[1] 会津若松市
概要 [編集]
陸上距離:249.4km
起点:福島県いわき市常磐上矢田町沼ノ平23-1(常磐上矢田交差点 = 国道6号交点)
終点:新潟県新潟市中央区明石二丁目78番1(栗ノ木橋交差点 = 国道403号・国道459号起点)
距離標:平バイパス以西は、十五町目交差点(いわき市平市街地)からの距離となる。国道49号旧道と国道6号平市街地線の交差点は内郷御台境交差点。
主な経由地:郡山市、会津若松市、河沼郡会津坂下町、耶麻郡西会津町、東蒲原郡阿賀町、阿賀野市
指定区間:全線
冬の通行止め:会津若松市河東町八田付近から郡山市中山付近まで、吹雪などで視界不良になると通行止めになる。
福島県浜通りから新潟県下越地方に至り、太平洋側と日本海側を結ぶ連絡線の一つである。旧道はいわき市平市街地、バイパスは平郊外から発して、浜通りから中通りの郡山市、会津地方の会津若松市などへと福島県内の主要都市を連絡し、県境を鳥井峠で越えて新潟県下越地方に入ると、阿賀町津川地区からは阿賀野川に沿って東蒲原郡を通る。阿賀野市の安田、水原地区を経由し、京ヶ瀬地区北西部からは一部連続立体交差方式のバイパス区間(横雲・亀田バイパス)。新潟市横越、亀田地区を経由して、新潟市の市街地に至る。阿武隈高地以外の全線で磐越自動車道と並走する。
歴史 [編集]
国道制定以前
江戸時代には、現在の福島県いわき市付近から中通り地方の郡山市付近までを結ぶ岩城街道[1](現在は磐城街道とも称される)、同県二本松市付近から会津地方の会津若松市付近を結ぶ二本松街道、また会津地方と新潟県を結ぶ越後街道が存在していた。これらの街道と現在の国道49号が経由する場所は異なる部分もあるが、それぞれの街道が現在の国道49号が経由する地域を連絡していた。
1879年10月、当時の陸羽街道から分岐(現在の福島県本宮市付近)して新潟県へと向かう道路が仮定県道の一等路線として指定された。その後、三島通庸の福島県令就任後、越後街道の区間は会津三方道路として重点的に改良された。また、1885年11月には磐城街道と呼ばれる区間も仮定県道の二等路線として指定された[2]。
国道制定以降
1953年5月18日 - 二級国道115号新潟平線(新潟県新潟市 - 福島県平市)
1963年4月1日 - 一級国道49号(福島県平市 - 新潟県新潟市) -- 115号を昇
概要[編集]
会津若松市から会津美里町高田地内までは明治時代前半、三島通庸県令の会津三方道路整備から外れたこの区間を、柳津町軽井沢銀山と会津若松市を結ぶ「銀山新道」として整備した歴史を持つ。
路線データ[編集]
一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。
起点:会津若松市(北柳原交差点=国道49号交点、国道118号終点、国道121号重複、国道294号終点)
終点:沼田市(下川田町交差点=国道17号交点、国道120号・国道145号終点)
重要な経過地:福島県大沼郡昭和村、同県南会津郡南郷村[注釈 2]、同郡伊南村[注釈 2]、同郡檜枝岐村、群馬県利根郡片品村
路線延長:212.4km(実延長・現道87.1km)ほか未供用延長23.6km[2][注釈 3]
福島県区間:149.9km(実延長・現道101.7km)ほか未供用延長10.8km
群馬県区間:62.5km(実延長・現道33.2km)ほか未供用延長12.8km
指定区間:なし[3]
路線状況[編集]
バイパス[編集]
土出戸倉バイパス(群馬県)
椎坂バイパス(群馬県) ※国道120号との重複区間
通称[編集]
会津沼田街道
重複区間[編集]
国道118号、国道121号(会津若松市・北柳原交差点 - 城西交差点)
国道400号(昭和村・喰丸交差点 - 昭和村・佐倉交差点)
国道289号(南会津町・鹿水口交差点 - 南会津町役場南郷総合支所前)
国道352号(南会津町・内川交差点 - 檜枝岐村・七入駐車場付近)
国道120号(片品村・鎌田交差点 - 沼田市終点)
道路施設[編集]
トンネル・橋梁[編集]
日吉跨線橋(JR只見線・会津鉄道会津線)[4]
高田橋(阿賀川(大川))
松坂第一〜第四トンネル(福島県大沼郡会津美里町)
喰丸トンネル(福島県大沼郡昭和村)
道の駅[編集]
白沢(沼田市) ※国道120号との重複区間
車両通行不能区間[編集]
(福島県檜枝岐村)七入 - 赤法華 - 沼山峠休憩所 - 尾瀬 - (群馬県片品村)三平峠 - 岩清水 - 一ノ瀬休憩所 - 大清水小屋
この区間は登山国道、点線国道などと呼称される。
沼山峠休憩所から沼田市までの間は群馬県道・福島県道1号沼田檜枝岐線と重複している。
尾瀬周辺の環境に配慮して、七入から沼山峠休憩所を経由して岩清水ま
三島通庸(みちつね・みっちー 1835-1888)。
私は、果たしてこの名を何度連呼しただろう。
いまや私のPCは“み”と入れるだけで三島通庸と出るまでに成長した。
国会図書館のサイト「近代デジタルライブラリー」で閲覧することが出来る『三島通庸』(平田元吉 明治31年刊)と言う書は、三島の死後10年めに書かれたもので、未だ多くの三島道が現役で活躍していた当時の記録として、きわめて貴重である。
「通庸十年の間、東北に開鑿せし道路は、其の延長実に三百五十里内外にして (中略) 其の工夫を役せしこと三百万人を下らざるべく(中略)橋梁は約百八十を架し、隧道は十個を穿てり……」
ここでは、その名称と現状だけ列挙してみようと思う。リンクが張られているものは既にレポート済みだ。
栗子山隧道 (△現存・閉塞)
二ツ小屋隧道 (○現存)
刈安隧道 (×開削)
関山隧道 (○現存)
座頭頽隧道 (×開削)
鳥上坂隧道 (○現存)
大峠隧道 (○現存)
本尊岩隧道 (△現存・封鎖)
蟹沢隧道 (×ダム水没)
非道隧道 (○現存)当レポ
明治15年から17年までの2年間の福島県令時代(17年は栃木県令兼任)は、彼にとって闘争の日々に他ならなかった。
すなわち、農民を巻き込んで県土を席巻した自由民権運動の鎮圧と、この火に油を注いだ彼一級の道路傾倒の政治政策。
そんな中で生み出された隧道の一つが、非道隧道である。
“非道”とは、また随分な名である。
福島県令としての彼が心血を注いだのが、会津若松市を中心にして東西南北の車道を建設するという「会津三方(さんぽう)道路」計画であった。
議会の承認を得ぬままに独断で建設をはじめ、しかも沿道の農民には重度の賦役を強制、働けぬものには税金を課したと言うから、まさに“非道”。
もともと自由党勢力が強かった福島の県民が、「喜多方事件」を契機に暴力的な自由民権運動へと立ち上がったのも、道理と言える。
文字通り、血と涙が染み込んだ道。
それが会津三方道路なのである。
さて、とにかく完成した会津三方道路ではあったが、福島赴任前に山形県令として築き上げた「万世大路」や「関山新道」のような高評価には届かなかった。通庸が病に伏す明治30年以降、昭和はじめ頃まで、東北にも長く鉄道王者の時代が到来したためだ。
当時、
国道401号線標高図 (「道中閑有り」;http://www.hyokozu.jp/henshu/ さんから借用しました)
因みに・・、 隣県同士でお互いの県へ車で行き来するための車道が無いのは、全国で群馬県と福島県のみであるらしい。 尤も、群馬県と福島県が接している総延長距離は20kmに満たない。 この県境の中心に尾瀬沼があり、西には尾瀬ヶ原が広がる。
その昔、群馬県の沼田市から、尾瀬沼を通って福島県の会津若松へ至る道は群馬側からは会津街道、福島側からは沼田街道と呼ばれ、会津と上州を結ぶ交易路とされていた。
交易が盛んに行われていたのは江戸期のことで、初代沼田城主の真田信幸(信之;真田家当主・真田昌幸の子。 公式には上田藩および松代藩の初代藩主)が戸倉に関所を設けたのち、路の整備を行ったとされている。 交易された物資は、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などで、尾瀬沼のほとりの三平下のあたりで中継されていたという。
また、幕末の戊辰戦争(1868年)の際には会津軍と征東軍が会戦しますが、最後まで抵抗した会津軍は、沼田街道を通って征東軍が侵攻してくることに備え、大江湿原辺りに防塁を築いたとされる。 その名残りが現在でも大江湿原に馬蹄型として見られるが、結局は会津軍は尾瀬を越え、戸倉で交戦になったため、この防塁が使われることはなかったという。
現在、この街道は尾瀬を通る国道401号(沼田街道・会津街道;重複区間あり)として、沼田市から会津若松市に至っている。 但し、檜枝岐地区の七入、赤法華、沼山峠休憩所、尾瀬、そして片品村の三平峠、岩清水、一ノ瀬休憩所、大清水までの区間は登山国道、点線国道などとして知られる。 (但し、この歩道区間は国は群馬県、福島県両県に保守、管理を委譲し、直接的には関与していないため、正確には国道指定はされていないらしい)
点線国道とは、国道の車両通行不能区間における国道指定された連絡路(海上国道を除く)のことで、同じく群馬県内では上越国境谷川岳山麓を通って清水峠から越後へ通じる国道291号、通称・清水街道がある。 この区間は、歩行でも一部通行不能部分がある。
小生のH・P 「上越国境・谷川岳」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kokkyou.htm
次回、古代の「尾
谷口能人です。日本がグループリーグで敗退し、やりきれない脱力感が日本を覆っています。昨年の12月、アメリカの統計家ネイト・シルバー氏が、2014年ブラジル・ワールドカップで日本代表がグループステージを突破する可能性を「24.1%」と予測しました。私自身、「そんなんで堪るか!」と思いましたが、ひょっとしたら優勝、と囃していたマスコミの本音は一体どうだったのでしょう。
FIFAランキングによれば、C組では、コロンビアの8位をトップに、ギリシャ12位、初戦勝って当たり前といわれたコートジボアールでさえ日本の46位に対して23位でしたから、全チームが格上です。優勝どころか、特別のパーフォマンスをしない限り、日本のグループリーグ突破は容易でないことは明らかでした。私たちは「数値」をはね飛ばす奇跡を夢み、そして、結果は私たちを現実に引き戻しました。でも、良いではないですか、ざ、残念ですが、今回の課題をきっちり整理し次に進めばいいことです。ザッケローニ監督のやり方を否定するだけでは前進はありません。
今年もこの季節、尾瀬を訪ねました。以前のブログ(2012年8月28日)でも書きましたが、私は、つかの間の均衡にある湿原が大好きで、その中でも尾瀬は格別です。その尾瀬、1986年7月に最初に訪ねたときは、尾瀬ヶ原の木道は渋滞が生じて人の列ができていました。尾瀬への入山者は1996年の約65万人をピークに減少の一途をたどり、2011年東日本大震災があった年には、最低の28万人まで落ち込み、この数年少し回復してきたものの、昨年は34万4千人に留まりました。その分、尾瀬はいつも静かな湿原の趣を見せてくれます。今回は、純白で「可憐」な水芭蕉を初めて見ることができました。
大清水から一ノ瀬を通り、岩清水から三平峠を越え尾瀬沼に向かう道は、地図を見ると、沼田街道です。更に、写真の大江湿原を越えて沼山峠を越え会津若松へ向かう道も、また、沼田街道です。ネットによると、沼田街道という名前は、永禄年間(1558年〜1570年)の記録に登場し、慶長5年(1600年)、真田太平記にも登場する真田信幸が、会津の上杉景勝の関東進出に備え、戸倉に関所を設け群馬側の道を整備したとあります。私たちが尾瀬沼を目指して登ったこの道は、沼田城から鶴ヶ城へ至る沼田街道の一部なんですね。
尾瀬は、当時「小瀬」と呼ばれ、「
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