[14] 太古の昔には現行干支紀年法・十二支年と異なる、それらの原形となった紀年法が使われていました。
[27] 川原秀城は、 各国が独自の即位紀年を使っていた春秋戦国時代、 混乱を解消するために天象に基づく紀年法を模索したのが木星紀年法だと説明しています。 >>16 ただしその根拠は説明していません。
[28] 川原秀城は木星紀年法と干支紀年法の2つの紀年法に分けています。 また、木星紀年法から干支紀年法へは5段階で発展したと説明しています。 >>16
[51] 戦国時代初期、 木星 (歳星) の軌道面ないし天の赤道帯を12等分し、 十二次としました。 木星は1年に1次ずつ東に移動するものとしました。 >>16
[52] このうち星紀の中央に太陽がきたとき冬至に当たるとしました。 >>16
[53] 歳星紀年法は春秋左氏伝や国語に見えます。 >>16
[38] 顓頊暦元と歳星紀年法 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66667/1/jic059_323.pdf
[6] 近代デジタルライブラリー - 戦国秦漢の暦法 ( 版) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1063831
[40] 暦Wiki/十二次 - 国立天文台暦計算室 () https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BDBDC6F3BCA1.html#t7ba0e03
[42] () http://www.wa.commufa.jp/tora/thedayafter/calender/saisei.htm
[82] 密教文化 Vol. 1956 No. 35 001加地 哲定「大術暦考 (続々) P1-18」.pdf, , http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%20Vol.%201956%20No.%2035/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%20Vol.%201956%20No.%2035%20%20001%E5%8A%A0%E5%9C%B0%20%E5%93%B2%E5%AE%9A%E3%80%8C%E5%A4%A7%E8%A1%93%E6%9A%A6%E8%80%83%20(%E7%B6%9A%E3%80%85)%20%20P1-18%E3%80%8D.pdf#page=12
[54] 天の赤道を12等分した区分に十二辰: 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥があります。 十二辰と十二次や木星の運行は一対一対応しますが、 順序が正反対でした。 >>16
[56] 西暦紀元前4世頃、 歳星の円軌道の1本の直径に対して線対称の位置にある天体を想定し、 太歳, 歳陰, 太陰などと称するようになりました。 >>16
[58] 太歳は木星と逆方向、十二辰と同じ順序で運行します。 >>16
[59] この十二辰を使った太歳紀年法が使われるようになりました。 >>16
[63] 国語や春秋左氏伝や呂氏春秋の紀年と実際の木星の位置との星次差から、 これらは星次差が0となる西暦紀元前4世紀頃に行われたものと考えられています。 >>16
[30] 太歳 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%AD%B3
[31] 干支 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#.E5.A4.AA.E6.AD.B3.E7.B4.80.E5.B9.B4.E6.B3.95
[32] 旧暦で閏年のある年を太歳(大才)と呼んでいたか分かりますか?... - Yahoo!知恵袋 () http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12161327442
[33] () http://www.wa.commufa.jp/tora/thedayafter/calender/taisai.htm
[34] 天武天皇の年齢研究-干支と太歳 () http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-g12.htm
[35] () http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saisei-kiji.pdf
[36] () http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saden-kokugo-2.pdf
[65] 木星の公転周期は11.86年で12年より少し短いため、 元期から約85年で1次のずれが生じます。 >>16
[66] 秦始皇帝元年 (西暦紀元前246年)、 顓頊暦紀年法が使われるようになりました。 >>16
[68] 戦国期と比較して顓頊暦では木星は3辰、 太歳には1辰の差があります。 >>16
[69] 五星占や緩徐律暦志に顓頊暦紀年法 (十二辰) がみえます。 >>16
[70] 秦漢移行期頃、十干を併用した十干十二支を使うようになりました。 >>16
[72] 川原秀城は、 太初暦も木星の位置から歳名を決めたのは従来と同じでありながらも、 太初元年が15ヶ月で、 1年間に木星が1辰を超えたので、 この年の干支、紀年の元期が (顓頊暦紀年法なら丙子となるところ) 1つ先の丁丑と改められたのだと説明しています。 >>16
[74] 前漢末、太初暦を改め三統暦が作られましたが、 超辰法が導入されました。 >>16
[75] 歳星や太歳は144年に1次を余分に進めて145次動くとされました。 12 ÷ ≒ 11.917年の公転周期に相当します。 >>16
[76] 三統暦の暦元、三統上元は、 太初元年の143127年前です。 この年を丙子12としました。 >>16
で求められます。
[77] 三統暦に従うと太初元年は丙子となります (顓頊暦紀年法相当)。 に乙酉を飛ばして丙戌となります (太初暦紀年法相当)。 大始2年から後漢光武帝建武25年までは太初暦紀年法と三統暦紀年法が一致します。 つまり三統暦紀年法による過去の紀年は当時行われたものと一致しない場合があります。 >>16
[78] は三統暦によれば超辰して辛亥としなければならないはずですが、 庚戌とされました。 >>16
[79] 実施しなかった理由は難しすぎた、理解できなかったという説もあるようです。 >>16
[80] 元和2年に三統暦から四分暦に改暦されました。 このとき超辰法は廃止されました。 >>16
[99] は現行干支紀年法で甲辰40です。 三統暦紀年法の式 (>>98) によれば戊午54になります。
[95] >>124 >>61 は86年に一度超辰すると説明しています。
[100] >>34 は約85年ごとに1次ずれるので修正が必要と説明しています。 (85/6年ごとに超辰するとはいっていません。) しかし >>34 は太初元年 (太初暦)、太始2年 (三統暦) と次々と超辰したとも説明しています。
[62] 十二支の起源と干支紀年は単純な60周期ではなかった! 時代や地域により異なること - NAVER まとめ () https://matome.naver.jp/odai/2141189052752056601?page=1&grid=false
[61] 新江 利彦 (Toshihiko SHINE) - 研究ブログ - researchmap, Japan Science and Technology Agency, https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/478418/f27697ca22778495fd65b8079c90677a?frame_id=973630
[41] 十二辰 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E8%BE%B0#.E5.A4.AA.E6.AD.B3.E7.B4.80.E5.B9.B4.E6.B3.95
[1] 記録には、現在に続く干支紀年法が通用したはずの時代に、
現在に続く干支紀年法と解釈すると何年かのずれが生じてしまうものが散見されます。
[2] その大部分は何らかの誤りに過ぎないと解釈されています。しかしながら、
[7] その由来は主に2系統あって、
のどちらかか両方の組み合わせです。理論的には
という可能性もありそうですが、そのような主張は見かけません。 天文学や暦学の知識をある者が既存の干支紀年法等の知識を得ることなく独立してこの種の紀年法を考案する筋道を考えにくいからでしょうか。
[149] これは友田吉之助が指摘した紀年法の問題 (引用していないのは、さすがに分野と時代が違いすぎるから気づいていないのだろうけど)。 友田吉之助説はそのままでは成り立たないが、 有意義な指摘は含まれていると考えて再検討はするべきだろう。
[22] 歳星=木星による紀年法の不具合。古代中国ではどのように対応したのか?|ゴールドライフオンライン, https://renaissance-media.jp/articles/-/14088
[90] 日知錄 : 卷二十 - 中國哲學書電子化計劃, Donald Sturgeon, https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=374063&#p16
[91] usukura.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/usukura.pdf#page=2
[18] 川原秀城は薮内清に師事しており、 その研究を引き継いだものでした。また、本稿では
の資料が使われています。 >>16
[88] 20210713-mxt_kyokasyo02-000015567_001.pdf, , https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2021/000015567/20210713-mxt_kyokasyo02-000015567_001.pdf#page=5
干支は、中華王朝の殷の時代から使わ れている紀年法で、
生徒が誤解するおそれのある表現である。 (殷の時代における干支の使用法について確定して いるかのように誤解する。)
[137] いやそこは使われた形跡ないって断言しちゃってよ!
[43] Blog | 北辰結社 () https://simadu1123.wixsite.com/hokusin/blog-1/wu-ji-fa-jian-noocha-bi
[21] 誤記発見のお詫び。, https://simadu1123.wixsite.com/hokusin/post/wu-ji-fa-jian-noocha-bi
これ以降は言い訳になってしまうのですが、このような誤記が起こった理由を説明します。当初私は歳星紀年法の成立当初の方法、つまり木星が位置する方向を天文学的な正確な数値を元に十二次を当てはめようと考え、プラネタリウムソフトなどを利用し算定しました。それによって求まったのが「歳次鶉火」という記述です。
しかし、日本の具注暦では「木星の方向をたいして考えていな」かったのです。日本に伝わった頃には歳星紀年法は形骸化し、実際の木星の所在方向は気にせず、年の十二支との対照によって求めるようになり→「子:玄枵 丑:星紀 寅:析木 卯:大火 辰:壽星 巳:鶉尾 午:鶉火 未:鶉首 申:實沈 酉:大梁 戌:降婁 亥:娵訾」という対照方法が確立されました。なので日本の具注暦を再現する以上、この方法で対照しなければならなかったのです。
[23] 先秦年代学研究的理论与方法初探 - 民初思韻, http://cn.rocidea.com/one?id=10271
[24] 马王堆简帛的岁星纪年与干支纪年 - 知乎, https://zhuanlan.zhihu.com/p/682785345