[5] 黄帝紀元は、 神話において漢民族の祖とされる黄帝を基準とする紀年法です。 いくつかの流儀があります。
[11] 辛亥革命の頃に革命派によって採用され、 正式建国に至る前の中華民国軍政府が公用したものが最も有名ですが、 現在も漢民族や道教の紀年法として使われることがあります。
[70] 黃帝紀元 >>69, >>78 (POJ: Hông-tè kì-goân >>72) が最も一般的な (普及度においても、バリエーションのカバー度合いにおいても、 最も広範囲に通用する) 呼び方です。
[784] なお黄と紀は旧字体・新字体のどちらで書かれることもあります。 帝も1画目の字形差があり得ます。
[56] 黄紀と略される >>1、 と説明されることがありますが、実は案外見かけません。 自然用例で元号名として実用した事例も未発見です。
[419]
黄帝曆とも呼ばれる >>78、
と説明されることがありますが、一部の解説記事等に見られるだけで、
実用例にはほとんどありません。
この分野で普通黄帝暦というと古代の6暦の1つの方 (
[94] y~1724 は黄帝生年紀年とも呼ばれます。 >>10, >>8 元号名は黄帝降生とされることもあります。
[95] y~1736 は黄帝甲子紀年とも呼ばれます。 >>10, >>8
[96] y~510 は黄帝開国即位紀年 >>10, >>8 とも呼ばれます。
[418] 以上3つの呼び方は、解説記事の一覧表や実装などで区別のために使われることがありますが、 実用例ではあまり見かけません。
[96] y~510 は中国開国紀元 >>13 とも呼ばれます。 元号名は開国紀元, 黄帝, 中元とされることもあります。
[844] y~1736 や y~510 は元号名を开元とされることもあります。
[853] y~1736 は元号名を黄帝纪元开元, 黄帝开元とされることもあります。
[334]
y~1736
は軒轅紀年
>>69, >>78
(POJ: Hian-oân kì-lîân >>72)
とも呼ばれています。
軒轅は黄帝の名前です。
中文版维基百科は特に限定せずに示しているのですが >>78、
実用例を見ると
y~1736
でのみ使われている呼称です。
中文の元号名は轩辕纪年ですが、
省略されて轩辕となることがあります。
英文では
Huang Di,
XuanYuan,
X.Y,
[815] これらの他に、道暦, 粥曆系の呼称 (>>540, >>695) があります。
[413] English 版 Wikipedia は 「Yellow Emperor (Huángdì) year」 と呼んでいます。また y~510 を指して 「the Yellow Emperor Calendar (黃帝紀元, 黃帝曆 or 軒轅紀年)」 「Tau Calendar (道曆)」 「Huángdì year」 と呼んでいます。 >>367 呼称が一定しないのは、 説明的に英訳しただけで、 一般的な名称となっていないのでしょうか。
[414] 中文版维基百科には黄帝紀年の 「直譯」が Yellow Emperor Calendar / Anno Imperatoris Flavi とあり、 AIF という略号が使われています。 >>78 「直訳」というからには逐語訳で、根拠があるものではないということでしょうか。 ウェブ検索ではウィキペディア関連以外の用例を発見できません。
[53]
日本語版ウィキペディアは、
黄帝紀元を紀元、
黄帝紀年をそれに基づく紀年法と区別すると解説しています。
>>1
実際上は必ずしもそう厳密に区別できるものでなく、
2つの表現は混用されています。
[258] 黄帝紀年は黄帝紀元と中国開国紀元に大別されるとするものもあります >>13 が、用語法としてわかりにくいと言わざるを得ません。
[74] 蘭語版Wikipediaは Chinese jaartelling (支那の時代) という説明的な訳語で黄帝紀元を呼んでいます。 >>73 中文版维基百科にも、 中元が黄帝纪年法すなわち中華曆の略称だとする記述があります。 >>17 出典の記載はなくどこで使われている呼称なのかは不明です。
中元也是黄帝纪年法(即中華曆)的簡稱。
[761] 以上、紀年法として確実に存在すると思われるものが9種類あり、 その他に当記事に用例等を示す通り、 何らかの誤りの可能性が強いものや情報が不足しているものがいくつかあります。
[763] これら各説の違いは、 黃帝の生涯のどのタイミングを採るかの違いや黃帝の時代を現実の時間軸上のいつに比定するかの違いによるほか、 1,2年程度のズレは何らかの誤解から生じた可能性もあります。
[764] 黃帝の時代をいつに定めるかには古来諸説があり、 紀年法として存在することが確認されていない説もあります。 (解説記事等にはそれも「紀元」の一説として掲載していることがあるので要注意です。)
[765] なお現代の漢民族や道教信者は民族・宗教の開祖としての黃帝を信仰するのみならず、 史実としてもその存在を信じていることがあるようです。
[766] 中国以外の研究者は一般的には黃帝を神話上の存在と考えています。 中国人でも、黃帝は虚構で年代を決定できるはずがなく、 黃帝紀元には意味がないと考える人もいます。
[762] 解説記事、辞典類等はそのうちのいずれか、多くても3つ、4つくらいしか紹介していないことが多いです。
[271] 日本語版ウィキペディアは 黄帝魂, 江蘇, 民報 の3種 (y~1724, y~1723, y~510) を示していますが、 これは 中国近代史詞典 の表に基づく >>62, >>13 ようです。
[365] 中文版维基百科は 民報, 黄帝魂, 江蘇, 中國皇帝黄帝纪元 の4種 (y~510, y~1724, y~1723, y~3799) を挙げ、 民報 を強調しています。 >>78 民報 型を選ぶのは現用されているためでしょうか。 いずれもからの年数が示されていますが、 民報 型だけは現在の年数も示されています。
[76] 蘭語版Wikipediaは、 元年を西暦紀元前2698年 (y~510)、 西暦紀元前2697年 (y~1736)、 西暦紀元前2637年 (y~3796) の3説とし、 西暦2000/2001年を 4637年 (y~3796 / -)、 4697年 (y~1736 / -)、 4698年 (y~510 / y~1736) であるとしました。 >>73 (「/」で併記した意味は説明がなく、前段と後段で順序が入れ替わっているのも謎でわかりにくい書き方です。)
[104] English 版 Wikipedia にも同趣旨の解説があり >>14、おそらく同じ出典に由来するものでしょうが、 そちらではしかなく、 順序の入れ替わりもありません。 どちらが原型なのかは検討を要します。
[367] English 版 Wikipedia の Chinese calendar 記事は支那における暦関係全般を雑然と扱う記事ですが、 黄帝紀年も扱っています。 >>366
[378] English 版 Wikipedia のこうした記述およびその過去の版は、 執筆当時の英語圏で得られた資料の少なさのためやむを得ない部分も大きいにせよ、 多大な混乱を招いているようです。 当該記事の Talk ページも、当記事の雑多な内容の全般にわたって言及があるものの、 その中でも特に黄帝紀元に関係する記述が多いようです >>377。 混乱の大きさとともに関心の高さもうかがえます。
黄帝紀年 (紀元元年 前2491)
黄帝生年紀年 (紀元元年 前2711)
黄帝甲子紀年 (紀元元年 前2697)
黄帝開国即位紀年 (紀元元年 前2698)
黄帝生年紀年 4642 1 15 劉師培
黄帝開国即位紀年 4629 1 15 宋教仁
黄帝甲子紀年 4628 1 15 黄節
黄帝紀年 4422 1 15 『浙江潮』『江蘇』
●日付がグレゴリオ暦と同じ太陽暦
[中国]黄帝生年紀年……………4721年
[中国]黄帝開国即位紀年………4708年
[中国]黄帝甲子紀年……………4707年
[中国]黄帝紀年…………………4501年
There are at least two standard conventions for the epoch of the Chinese calendar — i.e. when was year 1 of era 1. Both are associated with the legendary emperor Huangdi 黃帝, hence the "Huangdi era" 黃帝紀元. The most common convention is to use the beginning of Huangdi's reign, commonly specified as 2697 BCE; a somewhat less common convention (and the one used by ICU) is to use the year when he supposedly invented the Chinese calendar, 2637 BCE. Since the latter is 60 years later, the stem-branch names associated with years do not change, but the cycle number is different.
China traditionally reckoned by the regnal year of its emperors, see Chinese era name. Most Chinese do not assign numbers to the years of the Chinese calendar, but the few who do, like expatriate Chinese, use a continuous count of years from the reign of the legendary Yellow Emperor, using 2698 BC as year 1. Western writers begin this count at either 2637 BC or 2697 BC (see Chinese calendar). Thus, the Chinese years 4637, 4697, or 4698 began in early 2000.
[769] 黃帝紀元各種の年は、グレゴリオ暦の月日と併用されることも、 農暦の月日と併用されることもあります。 グレゴリオ暦の月日と明記しているものもある >>88 ものの少数派で、多くの日時表示は明示していないので要注意です。
[99] 現代においては特に説明無くグレゴリオ暦の月日と併用されることが多いですが、 逆に現代でも農暦の月日と併用するものもあります >>97。
[100] 過去の用法も、 の中華民国の成立・グレゴリオ改暦より前は農暦のことが多いですが、 それ以前でもグレゴリオ暦の場合があります。
[101] 黃帝紀元の日付を使ったものに対する解説等が、 暦法への注意を怠りグレゴリオ暦と誤解している場合があるので、 論文等であっても読者に暦法に関して注意を促していないものは、 ただちに信用しないほうが安全です。
[105] 欧米の文献等では黃帝紀元が農暦と深く結合して解説されていることがよくあります。 農暦において支那では年番号を使わないが、 華僑が黄帝紀年と併用することがあるとする解説 >>14 があり、一部の欧米の農暦の実装で黄帝紀年が基準となっている (>>52, >>102) ことと関係していそうです。
[770] 詳しくは各時代、各分野の項を参照。
があります。
[303] 現在知られている用例で確実に遡れるのは清末までで、 後述の通り、清の元号を嫌った革命派によって新たに作られました。 それまでなかった慣習を創出したという意味では、 清末に作られたというのは間違ってはいません。
[71] 一方で、 黃帝紀元はそれ以前から道教で使われており、 古籍に散見される >>69 とする説もあります。 道教方面では宋の頃から黃帝紀元に基づく道暦が使われているとされています (>>545)。
[772] ただ道教方面でも、 清末期よりも前に黃帝紀元の年表示の形で明確に利用した事例は提示されておらず、 現段階ではその実態は不明と言わざるを得ません。
[253] 清末には黄帝に基づく紀年法がいくつも提案され、 実用され、競合していました。 >>13 主に後述の3種類の黃帝紀元があり、 その他にもいくつかの流儀がありました。
[305] 中国史叙論, 梁啓超, が近代の最初の言及とされます。 >>19 #page=12 (竹内1994)
[255] 黄帝紀元はに革命派の刊行物で使われ始めたとされます。 >>254
[888] https://soka.repo.nii.ac.jp/record/36965/files/soudaichugokuronsyu0_15_3.pdf
[889] 32_33.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/asiakyouikushi/32/0/32_33/_pdf/-char/ja
[281] 黄帝紀元や同時期の孔子紀元等の紀年法がこの時代に持て囃されたのは、 欧米のキリスト紀元や日本の皇紀との接触から来ているとされます。
[280] 黃帝紀元の雜誌における利用例は日本が多い >>270 といいます。 当時の日本には清国人の留学生等が多く滞在し、 反清活動の重要拠点となっていました >>46。 かつ清国官憲の目が届きにくく好きな紀年法が使いやすかったということなのでしょう。
[773] 在日清国人留学生の活動は日本政府にとっても必ずしも好ましいものではなく、 活動を停止されたり、出版を禁止されたりしたこともあるようですが、 黃帝紀元を使った出版物を日本で制作・販売したり、 所持したりすることをもって不興を買ったという記録は見当たりません。
[7] 劉師培ら革命派は、排滿革命を目指し、 漢民族の始祖とされる黄帝を崇拝しました。 満州族の君主の元号紀年や礼教文化を軸とする孔子紀年には反対し、 種族を軸とする黄帝紀年を採用しました。 >>4 #page=9
[57] >>22、 劉師培は 黄帝紀年論 で元号や孔子紀年に反対し、 黄帝の生誕年に基づきを黄帝紀元4614年としました。 >>1 y~1724
[63] 劉師培ら革命派の雜誌黄帝魂がこの方式を採用しました。 >>62, >>233 黄帝紀年論 も 黄帝魂 に収録されました。
[781] 劉師培の提案した y~1724 が清末の黄帝紀元のはじまりとされます。
[779] いつまで使われたのか書いたものが見当たらず、よくわかりません。
[66] 日本語版ウィキペディアは 4614年 () から 4622年 () までを表に掲載しています。 >>1
[793] 誕生に起算することや元号名の黄帝降生は、 キリスト紀元や孔子紀元の影響を受けたものなのでしょう。
[794] 元号名に「紀元」と入れるのも東洋の伝統ではありませんが、 キリスト紀元や孔子紀元 (や神武天皇即位紀元) に倣ったものなのでしょう。
依辛亥志士刘师培先生的倡议,以黄帝生辰来追溯黄帝纪元,则今年西元2010年就是黄帝纪元四千八百二十八年了。
とするものがあります >>606。 しかしこの数え方は刘师培のものと一致しません。何からの計算の誤りでしょうか。 なおこの記事の末尾に記事の日付が黄帝紀元等で書かれていますが、 そこは他の数え方を使っています。
[64] 雜誌 江蘇 はを4394年とする方式を採用しました。 >>62 その他いくつかの雜誌等が本方式を採用しました。 y~1723
[268] 日本国東京でに発行された雜誌 江蘇 は、 最初は光緒を使用していました (「光緒二十九年」 >>22, >>778) が、 第3期より黄帝紀元を使いました >>13, >>778。 月日は農暦でした。 >>13
[782] 江蘇 が代表例とされますが、 本方式は 江蘇 が発祥なのでしょうか?
[823] 黄帝紀年説が閏5月、 江蘇第3期が5月だとすると、 江蘇の方が古いことになりますが、 これはどういうことなのでしょう。
[780] いつまで使われたのか書いたものが見当たらず、よくわかりません。
[67] 日本語版ウィキペディアは 4394年 () から 4402年 () までを表に掲載しています。 >>1
[275] 日本国東京でに発行された雜誌 醒獅 第1期 は、 黄帝紀元4397年としていました。 y~1723 とは1年のずれがあります。 >>13 y~3800
[791] 現時点で他の用例は未発見です。何らかの誤りによるのか、それとも異説なのかは不明です。
[257] を黄帝紀元4603年としたもの >>254 y~510 は、 清末に最も広く使われた黄帝紀元です。
[273] 元号名を中国開国紀元または開国紀元とするものと、 黄帝紀元とするものがありました。 この2つを区別して呼ぶ文献と、 特に断り無く前者も黄帝紀元と呼ぶ文献があるので要注意です。
[783] 中国開国紀元または開国紀元は早い時期に使われました。 やがて黄帝紀元に統一されていきました。
[68] 日本語版ウィキペディアは 4603年 () から 4609年 () までを表に掲載しています。 >>1
[256] 宋教仁は、 満州族を始めとする外部勢力を排除する意志を、 清の元号のかわりに黄帝紀元を使うことで表現したとされます。 >>216
[58] 宋教仁は、 黄帝の即位年の癸亥年に基づきを黄帝紀元4602年としました。 >>1 y~510
[65] 宋教仁はまず日記でを 「四千六百零三年」として使い始めました。 >>216 y~510
[219] 宋教仁は更に上海の 国粋学報 との間で考察を進めました。 各省の留学生の刊行物も黄帝紀年を採用しました。 >>216
[217] 中国同盟会の機関誌 民報 等、革命派の雑誌がこれを採用しました。 >>1 中国同盟会は、中華民国の成立まで、黄帝紀元を使いました。 >>4 #page=10
[289] 発行の宋教仁らによる雜誌で 民報 の前身である 弐拾世紀之支那 は、 奥付に開国紀元として黃帝紀元を使いました。 (>>288) 同誌所収宋教仁 漢族侵略史 は、
計自漢族開国元年癸亥自今年乙巳、都凡四千六百零三年
などとしてその数値を説明していました。 >>283
[264] 日本国東京で創刊された雜誌 民報 は、 の創刊号から中国開国紀元, 西暦, 明治, 光緒を併記し、 グレゴリオ暦を使いました。 >>13
[259] 日本国東京で創刊された雜誌 復報 は、 創刊号から第7期まで農暦、 第8期からグレゴリオ暦を使いました。 >>13
[262] なおその第11期は4605年にもかかわらず「四千六百四年」と誤っていました。 >>13 第8期から既に正しく4605年となっていたのに第11期だけ誤ったのはどうしたことでしょう。
[266] 日本国東京で創刊された雜誌 漢幟 は、 の創刊号から中国開国紀元, 西暦, 明治, 光緒を併記し、 グレゴリオ暦を使いました。 >>13
#page=204
同盟会の創始者の一人である宋教仁の日記(45)にも、
秀光社に関する記述が少なくない。 それによれば、まず1905(開国紀元4603・明治38)年1月2
日の条に、宋教仁らによる雑誌の創刊の計画が初めて記され ている(46)。
#page=215
(37) 宋教仁「漢族侵略史」(『弐拾世紀之支那』1号、1905年6月)42頁には、「且黄帝君
主、非教主可例。故不如用其即位之年為紀元、為漢族開国一大紀念也。計自漢族開国元年 癸亥自今年乙巳、都凡四千六百零三年」とある。『民報』の前身である同誌の奥付にも、 「開国紀元四千六百零三年四月廿日印刷」とあり、「開国紀元」はつまり「黄帝開国紀元」 であることを示している。 (38) 前掲註(35)、竹内論文によれば、黄帝紀年の元年については、①西暦BC2711年、②
BC2491年、③BC2698年、④BC2700年、⑤BC2748年などの説があった。黄帝紀元4604年は、 西暦では、①では1893年、②では2113年、③では1906年、④では1904年、⑤では1856年と なる。このうち②と⑤は問題外であり、日清戦争以前の①とも考えがたい。また④説の 見は1909年であり、黄帝紀年4604年=1904年にはまだ提唱されていない。
[785] 辛亥革命では、 武装蜂起し清から独立を宣言した各省の勢力が中華民国を称し、 黄帝紀元 y~510 を公式な紀年法として採用しました。
[59] 、 辛亥革命において設立された中華民国湖北軍政府は宣統から黄帝紀元に改元し、 を黄帝紀元4609年としました。 >>1, >>2, >>3
[110] 、 中華民国軍政府鄲軍督黎元洪は、 漢口在留各国領事に軍政府成立を通知しました。 その通知書の日付が黄帝紀元でした (>>111)。 >>109
[128] の在上海日本国総領事有吉明からの電報によると、 蜂起勢力は中華民国軍政府と称し、 黃帝紀󠄄元曆を用いたとのことです。 黄帝紀元を使った文書を配布していたのでしょう。
[132] 黄帝紀元4609年10月13日、 黄帝紀元を使った仮憲法が発布されました (>>150) >>131, >>149。
[364] 中華民国軍政府の公報でも黄帝紀元が使われました。 >>363
[82] 黄帝紀元の採用は武昌蜂起のあった10月10日からとされていますが、 農暦なのかグレゴリオ暦なのか混乱があります。 >>3 ただしくはグレゴリオ暦ののようです。
[112] >>110, >>132 の場合、日付は農暦のようです。
[157] >>156 は12月とありますが、これはいつなのでしょうか。 農暦12月は、公式には中華民国元年1月 (グレゴリオ暦) になっていたはずです。
[134] 在広東日本国総領事館によると、 清国から独立した広東省の都督の黃帝紀元4609年9月20日の布告で黃帝紀元が使われていました (>>135)。 また布告されたのは断髪令でしたが、その前半は黃帝紀元によりその正当性を述べていました。すなわち: >>133
[141] 黃帝と黃帝紀元が漢民族の民族主義の象徴として担ぎ上げられたことがよく表れています。 これはほとんどプロパガンダというべき建国神話です。 黃帝が干支を作ったとする伝承はともかく、 黃帝が黃帝紀元を作ったというのは史実どころか伝承ですらありません。 漢民族や漢土が異民族に支配されていたのも清時代だけではありませんし、 清の元号や干支年を使うほど「漢化」された清国が、 紀年法についてそれ以前の歴代中華王朝と違うことは全くありません。
[295] >>294 このツイートは他の説 (皇紀の話) をデマだと否定する流れの派生。 しかしこのツイートの根拠・出典は説明されていない。 「黄帝紀元に戻」すとはどういう意味かよくわからない。 清の元号の前は黄帝紀元が使われていたかのような言い草だが、 そのような事実は確認できないし、そうだというなら根拠を示すべき。 デマを非難する者が対抗のためデマを流すとはどうしたことか。
[314] の日本の書籍に、 革命軍の参謀の1人に聞いたとの説明が掲載されています。 どこで誰に尋ねたのか不明ですが、それによると
のだといいます。 >>51
[786] 当時日本には紀年法についていろいろな説が伝わっていたようです。 何らかの根拠を持つものなのか、デマなのか謎なものもあります。 (>>115)
11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。
[183] 日支 2(6)(13), 日支問題研究會, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1490164/1/29 (要登録)
[192] 辛亥革命に先立つの黄花崗起義と呼ばれる蜂起失敗事件の死者は黄花崗七十二烈士と通称されますが、 その墓には清の元号をきらって 「黃帝紀元四千〇九年」 と掘ったものもあるそうです。 >>193
[194] これは4609年の誤植でしょうか。 汪兆銘による墓碑では4609年になっているようです (>>198)。
[195] そのようなものもあるということは、そうでないもの、 清の元号によったものもあるのでしょうか。
1911年武昌起義後,貴州響應,所釋出《貴州軍政府檄文》,末署“大漢黃帝紀元四千六百五十九年”。中華民國政府建立後,認為黃帝紀年不甚適合,最後採用民國紀年。(陳旭麓:《清末革命黨人的紀年》,第111-115頁。)
[532] 該当する 貴州軍政府檄文 はウェブ検索では発見できませんが、
貴州軍政府都督揚盡誠,副都督赵德全,樞密院院長張百麟,行政总理周培艺,大汉黄帝紀元四千六百零九年九月十四日。」派往各县屬接收的人,都能圓滿达成任务。只有黎平府,在接收人員未到以前,当地自治分社周培桥、張德榮招集四多团兵,意欲入城独立。
貴州軍政府為微知光復貴州公訂約法事: (二)貴州軍政府撤知公訂約法文黔軍於黄帝紀元四千六百零九年九月十四日宣告獨立,已派初等參贊袁來鄂連絡,以備來援北征。都督府楊。寒。(九月十四日) (錄自陳春生「辛亥貴州光復紀」稿本) ( 1 )貴州獨立致郭軍政府電 ...
貴州軍政府都督楊盡誠、副都督赵德全,稱密院院長張百麟,行政总理周培艺,大汉黄帝紀元四千六百零九年九月十四日。」派往各县屬接收的人,都能圓滿达成任务。只有黎平府,在接收人員未到以前,当地自治分社周培析、張德警招集四多团兵,意欲入城独立。
と、
と称した文書があるようですから、4659年とするのは4609年の誤引用が疑われます。
[327] 「選吉便民通書」と題していますから、当時一般で使われていた民間の暦書でしょうか。 「時憲書」ともありますが、当然清国政府の公式発行の暦書 時憲書 ではなく一般名詞化した農暦 (時憲暦) を意味したものでしょう。
[328] 黄帝紀元4610年壬子は。 日本国立大学法人東北大学の書誌も [宣統3 (1911)] 発行と推定しています >>321。
[329] 「中華黄帝紀元歳次壬子」 とあるのは国名、元号名「黃帝紀元」、干支年の組み合わせです。 前年以前も清の元号で同様に記載していたのでしょうか。
[330] 本書は東北大学が所蔵しています。 昭和37年時点で目録に掲載されています >>45。 昭和40年には東北大学附属図書館で開催された展覧会に出品されました >>326。 現在も東北大学で保管されているようです >>321。
[147] 革命軍に直接は関係しない一般の用例もあります。
[267] 清国重慶でからに 287号発行された雜誌 広益叢報 は、 光緒, 宣統を使っていましたが、 の第278号 (第9年第23冊) から黄帝紀元の四千六百九年としました。 日付は農暦でした。 >>13
[272] 東莞旬報 は黄帝紀元と農暦を使いました。 >>13
[60]
孫文は黄帝紀元4609年11月13日を中華民国元年1月1日 ()
に改元すると通達しました。
>>1
清国の宣統帝の退位により禅譲され正統政府となった中華民国の建国がこの日とされるようになり、
以後現在に至るまで中華民国では建国紀元である民国紀元を使っています。
[787] 黄帝紀元が廃された理由について、 現在の定説によれば、 帝王である黄帝に基づく紀年法は民主共和の精神にそぐわないと考えられたためだといいます。 >>1
[163] 日本の大正時代の論文では、 黃帝は漢民族の祖に過ぎず、満蒙回蔵の4族をも統括するには不適切とされたのだ、 と説明されています。 >>162, >>164, >>206 辛亥革命へ至る流れのはじめは漢民族による排満革命運動でしたが、 やがて清朝の版図人民を漢民族中心の政府が統治する形態が目指されるようになって、 周辺諸民族をも包摂する理論体系 (五族共和) が求められ、 改元もその一環とするものです。
[208] 孫文と親交のあった緒方二三は、 その記憶が確かなら (とわざわざ断っているので何日かずれているかもしれません。)、 香港から上海へ向かう船上で孫文から書を受け取りました。 >>207
[209] 孫文によると、 上海の幹部内では年号を西暦、 黄帝紀元、 孔子紀元、 ○○元年のいずれにするか、未だ決していませんでした。 >>207
[210] 孫文が緒方二三に問うたところ、 西暦も孔子紀元も不可、 黄帝紀元も考えものだと答えました。 >>207
[211]
孫文は結局「
を提議しましたが、なんなく決議されたとされます >>227。
[788] これらの記録が正しいとすると、民国紀元は5日も満たないうちに決まったことになります。 (孫文の知らないところで動いていた可能性もありますが。) 「なんなく」決まったということは、黄帝紀元がよろしからざるという認識は共有されていた (そして根回しが済んでいた) ということでしょうか。
[232] 20世紀末に中華人民共和国政府系雜誌に掲載された日本語記事 (著者は中華人民共和国人と思われる記者) は、 孫文が黄帝紀元 y~510 を策定、施行しようと企てたものの、 歴史学界の意見が一致しないため押しきれなかったと断言しています。 >>231 その根拠は示されていません。
[508] 、 中華人民共和国の研究者张新斌は黄帝紀元についての論文で、
辛亥革命之后,孙中山就任临时大总统的第二天(1912年1月2日),通令各省的电文中云:“中华民国改用阳历,以黄帝纪年四千六百九年十一月十三日为中华民国元旦。”因此,黄帝纪年在辛亥革命之初达到高潮。在共和政府成立之际,明确阳历革命酝酿过程中,最为畅行的是“黄帝纪年”.
と書きました >>29。 孫文の改暦改元布告の頃が黄帝纪年の絶頂期であると書いていて、 文意にやや不明瞭なところもあるものの、 清末期の革命派が私用していた黄帝纪年が遂に政府の代表者が採用するまでに至ったことをもって大出世だと言っているように読めます。 この张新斌の論文以外でも、そのようなことが書かれたウェブページはまま見られます。
[509] 実際には当該布告は中華民国軍政府の公用紀年法だった黄帝紀元から正式発足した中華民国の新しい公用紀年法である民国紀元への改元、 黄帝紀元の廃止を発表したものなのですから、 このような解釈は疑問と言わざるを得ません。
[115] 武装蜂起の報とともに 「黃帝紀元」 は即座に日本にも伝わりました。 >>113, >>109, >>114, >>116, >>47, >>48
[122] 漢土ではいろいろな発明も何でも黃帝の功績にし >>114, >>117 /59、 漢民族を黃族、支那史を黃史と称する >>160 こともあり、 告示の紙も黄色である >>241 /34 というような風潮も伝えられていました。
[124] 黄帝紀元に「黃」と入っているので、 西洋の神経過敏の人は黄禍の記憶を新たにするのではと懸念する日本人もいました。 >>117 /14 黄禍論 (欧米の黄色人種差別思想) の歴史は長いですが、 ここでは北清事変頃のものを指すのでしょうか。
[123] 年数の算出理由も日本側で独自に推定したり、 当事者の文献から調査したりされています。 >>42, >>43 その年数も怪しいものだ、と指摘されつつも、 キリスト紀元だってずれているしどこもそんなものだとフォローされています。 >>114, >>129
[161] 大正5年の解説書では、 皇紀や西暦に影響されたもので、 しかし孔子紀元の2500年では自尊心が満足されず >>160, >>169, >>174、 黃帝紀元に惹かれた者が多かったのだと分析しています。 >>160
[168] 別の説では、孔子紀元では儒教を信じる漢民族以外の異民族への配慮で孔子紀元ではなく黃帝紀元を採用したのだとされています。 >>167, >>169, >>174 (しかし同じ書籍で同時に革命の排満的漢民族主義と黃帝紀年の関係も指摘していて >>169 /22、この解釈には矛盾も感じられます。)
[250]
の日本の新聞記事では国号は
「
と書いたものがありました. >>117 矛盾が含まれるようにも思われますが、どれだけ根拠があって書いていたのでしょう。
[126] 国号を湖北漢朝とし黃帝紀元を採用したとする雑誌記事は他にもありました >>125。
[154] 大正3年になると、
年號を黃帝紀元四六〇九年或は漢朝󠄃光復
第一年と號し、
とする解説書が出ています。 >>153
[159]
大正4年には同じような内容で、しかし
「
[171] 大正時代の解説書は、 革命軍が当初から中華民国と称したのではなかったらしいことについて、 黃帝紀元を使い国号を湖北漢朝や黃国と称したと日本で報じられたことが、 事実だったのではないかとし、 革命時の文書で中華民国と書かれたものは後から書き改められたのだろうと述べています。 >>170 (ただし個別具体的な検討は行っていません。) この見解はその後も踏襲している研究者がいます >>214。
[251] これらの国号や紀年に関する情報はどこまでが正確なものなのでしょうね? 混乱の中で、いろいろな立場の人が混じっていたでしょうし、 方針がころころと変わった可能性もありますから、 革命軍の全体であれ一部であれ史実としてあったことなのか、 伝言ゲームで生じた虚構なのか、 判断は難しそうにも思われます。
[220] 日本では辛亥革命前後に発表されたこれら解説等が再版、引用などの形でたびたび世に出続けていたことが、 国立国会図書館の蔵書の検索から確認できます。 多くは辛亥革命当時の經緯や思想の紹介の中で紀年に触れたものや、 世界各国の紀年法の紹介の中でこれに触れたようなもの、 ないし中国古代史の解説でついでに (おおむね否定的に) 触れたものでした。
[221] 本項で挙げたようなものを除けば、それ以上の新しい見解や紀元諸説の詳細な分析のようなものは出てこなかったようです。 昭和時代中期になると、 辛亥革命から時間が経過したことや中華人民共和国が成立したこと、 あるいは日本が満支から締め出されたことによるものか、 せいぜい簡単に一言触れる程度になっていきます (が逆に言えばその程度の言及はコンスタントに続いています)。
[222] 昭和50年代頃になると、時間経過により歴史学的な研究対象と意識されるようになったのか、 辛亥革命史や文学史の論文で言及されるようになります。以後21世紀にわたって、 紀年法と思想の関係や、同時代の諸紀年法の関係性などに考察が進められました。 >>223, >>224, >>226, >>13, >>302, >>306, >>19, >>21, >>20
[107]
に日本で発行された年表に、
[108] 日本紀元 (皇紀) と西暦の差が661年で、1年間違っています。 しかも甲子年とありますが、 皇紀前1989年すなわちは壬子年、 は辛亥年で一致しません。 どちらかといえば皇紀が同じ子年で意図に近いのでしょうか。
[789]
同書本体年表 >>106 /20
には黃帝の治世の始まりが
「
[790] 本書は本段落執筆時点で日本の国立国会図書館デジタルの検索で発見できる 「黃帝󠄃紀󠄄元」 の初見です。 清国人による 「黃帝󠄃紀󠄄元」 の発明の同年、わずか数ヶ月後の出版なのは、偶然でしょうか。 それともその情報が伝わってのことなのでしょうか。 清国人の用法を知ってのことだとすると、 年数が一致しないのはどのような理由によるのでしょうか。
[200]
に中国同盟会の設立の準備中だった第1次ベルギー会議で孫文らが作成した誓文の日付が、
「
[201] 「紀元前」は「紀元」の誤植でしょうか。
[202] 元年はに当たります。 この数え方は他のどれとも一致しません。 また、日本の昭和時代の同系統の文章2本に日本語訳が掲載されているだけです。 実在した数え方なのか、何らかの誤りなのかよくわかりません。
[309] 公用されなくなったというだけで、中華民国成立後もしばらくは黃帝紀元は使われ続けていたようです。
[630] 张之铭は年表で、 黄帝紀元 y~1736 を使いました。 >>628
[795] 近代中華民国で発行された新聞には、民国紀元 (グレゴリオ暦) と黃帝紀元 (農暦) を併記したものがありました。 y~510 >>775, >>774, >>776
[796] 道教では黄帝を開祖として崇めており、 この時期も道暦と称して黄帝紀元を使っています (>>545)。
[187] 張鳴は、 中華民国建国後の在り方に不満を抱いて政治工作を続け、 中国復興党を結成して親日政策を目指しました。 その半生を紹介した昭和時代初期の日本語の書籍は、 西暦や民国紀元を使い、 ときに日本の元号を併記していました。 >>186
[190] 同書最後の中国復興党の章では昭和と黃帝紀元が使われました。 ここだけ敢えて黃帝紀元なのは、 中国復興党の採用した紀年法だったのでしょうか?
[331]
に阮伯卓が著した
皇越甲子年表
は、
越南の初代である鴻龐氏の壬戌年を、
西暦紀元前2879年であるとし、
[332] 甲子年による黃帝紀元 (y~1736) だと言っていますが、 を元期とすると壬戌年は-181年、 紀元前形式なら182年なので、1年ずれています。 起点の甲子年も合わせて183年という意味でしょうか。
阮伯卓《皇越甲子年表》凡例:一,謹按我越鴻龎氏起於壬戌年(西曆紀元前二千八百七十九年),是在中國黃帝(甲子元年)之前一百八十三年。
[797] 清末から中華民国初期の頃に、 黄帝紀元は南洋や欧米の華僑にも広まったといわれています。
[75] 欧米の文献では、 黄帝紀元は現在では (中国大陸で) ほとんど用いられないものの、 華僑の一部では (農暦と共に) 使われることがある、 と説明されています。 >>73, >>14
[83] 台湾で黄紀 y~510 使われたことがあるとする説があります >>3 が詳細不明です。 道教では現在でも台湾で使われており (ただし y~510 ではない)、 それとの混同かもしれません。
[41] 蘭領東印度 (現在のインドネシア) の華人は20世紀頃、 いろいろな紀年法を使っていました。 辛亥革命前後の時期には黄帝紀元の用例もみられます。 >>40
[529] >>528 の戊午年は, , ですが、 どれも合いません。 >>40 はと推測しています。
[176] 大正時代の蘭領東印度における支那人の祝日についての説明で、 黃帝紀󠄄元4559年、4560年と書いたものがあります。 これがどの年か明記されていないのですが、 イスラム暦の祝日の説明には1341年、1342年とあります。 >>175 このイスラム暦はに当たります。 黃帝紀元も同年なのでしょうから、 y~3796 ということになります。
[396] 欧米では干支年との組み合わせで黄帝紀元の元期が使われることがあります (>>384)。
[390] 90年代からあった老舗の英語による中国情報サイト China the Beautiful は、 から新年ページに黄帝紀元を
This is Year 4698.
のように書いています。 >>389
[392] 同ページは 4698年 y~1736 説を採っていますが、 4638年 y~3796 説もあり得る (plasible) としています。 4699年 y~510, 4399年は間違いに違いない (almost certainly wrong) としています。 根拠は不明です。 >>389
[394] 翌年以後異説は省かれ第1説のみになっていますが、 かわりに他サイトの解説 >>393 が参照されています。
[395] そのサイトは、 を 「the 4709th Chinese year」 としています。 y~1736 そして4710年とするウェブサイトがあり y~510、 その理由はおそらく (possible answer) 黄帝の就任式が December 23rd, 2698 B.C. 頃の冬至であり、 その 2698 B.C. の8日間を含めて数えたことになるのだといいます。 >>393 出典は書かれていないのですが、著者の推定でしょうか?
[410] の米国サンフランシスコの中華街の支那新年行事の告知には、
February 6 – February 28, 2010 Lunar Year 4708
SAN FRANCISCO: Leap into The Year Of The Tiger on February 14th, Lunar Year 4708.
[399] 21世紀初頭の英語圏でよく参照されていた、 National University of Singapore の Helmer Aslaksen の Webサイトは、 次のように説明していました。 >>397, >>398
[379] に開発された Archetypes Calendar は農暦を強く意識して設計されていますが、 その紀年法は、 黄帝紀元 y~510 に相当するものです。
[807] の米国ニューヨーク市の支那新年イベントは 「4721 Year of the Water Rabbit」 >>806 としています。 y~510
[808] 2023 SBCC Chinese New Year Celebration Dinner — South Bay Chinese Club - 南灣華人會, http://www.southbaychineseclub.org/events/2023/2/10/2023-sbcc-chinese-new-year-celebration-dinner
SBCC will be celebrating the Year of the Rabbit, Lunar Year 4721, on Friday, February 10, 2023 at the Pearl Bay Restaurant in Fremont.
Place: Pearl Bay Restaurant
43635 Boscell Road, Fremont, CA
[809] 2018 Year of the Dog, Helen-Editor, , https://www.international-excellence.com/china/99-2006-year-of-the-dog
According to the Chinese Zodiac and Lunar Calendar, on February 16, 2018 (Chinese calendar year 4722) we entered the Year of the Earth Dog.
他に例なく、何らかの誤りか?
[308]
黃帝紀元の公用を中華民国が取りやめてから久しいですが、
現在でも中華人民共和国では黃帝紀元を採用するべきという提案が続いています。
>>293
たまに日本語媒体でも紹介されています
>>6, >>293。
提案する人がいるという以上の動きが出てこないので、
賛同者はそこまで多くはなさそうです。
しかしたびたび話題になる程度に熱心な人が一定数はいると考えられます。
[810] 公用を求める動きとは別に、道教等で現に私的に使っている人達もいます (>>545, >>695)。
[333] 中文版 维基百科 の 黄帝纪元 記事は辛亥革命前後の用法を基調としつつも、 道暦としての用法も多少混ぜて説明しています >>78。
[353] の中華人民共和国の研究者の論文によると、 それまでの100年ほどのうち黄帝紀元が注目されたのは辛亥革命と1980年代から21世紀初頭の2回でした。 そしてかつては清を含む外国勢力による圧迫、弱体化から生まれたものだったのが、 今は中国の国力の発展によって文化的な特徴を押し出そうという機運が高まっているのだといいます。 それゆえ、将来的には中国の規則が国際標準となる可能性があるとし、 黄帝紀元を代表とする中国式の紀年を国家が採用したり、 中国と西洋の紀年を併用したりすることも考え得るのだと説きます。 >>29
[824] 確かに黄帝紀元の公用を主張する人々は、 中華人民共和国が公元のみを使い、 国・民族の独自の紀年法がないことを揃って問題視しています。 清末の人々もキリスト紀元や皇紀に触発されていました。 黄帝紀元にせよ、 他の孔子紀元や中華人民共和国建国紀元や農暦の提案にしても、 西洋等他国とは違う優れた文化と長い歴史を誇る中華民族が、 キリスト教の紀年法を借用せざるを得ない現状に負い目を感じずにいられないようです。
[825] 視野の狭い国粋主義、民族主義の復古思想と嘲笑するのは簡単ですが、 長く続いた伝統文化を捨てることは、アイデンティティーの拠り所を失うことであり、 一連の革命で多くの大切なものをなくしてしまったということなのでしょう。
[614] の光明日报は、 袁晓园が歴史学会に対して黄帝纪年を中国纪元とするよう提案したと掲載しました。 >>606, >>628
[615] の記事によると、 黄帝の故地とされる中華人民共和国河南省新郑は黄帝纪年を「自制」 して、国内外の人がこぞって複製している (纷至抄录) とのことです。 >>606 意味をよく取りかねますが、 黄帝を記念した何かがあるということでしょうか。
[616] 同じくの記事によると、 广州の某社が中英文对照纪年表を発行しているとのことです。 >>606 明言されていませんが、文脈からして、中国側に黄帝紀元を使っているということでしょうか。
[877] 実のところ現在の中華人民共和国で、 カレンダーの記述や祝日 (特に春節) の催事等の表記として黄帝紀元 y~1736 (たまに y~510) が使われるのは、 そう珍しいことでもありません。
[388]
>>387
のカレンダーは、
農暦の「
[876] >>875 の農暦の年号は y~510。 (黄帝紀元とは明記せずに使っている。)
[874]
>>873
の写真は
福州 陈 宇 作于汤池 黄帝纪元四千七百零八年庚寅年夏历六月廿二日 大成至圣先师孔子纪元二千五百六十一年 辛亥革命一百年 中华人民共和国六十年 西历2010年8月2日星期一
清代末期に革命派の提案により、黄帝が即位した年(前2697)を紀元とする「黄帝紀元」を中国の紀年法として実施したが、孫文が中華民国臨時大総統に就任すると、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦とすると通達し、黄帝紀元の使用は停止された。現在も中国で黄帝紀元を回復し、黄帝紀年をもって中国の紀年法を作る提案が年々ある。
(文・孫樹林)
[335] 21世紀の中華人民共和国では中華文化を対象とする国学と呼ばれる分野が流行していますが、 しばしば黃帝紀元 y~510 が使われています。
[337] 中元と呼ばれ、公元 (西元) と併記されることが多いです。 併記は公元を主とすることが多く、 題字や日付で中元を使っていてもその他は公元のこともよくあります。
[352] に清华大学中国管理研究中心副主任の许文胜を代表とし >>27, >>503, >>504、 黄卫东、 宫春涛、 张宝祥、 李娜、 张劲东、 黄晓雷、 朱钧、 陈峰、 戴艳芳、 秦鸿亮らが参画する新易国学の団体が黄帝纪年 (元号名スロット: 中元) を提唱し、それ以来利用しているそうです。 >>345
[617] またに清华大学特聘教授许文胜が 中华纪年应恢复“黄帝纪年” を発表し、 荣松と孙虹钢がそれに続いたのだといいます。 >>606
[87] 時点で末に大学教授らがインターネットで提唱した >>6, >>86 と報じられていますから、 1月30日に発表し2月に話題になっていた、 最初の提案者が许文胜で他の者がそれに続いた、 ということなのでしょう。
[355] 仏暦, 日本の元号, イスラム暦等各国がそれぞれの紀年法を持つ中で、 中国が公元だけで独自の紀年法を持たないことが問題視されているようです。 黄帝纪年を採用することは、 中華民族の祖である黄帝に起算することと共に、 辛亥革命の指導者らが採用したことにその正統性が求められています。 >>345
[618] 浙江日报 の “黄帝纪元”从何谈起? で刘宗迪はこの提案に対して「瘴气」である、 理屈が通らないなどと激しく非難しました。 >>606 その他、国際協調にそぐわない、ナショナリズムだなどと反対する意見も多かったようです。 >>606, >>6
西暦ではなく「黄帝紀年」を=ネットで提唱、反論も−中国
2月3日15時1分配信 時事通信
【北京3日時事】「各民族には固有の紀元がある。中国は西暦ではなく黄帝紀元を用いるべし」−。中国の大学教授らが1月末、中華民族の祖とされる伝説上の帝王、黄帝の誕生年を起点とする「黄帝紀年」をインターネット上で提唱した。大国化に伴って高まる中華ナショナリズムの発露と言えるが、「奇をてらった考え」とする批判も出ている。
最終更新:2月3日15時1分 時事通信
[356] 中元と公元は併記されることが多く、 どちらが先のこともありますが、 中元を先にするとが多いようです。 併記される公元は元号名なしが多いですが、 西元と表記されることが多い (公元とはあまり表記されない) ようです。
[357] 中元のみの単記のこともあります。 その場合でも元号名を省略することはあまりないようです (が探しにくいバイアスがかかっているかもしれません)。
[358] 年だけで月日が記載されない場面で使われることが多いですが、 年月日表記もないこともありません。
[354] 黄帝纪年は甲子年11月13日 = 西元前2697年1月1日に始まるとされ、 農暦ではなくグレゴリオ暦の年始と月日で使われています。 >>345
[359] 提唱した国学団体がイベントで使ったり、産学の支持者集めをして利用を推奨したりしているようです。 >>345
[360] また国外の政治家の中国人向け年始挨拶や国外メディアの支那正月イベント報道などで黃帝紀年が 「4706」 「year 4705」 のように表記されたという「実績」があるそうです。 >>345
2013年,中元4711年,#国学与趋势#年中高峰论坛趋势下的选择与应对之道。日坛宾馆,200多企业老总,论坛即将开始。
新易太和创办的《国学与趋势》总裁高峰论坛,于2015年1月17-18日在北京首都机场朗豪酒店隆重举行!这是新易太和自2011年创办《国学与趋势》总裁高峰论坛,连续四年应用易经模型,对来年趋势进行分析和发布。来自全国各地500多名企业家参加了本次盛会,共同聆听了新易太和针对西元2015年度(曁中元4713年)整个趋势的分析。
写真: 会場。ステージ背景には「
#国学与趋势# 【能量围巾,祝您吉祥】新易太和为来参加晚上许文胜老师《能量色彩的衣裳之道》的朋友们准备了中元4715年(公元2017年)能量围巾!!!不要羡慕了~~[污]能量围巾是论坛首发版哦!网上买不到[嘘]猛戳链接:网页链接看看许老师讲“衣裳” [污]顺便问一下,真的木有了吗?小编也想要一条[污]
中元4720年(西元2022年)个人行维策略正式发布!已经获知自身行维密码的小伙伴们可以对号入座,了解一下今年趋势对个人有哪些影响和建议。另外,想了解行维密码的小伙伴可以私信联系哦![来]
独阳不生,孤阴不长!中元历4719年!
映像: 国际易学联合会 (国際易学連合会) 名誉会長の演説。中元や太陰太陽暦の話をしている。
(本文はほぼほぼ公元)
下方に貼られている動画サムネイル:
中元四七二〇年 (西元
2022 )
2023年将有怎样的趋势发生,会对人们产生怎样的影响?中元4721年《文化与趋势》论坛即将揭晓答案!
具体日程安排点击链接了解:【趋势大赏】中元4721年《文化与趋势》论坛即将震撼发布
2021年12月,文胜导师带领团队共同发布了2022年趋势破译。2022年年初至今,趋势预见中的大事件接二连三被印证:两岸统一窗口连现、冬奥会坚韧举办、俄乌冲突提前预警、军事演习频繁、扶桑合众国通胀加剧尽显颓势、欧洲局势动荡不休、群体性聚集风险陡增、人民币国际地位攀升、石油价格高涨、制造业萎靡不振、中医药行业迎来绝佳发展、量子研究有新突破、诺贝尔物理和化学奖提前指定、戎邪的广泛传播……
中元4721年(西元2023年),干支纪年法“癸卯”年。这一年,世界将会怎样?各行各业和我们每个人又将何去何从?
写真:
イベント発表風景。プレゼン画面に
「
[432] 轩辕纪年 y~1736 は、 廖凯原 (Leo KoGuan) が提唱し利用している紀年法です。
[433] 廖凯原はインドネシア系米国籍華僑商人です >>32, >>434。 中華人民共和国のいくつもの有名大学に多額を寄付し、 役員や名誉職を得て、 教壇にも立っています。 しかしその評判はよくないようで、 中文版维基百科には、 その著述を理解できる人がほとんどいない (但少有人能读懂这些文字的含义) と書かれ、疑似科学者 (偽科學學家) のタグを付けられるなど、 散々の言われようです。 >>434
[435] 轩辕 (黄帝) の夢の実現を自身の使命とする >>434 廖凯原は、 ウェブサイトや講演などで轩辕纪年を使っています。 公元が併記されることが多いですが、 単記のこともあります。逆に公元だけの記述もたまにあります。
[437]
現在発見されている最古の用例は、
「
The Yellow Emperor Operating System 2.0 (4709 – Infinity)
と題したものです。 >>436
[438] 4709年がだとすると、 y~1736 に当たります。 ここではバージョン番号のようなものとして使っているのでしょうか。 (OS と題していますが、発表内容は独自の世界観の宇宙論のようなもので、 独創的で難解でよくわかりません。) 資料内にはその説明は特にありません。実際の利用開始は更に遡るかもしれません。
Beijing Dec. 5th, 2012 in the year of Huang Di's 4709
となっています。 >>439 これが現時点で知られている明確に紀年法として使われた最古の用例です。
[441] 元号名の Huang Di は黄帝の音写です。 なお本文で Yellow Emperor (黄帝) が云々という話をしていますが、 紀年法については特に何も説明がありません。 元号名で音訳、本文文中では意訳している理由もよくわかりません。
[443] の講演資料は
The Xuan Yuan Operating System 2.0
(4708 Y.E – Infinity)
と題しており、日付が
April 7, 4710 Y.E (2013)
とあります。 >>442
[444] 前年のものと OS の名前が変わっています。 Xuan Yuan は轩辕の音写なので意味はほぼ同じです。 その代わり括弧の数値が 4708 Y.E に変わっていて、 Y.E は Yellow Emperor の略でしょうから、 こちらに Yellow Emperor 要素が残っています。 年號であることを明らかにするためでしょうが、年数が減っているのは謎です。
[445] 日付も Y.E に公元の併記となっています。 本文中でもこの方式が使われているのですが、 Y.E と公元の併記、 Y.E の単記、 公元・公元の B.C が混在しています。 書き分けの意図は感じられずよくわかりません。 なお、当年だけでなく過去の日付も Y.E で表した箇所があります。
[446] 北京大学のウェブサイトにはからの中国法律史学会で廖凯原教授が発表した旨の報告記事があります。 その題名は
北京大学法学院廖凯原法治与礼治研究中心主任廖凯原教授参加中国法律史学会2013年会
とイベント名が公元になっています。一方本文には
轩辕纪年4710年(公元2013年)10月10日、11日,中国法律史学会轩辕纪年4710年(公元2013年)学术年会暨“中华传统法智慧与移植法制本土化改良”国际学术研讨会于杭州召开。
とあります。本文中の日付が轩辕纪年と公元の日付になっているだけでなく、 本文中の大会名も同形式になっています。 >>24
[447] ウェブ検索による限り、 さすがに中国法律史学会の大会名を轩辕纪年とするほどの影響力は持っていなかったと思われます。 この記事も廖凯原かその周囲のスタッフが書いたために轩辕纪年表記になったのでしょう。
廖凯原教授演讲时提出两项重要建议来推动黄帝思想的研究:
其一,为了突出中国历史的传承并与国际接轨,将轩辕纪年插置入现行公历纪年,制订此纪年法来表述日期。例如,在表示公元2013年10月10日时,可以采用“轩辕纪年4710年(公元2013年)10月10日”这样的表述方法,即我们仍然使用公历纪年,但把轩辕纪元加在其中,以此来纪念我们伟大祖先轩辕黄帝及同辈祖先在4710年前(轩辕黄帝元年)以其爱民之心缔造中华文化共同体的丰功伟绩。
[449] その発表資料は、題名が
Xuan Yuan's Anti-entropic Operating System 2.0 (4708X.Y - Eternity)
轩辕反熵运行体系 2.0 (轩辕纪年 4708–永远)
となっています。 >>25 前の発表とくらべて少し名称がアレンジされているのと、 中文名称が加わっています。 英語の元号名は X.Y と音訳の省略に変わっています。 中文はその部分を轩辕纪年と省略せずに書いています。
[450] そしてイベント名は
China Institute of Legal History 4710X.Y Annual Academic Conference
中国法律史学会轩辕 4710 年年会
となんと轩辕纪年の単記です >>25 が、ここでは元号名が轩辕と省略されています。 日付は
Hangzhou, Oct.10th, 4710X.Y (2013)
杭州,轩辕纪年 4710 年(公元 2013 年)年 10 月 10 日
と公元との併記です >>25 が、「年」を入れすぎているのがおちゃめ。
[451] 本文は English と中文の併記です。 「1X.Y」「轩辕元年」 や 「4710X.Y」「轩辕 4710 年」 のように書かれています。 >>25
[452] そして 「October 10th, 4710X.Y (2013)」 「轩辕纪年 4710 年(公元 2013 年)10 月 10 日」 のように轩辕纪年とグレゴリオ暦の年月日を組み合わせることで、 支那史の連続性と国際協調が共に示されるのだとしています。 >>25
[456] 同じ北京大学のウェブサイトの別の記事では 「2014年9月13-14日」 と公元だけあって、 轩辕纪年は出てきません。 (「轩辕元年(4711年前)」は出てきますが。) >>453 執筆者が変わったのでしょうか。 廖凯原の発表資料の日付表記は以前とほぼ同じですが、 細かな表記の違いがあります。
轩辕召唤
《轩辕4712中华共识》拟稿
Xuan Yuan Calling
A Draft for Chinese Consensus 4712 XY
と題した
中国法律史学会轩辕4712年年会
轩辕4712年8月15日
China Institute of Legal History 4712
XY Annual Academic ConferenceAugust 15th, 4712
XY
の発表資料があります。 >>484
[486] 題名だけでなく本文でも同じ表記で、中文の元号名は
「轩辕」だけになっています。
英文だとスモールキャピタルで .
なし、
空白なしの
[516] 1ヶ月前の轩辕纪年4712年7月4日付の同題の発表資料も同じ形式です。 >>514, >>515
[35] その他この時期の廖凯原の発表資料には轩辕纪年がよく使われていますが、 表記揺れもままあります。
[487] これより後の時期の用例を見ると 「轩辕纪年」「轩辕」 はどちらもあり、 スモールキャピタルでない大文字の 「XY」 が使われるようになっています。
[346] に全国政协委员 (中華人民共和国の行政会議体中国人民政治協商会議全国委員会の委員) で北京中医药大学国学院院長の张其成は、 軒轅紀年採用を提案しました。 >>30
[347] また同じくに全国政协委员で中华全国律师协会 (弁護士の業界団体) 会長の王俊峰は、 二十四節気の重要性を訴え、 公暦にかえて農暦を採用すること、 憲法を改正して公暦年月日と共にまたはかわりに農暦年月日を使うことを提案しました。 >>30
[348] この2つは同時期の提案でどちらも暦関係のもののためかひとまとめにされていますが >>30, >>350、 独立した別個のものと思われます。
[349] 中国人民政治協商会議は (少なくても建前上は) 中華人民共和国の国家運営に関わる重要な会議で、 中華人民共和国の建国当初には公元採用を決定した機関でもあります。 従ってこうした提案が持ち込まれるのに相応の機関ではあるのでしょう。 この会議に提案することがどの程度の重さを持つのかはよくわかりませんが (あと、委員が提案したと報じられるのは会議に正式に提出したということでいいのかもよくわかりませんが)、 その後の余論の反応の少なさと現状を見れば、 国家的な意思決定にはほとんど寄与していない段階までしか達していないようです。
[461] 张其成は国学者で、漢方医学や中国哲学の方面の学術や政治で一定の影響力を持った人物だそうです >>460。 末に清华大学法学院凯原中国法治与义理研究中心の研究員となりました。 >>459
[362] なお先行する中元の団体とは同じ「国学」でも宗派が違うのか、 メンバーも被っていません。 こちらがに提案したのに対する反応なのか、 に中元の紹介記事を出していますが >>345、 「政协委员が政协会に提出した」 と書くだけでどこの誰の仕事かも触れず (軒轅紀年とも書かずに黄帝紀年で統一)、 自分達のグループはから普及活動を続けてきたのだ、 と古参マウントしています。
[462] この提案にも触れた廖凯原についての当時のウェブ掲載記事は、 廖凯原の独創的な講義に戸惑う学生の声などとともに、 北京大学や清华大学のウェブサイトに 「轩辕4712年」 と書かれていることを紹介しています >>459。 明言こそしていないものの、 この軒轅紀年の記載が廖凯原を訝しげに感じる要素の1つとなっているようです。
[489] に儒教系媒体 儒家网 に张其成の記事が掲載されていて、 それが提案文そのものと思われます。 この記事は
时间:孔子二五六六年岁次乙未年正月十三日戊寅 耶稣2015年3月3日
付ですが、この孔子紀年と耶蘇紀年は 儒家网 の定型で編集部が入れたものです。 文末に 「4712XY(2015AD)3月3日」 とあり、こちらは著者によるものでしょうか。 提案は次のようなものでした。 >>37
[496] 轩辕前纪年 (BXY) は他にほとんど言及・用例がなく、 この後の提案では消えています。 紀元前形式で1XYの前が1BXYになるようです。
[475] 、 张其成は前年とは少し志向を変えて、 黄帝関係の記念日である中华父亲节母亲节の設立を全国政协会に提案しました。 >>471, >>472, >>473, >>477
[478] 、 张其成と廖凯原は 关于将轩辕黄帝塑造为中华民族精神标识的提案 Proposal on Establishing XuanYuan Huangdi as the Chinese Nation’s Spiritual Symbol を全国政协会に提出しました。 今回の提案はより広く中華民族の精神的象徴として黄帝を定めることを求め、 そのうちの一項として中华父亲节、母亲节や、 轩辕黄帝纪年 XuanYuan Huangdi Era の「復元」 (恢复 Restore) を求めていました。 >>477
[479] 提案内容は、歴史の連続性と国際協調を示すためグレゴリオ暦の月日に 轩辕纪年(XY) XuanYuan era (XY) を組み合わせて 「轩辕4714年(公元2017年)3月3日」 「XuanYuan 4714 (2017 AD) March 3rd」 とするというものです。 >>477 y~1736
[483] 、 张其成と廖凯原は 关于确立轩辕黄帝为中华民族精神标识的建议 Proposal on Establishing XuanYuan Huangdi as the Chinese Nation’s Spiritual Symbol を全国政协会に提出しました。 前年と同趣旨のようですが、しかし今回は轩辕纪年の提案が含まれていません。 >>482 それを紹介するウェブページ記事には相変わらず 「轩辕4714年」「4714XY」 とあるのですが、国家政策としての提案はペンディングとしたのでしょうか。
[511] なお 百度百科 は轩辕历という項で轩辕纪年やその提議を紹介しています。 >>31 この轩辕历という表記は百度百科かそれと同系統のサイトの用例ばかりで、 张其成・廖凯原サイドの利用はほとんどありません。
[513] 例外として、 张其成が院长である北京中医药大学国学院のウェブサイトが 凤凰网 に報道されましたと引く形で記事の題名に使っている例が1つ確認できるだけです。 >>512
[465] に清华大学法学院凯原中国法治与义理研究中心が論文集 黄帝思想与中华引擎 を出版しました。 >>466
[467] 廖凯原と张其成による 关于设立轩辕纪年(XY)的建议 は、 世界各国が自国の紀年法を持つことや中華民族が黄帝以来の長い歴史を持つことを踏まえて、 「轩辕纪年(XY)」 を提案する内容のようです。 >>464
[469] 张少瑜の 廖凯原道治思想述评 は、 廖凯原の 「轩辕4712年,即公元2015年8月15日的中国法律史学会年会」 の発表などから廖凯原の 「道治思想」 を解説する内容のようです。 >>468 张少瑜は北京大学出身、 中国社会科学院研究生院法学系教授で、 古代支那軍事法についての論著があるようです。
[470] その他にも轩辕纪年についてまたは轩辕纪年を使った論文もあるかもしれません。
[39] その後も用例があり、廖凯原 (とそのグループ?) は利用し続けているようです。
[518] それ以外の人々に広まっている様子は見られません。
- 生辰
朔朢曆 軒轅紀元 4697秊庚辰*龍 九月建丙戌 十四日壬寅 水曜日 節气曆 軒轅紀元 4697秊庚辰季秋(丙戌|大火)〇亖日壬寅 水曜日 Ἰησοῦς曆 Ἰησοῦς紀元 2000秊10月11號 水星期
- 簡介
- 熱衷漢字㴑源,酷㤅閱讀,執著探索宇宙、物質、生命、文朙
univerx 五三四九六·四七一六 己亥秊癸酉月壬子日丙午時初三刻末 木曜 西元2019秊9月12日 11:44
[882] どのような背景の人物か不明ながら、 「軒轅紀元」 や自己紹介のスピリチュアル傾向が示唆的。 簡体字でなく繁体字で書いているが、 >>880 からリンクされているWebサービスは中華人民共和国臭が強い。
[883] 「4597秊」、 「四七一六」 は y~1736。
[884] 「五三四九六」は未詳。
[845] 中華人民共和国では y~1736 >>854, >>846 や y~510 >>847, >>871 の元号名を开元 (開元) とすることがしばしばあります。 特別にこれを推している集団は見当たりませんが、 民間で (もしかすると他の呼称より) 広く知られているようです。
[852] y~1736 は黄帝纪元开元 >>848, >>850, 黄帝开元 >>860 ともします。
[849] 黄帝纪元は冬至を年始とする説を提示する人も居ます。 >>848 根拠は不明。
[859] カレンダーには 「黄帝纪元何年」 「开元何年」 「何」 などと書かれていることがあります >>857。
黄帝即位据说是在公元前2698年,即位时20岁,据此推算黄帝出生于公元前2717年,相传历法元年始于黄帝登基之日起算起。黄帝纪年影响深远,农历、道教历法均始于黄帝纪年为元年,为中国传统历法开始之年,史称开元,至今是开元4716年比西方历法元年早2697年,用开元年份减去2697就是西元的年份,例如,今年是中国传统历法(农历)开元4716-2697=西元2019年。
中文名:黄帝纪元(中国传统历法的开始纪年)外文名:kaiyuan别称:开元(农历开元)地位:中国传统历法 简介,纪元,
黄帝纪元前15年,己酉年,黄帝杀蚩尤,王天下,黄帝开国,三月三泰山封禅(基督纪元前4392年)
黄帝纪元元年,1月15日甲子年甲子月辛卯日,作《调历》(基督纪元前4377年)
黄帝纪元3年,1月22日丙寅年己酉朔旦冬至,迎日推策(基督纪元前4375年)
今天是
公元/基督纪元2021年02月11日【周四】
公元/基督纪元2021年的第42天
黄帝纪元/开元4718年的第53天【六九第8天】冬至日第53天(黄帝纪元以冬至日为岁首)
公元2021年,也就是黄帝纪元开元4718年。
黄帝纪元开元4718年,祝我们有大的科学进步!
开元4718年(西元2021年)
一般人:今年是2020年。
日本人:令和2年。
以色列人:5780年。
伊斯兰教徒:回历1441年。
现在,作为中国人的你,可以回答:今年是开元4718年。
[54]
中文版维基百科は
「《中國皇帝黄帝纪元》等报刊
[416] この 中國皇帝黄帝纪元 がいつどこの誰が書いたものを指しているのか明記されておらず、 ウェブ検索でもそれらしきものが見つかりません。
[417] 近年しばしば聞かれる「中国5000年」のような言い回しはこの数え方と関係がありそうです。 に5000年になったというような記述のあるサイトはちらほらあります。
六十甲子:紀年以黃帝紀元後建立天干地支為開始,來自約西元前2997年+,以黃帝紀元(格里曆前2997年)開始計算,其餘月份安排等與農曆相同。換算方法為格里曆年份+2997為干支年份,如2023年,則為干支2023+2997=5020年。[7][8]
と書いています。 >>78
「六十甲子」は干支の項にリンクされています。
ほな干支年かなあ。
黄帝紀元 = 西暦紀元前2997年の干支創設後の年数と、 農暦の日付の組み合わせだと説明があります。 この年の数え方は y~3799 と同じものです。
ほな干支年ちゃうなあ。
ほな干支年やん。
[422] 中文版维基百科は更にその次の項に 轉換方法 なるものが掲載されていて、
西元紀年天干地支以年份換算的是減去分別在前2997年起即由為六十甲子紀年法。
とあります。そして60個の「年號」と西暦年と干支との対照表があります。 >>78
[423] 説明がこれだけなのでよくわかりませんが、 ここでもまたがスタートで、 「六十甲子紀年法」なるものになっています。 黄帝紀元の記事中にこれが出てくるのは謎なのですが、 これが 「六十甲子」 で 「黄帝六十甲子纪年」 なのでしょうか。
[424] 表によると年號「1」が西元「前2996年」で干支「甲子」となっています。 正しくはなので、 1年ずれています。 あるいはここの「前」とは負符号の意味なのでしょうか。
[425] それにしても黄帝紀元の元年から60年間の年数と西暦年と干支年の対照表だけ示されても、 実際に換算したい年代と乖離しすぎていてほとんど役に立たない気がしますが、 この表は何のために掲載されているのでしょう。
[427] 中文版维基百科の干支記事にも、 これと同様の記述があります。 こちらの記事には干支纪年という章があって、 そこで通常の干支紀年法や西暦年との換算が説明されていますが、 それとは別に歷史の章に、当該記述があります。 >>426
[428] 起始 として、
天干地支之起始點為公元前2997年,與公元紀年換算後即為六十甲子紀年法。
とあります。 >>426
[429] 干支は西暦紀元前2997年が起点と説明されています。 これは歴史の項なので、黄帝が干支を作ったという伝承を書いているものでしょうか。 しかし後段は換算方法を書いているようで、謎です。
[430] そして >>420 と同様の表が掲載されています。ただしこちらは、 「黃帝紀元年號」が「元年」、「二年」、... と「六十一年」まであり、 「元年」は「前2997年」「癸亥」で、そこから次の「癸亥」年までの61年間の表になっています >>426。 干支年に基づくと、やはり「前」は負符号と解釈せざるを得ません。 しかしそうすると >>420 の表と「年號」の数値が一致しません。
[431] しかし「甲子」年から始まる「六十甲子」の表かと思いきや、こちらの表は 「癸亥」年から始まる61年間の表で、何を見るためのどう使う表なのかさっぱりです。
黄帝元年,即为公元前4377年。2017丙申年年为黄帝纪年6351年。
QED BCE3837年为黄帝元年。
(简写标记符号,写成HDE好HuangDi era 还是写成YEE好? Yellow Emperor era)
于是BCE3837年为黄帝元年,1911年=黄帝5748年 ;2019年=黄帝5856年。这比4609和4717年顺眼多了。
としています。 元年は。
[540] 漢民族の宗教の1つ道教では道历, 道曆 (どうれき >>541, dao-li >>541) と称して黄帝紀元を使うことがあります。 道暦という呼び方を使うことが多いですが、 説明では黄帝紀元・黄帝紀年という表現もでてきます。 (その場合でも元号名はあくまで道暦です。)
[644] 百度百科 には進化 (道教の? 道暦の?) の過程で、
六十花甲历、华胥历、华历、伏羲女娲历、甲子历、黄帝历、黄历、夏历、农历、阴历、周历、中华历、中历
といった名前で呼ばれてきたとしています。 >>643 が農暦の別称など道教と関係する暦の呼称をたくさん列挙しただけに見え、 信用できそうもありません。
[548] 現代の中華人民共和国, 中華人民共和国香港特別行政区, 中華民国, マレーシア, シンガポール >>642 で用例があります。 その他の地域でも利用されているかもしれませんが、未確認です。
[818] 道教は伝統的に干支年を重視してきており、現在も干支年と農暦を使うことが多いようです。 公元や民国紀元も使われます。ウェブページでは公元がよく使われています。 道暦はここぞという節目のときなどに使うことが多いように見受けられます。
[879] 闲谈“纪年” -文章阅读网, 作者:东日碧叶, 时间:17-04-23, https://m.duwenzhang.com/index.php?action=article&id=371342
道教纪年。道教专用之纪年。按我国夏历为准,用六十甲子来纪年。由黄帝纪元(豋基)(公元前2697年)为道历元年。而道教斋(zhāi)醮(jiào)道场,所用表奏文牒(dié)等,以“天运甲子之岁”,因对神明故不用道历纪年。
干支纪年。把十天干和十二地支,分别组合起来,每60年为一个周期,2014年为第79个甲子的第31年;自黄帝算起。公元2017年的干支纪年是“丁酉年,属鸡”。
[542] 元々唐の時代に、 老子の生年とされる紀元前1301年を紀元とする道暦が作られたとされます。 >>541
[557] この年は商武丁9年を比定したもののようです。 >>556, >>555
[587] 道暦の開始を老子降生年すなわち公元前1300年とするものもあります >>586, >>599, >>605, >>623, >>642。 概数なのか異説なのか不明ですが、 現代の道教ではこちらが主流説となっているようにも見えます。 (このような記述の件数は多く、中華人民共和国の道教系サイト多数にありますが、 ほぼ同文で、同系統と思われます。)
[543] このような説明は中文のウェブサイト複数にあり、 日本の辞書にもありますが、 いつどこで誰が使っていてどの文献にあるのか、 というような具体的な情報がどこにも書かれていないのが謎です。
[544] 今日のように日付表示に用いられるほど成熟したものだったのか、 それとも開教から何年たったと数える程度に留まっていたのか。
[547] 現在この方式を使った紀年の実例は見つけられませんが、 こうしたものは探しにくいので、 もしかすると道教のどこかの流派で細々と使われ続けているということはあるかもしれません。
[545] その後、宋の時代より、黄帝が重視されるようになったため、 黄帝即位の紀元前2697年を元年とする方式になり、 現在に続くとされます。 >>541, >>586 y~1736
[610] の道教文献に、 黄帝紀元と民国紀元の併記例があります。
[185]
の書籍の満蒙の宗教の解説中、道教の章によると、
この年は
[694]
序文の
[546] ブリタニカ国際大百科事典によると が道暦 4677年です。 >>541 y~1736 この説明が書かれたのが頃だったのでしょう。 その当時の日本に、道教ではそのようなものが使われるとの情報がもたらされていたということになります。
[551] 道教関連のウェブサイトでは公元が使われることが多く、 干支年が使われることもありますが、 記事によっては道暦が使われることがあります。
[552] 道暦は黄帝甲子紀年を使っていると説明されています。 >>550
[595] 中華民国台湾の道教寺院の Facebook 投稿の用例 (>>602, >>601)。 ここは普段は民国紀元 + 國曆 (グレゴリオ暦日付)、農曆 (日付) でたまに西暦も併記。 稀にこのように道曆が出てきます。
道历4718年是2021年。
因公元前2697年为黄帝纪元开始,2697+2021等于道历4718年,所以道历4718年是2021年。
道暦:四七一八年
公历:2021年11月15日0时 星期一
农历:阴历二〇二一年十月十一日0点
[819] 現在の道教で主流のこの系統の道暦と、 清末の黄帝紀元との関係はよくわかりません。 道暦がそれ以前に遡るのかどうか不明で、 道暦が世俗化したということではなさそうです。 逆に清末の黄帝紀元が道教に取り込まれたとも考えられますが、 革命派の黄帝紀元の主流派と現在の道暦主流派は数え方が違っています。
[820] 現在の中華人民共和国でしばしば発生する黄帝紀元の公用の運動と、 道教とは関わりが薄いようです。 道教系の団体や人物が公用を目指しているとする情報は見当たりませんし、 提案者らが道教に言及することもあまりありません。 同じ時代、同じ地域にありながら、 不思議なことに両者は黄帝という間接的なつながりしか持っていないようなのです。
[692] 英領香港では、少なくても第二次世界大戦後の一定の期間、 y~3798 が道暦として使われていたようです。
[693] 現在の中華人民共和国香港特別行政区で使われ続けているかどうかは不明ですが、 中華民国台湾の香港系の道教宗派で今も使われることがあるようです。
[691] 中華人民共和国香港特別行政区の大学のウェブサイトで公開されている漢籍画像に、 道暦を使ったものがあります。
[671] Facebook の台灣老子觀-鑪峰學院-南宗陳子石宗師なるページに、 道曆の投稿がいくつかあります。 プロフィールに
鑪峰學院 台灣分院-- 老子觀 由香港道學南宗 陳子石宗師於民國59年(1970)所
?
とあります。
[558] なお道暦として他の暦元を提案する人もいるようです。 易宏は、 道藏 が北斗七星の開陽が北極となる6000年前の天象を記録しているとして、 開陽紀年ないし開陽-北極紀年と呼ぶものを定めるべきとして、
といったような候補を示しています。 >>555, >>556 しかし提案だけで、実用された例は見当たりません。
夏曆庚子年正月二十三日下弦/西元2020年2月16日初稿發於作者簡書
夏曆庚子年二月初四日/西元2020年2月26日應邀投《中華文明》稿
夏曆庚子年閏四月初十日/西元2020年6月1日收《中華文明》贈刊加註版
夏曆庚子年七月初四日處暑/西元2020年8月22日補註數據版
夏曆庚子年冬月二十日/西元2021年1月3日據新發現升級版
[695] 粥会は、近代中華民国で創設された文化人らの会で、 現在は台湾の組織、 中国大陸の組織などがあるようです。 この会で粥曆 y~3797 なるものが使われています。 ただしウェブサイトを見ると、 通常の日付表記には西暦年や民国紀元が使われることの方が多いようです。
[750] 太平御覧に 「《周書》曰:黃帝始烹谷為粥。」 とあり、 黄帝が粥を初めて作ったのだとされています。 >>749 食文化、ひいては中華文化の祖が黄帝であるということで、 粥会では黄帝を粥祖として崇めているようです。
[832] 新東洋主義を提唱した日本人の伊東ハンニの思想を紹介した日本人の新聞記者の永松浅造の書籍 (新聞記事の集成) 中の記事のいくつかが、 黄帝紀元を使っています (その他の大多数は昭和です)。
[841] この東曆がどのようなものなのか説明がないのでわかりません。 本書は永松浅造によるものですが、その性質上、 伊東ハンニの思想を反映したものでしょうから、 伊東ハンニの提唱したものかもしれません。
[842] 資料が少ないので想像を逞しくするしかありませんが、 新東洋主義を説く伊東ハンニは、 東洋の歴史の出発点を黃帝と捉え、 日本も漢土も含めた東洋の共通の紀年法として、 西暦に対して黃帝紀元が相応しいと考えた、 といったところでしょうか。
[768] 平成時代中期の日本の代表的ウェブ掲示板サイト 2ch ののエイプリルフール企画で、 中国大陸を主題とする中国板は、 投稿日時の表記に
黄帝生年紀年4716/04/01(金)
[384] 欧米の実装や解説記事などは干支年の60年周期の何巡目かを数えるために、 黄帝紀元を基準にしていることがあります。
[385] 現在知られている中では書籍 Calendrical Calculations が便宜上導入したものが最古です。 黄帝が暦を作ったとする伝承によるとのことです。 それ以前の東アジアでこうした手法は確認できません。
[386] 本書は欧米の解説や実装に大きな影響を与えているので、 他の事例も本書に遡る同系統のものかもしれません。 便宜上の数え方と説明せず、中国暦ないし農暦とはこういうものだ、 という説明になっていることがよくあります。
[52] Emacs の実装は干支年の上位単位の第0巡を黄帝紀年に基づき西暦紀元前2697年甲子とします。 y~1736 の元年からが第0巡にあたります。 >>81
[383] その元になっている Calendrical Calculations という書籍には、 干支周期の何巡目か数える伝統はないものの、年を特定するため便宜上西暦紀元前2637年から数える、 という旨の記述があります。 西暦紀元前2697年にも言及があります。 >>382
[381] >>380 のサイトの説明とそのソフトウェアは、 からを第0巡とします (y~1736) が、 異説としてからを第0巡ともできます (y~3796)。
[102] ICU における農暦は、 農暦の月日と干支年を組み合わせたものになっていますが、 干支年の上位単位である era は黄帝紀年に基づくようです。 >>97
[103] ドキュメントには
Years are numbered 1-60 (the value of UCAL_YEAR) for each 60-year cycle. The era is incremented for each 60-year cycle, so we are currently in era 78.
とあり >>97、 y~3796 の元年から era 0、 y~1736 の元年から era 1 が始まる計算となります。
また、黄帝紀年(紀元前2697年の甲子の年)からの干支の巡回数を最初に指定します。1984年~2043年は第78巡です。
[890] 百科全書 第4冊, [ウィルレム・チャンブル], [ロベルト・チャンブル], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/897067/1/26 (要登録)
[891] >>890 が支那年紀では第70甲子の第53年。
[892] 逆算するとが第1巡初年。 第0巡初年。
[798] 現代日本では、 東洋系の占いで、 甲子年から始まる黄帝紀元 y~1736 相当が使われることがあるようです。 >>799, >>800
[830] 欧亜紀元合表, 張璜 [撰], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3449302/1/15 (要登録)
三元甲子の表、最初の上元が西暦前2637年 = 黄帝61年
sey**********さん
2024/2/16 20:07
東洋の暦は紀元前4世紀のとある冬至を原点にしていて、その日か翌日が新月だとして起算していた。それを殷代にまで遡って計算したものが旧暦。
Yahoo!知恵袋 公式回答AIさん
2024/2/16 19:59
旧暦(太陰暦)の起点は、紀元前2637年2月15日とされています。これは中国の伝説的な皇帝、黄帝が暦を作ったとされる日です。甲子年甲子月甲子日のカウントもこの日から始まっています。