[375] 福徳 (旧字体: 福德) は、 中世東国私年号の1つです。
[1627] 読みは 「ふくとく」 とされます。 >>1880, >>457, >>1956
[415] 経済往来 29(2), 経済往来社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1411874/1/14?keyword=%E7%A6%8F%E7%A6%84 (要登録)
[1631] 第二類 : が元年です。 最も普及したのがこのタイプです。 >>1638 参照。
[1632] 第三類 : が元年です。 一部の地域などで使われました。 >>1683 参照。
[1633] その他の少数用例や過去の学説 :
[1637] 主要紀年の比較 :
| 干支年 | 西暦年 | 延徳 | 長享/明応 | 第一類 | 第二類 | 第三類 | 第四類 | 1年ずれ延徳 | 皇紀 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 戊申 | 長享2 | 2148 | |||||||
| 己酉 | 延徳1 (8/21) | 長享3 | 福徳1 | 2149 | |||||
| 庚戌 | 延徳2 | 福徳2 | 福徳1 | 延徳1 | 2150 | ||||
| 辛亥 | 延徳3 | 福徳3 | 福徳2 | 福徳1 | 延徳2 | 2151 | |||
| 壬子 | 延徳4 | 明応1 (7/19) | 福徳1 | 2152 | |||||
| 癸丑 | 延徳5 | 明応2 | 福徳2 | 2153 | |||||
| 甲寅 | 明応3 | 福徳3 | 2154 | ||||||
| 乙卯 | 明応4 | 福徳4 | 2155 |
[1629] 福徳の用例は、東国を中心に非常に多く知られています。
[1630] 現存用例の個数では前近代の第1位、全時代でも征露に次ぐ第2位です。 私年号の代表事例といえます。
[1098] 昭和42年の日本私年号の研究には、 資料1から資料63までが収録されています。 >>464
[102] 板碑用例は調査の進展と共にどんどん増えており、何度か集成されています。
[106] の集計によると
が知られています (亡失資料を含みます)。 >>97
[116] このうち武蔵地域に59基あります。また、同時期の公年号である延徳3年銘が25基あります。 >>97 >>97 には一覧表があって、福徳・延徳3年の通しでNo.01 から No.84 まで連番が振られています。
[117] 武蔵の59基中、
にわけられます。 >>97
[190] 板碑以外は昭和42年以後集成されたものが見当たりませんが、 板碑の報告数増加や当記事収録の昭和42年以後の新報告から類推すると、 相当数の増加がありそうです。 (当記事は十分に新報告を収集できていませんが、 それでもかなりの追加分を掲載しています。)
[1101] 東京新聞:「私年号」の板碑など展示 府中で元号企画展 天文との関係も紹介:東京(TOKYO Web), 松村裕子, 2019年10月6日, , https://web.archive.org/web/20191007011335/https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019100602000110.html
約四十ある中世の私年号のうち最も使われたのは延徳(えんとく)三(一四九一)年に広まった「福徳(ふくとく)」。福徳と刻んだ板碑(いたび)(石の供養塔)は福島、山梨県も含む広い範囲に七十基以上残り、市内にも二基あった。
[1102] >>1101 は板碑数と全体数を混同したもの?
[367] 令和8年8月6日時点当記事暫定集計 (未精査)
| 年 | 板碑 | その他金石文 | 同時代文献 | その他文献 | 計 |
|---|---|---|---|---|---|
| 福徳2年庚戌 (第一類) | 1 | 2 | 1 | 4 | |
| 福徳3年辛亥 (第一類) | 1 | 8 | 1 | 10 | |
| 福徳元年庚戌 (第二類) | 1 | 1 | |||
| 福徳2年辛亥 (第二類) | 19 | 4 | 23 | 1 | 47 |
| 福徳元年辛亥 (第三類) | 5 | 13 | 18 | ||
| 福徳4年乙卯 (第四類) | 1 | 1 | |||
| 福徳元年丙戌 | 1 | 1 | |||
| 福徳元年丁亥 | 1 | 1 | |||
| 福徳元年 | 8 | 4 | 7 | 19 | |
| 福徳2年 | 26 | 5 | 9 | 1 | 41 |
| 福徳3年 | 1 | 1 | 2 | ||
| 福徳14年 | 1 | 1 | |||
| 福徳 | 7 | 1 | 8 | ||
| 福徳 計 | 67 | 14 | 45 | 29 | 155 |
| 延徳2年庚戌 (公年号) | 6 | 15 | 21 | ||
| 延徳3年辛亥 (公年号) | 13 | 1 | 12 | 1 | 27 |
| 延徳4年壬子 (公年号) | 3 | 22 | 25 | ||
| 延徳5年癸丑 (延長年号) | 27 | 27 | |||
| 明応元年 | 0 | ||||
| 明応2年甲子 | 2 | 2 | |||
| 明応2年癸丑 (公年号) | 2 | 2 | |||
| 延徳2年辛亥 (1年ずれ) | 0 | ||||
| 延徳3年辛卯 | 1 | 1 | |||
| 延徳3年 | 11 | 11 |
| 県 | 板碑 | その他金石文 | 同時代文献 | その他文献 | 計 |
|---|---|---|---|---|---|
| 宮城県 | 1 | 1 | |||
| 福島県 | 2 | 2 | 4 | ||
| 栃木県 | 1 | 11 | 12 | ||
| 群馬県 | 1 | 2 | 1 | 4 | |
| 茨城県 | 2 | 1 | 2 | 5 | |
| 千葉県 | 1 | 5 | 25 | 31 | |
| 埼玉県 | 28 | 4 | 8 | 40 | |
| 東京都 | 31 | 1 | 1 | 33 | |
| 神奈川県 | 3 | 3 | 1 | 7 | |
| 長野県 | 2 | 2 | |||
| 山梨県 | 1 | 12 | 1 | 14 | |
| 滋賀県 | 1 | 1 | |||
| 東国(不明) | 1 | 1 | |||
| 計 | 67 | 14 | 45 | 29 | 155 |
[1652] に日本国仙台藩が編纂した地誌 封内風土記 は、 >>945 を紹介して、 公年号になく、 誤字だろうかとしています。 >>1651
[1664] に地元で調査された報告が >>1666 >>1668 です。 前者は棟札が読みづらいと書いており、 後者は福︀德は年代記になくいつかわからないと書いています。
[1681] の地誌は、 おそらく >>1666 からの転記と >>1652 の引用で構成されています。 >>1680
[1658] の地域史は、 >>945 を紹介して、 私年號でにあたり、 干支は庚戌でなければならない、 としています。 >>1657 (仙台郷土研究としての国分ものがたり (一), 藤原相之助, 仙台郷土研究 一〇・8)
[1663] の地域史は、 封内風土記 および >>1660 を参照し、 福徳は私年号であり、宝徳には丙戌年がないのも問題だ、 と述べています。 >>372
[1670]
>>1660 は >>1667 と同じものと思われますが、福︀でなく宝と読んでいるのが謎です。
原物 (棟札でなく書出) は字形がわかりにくいのでしょうか。それとも宮城県図書館所蔵の
>>1667 底本以外の写本があるのでしょうか。
[1656] の地域史は、 >>945 を紹介して、 とし、 私年号 (民間で私に定めたもので、多くは神仏関係に用いられる。) であり、 福徳の私年号は当時のこの地方の社会不安定に対して福徳を神に祈る気持ちで作られたのだろう、 としています。 >>1654
[1675] の史料集は、 >>945 を紹介して紀年はほとんど読めないとしつつも、 宮城県国分山根通芋沢村風土記御用書出 を引いており、 福徳元年はの私年号としています。 >>1674
[182] 宇那禰神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載, https://jinja-bukkaku.net/detail.htm?jbId=71460
芋沢字明神に鎮座する宇那禰神社は、桓武天皇を祭祀しており、創祀年代は明らかではないが、封内風土記によれば、社殿造営の際に梁の上に古い棟札が3枚あり、その中の1枚は、藤原朝臣長沼伊勢守政継が、福徳元年(福徳という年号は公式にはないが、非公開の年号で西暦1490延徳2年にあたっている。)に建立したという棟札、その2は、藤原朝臣長沼式部少輔宗次が天文5年丙申(1536)に建立、その3は、藤原朝臣長沼郷六大膳宗家が永禄5年壬戊(1562)に建立したという棟札である。
[437] 宇那禰(うなね)神社について調べている。詳しい資料など教えてほしい。 | レファレンス協同データベース, 国立国会図書館, https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000384938&page=ref_view
『仙台市史 特別編5 板碑』p250には「宇那禰神社にも中世の紀年銘を持つ三点の棟札が所蔵されているが、宇那禰神社の福徳元年(延徳年間=一四八九~九一に用いられた私年号)紀年銘のものには、「藤原朝臣長沼」と読める記事があり、
[169] の論文は、 福徳3年は私年号で延徳3年と注釈しています。 >>371
[43] 福島市史 第6巻 (原始・古代・中世資料(資料編1)), 福島市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2993589/1/205?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[44] 福島市史 第1巻 (原始・古代・中世(通史編1)), 福島市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3027510/1/335 (要登録)
[50] 郡山市史 第1巻 (原始・古代・中世), 郡山市, 郡山書店連盟, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569414/1/308 (要登録)
[45] 郡山市史 第3巻 (近世 下), 郡山市, 郡山書店連盟, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536826/1/74 (要登録)
[48] 郡山市史 第8巻 (資料 上), 郡山市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569387/1/202 (要登録)
福徳3年は延徳3年の私年号であろう
[2398] 福島市史 別巻 7 (福島の文化), 福島市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3024599/1/128?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[361] 妙立寺の鰐口と長持 - 角田市公式ホームページ, , https://www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1299.html
伊達家より拝領したと伝えられ、福徳2年(1490年)の私年号が刻してある。
[1160] 郡山の歴史, https://adeac.jp/koriyama-city/texthtml/d100010/ct00000001/ht000940
「…安積郡部谷田住仁大工高久殿…福徳三年…」の銘のある鰐口(わにぐち)が宮城県船岡町妙立寺(みょうりゅうじ)にある。福徳(ふくとく)三年は延徳(えんとく)3(1491)年の私年号で、この年は大鏑矢神社の鉄鉢の4年後である。
[1536] 法光山 妙立寺(角田市) - 宮城県 仙南地域の墓石購入・墓石修理【お墓のおかだ】(角田市・伊具郡・柴田郡・亘理郡・白石市・岩沼市), , https://okadasekizai.co.jp/jiin/jiin03.html
市指定文化財で、伊達政宗から拝領したと伝えられ、福徳二年の私年号が刻まれています。
[2382] の史料集は、 >>826 を紹介し、 私年号で福徳2年は延徳3年と説明しています。 >>2381
[58] 会津坂下町史 2 (文化編), 会津坂下町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640725/1/193 (要登録)
[177] の史料集は、 >>174 を紹介して福徳2年は私年号で応仁2(1467)年 (正しくは応仁元年) かと説明し、 >>178, >>181 を紹介して福徳は延徳の私年号と説明しています。 >>420
[366]
の史料集は、
>>363
を紹介し、
「
福徳二年(延徳三年、一四九一)七月一〇日の渓嵐拾葉集奥書(叡山文庫真如蔵)に「於上州中宿蓮花寺書写了」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
[1113] の史料集は、 >>1111 を紹介し、 私年号で延徳3年としています。 >>1110 続巻では、 千々和到説により解説しています。 >>1115
[1130] の史料集は、 >>1126 を紹介し、 いわゆる私年号 (異年号) であるとし、 福徳元年は延徳元年または延徳2年だとしています。 おそらく連帯を持つある種の教団 (神社・寺院)、地方豪族が使用したものと思える、 としています。 >>59
[1546] 昭和18年の目録は、 >>76 >>997 >>793 を紹介して、 延徳3(皇紀2151)年としています。 >>1548, >>1544
[1542] の書籍は、 >>793 を紹介して福︀德は私年號で福徳2年は延徳3年、 >>991 を紹介して福︀德は私年號で延徳2年としています。 >>1540
[75] 日光輪王寺慈眼堂収納の >>793 >>72 >>73 >>76 >>77 >>78 の用例があります。 関東各地から日光に移されたと考えられています。 >>207
[74]
浅沼徳久は、
延徳および福徳は当時日光山全体で使われた (公年号は使われなかった)
と推測しています。
[1538] の地域史は、 浅沼徳久の発表を引いて、 足利成氏の時代の日光山で公式記録に延徳および福徳の私年号が用いられ、 私年号延徳2年は寛正3年、 福徳2年は公年号延徳3年にあたるという、 と >>793, >>72 を紹介しつつ述べています。 >>1537
[57] 久喜市史 資料編 1 (考古・古代・中世), 久喜市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644349/1/255 (要登録)
[1124] 栃木県歴史年表, 栃木県歴史年表編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640574/1/12?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[71] 図説日本の歴史 9, 河出書房新社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12206241/1/61?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[1470] 赤浜妙法寺過去帳は、天文年間に一旦成立し、以後書き継がれたとされます。
[1109] >>1107 の写本には傍書がなく延徳だけです。
[1469] 一部の写本にのみある傍注であり、その成立過程に検討を要するものです。 同時代的な福徳の知識に基づくとも、 他資料等からの推定とも考え得ます。 いずれにせよ何らかの福徳の知識を持った者が、 延徳だけでも福徳だけでもなく両方の併記が必要と判断したことを示します。
[188] 古河公方 (足利成氏 / 足利政氏) 発給とされる文書の用例があります。
[1448] 通説では足利政氏発給とされます。 >>386, >>385
[353] >>351 >>352 は発給者不明で、茂木上総介宛です。 茂木上総介は天文20年に同じような御教書を古河公方足利晴氏から受け取っているため、 これらの発給者を古河公方足利成氏とする渡部恵美子の説があります。 >>594
[355]
渡部恵美子は、
私年号は寺社で呪術的に使われたものと主張していました (
[386] 日本古文書ユニオンカタログ - 詳細, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w21/detail/20210310001048?dispid=disp01
【管理番号】 66503703426023
【和暦年月日】 (延徳3年)6月2日(14910060020)
【文書名】 足利政氏補任状
【詳細内容】 私年号「福徳二年」と記す。
[385] 日本古文書ユニオンカタログ - 詳細, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w21/detail/20210310001094?dispid=disp01
【管理番号】 66503703426069
【和暦年月日】 (延徳3年)7月12日(14910070120)
【文書名】 足利政氏補任状写
【詳細内容】 「補遺 茂木文書(流出文書)」所収、私年号「福徳二年」と記す。『栃三』五三
[2378] の論文は、 >>2376 を紹介し、 私年号で延徳3年としています。 >>2375
[52] 水海道市史資料集 第4集 (諸家文書), 水海道市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641441/1/7 (要登録)
[1133] >>113 は茨城県に福徳板碑6基としています。それに >>952 >>1454 が含まれるか不明ですが、 他に少なくても4例あることになります。
[94]
「下総国松沢大権現鰐口也
[1105] 千葉県印旛郡誌 は、 >>796 を紹介し、福徳2年は延徳3年としています。 >>1103
[64] 千葉県史料 金石文篇 3 補遺, 千葉県企画部県民課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641996/1/79 (要登録)
[1132] 千葉県金石文所在目録, 千葉県企画部県民生活課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640244/1/36?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[1145] 11604_鰐口(東京国立博物館) :: 東文研アーカイブデータベース, https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/2063896.html
[30] 千葉県史料 中世篇 香取文書, 千葉県史編纂審議会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3450860/1/23 (要登録)
[1456] 本土寺過去帳の現存版は、主に天正本と明暦本の系統があります。天正本は天正の頃に本土寺伝来の過去帳を整理したものとされ、千葉県史料は天正本の翻刻です。明暦本は明暦の頃に再編されたもので、続群書類従本は明暦本の系統です。続群書類従本より天正本が良本とされます。
[1591] 本土寺過去帳は、福徳期に限らず元号年と干支年の一致しない用例が散見され >>1186、 取り扱いには注意を要します。もっとも、不審紀年はまったく無視されるべきものでもなく、 本書の成立過程や原資料の紀年を推測するために使い得る貴重な史料であることには違いありません。
[1613] 福徳私年号の研究では早期から注目され、重要史料とされてきているものの、 異本による相違や成立過程の推定など、当史料特有の事情を踏まえた考察や、 計量的な分析など、詳細に立ち入った研究は十分に行われていません。
[1592] 本書の紀年を整理すると、大部分の用例は一貫しています。すなわち、
... となるもの (または干支年なし) が大多数です。
[1593] 次のものは明らかに少数例です。
[1594] このような状況は、次のように考えると合理的に解釈可能です。
[1605] もしこの解釈が認められるなら、 この資料では、年始の頃の認識が推測できるものの、年内の具体的にいつの時点で元号が切り替わったかまでは推測できないことになります。
[1606] 辛亥年は年始時点で福徳元年と認識されていたことになります。 ただし、原資料がどのように構成されていたか不明である以上、当時福徳2年と認識されていたものが、 現行本編者によって何らかの誤解で福徳元年と誤認された可能性も完全には排除できません。
[1607] 癸丑年 (明応2年) は、年始時点で未だ改元が行われず、延徳5年と認識されていたことになります。 明応改元は延徳4年7月であり、半年以上の遅れが出ています。福徳期の改元運用の実情を探る上で重要です。
[1608] 辛亥年を福徳2年、福徳3年とするものは、明らかに少数であり、
... のどちらの可能性も排除できません。
[1611] 福徳4年は、天正本と明暦本での差異に係るものが含まれることに注意が必要です。また、 字形不明瞭で宝徳を誤読したらしい例も含まれています。 同時代的に実用されたかどうかには慎重になる必要があります。
[1612] 福徳14年は、天正本と明暦本での差異に係るものです。年数が他の用例とあまりにかけ離れており、 同時代的に実用されたかどうかには慎重になる必要があります。
[1639] 太田道灌の死去は、通説では文明18(1486)年丙午7月26日で、 これは天正本の記述と一致します。令和8年現在、これを否定する説は Web検索では見つけられません。
[1640] 一方で明暦本によると福徳14年ですが、
... となります。後者は旧説を含むどの福徳とも一致しません。17回忌説 (>>569) もありますが、 それを支持する記述は本書中に見られません。
[1992] の地域史は、 >>1037 を紹介し、 私年号で一般に延徳3年、 私年号の性質上、ところによっては1、2年の前後があると考えられている、 としています。 >>1972
[1881] の地域史は、 >>1035 を紹介して干支年から延徳3年の私年号とし、 中世が延徳2年とするのは誤りと説明しています。 >>1880
[2353] の地域史は、 次のように述べています。 >>2325
読売新聞[東京本社版]3月21日朝刊34面(文化面)
ネット版“[日本人と元号]<下> 乱世物語る 3元号並立”(現在は公開を終了しています)
新聞で紹介された板碑は、難波田城資料館常設展示室でごらんいただけます。難波田城跡で発見されたものです。
「福徳」年号を持つ板碑は、埼玉南部から多摩を中心に分布し、50例以上が知られています。そのうち6例が富士見市内で見つかっています(詳しくは平成16年春季企画展図録『富士見之板碑』をご覧ください)。市内の板碑を年代順に並べると、延徳2年(1490)3月の日付を持つ板碑の次に、福徳元年庚戌
かのえいぬ (1490)12月の板碑があります。そして福徳2年の板碑が4例あるのに、延徳3年と刻まれた板碑はありません。この地域では「福徳」に改元したと信じられていた可能性があります。
この時代、福・徳の2文字とも、現在以上に経済的なニュアンスがありました。福神は貧乏神と対になる、豊かさをもたらす神であり、富んだ人を「有徳者
うとくしゃ 」、借金帳消令を徳政令と呼ぶなどです。その背景として、貨幣経済の浸透による貧富の格差も拡大していました。また、この頃の関東地方は、二大勢力の対立による戦乱が続いていました。相次ぐ災害や飢饉
ききん の記録も残されています。そのような情勢であったからこそ、豊かさを意味する年号へ改元したという情報が、広まりやすかったと想像できます。
[8] 埼玉県史 第四巻, 埼玉県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3439275/1/309 (要登録)
[9] 富士見市史 資料編 3 (古代・中世), 富士見市総務部市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643536/1/112 (要登録)
福徳元年1例、2年辛亥4例、いずれも図録に拓影
巻頭に写真1例
[10] 浦和の歴史と文化を知る本, 青木義脩, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642619/1/94 (要登録)
[2386] の史料集は、 >>1073 を紹介し、 私年号で延徳3年としています。 >>2384
[241] 文字が重なっていて、よりによって年の部分がよくわかりません。 >>240
[239]
付の文化財紹介は、
>>237
を紹介して、「
この題目曼荼羅には、福徳3年6月吉日
の紀年がみられるが、「福徳」という年号は朝廷 によって定められた公式の年号ではなく、一時的 に関東地方の一部の豪族や寺社などで使用された 私年号であり、この福徳3年は、延 えん 徳とく 3年(1491)に相当する。
昭和 47 年 3 月 9 日 八潮市指定記念物(史跡)
●八潮市中央3丁目 19 番地2(妙光寺)
福徳3年日正筆私年号曼荼羅(非公開)
[429] 塩舟観音寺, 武蔵書房, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12270823/1/29?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[433] 新座の金石文, 新座市教育委員会市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12207344/1/41?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[439] 武蔵野 11(3), 武蔵野文化協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7932468/1/39?keyword=%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[449] 日本考古図録大成 第拾參輯, 日東書院, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1903708/1/87?keyword=福徳 (要登録)
[454] 埼玉県板石塔婆調査報告書 本文・図版編, 埼玉県立歴史資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12261363/1/22?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[448] 板碑 : 特別展図録, 埼玉県立博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12261498/1/60?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[784] 歴史考古学 (5), 歴史考古学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7951453/1/30?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[419] 研究紀要 (16), 埼玉県立歴史資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7952173/1/78?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[422] 新座市史 第1巻 (自然・考古・古代中世資料編), 新座市教育委員会市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643199/1/430?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[423] >>422 足利成氏が好んで用いたという説があることになっている
[1879] の史料集は、 >>1147 を紹介し、 福徳はの私年号であり、関東を中心に東北・中部地方と広範囲で用いられたのであり、 私年号はめでたい文字の仕様例が多く、福徳は延徳の1字を変え、 元号の攘災招福の呪術性を高めようとしたといわれる、 戦乱続きから平和な日々の復活を祈って用いたのかもしれない、と解説しています。 >>1875
氷川社
(浜崎)村の西の方にあり。社は2間半に3間。前に鳥居を建つ。鎮座の年暦は傳へざれど、入間郡瀧入村桂林寺の観音堂に掛し鰐口に、奉掛氷川之大明神、御寶前之鰐口、武州新座郡之廣澤郷浜崎之宮、福徳2年辛亥9月吉日、願主大夫三郎太郎敬白と銘せしは、恐らくは元当社の物なるべければ、古社なる事證すべし。されどご神徳は逸年号にして、何れの朝の号なるや詳ならず。村の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より)
当社がこの地に勧請された年代については定かではないが、毛呂山町滝ノ入の桂木寺にある桂木観音堂に懸かる鰐口の銘文から、室町中期には既に存在していたことがうかがわれる。この銘文は「奉懸氷河之大明神御宝前之鰐口武州新座之郡広沢之郷浜崎宮 福徳二辛亥九月吉日 願主 太夫三郎太郎敬白」というもので、文中の氷河之大明神は当社のこと、私年号である福徳二年は干支から延徳三年(一四九一)のことと推測される。当社に奉納された鰐口が毛呂山町にある理由は不明である。このことは、化政期(一八〇四-三〇)に編纂された「風土記稿」いも記されている。
(「埼玉の神社」より)
宮代町における私年号は、西光院にある板碑に刻まれた「福徳元年□月三日」銘である。「福徳」は、延徳元年(一四八九)に甲斐国あたりで疫病が流行し、翌年の秋は異常寒気となり降雪に悩まされていた。そのため、これまでのように年号を変えることによって、この惨況を克服するため公年号の一字を入れ替えて「福徳」と命名したと考えられている。福徳元年は延徳二年に該当する。
私年号の「福徳」が使用された範囲は、武蔵、相模をはじめ関東地方一帯に及んでいる。
[1518] 日番号は廿なのか七なのか不明瞭。 >>1516
[2370] の史料集は、 >>1051 を紹介し、 私年号で延徳3年にあたる、 福徳は県内で17基確認されている、 私年号の出現は飢饉や天災など、自然災害や兵乱などの社会状況を反映し、 改元はこれらを克服したいという願望からである、と説明しています。 >>2368
[2267] の地域史は、 >>1051 を紹介し、 私年号で延徳3年とし、 私年号は時の元号の1字をめでたい字に置き換えて攘災招福の呪術性を高めようと考えたものである、 と説明しています。 >>2133 /316
[7] 史跡ある記 続, 石島潔, 上尾市企画財政部広報課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644437/1/62 (要登録)
私年号福徳三年銘板石塔婆
(地図)
また「延徳」や「福徳」といった、朝廷が正式
に定めたものでない年号を用いた板碑もある (写真3)。これらの年号は私 し 年号と呼ばれ、社寺や有力者が時の年号をめでたい字に置き 換えたもので、元号の攘 じょう 災さい や招福のためと考えられている。
写真3 私年号板石塔婆
(個人蔵) 私年号の「福徳」が刻まれ ている
(カラー写真 低解像度)
[69] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/338 (要登録)
かつて福徳二年と読まれていたが不明に
[68] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/317 (要登録)
福徳元年辛亥
延
福徳三年{辛/亥}四月一日於武州足立郡
河口錫杖寺依求法弟子之所
望抄之沙門印融>>263 延
福徳三年{辛/亥}四月二日記之
沙門印融>>263 延
福徳三年{辛/亥}四月七日記之了
沙門印融>>263 延
福徳三年{辛/亥}四月八日記之了
沙門印融>>263 延
福徳三年{辛/亥}四月十一日記之了
沙門印融>>263 延
福徳三年{辛/亥}四月十九日記之了
沙門印融>>263 延
福徳三年{辛/亥}四月廿三日記之了
沙門印融 右八帖表白付三宝院流諸尊法
(抹消)
[ ]或拾古賢之筆跡或廻
今愚之短才為求法ノ弟子所
記也
延
福徳三年{辛/亥}五月二日
沙門印融>>263印融法印は関東各地の真言宗寺院の復興に努めるとともに、密教教学の興隆にも尽力したことでも知られ多くの著作が残されており『諸尊表日抄』は錫杖寺で著されました。奥書に「延徳三年辛亥四月一日、於武州足立郡河口錫杖寺において、求法弟子の所望によってこれを抄す。沙門印融」(原稿は漢文)と記されています。
埼玉県川口市本町2−4−37
[337] 2023hensan.pdf, , https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/shoho0059/2023hensan.pdf#page=1
富山市立図書館
所蔵山田孝雄文庫本『表白鈔』(高野山宝珠院旧蔵室町後期写本。同館ホー ムページの電子図書館から画像を公開)第二冊の奥書には「延徳二年四月十 九日、記之、/沙門印―」と載せる。他の冊に「延徳三年〈辛亥〉四月一日」 (第一冊)あるいは「延徳二〈辛亥〉四月十一日」(第五冊)といった年記が 見えており、明らかに一連のものであって四月が一致するにもかかわらず、 二年・三年の両年にわたるうえ、延徳二年としながらも同三年の干支辛亥を 載せているものがあるなど、年記になんらかの混乱を来していることが推察 される。 実は、ここでの混乱の原因もまた関東の私年号にあった。この表白集の印 融自筆本は、高野山釈迦文院本『諸尊表白抄』(『特別展 中世よこはまの学 僧印融―戦国に生きた真言密教僧の足跡―』横浜市歴史博物館、一九九七年、 七四~七七頁に図版掲載)として伝わっており、第一冊の奥書は「延徳三年 〈辛亥〉四月一日、於武州足立郡河口錫杖寺、依求法弟子之所望抄之、 沙門 印融」とある。ただし、「延」の字は「福」の字を抹消した右傍に小書され、 「三」の字は「二」の字の上に墨線一本を加えて「三」に改竄したものだと 認められる。そして、「延」の字の筆跡は印融のそれとは別物のようだ。す なわち、印融自身は本来「福徳二年〈辛亥〉」と記していたのである。
[1648] の目録は、 >>1019 を掲載して、 の私年号としています。
[1873] の地域史は、別の私年号の紹介において、練馬区南田中町にあった福徳元年の板碑が特に有名だと述べています。 私年号は私に用いたので比定年が所によって差異あり、継続年数もまちまちなのは当然というべきで、天地凶変、不祥事件などの時に縁起を担いで嘉吉な文字を選んで定めたものが多く、福︀德はそのよい例と説明されています。 >>1872
[2390] の書籍は、 >>1020 を紹介して、次のように述べています。 >>2387
私年号
しねんごう (注釈1)である「福徳」や6躯く の地蔵菩薩立像じぞうぼさつりゅうぞう が刻まれる板碑いたび は区内唯一です。
(注釈1)私年号
しねんごう ・・・朝廷が正式に定めた年号以外に用いられた年号で、戦国時代の東国とうごく では広範囲で使用されました。民衆の天災や飢饉、戦乱からの救済願望によるものとされており、「福徳」も元号「延徳」の「延えん 」の字をめでたい「福」の字におきかえたものと考えられています。
[173] 練馬区史 歴史編, , https://www2.i-repository.net/contents/myc/text_2rekishihen/rekishihen_honcho6.xhtml
[2] 練馬区史, , https://www2.i-repository.net/contents/myc/text_1junenshi/junenshi_honcho2.xhtml
[255] 妙正寺川の改修で川底から發見されました。 >>428
[246] >>1059 の銘文は点画の明瞭な楷書で彫られています。 >>243
[248] 第2字はよくわからない字形です。草書の楷書化でしょうか。
[249] の文化財紹介は、 第2字を作字して銘文を掲載し、 振り仮名を「とく」とし、 室町時代ごろの私年号としています。 >>428 「とく」と読ませることから福徳を意識していると思われますが、 福徳であるとはどこにも書いていません。
[257] この元号名が福徳であるかは自明でなく、説明が必要と思われます。
[256] 日番号を >>428 は□としていますが、 >>243 を見ると元々空欄だったように見えます。
[1645] の目録は、 >>1059 を掲載して、 としています。 >>1643 /38
[1955]
の書籍は、
>>1059
を
[252] 令和8年時点の文化財紹介 (初出不明) は、 字形についての説明はなく、 福徳元年は延徳2年の私年号としています。 >>245
年代 延徳2年(1490)
戒名の両脇には「福徳元年」「十一月日」という年紀が刻まれている。福徳の年号は私年号であり、福徳元年は室町時代の延徳2年に当たる。私年号は中世に地方豪族や寺社が用いた私的な年号で、福徳の年号が刻まれた板碑は東京で11枚、埼玉で20枚のほか、神奈川や茨城などで合計40枚ほどが確認されている。
[1099] 東京都新宿区の歴史 自性院, https://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/%E8%A5%BF%E8%90%BD%E5%90%88/%E8%87%AA%E6%80%A7%E9%99%A2
「福徳元年(1490)11月 日」の紀年銘を記す、高さ41センチの阿弥陀一尊種子板碑で、ほぼ完全な形を保っている。「福徳」は私年号で、室町時代の延徳2年(1490)にあたると推定されている。
室町時代後期、中央政府の衰退と世相の混乱、民衆の現世利益の追求などにより、公年号と並び、地方豪族や寺社による私年号の使用が流行した。
「福徳」の私年号を記す板碑は南関東を中心に分布しているが区内では唯一のものである。
当時の社会的風潮を表す遺物として貴重である。
平成3年(1919)11月 東京都新宿区教育委員会
[1100] 自性院 私年号板碑| 一般社団法人新宿観光振興協会, https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_313.html
高さ41センチ、幅18.5センチの小型の区指定文化財『私年号板碑』は、円光と蓮台を配置した阿弥陀の種子の下に「逆修妙心禅尼」と供養者の名を刻み、その左右に「福徳元年」「十一月」の紀年銘を記しています。福徳というのは私年号で、延徳2年(1490年)にあたると推定されます。私年号は室町時代に多く、政令が行き届かなかったことを示します。福徳の私年号を用いた板碑は、三多摩地方には稀に見られますが、区内では唯一の例です。
[442] 葛飾区板碑調査報告, 東京都葛飾区教育委員会社会教育課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12221234/1/28?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[451] 東京都古代中世古文書金石文集成 第4巻 (金石文編), 角川文化振興財団, 平野邦雄, 杉山博 監修, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13176990/1/102?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
府中本町駅前の発掘調査で、石の供養塔―板碑―が出土しています。板碑そのものは中世の東国、特に武蔵では盛んに造立されていて、けっして珍しいものではありません。しかし、ここで出土した1枚には見慣れない年号が刻まれていたのです。それは〈福徳元年〉。
開催期間 2019年7月27日(土曜日)~2019年10月27日(日曜日)
[2103] のち騎士は、 >>1012 を紹介し、 私年号でか、としています。 >>2072
[14] 徳蔵寺(とくぞうじ)釈迦三尊種子板碑, , https://kawai24.sakura.ne.jp/tokyo-tokuzouji-40_90_179_227.html
[2374] の書籍は、 神奈川県では都筑郡で2基の板碑用例が知られていると述べています。 延徳に相当すると考えられるが、一部では文正年間にも使われたとの説もある、としています。>>2372
[1144] https://kobe-cufs.repo.nii.ac.jp/record/1472/files/mono52.pdf #page=26
なお「福徳」も室町期に関東を中心と
する東日本で主に使われていた私年号で、延徳 3 年 1491 に相当する。
[1137] 水戸家家老中山氏家来の差料だったものとされます。 >>427
[1138] の論文は、 >>1134 を紹介し、 2回用いられた私年号で文正2年と延徳3年のどちらか不明としています。 >>427
[427] 刀剣と歴史 (431), 日本刀剣保存会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7901125/1/20 (要登録)
関東の公年号無視風潮の極限が偽年号 私年号
文正元年 福徳 継続年数不明
常陸 妙法寺過去帳 延徳2年 = 福徳元年 → 関東、甲斐、奥州。 大飢饉と前年の将軍足利義政死去
福徳3年 「神武以来?」の豊作が年号のためと大騒ぎで「福徳の三年目」という諺に、 思いがけず幸運に巡り合うという意味。 福徳の神は3年目にやってくると解説する辞書は曲解。 「福徳の百年目」は原義を知らない濫造。
[398] 甲子夜話 : 未刊 第1, 松浦静山, 坂田勝 校訂, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2933205/1/80 (要登録)
[417] 集古会誌, 集古会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1588966/1/50?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[418] 大日本金石史 第3巻, 木崎愛吉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/960210/1/80?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3
[38] 青梅 : 定本市史, 青梅市史編さん実行委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022484/1/130 (要登録) /311, /326
福徳2 = 延徳2、文正説も
[41] 八王子市史 下巻, 八王子市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022498/1/735 (要登録)
福徳2 = 1467, 1491
[46] 大宮市史 第2巻 (古代・中世編), 大宮市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2989704/1/296 (要登録) /318
[60] 酒々井町史 通史編 上巻, 酒々井町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644122/1/119 (要登録)
[61] 騎西町史 考古資料編 2 別冊, [騎西町教育委員会]社会教育課郷土史料係, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644935/1/15 (要登録)
[67] 板碑入門, 小沢国平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78 (要登録)
[40] 立川市史研究 第3冊, 立川市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2989350/1/39 (要登録)
[42] 立川市史 上巻, 立川市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9640331/1/376 (要登録)
[786] Xユーザーの会鳥ねこさん: 「あけましておめでとうございます。 旧年中は、いいねやコメントをいただき、ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。 私年号「福徳」の板碑です。 自分の身近に感じる場所にあります。 この一年が「福徳」に包まれますように…。 https://t.co/Sh5oh7iGEC」 / X, , https://x.com/kaichouneko1/status/1476989413096050689/photo/1
[341] 諏訪文書に「福徳元年十二月一日」が2通あります。 >>340
[342] 信濃史料はこれを延徳2年に排列していますが、 延徳2年12月にも同様の文書があり不審だと注記しています。 >>340
[343] 延徳元年、延徳3年、延徳4年にもあるので、前後にも収まらず謎です。
更に前後、本書収録範囲の応仁2年から明応2年まで、毎年すべて埋まっていて、どこにも福徳元年が入る余地がありません。
[348] 延徳の4組はすべて当社神幸記、福徳だけ諏訪文書で出典が違うのも関係ありそうです (どちらも諏訪家所蔵)。延徳の4組には干支年があり福徳にはまったくないのも不思議で、 我々には都合が悪い。
[349] 元号を改めて当社神幸記に収録したということでもなさそうです。 日付がどれとも一致していません。延徳元年が一番近いですが...
[350]
平成時代の歴史研究者渡部恵美子は、
干支年がなく福徳元年がいつに当たるか定かでないものの、
信濃史料が
「
[281] 日本国山梨県塩山市竹森 玉宮神社旧蔵大般若経 (野尻倹之助所蔵) について、 の塩山市市史編さん係と山梨県の県史編さん中世部会の合同調査によると、
がありました。 >>279
[134] 甲斐近世史の研究 上, 磯貝正義, 村上直 共編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537166/1/32 (要登録)
[295] 日本国山梨県甲府市太田町の一蓮寺の 一蓮寺過去帳 は、 文安頃までに一旦成立し、その後追記されていったとされます。
[1588] 多くの日付が連続的に記載され、しかもほぼ実時間での追記と考えられ、非常に貴重な史料です。
[1589] これによると、戌年は延徳2年、子年は延徳4年が使われていますが、その間の亥年は1月4日から6月10日までは福徳2年辛亥、 7月6日から10月8日までが延徳3年辛亥となっています。例外はありません。
[1590] つまり、戌年12月17日から亥年1月4日までの間に福徳へと切り替わり、 亥年6月10日から亥年7月6日までの間に延徳へと復帰したことがわかります。
[280]
常在寺所蔵聖教に福徳2年辛亥5月16日の写本奥書があります。
[1447]
日国覚書
は、
勝山記
の重要な原資料とみられる同時代記録です。
[91] 私年号の正享が同時期に伝えられたこと、 足利義政、足利義尚の死去が改元理由と伝えられたことがわかります。 >>80
[810] 日本私年号の研究は、妙法寺記の紀年の混乱から、 これは福徳元年 = 延徳元年とする説 (第一類) だと解釈しました。 >>464
[1455] 日国覚書 の存在が平成時代初期に報告され、 現存勝山記成立までの編纂作業で混乱した年紀を容易に信用してはいけないことが明らかになりました。
大機翁曰、昆陽漫録ニ載ス鎌倉鶴岡八幡宮座不冷所着到ノ軸ニ福徳二年四月一日ト彫テアリ、
同所光明寺ニ祈禱ノ額ノ裏ニ福徳二年辛亥九月吉日トアル由鎌倉志出、
一条過去帳ニ延徳二年十二月十七日板垣善満逆修、福徳二年正月四日同五月一日トアリ、延徳三年七月六日、八月十三日同九月十六日ト記セリ同六月十日云云、按ニ庚戌十二月ノ末ニ改元、但シ復二延徳
一ニ 六月十日ノ後七月六日迄ノ間ナリ
[369] 一条過去帳は一蓮寺過去帳のこと (>>295)。
[1578] 福徳という年の表現は、大別して3種類が知られています。
[1582] 福徳私年号とえびすの福徳元年は、どちらも元号年の形をしていますが、 福徳私年号が同時代的な日付の表記に使われたのに対し、 えびすの福徳元年は説話的過去世界の時代記述に使われています。 用例のみられる時代と地域も重なりません。
[1583] 両者の関係は、これまでほとんど研究されていません。一方が他方に転じた可能性も、 まったく独立に発生した可能性もあり、容易に結論を出せません。ただ、 中世後期に実用された福徳私年号をきっかけに、 それと同時期または直後にえびすの福徳元年の説話が生じたのだとすると、 恵比寿様は同世代またはほんの数世代前の近過去に生まれた人と認識されていたことになりますが、 それでいいのか疑問はあります。
[1584] 福徳私年号と福徳の三年目は、近世の学説で結び付けられました。 福徳3年の頃の世情が福徳の三年目という語句を生んだとするものです。 よく使われていたとされる地域は近いようですが、 福徳の三年目が私年号福徳の時代に使われたかは不明で、 確実に用例が見える時代とは少し開きがあります。
[1585] 両者の関係は私年号研究の初期に提唱されたものの、近年はほとんど言及されることもなく、 議論はあまり深まっていません。 福徳の三年目が福徳年間またはその直後に存在したという物証はなく、 福徳3年の状況と福徳の三年目という言葉の意味が一致しているのかどうかも不明瞭、 他の元号と違って福徳だけが何百年も慣用句として語り継がれるものなのかも腑に落ちません。
[1586] 現時点では三者を積極的に統合して考えるべきといえるだけの根拠はありませんが、 かといってまったく別個に発生したと断定する材料も不足しています。 えびすの福徳元年や福徳の三年目の用例や伝承の調査が進展し、 中世末期から近世初期の状況が明確になれば、これらの関係もはっきりさせられることでしょう。 それまでは取り敢えず別種と見なしておくのが良いでしょう。
[1638] 福徳元年をとする第二類説は、 の異年号考が初めて提唱 (>>373) して以来、 通説となっています。多数の用例が、直接または間接に当説を支持し、 その多くが当説でなければ矛盾を生じます。 よって史実として同時代的に実在したと断定できるものです。
[1683] 福徳元年をとする第三類説は、 同時代記録の可能性もある蜷川氏所蔵年代記が「福徳辛亥」 と書いたものが福徳元年辛亥を意味するとしたら、 現在に伝わる最古となります。明確に学説として議論された最古の記録は近世後期の 偽年号考ですが、甲種本 (旧版) では否定的に扱い (>>680)、 乙種本 (新版) では複数実在したうちの1種と主張しています (>>722)。
[1701] 近世の辞典類等は多くこれを無視してきましたが、 板碑などの用例が多いことから日本私年号の研究が第二類と区別し、以後の研究者もこれを踏襲しています。
[1684] 第二類には劣るものの少なくない数の用例が、直接または間接に当説を支持し、 その多くが当説でなければ矛盾を生じます。 よって史実として同時代的に実在したと断定できるものです。
[1685] 福徳元年をとする第四類説は、 近世後期の偽年号考が最古の記録ですが、甲種本 (旧版) では否定的に扱い (>>687)、 乙種本 (新版) では複数実在したうちの1種と主張しています (>>750)。
[1686] 第四類に該当するのは本土寺過去帳の一部の用例のみで、 しかも問題を含んでいます (>>1611)。外形的に第四類に当てはまる用例が実在するのは確かとしても、 それが同時代的に実用されたかどうかは疑問が残るところです。仮に同時代的に実在したとしても、 限られた環境で特殊な状況に限って用いられたに過ぎず、広く普及したものではなかったと思われます。
[1687] 福徳元年をとする第一類説は、 昭和9年に久保常晴が妙法寺記の記事から立てたものです。 しかしながら、この時点では他に用例が知られていないこと、 妙法寺記は紀年の錯乱があり、後に出現した同時代的原資料日国覚書と矛盾すること (>>1455) から、これが同時代的根拠のある記述かどうかには現在では疑問が持たれています。
[1688] その後の調査で第一類に該当する金石用例が報告されており (>>178 >>181 >>1019)、 その銘文には疑問も残されているものの、同時代的に実在した可能性が残ります。 福徳私年号の成立過程を探る上でも興味が持たれる用例で、調査研究の進展が期待されます。
[1769] 福徳3年とされる用例がいくつかあります。
[1777] >>237 以外は辛亥年であり、たしかに福徳3年だとすれば第一類に属します。
[1778] いずれも銘文の読みに問題を抱えており、現時点では同時代的に福徳3年が用いられたことがあったのかどうか、 断定することができません。福徳2年との圧倒的な用例数の差を鑑みれば、 福徳2年ほど広く用いられなかったことは確実と考えられます。
[1689] 福徳を応仁の乱 ( - ) の頃とする説は、「頃」の幅の解釈次第で延徳年間 ( - ) まで含められないこともないものの (いずれも後土御門天皇の治世)、 20年の開きがあります。
[1694] 応仁説は、後土御門天皇の福徳用例とされるものの存在から推測されたものです。 この説の初出と考えられる 昆陽漫録 は、明確に年代を特定したものではなく、応仁の乱以来の乱世で、というくらいのニュアンスだった可能性もありますが、 後続の 類聚名物考 は具体的に比定年を決定しています。
[1695] しかしながら、比定の確実な根拠は提示されていませんし、用例の干支年も無視されています。 応仁・文明年間に比定する説は成立し得ないと考えられます。
[1696] 福徳元年をとする第五類説は、 明治41年の国史大辞典 以来他説と併記されてきたものです。
[1697] 当初何を根拠に記載されたものかは現在の處不明ですが、 昭和18年国史辞典は宇那弥神社棟札 (>>945) を挙げています。辞典類以外の文正元年説は現在知られている中では (>>1656) まで下ってしまいますが、おそらくそれ以前にも行われたのでしょう。
[1698] 宇那弥神社棟札 (>>945) は、 近世中期に「福徳元年丙戌」と読まれたものの、当時から判読が難しかったらしく、 平成の調査では判読不能とされています。従って、 当用例を唯一の根拠とする第五類の実在性には慎重にならざるを得ません。 仮に実在するとしても、わずか1例であり、単純な十干の誤記の可能性を否定できません。
[1699] なお久保常晴は、 昭和9年に文正元年丙戌とのいずれが妥当か実見による確認が必要と指摘していました (>>631) が、昭和40年には延徳2年 (= 第二類の誤記) とみるのが適切だと論じています (>>489)。
[1700] 昭和時代中期以後の辞典類等は第五類説を掲げなくなっているようです。
[1703] 福徳元年丁亥は、本土寺過去帳に1例だけ見られます (>>940)。 福徳元年辛亥の誤りと見なして第三類の特殊例と考えるのが通説的見解のようで、 これを根拠に比定年を決める説は見当たりません。
[1779] 福徳4年、福徳14年の用例は、本土寺過去帳にのみありますが、 同時代的に用いられたことがあったのかどうか、慎重にならざるを得ません (>>1611, >>1612)。
[1708] 福徳の利用期間を、連続して記録された史料で見ると、次の通りです。
[1712] 板碑の日付は建立日とは限らず前後することも考えられ、 取り扱いには注意を要するところですが、その日付の範囲は次の通りです。
[1727] 板碑以外の同時代的史料も干支あるものはおおむね亥年に属しますが、例外的に戌年のものがいくつかあります。
[1734] これらは孤立的な事例であり、何らかの誤りを含む可能性もありますし、 12月の板碑などは亥年になってから遡って使われた可能性があります (>>133)。
[1735] 一方で初期的な流布である可能性も一応考えられます。上野国には2年戌が2例あり、 うち1つは判読が不明瞭という難点はあるものの、偶然の誤りとは言い切れません。 福徳2年庚戌 (第一類) は延徳と同じ数え方であり、 この場合福徳が延徳の何らかの理由で生じた別名だった可能性が出てきます。 ただし、そうだとしてもその後半年間の空白を経て別地域で再出現したとき元年が変わっていることに説明が必要となります。 上野国では2年辛亥の用例もあり (>>363)、 2年庚戌7月は干支誤記の可能性を排除しきれません。
[1736] 甲斐国は亥年6月-7月より後にほとんど福徳用例がありませんが、 亥年11月に1例だけ板碑があります (>>326)。
[1737] 以上、不確定要素が多いものの、主な動きを簡潔にまとめると、
... といった様子がみえます。
... と研究の進展に伴い徐々に解像度が向上し、 用例の時空間的分布から具体的に改元情報の流布の経路を議論できる段階まで到達しました。
[1743] 用例の多くの原所在地は関東で、山梨県, 長野県, 福島県, 宮城県にも分布します。 孤立して滋賀県にも文書1点がありますが、どこで書かれたものかは不明です。
[1744] 武蔵国の板碑用例が突出して多いですが、板碑以外の用例数で見ると他地域と極端な差はありません。 武蔵型板碑という媒体の存在が主因とも考えられ、真の分布の中心や発祥地なのかどうかは慎重に考える必要があります。
[1780] 昭和時代の久保常晴は、 用例の時空間的分布を分析し、 甲斐 (第一類) → 関東 (第二類) → 関東東部 (第三類) → 下総 (第四類) と伝播、変質したと考えました。 具体的には甲州街道を東遷して伝えられたと考えました。
[1781] この説は、甲斐国に早期の用例や改元記録が見られ、信濃国、関東へと進んでいく用例の関係性に立脚しています。 他の中世東国私年号の観察も含め、甲斐国が発生地と推定しています。
[1782] ただ、この説の起点である甲斐国の妙法寺記は現在の研究では同時代記録そのものではないと考えられていること、 同書の紀年の錯乱を踏まえるとこれを最も先行する時期の記事と認定することには疑問もあること、 は差し引いて訂正する必要があります。
[1783] 昭和時代後期から平成時代の千々和到は、 公年号と誤認されて福徳などの私年号が伝播されたと考えましたが、 宗教系の史料に用例が偏在することから、 寺社間の改元伝達経路で広まったと推測しました。
[1784] 更に、武蔵国の第二類と第三類の用例の地域的な偏りは、 複数の改元伝達ルートの存在を示唆すると指摘しました。 (>>278)
[1785] 令和時代に深澤靖幸は、 板碑の型式により推定される工房の違いから、 旧利根川の付近を境界とする異なる改元伝達経路が存在したことを計量的に実証しました。
[1786] 研究の進展によって地理的な改元伝達経路は明瞭になってきましたが、 その意味すること (地域同士の結合や勢力圏の関係性、 寺社の情報伝達と武家の伝達経路の違いなど) の解明と分析は今後の課題といえます。
[1745] 一蓮寺過去帳では、特定の時期は完全に福徳のみが使われており、 延徳との併用や使い分けは見られません。
[1746] 武蔵国の板碑は、福徳と延徳が混在していて完全な切り替わりとはなっていないものの、 各工房とも一定期間は福徳を中心とする傾向が見られ、 個々の板碑の銘文中での併記は一切見られません。
[1747] 本土寺過去帳 と 蜷川氏所蔵年代記 では、福徳が前後の公年号と同じような元号の1つとして、 直列に利用されていて、併記や混用のような形とはなっていません。 これらの編者は福徳を特別な元号と理解していなかったと思われます。
[1748] 一方で 赤浜妙法寺過去帳 (>>816) では、一部の写本のみ延徳の傍注として福徳が記されており、 公年号の体系とは異なる扱いになっています。 妙法寺記 でも公年号とは別扱いになっています。 これらの編者は福徳を通常の元号とは異なると理解していたようです。
... と書いています。
[1756]
この記事の成立過程は検討を要しますし、内容にも問題が多々あります。
[1757] ともあれ、この記事の筆者は何らかの特殊な元号利用があったと認識していたのではなく、 通常の公年号の改元が異常な頻度で繰り返されていたと認識していたように読めます。
[1758] 諸尊表白抄写本奥書 (>>264) は、 福徳から延徳へと訂正が入っています。訂正は別人によるものと推定されています >>337。 筆者の意図はともかく、訂正者はこれを誤記か何かの訂正を要するものと認識し、 「正しい」公年号に改めたことになります。
[1760] この他の多くの用例において、福徳と他の元号との併記や混在など特殊な利用法は見られませんし、 通常の元号と異なる特別な表記なども見られません。 仏教関連の媒体が多いものの、一般の文書もあり、 特定の階層・勢力や文脈に著しく偏った利用とは思われません。 あたかも通常の公年号のように利用されています。
[1761] 以上を総合すると、同時代的には福徳は他の公年号と同じように改元された通常の元号と認識され利用されていたものの、 その後通常の公年号とは異なる特別な扱いを要するものと認識されるに至ったように感じられます。
[1787] 現存用例は、 板碑、宝篋印塔、過去帳、経典写本などの仏教色ある媒体に多く見られます。 諏訪神社文書、香取文書、神社棟札のような神社系の媒体も見られますが、 神社所蔵の仏教経典や板碑もあり、仏教と神道を厳密に区別することはできません。
[1788] この他に、宗教的要素が皆無の古河公方発給文書にも用例があります。 香取文書の用例も神社関係とはいいつつ内容は領地経営に関係する非宗教的な内容です。
[1789] これらの用例の利用者 (筆者) は、大部分が宗教関係者と思われます。 鶴岡八幡宮や香取神宮や日光山のような大寺院の関係と思われるものもありますが、 板碑などは地元に密着した寺社や地方を巡回する僧侶、あるいは地元の有力者が関与したと考えられます。
[1790] 平成時代の千々和到は、民間信仰である月待信仰の板碑の用例に着目し、 村落の農民にまで使用者が広がっていると説明しています。 (>>85)
[1791] ただし、現存用例の利用者像が当時の利用者層と一致するとは限らないことには注意が必要です。 武家文書の用例は多くありませんが、古河公方すら利用していたのだとすれば、 その勢力圏内の国人などにも広まっていたのではないかと推測できます。
[1792] 一時は後土御門天皇が使用したと考えられ、逸年号説の根拠となりました (>>1650) が、 地理的にかけ離れており、そこまでの広がりは認められません。
[1793] 仏教系の媒体が多いのは、当時作られ現存する史料が多いからで、 仏教僧によるものが多いのは、当時地方に在住の知識層といえば仏教僧だからとも考えられます。 現存史料の仏教系への偏りから直ちに仏教界での利用が中心、 あるいは仏教界で作られたものと結論付けることはできません。
[1868] 福徳が誰にどのような意図で作られ (あるいは偶発的に発生し)、 誰のどのような意思で拡散され、どのような性格を持って利用されたものか、 といった問題に関して論理的な考察から思いつきのような稚拙な憶測に至るまで、 数多くが公表されてきました。
[1794] 近世初期には単純な誤記を疑う説がありました (>>1649)。 当時は福徳の用例が他に知られていませんでしたから、 単発の誤りを疑ったのは自然なことです。しかし、 3桁もの用例が知られる現在となっては、この説は成立の余地がありません。
[1795]
代始改元説は、
妙法寺記
が記録するものです (>>790)。
京都で王が崩御したとのことで改元があったと、
改元の理由が伝聞形で記述されています。
出典は不明ですが、おそらく当時そのような噂が流布されていたのでしょう。
[1796] 王の崩御とそれに伴う新王の即位によって改元が行われるという代始改元の知識を前提に、 今次もその種の改元が行われたとするのが当説 (噂) の主張と考えられます。 これを聞いた当時の人々、最低でも妙法寺記の素材となった原資料の著者は、 自身の経験に照らしてこれを尤もな話だと受け入れ、記録したと推測されます。
[1797]
しかし、現在知られている史料によれば、これに該当する改元は行われていませんし、
「王」が誰を指すかも不明です。
[1869] 代始改元説自体は成立しませんが、「代始改元を謳った改元デマ」とみれば、 当記事はそれを伝える重要な史料となります。少なくても甲斐国において、 福徳が改元デマの形で拡散された蓋然性は極めて高いといえます。
[2427] >>2408 は、延徳の新年号の評判がよくなかった上に、 延徳2年には「王」こと足利義政が死去し、福︀德や正亨が勝手に作られた、 とする説です。妙法寺記説を引きつつも、「王」死去それ自体ではなく、 公年号の不評も含めた混乱を発生要因と主張しています。
[1798] 逸年号説は、近世中期に提唱されました (>>1650)。 後土御門天皇直筆とされた用例があったことと、 公式の記録にない元号であることの矛盾を解消するために考案されたと思われます。 具体的な比定年説や、 朝廷内部でのみ使われ全国に広まらなかったとする派生説も生じました。 近代以後は他説が支持されフェードアウトしています。
[1799] この系統の説は、当時よりはるかに多くの福徳用例が検出されたこと、 にも関わらず畿内の用例が皆無であることから、成立しがたいと考えられます。 戦乱の時代とはいえ京都の公家の記録も皆無ではなく、 公年号の正式な改元の存在が完全に抜け落ちるような状況ではありません。 直筆用例も、本体はともかく裏書銘文の福徳は後土御門天皇と切り離して考えるべきと思われます。 ただし、宸筆とされる扁額の奥書に福徳が使われたとされることは、 福徳の性格を考える上で無視できません。
[1800] 逸年号説のバリエーションで誤伝説があります。 近世に行われた誤伝説は応仁の乱の頃の誤伝と想定しているので、 何をどう誤ったのか不明で評価不能ですが、 現在の比定年である延徳から1文字置き換えの誤伝なら、 現実味を帯びてきます (>>1735, >>357)。一考の価値はありそうです。
[1801] 後南朝説は、近世後期に提唱されました (>>782)。 確固たる物証があってのことではなく、 他の後南朝の元号とされるものと福徳や弥勒を同類と考えての類推でした。 近代になって否定されフェードアウトしています。
[1802]
後南朝の東走の伝承はあるものの、史実性は低いとされます。
[1803] 足利成氏系譜説は、近世後期に提唱されました (>>665)。 元来は足利成氏系関東の延長年号の素地に民間の私年号が発達したとの間接影響説でした。
[1870]
昭和時代の久保常晴はこれを発展させ、
足利成氏系関東の延長年号をうけて足利成氏の影響下の者が使った室町時代(狭義)の私年号が出現し、
その地盤を受け継ぎつつ民間で福徳など戦国時代の私年号が作られたと考えました。
[1805]
これらに対して、より積極的に足利成氏と結びつける主張もあります。
明治時代の片岡弥吉は、
福徳などを足利氏の僭号と見なしました。
[1806] 実は物証は皆無ではありません。 古河公方発給とされる文書で福徳を使ったものがあります (>>351, >>352)。 平成時代の説で、 ここに足利成氏の意図を読み解こうとするものがあります (>>355)。 昭和時代後期には、 古河公方勢力圏と福徳の利用を関連付けて理解しようとした研究があります (>>1538)。
[1807] 要するに足利成氏 (ないし古河公方) と福徳の関係論には、
... の二通りがあります。ところが足利成氏という名前ばかりが前に出て、 両者の区別が曖昧にされがちなきらいがあります。
[1810] 間接影響説については、多く論じられてはいるものの、印象論や地理的一致の状況証拠に留まっている感があります。 何の影響もないとは考えづらいので、具体論、例えば支配境界と改元伝達の関係の検討などの深化が期待されます。
[1811] 直接関与説については、確かに古河公方発給文書に福徳用例がみられるものの、 用例数の全体からみればごくわずかであり、初出というわけでもなく、 内容も変哲のない一般の文書であることに問題があります。 改元趣旨の表明など主体性を裏付ける文献ではありませんし、 用例は古河公方の勢力圏を遥かに超えて広がっています。 積極性を表す史料を提示し、 勢力圏外への拡散の原理を説明できない限り、当説の成立は難しいと思われます。
[1812]
昭和時代後半には、私年号独立権力説が提起されました。具体的な年号を特定した論ではありませんが、
用例数最多で知名度も高い福徳はその代表例と想定されていたはずです。
天皇と異なる権力が天皇の元号を拒否する独立宣言的な性格を私年号が持つ、
などとと主張しました。
当時の史学界の民衆や地域・地方に光を当てようとする風潮や、
人文系の職業研究者に大きな勢力を持った元号法制化反対運動のような反政府的風潮を背景としています。
[1813] こうした議論は、特定の史料に依拠して行われたものではない抽象的なものであり、 例えばどこの誰がどの元号を建てたのかも示されていません。 福徳について当てはめてみると、天皇の元号を拒否し、 その意思を東国の全域に反映させられる能力を持った政治勢力は存在していません。 その規模で自律的に統一された行動を行い得る政治的民衆運動組織も存在しません。
[1814] 私年号研究者らは福徳の用例から再現される利用形態とかけ離れた社会像を描くこうした類の説に否定的です。 福徳のようにわずか1年であっさりと公年号に復帰する 「独立宣言」の在り方とその主体を合理的に説明できない限り、 当説は成立し得ないと考えられます。
[1815]
地域年号説は、平成時代に提唱されたもので、
京都の年号の他に東国の年号があったとし、
東国人は両者を別世界と考えていたと説きます。
福徳は、東国の公年号 (地域年号) でしたが、
やがて忘れられ、妙法寺記では京都の改元と記録されたのだといいます。
その証拠の1つが、妙法寺記が福徳や正京を「京都の」改元と記録していることで、
それは京都の年号 / 東国の年号の概念を持っていた故の発想だとします。
[1816]
地域年号説の枠組みで東国の元号体制を示したのが三島神社制定説です。
平成時代に地域年号説と同じ研究グループが主張しています。
それによれば、三島神社は年号の攘災招福機能を利用し年号改定権を行使しており、
弥勒や福徳のような東国の年号で弥勒の世、福徳の世など至福千年の世界を招来せんとし、
三島暦の頒布を通じて東国に伝達されたのだとされます。
[1817]
三島神社を建元者とするのは、命禄について三島暦に関係するとも読める記録が残されることによります。
それを福徳や他の中世東国私年号にも対象を拡大するものですが、
命禄の解釈自体にも問題がある
... といった根幹に関わる疑問を抱えています。さらに、地域年号モデル自体にも、
... といった問題があります。
[1825]
土一揆代償説は、
昭和時代に久保常晴が論じたものです。
それによれば、民衆の団結力が強い地域では土一揆などで抑圧を跳ね返すことができたものの、
東国では庶民の力が弱く、改元の噂を信じて消極的な為政者への反抗として、
密かに年号を変えることしかできなかった、とします。
(>>513,
[1826] この説は、東国に私年号が集中し畿内などに見られないことを説明しようと試みたものと考えられます。 ただ、代始改元の噂を信じることがなぜ為政者への反抗たり得るのか、 板碑に公然と年号を刻むことが密かな反抗といえるのか、 といった根本的な疑問があります。そもそも土一揆と私年号に因果を見出すことは困難といえます。
[1827] 仏教僧建元説は、 仏僧が創作したと考えるものです。 現存用例の主要な利用者層が仏教系であることを主な根拠としており、 近世後期以来、広く受け入れられています。
[1828] 他の私年号、例えば弥勒ではその仏教的元号名が根拠に挙げられますが、 福徳に対しては特別に肯定する材料も、否定する材料もありません。 具体的にどこの誰なのか、が特定されないことには議論のしようがありません。 なぜ、については歳運転換論や改元待望論、呪術的私年号説などが該当しますし、 他の説にも可能性はありそうです。
[1829]
陰陽道説は、
陰陽道関係者が関与したと考えるものです。
福徳や他の私年号の元号名の語感に陰陽道的要素を感じるとしています。
[1830] 平成時代に可能性として提示されたものですが、感覚以外の物証が提示されているわけではありません。 可能性としては否定できるものではありませんが、何らかの根拠がないことには議論のしようがありません。
[1831] 天災・戦乱からの歳運転換を私年号/改元の目的とする理解は、 公年号の災異改元を基礎としており、近世から現在に至るまで、 何らかの形で通説的地位を得ています。
[1832]
近世後期の偽年号考乙種本は、
福徳やその他の中世東国私年号が出現する時期の
妙法寺記
に天災・飢饉等の記事が多発することから、
これを転じることが企図され、
僧侶によって私年号が作られたと考えました。
昭和時代の久保常晴もこの路線を踏襲しました。
[1833] 昭和時代の久保常晴は、 天災や戦乱で荒廃した世相に日々直接接している、 地域の精神的指導者層である僧侶らが、 私年号を通じて悲惨な世を変えようと試み私年号を作ったと考えました。
[1834]
平成時代の千々和到は、
天災・戦乱や代替わりなどで改元への期待が民衆の間で高まった時、
僧侶がこの願望を承けて私年号を作り、
民衆が改元伝達の形で (公年号と誤認し) それを受け容れる、
との改元待望モデルを提示しました。
こと福徳については、妙法寺記の改元記事にある「王」の死去なども改元待望の理由となります。
本来なら公年号によって満たされるべき改元待望が満足されないとき、
私年号が普及すると論じました。
[1835] 災異契機論は、公年号の改元理由との整合性が理論的根拠となりますが、 私年号全般に対しても福徳に関しても直接的な物証を持ちません。 改元理由を明記した史料が出現しない限りは状況証拠に留まります。 天災、戦災、飢饉、疫病といった状況はこの時代ありふれていて、 関連付けの方法には恣意性も否めません。 妙法寺記の改元理由と一致しないことも問題です。
[1836] 改元待望論は改元の理由を災異改元に限らないことでこの問題を解決しています。 福徳の場合は妙法寺記に代始改元らしき改元理由の記録があるので、 それで良しとするわけです。もちろんそれは実際の京都の天皇の代始改元ではありませんが、 そうであるとの認識が広まり、 改元がもっともらしいと受け入れられる環境が醸成されたこと自体が私年号の広まった理由と見ます。 筋は通っており、非常に有力な解釈といえます。
[1837] 文盲庶民流伝説は、 年号の重要性を理解しない文盲の庶民によって拡散されたとするものです (>>579)。 ここでの文盲とは必ずしも非識字層に限ったものでなく、 知識・教養を欠いた在野の人々ということでしょう。
[1838] 近世後期に仏教僧建元説と組み合わせて唱えられました。仏教僧が歳運を変えるために発案したとはいえ、 国家の正式な年号の代替品のつもりではなかったのに、一般庶民が見境なく使い始めた、 というシナリオのようです。
[1839] 庶民の行動原理の解釈は違えど、構図は改元待望論とよく似ています。私年号の発案者と利用者を切り離す考え方は、 平成時代に千々和到によって重要性が説かれましたが、既に研究史の初期から提示されていたもので、 昭和時代の久保常晴も多少の考慮はしていました。ただ、久保常晴が地方の寺社などの“地域の指導者” 層の主体的な建元と意識的な利用を強調していたように、昭和時代にはこの考え方は後退していました。
[1841] 改元待望論との本質的な違いは、改元待望論が公年号と誤認された私年号の流布と見るのに対し、 文盲庶民説は公年号の重要性を理解しない人々のある種の積極性を想定するところにあります。 縁起が良ければ公年号のかわりに使っても面白い、という軽いノリで普及したような状況をイメージしたものでしょうか。
[1842] 実際の用例を見ると、大寺院や古河公方のような識字層の知識人が重要な場面で日用しているのであり、 年号の重要性を知らない愚者のような印象論は的外れと言わざるを得ません。
[1843]
巡礼伝播説は、
私年号の伝播に巡礼者が関与したとします。
昭和時代に久保常晴や浅沼徳久によって主張されました。
[1844] 主に他の中世東国私年号が根拠史料とされますが、 福徳にも順礼にかかる用例 (>>94) が見られますし、その他の福徳用例の所在地にも順礼との関連を主張し得る寺社があります。
[1845]
これに対して平成時代の佐々木茂は、
私年号の伝播の速さを巡礼者の移動では説明できないとします。加えて、
福徳の改元理由を記した妙法寺記や他の用例には、
交通や商業への関心が窺えるものがあり、
所在地が交通の要衝に位置することを指摘しています。
[1846] 用例の広域的で宗派を問わず武家まで含めた分布は順礼だけで説明するのは難しく、 順礼によって伝播される事例があったとしても、それが主体ではないとみるのが妥当性が高いと感じられます。
[1847] 呪術的私年号説は、 平成時代に提唱されたもので、 私年号の使用を積極的な呪術行為と考えるものです。 福徳をはじめとする私年号の用例は、公年号の用例と近接するため、 公年号を誤認したとは考えられず、 私年号と知った上で、呪術目的で意図的に使い分けられたと主張しています。 (>>355, >>328)
[1848]
呪術とまではいわずとも、招福のために意図的に選択した (利用者に選択の余地があった)
との主張は他にも散発的に見られます (>>409, 中山太郎の遷禍招福説
[1849] 改元待望論が元号や改元一般の呪術的性格を社会に共有された (民衆の意識に埋め込まれた) 装置と解釈して総体的な「呪術」を考えるのに対して、 呪術的私年号説は1つ1つの私年号の用例に使用者の呪術的意図を見出そうと試みます。
[1850] 当説は、他の私年号に対するものも含め、呪術性の認定基準が強引であったり、 根拠が明確に提示されていなかったり、といった課題を抱えています。 特殊な祈祷の願文などの呪術的意図の明確な史料で使われているわけでもなければ、 宗派などに共通性がみられるわけでもありません。 福徳の用例は多数見られますが、そのいずれも他の公年号と同じような態様で利用されており、 私年号であるという事実以外の特殊性が見られません。 仮に一部の用例にだけ特別な説明を与えることが可能だとしても、 それを一般化するのは難しいと思われます。
[1851]
公年号からの1字置き換え説は、
公年号の攘災招福の呪術性を高める操作としてめでたい福の字に置き換え、
私年号を作ったとするもので、
昭和時代末期に千々和到が提唱しました。
千々和到は多くの私年号が同時期の公年号の1字置き換えの関係にあるという観察的事実を、
私年号創作の方法論に発展させようとしました。福徳はその代表例となります。
[1852]
しかし、創作者による記録がない限り創作の意図は実証不能とは千々和到自身が主張するところであり、
この説が福徳について確実に言えるのは、
同時期の延徳の延がよりめでたく感じる福に置き換えられている、
という外形的な事実だけです。それ以上の作者の意図は、推測はできても、
それを肯定するのも否定するのも困難です。
[1853] 縁起物風習説は、元号の一字を縁起の良い文字に変えて使う風習があったと主張するものですが (>>387)、 1字置き換え説を雑に要約した派生説と思われます。オリジナルの千々和到説は制作者と使用者を明確に区別しており、 置き換えを行った当事者はあくまで制作者だけですが、 風習説は使用者が個々に置き換えるという理解のようにみえますし (従って呪術的私年号説の一種ともいえます。)、 延徳から (1年ずれた) 福徳を新たに作るのではなく、 延徳自体を福徳という別名で表記するという話のようにしか読めません。 そうだとすると福徳の用例の実態と乖離しています。
[1854] 福神信仰説は、福徳の元号名を福の神の信仰と絡めて説明するものです。 元号名から直接に想像されるものですが、物証があるわけではないため、 肯定も否定も困難です。
[1855]
昭和時代の久保常晴は、私年号には理念的な公年号とは違って庶民の生活を反映した直接的な文字が使われるとし、
福は戦乱の世で自助努力の限界を感じた庶民が福の神の信仰に頼ったものと解釈しています。
徳は公年号的な儒学の徳ではなく、損得の得と理解されたものと解釈しています。
[1856]
令和時代の新聞記事は、福は福神、徳は有徳者や徳政令にみられるような、
経済的な豊かさを表す文字だと解説しています。 >>232
[1857] 福徳を福徳の三年目と結びつける説は、近世以来行われています (>>1584)。
[1858]
ミロク信仰説は、
昭和時代後期に出現したもので、
福徳や弥勒のような私年号をミロク信仰に関係するものと主張します。
更に、ミロク信仰とは農民の共産コミューンの夢だと説きます。
この説は、弥勒私年号から他の私年号に類推し、
昭和時代のマルクス主義史学的解釈を施したものと考えられます。
[1859] ただし、共産コミューンは極端だとしても、 私年号の代表である福徳と弥勒を同じ理論で解釈しようとする試みが歴史上繰り返しみられる (しかもしばしば弥勒側の解釈が採用される) ことは、受容史・研究史的観点から注意されます。
[1860] 流行正月説は、福徳や弥勒は流行正月 (取越正月) の一種だとする説です。 明治時代に提唱されました (>>193)。そもそも弥勒十年が宝暦10年と結び付けられ、 流行正月が行われた近世の風習に端を発したものですが、 弥勒一般と流行正月一般に拡大解釈され、 さらに私年号一般と流行正月一般にまで拡大されました。 この考え方は、民俗学系のミロク信仰研究の方面でその後も (根拠なく) 信じられていることがあります。
[1861] 確かにこれらは一種の年の改めという共通点はあるのですが、 流行正月は異例の正月儀礼を実施する行事であるのに対し、 福徳 (や弥勒私年号) に正月儀礼が伴ったとする記録はありません。 福徳 (や弥勒私年号) は日付表記を改めますが、 流行正月で日付表記を変化させたとする記録はありません。 両者の関係性を主張するのであれば、どのような性質が共通しており、 何の影響でどのようにして表面的形態が変化したのかを説く必要があるでしょうが、 そのような言説は見当たりません。
[1862] 多くの論者は、福徳やその他の私年号がいかにして生み出されたかを論じても、 なぜそれが使われなくなったかを論じていません。用例によれば、福徳が使われたのは約1年間で、 その後これといった混乱もなく公年号の延徳に復帰しています。 突発的な一過性の現象というには用例数が多く、長く持続していますから、 使用を停止するべき何らかの事情が生じたと考えざるを得ません。
[1863] 近世後期の偽年号考は、 飢饉からの歳運転換のために福徳が作られたと考えたので、 豊作でこれが満たされ、自然に停止されたと主張しました (>>746)。
[1864] この成就終了説は、その後の私年号研究者にも引き継がれています。
[1865]
昭和時代の久保常晴は、発生理由を失った時 = 災害が過ぎ去った時、
私年号から公年号に復すると論じています。
[1866]
平成時代の千々和到は、改元待望は災異改元の除災招福効果を期待しており、
私年号を継続使用することでなく、改元されたという情報にこそ価値があったと考え、
長期間持続しないことを説明しようとしました。
[1867] 令和時代の深澤靖幸は、用例の計量的分析を通じて、 ある時期に福徳への改元が誤りだったとの情報が新たに流布され、 やや時間差がありながらもそれが拡散し、終息に至ったと考えました。 (>>130)
[1871] 訂正情報がいかなる形で流布されたかは、未だほとんど議論がありません。 武蔵国方面の公年号への復帰は11月、12月の頃とされますから、翌年の暦書によって正式な年号を知った可能性が考えられます。
[1649]
近世初期成立の
新編鎌倉志
は、
鎌倉光明寺勅額用例について、
不明な元号であり誤刻か、
と記載していました。
[1650]
近世中期の
昆陽漫録
は、
鎌倉光明寺勅額用例と鶴岡八幡宮用例から、
応仁の乱の混乱に伴う逸年号説を唱えました。
[373]
の異年号考
は、
昆陽漫録
説に賛同しました。
干支年より、福徳元年を延徳2年に比定しました。
未刊甲子夜話 第一 巻之七
【一四】 水戸御撰鎌倉志、光明寺ノ条ニ、寺寶勅額二枚、 一枚ハ 後土御門天皇宸筆、祈祷ノ二字ナリ、裏ニ福徳二年 辛亥九月吉日トアリ、祈祷堂ノ額ナリ、福徳ノ年号不審、 恐ハ誤彫
アヤマリエリ タル歟。善筑曰、コノ頃
ハ、何 後士御門ノ 御時ヲ云 イカ ナル故カ、東国別ニ年ノ 偽号有テ是ヲ用ユ、福徳ハ迺東国ノ偽号、其元年ハ正ニ延 徳二年庚戍ニ当ル、然レバ福徳二年辛亥ハ、正ニ延徳三年 辛亥ニシテ、後土御門帝即位廿七年トス、然レバ筑カ云ケ ル事誣ナラズ、筑何ニ拠ル所カ、又水戸御撰ハ、其頃ハ未 ダ及バザル所有シカ。又偽号ニ弥勒ト云アリ、元年ハ丙寅ニシテ、永正三年丙寅 トス、後柏原ノ朝、又食禄ト云アリ、元年ハ庚子ニシテ、 天文九年庚子ナリ、後奈良ノ朝、サレバ皆足利権柄ノ間、 東方ノ偽号ノミ。
予因テ云フ、世ニ万歳ト呼デ、 三河ノ農夫烏帽素袍ヲ着テ 舞フアリ、歌詞ニ弥勒十年辰ノ歳ト唱フ、是マサシク弥勒 十年ハ偽号ノ謂ナリ、サレドモ弥勒元年ハ永正三年丙寅ニ シテ、十年ハ永正十二年乙亥ナリ、辰歳ニ非ズ、若クハ予 ガ万歳ノ詞ヲ誤聴セシ乎。
[400] 文化元年序の 異年号考は鎌倉光明寺額裏書用例を紹介していました。 昆陽漫録の説を引いていました。 >>664
[665]
中山信名の偽年号考は、
関東の延長年号を素地に、ついには民間で偽年号というものが生じたとして、
福徳を説明しています。
>>443
[782]
江戸時代の水戸学者小山田与清と太田元貞は、
福徳を含む中世私年号を後南朝のものと考えました。
これは天靖からの類推でした。
>>299
[783]
それに対する明治時代の注釈は、後南朝とは無関係で流行正月の類だと考えました。
>>1053
[192] 川柳獅子頭 3(3), 獅子頭発行所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1511890/1/13 (要登録)
[193] >>192 福徳、弥勒を不時の正月の一種だったとする説。
○武家功名記
ノ 。上嶋氏下島氏ノ 支流の系圖を載のせ たる條に。天靖元年としるして。分註に北朝は嘉吉三年と書たり。此天靖といへる南朝の年號は。をさ 〱きこえざるものから。今吉野十津川わたりにて。長祿二年高福院の弑 せられたまひしまでを。後南といひつたへたれば。なほその頃まで年號を 建られしにやありけん。後南とは後の南朝といへる心なるべし。また諸國 くに〱 に三四百年ばかりのさまなる墓碑殘りて。彌勒某年。福徳某年などしるせし があり。近 キ 頃下總ノ 國野田の里にて。地中より尼ノ 妙心といへるが墓碑をほり出して。彌勒二年三月二十五日と彫 ゑり たりし。など𛀕もふに。南朝の餘黨諸所 ところ〱 にかくれすみけるが。なほ御世の年號を書んをねたくおもひなして。かくはものせしわざと見ゆ。陶淵明が甲子のみ書し跡にもな𛁚゙へつべくて。 いとかたほにもまめしき心ばへなりやと。太田元貞がものがたりき
[1053] 頭注
彌勒福德の年
號は關東及甲 州奧州等皆同 時に用ひたり 凶災の頻りに 行はるゝとき に私に此號を 立て年を改め しものにて後 の流行正月に 同しかるへし 遺臣の所爲に はあらぬなり 蜀山人の假名 世説にも彌勒 の年號の考あ り
[2399] 明治時代初期の書籍は、 足利氏が正朔を乱したとし、
... の3つが知られているとしています。 >>2403
[441] 日蓮宗宗学全書 第19巻 (史伝旧記部 第2), 立正大学日蓮教学研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2967870/1/141?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[2406] の書籍は、 次のように述べています。 >>294
[2426]
>>2412 は妙法寺記と別の情報源がありそうな書き方ですが、実際には
妙法寺記と同内容の繰り返しです。ただ、著者の解釈なのか、
少し細部が違っています。
[382] 刀剣刀装鑑定辞典, 清水孝教, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1222005/1/271 (要登録)
[440] 山中共古全集 3, 山中笑, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12408511/1/150?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[389] 昭和7年の久保常晴の論文では、福徳は4種あると指摘しています。 >>388
[618] 昭和9年の久保常晴の論文では、 次のように述べています。 >>900
[401]
昭和50年代の
私年号板碑仮年表
の時点では福徳銘板碑が
43 - 1 = 42件知られていました。
[406] >>403 によると >>405 の筆者は縣敏夫。
[407] の多摩石仏の会見学会で、 多摩の板碑以外の石造物で初めて、 伊奈石の五輪塔の「福徳二年」銘を縣敏夫が見出しました。 >>403
[1472] >>403 に白黒写真があります。やや見づらいですが、「
[409] 造塔を指導した僧侶が招福の願いで敢えて採用したのだろうと推測していました。 >>403 その推測自体の根拠は特にありませんが、当時の学説からの類推でしょう。
[410] また、多摩地域の福徳板碑13基(うち3基は当時既に消失) (+ 1 五輪塔) の銘文や所在地などの表があり、 紀年の日付に偏りがあることなどが指摘されています。 >>403
[411] 更に、公年号も含めた同時期の関東地方の板碑等の紀年銘を集め、 多摩地方で当時もっぱら福徳が用いられたことや、 改元伝達の遅れを考慮した上で当時遅延は特に見られないことなどを指摘してます。 >>403
[413] 1年ずれの福徳2年庚戌宝篋印塔が群馬県で報告されたことにも触れて重要性を指摘していますが、 それ以上の考察は特にしていません。 >>403
[81]
千々和到は他の私年号と異なる福徳固有の特徴を5つ指摘しました。
>>80
[92] 福徳の用例は日本私年号の研究に63件、うち板碑が23件ありました。 >>80
[93] 昭和時代後期時点で東国板碑調査団の十年の調査の資料の整理 武蔵国板碑集録, 千々和実編が一部刊行済 途中でしたが、 板碑用例は倍増すると見込まれました。 >>80
[276] 平成時代初期時点で延徳3年、福徳の板碑の武蔵国における分布を図示しましたが、 どちらも武蔵国に満遍なく所在していること、 延徳3年は少数で大多数は福徳であることがわかります。 >>444
[277] また、図には示されていませんが、武蔵の東側には福徳元年が比較的多く、 西側では福徳2年が多く用いられています。 >>444
[278]
同じ延徳3年が福徳の違う年数で使われていることは、
複数の改元伝達ルートの存在を示唆しています。
[325] 平成時代初期の歴史研究者渡部恵美子は、 これらの日本国山梨県域の用例 (>>295 >>280 >>281) から、 甲斐国では延徳3年の1月頃から6月頃まで福徳2年が使われ、 その後7月頃から延徳3年が使われるようになったとしました。 >>492, >>97 (渡部1997)
[328] ところが山梨県には11月8日の板碑も1例あります (>>326)。 渡部恵美子はこれが公年号と私年号が選択的に使用された証拠で、 板碑という場だから呪術的な目的で私年号に使ったのだと説いています。 >>492
[329] しかしそれではなぜ一蓮寺を始め甲斐国一円で呪術が6月に不要になったにも関わらず、 1例の板碑でだけ呪術を「復活」しなければならなかったのかは説明されていません。 当該板碑のある地域で前後にどのような年号が使われたのかも不明です。
[338]
渡部恵美子はまた、
日本国東京都青梅市の
「
[99] 、 日本国東京都府中市の歴史研究者深澤靖幸は、 福徳の板碑を計量的に分析してその伝播の様子を詳細に描き出しました。 >>97
[100] この研究は武蔵地域の板碑を対象としています。 福徳銘の板碑のほとんどは武蔵に分布しているためなのですが >>97、 域外は対象外となることや、板碑以外の金石文や文献なども対象外となることには、 注意が必要です。
[123] この研究では、
といった指摘がありました。 >>97
ふくとく
>>97 の結論の要約 + いくつかの資料のカラー写真
[272] テキスト / 板碑(いたび), https://adeac.jp/miyashiro-lib/text-list/d100010/ht200500
また、西光院の福徳(ふくとく)元年銘阿弥陀三尊種子板碑は、私年号板碑であり、この板碑からこの時期におけるこの付近の領主は古河公方とも考えられている。
[273] >>272 これは中世私年号の一部と足利成氏との関係を指摘した説を誤って拡大解釈しているのでは...?
[447] 板碑入門, 小沢国平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78?keyword=%E7%A6%8F%E5%BE%B3 (要登録)
[432] 古河公方文書展 : 昭和六十三年度特別解説, 埼玉県立文書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13199992/1/15?keyword=%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
福徳=延徳
[4] 日本歴史論究 : 遺物遺習資料と歴史研究 昭史会三十周年記念論文集, 東京教育大学昭史会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2972384/1/99 (要登録)
[5] 東京都文化財調査報告書 第19 (西多摩文化財総合調査報告書 第1分冊), 東京都教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2476882/1/83 (要登録)
[6] 東京都文化財調査報告書 第19 (西多摩文化財総合調査報告書 第1分冊), 東京都教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2476882/1/85 (要登録)
[12] 歴史考古学 (5), 歴史考古学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7951453/1/30 (要登録)
[13] 考古学雑誌 = Journal of the Archaeological Society of Nippon 9(6)(233), 日本考古学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3548248/1/23 (要登録)
[17] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/46 (要登録)
[18] 武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡), 千々和実, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/148 (要登録)
[19] 仏教考古学講座 第五卷, 雄山閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82 (要登録)
[20] 板碑概説, 服部清五郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/384 (要登録)
[31] 群馬県史 資料編 8 (中世 4 金石文), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/192 (要登録)
[32] 群馬県史 資料編 8 (中世 4 金石文), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/379 (要登録)
[63] 神奈川県の歴史, 中丸和伯, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536176/1/66 (要登録)
変革を望む声が広まっていた、その証拠に公年号を拒否して私年号福徳を使っている。
[387] XユーザーのDr. Yusuke YAMASHITA, PhD, Associ.Prof. of CSRさん: 「歴史上、日本には「私年号」「異年号」と言われるものが存在する。これは、 元号の一字を縁起の良い文字に変えて使う、という縁起物的風習であり、 例えば、「延徳」を「福徳」として使用した事例が存在する(※二代古河公方・足利政氏の御書の事例)。 (参照:市村高男『足利成氏の生涯』)」 / X, , https://x.com/YAMASHITAnoID/status/1631488764248993793
[414] 岩手の懸仏, 岩手県立博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12424053/1/40 (要登録)
[421] 武蔵野歴史地理 第1冊, 高橋源一郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1178635/1/203?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
[1616] 福徳は日本の私年号の代表例であり、ほとんどの辞書・年表類に掲載されています。 >>374
[1617] ほとんどは、延徳2年説を掲載しています。ただし、福徳元年の相当年を掲載する表と、 福徳2年の相当年を掲載する表があるので、読解に注意を要します。
[1618] 明治41年国史大辞典から昭和時代中期頃まで、少なからずが延徳2年説の他に文正元年説を記載しています。 それらは異なる2つの同名の私年号であるかのように提示したり、 1つの私年号なのに該当する年が2つあるように提示したりしていますが、 その事情を説明していません。
[1619] 千々和到の系統の表では、元年が延徳元年-4年に相当し、 利用年は、稀にに相当するという、 それだけだとよくわからない記述になっています。 久保常晴の第一類から第四類と、その利用年のほとんどは辛亥年という千々和到の観察に基づくもので、 千々和到の論文には説明がありますが、その文脈を離れた表でこれを汲み取るのは困難でしょう。
[1620] 日本語版ウィキペディアには初期から掲載があります。 >>1615
[1624] いずれも直接的な根拠は不明です。
[1625] おそらく当初は文正・延徳の2説併記のもの、次に延徳のみのもの、次に千々和到系統、 と出典となる表を変えながら、自分の依拠する表が正しいと考えた編集者が上書きを続けていったのでしょう。
[1959] の書籍は、次のように述べています。 >>1956
[1626] の SNS 投稿は、おそらく Wikipedia の表の系統と思われますが、 福神信仰による、という表にない (他出典由来?) の情報が付け足されています。この頃から神仏に祈るようなものが増える、 との解説もありますが、これも根拠不明で、投稿者の印象でしょうか。 >>457
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 福徳 - 延徳元年(1489年)など 不明 『旧録司代家文書』(『香取文書』)、『本土寺過去帳』など多数
[34] 室町時代の1490年ごろ、関東以北では「福徳」という、なんともめでたい「私年号」が使用されていた - Google 検索, https://www.google.com/search?q=%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE1490%E5%B9%B4%E3%81%94%E3%82%8D%E3%80%81%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%BB%A5%E5%8C%97%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%A6%8F%E5%BE%B3%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%81%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A8%E3%82%82%E3%82%81%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%8C%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%80%8D%E3%81%8C%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F
室町時代の1490年ごろ、関東以北では「福徳」という、なんともめでたい「私年号」が使用されていた。 飢饉や戦乱が続き、「そろそろ改元があってほしい」「徳政があってほしい」との期待から私年号が広がった。 続いて、反政府という文脈で改元が準備された近代の例も見ておこう。2019/04/03
論点:元号を考える | 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20190402/ddm/007/040/133000c
[357] 福徳の草書を低解像度画像で見たら延徳になるような気がしてきた。。。
[358] 実際は延徳時代に福徳が出現したし、低解像度画像がそう見えたからどうなんだという話ではあるんだが。 でも文字図形として似てないとは言い切れない可能性が出てきたのは収穫なのかも。
[359] 中世の草書で「延」が「福」に見えるとか「福」が「延」に見えるとかが発見されないか?
[787] XユーザーのナオキMOONSTEPさん: 「昭和も平成も令和め嫌いなので私年号生活始めます。今は福徳531年だよ。俺は福徳488年生まれ。」 / X, , https://x.com/naokimoonstep/status/1425474928065744898
[383] Xユーザーのところてんさん: 「安野君のポスター張りを手伝おうかと思って申し込みフォームから張ってない場所の地図を見ているんだけど 都心部はほぼほぼ張り終わっていて、郊外はほとんど埋まってなくて、 支持者が都心に集まっていることが図らずとも可視化されていてめちゃくちゃ面白い 例えば、荒川が境界線になってたりする https://t.co/Ckarev7Pg8」 / X, , https://x.com/tokoroten/status/1804467114172158248/photo/1
[384] >>383 川を挟んで綺麗にわかれてるけど、完全に綺麗ではなくてぽつぽつ混じってるのがちょっと不思議でおもしろい。 たまたま人が寄りにくいとか逆に行きやすいとか、たまたまそこの近くの人がいたとかいろいろと事情はあるのだろうけど。
で、これを一目見たとき、これって福徳元年と福徳2年の分布図じゃんwって思っちゃったw
どちらも結局地形から街が出来て人が動いて生じる結果の現象だから似てくるのかな。 きっとこういう現象は他にももっといろいろありそう。探せばもっと福徳板碑分布に似てるのも見つけられそう。