[59] 満州では、様々な時刻が用いられました。 現在は外満州ではロシアの標準時のいずれかが、 内滿洲では中華人民共和国の標準時 が使われています。
[240] 中華人民共和国の標準時 は、 日本の中央標準時と時差が1時間あり、 日本が進んでいます。
[282] 金史 は、 建元以前の表記に (他国の元号の他) 一部即位紀年を使いました。
[284] 金史に、 「穆宗十年癸未」 (y~1978)、 「康宗嗣」、 「二年甲申」、 「四年丙戌」 (y~1979) とありました。 >>283
[292] 金史に、 「康宗七年」 「歲癸巳十月」 「是月,康宗即世,太祖襲位爲都勃極烈。」 「二年甲午六月」 (y~1980) とありました。 >>291
[285] 金史 に直接または間接に由来すると思われる Webサイトにも、 「康宗二年(1104)」「康宗四年(1106)」「康宗七年(1109)」「十一年(1113)」 >>288, >>286 「金康宗二年甲申」 >>287 「康宗七年(1109年)」 >>289 「康宗七年(1109)」 >>290 と書いた例がありました。
[302] 改写与重塑:再论金朝开国年代及其相关问题-论文范文-奥鹏易百 - 奥鹏易百, Discuz! Team and Comsenz UI Team, http://www.openhelp100.com/thread-140950-1-1.html
彼其年代與雲為,或說不同難準擬。自羲始造書契來,金哀元年甲申至。
五千六百余年間,相承授受應如此。莫謂古今杳難明,讀此如指諸掌耳。
とあります。 >>304
[279] https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/1084#page=8
[55] 外満州も内満州も内外蒙古も、 清国に属していた時代は近代的な標準時はなく、 地方時を使っていました。
[56] 農暦は、北京基準で決定されたものが満州でも用いられたと考えられます。
[277]
元々満州人は干支年を使っていたようです。
明国との関係で明の元号を使うこともあったと思われます
(満州文字には音訳されていました
[278]
後金、清が建国されて漢化が進みました。
漢語の元号名以外に満州語や蒙古語の元号名もありました。
[112] 清国の元号は、清国の領土や衛星国家で使われました: 支那本部、 満洲、 蒙古、 ウイグル、 チベット、 台湾、 越南、 朝鮮、 琉球 (清国領土でなくなった後については支那の元号参照。)
[46] tzdata の Asia/Harbin
は元の地方時を
としています >>54。
[2] 満洲近辺の露西亜の鉄道では標準時間と称してモスクワの標準時が用いられていたといいます。 正確には当時の首都であるサンクトペテルブルグの標準時が使われていたとみられます。
[116] 1898年頃には京奉鐵路が支那から奉天に延伸しています。
1902年には清国海関が海岸時 を制定し、
京奉鐵路もそれを採用したといいます。
[207] 、 日本軍は、 陸海軍各部隊に日時計と説明書を配布し、 東経123度子午線の時刻 = を 以降の「満韓地方の基準時」 とすることを通達しました >>206。 これは主戦場の1つである遼東半島付近 (遼河) の時刻に当たります。
[151] 時刻を一定のものとするため、と説明されています。 それまでは部隊ごとに、あるいは現在地ごとに異なる時刻を使っていたのでしょうか。
[12] 日本軍の野戦鉄道提理部は、接収した東清鉄道線などの運転をに開始し、 順次延伸しています。ここでも が使われたのかは、不明です。
[129] 日露戦争開戦当時、韓国と遼東に平壌の時刻を適用する構想が日本の陸軍にあったらしい >>128 といいます。これが のことなのか、 また別のものなのかは不明です。 (平壌はもっと東です。)
[105] 1904年末頃、
朝鮮半島の鉄道や各国機関は を採用しました。
[109] には、 日本軍部隊に対し、以後中央標準時を用いるよう指示されています >>208, >>209, >>210。多くの部隊が中央標準時を用いているものの、 特に規定されたものではなかったため、異なる時刻を採用されると混乱するおそれがある、 と指摘されていました >>208。鉄道時刻の誤解のおそれにも言及があるので、 野戦鉄道提理部も中央標準時を使っていたものと推測されます。
[213] 「満韓地方の基準時」は日時計で計測するよう指示がありましたが >>206、 中央標準時は電信で同期する >>208 とされていました。 関東州の主要都市が完全に日本軍の管理下に入り、現地インフラから安定した時刻を得られるようになったのでしょう。 「満韓地方の基準時」を使うよう指示されていたはずの各部隊がいつの間にかなし崩し的に中央標準時を採用し、 これまで標準時を定めていなかった >>209 ことになっていたというのも、 そうした事情と関係しているのでしょうか。 鉄道に言及があることから推測できるように、 京釜鉄道が全通し京城以北南満州方面の軍用鉄道も建設が進みつつあり、 鉄道の運行と利用者である日本軍のため共通の時刻が必要となったことも、 時刻統一の大きな理由と思われます。
[205] Wikipedia は、 1904年に支那海岸部、 朝鮮、満州でグリニッジ子午線基準の標準時が採用された >>420 としていますが、出典要検証とされています。
[23] Time Changes の CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF は、 から Chosen (今の Korea) と Manchuria が標準時 としていました >>1256。 根拠は不明です。
[263]
こうした情報は、
朝鮮半島で
頃に中央標準時
が採用されたことが拡大解釈された可能性が高いとみられます。
[73] 日露戦争の日本海海戦 ( - ) でバルチック艦隊はハルビンの時刻を用いており、 満洲のロシア勢力圏内で広く使われていたとの推測があります >>92。戦史の開戦時刻の比較から、露西亜側時刻は と思われるとし、満鉄史夜話 >>92 はそれが哈尓浜時間 が使われていた根拠としています。
[193] 日本海海戦について、日本側史料から執筆されたであろう Wikipedia 日本語版 >>191 とロシア側史料から執筆されたであろう Wikipedia ロシア語版 >>192 は、いずれもどのような時刻か明記しておらず、 全般的に異なる立場からの説明となっていて比較が難しいのですが、 例えば次のような時刻を示しています。
[194] ロシア軍の降伏時刻が同時刻となっている一方で、 日本軍の打電のようなロシア側で当時知り得なかった情報に異なる時刻が示されています。 Wikipedia またはその出典の著者が時刻を変換したり、しなかったりした情報が混ざっているのでしょう。 孫引きでかつ要約された情報から結論を導くのは危険ですが、 日本時間より20分程度遅れた時刻を使って記述された文献があるとは言えそうです。 浦塩の地方時の を使ったのかもしれませんし、 ロシア軍 (バルチック艦隊) がこの近辺の経度に合わせた船内時を用いたという可能性もあります。
[196] 満鉄史夜話 >>92 がいう日本側開戦時刻は14:08です。 これをロシア側で13:30と記録されていることから、38分の時差があったとしています。 しかしロシア語版 Wikipedia の記述を信じるなら、これは日本側 14:08 と同時刻とは言えません。 そもそもの問題として、戦史記載の時刻が作戦や記録で当時実際に用いられた時刻なのかどうかは不明ですし、 実際用いられたものだとしても満洲で広範に通用したと結論付けるのは早計とも思われます。
[47] 、清國海関が標準時を制定しました。 満州は と に分けられました。 これが満州でどの程度実効性を持っていたのかは不明です (実質的に標準時は電信局や鉄道のような近代設備でしか意味がありませんが、 この時点でほとんどロシアのものしかなかったとも思われます)。
露朝国境に近い滿洲の都市琿春は、
と明記されていました。
[10] 日露戦争後満洲では が使われた >>6 ともいわれます。 鐡道や軍政で軍標準時である中央標準時が用いられ、 現地の日本人もそれに従ったものと思われます。 南満州の支那人や露西亜人がどうしていたのかは不明です。 北満洲では引き続きハルビン時間が使われたと思われます。
[110] 新民屯で野戦鉄道提理部の軽便鉄道は清国の京奉鉄路に接続しており、 当時ここで清国の時刻に切り替えたとの記録があります >>92。 鉄道時刻の と の境界だったと思われます。
[156] 付け日本政府発表によると Newchwang (営口) 海関報時球の時刻が改正されており、英国水路部は詳細不明なれど が営口の標準時となったのであろうとしています。 >>155
[11] に野戦鉄道提理部から引き継いで鉄道運行を開始した南満州鉄道は、 当初日本中央標準時 を採用していました >>64, >>201。
[212] 以後、 関東州および満鉄附属地では西部標準時 が標準時となりました >>211, >>118, >>132。 南満州鉄道も同時に0時より >>64, >>201 鉄道時刻をこれに改めました >>64, >>63, >>132。
[186] の日本軍の 「二十九日 午前一時 安東縣發」の文書は、 「二十九日午前七時五分旅館出發七時三十五分新義州出發 (韓國時間八時五分)」 のように記載しています >>187。安東は清領満州の都市 (現中華人民共和国領)、新義州は大日本帝国保護領大韓帝国の都市 (現朝鮮民主主義人民共和国領) で、 川の対岸にあります。朝鮮半島と満鉄を結ぶ安奉線が国境を超えていました。 安東側の日本軍は関東州の標準時 を使っていたのでしょう。 国境を超えて新義州でもこれを使っていたのか、 安東側部隊からの文書なので安東時刻を主として記述したのかは不明です。 韓國時間は、大韓帝国の標準時 と思われます。
[226]
、
中華民国にかわって成立した中華帝国は、
中華民国5年から洪憲元年1月1日に改元しました。
滿洲の中華帝国系勢力はこれに従いましたが、
反政府系勢力は中華民国を使い続けました。
[254]
、
中華帝国は中華民国に復し、
洪憲の元号は廃止されて中華民国5年に戻されました。
[48] 、中華民国が標準時を制定しました。
満州は と に分けられました。
南満州ではこれは日本側の標準時 と一致していましたが、
北滿洲ではロシア側の標準時 と若干の相違があり、
実効性があったのかどうかは定かでありません。
[160] の満鉄発行の案内書によると、満鉄 に対して長春以北の東清鉄道は を用いていました >>161。
[195] に在奉天日本總領事館がまとめた文書では、 奉天の経度は東経123度23分、 時差は約1時5分となっています >>197。
[198] 東京を とすると、奉天は約 ということになります。 しかし経度の地方時は で、かなり異なります。 北京の地方時 とも少し異なります。 南京の地方時は約 でほぼ同じですが、 支那大陸沿岸部と南満州で広く が使われていたのに、 中華民国中央政府所在地とはいえ遠く離れた南京の時刻が奉天でも使われていたとするのは不自然に思えます。 奉天は南満州鉄道沿線で、市内でも鉄道時 が使われていそうなものですが、 一体どのような事情があるのでしょうか。
[166] より、 東清鉄道と鳥蘇里鉄道は (露国?) 臨時政府の指示で従来より1時間早い時刻に移行しました >>167。
[300] Chōsen Shinbun 1917.05.04 — Hoji Shinbun Digital Collection, , https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/css19170504-01.1.5 右中
[19] 以後東清鉄道において従来より1時間遅れた時間 (本来の哈爾浜の地方時 ) が採用されたといいます >>18。 ロシアでは1917年12月28日に夏時間終了とされています >>117 (ロシアの標準時参照)。 これがユリウス暦の12月28日だとすると、 グレゴリオ暦に当たりますから、 ちょうどこれと一致します。
[75] まで、ロシアはユリウス暦を使っていました。 東清鉄道も、同年までそれに従っていました。 >>69 pp.213-217
[169] 公布・施行の日本の大正7年勅令第66号 關東都督府觀測所官制中改正ノ件は、 関東都督府観測所の業務に「標準時ノ觀測事務」を追加しました >>168。 (関東都督府観測所本所は大連にありました。)
[119] 東清鉄道は、からに夏時間 への切り替えを行い、 との間に 午後24時から 午後11時への切り替えを行いました。 これはシベリア地域を当時支配していた政府の指示に従ったものでした。
[93] これ以後の年のロシア (ソ連) の夏時間に東支鉄道が従ったのかどうかは不明です。 少なくても大正10年/1921年の鳥蘇里鉄道 (外満州) の 移行時には、 東清鉄道は を維持していたようです。 の第一次カラハン宣言でソ連は東支鉄道を放棄しました (その後撤回)。 1919年から1922年には日米等の連合国鉄道管理委員会が東支鉄道の経営に干渉しています。 1920年頃、中華民国は鐡道付属地の行政権を順次回復しています。 従ってこの時期は夏時間を実施しなかった可能性が高そうです。
[189] 1919年に日本で出版された案内では、長春駅で20分の「時計調整」 が必要と説明されていました >>188。
[94] 民国10年の支那国有鉄路の規則には、
支那国有鉄路と東支鉄道で23分の時差があることが記述されていました。
[99] 大正11年出版の >>98 には、東支鉄道 、 南満州鉄道 などとあります。
[70] 大正時代の満鉄のポスター >>69 表紙カバー, >>69 215ページ, >>200 には、 長春駅のホームで23分の時差のある2つの時刻を4本の針で同時に示した時計が描かれています。
[71] 発行の南満洲鉄道旅行案内には、 滿洲と支那が支那時刻が内地・朝鮮より1時間遅れ、 「長春、又哈爾賓、満洲里以東、浦鹽間」 は哈爾賓時刻で支那時刻 + 26分との記述があります >>162, >>69 pp.213-217 もこれを引用。
[97] 大正14年出版の >>96 は、 南満州鉄道より東支鉄道が23分進んでいるとしています。
[163] 大正14年の鉄道省時刻表 (の翻刻版) には、 「時差 支那沿岸時刻及南滿洲時刻ハ日本内地時刻及朝鮮時刻ヨリ1時間遅ク哈爾濱時刻ヨリ26分遅シ」 とあります >>164。
[123] 1927年出版の >>122 は、南満州鉄道より東支鉄道が23分進んでいるとしています。
[29] 昭和初期 (3年-) の時点で、東支鉄道、 すなわち満州里-浦塩や長春-ハルビンはハルビン鐡道時 でした >>28, >>80, >>81, >>82。満鉄の満洲内の鐡道路線は でした >>80, >>81, >>82。
[101] 1929年出版の >>100 には、長春で満鉄から東支鉄道に乗り換えるとき 26分進めて北滿時間とするよう注意しています。 (>>100 コマ179にも同内容の説明があります。)
[121] このように大正時代には東支鉄道は を使っていましたが、 昭和時代には になっています。この変更が意図的なものなのかどうか、 いつ誰の判断で行われたのかは不明です。ハルビンの位置は に近いようです。 ロシア革命の混乱により、あるいはロシアの標準時実施の影響によるとも考えられなくはありませんが、 確証はありません。1924年の満鉄の案内書 (>>71) で となっているので、それ以降で としている一般書 (>>97、>>123) は古い情報と思われます。
[216] 、 関東州の商工会議所から夏時刻の提案があったものの、 具体的な動きにはつながらなかったようです >>211。
[214] には関東州各地の商工会議所からの陳情があり、 夏時刻の採用が検討されましたが、 満鉄の運行や支那との調整に影響を及ぼすとして、 に実施見送りが決まりました >>211。
[154] 1930年の新聞記事は、 前年話題になった夏時刻導入が今年は話題にならない >>153、 と述べていました。前年の失敗で推進派も断念してしまったのでしょうか。 しかしこの記事は、当時の社会の課題であった「合理化」 には夏時刻で夏の昼間を有効に活用するべきだと主張していました。 更には、夏の昼が長い時期に学校が夏休みとなるのももったいないと主張していました。
[220] 翌年から中華民国の農暦は
で計算されるようになりました。
[30] Time Changes の CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF は、
1928年の中華民国の時間帯で滿洲各地を
または の標準時としていました >>1256。
[221] Shanks は CHINA のうち滿洲 (#4, #9) を より (それ以前はLMT) としていました >>222。
[49] tzdata の Asia/Harbin
は、
1928年を境に
としています (それ以前は LMT) >>54。
[249] これらの情報の根拠は不明です。 実際何らかの動きがこの年始にあったのか、 北伐あるいは農暦の改正の情報が歪んで伝わったものか不明です。
[27] 齊々哈爾市内では、 が使われていた >>69 (その出典は昭和8年/1933年版旅程と費用概算), >>81 コマ405, 410, >>82 コマ437, 439 ともいいます。
[85] 齊々哈爾の方が哈爾賓より西なのですが ( 付近)、 なぜか時刻は進んでいたことになります。 ただし現時点で旅程と費用概算以外の出典が見つかっていません。 齊々哈爾は黒龍江省の省都で北満洲の主要都市でしたが、 東清鉄道本線の駅から離れていて、市内に付属地は無かったものと思われます。 (露西亜や日本の領事館はありました。またかつてチチハル城内にも露西亜軍が駐屯していたようですが、 この時期には既に撤退していたと思われます。) ですからハルビン鉄道時と異なる時刻を用い(られ)た可能性はあるのですが、 それが だというのは奇妙です。 ハルビン時間から30分ではなく、満洲時間 (昂齊鉄道の時刻) から30分で (長白時区) だとすればまだ納得感あります。
[124] 東支鉄道と、その駅から齊々哈爾市内を結ぶ斉昂軽便鉄路は、 ハルビン時間 を用いていました >>81 コマ407, >>82 コマ422。
[126] 齊々哈爾付近を走る齊克線、洮昻線、四洮線では が使われていました >>69 (その出典は昭和8年/1933年版旅程と費用概算), >>81 コマ405, 410, >>82 コマ437, 439, >>87。
[125] 齊々哈爾を発って齊克線で移動する行程の注記には、 南満時刻なので30分戻すよう指示があります >>81 コマ409, >>82 コマ422。 どこで時計操作するべきなのか曖昧ですが、龍江駅 (齊々哈爾市内からの最寄り) 乗車前と解釈するのが自然です。とすれば市内は ということになります。 この行程は >>124 の続きなのですが、入市時に4分進める指示はありません。 わずかだから省略した (または見落とした) のか、戻すべき30分が実は概数なのかは不明です。
[7] 満州国では建国以来 が使われた >>5 と一般には言われているようです。厳密に言えば、 建国から1ヶ月は標準時の規定がなかったと思われますが、 南満州ではおおよそ が使われていたと思われます。
[104] >>102 は、1932年の標準時制定まで と が使われていたとしていますが、 根拠は不明です。 >>102 は満洲国の中央観象台に関する書籍ですが、 標準時制定時点で中央観象台は未設立ですから、伝聞情報かもしれません。 (満洲国建国前から関東州や満鉄附属地では日本の観測機関がありましたが、 を使っていたと思われます。) >>140 は各地で異なる時刻を用いていると述べていますが、 具体的には何も挙げていないので、統一前に何通りあったのかは不明です。
[143] 国務院令第四號は、 国内各地で時刻が統一されていないとして、以後「新京の時刻」 を「公務執行時刻」の「標準」と定めました >>140。 これを受けて8日には東省特別区の訓令 >>142、 15日には国務院令 >>141 で、政府各局や「一般人民」 への周知が指示されました。
[103] の満洲国の国務院の決定で >>102, >>130、 から (長春時間 >>135) を採用することとした >>102 (執政府発表 >>135) といいます。
[144] 満洲国の官報に掲載された文書の限りでは、 あくまで政府機関の用いる時刻を定めたもので、厳密には標準時とは異なるように思えますが、 民間への周知も含めて実質的に標準時の制定と捉えられているようです。 なお、後の改正時 (>>8) には標準時と明記された勅令が制定されていますが、 元の国務院令が標準時を定めるものではないためか、 廃止の手続きは取られていないように見えます。
[21] 東省特別区 (ハルビンその他東支鉄道付属地) では、 その後もしばらくは が使われ続けていました。
[146] 東支鉄道の 採用により、 満洲国の時刻はすべて統一されました >>135, >>20。
[58] 、 天文学者の山本一清は、 満州国の標準時が と定められたことについて、 非常に残念だとコメントしました。 山本は、満州国西端の のみならず東端の も不自然ではなく、欧州で導入が進む夏時刻のように を採用する方が賢明であり、 日本の中央標準時 と一致させる便利さは自明であるから、 を満州国の標準時として採用するべきだと提案しました。 >>57
[134] 満州国は、「建國の際」、 天文学者の山本一清に標準時を 、 のいずれとするべきか意見を求め、 山本は とするべきと力説した >>133 といいます。 おそらくは制定後の提案と同様の内容を満州国政府からの照会に対しても回答していたのでしょう。
[31] Time Changes の CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF は、 Heilungkiang, Jehol, Kiangsu, Kirin, Liaoning, Manchuria がから標準時 としていました >>1256。
[223] Shanks は CHINA のうち滿洲について、 から としていました >>222。
[50] tzdata の Asia/Harbin
は、
を境に
から へとしています >>54。
[185] の満洲電信電話会社の規定は、 報時に用いる時刻を西部標準時とし、 関東庁観測所により提供されたものを用いると定めていました >>194。
[148] 満洲国として初めて発行された暦である、 大同2年発行の大同3年の暦には、凡例で 「凡満洲國時刻平時即用東經一百二十度之子午線為標準」 >>149 とあります。
[203] 北満鉄路のハルビン時間について、 「満州国がソ連から同線を買収、満鉄に運営を委託する直前に解消」 >>201 されたとするものもありますが、根拠は不明です。
[247] 満州の安東と朝鮮の新義州は、 国境の河を挟んで隣接する街でした。 満州と朝鮮で時差があった頃、 両方の住民が参加する会合では、 どちらで実施されるかにより、相手方での昼食が 11時になったり、13時になったりする、と互いにこぼし合っていたそうです >>248。
[1] 、満州国の標準時は日本中央標準時と同じ に変更されました >>5, >>6。
[8] 満州国の勅令第一百三十三號 關於標準時之件により定められました >>17。
[9] 移行の時刻は、 満州国の國務院佈告第三號 關於新舊標準時相差時間之件により、 をもって とすると定められました >>230。
[3] 関東州および満鉄附属地の標準時も、 満州国と同時に に改正されました >>15, >>14, >>107。
[233] 標準時改正に伴い、官庁執務時間も改正されました >>232, 改正前 >>231。 基本的には表示上の時刻がそのまま (実質1時間繰り上げ) でしたが、 冬季間のみ表示上の時刻が1時間繰り下げられた (実質無変更の) ため、 標準時改正をまたいだ年末年始で時刻は1時間遅れとなったものの、 執務の時間はそのままとなったようです。
[72] 満鉄の時刻について、平井環の証言 >>92 によると、 元々大連若草山観測所の報時によっていたところ、 “奉天に鉄道総局が置かれた頃”に関東軍の報時に切り替えられたようです。 に奉天に鉄路総局が、 に鉄道総局が設置されたようですが、 この切り替えの時期は不明です。
[171] 日本の勅令第705号關東氣象臺官制は、 旧関東観測所を改組して関東気象台を設置するものでした。 元の報時業務を引き継ぎ、「時ノ測定及報時」 の事務を行うことが定められていました。 >>170
[178] 満洲国の中央観象台官制には、中央観象台の業務として
「曆書編製」と「時間之測定、報時之鐘錶之檢定」(「時ノ測定、報時及時計ノ檢定」)
が挙げられていました >>179。
[235] 満州国の官報に掲載された気象記録は、 標準時改正前までの結果となっていましたが、 改正後からに切り替わりました。 また降水量について日界の24時間分とありましたが、 改正後はに変わりました。 >>234 改正に際して特に注釈はありませんが、 気象観測における日となる24時間と觀測のタイミングは変更しないまま (時刻としては1時間繰り下げて) 継続されたようです。
[239] 1904年から 1945年の満州の気象情報データベースの凡例は、 「極力原文のまま」としつつ、 標準時は 、 気温と降水量の日界は、 蒸発量の日界9はとしています >>227。 官報掲載分と降水量の日界が異なりますが、 いずれかの時点で再計算されたのでしょうか。
[241]
日本政府の中央気象台年報には、
明治時代から、関東州や滿洲、
支那のいくつかの観測地点の情報が掲載されていました。
中央気象台年報は基本的に観測時は中央標準時とし、
例外として西部標準時の観測地を示しています。
[242] この説明を信じると明治40年の西部標準時採用から5年間は中央標準時のまま残ったことになりますが、 南京などの滿洲外の支那の観測点にも同様に注記がなく、 これらの観測点の時刻は検証が必要でしょう。 関東州の旅順だけ途中で西部標準時から中央標準時に変更されたことになりますが、 大正13年に関東州でだけ時刻を変更する合理的な理由も見当たらず、 大正13年以前の旅順の時刻も要検証でしょう。
[51] Shanks (2003) は CHINA のうち満州 (#4, #9) について、
から としています >>222。
tzdata の Asia/Harbin
は1940年を境に
としています >>54。
根拠は不明です。1940年代頃に変更されたという情報があるが時期不明だった、
といったところでしょうか。 Shanks は CHINA のうち
だった地域が同時に となったとしていますが、関連は不明です。
[68] 1942年に出版された随筆 >>67 は、 内地から満州を訪問し、標準時と太陽時とのずれに戸惑い、批判しています。 改正からわずか5年しか経過していませんが、「改正の理由を一向に知らない」とも述べています。 5年も前のことなど覚えていなかったのか、あるいは内地では大して話題にならなかったのでしょうか。
[45] 滿洲國の標準時いよいよ改まる! (日食特輯號) (山本一清, , 版) http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167246/1/tnk000182_289.pdf
[448] 大同は、1932年(昭和7年;大満州国建国)〜1934年(昭和9年) に使われていました。
[274] 康徳は、 1934年(昭和9年;溥儀皇帝即位 = 大満州帝国成立)〜1945年(昭和20年;8月18日溥儀退位・8月20日大満州帝国解散) に使われていました。
[449] 日本の租借地だった関東州 (や満鉄附属地) では基本的に日本の元号が使われていましたが、 生活上は (特に満鉄附属地では) 満州国の元号も使われていたと思われます。
[275] その後満洲はソ連軍が占領して(たぶん)西暦を使ったり、国府軍が支配して(きっと)民国紀元を使ったり、中共支配下に入って西暦を使うようになったりしてるはずです。
[579] ( 版) http://www.japanradiomuseum.jp/chinaradio.html
[580] >>579 満州国内の書類で昭和と康徳が印字されており、 年号が空欄で後から一方を記入している。
[294] 東瀛流水さんはTwitterを使っています: 「旧満洲で発行した中国語版新聞『盛京時報』その後身である『康徳新聞』はなんと日本降伏日の新聞も存在しているとは。しかもあの終戦詔書の中国語翻訳バージョンが存在していた。中国の古本サイトでは約24万円で出品されている。 https://t.co/TiDfoy1C4W」 / Twitter, 午前0:53 · 2022年9月3日 , https://twitter.com/toueiriusui/status/1565729721479876609
[295] >>294 , に満洲国で発行された新聞。 右横書きで康徳のグレゴリオ暦日と干支年の陰暦 (農暦) 日付が併記されている。
[61] 当時在満州国だった日本人の記録によると、鞍山ではに中国標準時 >>60 (?) に切り替えられました。
[175] 中華民国はで夏時間を終了しました (中国大陸の標準時参照)。 鞍山も中華民国も、30日のいつ時刻を切り替えたのかは分かりませんが、 中華民国の指示で支那と滿洲の全域で一斉に切り替えた可能性があります。
[62] 東北政聯行政委員會は、 、 を標準時としました。 満州の中共軍もこれを採用しました。
[173] 中華民国は1946年から1949年の大陸支配時代に夏時刻を実施していますが、 滿洲はほぼソ連や中共の支配下だったようですから、 初期にかろうじて一部支配できていた時期を除き、 夏時刻は実施されなかった可能性が高そうです。
[159] 以後内満州・東蒙古は中華人民共和国の支配下にあり、
その標準時 (時期によっては夏時刻 )
が用いられています。
[224] Shanks (2003) は、
から CHINA のうち滿洲の西部
(#9) は 、 東部 (#4) は としています >>222
(それまでいずれも )。
tzdata の Asia/Harbin
は
を境に としています >>54。
根拠は不明です。
[52] Shanks (2003) は、
から CHINA のうち滿洲
(#4, #9) を としています >>222。
tzdata の Asia/Harbin
は
を境に としています >>54。
根拠は不明ですが、 Shanks はこの時点で CHINA 全体
(香港、澳門、台湾を除く。) を に移行としています。
[115] tzdata は Asia/Harbin
を定義してはいますが、
1970年以前の違いは無視するとの採録方針のため、
Asia/Shanghai
の別名としています。一応は別名としない定義も含まれてはいますが、
本項で示した通りどの都市の実際の時間帯とも一致しておらず、
いずれにしても1970年以前は不正確なものです。
[218] 満州国を継承すると自称する団体満洲国臨時政府は、
満州国の標準時や元号などを使っています。
[66] 新聞記事文庫 : 京城日報 1937.1.1 ( 版) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00475115&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null
[183] Remove many invented abbrs in 'africa', 'backzone' (eggert著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/87f960b0458754d83a15ab7f444e9ce1a2e5d168
[4] 気象資料提出の件 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C01003257000
[26] 気象資料提出の件 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C01003275600
[243] 気象資料提出の件 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C01003445400
[244] ラヂオ年鑑. 昭和9年 - 国立国会図書館デジタルコレクション (日本放送協会著, 昭和6-10) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1260086/235
[255] 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 : 京城日報 1937.1.1 (昭和12) () http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00475115&TYPE=HTML_FILE&TRUE_TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA&AID=6&HISTORY=null
[256] () https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/31/9/31_9_504/_pdf/-char/en
[259] 滿洲國標凖時 變更正式發表 http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093655000 http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093655000
[260] 滿鐵同樣の標凖時に近く北鐵でも時刻改正せん http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00109488487 http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00109488487
[261] 日滿標凖時統一 一日부터 實行키로 http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00094816038 http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00094816038
[262] 日本標準時間대로 滿洲國時間改正 明年一月一日부터 http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093641191 http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093641191
[265] みり女子たんさんのツイート: "戦いの記録を読む時、現地と本国との時差だったり、交戦国同士の標準時の時差があったりするよね。他にも、日本海海戦の時、日本艦隊が明石の標準時、バルチック艦隊が真太陽時(太陽南中時刻)を使っていたために日露で砲戦開始時間が19分ずれているように、標準時以外のズレもあるから注意がいるね" () https://twitter.com/milijo_bot/status/1099492079476953088
[266] Kyoto University Research Information Repository: 鮮・滿・支の旅行記(II) : 天界176號の續き () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167694
[267] Kyoto University Research Information Repository: 東亞の標準時政策を論ず () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167658
[268] 哈爾浜案内. 昭和6年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション () http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122520/5
[269] () http://rakusai.nichibun.ac.jp/hoji/contents/Brasil/PDF/1936/08/19360807bja10.pdf
[270] () http://www.tga-j.org/documents/pdf/0652_04.pdf#page=9
[273] Untitled (参謀本部 編纂著, ) http://www.bnasie.eu/Asset/Source/bnBook_ID-1683_No-01.pdf#page=5
[204] yuan.pdf, http://www.bunka.soken.ac.jp/journal_bunka/150319_yuan/yuan.pdf
[276] アラベスク 欠資 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-799.html
[280] 躍進國都 MAMCHOUKUO1937 大判写真集(落丁有り)満洲帝国政府発行 昭和12年 : 古書 古群洞 kogundou60@me.com (kogundou, ) https://kogundou.exblog.jp/240949469/
[281] Nichibei Shinbun 1936.07.28 — Hoji Shinbun Digital Collection, , https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/jan19360728-01.1.5
左下側
[296] 日・英・米・仏・露以外ノ各国及支那国間ノ条約, 外務省条約局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1345859/1/576
[297] 日・英・米・仏・露以外ノ各国及支那国間ノ条約, 外務省条約局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1345859/1/206
[298] 日・英・米・仏・露以外ノ各国及支那国間ノ条約, 外務省条約局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1345859/1/287
[299] 総括(<特集>日中戦争における東アジア), 馬場,毅, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/10407416/1/1