一百七十九万二千四百七十余歳

一百七十九萬二千四百七十餘歳

[12] 日本書紀天孫降臨から神武天皇までの膨大な年数を記しています。

[13] なんとも意味深ですが、意味が不明な謎の数値です。様々な解釈がされてきました。

目次

  1. 古代
  2. 中世
  3. 近世
    1. ホツマツタエの系統
  4. 近代
  5. 現代
  6. メモ

古代#

[14] 日本書紀 神武天皇即位前紀甲寅年に、 「自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲」 (1792470) と経過年数表示がありました。 「余」 とある通りこれは概数です。 日本書紀 編纂時点で既に正しい年数はわからなくなっていたのか、 元々概数でしかなかったのでしょう。

中世#

[18] 中世神道研究で、 この年数は様々な推定値が示されました。 >>2

[10] >>2 にあった表

瓊々杵朝火々出見朝鸕鶿草葺不合朝合計種別注釈
倭姫命世記1296年31万854363万7892年☆83万6042年☆179万2477※注1
天神祇王代記1300年代?31万8542年☆63万7892年☆83万6042年☆179万2476
神皇正統記1340年31万853363万7892年☆83万6043179万2468※注2
(神皇正統記異説)--(62万7893年)-179万2469
日本紀玉屋本720年31万8542年☆63万7892年☆83万6042年☆179万2476年※注3
(日本紀玉屋本原文)江戸時代31万854063万7892年☆83万6042年☆179万2474
天淵紀1300年代?--83万6042年☆179万2467
懐中歴平安後期?31万8542年☆62万7893-179万2476年
皇代記1380年31万8542年☆63万7892年☆83万6030179万2464
皇年代略記--83万6030-
元々集1337年頃--83万6043-
口訣1367年神皇正統記と同神皇正統記と同83万6043179万2468年※注4
口訣訂正値---(83万6042年☆)179万2467年※注5
應安本年代記1370年31万854163万7892年☆82万6040179万2476年※注6
寛正本天神祇王代記1465年天神祇王代記と同天神祇王代記と同(83万5676年)179万2479※注7
(皇代記異説)1380年皇代記と同皇代記と同83万6042年☆179万2476年
文正本年代記1466年31万8542年☆63万789083万6042年☆179万2474
日本運上録1591年31万854363万7892年☆83万6042年☆179万2477年※注8
神躰神名天皇名寶之巻1600年以降?(131万0000年)※(163万7890年)※(283万8042年)※☆(578万5932年)※※注9
ホツマツタヱ1770年代?(28万2078年)※(40万8982年)※(48万8940年)※179万2470※注10
(最大値)31万854363万789383万6043179万2479
標準値(最多説)31万8542年☆63万7892年☆83万6042年☆179万2476年
(計算上の最小値)31万853363万789083万6030179万2453※注11

☆印の数値がその後の諸説のスタンダードになっていく。当たり前だが、だからといって正しいわけではない。

◎印の数値は神皇正統記の系列。瓊々杵朝で10年少なかったり、鸕鶿草葺不合朝で1年多かったりするのが特徴。

  • 注1:伴信友は『倭姫命世記』の瓊々杵朝を31万8542年と1年少なくしているがこれは何かの誤記か勘違いだろう。
  • 注2:原テキストでは瓊々杵朝は30万、合計で178万になっていて1万年も少ないがこれは単なる誤写であって修正の必要がある。
  • 注3:日本紀玉屋本の原文では瓊々杵朝41万8540年となっているが単なる誤写であり31万8542年が本来の記述。
  • 注4:『神皇正統記』と同数値だが、これはもともと引き写しだからである。
  • 注5:口訣(神代巻口訣)の原文では(神皇正統記の引き写しであるから)179万2468年とあるが、天淵記によって179万2467年に訂正する説もある。
  • 注6:『應安本年代記』の3代合計は179万2473年になるはずで計算があわないが両説あるものと解釈してとりあえず原文のまま表示しておく。
  • 注7:「寛正本天神祇王代記」の3代合計は179万2110年になるはずで計算があわないが両説あるものと解釈してとりあえず原文のまま表示しておく。
  • 注8:落合直澄は179万2476年とするが何かの間違いか誤記と思われる。
  • 注9:『神躰神名天皇名寶之巻』(かみからだかみなすめらみことなたからのまき)とは所謂「竹内文献」のこと。邇々藝朝の数字は下四桁が単に誤脱している可能性もある。火々出見朝の数字は七桁目の100万以外は『文正本年代記』に一致。鵜萱朝の数字はスタンダードなものに200万2000年を加算したもの。ただし、竹内文献では鵜萱朝は「不合朝」と称して72代続いたことになっており、この数字は初代だけのもので残り71代を加算していないので神武天皇までの年数ではない。なのでここで合計年数を出してもさして意味はない。だが、竹内文献の戦後版では邇々藝朝が5代、火々出見朝が8代続いたことになっているのに、本文は各1代で次に継承されたように書かれていたままで改変の跡がない。なので、むりやり好意的に解釈すれば、邇々藝朝の数字は5代分の合算、火々出見朝の数字は8代分の合算とみることもできなくはない。同じ理屈で、鵜萱初代の数字も実は73代分の合算だと強弁できなくもない。
  • 注10:『ホツマツタヱ』の数値は瓊々杵尊の天孫降臨から数えたものではなく、アマテルカミの即位から数えたものである。日本書紀や他書と揃える意味でニニギネから数えると神武前7年(紀元前667年)は1180000年であって、1792470年ではないことに注意。
  • 注11:鸕鶿草葺不合朝の最小値は一覧表にある通り寛正本天神祇王代記の数値だがズレが大きく不審なので採らない。

『簾中抄』(1330年)、『佛法和漢年代暦』(1350年)、『元享釋書』(1322年)、『帝王編年記』(1301年)、『東寺年代記』(1436年)、『壒嚢抄』(1445年)、『文明本王代記』(1486年)、『文禄本年代記』(1595年)、『倭漢合運圖』(1611年)はいずれも瓊々杵朝31万8542年☆、火々出見朝63万7892年☆、鸕鶿草葺不合朝83万6042年☆、合計179万2476年とする。また内訳は明らかでないが『類聚神祇本源』、『神皇実録』、『参天台五台山記』も3代合計を同じく179万2476年とする。『神祇譜伝図記』は三代の数値と合計値とも『倭姫命世記』と同じであるがこれは『倭姫命世記』の引き写しである。

[22]

>>21 皇代記318542年637892年836042年合計1792476年
>>23 帝王編年記318542年637892年836042年合計1792476年
>>24 二中歷1792476年

神皇系図, 神皇実録にも二中歷と同様 >>20

[15] 同じく >>2 から

瓊々杵朝火々出見朝鸕鶿草葺不合朝干支からの計算結果備考
王代記元年己巳元年丁未元年己卯179万2486この書は76年説であり計算が合わない
簾中抄 参天台五台山記元年は戊寅--179万2477両書は76年説であり計算が合わない
皇和通暦天孫降臨甲申--179万2471
口訣--崩庚申(179万2468年?)データ不足で計算不能
天淵記元年戊子(理論値)--179万2467(この干支は年数から逆算して割り出したもの)
日本運上録甲午より丙戌に至る丁亥より戊午に至る己未より丁未に至る179万2461この書は77年説であり計算が合わない
(日本運上録考訂値)-丁亥より戊寅に至る-(179万2477年?)データ不足で計算不能
通證甲寅より丙戌に至る--179万2441

[16] 本項と直接関係ないが、更に古い時代に遡った表が >>2 にあったので参考までに。

天照大神天之忍穂耳命分類
天神祇王年代記9428万4000年5208万3929年A
寛正本天神祇王代記-88万3929年A
應安本年代記5028万7607年-A
文録本年代記5028万7607年5028万7607年A
皇胤紹運録(宝算10万5000歳)179万4300年-
和漢合運図 拾芥抄25万年30万年B
天淵記25万年(即位甲寅)30万年B
日本運上録25万年 (甲子より癸丑に至る)30万年 (甲子より癸巳に至る)B
(日本運上録考訂値)(甲寅より癸巳に至る)(甲午より癸巳に至る)B
神皇正統録 文正本年代記-30万年B
神皇正統録文正本年代記 皇代暦 編年合運25万年-B
神躰神名天皇名寶之巻170億万年130万0000年-
ホツマツタヱ24万0328年37万2142年-
  • 分類A系統の方が古くB系統はそれより新しいものだが、後続する諸書はB系統の説を採ることが多い。
  • A系統について、天照大神を5028万とする説は明らかに忍穂耳命の数値を誤記したもので9428万が本来の数字だが、下四桁の4000は7607の間違いのようにみえる。
  • 「億万年」という単位は、たんに「億年」の意味。昔風な表記。

[17] >>2

天神七代も同様に想像説がでて、一代あたり百億万年とか、あるいは一代あたり数百億万年台の数値が設定された(「億万」という単位は単純に億の意味)。詳細は下の表の通り。この表において出典の記号はA『天神祇王年代記』、B『二十二社次第』、C『拾遺集』、D『新古今』、E『皇代暦』、F『神皇正統録文正本年代記』『神皇正統録文録本年代記』『和漢合運図』、G『神名秘記』、H『神皇正統録』、I『本朝編年小史』『編年合運』『日本運上録』、J『神祇要編』、K『神躰神名天皇名寶之巻』

出典国常立尊国狭槌尊豊斟渟尊泥土煮尊角樴尊大戸之道尊面足尊惶根尊伊弉諾尊(備考)
A5400年3万3600年92万1600年--23万0400年5万7600年---
B6万2000年---------
C---23万9730年------
D----23万9730年-----
E--------1万3040年第6代までで8億年
F--------2万3040年-
G--------816万年-
H百千億万年800億万年800億万年200億万年-200億万年200億万年-200億万年-
I100億万年100億万年100億万年800億万年-800億万年800億万年-800億万年-
J800億万年800億万年800億万年200億万年-100億万年100億万年-100億万年-
K200億万年-100億万年200億万年100億万年100億万年110億万年110億万年100億万年-

その他の諸説

  • 『弘仁私記』天常立尊から惶根尊まで8000万億年
  • 『神皇実録』国狭槌尊から面足尊まで5代間が800億万年
  • 『神皇大道本義』天神七代で800万年
  • 『皇代暦』国常立尊から惶根尊まで6代間で8億年、プラス伊弉諾尊が1万3040年
  • 『神躰神名天皇名寶之巻』天常立尊は90億万年

[9] 宗像大菩薩御縁起

自天祖降跡以来、一百七十九万三十四年甲寅歳、釈迦仏出世、日本国〈仁波〉彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊御宇之末、震旦〈仁波〉周穆王之間也、

年代記類

[36] 縁城寺年代記 /123

近世#

ホツマツタエの系統#

スス暦

[4] 光物性物理学 - https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=349462... | Facebook, https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=5909436212508269&id=147721302013151

[7] 7 「一百七十九万二千四百七十余歳」が意味すること | 朝倉未魁の超訳ホツマツタヱ, http://hotsuma.anyone.jp/mikai/newtheory/%E4%B8%80%E7%99%BE%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%B9%9D%E4%B8%87%E4%BA%8C%E5%8D%83%E5%9B%9B%E7%99%BE%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BD%99%E6%AD%B3%E3%81%8C%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8/

[8] スス暦、一百七十九萬二千四百七十餘歳の解読, , https://indigoseal30.sakura.ne.jp/woshite/1792470toshi.html

近代#

[1] 天孫紀元

現代#

[25] 平成時代初期の友田吉之助の主張 >>20

[5] 1792470「一百七十九萬二千四百七十餘歳」を見直す () http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage995A.htm

[6] 日本書紀「1792470余歳」の解釈 () http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage995.htm

[3] 日本書紀の神武天皇紀「自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」の謎解きにチャレンジしてみる|和魂LOVE, https://note.com/nigimitamalove/n/n8897fac478a4

メモ#