黄帝が即位した年(前2697)を紀元とする「黄帝紀元」を中国の紀年法として実施したが、孫文が中華民国臨時大総統に就任すると、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦とすると通達し、黄帝紀元の使用は停止された。現在も中国で黄帝紀元を回復し、黄帝紀年をもって中国の紀年法を作る提案が年々ある。

(文・孫樹林)

国学の中元

[335] 21世紀中華人民共和国では中華文化を対象とする国学と呼ばれる分野が流行していますが、 しばしば黃帝紀元 y~510 が使われています。

[337] 中元と呼ばれ、公元 (西元) と併記されることが多いです。 併記は公元を主とすることが多く、 題字や日付で中元を使っていてもその他は公元のこともよくあります。


[352] 清华大学中国管理研究中心副主任の许文胜を代表とし >>27, >>503, >>504黄卫东宫春涛张宝祥李娜张劲东黄晓雷朱钧陈峰戴艳芳秦鸿亮らが参画する新易国学の団体が黄帝纪年 (元号名スロット: 中元) を提唱し、それ以来利用しているそうです。 >>345

[617] また清华大学特聘教授许文胜中华纪年应恢复“黄帝纪年” を発表し、 荣松孙虹钢がそれに続いたのだといいます。 >>606

[87] 時点で末に大学教授らがインターネットで提唱した >>6, >>86 と報じられていますから、 1月30日に発表し2月に話題になっていた、 最初の提案者が许文胜で他の者がそれに続いた、 ということなのでしょう。

[355] 仏暦, 日本の元号, イスラム暦等各国がそれぞれの紀年法を持つ中で、 中国公元だけで独自の紀年法を持たないことが問題視されているようです。 黄帝纪年を採用することは、 中華民族の祖である黄帝に起算することと共に、 辛亥革命の指導者らが採用したことにその正統性が求められています。 >>345

[618] 浙江日报 “黄帝纪元”从何谈起?刘宗迪はこの提案に対して「瘴气」である、 理屈が通らないなどと激しく非難しました。 >>606 その他、国際協調にそぐわない、ナショナリズムだなどと反対する意見も多かったようです。 >>606, >>6


[356] 中元公元は併記されることが多く、 どちらが先のこともありますが、 中元を先にするとが多いようです。 併記される公元元号名なしが多いですが、 西元と表記されることが多い (公元とはあまり表記されない) ようです。

[357] 中元のみの単記のこともあります。 その場合でも元号名を省略することはあまりないようです (が探しにくいバイアスがかかっているかもしれません)。

[358] だけで月日が記載されない場面で使われることが多いですが、 年月日表記もないこともありません。

[354] 黄帝纪年は甲子年11月13日 = 西元前2697年1月1日に始まるとされ、 農暦ではなくグレゴリオ暦年始月日で使われています。 >>345

[359] 提唱した国学団体がイベントで使ったり、産学の支持者集めをして利用を推奨したりしているようです。 >>345

[360] また国外の政治家の中国人向け年始挨拶や国外メディアの支那正月イベント報道などで黃帝紀年が 「4706」 「year 4705」 のように表記されたという「実績」があるそうです。 >>345

[361] 「海外でも報道されている」は中華人民共和国でも宣伝に使えるのですね。 「各国首脳も応援している」は新興宗教の宣伝でおなじみ。
[336] 2013年,中元47... - @智慧果向晴的微博 - 微博, 智慧果向晴, 13-8-9 10:42, https://weibo.com/1619299594/A3UtkEPPD

2013年,中元4711年,#国学与趋势#年中高峰论坛趋势下的选择与应对之道。日坛宾馆,200多企业老总,论坛即将开始。 ​​​

[342] 2015年《国学与趋势》总裁高峰论坛在京收官_凤凰文化, 2015年02月03日 10:30, , http://culture.ifeng.com/a/20150203/43087454_0.shtml

新易太和创办的《国学与趋势》总裁高峰论坛,于2015年1月17-18日在北京首都机场朗豪酒店隆重举行!这是新易太和自2011年创办《国学与趋势》总裁高峰论坛,连续四年应用易经模型,对来年趋势进行分析和发布。来自全国各地500多名企业家参加了本次盛会,共同聆听了新易太和针对西元2015年度(曁中元4713年)整个趋势的分析。

写真: 会場。ステージ背景には「中元4713年」「2015」。

[338] #国学与趋势# 【能... - @新易咨询官微的微博 - 微博, 新易咨询官微, 17-1-7 20:34, https://weibo.com/2126111195/EpKrzFRD4

#国学与趋势# 【能量围巾,祝您吉祥】新易太和为来参加晚上许文胜老师《能量色彩的衣裳之道》的朋友们准备了中元4715年(公元2017年)能量围巾!!!不要羡慕了~~[污]能量围巾是论坛首发版哦!网上买不到[嘘]猛戳链接:网页链接看看许老师讲“衣裳” [污]顺便问一下,真的木有了吗?小编也想要一条[污]

[340] #行维密码# #趋势... - @新易国学的微博 - 微博, 新易国学, 22-2-11 12:28, https://weibo.com/2606575243/LeXnNyj1E

中元4720年(西元2022年)个人行维策略正式发布!已经获知自身行维密码的小伙伴们可以对号入座,了解一下今年趋势对个人有哪些影响和建议。另外,想了解行维密码的小伙伴可以私信联系哦![来] ​​​

[339] 独阳不生,孤阴不长!... - @第几个灵魂的微博 - 微博, 第几个灵魂, 2022年10月11日 23:23, https://weibo.com/2842166394/M9S23FR48

独阳不生,孤阴不长!中元历4719年!

映像: 国际易学联合会 (国際易学連合会) 名誉会長の演説。中元や太陰太陽暦の話をしている。

[344] 趋势大赏】中元4721年《文化与趋势》论坛即将震撼发布, 新易国学, 2022-11-23 14:09, , https://mp.weixin.qq.com/s/EB8FrCNUAGvgHYj49FfuMg

(本文はほぼほぼ公元)

下方に貼られている動画サムネイル:

中元四七二〇年 (西元2022)

[341] #趋势# #经济# ... - @新易国学的微博 - 微博, 新易国学, 22-11-23 14:48, https://weibo.com/2606575243/MglE8lWol

2023年将有怎样的趋势发生,会对人们产生怎样的影响?中元4721年《文化与趋势》论坛即将揭晓答案!

具体日程安排点击链接了解:【趋势大赏】中元4721年《文化与趋势》论坛即将震撼发布 ​​​

[343] 新易国学】中元4721年(西元2023年)趋势破译正式发布, 新易国学, 2023-01-08 12:57, , https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=Mzg2NzE3NTQyMA==&mid=2247602757&idx=1&sn=4a7224148de361a80232a16f861a5cc1

2021年12月,文胜导师带领团队共同发布了2022年趋势破译。2022年年初至今,趋势预见中的大事件接二连三被印证:两岸统一窗口连现、冬奥会坚韧举办、俄乌冲突提前预警、军事演习频繁、扶桑合众国通胀加剧尽显颓势、欧洲局势动荡不休、群体性聚集风险陡增、人民币国际地位攀升、石油价格高涨、制造业萎靡不振、中医药行业迎来绝佳发展、量子研究有新突破、诺贝尔物理和化学奖提前指定、戎邪的广泛传播……

中元4721年(西元2023年),干支纪年法“癸卯”年。这一年,世界将会怎样?各行各业和我们每个人又将何去何从?

写真: イベント発表風景。プレゼン画面に 「中元4720年(2022)」。

轩辕纪年

[432] 轩辕纪年 y~1736 は、 廖凯原 (Leo KoGuan) (-) が提唱し利用している紀年法です。

[433] 廖凯原インドネシア米国華僑商人です >>32, >>434中華人民共和国のいくつもの有名大学に多額を寄付し、 役員や名誉職を得て、 教壇にも立っています。 しかしその評判はよくないようで、 中文维基百科には、 その著述を理解できる人がほとんどいない (但少有人能读懂这些文字的含义) と書かれ、疑似科学者 (偽科學學家) のタグを付けられるなど、 散々の言われようです。 >>434

[510] 設定が過剰ですがw、漢民族の祖先を持ち近世頃にインドネシアに居住するようになった家系の者が米国に移住した1世か2世か3世くらいで、 米国の国籍を保持したまま中華人民共和国で活動しているということでしょうか。

[435] 轩辕 (黄帝) の夢の実現を自身の使命とする >>434 廖凯原は、 ウェブサイトや講演などで轩辕纪年を使っています。 公元が併記されることが多いですが、 単記のこともあります。逆に公元だけの記述もたまにあります。


[437] 現在発見されている最古の用例は、 「June 23, 2012 2012年6月23日」 の講演資料で、

The Yellow Emperor Operating System 2.0 (4709 – Infinity)

と題したものです。 >>436

[438] 4709年がだとすると、 y~1736 に当たります。 ここではバージョン番号のようなものとして使っているのでしょうか。 (OS と題していますが、発表内容は独自の世界観の宇宙論のようなもので、 独創的で難解でよくわかりません。) 資料内にはその説明は特にありません。実際の利用開始は更に遡るかもしれません。

[440] の講演資料は、日付

Beijing Dec. 5th, 2012 in the year of Huang Di's 4709

となっています。 >>439 これが現時点で知られている明確に紀年法として使われた最古の用例です。

[441] 元号名Huang Di黄帝音写です。 なお本文で Yellow Emperor (黄帝) が云々という話をしていますが、 紀年法については特に何も説明がありません。 元号名音訳、本文文中では意訳している理由もよくわかりません。

[443] の講演資料は

The Xuan Yuan Operating System 2.0 (4708 Y.E – Infinity)

と題しており、日付

April 7, 4710 Y.E (2013)

とあります。 >>442

[444] 前年のものと OS の名前が変わっています。 Xuan Yuan は轩辕音写なので意味はほぼ同じです。 その代わり括弧の数値が 4708 Y.E に変わっていて、 Y.E は Yellow Emperor の略でしょうから、 こちらに Yellow Emperor 要素が残っています。 年號であることを明らかにするためでしょうが、年数が減っているのは謎です。

[445] 日付も Y.E公元の併記となっています。 本文中でもこの方式が使われているのですが、 Y.E公元の併記、 Y.E の単記、 公元公元B.C が混在しています。 書き分けの意図は感じられずよくわかりません。 なお、当年だけでなく過去の日付も Y.E で表した箇所があります。

[446] 北京大学ウェブサイトにはからの中国法律史学会廖凯原教授が発表した旨の報告記事があります。 その題名は

北京大学法学院廖凯原法治与礼治研究中心主任廖凯原教授参加中国法律史学会2013年会

とイベント名が公元になっています。一方本文には

轩辕纪年4710年(公元2013年)10月10日、11日,中国法律史学会轩辕纪年4710年(公元2013年)学术年会暨“中华传统法智慧与移植法制本土化改良”国际学术研讨会于杭州召开。

とあります。本文中の日付轩辕纪年公元日付になっているだけでなく、 本文中の大会名も同形式になっています。 >>24

[447] ウェブ検索による限り、 さすがに中国法律史学会の大会名を轩辕纪年とするほどの影響力は持っていなかったと思われます。 この記事も廖凯原かその周囲のスタッフが書いたために轩辕纪年表記になったのでしょう。

[448] この記事によると、廖凯原は発表において、

廖凯原教授演讲时提出两项重要建议来推动黄帝思想的研究:

其一,为了突出中国历史的传承并与国际接轨,将轩辕纪年插置入现行公历纪年,制订此纪年法来表述日期。例如,在表示公元2013年10月10日时,可以采用“轩辕纪年4710年(公元2013年)10月10日”这样的表述方法,即我们仍然使用公历纪年,但把轩辕纪元加在其中,以此来纪念我们伟大祖先轩辕黄帝及同辈祖先在4710年前(轩辕黄帝元年)以其爱民之心缔造中华文化共同体的丰功伟绩。

轩辕纪年の利用を提案したようです。 >>24

[449] その発表資料は、題名が

Xuan Yuan's Anti-entropic Operating System 2.0 (4708X.Y - Eternity)

轩辕反熵运行体系 2.0 (轩辕纪年 4708–永远)

となっています。 >>25 前の発表とくらべて少し名称がアレンジされているのと、 中文名称が加わっています。 英語の元号名X.Y音訳の省略に変わっています。 中文はその部分を轩辕纪年と省略せずに書いています。

[450] そしてイベント名は

China Institute of Legal History 4710X.Y Annual Academic Conference

中国法律史学会轩辕 4710 年年会

となんと轩辕纪年の単記です >>25 が、ここでは元号名轩辕と省略されています。 日付

Hangzhou, Oct.10th, 4710X.Y (2013)

杭州,轩辕纪年 4710 年(公元 2013 年)年 10 月 10 日

公元との併記です >>25 が、「年」を入れすぎているのがおちゃめ。

[451] 本文は English中文の併記です。 「1X.Y」「轩辕元年」 や 「4710X.Y」「轩辕 4710 年」 のように書かれています。 >>25

[452] そして 「October 10th, 4710X.Y (2013)」 「轩辕纪年 4710 年(公元 2013 年)10 月 10 日」 のように轩辕纪年グレゴリオ暦年月日を組み合わせることで、 支那史の連続性と国際協調が共に示されるのだとしています。 >>25

[456] 同じ北京大学のウェブサイトの別の記事では 「2014年9月13-14日」 と公元だけあって、 轩辕纪年は出てきません。 (「轩辕元年(4711年前)」は出てきますが。) >>453 執筆者が変わったのでしょうか。 廖凯原の発表資料の日付表記は以前とほぼ同じですが、 細かな表記の違いがあります。

日時事例

[485] には、廖凯原

轩辕召唤 《轩辕4712中华共识》拟稿

Xuan Yuan Calling A Draft for Chinese Consensus 4712XY

と題した

中国法律史学会轩辕4712年年会

轩辕4712年8月15日

China Institute of Legal History 4712XY Annual Academic Conference

August 15th, 4712XY

の発表資料があります。 >>484

[486] 題名だけでなく本文でも同じ表記で、中文元号名は 「轩辕」だけになっています。 英文だとスモールキャピタル. なし、 空白なしの XY 表記になっています。 これは西暦AD, BC と同じ表記になっていますが、 AD は一部を除き省略されています。

[516] 1ヶ月前の轩辕纪年4712年7月4日付の同題の発表資料も同じ形式です。 >>514, >>515

[35] その他この時期の廖凯原の発表資料には轩辕纪年がよく使われていますが、 表記揺れもままあります。

日時事例

[487] これより後の時期の用例を見ると 「轩辕纪年」「轩辕」 はどちらもあり、 スモールキャピタルでない大文字の 「XY」 が使われるようになっています。


[346] に全国政协委员 (中華人民共和国の行政会議体中国人民政治協商会議全国委員会の委員)北京中医药大学国学院院長の张其成 (-) は、 軒轅紀年採用を提案しました。 >>30

[347] また同じくに全国政协委员で中华全国律师协会 (弁護士の業界団体) 会長の王俊峰は、 二十四節気の重要性を訴え、 公暦にかえて農暦を採用すること、 憲法を改正して公暦年月日と共にまたはかわりに農暦年月日を使うことを提案しました。 >>30

[348] この2つは同時期の提案でどちらも関係のもののためかひとまとめにされていますが >>30, >>350、 独立した別個のものと思われます。

[349] 中国人民政治協商会議は (少なくても建前上は) 中華人民共和国の国家運営に関わる重要な会議で、 中華人民共和国の建国当初には公元採用を決定した機関でもあります。 従ってこうした提案が持ち込まれるのに相応の機関ではあるのでしょう。 この会議に提案することがどの程度の重さを持つのかはよくわかりませんが (あと、委員が提案したと報じられるのは会議に正式に提出したということでいいのかもよくわかりませんが)、 その後の余論の反応の少なさと現状を見れば、 国家的な意思決定にはほとんど寄与していない段階までしか達していないようです。

[461] 张其成国学者で、漢方医学中国哲学の方面の学術や政治で一定の影響力を持った人物だそうです >>460末に清华大学法学院凯原中国法治与义理研究中心の研究員となりました。 >>459

[362] なお先行する中元の団体とは同じ「国学」でも宗派が違うのか、 メンバーも被っていません。 こちらがに提案したのに対する反応なのか、 中元の紹介記事を出していますが >>345、 「政协委员が政协会に提出した」 と書くだけでどこの誰の仕事かも触れず (軒轅紀年とも書かずに黄帝紀年で統一)、 自分達のグループはから普及活動を続けてきたのだ、 と古参マウントしています。

[462] この提案にも触れた廖凯原についての当時のウェブ掲載記事は、 廖凯原の独創的な講義に戸惑う学生の声などとともに、 北京大学清华大学のウェブサイトに 「轩辕4712年」 と書かれていることを紹介しています >>459。 明言こそしていないものの、 この軒轅紀年の記載が廖凯原を訝しげに感じる要素の1つとなっているようです。

[463] こんな感じだと中元の人達も仲間ですとは言いにくいでしょうな。

[489] 儒教媒体 儒家网张其成の記事が掲載されていて、 それが提案文そのものと思われます。 この記事は

时间:孔子二五六六年岁次乙未年正月十三日戊寅

           耶稣2015年3月3日

付ですが、この孔子紀年耶蘇紀年儒家网 の定型で編集部が入れたものです。 文末に 「4712XY(2015AD)3月3日」 とあり、こちらは著者によるものでしょうか。 提案は次のようなものでした。 >>37

[494] 公元を完全に置き換えることを提言しているのか、 併記することを提言しているのか、 今次提案やこれ以後の提案の各文、各例示で少しずつニュアンスが違っていて、 正確な意図はよくわからないところがあります。

[496] 轩辕前纪年 (BXY) は他にほとんど言及・用例がなく、 この後の提案では消えています。 紀元前形式で1XYの前が1BXYになるようです。

[475] 张其成は前年とは少し志向を変えて、 黄帝関係の記念日である中华父亲节母亲节の設立を全国政协会に提案しました。 >>471, >>472, >>473, >>477

[476] 父亲节母亲节は廖凯原张其成だけの提唱するものでもなく、 これより前や後にも他のグループらしき人々が提唱したとの報道がみられます。

[478] 张其成廖凯原关于将轩辕黄帝塑造为中华民族精神标识的提案 Proposal on Establishing XuanYuan Huangdi as the Chinese Nation’s Spiritual Symbol全国政协会に提出しました。 今回の提案はより広く中華民族の精神的象徴として黄帝を定めることを求め、 そのうちの一項として中华父亲节、母亲节や、 轩辕黄帝纪年 XuanYuan Huangdi Era の「復元」 (恢复 Restore) を求めていました。 >>477

[479] 提案内容は、歴史の連続性と国際協調を示すためグレゴリオ暦月日に 轩辕纪年(XY) XuanYuan era (XY) を組み合わせて 「轩辕4714年(公元2017年)3月3日」 「XuanYuan 4714 (2017 AD) March 3rd」 とするというものです。 >>477 y~1736

[483] 张其成廖凯原关于确立轩辕黄帝为中华民族精神标识的建议 Proposal on Establishing XuanYuan Huangdi as the Chinese Nation’s Spiritual Symbol全国政协会に提出しました。 前年と同趣旨のようですが、しかし今回は轩辕纪年の提案が含まれていません。 >>482 それを紹介するウェブページ記事には相変わらず 「轩辕4714年」「4714XY」 とあるのですが、国家政策としての提案はペンディングとしたのでしょうか。

[511] なお 百度百科轩辕历という項で轩辕纪年やその提議を紹介しています。 >>31 この轩辕历という表記は百度百科かそれと同系統のサイトの用例ばかりで、 张其成廖凯原サイドの利用はほとんどありません。

[513] 例外として、 张其成院长である北京中医药大学国学院のウェブサイト凤凰网 に報道されましたと引く形で記事の題名に使っている例が1つ確認できるだけです。 >>512


[465] 清华大学法学院凯原中国法治与义理研究中心が論文集 黄帝思想与中华引擎 を出版しました。 >>466

[467] 廖凯原张其成による 关于设立轩辕纪年(XY)的建议 は、 世界各国が自国の紀年法を持つことや中華民族黄帝以来の長い歴史を持つことを踏まえて、 「轩辕纪年(XY)」 を提案する内容のようです。 >>464

[469] 张少瑜 (-) 廖凯原道治思想述评 は、 廖凯原の 「轩辕4712年,即公元2015年8月15日的中国法律史学会年会」 の発表などから廖凯原の 「道治思想」 を解説する内容のようです。 >>468 张少瑜北京大学出身、 中国社会科学院研究生院法学系教授で、 古代支那軍事法についての論著があるようです。

[470] その他にも轩辕纪年についてまたは轩辕纪年を使った論文もあるかもしれません。


[39] その後も用例があり、廖凯原 (とそのグループ?) は利用し続けているようです。

日時事例

[518] それ以外の人々に広まっている様子は見られません。


[880] 利用者:univerx - GlyphWiki, https://glyphwiki.org/wiki/User:univerx
生辰
簡介
熱衷漢字㴑源,酷㤅閱讀,執著探索宇宙、物質、生命、文朙
朔朢曆 軒轅紀元4697秊庚辰*龍 九月建丙戌 十四日壬寅水曜日
節气曆 軒轅紀元4697秊庚辰季秋(丙戌|大火)〇亖日壬寅水曜日
Ἰησοῦς曆Ἰησοῦς紀元 2000秊10月11號水星期
[881] 利用者-会話:univerx - GlyphWiki, https://glyphwiki.org/wiki/User-talk:univerx

univerx 五三四九六·四七一六 己亥秊癸酉月壬子日丙午時初三刻末 木曜 西元2019秊9月12日 11:44

[882] どのような背景の人物か不明ながら、 「軒轅紀元」 や自己紹介のスピリチュアル傾向が示唆的。 簡体字でなく繁体字で書いているが、 >>880 からリンクされているWebサービス中華人民共和国臭が強い。

[883] 「4597秊」、 「四七一六」 は y~1736

[884] 「五三四九六」は未詳。

开元

[845] 中華人民共和国では y~1736 >>854, >>846y~510 >>847, >>871元号名开元 (開元) とすることがしばしばあります。 特別にこれを推している集団は見当たりませんが、 民間で (もしかすると他の呼称より) 広く知られているようです。

[852] y~1736黄帝纪元开元 >>848, >>850, 黄帝开元 >>860 ともします。

[849] 黄帝纪元冬至年始とする説を提示する人も居ます。 >>848 根拠は不明。

[859] カレンダーには 「黄帝纪元年」 「开元年」 「」 などと書かれていることがあります >>857

[861] >>854 には黄帝纪元前年と紀元前方式も使われています。
[854] 黄帝历元年 黄帝历详细资料大全-暗点博客, http://blog.novelsee.com/archives/3209715

黄帝即位据说是在公元前2698年,即位时20岁,据此推算黄帝出生于公元前2717年,相传历法元年始于黄帝登基之日起算起。黄帝纪年影响深远,农历、道教历法均始于黄帝纪年为元年,为中国传统历法开始之年,史称开元,至今是开元4716年比西方历法元年早2697年,用开元年份减去2697就是西元的年份,例如,今年是中国传统历法(农历)开元4716-2697=西元2019年。

中文名:黄帝纪元(中国传统历法的开始纪年)外文名:kaiyuan别称:开元(农历开元)地位:中国传统历法 简介,纪元,

黄帝纪元前15年,己酉年,黄帝杀蚩尤,王天下,黄帝开国,三月三泰山封禅(基督纪元前4392年)

黄帝纪元元年,1月15日甲子年甲子月辛卯日,作《调历》(基督纪元前4377年)

黄帝纪元3年,1月22日丙寅年己酉朔旦冬至,迎日推策(基督纪元前4375年)

[848] 黄帝纪元/开元4718年的第53天【六九第8天】冬至日第53天 小谈心意六合拳十大形与中国彝族十月太阳历的关系 - 简书, 道承唱古文, 2021.02.11 14:28:39, https://www.jianshu.com/p/46f2d2a0ea7c

今天是

公元/基督纪元2021年02月11日【周四】

公元/基督纪元2021年的第42天

黄帝纪元/开元4718年的第53天【六九第8天】冬至日第53天(黄帝纪元以冬至日为岁首)

[851] 公元2021年,也就... - @眉山论剑陈平的微博 - 微博, 眉山论剑陈平, 21-2-11 17:56, https://weibo.com/6616523296/K1s01DXZO

公元2021年,也就是黄帝纪元开元4718年。

[850] 微博, 观视频工作室, 2021-2-11, https://m.weibo.cn/status/K1tRpvN9j

黄帝纪元开元4718年,祝我们有大的科学进步!

[846] >>503

开元4718年(西元2021年)

[871] 今年是中国的开元4718年, 一一觉, 2020-04-16, , http://www.360doc.com/content/20/0416/20/48457409_906489049.shtml

一般人:今年是2020年。

日本人:令和2年。

以色列人:5780年。

伊斯兰教徒:回历1441年。

现在,作为中国人的你,可以回答:今年是开元4718年。

中国5000年

[54] 中文维基百科は 「《中國皇帝黄帝纪元》等报刊 以西元前2997年為元年」 なる方式を掲載しています。 この方式ではが4900年、 が4908年になると表にはあります。 >>78 y~3799

[416] この 中國皇帝黄帝纪元 がいつどこの誰が書いたものを指しているのか明記されておらず、 ウェブ検索でもそれらしきものが見つかりません。

[417] 近年しばしば聞かれる「中国5000年」のような言い回しはこの数え方と関係がありそうです。 に5000年になったというような記述のあるサイトはちらほらあります。

[420] 中文维基百科はまた類似の紀年法の一覧に、

六十甲子:紀年以黃帝紀元後建立天干地支為開始,來自約西元前2997年+,以黃帝紀元(格里曆前2997年)開始計算,其餘月份安排等與農曆相同。換算方法為格里曆年份+2997為干支年份,如2023年,則為干支2023+2997=5020年。[7][8]

と書いています。 >>78

[421]

「六十甲子」は干支の項にリンクされています。

???

ほな干支年かなあ。

黄帝紀元 = 西暦紀元前2997年の干支創設後の年数と、 農暦日付の組み合わせだと説明があります。 この年の数え方は y~3799 と同じものです。

???

ほな干支年ちゃうなあ。

参考文献の7と8は道历黄帝六十甲子纪年の説明で、 そこには干支の説明があります。 >>599, >>605

???

ほな干支年やん。

ところがどちらのウェブページも西暦年 + 2697年とあります。 y~1736

???

ほな干支年ちゃうし、 y~3799 ともちゃうやん。

[422] 中文维基百科は更にその次の項に 轉換方法 なるものが掲載されていて、

西元紀年天干地支以年份換算的是減去分別在前2997年起即由為六十甲子紀年法。

とあります。そして60個の「年號」と西暦年干支との対照表があります。 >>78

[423] 説明がこれだけなのでよくわかりませんが、 ここでもまたがスタートで、 「六十甲子紀年法」なるものになっています。 黄帝紀元の記事中にこれが出てくるのは謎なのですが、 これが 「六十甲子」 で 「黄帝六十甲子纪年」 なのでしょうか。

[424] 表によると年號「1」が西元「前2996年」で干支「甲子」となっています。 正しくはなので、 1年ずれています。 あるいはここの「前」とは負符号の意味なのでしょうか。

[425] それにしても黄帝紀元の元年から60年間の年数と西暦年干支年の対照表だけ示されても、 実際に換算したい年代と乖離しすぎていてほとんど役に立たない気がしますが、 この表は何のために掲載されているのでしょう。

[427] 中文维基百科干支記事にも、 これと同様の記述があります。 こちらの記事には干支纪年という章があって、 そこで通常の干支紀年法西暦年との換算が説明されていますが、 それとは別に歷史の章に、当該記述があります。 >>426

[428] 起始 として、

天干地支之起始點為公元前2997年,與公元紀年換算後即為六十甲子紀年法。

とあります。 >>426

[429] 干支は西暦紀元前2997年が起点と説明されています。 これは歴史の項なので、黄帝干支を作ったという伝承を書いているものでしょうか。 しかし後段は換算方法を書いているようで、謎です。

[430] そして >>420 と同様の表が掲載されています。ただしこちらは、 「黃帝紀元年號」が「元年」、「二年」、... と「六十一年」まであり、 「元年」は「前2997年」「癸亥」で、そこから次の「癸亥」年までの61年間の表になっています >>426干支年に基づくと、やはり「前」は負符号と解釈せざるを得ません。 しかしそうすると >>420 の表と「年號」の数値が一致しません。

[431] しかし「甲子」年から始まる「六十甲子」の表かと思いきや、こちらの表は 「癸亥」年から始まる61年間の表で、何を見るためのどう使う表なのかさっぱりです。


[864] >>863 はたくさんの史料を引いて、

黄帝元年,即为公元前4377年。2017丙申年年为黄帝纪年6351年。

としています。 前段によれば元年。 後段によれば元年

[866] >>865

QED BCE3837年为黄帝元年。

(简写标记符号,写成HDE好HuangDi era 还是写成YEE好? Yellow Emperor era)

于是BCE3837年为黄帝元年,1911年=黄帝5748年 ;2019年=黄帝5856年。这比4609和4717年顺眼多了。

としています。 元年

[867] こうした紀年法を実用する人がいるのかは不明。

道暦

[540] 漢民族宗教の1つ道教では道历, 道曆 (どうれき >>541, dao-li >>541) と称して黄帝紀元を使うことがあります。 道暦という呼び方を使うことが多いですが、 説明では黄帝紀元黄帝紀年という表現もでてきます。 (その場合でも元号名はあくまで道暦です。)

[644] 百度百科 には進化 (道教の? 道暦の?) の過程で、

六十花甲历、华胥历、华历、伏羲女娲历、甲子历、黄帝历、黄历、夏历、农历、阴历、周历、中华历、中历

といった名前で呼ばれてきたとしています。 >>643農暦の別称など道教と関係するの呼称をたくさん列挙しただけに見え、 信用できそうもありません。

[548] 現代の中華人民共和国, 中華人民共和国香港特別行政区, 中華民国, マレーシア, シンガポール >>642 で用例があります。 その他の地域でも利用されているかもしれませんが、未確認です。

[818] 道教は伝統的に干支年を重視してきており、現在も干支年農暦を使うことが多いようです。 公元民国紀元も使われます。ウェブページでは公元がよく使われています。 道暦はここぞという節目のときなどに使うことが多いように見受けられます。

[879] 闲谈“纪年” -文章阅读网, 作者:东日碧叶, 时间:17-04-23, https://m.duwenzhang.com/index.php?action=article&id=371342

道教纪年。道教专用之纪年。按我国夏历为准,用六十甲子来纪年。由黄帝纪元(豋基)(公元前2697年)为道历元年。而道教斋(zhāi)醮(jiào)道场,所用表奏文牒(dié)等,以“天运甲子之岁”,因对神明故不用道历纪年。

干支纪年。把十天干和十二地支,分别组合起来,每60年为一个周期,2014年为第79个甲子的第31年;自黄帝算起。公元2017年的干支纪年是“丁酉年,属鸡”。

老子系の道暦

[542] 元々の時代に、 老子の生年とされる紀元前1301年を紀元とする道暦が作られたとされます。 >>541

[557] この年は商武丁9年を比定したもののようです。 >>556, >>555

[587] 道暦の開始を老子降生年すなわち公元前1300年とするものもあります >>586, >>599, >>605, >>623, >>642。 概数なのか異説なのか不明ですが、 現代の道教ではこちらが主流説となっているようにも見えます。 (このような記述の件数は多く、中華人民共和国道教系サイト多数にありますが、 ほぼ同文で、同系統と思われます。)

[543] このような説明は中文ウェブサイト複数にあり、 日本辞書にもありますが、 いつどこで誰が使っていてどの文献にあるのか、 というような具体的な情報がどこにも書かれていないのが謎です。

[544] 今日のように日付表示に用いられるほど成熟したものだったのか、 それとも開教から何年たったと数える程度に留まっていたのか。

[547] 現在この方式を使った紀年の実例は見つけられませんが、 こうしたものは探しにくいので、 もしかすると道教のどこかの流派で細々と使われ続けているということはあるかもしれません。

黄帝甲子紀年系の道暦

[545] その後、の時代より、黄帝が重視されるようになったため、 黄帝即位の紀元前2697年を元年とする方式になり、 現在に続くとされます。 >>541, >>586 y~1736


[610] 道教文献に、 黄帝紀元民国紀元の併記例があります。

日時事例

[613] これを 「民国廿五年、西元1937年」 に相当すると書いたものがありますが >>606西暦年が1年誤っています。

[185] の書籍の満蒙の宗教の解説中、道教の章によると、 この年は道󠄃曆黃帝紀元四千六百四十年でした。 >>184

[694] 序文の昭和十四年だとすると、 元年ですが、 この数え方は他に用例がなく、 違う年を表しているのかもしれません。 y~3798 が近いでしょうか。


[546] ブリタニカ国際大百科事典によると が道暦 4677年です。 >>541 y~1736 この説明が書かれたのが頃だったのでしょう。 その当時の日本に、道教ではそのようなものが使われるとの情報がもたらされていたということになります。

[551] 道教関連のウェブサイトでは公元が使われることが多く、 干支年が使われることもありますが、 記事によっては道暦が使われることがあります。

[552] 道暦黄帝甲子紀年を使っていると説明されています。 >>550

[822] 干支年との併記も多いです。

[821] 日付農暦とするようです。

日時事例

[595] 中華民国台湾道教寺院の Facebook 投稿の用例 (>>602, >>601)。 ここは普段は民国紀元 + 國曆 (グレゴリオ暦日付)、農曆 (日付) でたまに西暦も併記。 稀にこのように道曆が出てきます。

[868] 道历4718年是哪年_百度知道, 便民生活圈, 2021-11-20, https://zhidao.baidu.com/question/2018567545633600148.html

道历4718年是2021年。

因公元前2697年为黄帝纪元开始,2697+2021等于道历4718年,所以道历4718年是2021年。

[594] 今日道历--中华百科, 2021-12-15 09:47:55, , https://www.zhbaike.com/hxwh/huaxiadaojia/110081.html

道暦:四七一八年

公历:2021年11月15日0时 星期一

农历:阴历二〇二一年十月十一日0点


[819] 現在の道教で主流のこの系統の道暦と、 末の黄帝紀元との関係はよくわかりません。 道暦がそれ以前に遡るのかどうか不明で、 道暦が世俗化したということではなさそうです。 逆に末の黄帝紀元道教に取り込まれたとも考えられますが、 革命派の黄帝紀元の主流派と現在の道暦主流派は数え方が違っています。

[820] 現在の中華人民共和国でしばしば発生する黄帝紀元の公用の運動と、 道教とは関わりが薄いようです。 道教系の団体や人物が公用を目指しているとする情報は見当たりませんし、 提案者らが道教に言及することもあまりありません。 同じ時代、同じ地域にありながら、 不思議なことに両者は黄帝という間接的なつながりしか持っていないようなのです。

香港の道暦

[692] 英領香港では、少なくても第二次世界大戦後の一定の期間、 y~3798道暦として使われていたようです。

[693] 現在の中華人民共和国香港特別行政区で使われ続けているかどうかは不明ですが、 中華民国台湾香港系の道教宗派で今も使われることがあるようです。


[691] 中華人民共和国香港特別行政区の大学のウェブサイトで公開されている漢籍画像に、 道暦を使ったものがあります。

日時事例


[671] Facebook台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師なるページに、 道曆の投稿がいくつかあります。 プロフィール

鑪峰學院 台灣分院-- 老子觀 由香港道學南宗 陳子石宗師於民國59年(1970)所?

とあります。

日時事例

  • [676] 「南宗一脈」:陳子石創建的鑪峰學院 游子安博士... - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://zh-cn.facebook.com/laoziguan/posts/656409747826774/
  • [687] 道曆黃帝紀元四千六百六十九年庚戌歲次 元月初十日為春節聯歡慶燈大會恭祝... - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://www.facebook.com/laoziguan/posts/2134296013371466/?locale=zh_TW
  • [663] 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 - 道曆黃帝紀元四千六百五十七年戊戌歲四月十四日紀念呂祖誕辰 陳子石 宗師 夫造人實事。一陰一陽。誕仙幽深。時恍時惚,尙以性曉根深。凡骨可換。命知蒂固。仙軀能成。况復住世按生。以炁培炁。超塵解脫。攝靈化靈。豈眞訣之能明。非無稽之所悟。純陽我祖者。幸遇鍾離祖奇緣。密授龍虎金丹秘文。記其詩禱句云。「乞與貧儒換骨丹」。當日盧山鬱起。帶紫霞而成峯。瀑水高懸。接天河而不絕。雖山中採取之藥。鼎內烹煎之丹。現龍吟赴之雲。露虎嘯來之雨。因觸景而生情。秘文所喩於斯。由是啓其悟焉。其道則有已破體未破體之別。補給天然。不减科學之理。接栽簡易。豈比奇怪之難。且有詩示長安。劍言天遁。誕生永樂。樹稱林禽。學派源技。宗追斯遠。我祖師鍾離權祖。鍾離祖師李亞祖。李祖師太上道祖。大道之傅。始於太上。而盛於我祖。我祖初開南北二宗。繼傳東西二派。石也忝嗣天台道末。自己丑年。來至此島栖遁。已越十載。曾夢謁我祖師云。香鑪之峯。勢若蓬島。宜闢壇宇。可宣玄風。有識自愛生。有形終不滅。云從青城雲遊而來。言訖飄然而去。遂乃潛心宏道。致力著經。故號學院。名曰鑪峰。汪洋環繞。有類砥柱之流,峰巒孤聳。還似蓬萊之島。經解道德。豈並黃陸功高。圖註指玄。難似張白神妙。參同註批之契。本輯上陽。口義之篇。同符四註。法通靈寶。而乘分大小。大悟藥鏡。則炁判後先。遍訪知音之侶。誰肯力爲。心傅無字之經。那眞信篤。玄賞眞玄。法硏至法。闢林栽棗。掘地種梨。日遊龍宮。夜宿虎窟。嬰兒駕虎。雲外高歌。姹女乘龍。壇前成舞。是日筵開。樂叙同門之友。活時丹熟。培成入室之盟。街曰閣麟。上旗山而有路。城呼九龍。通新界於正軌。法在動解剛柔。道道道無巧妙。訣存陰陽造化。玄玄玄無多言。大藥萌芽。運用無巳。仙筵宴罷。知止何妨。何止韻美黃帝之金華。煆煉淮南之秋石。柳巷花街之煆覓。人要尋眞。玉爐金鼎之煉。水必求壬。果法護之誠。臻天仙之境而巳哉。乃爲歌曰。 祝祖誕。鼓樂試。舞雙劍。弄一丸。將笛吹。抱琴彈。 我祖誕仙一炁吸。悟却長生志早立。金樓同醉仙醪淸。 玉堂共唱大道情。陰盡陽生陰合陽。此訣普化起雷鳴。 祝祖壽。吿玄盟。 覺者回頭悟者明。刮骨尋髓煉金精。敬祖崇道何處尋。那個男兒是知音。 知音一遇願可償。換却凡軀入仙鄕。鑪峯今日祭祖時。宣讀吿文感神祇。 欲望吾祖度爾曹。何異鍾祖授金刀。體中分泌丹最眞。休問說者究何人。 呂祖誕辰紀念贊 相逢口口。普渡群迷。指玄通聖。百字刻碑。 靈丹精炁。泄盡天機。救人救世。萬古眞師。 青城頌 祖師以進士聲華。生逢聖代。卻封侯於絕域。不銳志於凌烟。而能敝屣功名。脫身塵俗。雲房巧遇。乞與換骨之丹。火洞修眞。竞成金花之果。江山可煮。收於一鐺之中,世界如花。深藏粒粟之小。黃房採寶。爰尋石室之經。大道能明。頓悟靑城之隱。是以句句通玄。聲聲唱道。西華有夢。煉鉛来於九天。橛土須知。調水火於金鼎。壺中自在。踏鸚鵡以重來。宇宙優遊。跨鳳麟而直上。佛號黄金。笑拈花於法界。仙名碧玉。飮眞酒於蓬菜。風雲際會。配天地以兩用。同類施功。化陰陽而四個。北海傾樽。日食黄龍之髓。瑤池召宴。時餐白虎之漿。慕北海之淸遊。淡洞庭而飛渡。弟子天涯訪道。末世硏經。結夙緣鑪峰之壇。寄色身於大亨之洞。夜讀上仙之指玄。日隨陳師之啓示。深慮知音無幾。獲法何從。遊化方方。登龍山以長嘯。去來渺渺。潛鯉海而微吟耳。茲以歲次戊戌。歷溯貞元。仲呂之月。十四良辰。欣逢華誕。倍景仙眞。用是紀念特刊。播玄音於海外。同門申慶。啓壽域於塵寰。畧供長生之酒。同醉岳陽。廣栽頃刻之花。高歌閬苑。且常面朝北斗。禮叩南山。望雲帶杳冥而來。希羽袖飄忽下降。從來顯聖。見乎歷朝。累現仙踪。遍於天下。大遣萬法之王。一担乾坤之力。同歸衆妙之門。永誰精神學院。是爲頌。 呂祖誕辰當中與大家研究道秘 黄明波 道學之事其體用十分深刻。實則貫通天地人之學。豈可根據世人一般孤修獨坐小術便爲該備。必依着古今已造就神仙過來人實論爲憑。察其理論言語中一一對照。事事若無談到孤修獨坐之小術者。則不足信仰太篤。免誤却時間。反爲有受了其害。自己總不覺悟起來。看此來說。古今來所謂道學者各有各之文字遺傳。更各有各傳徒淵源派遠一脈相傅。我們想硏究此種學識。當從源頭硏究。所看之書是否係眞本之經若不是眞本則不可看。果無師傅那得分辨眞與假之事。若無師時亦會搜尋大經大典之文方好硏究。如過去之大神仙幾多文字流傅。除上古羲黃老莊之外。尙有關尹子魏伯陽崔希範諸祖之經皆可硏究。又如鍾離呂祖劉海蟾諸祖之學亦要必讀。又如南宗五祖之書。北宗七眞之文。東西二派之言論等等。本本超邁前人亦値得揣摩。但所硏究者切不可信其旁門之註解。因為他所註之解之。離去眞正之事實好遠。十分牽强。不根據其陰陽兩大件而爲之講。所以不遇真宗之註解時。則可以讀其原文。縱不得詳而全其所講。到底其所獲悟一二。若不列爲仙統之流者。竟可廢之而不用硏究。傷其腦根矣。蓋呂祖純陽之著。世所罕聞。張祖紫陽之作。人所少悟。如呂祖之秘本。修身訣。三字訣。悟道詩。百字碑。百章句。行火候。惜道歌。秘訣歌。直指大丹歌。谷神歌。窰頭胚歌。敲爻歌。鼎器歌。採金歌。眞經歌。等等小品。無俟多註。老嫗能解。一讀也是了然豁悟。諸品亦出呂祖全書之中。可惜世好奉呂祖之輩。所學所參。總不見有人發泄其秘本之文字。由此可想普通人修養。徒崇呂祖之名。不有實意去硏究其秘。更執著某傅某爲眞論。總不追究其文字之來源。所以一代誤了 一代。個個抱著形相稱為無上之秘。詎知其秘尙在於文字。而不在於形相。吁。道之存形。髓奚安在。凡此諸義。値得好斯道者硏究。所觀敲爻歌之語曰。一夫一婦同天地。一男一女合乾坤。僕以此言明大道之首。實修行之要。節節皆有直言直傳。並詳之喩意。不與世人乩文兀坐凡術之流同一論也。又不觀江州望江亭自記尾段語曰。吾嘗謂世人奉吾眞。何若行吾行。旣行吾行。又行吾法。不必見吾。自成大道。不然。日與吾遊何益哉。讀此訓詞好早悟其道之眞相。安非在求乩文而可得。更非在於坐上而可明。若眞知其眞。則看其悟道詩中之語。便可明白一二。其語曰。緊把赤龍頭。猛將驪珠吸。吞歸臟腑中。奪得神仙力。此寥寥數字也是直寫其大道之真面目。果有如是之妙語可學。豈不信之乎。吾陳師有註指玄篇。闡述有圖。直言有解。可謂詳而參證之書。吾師專志愛道。手不釋卷。他之手抄眞本。歷數十年而寫作。縱全部附交我曹寫却數十年亦未必可以得畢其事。由此可見其人其行。寡嗜欲。惟以道學爲務。淡泊生涯。已無餘資。苦於鑄經。宏揚道學真宗。力爲著述。每註博議。必引證已做却神仙過來人爲實論。罕有其學。如上陽子濟一子。無能異者。嘗語世人曰。道學直說之傅。惟有濟一子。蓋亦以自喩也。余從游門下。稍知其志。自創鑪峰學院。克儉克勤。不畏艱巨。能著經百種之多。供諸同好。院址雖有其模範。到底必達到完成之舉。今聞鄭馮顏諸同道。願得成之。此亦爲道學史上之光榮。亦爲世人造就栽接生命之有所。前一次三月十五日道祖誕辰同人歡祝。舉杯高論。所言所語。一一是道之真訣。今憶其事猶然在耳。至今天四月十四日爲呂祖誕辰又來慶頌。此亦一番熱忱之舉。更爲同人切實力行達到栽接生命之目的。亦希望將這種學識廣播全世界亦切實造成生命之栽接。可謂在科學昌明當中做不到這一件破天荒之大事也。 上陳子石道師書 黄又聞寄自星洲 子石道師足下。昨由暹京返星洲。爲探訪謝道兄得見道師手筆。電訊報喜天外而來。乃誠得大道之有所問津者也。僕前閱道學之史。然古今聖真之說。僕初不能分辨正與邪。今所喜者內與外叶。果道不虛其言矣。僕生不辰。風雲遍野。無處可求。欲修無門。欲言無語。况又有方外同遊者。乃朝夕揣硏其山水之間。其求生命之眞情理者。皆疑爲坐中之事。究心臓與腎臟如何能令相交交感。而彼與此實作何解。非昭昭自明。亟亟剖白。則孰誰可以爲僕定指南之針哉。於僕年近半百。雖是天命要知。易理難學。欲離塵以求造詣極點。其可得乎。凡人皆欲自悟。必先得下手。纔不能越其軌。身不能造其仙。仙之所以遠僕妄爲也。與同好流浪十年。功且不達。道亦無成。玄旨深遠。人緣淺薄。不能遠囂塵之侶。意易心移。專專誠誠。願成斯樂。立志欲參道者。更欲探討知音之踪。苦爲尋求。知道可道。自欲速知下手之法。而欲速不達。反生悶悶。萬緖叢生。不知其由。思潮起止。所慮過甚。竟以至此。悲夫。世間安得眞理能將老者復少。而從死裏逃生哉。往往感覺光陰催人易老。世時益甚。大抵轉瞬幾十春秋。則所生體軀又何安在矣。為榮為辱也不足論。惶懼無已。自知忘却生身根源之罪。足下深悟竟何以而開愚蒙也。棲烟霞既久。染中無稽之毒。冒冒味昧。習以為常。忽悟尊刊必在雙修。細論陰陽。則汗流遍體。心君悸悸。反観一視。頓覺道往彼此。意緖古之聖眞多得道而匡世。修之於朝市。蓋有餘力。奚必煉於山林。隔絕陰陽之事然後乃成乎。家藏小籍。皆出玄門之著。一言橐籥。一言乾坤。聞之迷信家。則呼之一體。雖亦怛然驚詫。所聞海內言孤修爲道者。十之八九。一誤再誤。自料非策。尙復何時。豈可更不覺悟。言行畢生。總無一事令世人大笑哉。曾讀抱朴子自序曰。余所著子書之數。而別為此一部名曰内篇。凡二十卷。與外篇各起次第也。雖不足以藏名山石室。且欲緘之金匱。以示識者。不可與言者。不令見也。貴使來世好長生者以釋其惑。豈求信於不信者乎。嗟嗟。余好硏玄術以自稱道。抱爲自喜。用是惑於黑白。竟與木石何異。不復快意。今鑪峰興玄風。談性命。四方聞之皆欣欣然愉快。而僕與同好二三子。獨留滯異域。豈非緣之不遇也。然何時雲遊太平之頂。朝夕同歌。使鼎器粗備。庶先天者採取。送歸黄房。結成聖胎之願。雖未得忝列門牆。亦不辜負爲致虛極守靜篤之人矣。 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, 2021/05/22, https://m.facebook.com/laoziguan/photos/a.499242156876868/2219707748163625/?type=3
  • [683] 神仙奇蹟 神仙奇蹟陳序... - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://www.facebook.com/laoziguan/posts/pfbid0gCyxTQPuMYgw16Wr32oFpasJFEBJs5i2donPsPZ5855maFzQS28Qv9KhbKZ9Mtmxl?__cft__[0]=AZWhoINnDZzZz2EZOUBiac91lPLlw2ZRjxv0i8DCQ_iDDi_UIq-u53t4YR-ptgrQwMaC9vzRotJfi1FX7CX-JQt1zEH4u4jnJHy6-1p9AeAOTuwFBBdHg7gESNwMeT0qtuU-eQKqkPES4bXFILAqPkKeeK1ZZjIHaMKDVa86DXEylH77u-O1OL7vXAvxp_GV5JUGu8BcLfoTsB6tOvkpm89O&__tn__=%2CO%2CP-R
  • [666] 陳子石宗師於 1968年香港 快樂酒樓 寫巨製山水畫作。 - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://www.facebook.com/laoziguan/photos/a.885807968220283/2366992660101799/?type=3&theater
  • [680] 金丹四百字合解序... - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://www.facebook.com/laoziguan/posts/pfbid0dtDa5K41k9mywyE99T7X6AL55GJK5WwrxDPADdF7ykC1hXxe6VzSMqriv9VmmgqNl?__cft__[0]=AZU9IZs_ZOxORWtNgIpfp7uMtjMwkJVM74J6RvR2TF0WNTrKw2XELexAU_UziEu-oGd2LcEKQnHLYO5FOGHypv_OOyn21H_309vI22l-e6JZEcLJM59cQN2qtFuD942DRhyXtMplMsDlqUGLNaVm8t8X-1DGWSHSwu5TNVz8_rYxs-CifyUONjQT3tnlyVqMNLjCkSyT0a5huvLFJ4Oqoc39&__tn__=%2CO%2CP-R
  • [672] 人類生命學的研究 第一集 鑪峰精神脩養學院 陳子石道師著 目 錄... - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://www.facebook.com/laoziguan/photos/a.499242156876868/2370194669781598/?type=3&theater
  • [667] 道曆黃帝紀元四千七百二十一年五月十四日壬寅歲四月十四日... - 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師 | Facebook, 台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師, , https://www.facebook.com/laoziguan/posts/pfbid02Q7tcJb3Kw5qbTntPXCAuhT9X4vzxQVovwJuUxf3DExXqX5uSrgaj9eMUiMsxXrKDl?__tn__=-R

その他の道暦

[558] なお道暦として他の暦元を提案する人もいるようです。 易宏は、 道藏北斗七星開陽北極となる6000年前の天象を記録しているとして、 開陽紀年ないし開陽-北極紀年と呼ぶものを定めるべきとして、

といったような候補を示しています。 >>555, >>556 しかし提案だけで、実用された例は見当たりません。

粥曆

[695] 粥会は、近代中華民国で創設された文化人らの会で、 現在は台湾の組織、 中国大陸の組織などがあるようです。 この会で粥曆 y~3797 なるものが使われています。 ただしウェブサイトを見ると、 通常の日付表記には西暦年民国紀元が使われることの方が多いようです。

[750] 太平御覧に 「《周書》曰:黃帝始烹谷為粥。」 とあり、 黄帝を初めて作ったのだとされています。 >>749 食文化、ひいては中華文化の祖が黄帝であるということで、 粥会では黄帝粥祖として崇めているようです。

日時事例

日本

[832] 新東洋主義を提唱した日本人伊東ハンニ (-) の思想を紹介した日本人新聞記者永松浅造 (-) の書籍 (新聞記事集成) 中の記事のいくつかが、 黄帝紀元を使っています (その他の大多数は昭和です)。

日時事例

[841] この東曆がどのようなものなのか説明がないのでわかりません。 本書は永松浅造によるものですが、その性質上、 伊東ハンニの思想を反映したものでしょうから、 伊東ハンニの提唱したものかもしれません。

[842] 資料が少ないので想像を逞しくするしかありませんが、 新東洋主義を説く伊東ハンニは、 東洋の歴史の出発点を黃帝と捉え、 日本漢土も含めた東洋の共通の紀年法として、 西暦に対して黃帝紀元が相応しいと考えた、 といったところでしょうか。

[843] 東暦という語は、 和暦中国式太陰太陽暦皇紀など、 西暦と対比させて東洋のいろいろな暦法紀年法を指して近代から現代にかけて日本などで使われた言葉です。 似た用法の東洋暦という語もあります。

[768] 平成時代中期の日本の代表的ウェブ掲示板サイト 2chエイプリルフール企画で、 中国大陸を主題とする中国板は、 投稿日時の表記に

黄帝生年紀年4716/04/01(金)

のように黄帝生年紀年 y~1724 を採用しました。 2chの日時表示

干支年との組み合わせ

[384] 欧米の実装や解説記事などは干支年の60年周期の何巡目かを数えるために、 黄帝紀元を基準にしていることがあります。

[385] 現在知られている中では書籍 Calendrical Calculations が便宜上導入したものが最古です。 黄帝が暦を作ったとする伝承によるとのことです。 それ以前の東アジアでこうした手法は確認できません。

[386] 本書は欧米の解説や実装に大きな影響を与えているので、 他の事例も本書に遡る同系統のものかもしれません。 便宜上の数え方と説明せず、中国暦ないし農暦とはこういうものだ、 という説明になっていることがよくあります。

他の数え方は干支年


[52] Emacs の実装干支年の上位単位の1巡目を黄帝紀年に基づき西暦紀元前2697年甲子とします。 y~1736元年からが1巡目にあたります。 >>81

[383] その元になっている Calendrical Calculations という書籍には、 干支周期の何巡目か数える伝統はないものの、年を特定するため便宜上西暦紀元前2637年から数える、 という旨の記述があります。 西暦紀元前2697年にも言及があります。 >>382

[381] >>380 のサイトの説明とそのソフトウェアは、 からを第0巡とします (y~1736) が、 異説としてからを第0巡ともできます (y~3796)。

[102] ICU における農暦は、 農暦月日干支年を組み合わせたものになっていますが、 干支年の上位単位である era は黄帝紀年に基づくようです。 >>97

[103] ドキュメントには

Years are numbered 1-60 (the value of UCAL_YEAR) for each 60-year cycle. The era is incremented for each 60-year cycle, so we are currently in era 78.

とあり >>97y~3796 の元年から era 0、 y~1736 の元年から era 1 が始まる計算となります。

[81] Emacsと暦 - Qiita, https://qiita.com/kawabata@github/items/04c67296123c6394a273#%E8%BE%B2%E6%9A%A6-calendar-chinese-print-date

また、黄帝紀年(紀元前2697年の甲子の年)からの干支の巡回数を最初に指定します。1984年~2043年は第78巡です。


[798] 現代日本では、 東洋系の占いで、 甲子年から始まる黄帝紀元 y~1736 相当が使われることがあるようです。 >>799, >>800

[830] 欧亜紀元合表, 張璜 [], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3449302/1/15 (要登録)

三元甲子の表、最初の上元が西暦前2637年 = 黄帝61年

関連

[887] 道教年号とは別です。

[826] 道紀は無関係です。

メモ

[885] 旧暦の始まりって西暦で言うと何年何月何日何時になるんですか?甲子年甲子月... - Yahoo!知恵袋, LY Corporation, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11293543856

sey**********さん

2024/2/16 20:07

東洋の暦は紀元前4世紀のとある冬至を原点にしていて、その日か翌日が新月だとして起算していた。それを殷代にまで遡って計算したものが旧暦。

Yahoo!知恵袋 公式回答AIさん

2024/2/16 19:59

旧暦(太陰暦)の起点は、紀元前2637年2月15日とされています。これは中国の伝説的な皇帝、黄帝が暦を作ったとされる日です。甲子年甲子月甲子日のカウントもこの日から始まっています。

[886] >>885 AIさんの回答は黄帝紀元。人間さんの回答は何が根拠だろうか。