熊野神社

熊野皇大神社

[1] 熊野皇大神社 (くまのこうたいじんじゃ) , 熊野神社

36.3694444444444 138.656111111111

Webページ

[2] 熊野神社 (安中市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E5%AE%89%E4%B8%AD%E5%B8%82%29

熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)は碓氷峠に位置する神社。社殿は長野県と群馬県の両県にまたがっており、参道と本宮の中央が県境にあたる。 主な社宮は3つであり、本宮は伊邪那美命、長野県側の那智宮は事解男命を祀る。群馬県側の新宮は速玉男命を祀る。

[3] 熊野皇大神社 (碓氷峠), , http://www.genbu.net/data/sinano/kumakou_title.htm

当社の創立はその由緒記によれば「人皇十二代景行天皇の御宇日本武尊東夷征伐凱旋の際、武蔵、上野を経て碓氷山嶺に登り給う途、坂本に到り餉いし給える時き、荒ぶる山神白鹿に化けし尊を苦しめんと御前に来たりしを、其眼に蒜を打付け殺し給う。(徳川幕府の時北山中に住める白鹿禁役の制ありしは之に起因す)此の時雲霧忽ち道を遮り咫尺を弁ぜず(霧積山の唱今にあり)尊道に迷い給える八咫烏紀の国熊野山の梛の葉を噛み持ち来たりて尊の御前に落とし、尊を嚮導する状なれば夫れに随いて嶺上に達し給う。

時に雲霧全く晴れる。尊東南の方を望観し紀橘媛を偲び給い、三嘆して曰く「吾嬬者耶」と。是より坂東の諸国を吾妻と云う事起これり(日本書紀及び諸史に見ゆ)。しこうして尊曰く大祖神武天皇八咫烏の嚮導により熊野山を越え大和の士賊を全滅し玉えり、今我東夷を平定しここに八咫烏の瑞相に応ぜしは、正しく熊野神霊の加護ならん事を知食し、熊野三社を勧請し給えり。時は景行天皇四十年十月なりしという。夫れに例し毎歳十月十五日当社の大祭典を行う。ここに奇異なる神業ありしは、古来毎年六月十五日当時大祭典の早曉紀の国熊の山より当社内へ椰の葉降り来たれり。又十月十五日朝当社の笹紀州熊野神社へ降るという云う。彼八咫烏止りし岩を烏岩と呼び(当社近傍東北方にあり)其岩より流出する河流を烏川と云う。当社神璽として古来日本太一熊野午王と称し烏の群れたる形の刷り物を出す、是れ其八咫烏の因縁なり、尊の登山の古事を伝えて頂上を止夫山と云い、又尊の嘆き給いしを以て『ナゲキアル山』の略語にや当社の裏山を長倉山と唱う」とある。

古来当社は災厄消除農作増産の守護神として公卿、武人農家の尊崇厚く殊に当嶺中仙道の嶮所として江戸時代交通の要所となるや参勤交替の諸大名をはじめ衆庶の参詣ひきもきらず「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と追分節に唄われて其御神徳をたたえ奉った。特に農家においては当神社の御神符烏午王を受け毎年春、田の水口に串にはさんで立て増産を祈るを例とする。

−『平成祭データ』−

三棟の本殿の左右に境内社の祠が並び 背後には小さな石祠が多く祀られている。 各境内社の名前は未確認だが、 明治の境内図によると、 長野県側那智宮の左に、十二社、山神社、荒神社、矢立社、日本武社。 群馬県側新宮の右には、菅原社、稲荷社、大日社、柱神社の名がある。 現在、新宮

[4] 熊野神社 (碓氷峠), , http://www.genbu.net/data/kouzuke/kumano_title.htm

随神門をくぐると社殿のある境内。 右手の群馬側には当社・群馬県熊野神社の拝殿(神楽殿)があり、 左手の長野県側には長野県熊野皇大神社の拝殿がある。

また、正面には三棟並んだ社殿があり、 中央が群馬(上州)と長野(信州)にまたがった本宮。 右手の上州側には新宮、左手の信州側には那智宮が鎮座。 中門の手前に、左手に「熊野皇大神社」、右手に「熊野神社」と記された 社号標が建っている。

長野側の那智宮を熊野皇大神社が、 群馬側の新宮を当社・熊野神社が、中央の本宮を共同で管理しているのだろう。

社伝によると、第十二代景行天皇の頃、 日本武尊の東夷征伐凱旋の途中、武蔵、上野を経て坂本にさしかかった時、 荒ぶる山神が白鹿に化けて日本武尊を苦しめんと姿を現したが 蒜(ネギやノビルなどの植物)を白鹿の目に打付けて殺してしまった。

ところが、たちまち濃霧が発生して何も見えなくなり、道に迷われてしまった。 そこに一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、 日本武尊の御前に落とし前導するように飛んで行くので 八咫烏について行くと、無事に碓氷峠に到着した。 日本武尊は、熊野神霊の加護に感謝し、 この碓氷の嶺に熊野大神を勧請したのが当社の起源。 景行天皇四十年十月のことであるという。

碓氷の嶺に立った日本武尊は、雲海から海を連想され走水で入水された 弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたという。

当社の鎮座する碓氷峠は中山道の要所にあり、 皇室公卿方をはじめ参勤交代の諸大名や一般通行の諸人なども当社に参拝した 道中の安全と家業の繁栄を祈願したという。 往昔には、新田義貞によって広大な神領を寄進され 西は信濃国長倉村鳥居原に、 東は上野国碓氷郡新堀村鳥居坂に大鳥居があったという。

「碓氷」という地名は、万葉集の「上野国歌」にあり 群馬県側(上野国)の方が有名で、日本武尊が苦労して登ったのも群馬側。 碓氷峠の熊野権現は、本来は上野国の神だったのかもしれない。

だが、「上野国神名帳」碓水郡に当社の名前はなく、 『明治神社志料』熊野神社の項には、 元は長倉神社、長倉山熊野権現とも称していたとあって、 信濃国の式内社・長倉神社であると記されている。

思うに、峠の上に鎮座しているため冬季の参拝が不便となり、 また、碓氷峠の東側(群馬側)が寂れ、西側麓、長野県の軽井沢町が

[5] 長野県軽井沢熊野皇大神社, , http://www.geocities.jp/kumanokoutai/

当神社は碓氷峠頂上 標高1200mに位置し、自然豊かな軽井沢に鎮座する神社です。

また、当神社は、全国的にも珍しい県境、お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です。

ですので、一つの神社でありながら2つの宗教法人がけんざいし長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております。その為、神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており、御祈祷・お守り・社務所も別になっております。

当神社は長野県、軽井沢の氏神、長野県熊野皇大神社であります。

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933306210

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