[14] 太古の昔には現行干支紀年法・十二支年と異なる、それらの原形となった紀年法が使われていました。
[27] 川原秀城は、 各国が独自の即位紀年を使っていた春秋戦国時代、 混乱を解消するために天象に基づく紀年法を模索したのが木星紀年法だと説明しています。 >>16 ただしその根拠は説明していません。
[28] 川原秀城は木星紀年法と干支紀年法の2つの紀年法に分けています。 また、木星紀年法から干支紀年法へは5段階で発展したと説明しています。 >>16
[118] 歳星紀年法は、 歳星 (木星) の位置を使った紀年法です。 歳星の公転周期が約12年であることに基づき、 十二次を12年周期の年名として使います。
[51] 戦国時代初期、 木星 (歳星) の軌道面ないし天の赤道帯を12等分し、 十二次としました。 木星は1年に1次ずつ東に移動するものとしました。 >>16
[52] このうち星紀の中央に太陽がきたとき冬至に当たるとしました。 >>16
[53] 歳星紀年法は春秋左氏伝や国語に見えます。 >>16
[117] 春秋左氏伝 の大体は魯公の即位紀年を使っていますが、 稀に歳星の位置で紀年しています。 >>116
[200] >>188 は十二次の分野の名前を紀年法として用いたものではないとしています。 十二支で呼ばれるようになるまでは紀年に用いたとは考えられず、 分野は専ら占星術で用いられたのだとしています。 >>188 /124 分野は地方を表すのであり、 それで歳を表すことができず、 実際に分野の名によって歳を示したものはないのだと説明しています。 >>188 /127-/128 ただし具体的な根拠を示して論証しているわけではありません (>>188 の著者としてはそれなりに根拠を示したつもりかもしれませんが: >>203)。
[201] 当時紀年法として主として即位紀年が用いられたことは、 古くから伝わる文献や金石文を見ると確実と考えられています。 紀年と共に木星の位置が記録されたとしても、 それが即位紀年に匹敵するような紀年の重要な構成要素の位置にあったのか、 暦注のような補助的位置付けだったのかは検討の余地があるといえます。
[13] なお新城博士は、左伝や国語の歳星位置は冬至の実見ではなく、 後の時代の不完全な推算だと結論付けています。 >>9
[38] 顓頊暦元と歳星紀年法 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66667/1/jic059_323.pdf
[6] 近代デジタルライブラリー - 戦国秦漢の暦法 ( 版) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1063831
[40] 暦Wiki/十二次 - 国立天文台暦計算室 () https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BDBDC6F3BCA1.html#t7ba0e03
[42] () http://www.wa.commufa.jp/tora/thedayafter/calender/saisei.htm
[82] 密教文化 Vol. 1956 No. 35 001加地 哲定「大術暦考 (続々) P1-18」.pdf, , http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%20Vol.%201956%20No.%2035/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%20Vol.%201956%20No.%2035%20%20001%E5%8A%A0%E5%9C%B0%20%E5%93%B2%E5%AE%9A%E3%80%8C%E5%A4%A7%E8%A1%93%E6%9A%A6%E8%80%83%20(%E7%B6%9A%E3%80%85)%20%20P1-18%E3%80%8D.pdf#page=12
[54] 天の赤道を12等分した区分に十二辰: 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥があります。 十二辰と十二次や木星の運行は一対一対応しますが、 順序が正反対でした。 >>16
[56] 西暦紀元前4世頃、 歳星の円軌道の1本の直径に対して線対称の位置にある天体を想定し、 太歳, 歳陰, 太陰などと称するようになりました。 >>16
[58] 太歳は木星と逆方向、十二辰と同じ順序で運行します。 >>16
[59] この十二辰を使った太歳紀年法が使われるようになりました。 >>16
[63] 国語や春秋左氏伝や呂氏春秋の紀年と実際の木星の位置との星次差から、 これらは星次差が0となる西暦紀元前4世紀頃に行われたものと考えられています。 >>16
[134] 新城博士は、 春秋左氏伝, 国語 の歳星記事の研究から、 西暦紀元前365年を甲寅歳とする超辰のない太歳紀年法の存在を立証しました。 >>116
[139] この暦元は、淮南子天文訓に 「太陰元始建于甲寅」 などとあることによります。 しかし干支紀年の現存最古は淮南子であり、 西暦紀元前365年頃は歳星が12年で1周天することを初めて知り得た頃で、 十二辰に限られ十干は未だ用いられなかったと考えられています。 >>116
[135] 呂氏春秋 の秦8年記事について、 王引之の太歳考は、 秦6年の誤りとする許氏周生の説を取りました。 そうすると現行干支紀年法と一致します。 >>116
[136] 新城博士は、 記事にあるような「秋甲子朔」を満たすのは秦始皇8年で、 前後10年にないことを指摘しました。 >>116
[119] 歳星の鏡像の架空天体には、 太歳, 太陰, 歳陰といった呼称があります。 >>116
[120] 古来これらの区別は深く考えられていませんでした。 >>116
[121] 清の銭大昕は十駕斎養新録巻十七太陰条で、 太歳 ≠ 太陰 = 歳陰であって、 太歳紀年法と太陰紀年法 = 歳陰紀年法には2辰の差があるとしました。 漢初には太陰(紀年法)が用いられた (史記, 淮南子, 石氏, 甘氏など) とし、 太初の頃には太歳(紀年法)が用いられたとしました。 >>116 (>>168 も参照。)
[125] 清の王引之は太歳攷で史料の詳細な検討などにより、 太歳 = 歳陰 = 太陰であることを論証しました。 以後多くの研究者がこれを支持し、 太歳紀年法と太陰紀年法の区別が存在しないことは通説となっています。 >>116
[126] ただ銭大昕説に基づく不正確な解説は今も残っています。
[101] >>34 は顓頊暦紀年法を太歳、それ以前のものを太陰と呼んで区別したとしています。
[127] >>44 は歳星紀年法が太歳紀年法や太陰紀年法に発展したとしています。 しかしその両者の違いは説明していません。
[128] 清の王引之は、 歳星と太歳 = 歳陰 = 太陰の関係に2通りの方法があると考えました。 >>116
[129] 清の董祐誠の太歳弁は、 歳星が実際には1年に1次に満たないのに対して太歳は1年に1辰進むため、 長い年月で次第に関係が相違していくことに原因を求めました。 >>116
[130] 日本の新城博士は、 戦国期の太歳紀年法、 顓頊暦紀年法、 現行干支紀年法と紀年法が変遷してきたことを具体的に論証しました。 >>116
[34] 天武天皇の年齢研究-干支と太歳 () http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-g12.htm
[30] 太歳 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%AD%B3
[31] 干支 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#.E5.A4.AA.E6.AD.B3.E7.B4.80.E5.B9.B4.E6.B3.95
[32] 旧暦で閏年のある年を太歳(大才)と呼んでいたか分かりますか?... - Yahoo!知恵袋 () http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12161327442
[33] () http://www.wa.commufa.jp/tora/thedayafter/calender/taisai.htm
[35] () http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saisei-kiji.pdf
[36] () http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saden-kokugo-2.pdf
[65] 木星の公転周期は11.86年で12年より少し短いため、 元期から約85年で1次のずれが生じます。 >>16
[66] 秦始皇帝元年 (西暦紀元前246年)、 顓頊暦紀年法が使われるようになりました。 >>16
[68] 戦国期と比較して顓頊暦では木星は3辰、 太歳には1辰の差があります。 >>16
[69] 五星占や漢書律暦志に顓頊暦紀年法 (十二辰) がみえます。 >>16
[141] その後十干を併用した十干十二支で紀年する方法が使われるようになりました。
[71] 淮南子天文訓が干支紀年の初出とされます。 >>16, >>116
[138] 清の銭塘の淮南天文訓補注は、 淮南子の淮南元年記事などから、 顓頊暦の推算であることを実証しました。 >>116
[140] 漢書律暦志の研究は、 顓頊暦の採用されるに及んで十干を組み合わせて六十干支に拡張されたとみるのが自然だとしました。 >>16 ただし厳密にその時期であることに特に根拠は示していません。
[70] 川原秀城は、 秦漢移行期頃、十干を併用した十干十二支を使うようになったとし、 顓頊暦紀年法の採用の次段階としています。 >>16 >>69 と >>71 の時間差がその根拠のようです。
[187] >>186 は太初暦から干支紀年法を用いるようになったとしています。 「初出」という意味なら淮南子がある以上明らかに誤りといえますが、 「公用あるいは常用(普及)の始まり」としてはこの説も検討の余地があります。
[181] 漢太初元年、秦以来の顓頊暦から新たに制定された太初暦へと改暦されました。 これに伴い干支年は従来より1年先に進みました。
[183] 太初暦の干支紀年法は、現行干支紀年法と同じものです。
[184] 太初元年の干支年については少なくても3通りが記録されています。
[185] その事情は完全には解明されていませんが、 改暦に伴う記録の混乱と理解されています。
[147] 漢書律暦志に、 太初元年は太歳在子の年であるとも、 丙子歳であるとも書かれています。 顓頊暦紀年法と一致しており、現行干支紀年法とは1年ずれがあります。 >>146
[114] 漢書所引漢志に太初元年は困敦 (子) 歳とあります (>>106)。
[115] この記述は、 三統暦の超辰法により現行干支紀年法と西暦紀元前95年で不連続で1年ずれが発生するため、 現行干支紀年法の丁丑ではなく丙子であるものと説明されています。 >>107
[157] 続漢書律暦志に、 太初暦は丁丑からとあり、 太初元年が丁丑歳であると解されています。 現行干支紀年法と一致しています。 >>146
[158] 漢書礼楽志に、 太初4(西暦紀元前101)年を執除 (辰) 歳との記述があります。 現行干支紀年法と一致しています。 >>146
其更以七年為太初元年。年名焉逢摂提格。
[162] 史記暦術甲子篇に、 太初元年が焉逢摂提格とあります。 >>146
[163] 漢書律暦志で太初暦改暦過程の太初本星度新正と関係して、
乃以前暦上元泰初四千六百一十七歳、至於元封七年、復得閼逢攝提格
とあります。 >>146
[175] 新城博士は太初元年を甲寅とするものを太初暦紀年法と呼びました。 >>146
[160] 清の王引之の太歳攷では、 太初元年は改暦 (改正月) のため15ヶ月あり、 前11月には太歳在子、 年後半には太歳在丑となるべきであることから、 これをもって従来の顓頊暦紀年法から翌年以後の現行干支紀年法に移行したものと考えました。 >>146
[72] 川原秀城は、 太初暦も木星の位置から歳名を決めたのは従来と同じでありながらも、 太初元年が15ヶ月で、 1年間に木星が1辰を超えたので、 この年の干支、紀年の元期が (顓頊暦紀年法なら丙子となるところ) 1つ先の丁丑と改められたのだと説明しています。 >>16
[164]
漢書律暦志の研究
は、
甲寅 (閼逢攝提格)
は太初暦の制定初期段階の案で、
鄧平案の段階では採用されなかったものが史記に残ったと考えています。
>>146
[165] 甲寅は、暦元の日干支を甲子とするようなもので、 或る種の紀年法で原始を意味する干支となっています。 >>146
[170] 清の張永祚は、 >>163 の 4617年は三統暦の元であり、干支の復帰する年数ではなく、 「復得閼逢攝提格」 と相応しないことを指摘しました。 >>146
[169] 清の王引之は、 >>163 の 「前歴」 からこの文が殷暦を説明するものと解釈し、 4617歳は4560歳 (四分暦の元) に、 太歳在子は太歳在寅に訂正するべきだと主張しました。 >>146
[172] 清の董祐誠は、 王引之説を概ね認め太初暦当初案が殷暦であり太初元年を甲寅歳としていたものとしましたが、 太歳在子については反対しました。 >>146
[173] 新城博士は、 史記暦書では年名だけでなく月名も合わないことから、 どちらも元始の年、元始の月という意味に過ぎないとしました。 また、 >>163 の「復得」は1元を経て日月の元始状態 (歳星は含まれない) に復するの意味だとしました。 つまり訂正は必要しないと考えました。 >>146
[174] しかし 史記, 漢書 を比較すればどちらも同じ太初暦初期案であること明らかで、 一方を元始の意味、一方を甲寅歳の意味と解している新城博士の説は不自然です。 >>146
[178] 王引之と董祐誠は、「前暦」と読みました。 漢書律暦志の研究 はこれに賛同し、 その場合は前暦、すなわち四分暦の元である4560年に改訂することが必然であるとしています。 >>146
[179] 新城博士は「乃ち以前、上元泰初を歴ること四千六百一十七歳にして、元封七年に至り」 と訓みました。 >>146
[180] 漢書律暦志の研究 は太歳在子については未解決としています。 >>146
[203] >>188 はこうした有力説とは少し違った説を唱えています。 その論拠には疑わしい点がいくつかあり、 そのままでは成立し難いと思われますが、 検討の余地がある興味深いアイディアもいくらか含まれます。
[226] この説の問題点はいくつか指摘できますが、 特に重大なのは地節3年に制度改変があったことの根拠が皆無であることと、 史記四分暦の歳名は重視する一方でその直前の十干異名はまったく無視していることでしょう。 史記によれば地節2年は「商橫攝提格二年」なのですから、 これが「強固」になった太初暦の歳名だったなら攝提格 = 寅だけではなく商橫 = 庚も重視されていなければおかしいのですが、 何の説明もありません。 改暦しているわけではないのですから、 わざわざリセットせずともそのまま続きでも良かったはずです。 そもそも「強固」になった太初暦の歳名を廃止して干支年を新規導入する理由もありません。 冬至だから旧年の年名を新年にスライドしてもいいという理屈も謎です (太初元年は15ヶ月あったので2年分進めたと説明が付けられますが、 地節2/3年はそのような特殊事情がありません)。
[227] >>92 は干支を解説したウェブサイトです。には存在したことが確認できますし、 原文はパソコン通信の投稿のようなので平成時代初期頃まで遡る可能性があります。 ここには干支年の起源について次のような解説があります。
具体的には漢の武帝の太初元年(BC104)に三統暦が施行されますが、 この時に年に十干十二支が割り当てられることも始められたと記録 されています。この年の干支は戊寅です。逆算すると元朔元年(BC128) が甲寅になります。
このあと、太初元年の36年後、地節2年(BC68)が甲寅になるのですが、 なぜか、その翌年の地節3年(BC67)も同じ甲寅にされています。それ 以降はこういう干支の閏は一切行われず、単純に60年周期で干支が 繰り返されています。
太初の時に年の干支を子ではなく寅から始めたのは、いわゆる三正論に よるものです。
・太初元年に施行されたのは「太初暦」であり、「三統暦」は元始年間に それが改造された改訂版である。両者は基本的な仕組みが同じであるた め、太初暦をも三統暦と呼んでいる文献がけっこうあるもよう。太初暦 になくて三統暦で加わったものの中で最も重要なのは「超辰法」である。 ・現在の干支が確かにBC67年以降継続していることはほぼ間違いない。 ・太初元年の干支に関しては、現在のところ次の3つの説が従来から主流 であった。 「甲寅」説(史記の記述による) 「丙子」説(漢書の記述による) 「丁丑」説(BC67年からの単純逆算) ・私が信じていた「戊寅」説は最近出てきた説の一つで、史記の記述の 「甲寅」をできるだけ生かそうというもの。BC68/67年の木星の位置 からこの2年は干支がだぶったと考えると、太初元年を寅年にできる という所から来たもの。しかしこの説では史記の「甲」までは生かす ことができず「戊寅」にならざるを得ない。 太初元年(BC104)が甲寅で、またBC67年も甲寅ということに関しては、後代の 学者がみな頭を悩ました問題のようです。そのため色々な人が色々なことを 言っているのですが、大雑把にいうと次の2通りの意見に分かれるようです。 ・BC67年に暦が改訂された時、干支も再び甲寅から始めた。 ・太初元年を甲寅としたのは後世の干支から「超辰法」で逆算したことに より出てきたものである。
ただしこの超辰は実際の所、一度も実行された形跡がないようです。太初 元年が甲寅であったとするのは後世の逆算結果、という考え方の場合、では 史記の記述はどうなるのだ?という所が一番痛い所のようです。
なにしろ史記を書いたのは司馬遷であり、その司馬遷は武帝に仕えていた のですから、その自分の時代のできごとを間違える訳がありません。そこで この説を採る場合は、史記の武帝の代に関する記述は、彼が武帝の機嫌を そこねて宮刑に処せられた時に同時に破棄されてしまったとし、現存の 武帝の時代の記述は後世の人が増補したものである、という説を採らざる を得ません(これも昔からある説のひとつのようです)。
ということで、私が再度資料をいろいろと見た現在のところの感想としては 太初元年に甲寅で暦を始めたが、地節3年(BC67年)にちょうど暦の閏の周期 が改まった時に、再度甲寅から干支を振り直した、といった所がいちばん もっともらしいのではなかろうか、と思っています。
[228] こうした記述に個々に出典は明記されていませんが、文末にいくつか参考文献が挙げられています。 それらの内容と比較するに、ここに引用した部分の大部分は >>188 に基づいているようです。 しかし細部が完全には一致してはいません。明記された参考文献の他に情報源がないとすると、 >>92 の著者の解釈または独自説ないし誤解ということになりますが、どうなのでしょう。
[231] >>229 はそのように拡大解釈できる余地があるにしても、 >>230 は史記を重視する >>188 著者の考えを無視して現行干支紀年法に無理に合わせようとしているのであり、 >>188 とは異なる説と言わざるを得ません。 しかし >>92 は自説ではなくそのような資料をみたような書きぶりです。 >>188 の後、昭和後期から平成初期の間に >>188 から派生した新説があったのでしょうか。
[235] この >>92 の説は史記由来の攝提格 (寅) だけを活かすために >>188 以上に多くの仮定や史料の無視が必要となるのであり、 よほど有力な新史料 (同時代金石文など) でもない限り、 成立しがたいというべきでしょう。
[233] ウィキペディアの元号記事の表は、 >>188 を出典に奇妙なことをしています。 太初では、太初元年の干支は4説あるとしています。 >>45 地節では、地節2年と3年の干支を同じとしています。 >>67 ところがこの3つの年以外はまったく現行干支紀年法そのものです。
[234] 干支年は基本的には連続的に変わっていくものなのですから、 ある年の干支に異説があるならば、 その前後の年にも影響が及ぶのが当然です。 ある年だけ突然変異的に違う干支年を選び、その次の年には元の法則性に復した、 などという説は誰も唱えていません。 ですから前後の年の干支も現行干支紀年法のままでいいはずがありません。 前後も変更することが難しければ、すべて現行干支紀年法で統一し、 問題の指摘されている年に注釈を付すという方法で十分だったはずです。 現状は干支年という紀年法の性質に対する根本的な理解を欠いていると言わざるを得ません。
[189] >>188 はその題名からは予想がつかない濃い本でした。 十二獣、 干支年等、 占術でおよそずつ、 それぞれ基本から専門的な事項まで詰め込まれています。 十二獣関連と占術以外の民俗・迷信的内容はあまりないものの、 十二支と干支の総合的な入門書として優れたものと見受けられます。
[190] 著者は生まれ、京都帝国大学で考古学と遺伝学を専攻した後、 高等学校の教諭。 本書は 茶道雑誌 の連載を基にしているとのことです。 >>188 /195
[191] ただし通説と異なる著者の見解も含まれていることには注意が必要です。 にも関わらず、旧説を個別に詳しく検討することを省いているのは、 本書が学術論文というよりは入門書という形態であるが故なのでしょうが、 批判のため敬意を失することを恐れて名前 (と出典) を省いた >>188 /195 ことと合わせ、学術的には問題があります。 通説と異なる見解であっても傾聴の価値はあるものと見受けられ、 著者の学識の高さを暗示するものでもあるだけに残念なところです。
[194] 超辰は、 干支年と天象 (歳星の公転) との同期のため、 ときに干支年を2年分進めるものです。 閏の一種といえます。
[74] 前漢末、太初暦を改め三統暦が作られましたが、 超辰法が導入されました。 >>16
[75] 歳星や太歳は144年に1次を余分に進めて145次動くとされました。 12 ÷ ≒ 11.917年の公転周期に相当します。 >>16
[76] 三統暦の暦元、三統上元は、 太初元年の143127年前です。 この年を丙子12としました。 >>16
で求められます。
[77] 三統暦に従うと太初元年は丙子となります (顓頊暦紀年法相当)。 に乙酉を飛ばして丙戌となります (太初暦紀年法相当)。 大始2年から後漢光武帝建武25年までは太初暦紀年法と三統暦紀年法が一致します。 つまり三統暦紀年法による過去の紀年は当時行われたものと一致しない場合があります。 >>16
[78] は三統暦によれば超辰して辛亥としなければならないはずですが、 庚戌とされました。 >>16
[79] 実施しなかった理由は難しすぎた、理解できなかったという説もあるようです。 >>16
[142] 歳名 (干支年) は前漢中期以後頻繁に史書に見え、 その頃通用が広まったものと見られます。 一般的になると不連続的に超辰することに不便が多く、 それが不実施の要因ではないかといわれます。 >>116
[195] 漢の時代の 「竟寧元年太歳在戊子」 銘の瓦磚があります。 西暦紀元前33年に当たります。 >>188 /123, >>81 29
[198] 羅振玉の俑廬日札によれば、 清光緒戊子(1888)年2月に無数に出土したものの、 多くは仏国人によって取り去られ、 羅振玉は拓本を見れただけだったとのことです。 >>199 >>188 /123, >>197, >>199 に拓本があります。
[196] 三統暦によれば超辰されているはずの時期ですが、 現行干支紀年法が使われていることが金石文からも確認できます。 >>188 /123
[80] 元和2年に三統暦から四分暦に改暦されました。 このとき超辰法は廃止されました。 >>16
[99] は現行干支紀年法で甲辰40です。 三統暦紀年法の式 (>>98) によれば戊午54になります。
漢曆、太初元年、距上元十四萬三千一百二十七歲。前十一月甲子朔旦冬至、歲在星紀婺女六度、故漢志曰歲名困敦、正月歲星出婺女。
とあります。 >>107
[109] 漢志曰くとして説明することから、 この太初元年の木星の位置は三統暦の作者劉歆の推算によるものだろうとされます。 >>107
[110] 実際のの天象は近代天文学によればこれとズレがあり、 太初元年の実測の結果ではありません。 差異を計算すると、太初元年の175年後 () の実測値に基づく逆算となります。 >>107
[111] 劉歆が三統暦を完成させたのは、 よりも後のこととされます。 これは >>110 と同時期と考えて差し支えないとされます。 >>107
[112] 超辰法はこの逆算に基づいた歳星位置に基づき計算されるもので、 従って太初暦当時のものではなく三統暦で定められたものと断定されます。 >>107
[95] >>124 >>61 は86年に一度超辰すると説明しています。
[192] これは現在の天文学で知られる実際の木星の公転周期と三統暦超辰法の閏の頻度を混同したものです。
[100] >>34 は約85年ごとに1次ずれるので修正が必要と説明しています。 (85/6年ごとに超辰するとはいっていません。) しかし >>34 は太初元年 (太初暦)、太始2年 (三統暦) と次々と超辰したとも説明しています。
[62] 十二支の起源と干支紀年は単純な60周期ではなかった! 時代や地域により異なること - NAVER まとめ () https://matome.naver.jp/odai/2141189052752056601?page=1&grid=false
[61] 新江 利彦 (Toshihiko SHINE) - 研究ブログ - researchmap, Japan Science and Technology Agency, https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/478418/f27697ca22778495fd65b8079c90677a?frame_id=973630
[41] 十二辰 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E8%BE%B0#.E5.A4.AA.E6.AD.B3.E7.B4.80.E5.B9.B4.E6.B3.95
[131] 現在用いられている干支紀年法は、必要があれば現行干支紀年法のようにいわれます。 特に区別の必要がなければ単に干支紀年法, 干支年と呼ばれます。 十二支のみのものは十二支年, 十二獣年と呼ばれます。
[132]
現行干支紀年法は、
殷暦紀年法 (
[133] 現行干支紀年法は、 三統暦紀年法のうち、三統暦が用いられていた時代のものと同じであり、 超辰を実施しないものに当たります。
[1] 記録には、現在に続く干支紀年法が通用したはずの時代に、 現在に続く干支紀年法と解釈すると何年かのずれが生じてしまうものが散見されます。
[2] それらを、現行干支紀年法と異なる紀年法によるものとする説があります。 実際のところそうした事例の多くは何らかの誤りだと考えられていますが、 実際に異なる紀年法によるものもいくつか混入している可能性があります。
[90] 日知錄 : 卷二十 - 中國哲學書電子化計劃, Donald Sturgeon, https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=374063&#p16
[91] usukura.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/usukura.pdf#page=2
[18] 川原秀城は薮内清に師事しており、 その研究を引き継いだものでした。また、本稿では
の資料が使われています。 >>16
[88] 20210713-mxt_kyokasyo02-000015567_001.pdf, , https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2021/000015567/20210713-mxt_kyokasyo02-000015567_001.pdf#page=5
干支は、中華王朝の殷の時代から使わ れている紀年法で、
生徒が誤解するおそれのある表現である。 (殷の時代における干支の使用法について確定して いるかのように誤解する。)
[137] いやそこは使われた形跡ないって断言しちゃってよ!
[43] Blog | 北辰結社 () https://simadu1123.wixsite.com/hokusin/blog-1/wu-ji-fa-jian-noocha-bi
[21] 誤記発見のお詫び。, https://simadu1123.wixsite.com/hokusin/post/wu-ji-fa-jian-noocha-bi
これ以降は言い訳になってしまうのですが、このような誤記が起こった理由を説明します。当初私は歳星紀年法の成立当初の方法、つまり木星が位置する方向を天文学的な正確な数値を元に十二次を当てはめようと考え、プラネタリウムソフトなどを利用し算定しました。それによって求まったのが「歳次鶉火」という記述です。
しかし、日本の具注暦では「木星の方向をたいして考えていな」かったのです。日本に伝わった頃には歳星紀年法は形骸化し、実際の木星の所在方向は気にせず、年の十二支との対照によって求めるようになり→「子:玄枵 丑:星紀 寅:析木 卯:大火 辰:壽星 巳:鶉尾 午:鶉火 未:鶉首 申:實沈 酉:大梁 戌:降婁 亥:娵訾」という対照方法が確立されました。なので日本の具注暦を再現する以上、この方法で対照しなければならなかったのです。
[23] 先秦年代学研究的理论与方法初探 - 民初思韻, http://cn.rocidea.com/one?id=10271
[24] 马王堆简帛的岁星纪年与干支纪年 - 知乎, https://zhuanlan.zhihu.com/p/682785345