[1] 記録には、現在に続く干支紀年法が通用したはずの時代に、
現在に続く干支紀年法と解釈すると何年かのずれが生じてしまうものが散見されます。
[2] その大部分は何らかの誤りに過ぎないと解釈されています。しかしながら、
[7] その由来は主に3系統あって、
の組み合わせになります。
[14] 中でも特に >>8 は独創的な歴史観と共に主張されがちです。 天文学や暦学の知識をある者が既存の干支紀年法等の知識を得ることなく独立してこの種の紀年法を考案する筋道を考えにくいからでしょうか。
[6]
古代支那に於いては実際に現行干支紀年法と異なる太歳紀年法や干支紀年法が使われていたことが知られています。
[1040] 昭和時代の友田吉之助は、 現行干支紀年法と異なる干支紀年法が行われたと主張しました。
[1041] それによると、
が使われたとされました。また、それらと共に、
が用いられたとされました。
[1048] その利用範囲は研究の進展に従ってどんどん拡大していきました。 日本に限らず、中国や高句麗でも用いられたとされました。 日本については、周の時代の大陸の倭国から天孫降臨で日本列島に到来し平安時代になっても使われたとされました (旧説では秦国系の渡来人によって日本列島に持ち込まれたとされていました)。 紀年法と暦法の組み合わせのうち複数のものは、 歴史書の編纂だけでなく現実の生活において並行して使われていたとされました。
[1049] 古い時代の記録がそうした紀年法や暦法によらないのは、 現存する日本書紀や続日本紀が改訂版で、 現行の方式に改められたためだとされています。 しかしその改訂が不完全だったり、 旧版に基づいた資料が残っていたりするために、 旧方式が現在に伝わるのだとされています。
[33] 友田吉之助が日本書紀後世改刪説の根拠と挙げた史料のうち日時の表現に関係するもの:
[5] 一年引き下げられた干支紀年法説は、 現行干支紀年法と1年ずれた干支紀年法が使われていたと主張するものです。
丁を辛と誤らない辛を乙と誤らない[619] 一年引き下げられた干支紀年法は四分暦の一種と併用されていたとも主張されています。
[1079] 初期には顓頊暦 (実際にはそのバリエーション) 説が主張されました。
九は七の誤写、「十一」は七、
「戊午」は「壬午」の誤写七は「十一」の誤り[1080] 晩年には黄帝暦 (実際にはそのバリエーション) 説が主張されました。 >>977
[1039] 二年引き上げられた干支紀年法
[960] 友田吉之助と同時代の研究者である伊野部重一郎は、 友田吉之助の論文に対する反対論文を書いています。 >>958
[962]
伊野部重一郎は、
異なる干支紀年法を考えずとも異なる歴史観による混乱や単なる誤りでずれが説明できることを説いています。
>>958, >>974, >>975
[972] 日本書紀の持統天皇の最終年8月1日と続日本紀が一致しない問題は、 日本書紀の誤りではないかとしています。 >>958
[971] 平成時代の日本古代史研究者で最も暦法に精通しているであろう細井浩志も伊野部重一郎の見解に賛成しています。 >>959
[961] しかし友田吉之助の論文を元にした著書 >>34 では自説を改めてはいませんし、 少なくても明示的には伊野部重一郎の論文を引用して再反論をしていません。 (投稿した論文誌では再反論していますが、それそのものは著書に掲載されていません。) しかし伊野部重一郎の批判に答える形で、 より複雑な説へと変化したようです >>974。
友田氏は、これを「一年引き下げられた干支紀年法」が存在するという、特殊な見方をし ている。しかし、伊野部重一郎氏(伊野部1963)が、友田氏の初出論文に対して批判してい るように、続紀の編纂過程で、暦日の干支への換算を誤ったものとするのが妥当だろう。
[1150] report1_03_a_study_in_the_cmpilatory.pdf, , https://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report1_03_a_study_in_the_cmpilatory.pdf
[1151] >>1150 は万葉集の紀年の問題を主題に、 友田吉之助の主張が成立しないことを論じています。
[1154] 日本歴史学界の回顧と展望 5 (日本古代 2 1971~85), 史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12177526/1/35?keyword=%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95 (要登録)
[1155] >>1154 当時はまだ肯定的に評価されていた!
[1156] 日本書紀研究 第6冊, 横田健一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12268550/1/52 (要登録)
[778] 肯定も否定もせずに参照しているだけの事例 >>785, >>788
[1052] 友田吉之助の研究について、その問題提起は研究史上有意義な貢献だったと考えられます。 すなわち、
といった着目点は、歴史上の事実関係を画定させるための土台となる基礎的研究として重要といえます。
[1061] しかし、残念ながら友田吉之助の研究は十分な回答を与えられたとはいえません。
[1078] してみると友田吉之助が開拓しようとした新領域は友田吉之助の説が明後日の方向に進んでしまったがために追随者がなく、 未開拓のまま残ってしまいました。別の問題意識からその領域に手を伸ばしてきた研究者によって取り組まれている部分もあるものの、 未だ取り組む価値がある課題は多く残されているように感じられます。
[1153]
日本王朝興亡史: 2年引き上げ説 + 九州年号 + 鹿島曻とどこから突っ込んだいいか...
[790] 【偽書】“天皇”と“皇帝”の違い 幻の書物【日本書】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜|古本屋えりえな|note, https://note.com/ai_auwa/n/n14ff70f3742b
[811] NihonShoki_Sakujitsu_9.pdf, , https://u4ren6.org/Moritsune/NihonShoki_Sakujitsu_9.pdf#page=4
[810] , http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/gennten/jikanreki1.htm
[794] 日本書紀はどのようにして成立したのか | 永井俊哉ドットコム, , https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/nihon-shoki-philology/
友田吉之助によると、この時の日付、和銅七年二月戊戌は、異種の干支紀年法においては、和銅五年正月戊戌、つまり、『古事記』序文に記されている『古事記』選上の年月日、和銅五年正月二十八日と完全に合致する[6]。したがって、この『国史』を『古事記』とみなすこともできる。
[792] 日本の合戦一覧 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6%E4%B8%80%E8%A6%A7#cite_note-6
「好太王碑文と顓頊暦紀年法」(友田吉之助著『日本書紀成立の研究 増補版』風間書房、1983年)。好太王碑文の紀年法は通常の暦より干支が1年遅れの顓頊暦を使っているとみられる。このため倭に関する記事の年も全て通説より1年遅れになるとする。
[791]
ウィキペディアにはこのように独創的な研究者の説が紛れ込んでいることがたまにある。
[1120] 昭和時代の大和岩雄は古事記偽書説を主張しましたが、 友田吉之助説に基づいていました。
[798] 大和岩雄は古事記偽書説の中心人物の1人。 友田吉之助は古事記序文の日付が本来の和銅日本紀の成立日を転用したものだと主張している。 そして和銅日本紀説は古事記偽書説にとって有力な根拠として扱われているという関係。
[1119] 古事記と天武天皇の謎, 大和岩雄, によると >>1118
だから友田氏の二年繰り上がる干支紀年法を論破しない限り、 偽書説の否定は成り立たない。しかし反論はまったくないのである。
[802] 神武天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
記は137歳とするが、これはもともと127歳だったのが平安時代に多人長(おほのひとなが)によって改竄されたものである(大和岩雄の説)。よって紀の127歳説が本来の伝承。記の序文の年月日は顓頊暦によって換算・同定されているので、そのことを暗示するとともに紀との矛盾を調整するため、10年の水増しがされた。『日本書紀』の儀鳳暦と顓頊暦とでは10年のずれが生じるからである。
[801] 顓頊暦が云々とは友田吉之助の説。 大和岩雄がいつどのようにこれを主張したのか知らないが、 大和岩雄の会社大和書房の雑誌に友田吉之助は何本か寄稿していて、 同じ号に大和岩雄自身と友田吉之助の記事が並んでいることも。
[793] ただし友田吉之助の説では暦法違いで10年ずれは起きていない。
[815] 牧尾一彦は友田吉之助説を活用しつつ独自説を展開しています。
[978]
の著書 >>813 で説かれています。
それによると旧干支紀年法説は既に同年の前著邪馬臺国と神武天皇でも指摘されていました。
更にはの日本書紀編年批判試論でも既に論じられていたそうですが、
誤謬や不十分性があって新著で修正再論したのだそうです。
>>813 p.
[806] >>805 ほかは >>813 の一部を編集して掲載とのこと。 同じ出版社のグループ企業運営サイト。
[804] 令和4年にもなってまだ新しい本出す人いるのすごいな。。
[1092] 友田吉之助説と比較すると、旧日本紀の存在や一年引き下げられた干支紀年法、 四分暦は基本的に同じです。友田吉之助が参照していない1年ずれ史料も追加しています。
[1093] しかし友田吉之助説と違って旧日本紀と日本書紀とで称元法が異なっていたとしています。 友田吉之助説は称元法の違いではないとして一年引き下げられた干支紀年法の論拠にしていたのですが、 本書にはその点への言及がなく、友田吉之助説との整合性をどう考えているのか謎です。 二年引き上げられた干支紀年法を認めないのも大きな違いです。
[1094] 旧日本紀から日本書紀への変更を「捏造」と呼び、 朝廷の派閥対立にその動機を求めている点も大きな違いであり、 本書が陰謀論側へ一線を越えている部分でもあります。
[1136] 九州王朝説では現行干支紀年法と1年ずれの干支紀年法が使われたと考えられているようです。
[1137] 九州王朝説の信奉者の説で、 九州王朝で四分暦が使われたとするものがあります。 令集解所引古記に四分暦系文献の引用があるので九州王朝の曆だという謎理論ですが、 古記 を知らない友田吉之助が同じ結論に達していた!と喜んでいるようです。
友田は、「古記」の暦数についての注釈を知らずに、このような結論に到達しているのである。友田の十支紀年法についての研究は、学会では無視あるいは一蹴されているが、真剣に再検討・再評価する必要があろう。『市民の古代研究』誌上で展開された、石川信吉・平野雅曠による倭国干支紀年論も同様である。
金石文を問う / 日本古代碑の再検討・宇治橋断碑について
友田氏の論理によって、宇治橋断碑の大化二年丙午を疑ったのが、重松明久氏である。「大化二年丙午」の年号と干支は、新『日本紀』系年号建てに依拠しているのは、宇治橋断碑が孝徳朝に建立されたものでなく、新『日本紀』の成立以後、養老年間(七一七~七二四年)以後の奈良時代であるとされた。(9)つまり、六四六年建立であれば、干支は「乙巳」でなければならないからであろう。この論点は、至極、明解である。ただ、重松氏は金石文それ自身の分析、研究からでなく、年号論からのみ立論しているという弱点が存していよう。
(7)『日本書紀』中の乙巳大化の存在への疑義を明確にした研究論文は、年号論を研究してこられた丸山晋司氏によれば、次の通り。佐藤宗諄「年号制成立に関する覚書」『日本史研究』第百号。原秀三郎『日本古代国家史研究』東京大学出版会。岡田芳郎「年号の始元」『日本の暦』木耳社。田中卓「年号の成立」『神道史研究』二五ノ五・六号。藪田嘉一郎『日本上代金石叢考』河原書店。重松明久「白鳳時代の年号の復元的研究」『日本歴史』第三一九号。
(9)重松明久氏前掲論文参照。
よみがえる壹與 / 佐賀県「與止姫伝説」の分析
5九州年号の干支のずれについては丸山晋司氏と平野雅曠氏、石川信吉氏との間で論争が展開されている。興味深い問題であるが、本稿の論旨には直接関わらないので、ここでは言及しない。
倭国の暦法と時刻制度
>>797 と同文
[1134] >>10 は九州王朝説の信奉者の説で、 宋書 (王年代記) の神武天皇甲寅年即位説について、 甲寅と辛酉の7年の差は超辰のためではないかとしています。 簡単過ぎる記述でどういう計算でそのような推測になったのか謎です。
[1139] 九州王朝説の創始者の古田武彦は百済で1年ずれの干支紀年法が用いられたとしています。 >>1135
[1140] また九州王朝説幹部の古賀達也は九州年号とその用例 (とされているもの) のずれを、当時1年ずれの干支紀年法が用いられていたことで解決しようとしています。 >>1133, >>1135, >>1132
[1141] ただしなぜか慎重論を取っています。1年ずれの存在を前提にしていない他の議論との矛盾が生じるからかもしれません。
三、大化五子年土器と干支のずれ
こうした大化五子年土器の史料批判を踏まえて、安田氏は九州年号復原にあたっては同時代金石文が優先するという視点から、共に五年が「子」の年とならない丸山モデルと『二中歴』を九州年号原型案としては不適当とされた。
これに対して、わたしは大化五子年土器と『二中歴』の大化とでは干支に一年のずれがあり、これは干支がずれた暦法が同地域で使用された場合にも起こりうる現象である。
太政官符 応以辛未年籍爲甲午年籍事 右得常陸國解稱。依令。近江大津宮庚午年籍不除。而今無有其籍。仍去弘仁二年具状言上。即依太政官同年七月四日符。就民部省令寫之。而依無庚午籍。僅寫辛未籍。午未両 年。歳次相比。定知庚午始作。辛未終成。名実之違。識此之由也。望請。依件爲定者。大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣。依請。 弘仁十一年五月四日 (『類聚三代格』国史大系本。異体字・旧字体は古賀が適宜改めた)一応次の二つの理解が可能だ。
(A)文字通り「辛未年(六七一)」に造籍されたものが「辛未年籍」として常陸国には存在していた。
(B)常陸国(あるいはその一部)では、干支が一年繰り上がった暦法が使用されており、六七〇年の干支は「辛未」であった。従って、庚午年籍と同年に造籍されたものである。
ただ、ここで注目すべきは、この一年繰り上がった年干支の使用が事実であれば、大化五子年土器と『二中歴』の干支のずれと、同方向・同年数となっていることである。
たとえば、大宝二年は寅年で、その年に生まれた一歳の者の名前が干支にちなんだ場合、「刀良」「刀良売」という名前になるのだが、実際は大宝一年生まれの人名に「刀良」「刀良売」が集中しており、大宝二年生まれの人名には翌年の干支「卯」にちなんだ「宇提」「宇提売」「宇麻呂」となっている。こうした一年ずれの人名が持統十年(六九六)生まれの者まで遡って存在しているのである。それ以前は生年干支に一致した名前が多く、持統四年(庚寅、六九〇)生まれまでそうした現象が続く。そして、持統四年以前になると干支に一致する人名が急に少なくなり、その関係が乱れている。
岸氏はこうした現象を造籍時の混乱による錯誤ではないかとされているが、その場合、持統十年の「丙申年籍」造籍時には正しく記録しえた役人が大宝二年籍作成時にはそうした人名と生年干支のずれに気づかず、「一年」間違ったまま六年分の新規戸籍登録を行ったことになる。(注11)
しかし、この場合も干支が一年繰り上がった暦法が持統十年を境に使用されたと考えれば、こうした史料状況をうまく説明できる。しかも、持統十年(六九六)から大宝二年(七〇二)の一年繰り上がった期間内に、大化五子年も入っていることから、やはりそうした一年のずれが無関係に発生し、発生時期も偶然一致したとは考えにくいのではあるまいか。更に推論が許されるなら、持統末年から文武にかけての、こうした「混乱」は、古田武彦氏が提唱されたONライン、すなわち九州王朝から大和朝廷への中心権力の移動が七世紀末(七〇〇)に発生した、という仮説と密接に関わっていることも充分考えられるのである。
(10)岸俊男「十二支と古代人名--籍帳記載年齢考--」『西田先生頌寿記念日本古代史論叢』所収。
同「造籍と大化改新詔」『日本書紀研究』所収。
昨年九月、古田武彦氏らは韓国の武寧王陵碑を見学され、その碑面の字の改刻された痕跡を調査された。そして、武寧王没年干支「癸卯」の部分が改刻されており、原刻は「甲辰」であったことを確認された(注1. )。
こで古田氏は、干支が一年引き上がった暦が百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされた。そして、その改刻時期は同陵に合葬されていた王妃の埋葬時(五二九年己酉。王妃没年は五二六年丙午)に改刻された可能性が高いと指摘された。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行暦に変更されたと考えられるのである。
私も「二つの試金石」(『古代に真実を求めて』2集)において、「大化五子年土器」の干支が、『二中歴』などに見える九州年号「大化」に比べ干支が一年引き上がっていることを指摘し、干支が一年ずれた暦の存在を示唆したのだが、この武寧王陵碑も同様の痕跡を示していたのである。しかも、百済国王の墓碑という史料性格、学術発掘による発見という理想的な史料価値を有する金石文であることから、干支のずれた暦の存在を証明する動かぬ証拠とも言いうるのであった(注2. )。
以上、内外史料より四点の異暦混在の痕跡を検証してきたのであるが、この異暦混在の事実を受け入れることにより、『日本書紀』や中国史書における百済関連記事年次の全面的な再検討が必要になるばかりか、国内記事においても同様の史料批判が要請されること、自明であろう。と同時に、なぜこの時期、百済は暦の変更を行ったのかという問題が提起されよう。それらの問題は稿を改めて論じたいが、中国における南北朝対立の狭間でゆれる百済のおかれた国情を深く反映しているのではあるまいか。同様に倭国、九州王朝における異暦混在も今後の課題としなければならないと思われるのである(注6.)。
1. 『多元』二八号掲載、古田武彦「虹の光輪」にいきさつが紹介されている(一九九八年十月)。「多元的古代」研究会関東発行。なお本稿の帰結に従うならば、この碑に記された埋葬年干支の乙巳(改刻されていない)も一年引き上がった表記と見なし、従って同乙巳年の実年代は前年の五二四年となるところであるが、その日付干支から判断すると、この碑文の乙巳年は現行暦の五二五年乙巳の日付干支に一致している。従って、同碑文本来の原刻没年干支は一年引き上がった異暦で、埋葬年干支は現行暦で記されているという、一見奇妙な史料状況を示していることになる。このことから判断すると、百済が暦を変更したのは、武寧王没直後、埋葬以前となるのではあるまいか。
2. 干支の異なった異暦については、友田吉之助氏による精力的な研究『日本書紀成立の研究』(風間書房、昭和四四年刊)がある。同書に紹介された数種の暦に、本稿で取り上げた一年干支が引き上がった暦は見えないが、一年下がった暦は見える。もっとも、干支のずれの方向は史料理解の方法により逆転する可能性もあり、本稿の問題も含めてこの点留意が必要であろう。
6. 法隆寺釈迦三尊像光背銘に記された年日付干支より、同文は現行暦によることがわかるが、同光背銘に見える上宮法皇が九州王朝の天子多利思北孤のこととすれば、この時期、九州王朝では現行暦を使用していたこととなる。一方、後代文献に干支が一年引き上がってた九州年号を持つ記事が見える(『肥前舊事』引用「遊方名所略」他)。
また、『寧楽遺文』収録「金銅阿弥陀仏像記(西琳寺縁起所載)」に見える「寶元五年己未」という年号は(通説では斉明五年己未、六五九年とされる)、私見では九州年号「告貴元五年(五九八年、現行暦では戊午)」の誤記であり、この場合も干支が一年引き上がって翌年の己未とされているのではあるまいか。
[1132] 第2865話 2022/10/28, https://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/the-name-of-an-era-for-kyushu-dynasty/post-10740/
『肥前舊事 巻之一』に引用された「遊方名所略」「日本略記」の記事に見える九州年号「勝照二年(586年)丁未」と「鏡帝(當)二年(582年)癸卯」の干支が『二中歴』などの九州年号の干支と一年ずれています。両記事とも翌年干支が付記されており、先に紹介した武寧王墓誌や『万葉集』左注の「朱鳥」と同じ方向の一年のずれです。この後代史料中の異干支九州年号記事を、古代の異干支暦存在の痕跡とすることには慎重にならざるを得ませんが、皆さんに紹介しておきたいと思います。
[1144] 九州王朝説愛好家らの説で、 則天武后に追随して改正月したためにずれが生じたと主張するものがあります。 >>1149, >>1147, >>1146 岸俊男の研究にある戸籍の人名の干支とのずれを引いて根拠としています。 >>1147, >>1146
[1097]
砂川恵伸は九州王朝説の亜種のようなものを発表しています。
九州王朝説に強い影響を受けつつも、
そのすべてには納得がいかなかったようで >>1107 p.
[1098] 砂川恵伸は日本書紀の「歳次」用例をもとに、 歳次には3種類の意味があると考えました。 >>1099, >>1103
[1104]
α群は >>1100、β群は >>1101 か >>1102 で、
中国人だけが現行干支紀年法を使っていたのだといいます。
>>1103 pp.
[1114] 「・・・の前年」は、日本書紀の編纂から完成までのある時期の校訂作業中の使用法とされます。 >>1113
[1115] 「・・・の翌年」は、西暦699年まで近畿大和文化圏で使われていて、 西暦700年以後は中国と同じ「・・・の歳」で使われるようになったとされます。 >>1113
[1116] また、九州王朝の勢力圏ではそれ以前でも「・・・の歳」で使われていたとされます。 >>1113
[1123] 友田吉之助説の一年引き下げられた干支紀年法は「歳次」の誤解による1年ずれであり、 二年引き上げられた干支紀年法は「・・・の前年」と「・・・の翌年」の誤解による2年ずれなのだとして、 各事例の解釈が述べられています。 事例によっては古事記の曆であるとか、 即位紀年の取り違いであるとかの解釈にもなっています。 >>1118
次を「やどる」と訓ませて「歳次」でその年の干支を表す用法は、
前近代の東アジアでは常識でしたが、現代日本人にとっては常識ではなく、
不思議に感じられるのは確かです。ここでの次は元を辿れば十二次の意味なのでしょうが、
次といえば「つぎ」、「next」が連想されるのは当然です。
そんなふとした違和感から通説を疑ってみる姿勢は素晴らしいものですし、
常識や古くからの通説は意外と未検証の穴が残っているものですから、
学術的にも有意義な行為といえます。
しかしその結果通説や常識から大きく外れた回答に導かれたとしたら、
やはりそこで一歩立ち止まって考え直してみるべきなのでしょうね。[1111] 曆については、 古事記に日干支用例があるため当時中国暦が使われたと考えられるものの、 元嘉暦等に一致するものがないことから、古いものが使われたとしています。 論衡 に周の時代に倭人の来訪の旨があることから、 春秋戦国時代に九州王朝が中国暦を導入し、 それが近畿天皇家に伝わり推古天皇時代まで使われたのであって、 春秋戦国時代ないし周初の中国暦の可能性があるとしています。 >>1110
[1117] 元嘉暦が使用されている場合、 九州王朝の勢力圏で作成されたものか、 西暦629年以降の近畿大和勢力圏で作成されたものであることを意味しているそうです。 >>1113
[1125] 「古事記の使用した曆」は、月朔干支が元嘉暦から8干支遅れ (時代差あり) となるものだったとされます。 それは古事記に出現するだけでなく、平安時代にも使われていたのだというのです。 舒明天皇元年以後は公式には使用されなかったものの、 歴史と伝統のある由緒深い「古暦」で、 天智天皇系王朝が復活した平安時代初期には尊重され私的にあるいは宗教的・因習的なものに使用されていたと思われるそうです。 >>1118
[1122] 本書は一年引き下げられた干支紀年法の提唱者は友田吉之助によると木村正辞だとしています。 >>1118 しかし友田吉之助がそのように述べた箇所は見つけられませんし、 木村正辞はそのように主張していませんし、 本書における木村正辞の論文の引用にもそのような主張はありません。
[149] これは友田吉之助が指摘した紀年法の問題のうちの1つでもある (引用していないのは、さすがに分野と時代が違いすぎるから気づいていないのだろうけど)。
[1158] インド大乗仏教思想研究 : カマラシーラの思想, 芳村修基, 芳村教授遺稿刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12223138/1/48?keyword=%E5%A4%A7%E6%AD%B4 (要登録)