随神門をくぐると社殿のある境内。 右手の群馬側には当社・群馬県熊野神社の拝殿(神楽殿)があり、 左手の長野県側には長野県熊野皇大神社の拝殿がある。
また、正面には三棟並んだ社殿があり、 中央が群馬(上州)と長野(信州)にまたがった本宮。 右手の上州側には新宮、左手の信州側には那智宮が鎮座。 中門の手前に、左手に「熊野皇大神社」、右手に「熊野神社」と記された 社号標が建っている。
長野側の那智宮を熊野皇大神社が、 群馬側の新宮を当社・熊野神社が、中央の本宮を共同で管理しているのだろう。
社伝によると、第十二代景行天皇の頃、 日本武尊の東夷征伐凱旋の途中、武蔵、上野を経て坂本にさしかかった時、 荒ぶる山神が白鹿に化けて日本武尊を苦しめんと姿を現したが 蒜(ネギやノビルなどの植物)を白鹿の目に打付けて殺してしまった。
ところが、たちまち濃霧が発生して何も見えなくなり、道に迷われてしまった。 そこに一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、 日本武尊の御前に落とし前導するように飛んで行くので 八咫烏について行くと、無事に碓氷峠に到着した。 日本武尊は、熊野神霊の加護に感謝し、 この碓氷の嶺に熊野大神を勧請したのが当社の起源。 景行天皇四十年十月のことであるという。
碓氷の嶺に立った日本武尊は、雲海から海を連想され走水で入水された 弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたという。
当社の鎮座する碓氷峠は中山道の要所にあり、 皇室公卿方をはじめ参勤交代の諸大名や一般通行の諸人なども当社に参拝した 道中の安全と家業の繁栄を祈願したという。 往昔には、新田義貞によって広大な神領を寄進され 西は信濃国長倉村鳥居原に、 東は上野国碓氷郡新堀村鳥居坂に大鳥居があったという。
「碓氷」という地名は、万葉集の「上野国歌」にあり 群馬県側(上野国)の方が有名で、日本武尊が苦労して登ったのも群馬側。 碓氷峠の熊野権現は、本来は上野国の神だったのかもしれない。
だが、「上野国神名帳」碓水郡に当社の名前はなく、 『明治神社志料』熊野神社の項には、 元は長倉神社、長倉山熊野権現とも称していたとあって、 信濃国の式内社・長倉神社であると記されている。
思うに、峠の上に鎮座しているため冬季の参拝が不便となり、 また、碓氷峠の東側(群馬側)が寂れ、西側麓、長野県の軽井沢町が