大とう

大同 (元号)

[49] 大同元号の1つです。東アジアで何度か用いられました。

大同 (日本)

[51] 大同は、 平安時代初期の日本の元号の1つです。

大同・大道・大筒・大とう主要用例一覧

[329] 日本各地に残る大同と、 関係の深い大道大筒大とうの用例をまとめると次の通りです。

x
#
e
元号名
y
紀年
n
概要
l
所在地
p
時代
x
>>223
e
大道
y
1/3/1辰
n
両目秘伝書
p
l
江戸 (奥州家伝)
x
>>261
e
大同
y
1/3/14
n
石塔
p
近世後期採拓
e
大同
y
1/5/18
n
延暦大同 改元
p
e
大道
x
>>131
y
1/7/吉
n
石灯篭
l
和歌山県橋本市
p
銘文中世末以後, 採録
e
大同
x
>>268
y
1
n
横穴
l
千葉県富津市
p
横穴7C頃
e
大道
x
>>190
y
1
n
寺社起源説
l
鳥取県八東郡
p
大正採録
e
大道
x
>>214
y
1
n
安祥寺起源説
l
茨城県鹿島郡
p
明治採録
e
大同
x
>>244
y
2/3/3
n
仏像
l
岩手県遠野市羽黒堂
p
仏像
e
大道
x
>>102
n
佐取村文書
y
2/8/2
l
新潟県 (会津藩領) 佐取村
p
同著者, 収録
e
大とう
x
>>159
n
宮城八左衛門家文書
y
2/6/12
l
福島県耶麻郡
p
前, 写(偽), 近世初, 採録
e
大筒
x
>>159
n
宮城八左衛門家文書
y
2/9/12
l
福島県耶麻郡
p
前, 写(偽), 近世, 採録
e
大同
y
5/9/19
n
大同弘仁 改元
p
e
大道
x
>>143
n
斗賀霊験堂厨子
y
10
l
青森県三戸郡
p
正平建立, 仏像室町以後, 書体室町末, 昭和初再発見
e
大道
x
>>435
n
河津家文書
l
福岡県宗像市
p
(偽?), 採録

[330] おおむね近世のものと見られていること、 多くは東日本に所在しているものの、西日本にもいくつかあることがわかります。

[331] 大同は5年まで続いたのに対して、これらの用例は元年、2年に集中しています。 大道10年の異様さが際立ちます。

大同元年在銘横穴

[268] 日本国千葉県富津市絹横穴群の1号横穴に 「大同元年」と掘られています。 >>88, >>269, >>270

[276] この横穴は7世紀頃のものとみられているようです。 >>275

[277] 銘文はいつ掘られたものか必ずしも明確ではありませんが、 昭和時代初期の発見より前なのは確かで、 書体や記載内容から古いものと考えられているようです。 >>88

[278] しかし横穴の造営とには開きがあり、 祭祀の継続を表しているのだろうかと推測されています。 >>88, >>269, >>270

[279] だとするとなぜ大同元年に(だけ)年号が刻まれたのか考察がほしいところですが...
[269] 市宝探訪(遺跡) | 富津市, 2013年3月18日, , https://www.city.futtsu.lg.jp/0000000782.html

絹横穴群は、岩瀬川流域の丘陵南斜面に開口する横穴墓群で、総数11基が確認されている。このうち1号横穴の壁面から「大同(だいどう)元年」「許世(こせ)」の文字が、また10号横穴の壁面からは「木(き)」の文字が発見されている。「許世」「木」はそれぞれ畿内の古代豪族、巨勢(こせ)氏・紀(き)氏を示すものとして、被葬者との関係が注目される。また大同元年(806)は平安時代初期で、横穴墓が造られた時代よりはやや下るが、埋葬・祭祀(さいし)が継続していたことを物語っている。昭和41年県史跡。

[270] 絹横穴群/千葉県, 千葉県, 更新日:令和3(2021)年2月22日, , https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-030.html

注目されるのは2基の横穴墓の壁面に文字が刻まれているのが確認されていることである。1号横穴には「大同元年」・「許世」、10号横穴には「木」の文字がそれぞれ刻まれている。

「大同元年」は西暦806年で、平安時代初期の年号である。横穴の造られた年号ではないが、造墓後の祭祀、追善行為等を考える上で貴重な資料といえよう。

伝承の大同

[17] 空海が大同元年に帰朝したとされます。東北に限らず各地の寺社に大同年間の伝承が空海に絡むもの、絡まないもの含めあるようです。

[18] 大同元年には磐梯山が噴火した記録もあり関係が指摘されます。

[54] 東北には延暦、大同年間の坂上田村麻呂関連の伝承が多いようです。 ちょうど坂上田村麻呂の遠征の時期にあたっています。

[47] 中世日本紀的なやつと理解したらいいのか? はたまた五月丙午?

[52] >>50

  • 2年(807年)
    • 東北地方の数多くの神社仏閣の創設に関わる縁起が語られている。清水寺、長谷寺また善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年が創設年であるとされている。

[53] そもそも四国八十八箇所の多くが行基空海の伝承があるのですよね。 その他の日本各地の寺も。 「大同」の元号に意味があったというより、 伝承の結果として大同元号が広がったというべきでしょう (元々は)。 坂上田村麻呂についても同様でしょう。

[72] いつしか「大同」伝承にはいろいろな意味が付加されていったようです。 同音の 「大同」「大道」「大洞」 に絡んだいろいろな思想との連想だったり、 東北という辺境の地や坂上田村麻呂蝦夷平定と絡めた中央 vs 地方、 反日本政府的な因子を呼び込んだり。 伝承が連想を呼び、思想が伝承を創り出したのでしょうから、 何から何が生じたのか解きほぐしていくのはなかなか難しそうです。

[267] 「大同」の伝承は東北地方に多く、 東北地方のものが特に昭和時代に好んで語られたようですが、 他の地方にも大同年間創建と伝わる寺社などは多数あるようです。 東北地方の「大同」に地域的特殊性があるのか、あるとしたらどのような点においてなのか、 は東北地方の伝承だけではなく日本全国の伝承を総括的に調査しなければ判明しないはずなのですが、 手つかずのように見えます。


[62] 山島民譚集, 柳田国男, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1460962/1/11

大同2年は奥州の伝説で最も有名な昔。

[11] https://unii.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=572&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1 PDF 8頁

大同は実態ではなく象徴の年号

観音信仰との結びつき、 民間の歴史における画期。 世直しと関連する私年号的なところもあるか。 礼記礼運簾に由来する大同思想と関係する。

[239] 「世直しの私年号」という発想はある種昭和時代後期から平成時代初期の歴史観的なところがあり、 過去の実在の元号を使った昔話まで私年号「的」と括ってしまうのは慎重になったほうがいいかもしれない。 このような推論が許されるなら、 役行者白鳳年間の伝承も「世直しの私年号的」要素を見出さないといけないし、 聖徳太子が推古天皇何年に建立したとか、 神功皇后の何年に建立したとか、 神武天皇の何年とかいう伝承も 「世直しの私年号的」性質が垣間見えるということになりかねない。

[425] >>424 仙台、大同4年8月2日銘。古いものとは考えられていないらしい。ただ銘文の古めかしい感じはちょっと気になる。

岩手県遠野の大同

[12] 遠野物語考 - 赤坂憲雄 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=3fdMAAAAMAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E5%A4%A7%E5%90%8C

28 ページ

土淵村には大同というイェが二軒あり、そのうち山口の大同は当主を大洞万之丞 といったことが、第六九話には見えていますから、柳田の解釈に一 この旧家に 伝わる禁忌の由来譚となっています。以下のようなものです。ウチ 定の裏付けを ...

35 ページ

大同はとりあえずはヤマト王権の年号です。なぜ、ヤマトの年号が東北の山深い 里の旧家の屋号に重ね合わされているのでしょうか。その問いの背景には、 おそらく古代以来の東北の語られざる歴史がひっそりと埋もれているのです。 ここで、 ...

36 ページ

とかぎらず、稗貫・和賀・江刺・閉伊地方では、ものごとの起源を語る伝承の なかにしばしば大同の年号が登場する、といいます。『遠野物語拾遺』第二八話 には、松崎村の矢崎にある母也堂という小さな祠と堰にまつわる人柱伝承が語 られ ...

41 ページ

ところで、大同年号については、いくつか補足をしておく必要があると感じてい ます。ひとつは大道(大同)年号をもつ鍛冶絵巻が、昭和二十八(一九五三)年に、 遠野からは境木峠越えの街道が通じていた東海岸の町、大槌で発見されている こと ...

42 ページ

赤坂憲雄 42 それにしても、大同が東北の地にあって固有に、いわばひとつの歴史 の起源を象徴する年号として流通させられてきたことは疑いないでしょう。大同 はヤマト王権の東北侵攻と密接に結びっきながらも、つねに東北においては歴史 ...

[16] 悪路王が亡くなったという「大同」年号と「洞」の謎 | 仙台まほろばの道 Part2, 2020-10-15, https://ameblo.jp/tohoku-inehapo/entry-12631672503.html

『東北学/忘れられた東北』赤坂憲雄著に、 大同のことについて触れてました。

「大同2年に窟の奥で悪路王は死んだ」

赤坂憲雄氏によれば、 柳田国男の『山島民集』に、 「大同ニ年はなぜか知らぬが我邦の伝説の上で 極めて多事なる年である。 殊に東北地方では弘法大師も田村将軍も共にこの年を 期して大に活動して居る」と。

「大同は、大洞(おおほら)かもしれない。 洞とは東北では家門または族ということだ、と書きつけていた」 大同家は遠野の草分けのイエのひとつである。 その旧家をめぐって『遠野物語』ではいくつかの話しが分けられている。

早池峰や六角牛山などの遠野の古社は、 大同年間の創建と伝えられ、人柱をもつ古い堰が 大同の堰と名付けられていると。

遠野だけではなく、岩手県一帯、稗貫、和賀、江刺、閉伊など の地方ではものごとの起源を語る伝承のなかには、 しばし大同年号が見出されるとの事。

[253] 海燕 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=dbrlAAAAIAAJ&q=%E5%A4%A7%E5%90%8C&newbks=1&newbks_redir=0

146 ページ

... 大同という年号と、大同家との結びつきには、ある種の物語第二四話の註として、柳田はこう書いています、〝大同は大洞かも知れず、洞とは東北にては家門または族といふことなり。常陸国志に例あり〟。土淵村には大同というイエが二軒あり、そのうち山口の大同 ...

149 ページ

... 大同というのは、大同元年に甲斐国より移住してきた家であるからだと語られています。これだけが遠野の伝承であり、あとは柳田のつけた注釈的な部分になっています。ふたつの起源の時間が大同というイエに絡まりついていることは、明らかといえます。仮り ...

152 ページ

... 大同二年と墨書された文字がはっきり読み取れます。ここで、大同をめぐる問題はさらに大きく屈折を強いられることになります。南北朝時代にこの地域で、大同が私年号として使用されていたことが確認されたからです。大槌の鍛冶絵巻に使われた大道年号 ...

[252] 遠野/物語考 - 赤坂憲雄 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?newbks=1&newbks_redir=0&id=zG0nAQAAIAAJ&dq=%E5%A4%A7%E5%90%8C

28 ページ

... おそらくはそれが、『遠野物語』のもっとも古層に沈められた歴史だろうと思います。「大同」という屋号ないし年号にかかわる伝承について、ここでは考えてみたいと思います。大同をめぐる伝承に絡みついている遠野の、そして東北 ... そのものになりうる ...

32 ページ

... 大同元(八〇六)年の移住という伝承とは、齟齬を来たしているわけです。あきらかに坂上田村麻呂の東北征討の時代である大同という年号と、大同家との結びつきには、ある種の物語的なよじれが含まれてそのうち山口の大同は当主を大洞万之丞といったことが ...

40 ページ

... 大同というのは、大同元年に甲斐国より移住してきた家であるからだと語られています。これだけが遠野の伝承であり、あとは柳田のつけた注釈的な部分になっています。ふたつの起源の時間が大同という家に絡まりついていることは、明らかといえます。仮りに ...

42 ページ

... 早池峰山のある岩窟で霊告のようなものを得たので、始閣宮本と名をあらため、その夏に嶺の霊地に一宮を建立したといいます。そして、弘仁年間には剃髪して清僧となり、普賢坊と改名し、早池峰山妙泉寺の開山別当として二十九年、七十余歳で承和元(八三四) ...

42 ページ

... 六角牛山善応寺由緒」によれば、すでに廃寺となっていますが、やはり由緒のあるこの善応寺という古寺について、開基は大同年間と伝えられるが、昔、乱世のときに兵火をうけて、代々の旧記などはことごとく焼失した、とされるのです(以上は『早池峰山妙泉 ...

44 ページ

... 早池峰山妙泉寺のがわに残る古文書が、開山のときを大同年間にもとめるのにたいして、在地レヴェルの伝承が南部家入部の後とすることは、なかなか興味深い亀裂ないし断層といえるでしょう。第二四話の大同という旧家の由来譚がそうであったように、ここに ...

45 ページ

... 大同はその延暦と弘仁とのあいだにはさまれた年号(八〇六~八一〇)であり 時間のまどろみの底深くに埋もれてい 045 第一章物語考 、むしろ戦乱がなく、一時的な平和が保たれていた時期であったと思われるのです。すくなくともヤマトの正史のなかでは、大同年号 ...

47 ページ

... 大同二年の年号が見られることです。表面の懸仏像の様式からみて南北朝時代のものと推定され、この大同は応安年間(一三六八~一三七五)に使われた私年号であることが、研究者によって明らかにされています。それを伝えた『岩手日報』の一九八〇年十一月七日の夕刊の ... 絵巻の巻頭に大道二年の日付けが附記されているわけです。この大道はヤマトの年号には見られず、大同をさすものと一応は解釈されるべきでしょう。実際、絵巻には古代の製鉄の光景が描かれ、人物や風俗も平安時代のものであるといいます。もちろん後世の加筆である可能性は否定できませんが、この地域にヤマト王権の進出とともに鍛冶・製鉄の技術が入っていることは、平安期の ...

48 ページ

... 大同年号が、はじまり大同という年号をめぐって、田村麻呂の東北侵攻の時代/南北朝時代/遠野南部氏の入部の時代と、東北の古代から中・近世にまたがる三つの時代が交錯していたことが知られるでしょう。大同という旧家・大同の堰・早池峰山妙泉寺・六角牛山善応寺......など、さまざまな起源伝承のなかに登場してくる大同年号が孕んでいる、幾重にも屈折した歴史的時間の連なりを思うとき、大同という年号の背後に横たわるのは、まさに遠野の、おそらくは東北の歴史そのものなのだと感じざるをえません。ここで、大同をめぐる問題はさらに大きく屈折を強いられることに ...

48 ページ

... 年号として流通させられてきたことは疑いないでしょう。大同はヤマト王権の東北侵攻と密接に結びつきながらも、つねに東北においては歴史の起点のときとして物語られてきた年号である、ということです。たとえ、さまざまな由来伝承のなかに見える大同年号 ... 絵巻に使われた大道年号に関しても、私年号であった可能性が考慮されなければならなくなってきます。手元にある『日本史年表』歴史学研究会編、岩波書店)に付された「中世私年号一覧」のなかにも、使用された地域を特定できないのが残念ですが、慶長十四(一六〇九)年前後とされる大筒・大道という私年号が見えるのです。ともに大同年号への後世の仮託か、と推測されているようです。

85 ページ

... 年号記銘のオシラサマが数多く残されたのであろおし金野静一によれば、天正・慶長期の神体には、ロクロを用いて作られた精巧 ... 年号のあるオシラサマは、種市町で発見された大永五(一五二五)年のものであるが、それから半世紀ほど遅れる天正・文禄・慶 ...

[260] 岩波書店日本史年表 の版があるようです。 国会図書館デジタルの検索によると、どちらも非公開ですが、 前者には 「付録2異年号·私年号一覧」 があるようです。 「中世私年号一覧」とは少し違うようですが、そうなるとここで参照されているのは後者なのでしょうか。 後者は千々和到によるもので、 板碑とその時代 >>311 の表の別バージョンです 千々和到

羽黒堂

日時事例

[246] これは「大同2年」銘があるにも関わらず、 と解釈されています。 そして「大同は私年号」 と説明されています。 >>243

[258] これは表面の懸仏像の様式から年代が推定されたとのことです >>252

[259] 出羽神社こと羽黒堂は例によって坂上田村麻呂の伝承があるそうです。

[241] 寒風出羽神社 - 「遠野」なんだり・かんだり, 2010-03-06 16:11:34, https://blog.goo.ne.jp/fuefukidouji_2006/e/f6bdd16aa2e48f183d78dba4fbf4a7f5

ここに伝わる宝物に遠野市指定文化財となっている「金銅聖観音坐像懸仏」大同2年銘があるが、

文化財の説明書によると、正式年号では応安2年(1369)と云うことらしい。

応安は北朝年号であり、市立博物館で所有しているという太刀にも同年代の北朝年号が記されており、この時期の遠野の情勢に興味が湧く。

また、同じ綾織町長岡の出羽系神社には室町時代の懸仏があり、羽黒派山伏である善行院や慈聖院との関わりが想像される。

[240] 認定番号78:羽黒堂と羽黒岩 - 遠野市, 遠野市, https://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,73716,303,656,html

羽黒堂は、坂上田村麻呂が蝦夷「岩武(いわたけ)」を討った後、村人たちの繁栄を願って権現を祀ったのが始まりという。羽黒堂の本尊は、鏡の表面に観音像を浮き彫りであらわした「金銅聖観音坐像懸仏」である。裏面には「大同二年三月三日」の墨書があるが、応安二年(1369)と推定されている。

[432] 岩手の歴史論集 2 (中世文化), 司東真雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9538754/1/283 (要登録) 左

岩手県江刺の大同

宮城県の大同

[248] >>247 大同銘の仏像、大同2年3月17日銘の懸仏が偽銘とみなされ収録されなかった旨の注記があります。

[249] このような編纂方針は残念です。しかし注記があるだけまだましな方ともいえ、 注釈すらせずに無視されているものが他の地方にも多く埋もれている可能性があるということです。

福島県の大同

[251] >>250 日本岩代国信夫郡小倉寺村字拾石観音堂、 本尊千手観音像は行基作とされ、 大同2年3月17日開基という伝承。 キーワード: 羽黒山

太同

[423] 太同と書かれることがままあります。相当多いというわけでもありませんが、 無視できないほどにはたくさんあります。その一部を挙げると次の通り。

[396] 下野星宮神社(栃木県下野市下古山) | まほろば御朱印紀行, https://ameblo.jp/kokushimahoroba/entry-12796869229.html

こちらの神社の由緒は、次の通りです(由緒書による)。

「御由緒 厄除 方位除 八方除の開運導きの神様

当神社は第五十一代平城天皇の御代、太同二年(807年)4月10日、藤原鎌足十代の後裔飛鳥井刑部卿院旨の命により地方の開拓司として当地に居住し、開拓守護神として磐裂・根裂神の神様を児山の郷の乾の方に祀ったのが始まりと伝えられております。 また、一説には康和元年(1099年)に飛鳥井刑部卿がこの地に社を祀ると在りますが定かではありません。

[397] KJ00005612486.pdf, , https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/4396/files/KJ00005612486.pdf #page=9

了法寺由来書寺家ノ説曰太同二年天台僧行禅上人ノ

[409] 紀伊続風土記 第1輯, 仁井田好古 等編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9573494/1/221 (要登録)

[410] >>409>>397 と同じやつ

[408] 明治時代の佐伯写真集と現在の風景比較, , http://panorama.mbsrv.net/satobus/mukasi.html

五所大明神社 今のパノラマ

佐伯町臼坪に在り太同元年豊後の守佐伯の宿彌久良麿の創始に係り加茂、春日、住吉、梅の宮、稲荷の五所を合祀す享保六年正一位の神位勅額を得たり末社二あり鎮魂善神と稲荷明神となり

[411] 南原青年雑誌 (2), 南原青年一志会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1602090/1/11 (要登録) 左

[412] 在原業平, 鵬南, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/780965/1/21

[413] 国史大系 第6巻 日本逸史 扶桑略記, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991096/1/305

右上注釈、2年は太? 3年は大。

[414] ことばの泉 : 日本大辞典, 落合直文, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/862875/1/367 左上

[415] 和賀郡地理, 川口卯橘, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/763556/1/8 左上

[416] 大日本老樹名木誌, 本多静六, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/951274/1/54 左下

[417] 松浦叢書, 松浦武四郎 (弘), , , https://dl.ndl.go.jp/pid/849762/1/95 (要登録) 左

太同元年銘の伊部焼硯

[419] 演説軌範 第6−9号, 伊東武彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/861771/1/99 (要登録) 左下

[421] 松屋筆記 第1, 小山田与清, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1087778/1/28 右下

[422] 弘法大師, 大富秀賢, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/909032/1/47

大同元年石塔

[261] >>14 では

狩谷棭斎蒐集日本金石拓本

大同元年3月14日 会津八一題字付箋あり

拓本

印記:好古

市島春城旧蔵

と説明されています。 オリジナルの石塔がどこの何かは説明がありません。 会津八一, 市島春城近代日本新潟県の人物。

[262] 狩谷棭斎の著作のどこかに説明があるかもしれませんが...

[263] 拓本画像によると板碑か何かのような石造物で、 銘文中には 「大僧都智涭? 授?卯󠄂(印)?, 阝かも」 と人名らしきものと、 「大同元三月十四日入寂」 と紀年があります。 >>15

[264] は丙戌なので公年号大同です。 改元日延暦25(806)年5月18日なので2ヶ月の遡及年号です。

[265] このような石造物が作られるのも、紀年の様式も、 明らかに中世以後のものです。 原碑の保存状態が不明なので断言し難いですが、拓本で字形がかなり鮮明ですので、 大同年間から風化せずに江戸時代まで残ったと考えるのも無理があります。

[266] 紀年はあくまで死去の日で建立日ではありませんから、 後になって追慕のため作られたものなのでしょう。 であれば遡及年号も問題とはなりません。

大日

[427] 日蓮聖人遺文全集講義 第15巻下, 平楽寺書店, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1244605/1/25 (要登録) 左

[429] >>427 日本で 「大日改元丙戌」。 正しくは日本では大同元年丙戌。

[430] 現在知られる「大日」の用例はこれ1つだけで、単発の誤りとみられる。 ただし日蓮関係ということで同文が複数の書籍にあり。 原文からこうなのか、伝写の過程で誤ったのかは不明。

大道

[66] 近世近代には私年号の1つとしてよく知られていました。 ほとんどの年表・辞典が取り上げており、 南北朝時代頃とするのが通説で、 昭和時代中期頃までそれに異説はありませんでした >>106 p.四四五後南朝と関連付けられていました。

[67] 久保常晴は既知および新出の資料を検討し、 それが南北朝時代ではあり得ないと結論付けて通説を否定しました。 そして先行研究および自身の研究 (>>141 >>146 >>144) より、 「一応」慶長14年前後と推測しました >106 p.四五四。 確定できず留保しているのは干支年を伴うなど年を確定させられる確実な資料を欠くことによります。

[147] しかし敢えて言うなら特に「14」年を選んだ理由はよくわかりません。

[68] 久保常晴切支丹との関係を説いている。

[437] 東奥文化 (30), 青森県文化財保護協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4416715/1/26 (要登録)

会津藩領佐取村の大道

[102] 「大道」の初見はまでに会津藩が編纂した 新編会津風土記 です >>106 p.四四五新編会津風土記 所収の会津藩蒲原郡 佐取村 条には、 肝煎石井次郎右衛門家の古文書5通が収録されています。 >>111

日時事例

[112] 新編会津風土記 は、大道という元号はなく、 「文書のサマ」 は大同の誤りにも見えない >>111 と注しています (がそれ以上は踏み込んでいません)。

[119] 編纂担当者はこの古文書を実見して収録したということだと思われます。 しかし編纂側も、村民側も、それがいつのことでどのような理由で伝来するか明確に説明できなかったのでしょう。

[116] 江戸時代の研究者山崎美成 (-) 海録大道二年 に、この一連の文書と同じらしきものについての記述があります。 それによると、 佐取村の吏某が先祖石井彦七に賜いしという古文書3通があり、 大道二年八月二日とあるのだそうです。 >>115

[117] 海録 は、 「文字の体紙帛の質」から元弘建武よりは後のものだろうと推測しました。 >>115 つまり文書の様式から南北朝時代頃の元号と考えたようです。

[118] 明記はありませんが、書きぶりから、 山崎美成は原文を実見したということでいいのでしょうか。
[332] 厳密には、建武より後としただけで下限は示していません。 どれだけ具体的なイメージを持っていたのかはこれだけではよくわかりません。

[212] そして古文書を賜いしは高倉宮の末裔であること、 詳しくは冊子高倉宮御墓考に書かれている、 としていました。 >>115

[121] 高倉宮御墓考 とは 日本古典籍総合目録高倉宮御墓考, 高倉宮以仁王御墓考 という名前で収録されたものと思われます >>122

[123] 宮城三平 (-) 高倉宮以仁王御墳墓考 >>120 とも同じものでしょうか?

[124] 高倉宮以仁王御墳墓考 によるとこの地域一帯には高倉宮こと以仁王の落人伝説があるようです。 しかし本書には佐取村のことや、 大道のことは見えません。 山崎美成は本書に何を参照したかったのでしょう。

[125] 日本私年号の研究 は、 海録 が紙質から南北朝時代頃と推測し、 南朝と関係する高倉宮を引き合いに出して裏書きしようとしたとまとめています。 >>106 p.四四八󠄃 しかしこの高倉宮源平時代以仁王のことなら、 南朝とそれほど強く結びついているとも思われません。 次の項に小倉宮のことがあり >>106 p.四四九、 混同による誤解かもしれません。

[209] 江戸時代の研究者伴信友年号の論でも、 佐取村の用例と南紀の用例を紹介していますが、 佐取村のものについて 「南朝の高倉宮考という書」 に南朝末期頃のものだろうと推測されている、 と書かれています。 >>208

[210] 日本私年号の研究 はこの箇所では 年号の論 を参照していませんが、他の箇所では引用しているので、 久保常晴も当然これを読んでいたはずで、 伴信友の誤解をそのまま引き継いでしまったのかもしれません。

[211] 年号の論 は情報源を明記していませんが、 その内容は 海録 とほぼ同趣旨で独自の情報はありません。 従って 高倉宮考 とは 高倉宮御墓考 のことなのでしょうが、 「南朝の高倉宮」 がいないとすると、 伴信友はこの書を入手していなかったことになります。 海録 の紛らわしい書き方に誤読させられて、 高倉宮考 で南朝元号説が語られているような書き方になっています。

[126] 日本私年号の研究 は、 古文書新編会津風土記の5通に対して 海録 では3通とあることや、 記載内容がやや異なるように思われることを指摘し、 再考を要するとしています。 >>106 p.四四八󠄃

[127] この指摘は妥当と思われますが、 内容が異なるのは言葉の綾とも思われます。 山崎美成は原文を正確に写しているわけではなく、 本人が実物を見ているのかどうかも曖昧なので、 必ずしも矛盾しているともいえません。

[316] 久保常晴はまた、 仮名混じりの文体について、 関東東北で庶民がこのような証文を南北朝時代に書いているというのは一般的には無理と指摘しています。 >>315

[141] 日本の地理歴史研究者吉田東伍 (-) 大日本地名辞書 において、 「大道貳年」文書と名前花押が同じ文書 >>137 /68 が存在することから、 慶長の頃に大道などと 「私称濫用」 したものと推測しました。 >>140 これが近世初期説の初出です。

[128] 大道2年文書、慶長14年文書とも、 新編会津風土記 に収録されていますが、少なくても刊行されて現在ウェブで見られるものは、 花押花押と書くだけでその形までは示していません。 >>111, >>137 大日本地名辞書 がその同一性を判定し得ているということは、 吉田東伍は当時それを実見したのでしょうか。

[142] 久保常晴は資料を実見していないのが課題としており >>315、 書きぶりからして日本私年号の研究時点でも実見できていないようです。 現存するのかも不明です。

[129] 一般論でいえば村境に係争はつきもので、境界を明記した文書は偽文書を大いに疑う必要があります。 怪しげな紀年があるなら尚のことです。

南紀地蔵寺の大道

[131] に刊行された 紀伊国名所図会地蔵寺 条に、 同寺古石灯籠銘と考察があります。 >>130

日時事例

  • [132] 日本紀伊国地蔵寺 石灯籠大道元年󠄂七月吉日>>130, >>106 p.四四八󠄃 資料6
    • [133] >>130 に「大道元年」の模写あり。
    • [145] >>106 p.図版一八󠄂 に白黒写真と拓影あり。 写真はほぼ字形が見えるものの、細部まで確認するのはやや難しい。 拓本はすべての字形がおおむねわかる。

[134] 紀伊国名所図会 によると、 大道大同と同音で、 弘法大師漢土から帰国して建てたとする伝承があるそうです。 しかし 紀伊国名所図会 は隣の寺の正平銘と比較して、 字体、石質が新しく1000年以上経過したとは考えられないとします。 >>130

[136] そして 紀伊国名所図会 は 「友人の筆記」 で越後国に大道2年文書があると指摘します >>130。 「友人の筆記」とは引用文より明らかに 海録 (>>116) を指します。 そして後南朝天靖の例があることから、 明確な証拠はないものの、 後南朝勢力の私年号であろうと推測しています >>130

[183] それが北越南紀に残るのは奇怪なことだ >>130 と編者も驚いています。衰退してゆく後南朝がそれだけ広範囲に痕跡を残せた、 同じ元号を使っていたのだとすると、 確かに興味深い史料となりそうです。
[333] 海録建武より後と判定したものの、 具体的にいつとまでは言っていませんでした。 それをここでは別の資料を追加して後南朝と限定しています。 想定する時代が少し下っていることには注意。

[135] 日本私年号の研究 は、 紀伊国名所図会 がこれを後南朝に関連付けたのは、 他にも南朝玉川宮と関係するとされる紀伊国玉川と近接することもまた理由だろうと推測しています。 >>106 p.四四九

[146] 久保常晴はこれを実見したようで写真と拓本を残していますが、 完品ではないため特色から年代を推定はできないとしています。 しかし銘文にある「講中」の金石用例を検討し、 室町時代後期以後、特に天正頃から畿内で盛んに用いられたもので、 とうてい南北朝時代とは認め得ないとします。 >>106 pp.四五〇-四五四

[317] 久保常晴はまた、 昭和41年発表の随筆で、 模写を見て、 南北朝時代ほどの力強さに欠け、それより新しいものだと判断しています。 >>315 日本私年号の研究刊行の昭和42年より前の段階ではまだ実見できていなかったのかもしれません。

[325] 吉日という表現がいつから使われるのか不明確ですが、 中世後期にはあるようです。 中世前期に使われていたかは怪しいところです。

[138] この灯籠は現在も地蔵寺に残ります。

後南朝説

[63] 未刊国文古註釈大系 第7冊, 吉沢義則, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1707635/1/122 (要登録)

後南朝

私年号 紀伊続風土記から引いて後南朝説

[206] >>205 大同と音が似ているので天保の頃から注目されている、としつつ年代欄は空欄。

[80] 大和街道第2回, , https://www.gururinkansai.com/yamatokaido2.html

当寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石灯籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。

中央に「光明真言講中」左右に「大道元年七月吉日」と刻まれている。紀伊續風土記では、「南朝に奉仕せし人の子孫等、当時の年号を用ふるを快とせずして、私に建てた号なるべし」と記され、南北期末に使われた私年号とされている。

[82] 世界遺産|お寺・神社・お城, dog1800, , http://miyori872.blog83.fc2.com/blog-category-6.html

なお、本寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石燈籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。「大道元年七月吉日・光明真言講中」と刻まれてあることから、紀伊続風土記・紀伊名所図会に詳述されているものである。

[86] 紀の川流域の歴史と文化をたずねて : 紀の川流域歴史ゾーン調査報告書, 和歌山県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9575548/1/212 (要登録)

[83] 県指定文化財の「地蔵寺の五輪塔」が写真に大きく写っている正平紀年のある五輪塔。 その案内看板の裏にあるのが大道元年の灯篭。

小泉蒼軒の大道記録

茨城の大道

[214] 明治時代に刊行された書籍によると大日本帝国茨城県常陸国鹿島郡諏訪村にある安祥寺の創立が 「大道󠄃元年」 とされていました。 >>213

[215] 沿革文中には「弘治年中」とあるのが最も古く、それ以前ということになります。 >>213

[217] この地は現在は日本国茨城県鉾田市安房に当たり、 安祥寺も存続しています。 現地の案内板では、「大同年間 (八〇六-八一〇)」 の開基の伝承があると書かれています。 >>216

[218] 「大道元年」 とされていたのが誤植だったのか、寺伝でそう表記されていたのかは不明です。

因幡の大道

[190] 大正時代に刊行された紳士録のうち、 日本国鳥取県八頭郡八東村有本幸吉の項に、

現任中同所󠄃に大道󠄃元年(今より約千百五十年前)飛田匠來り

... て岩屋山千住寺が建立されたのが廃寺となり、 有本幸吉の祖先が千住院と改め、 大正時代に(?)有本幸吉が有本神社を建設したとあります。 >>189

[193] この場所は現在の日本国鳥取県八頭郡八頭町柿原に当たりますが、 柿原集落は平成時代中期に廃村化しました。 平成時代中期の廃村後の現地調査によると、 「千手院」「千壽院」と書かれた石造物があって、 紀年江戸時代から大正時代にわたるそうです。 「有本神社」 も現存するそうです。 >>191, >>192

[194] この寺社についての古い記録は現在の所ウェブ検索や国会図書館検索では見つけられません。 「大道元年」建立の伝承も何らかの記録がどこかにはあるのでしょうが、未発見です。 「大道」の表記が古くからのものなのか、大正時代誤植に過ぎないのかも不明です。

[195] 本書刊行はで、 1150年前は単純計算で頃となり、 に近いですが、少しずれています。 30年ほど盛ったことになります。 「1100年以上前」の方が切りも良かったはずですが、 大雑把に数えたのでしょうか、それとも少しでも由緒を古めかせた結果でしょうか。

南部斗賀霊験堂の大道

日時事例

[65] 三戸郡名川町平成の大合併により現在は南部町に属します。 霊験堂神仏分離以後斗賀神社となっていますが、 元は南部藩南部氏ゆかりの地でもあります >>69

[185] 伝承では大同2年に坂上田村麻呂が創建したとされますが、 実際には正平21年銘が残り正平年間の建立ともいわれるそうです。 >>69 東北地方の多くの寺社と同様にここにも「大同」2年の伝承があるのは注目すべきです。

[144] この用例は、久保常晴が再発見しました。 久保常晴によると書体は室町時代以後 (室町時代末期 >>315) と見受けられ、 とうてい南北朝時代とは認められません。 収められた仏像も室町時代以前に遡らせるのはかなり難しい (南北朝時代まで遡り得ない >>315) といいます。 そして江戸時代初期に比定するのが無難と推考されます。 >>106 pp.四四九-四五〇

[318] 昭和41年の久保常晴の随筆によると、 これは二十数年前に青森県を回った際に見つけたのだそうです。 >>315 ということは昭和十年代頃の発見でしょうか。

[319] 昭和41年時点では銘文は「大道十年□□、建立道□□」 とされていました。 >>315 昭和42年の日本私年号の研究では年号の次まで読めているのは、 記録を再確認したのでしょうか、それとも再度実見して読めたのでしょうか。


[92] この斗賀霊験堂と関係して、「大同2年」の伝承もあるようです。 >>91

[91] 中里町誌, 中里町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2990325/1/423 (要登録) 左

津軽郡中郷村名字

地神五代より始る也。数ヶ年に至て大同二年斗賀の冫く験堂の衆徒南蔵坊と云法師

眼科秘伝書の大道

[223] 出版の 人蔘史 所収の法眼間島右京両目秘伝書 に、

() 道󠄃 () 元年三月朔日辰󠄀刻󠄂ニ。我朝󠄃馬 () へ降候我等ガ先祖分󠄃心。爲唐󠄃渡龍󠄇樹大 師ニ傳致歸朝󠄃参慮候。國出此方四十八󠄂代。奧州眞󠄀間嶋實相院法印第一家傳。 眞󠄀間嶋左京法眼武州江戶ニテ是傳四十九代也。

四十八󠄂代

眞󠄀間嶋左京法眼 京 武 (花󠄄押)

慶長六年十月十七日

眞󠄀嶋專心坊一

とあります。 >>220

[224] 元号名傍点は編者によるものと思われ、欄外に

○桓武天皇大同ノ 年號ナラン。

とあります。 >>220

[222] 続群書類従両目秘伝書はこの後に49代から50代への伝授まで続きます。 49代による文中にも「大道元年三月一日辰刻」とあります。 >>326 #page=12

[328] 人蔘史収録版と続群書類従本の前半部分はほぼ同文ですが、 比べると微妙に文字が違います。書写の過程でどちらかが変化したのでしょうか。

[225] これは間島流の眼科の秘伝書とされますが、 間島流室町時代に起こったものだといいます。 >>220

[228] 嶋流眼科室町時代日本最古の眼科専門医に始まる流派で、 日本尾張国海東郡馬島村 (現在の日本国愛知県海部郡大治町) を本拠地としていました。 >>226, >>227

[229] この馬嶋流は「眞嶋」「間島」など様々に表記されました。 >>226 しかしこの秘伝書の「眞󠄀間嶋」氏がそれとどう関係していたのかはよくわかりません。 しかし「我朝󠄃馬嶋」が云々というのは眼科の聖地、馬島村のことを指しているのでしょう。

[230] 本家の馬島流は現在も続き38代にまで至っています。 時点で13代目だったそうです。 >>227 一方でこの秘伝書は時点で48代から49代へと継承すると謳っていて、 代が進みすぎています。

[231] もっともその本家の方も伝承では最澄の弟子聖円に開基したとされ >>226は「再興」ということになっています。 13代は明らかに「再興」からの代数ですから、 その前の500年分も数え合わせたとすれば、 慶長の時点で49代まで至っていてもおかしくはありません。

[232] からまでで13代とすると、 1代当たり約20年となります。 から (49 - 13) 代 × 20 年 = 720年 遡るととなります。 すると大道元年がその頃になるのでしょうか。 ちょっと遡りすぎです。 1代を20年でなく15年にすると、 になってそれっぽい年代になります。

[426] 関連: 秘伝書の日時

大道2年絵巻

[257] 「大道二年」絵巻 >>252

河津家文書

[435] 長慶天皇落人伝説に関係して天靖大道後南朝元号とする江戸時代の元和8年付の文書があり、 明治時代以後に出版されています。 日本南北朝時代の日時

[436] 怪しげな資料ではあるのですが、そこに書かれた日付が元和で、 慶長と近接しているのはひっかかります。

大道の研究史

[334] 大道の解釈は大別して3通りが提案されてきました。

[338] このうち大同説がもっとも素朴に行われてきた説でした。 地蔵寺石灯籠 (>>131) では江戸時代時点で地元で元来あった説がこれで (>>134)、 朝鮮研究者の今村鞆 (-) に出版した 人蔘史も秘伝書に見える大道元年を大同の誤りとみなしました (>>223)。

[339] 江戸時代から現代に至るまで、 本格的な研究はすべて大同の同時代的な異称説を否定するところから始まります (>>112, >>117, >>134, >>316)。 ただ大同年間の伝承が伴うケースもあって (>>92)、 後世に大同から転訛した可能性は今後追求が必要でしょう。

[340] 新編会津風土記佐取村の大道2年文書を紹介しました (>>102)。 これが大道の学術的な初見となります。 この時点では大同の誤記とも思われないと注記するのみで (>>112)、 年代の確定には至っていませんでした。 新編会津風土記 はまた大筒2年・大とう2年文書も紹介しており (>>160)、 現在知られる大筒大とうの唯一の用例となっています。

[341] 江戸時代後期の研究者山崎美成 (-) は、 佐取村の大道2年文書を南北朝時代かそれ以後と判断しました (>>116)。 に刊行された 紀伊国名所図会 はそれと地蔵寺の大道元年石灯篭 (>>131) とを合わせて、 後南朝の元号とする説を提唱しました (>>136)。

[343] この後南朝の元号説は近代において通説化しました。 個別事例の紹介や歴史学事典の私年号一覧のようなものの他でも取り上げられることがあり、 例えば国文学系の南朝史の説明でも

のように紹介されています >>200

[434] 西陣南帝元号とされたものには、他に明応があります。

[344] 大道元年石灯篭の紹介では現在も紀伊国名所図会の説が引かれ続けています (>>188 >>63 >>74 >>80)。


[342] 近代に編纂された 大日本地名辞書 は、 南北朝説を知らなかったのか、 佐取村の大道2年文書を引いて慶長頃の私年号と紹介しました。 それは同じ発給者の慶長14年文書の存在を根拠としていました (>>141)。 この慶長説はしばらく埋もれていましたが、 久保常晴が発掘して発展させることになりました。

[184] 昭和時代中期の研究者久保常晴日本私年号の研究 は、 慶長10年代当時の時代背景、すなわち徳川方と豊臣方の対立、 豊臣方とキリスト教徒の連合、 キリスト教禁教とキリスト教徒の一揆、 といった状況で全国の人心が動揺し、 民衆が変動を予期していたことが、 私年号発生の母胎になったとしています。 >>106 pp.四六〇-四六一 本書は織豊政権下で世情が安定に向かい、 私年号は消滅に向かったとしていました。 しかし近世初期に唯一発生した大道には相応の理由があるはずともされ、 このように背景が説明されたのです。

[280] 日本私年号の研究 は次のように推測しました。 >>106 pp.四六二-四六五, pp.四六八󠄃-四六九, p.四七一

[308] 日本私年号の研究大道の地域的分布が近畿から東北にわたっていながら関東になく、 中世関東私年号とは様相が異なると指摘しました。 >>106 p.四六二 そして大道キリスト教徒によるものと推測したことにより、 江戸幕府の聖俗分離政策で仏教徒による関東甲信地方の私年号が地盤を失ったものと理解しました。 >>106 p.四七〇

[321] 当時知られていた私年号が、和勝を除き、地域的にまとまって分布していたこと >>315 が大元の問題意識だったようです。

[283] 日本私年号の研究 のこのかなり大胆な推測は、 確実な根拠を欠くもので、 そのままただちに受け入れるのは難しい (しかし否定するのも難しい) 仮説というべき段階のものです。

[322] 久保常晴も当然それは認識していて、 日本私年号の研究 はこの推測を基本の説として全面的に採用しているものの、 逆に真言宗信者によって利用され修験者によって伝播された (>>288) とする余地もあることは断っています >>106 p.四七二。 磐梯山付近や紀州熊野は修験道が盛んなこと、 斗賀付近に南朝長慶天皇御陵の伝説があり、伝説地には修験者が多いこと、 など修験道も離れた発見地を結ぶ線となり得ることを指摘しています >>315

[323] 日本私年号の研究中世私年号修験道が伝播に関与した可能性を指摘していて、 実はその線の方が歴史的整合性はあるのですが、 ここでそれを第1説に採らなかったのは中世私年号との分布の違いがそれでは説明できないからでしょうか。

[309] 日本私年号の研究 は大道元年を慶長18年とする推測 (>>302) を提示していますが、 これに断定はせず、 一覧表等では慶長14年前後としています。 >>106 p.五三一

[320] 昭和20年頃から20年以上私年号研究を続けてきた久保常晴にとって大道は、 未解決のまま残る2,3の私年号のうちの1つで、 かなりの思い入れもあったようです。 日本私年号の研究の昭和42年の前年、 昭和41年には大道の研究をテーマにした随筆記事を公表しています。 この記事は久保常晴の思考の過程をたどった貴重な研究史資料ともなっています。 >>315

[324] 成果にはつながりませんでしたが、 所要あって九州広島に出向いた際には切支丹関連の遺構を巡ったりもしたそうです。 >>315

[379] 日本私年号の研究 以後、 キリスト教説はともかく慶長14年前後説は通説の地位を得て、 日本史事典類などは大方この新説を採用しました。

[380] ところが実質的な研究の進展はないまま、伝言ゲーム的に少しずつ変質が進んでいるようです。

[310] 昭和時代末期の板碑とその時代の一覧表では、 36大筒37大道が慶長14年前後とされています。 36 には「「大同」年号への後世の仮託か」 と注釈があります。 37 には 36 参照と注釈があります。 >>311 この書き方では大筒が主のようにも取れますし、 また大道大筒と同様に大同に仮託したものとも取れますが、 明確な説明がなくどのような意図だったのかは不明です。

[377] 大同の「仮託」というのも、これだけ読んでもよくわからない注釈です。 平安時代元号仮託して近世私年号ができるというのはどういう意味なのでしょう。 大同との誤認を狙って大とうと書いたとする説 (>>180) を一言でまとめたのか、はたまた独自の別解釈なのか、 一覧表の他に詳しい説明がないのでよくわかりません。

[378] 例えば「坂上田村麻呂に仮託した伝承」「空海仮託の書」のようなものなら意味はわかりますが、 これを「大同に仮託した大筒」 に置き換えると意味がよくわかりません。 辞書的定義によれば一般語としてもう少し広い意味で使い得るようですが、 いずれにしてもこれだけでは筆者の意図を正確に特定できません。

[312] 令和時代初期の中世東国と年号の一覧表は 板碑とその時代 の一覧表を少し改めたものですが (直接の派生かは不明、 日本私年号一覧表 )、 その 39大筒があり、1609? とされています。しかし大道は掲載されていません。 >>201 大道大筒の別称と判断されて外されたのでしょうか。 実在性がより疑わしい大筒の方を残すのはどのような判断なのでしょう。 慶長14年頃とする説がかとする説にすり替わっているように見えるのも、 危うさを感じます。

[428] 令和時代初期の中世の元号の一覧表は、 暦と改元 の一覧表を少し改めたものですが ( 日本私年号一覧表 )、 ここでも 「大筒 (大道)」 として2つが統合されています。 >>440


[353] 日本語ウィキペディア私年号記事の一覧表に大道などが掲載されています。 >>48

[354] この記事は平成18年から20年頃に原形が作られ、 その後小さな変更が加えられ続けて現在に至っています。 日本私年号一覧表

[355] 記事が作られた直後の平成18年の一覧には、 大筒が掲載され、 「慶長年間(1596年~1615年)」 と説明されていました。 大道はありませんでした。 >>346

[356] 平成19年の大きな変更で、 大道大筒の2つが掲載されました。 どちらも元年で、 継続年数は不明とされました。 >>348

[357] 平成20年の変更で、 大筒大道の「異説」にまとめられました。 そして新設された「典拠」欄に霊験堂銘と地蔵寺石灯籠銘と「など」が挙げられました。 >>350

[358] 平成24年の変更で、 「異説」に「大同」が追加されました。 >>352

[359] その他細部の体裁の変更がたびたび行われています。

[360] これらの記述には多くの問題があります。

  • [361] 最も深刻なのは、いずれの変更もその根拠、出典がまったく明らかでないことです。
    • [362] といってもそれは大道に限らず他の掲載元号にもいえることですし ( 日本私年号一覧表 )、 ひいては Wikipedia 全体の体質的問題でもあります。
    • [363] 従って他の問題点が Wikipedia 編集者の過誤ないし作為によるものか、 出典の誤りを引き継いだものかも不明です。
  • [364] 「典拠」は表に収めるため代表的なものを選んだと思われますが、 どのような基準でこの2つが選ばれたのか不明です。 また、この書き方でこの記事だけ読んだ人が詳しい情報に到達できるのか怪しいです。
    • [365] ためしに 「青森県南部町霊験堂龕扉銘」 「和歌山県高野口町地蔵寺石灯籠銘」 でGoogle検索してみると、 Wikipedia と当ウィキ記事を除けば辛うじて地蔵寺についてのウェブページ1件で「大道元年」 の記載が見つけられる程度です。
  • [366] いかなる理由で大筒大道の「異称」にまとめられることになったのか不明です。
    • [367] 「典拠・備考」欄にも大筒の情報が一切ありません。
      • [368] が、「典拠・備考」欄が大道だけの情報であることを読者が読み取るのは不可能です。
    • [369] 平成18年時点で大筒のみがあり大道がなかったのも謎です。
      • [370] >>312 のような事例もあるので、 >>312 と共通の原典で大筒のみ載せているものがあるのかもしれません。
  • [371] いかなる理由で大同大道の「異称」に追加されたのか不明です。
    • [372] あるいは「仮託」説 (>>310) が転じたものでしょうか。
  • [373] 元年が慶長14年に確定されています。
    • [374] 一覧中他の元号には「?」を付しているものもありますが、 大道大筒は最初の版から一貫して「?」がなく確定情報になっています。
    • [375] 平成18年時点の「慶長年間(1596年~1615年)」は慶長の継続期間を説明したものです。
      • [376] 厳密に言えば慶長14年「頃」に使われたとするのが大元の説なのですから、 元年慶長年間に収まっているかも不確定なのですが...
[48] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
大道大同・大筒慶長14年(1609年)不明青森県南部町霊験堂龕扉銘、和歌山県高野口町地蔵寺石灯籠銘など

[395] 関連: 正中

大道試案

[383] 現在知られている大道の用例 (>>329) を見るに、

  • [384] いずれも近世頃に書かれたものと思われます。
  • [385] 偽文書が疑われるものを除けば、 いずれも大同時代の頃を指すと解釈し得るか、 坂上田村麻呂などの伝承が同地に伝わっています。

という共通性があります。

[386] 大道が先にあって後に大同坂上田村麻呂と結び付けられたのか、 大同坂上田村麻呂の伝承に後から大道の表記が生じたのかは検討の余地があるにせよ、 大道には大同の異表記という性質があるのは間違いありません。 従って大道大同にまつわる諸伝承と一体的に研究されるべきといえます。

[387] 既存の諸説については、

  • [388] これまでの研究で大同時代の用例と認められたものは皆無で、 この可能性はないと考えてよさそうです。
  • [389] 南北朝時代後南朝により使われたとする説は積極的な根拠がなく、 この可能性はないと考えてよさそうです。
  • [390] キリスト教徒により使われたとする説は積極的な根拠がなく、 新たな素材が得られるまではひとまず考えなくてよさそうです。
  • [393] 元年を慶長14年と確定させた説は根拠がありません。 慶長6年文書が信用できるなら成立し得ません。
    • [394] さらに、偽文書と疑われるものを除くと慶長14年前後に位置づける根拠もなくなってしまいます。

となり、また、過去の出来事の記述や偽文書と疑われるものを除くと

  • 大道元年の石灯篭
  • 大道10年の厨子

が残ることとなるので、

と考えられる一方で、 >>386 を鑑みれば 「その時代を表す」 大道私年号が実在したかどうかも含めて再検討されるべきです。

[418] 資治通鑑 : 294巻 第一冊, 司馬光奉勅, 胡三省 音註, 山名留三郎 訓点, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3464365/1/27 (要登録)

太同元年だけ「太」。左怒鳴りに大同4年。なお右隣に中大通5年。

[420] 日本仏教哲学, 小野藤太, 井上哲次郎 閲, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/816954/1/50

中太同元年

大道 (梁の大通)

[77] 大通大道と書くものが、日本語でも中文でもままあります。

[78] 元々が誤記なのか意図的なのかわかりませんが、単なる誤植ではなくそれなりに流通しているようです。

[79] 正法眼蔵弁道話講義, 高田道見 述, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/899700/1/29

梁の大道元年9月21日、日本の継体天皇21年

[81] 走在南京明城墙上|荷花|城墙_凤凰文化, , http://culture.ifeng.com/gundong/detail_2014_02/23/34090355_0.shtml

鸡鸣寺,位于鸡笼山东麓,是南京最古老的梵剎之一。它始建于西晋永康元年(公元300年),梁武帝于南朝梁大道元年(公元527年)在此兴建同泰寺,始为佛教圣地,名列“南朝四百八十寺”首刹,明洪武二十年(公元1387年),明太祖朱元璋重建寺院并命名“鸡鸣寺”。

大同 (遼)

[152] 大同 (y~142) は遼の元号の1つです。

[153] >>4

[402] 遼史 (四庫全書本)/卷047 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%81%BC%E5%8F%B2_(%E5%9B%9B%E5%BA%AB%E5%85%A8%E6%9B%B8%E6%9C%AC)/%E5%8D%B7047

太子太師太宗大同元年見太子太師李崧太子太傅世宗天禄五年見太子太傅趙瑩太子太保大同元年見太子太保趙瑩

太子少師聖宗太平十一年見太子少師蕭從順太子少傅耶律哈里重熙中為太子少傅

太子少保太同元年見太子少保馮玉

[403] は1箇所だけなので誤り?

大筒、大とう (日本の偽文書)

[160] までに会津藩が編纂した 新編会津風土記 に次のような「大筒」「大とう」紀年のある文書が収録されています。

[159] 宮城八左衛門家文書

譲状事

一、堂山開發之事、大筒二 ((同カ)) 年九月拾貳日、

一、 于時應永三年丙子七月十三日浄法

一、

于時應永三年丙子七月十三日

彌平次郎入郎 浄法

彌平太郎入道圓法渡者也

仰本文破申候間、如形冩置申候也、

筆者(不詳)

于時永正十四季丁丑閏十月拾貳日主太郎右衛門 >>158 になし文書

主大□□□

大とう二ねん六月十二日

みやきのむまの助 盛次判

、くはしきことは、ほん文書にあり、

大とう二ねん六月十二日

もりつく

はしめのほんふり候て破候間、永正十四年十月十九日うつし候也、

永正十四年十月十八日 太郎左衛門

[156] 新編会津風土記 >>154 /146 より。 字体句読点は必ずしも忠実に翻刻していない。
[157] 「同カ」は >>154 にあって >>158 になし。 >>154 編者の注釈か。 「(不詳)」は >>154 >>158 ともにあり。
[174] 日本私年号の研究 >>106 p.四五四 では「堂山開發之事」が脱。

[161] 入り組んでいて構造がわかりにくいですが、次の日付があります。

[167] 権利関係の文書で原本がなく写本、しかも謎紀年、 という偽文書の可能性をまず検証しておかなければならない代物でしょう。

[169] 新編会津風土記 によると、 この村は元々「堂平」と称していましたが、 いつからか「堂山」と呼ばれるようになりました。 そしてこの名前は >>159 文書によるとその大筒2年権現堂が由来とされているそうです。 >>154 /145 平成の大合併までは日本国福島県耶麻郡山都町堂平、 現在は喜多方市に属します。

[170] また 新編会津風土記 によると堂山村には村北2町山上に熊野宮がありますが、 その鎮座の年代は不明で、 >>159 文書によると大筒2年に権現を遷したというのがこの神社だと言い伝えられているのだそうです。 >>154 /145

[64] 現在の国土地理院地図で 37.672534973772734, 139.74311390226566 付近に描かれている神社でしょうか。

[171] この >>159 文書について 新編会津風土記 編者は、 大筒という元号はないと注記した上で、 「文書のさま」が昔の「大同」を誤ったようにも見えないと書いています。 >>154 /145

[168] 新編会津風土記 の編者はこれの「原本」を見て収録したのでしょう。 そして文書の様式をみてそれが大同ではないと判断したようです。 具体的に何を根拠に判断したのかは定かではありません。 >>159 文書は写本であると主張しているので、その「原本」 も「大とう」「大筒」のオリジナルではないということになります。

[172] オリジナルがどのようなものだったかはわかりませんが、 仮名文書大同の時代まで遡ることはあり得ません。 新編会津風土記 の編者もそのあたりに違和感を持ったのでしょうか。

[173] 譲状事がその紀年通り応永年間のものだとして、 先行する「大とう」の仮名文書を見て「大筒」という漢字を当てたのだとすると、 その根拠は何でしょう。


[175] 昭和時代中期の 日本私年号の研究 は、 >>159 文書の前半を大筒資料1 >>106 pp.四五四-四五五、 後半を資料2 >>106 pp.四五五-四五六 としています。 新編会津風土記 では (少なくても >>158>>154 では) 切れ目は明記されておらず、 久保常晴が文書の内容から判断したものと思われます。

[176] そして 日本私年号の研究 は両文書の内容と日付を検討し、 「大筒」「大とう」は永正から相当な年代を遡らせなければならないところ、 両文書の日付に矛盾が見られることに加えて用語や文体から後半は江戸時代初期の偽文書としか考えられないとしました。 そして前半も矛盾があるので確断は避けたいとしながらも、 後半文書を踏まえて後から偽作された可能性があるとしました。 >>106 pp.四五四-四五七

[177] 日本私年号の研究元号名について、 元号名濁点をつけない慣例より「大道」と「大とう」は同一視して良いとしています。 そして大筒大道音通することから無関係とは考えられないとして、

  1. [178] 大道私年号が使われた。仮名文書では「大とう」と表記されていた。 元号名なので濁点はつけなかった。
  2. [179] 「大とう」が大道だったことが忘れられて、 発音に合わせて「大筒」の字が当てられた。
  3. [180] >>159 文書は年代が不明かつ大同とも受け取られやすい私年号大道を使って古めかせた

との経過を推測しました。 >>106 pp.四五六-四五七 つまり「大筒」「大とう」の用例が見えるのは偽文書でありながらも、 実在した私年号を都合よく使ったものと考えました。

[181] 大道大とう大筒の2段目はともかく1段目には音通以外の根拠が特にありません。 どちらも 新編会津風土記 が出典で、どちらも江戸時代初期とみられ、 会津地域に大道が流通していたので知っていたはずという推測によるものでしょうか。

[182] この程度の類似性なら、偶然別個に発生した可能性も考慮が必要かとも思われます。 まったく独自に発生した可能性も、大同から転じた可能性も考えておいていいでしょう。


[381] 現在まで大筒大とうの用例はこれ1例しか発見されていません。 明らかな偽文書ではない用例が発見されない限り、通常の意味の私年号の 1つとみなすのは難しいかもしれません。

[382] 現在も諸書は私年号の1つとして扱っていますが (>>310 >>353 >>312 など)、 やはり近世偽文書にのみ見える清保などと同じカテゴリーに入れるべきものです。

大同 (大同国)

[25] 大同 (y~1875) は、薛幹臣大同国元号でした。 >>20 (>>21)

[19] 「だいどう」と読むとされます。 >>20

[26] 元年でした。 >>20 (>>22)

[27] 1年間続きました。 >>20

[28] 薛幹臣率いる宗教団体小刀会 (刀会) メンバーは、 挙兵しました。 >>21, >>31

[34] の挙兵時に、 中華民国18年を改め大同元年とした >>21, >>31 (>>21), >>93 とされます。

[36] 薛幹臣大同皇帝を称し、国号を大同としたともされます。 >>37 また大同規約を制定しました >>93

[33] 、 鎮圧され薛幹臣は死去しました。 >>21, >>31


[29] 3月初の薛梦秋の布告に、 「大同中华十八年三月二日」 とありました。 >>22

[32] 中文维基百科は同じものを引いて 布告に 「大同中华民国十八年」 とあったとしました >>31 (>>22)

[30] グレゴリオ暦3月2日では蜂起1ヶ月前になりますが、 農暦ではが3月2日に当たり、 ちょうど時期が合います。蜂起直前の檄文でしょう。

[38] 2つの引用で元号名が違いますが、 前者のWebサイトを後者の中文维基百科が引用していますから、 誤引用が疑われます。 前者が原典を正しく引用しているかは定かではありませんが、 ひとまずは 「大同中华民国」 より 「大同中华」 がオリジナルに近そうと言うべきでしょうか。

[95] 当時の雑誌によると檄文に

日時事例

などと書かれていたそうです。 >>94

[39] 18年とは、 = 中華民国18年に他なりません。 の数え方を変えるつもりはなかったのでしょうか。 「中華民国」は否定しつつも「中華」は残し、 国名の「大同」を翳したのでしょうか。 y~2240

[40] 蜂起前日に 「大同中华」 を使ったとすると、 中華民国18年を改め大同元年にしたとする説にも疑問が生じます。 檄文の送付後に、 やはり年数を引き継ぐのはおかしいと考え直したのでしょうか? 当時「大同元年」と書かれたものは現存するのでしょうか。

[100] 「大同元年」とする資料がもし実在しないなら、「大同中華」からの誤伝の可能性もあります。

[99] 大同は運動のスローガン、象徴的に使われていた言葉なのでしょうが、 国名元号名と言うべきものかどうかは定かではありません。

[98] 秘密宗教与秘密会社 _中国人民大学清史研究所, 秘密会社, , http://iqh.ruc.edu.cn/jsmmhsymjjpyj/mmzjymmhs/4029adac0f1c4aa59763a788d113da4e.htm

3月初, 小刀会居然在檄文中写道:“现奉德州郜师祖爷钦命, 特来江南保主, 目下徐州已得, 将来攻打宿迁, 取道江淮, 至南京奠都。”落款:团长薛梦秋, 大同中华十八年三月二日。在宿迁北部皂河窑湾等处的刀会领袖中, 有人名为“郭三闯王”、“李四霸王”, 犹如小说《水浒传》、《施公案》和《彭公案》中的人物。[12]


[41] 大同元号名でも国名でもあるとされます。 大同紀年は元号なのでしょうか。 当時の公年号中華民国でした。 同様に国名を紀年法に使った建国紀元の可能性もあります。

[42] 日本語ウィキペディアは、 元号記事を立てていました。 >>20

[43] 中文维基百科は元号記事を立てていませんでしたが、 国の記事に改元のことも書いていました。 >>31 元号と認識していたのかどうかは不明です。


[35] 中文维基百科標準時 としました >>31。 しかしそのような明文の規定があったとは考えづらく、 実態もどれだけ伴っていたか疑問です。 当時の中華民国の標準時からの類推でしょう。 中国大陸の標準時

大同 (満州国)

[3] 大同は、最初の満州国の元号でした。

関連

[6] 前の元号中華民国でした。

[7] 次の元号康徳でした。

メモ

[13] 満州国の元号選定日本の影響があったことは疑いありませんが、 日本の元号との重複が考慮されなかった点は注目されます。

[148] 東アジアでは歴史的に元号の重複は必ずしも禁忌ではなく、 意図的に既存の元号を再利用した事例もあります。 日本大同との関係を示唆する材料はありませんから、 これを再利用したものとは考えにくいですが、 当時の満州国首脳も (日本の元号との衝突に気づいていたにせよ、そうでないにせよ) 既存の元号との衝突を回避しようとする意思はなかったものと思われます。

[149] もしかすると清の元号との衝突くらいは回避しようとしていたのかもしれませんし、 同時期の日本の元号との衝突は常識的な考えから控えたでしょうが。

[150] 現代日本の元号制度では過去の元号との衝突を避けることになっていますが、 近代日本ではそれが徹底していませんでした。 日本宮内省元号を研究していた森鴎外は、 近代の日本の元号が過去の越南の元号と衝突していることを指摘し、 調査不足の失態だと批判的な見解を表明しています。 逆に言えば森鴎外以前には他国との衝突を避ける準備がありませんでした。 日本政府が自国の元号についてもその程度の認識だったので、 逆に他国が日本の過去の元号を使っても特に異とするほどではなかったのかもしれません。

[8] 西暦を使って定義している >>2, >>45 のが興味深い。

[10] 貨幣や消印での右横書き表記例 >>9

[4] 読売新聞夕刊一面には、 滿洲國に新元號? 三月一日期し改元論 なる聯合新京電記事が掲載されました。 それによると、 3月1日の建国記念日と新国是確立に合わせた改元の動きが要人の間にあり、 実施が濃厚でした。 現行元号の「大同」は遼の元号にもあるものの、良い時代ではなかったとされました。 そのため 3月1日で「大同を前後に分つ」か大同を不鮮明で冖にも見える和に改めるかの 2案がありました。

[5] 前後に分かつってどういう意味だろう。1字取るということ?

[151] そこで遼の元号が出てきて日本の元号が出てこないのもまたおもしろいところ。

[44] 大同 (满洲国) - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8C_(%E6%BB%A1%E6%B4%B2%E5%9B%BD)

[433] 近代諸元号現象 は、 日本のスローガン「東亜の大同団結」の敷き写しとしています。 >>431

太同 (大和)

[405] 太和大同になっているケースが稀にあります。

[406] 字形も音も似ているように思われず、事例も少ないので偶然のミスとも思われますが、 なぜか複数例あります。

[407] 避諱かとも思われますが、類例が見当たりません。

太同 (北魏の太和)

[404] 國立故宮博物院 - 維基百科,自由嘅百科全書, , https://zh-yue.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E7%AB%8B%E6%95%85%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%99%A2

等場景嘅477年(北魏太同元年)青銅鍍金〈釋迦牟尼佛坐像〉

太同 (十国呉の大和)

[398] 十國春秋/卷010 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8D%81%E5%9C%8B%E6%98%A5%E7%A7%8B/%E5%8D%B7010

王令謀,故徐知誥叩客也。初爲昇州判官,已而改楊府左司馬,轉內樞使。乾貞中,徐知詢握兵金陵,與知誥相猜忌,知誥頗患之。令謀說知誥曰:「公輔政日久,挾天子以令境內,誰敢不從。知詢年少,恩信未洽于人,無能爲也。」未幾,遷同平章事。太同三年,進左僕射、兼門下侍郎,與宋齊丘同平章事。六年,拜司徒,已又領忠武軍節度使。天祚三年,令謀如金陵勸知誥受禪,辭不受。九月癸丑,卒。

[399] 十国呉の天祚3年は

[400] 太同、大同はこの時代になし。

[401] 十国呉のことか。

メモ