[506] パキスタンでは が、 印度とスリランカでは が、 ネパールでは が、 ブータンとバングラデシュでは が標準時として用いられています。
[507] 印度のアッサムでは、非公式に も用いられています。
[508] 各地域および各時代の詳細は、次の各項を参照。
[509] 現在パキスタンでは が、 印度とスリランカでは が、 バングラデシュでは が標準時として用いられています。
[459] マドラス (現チェンナイ) は、 印度の南部東岸、英印領土の東西中央近い位置にある大都市です。 19世紀後半、マドラス時間は英印全体の事実上の標準時として用いられました。
[51] ベンガルは現在の印度東部とバングラデシュにまたがる一帯で、 長年英国の根拠地となっていました。 カルカッタ (コルカタ) はベンガルの中心都市で、 当初はベンガル総督府が置かれ、その後長年英印の首都とされました。 英印の政治と経済の中心都市の1つでした。 現在はバングラデシュの独立により、 インド側のバングラ国境に近い都市となっています。
[311] カルカッタでは、長年標準時を採用せずに現地の地方時であるカルカッタ時間を用いていました。 現在のバングラデシュを含むベンガル地方で用いられた >>310 といいます。
[202] ボンベイ (ムンバイ) は印度の西岸の大都市です。 英印の商業の中心地の1つとして栄えました。 ボンベイは、英印の大行政区である Presidency (省、管轄区) の1つ、 Bombay Presidency の首都でした。 ボンベイ省には、ボンベイの他にカラチ (現パキスタン領、インド洋 (アラビア海) 沿岸の都市) や農村地帯が含まれていました。
[474] 印度標準時 は、20世紀初頭から現在に至るまで用いられている印度の標準時です。
[475] 英印時代は現在のパキスタンとバングラデシュでも用いられましたが、 現在はそれぞれ異なる標準時に移行しています。
[476] スリランカも英領セイロン時代にこれを採用し、一時期を除き、 現在まで標準時となっています。
[159] は、 Mirzapur >>622, >>189 の Shankargarh Fort (北緯25.15度東経82.58度) の経度によるもの >>50 とされています。
[116] が採用されたのは、英国本国の時刻 と十二時間の時計を上下反転させた関係にあるため >>10, >>526, >>527 という人もいますが、根拠に乏しく怪しいものです。 日本人がネタとして触れているものがいくつかあるだけで、 現地人や英国人のこのような言説は見つかっていません。
[708] 後述の通り、印度標準時の成立の過程には地域間の競争意識や欧米人と印度人との対立のような複雑で繊細な問題があって、 時には文字通り血を流す大騒動にまで発展したこともあります。 果たしてそのような状況下で英国人の都合を押し通すことができたかは、 甚だ疑問です。
[830] インド標準時 はしばしば IST と略されます。
[832] IST は他の地域でも別の意味で使われることがあるので、注意が必要です。
[831] >>829 の例では文脈から IST がどの時間帯かわかりません。 著者紹介や About us ページを見てもはっきりしません。 Terms of Service ページに運営会社の住所が India とあることで、 IST がインド標準時の意味と推測できます。
[117] tzdata は印度について Asia/Kolkata
を定義しています >>105。
チェンナイ (マドラス) について Asia/Chennai
>>153、
旧ポルトガル領インドについて Asia/Panaji
>>646
という名前を示しつつも、情報不足としてい定義は与えていません。
[126] tzdata は、パキスタンについて Asia/Karachi
を定義しています
>>125。
[148] tzdata は、バングラデシュについて Asia/Dhaka
を定義しています >>147。
[452] tzdata は、スリランカについて Asia/Colombo
を定義しています。旧 LTTE 支配地域は印度のものを使うべきとして専用の名前を与えていません。
>>407
[118] tzdata の Asia/Kolkata
は、元の地方時を
としています >>105。
[127] tzdata の Asia/Karachi
は、元の地方時を
としています >>125。
[149] tzdata の Asia/Dhaka
は、元の地方時を
としています >>147。
[437] tzdata の Asia/Colombo
は、元の地方時を
としています >>407。
[199] 1802年、英国東インド会社の天文学技官の John Goldingham がマドラスの経度を 80.18.30E = と測定しました >>201, >>193, >>205。 これがマドラス時間の始まり >>193, >>226 とされています。
[206] Madras Observatory の標準時計がこの標準時に設定され、それに接続された Fort St. George の time gun で毎日に 市内へ報時されていました >>205。
[371] 1826年、ボンベイに Colaba Observatory が設立されました。 マドラス観象台よりも更に実用寄りの機関で、当地の英軍や民間船舶に地方時、 天候その他を提供する業務を行っていました。 >>337 46ページ
[370] マドラス観象台の T.G. Taylor は、より精密な観測により、 マドラス時間を としました。この値が The Nautical Almanacs で用いられたほか、 1835年から1882年のマドラス時間の決定にも用いられました。 >>337 45ページ
[238] 英印で鉄道の運行が始まった頃、 各都市はそれぞれの地方時を使っていました >>236。 鉄道はその路線の主要駅の都市の時刻を用いていました >>337 53ページ。
[13] 1854年、Howrah からの鉄道が開業しました。 鉄道会社 EIR と英印政府当局との協議により、地方平時が用いられました。 >>11
[120] tzdata の Asia/Kolkata
は、
元は1880年を境に としており、
「Howrah Mean Time?」と注釈がありました。
後の改訂 >>702で、 に境界が変更されています。
>>105
[463] ハウラーは、現印度国内、カルカッタと川を挟んで対岸にある都市です。 鉄道開業当時のカルカッタ側終着駅でした (>>13)。 が何の日かは明記されていませんが、 ハウラーからの鉄道の最初の試運転が行われた日 >>703 のようです。
[15] 1862年、 Howrah からの鉄道はベンガル地方政府の管轄境界を超えて、 印度内陸部の都市 Benares へと延伸しました。 EIR は路線全体 (ひいては英印全体) の鉄道時の導入を望んでおり、 Patna-Benaras 間開通に合わせて から電信の報時により Jabalpur (79.93E) または Kanpur (80.21E) の時刻 (いずれも印度のほぼ東西中央に位置する都市) に全駅を同期しようと検討していました。 しかし英印政府当局はこれを拒絶し、ベンガル管下では省都カルカッタ時間を、 境界から Delhi までは Allahabad の時間を用いるよう指示しました。 英印政府は意図せず地方平時から省ごとの時刻への変更を認めたことに後に気づきましたが、 既に Delhi から Allahabad まで Allahabad 時刻、その先 Howrah までカルカッタ時間で運行されており、これを継続することにしました。 >>11
[392] 1860年代末頃の英印では、電信でマドラス時間が使われるようになりました >>337 52ページ。 当時の電信の手引書には、 44ページにわたるマドラス時間と地方時の時差の一覧表が掲載されていました。 >>203, >>204 1899年の情報では Indian Telegraph Guide にそのような表があった >>576 らしく、 同じものを指していると思われます。
[239] ボンベイと Poona (Pune、ボンベイより少し東側、内陸に入った都市) では、約7分異なる地方時が用いられていました >>236。
[240] Ahmedabad (印度西岸、ボンベイとほぼ同経度でより北側の都市) では、なぜかマドラス時間が使われていました >>236。
[75] 1867年、 EIR は依然として英印全体の鉄道時導入を求めており、 マドラス時間の採用を望んでいました。しかしベンガル当局は、 他の都市の時刻を市内で用いることに難色を示していました。 この頃既に電信ではマドラス時間が採用されていましたが、 英印政府はマドラス時間を鉄道時とすることを拒否しました。 >>11
[487] 1869年の気象報告書には、各地の地方時で観測するよう指示したものの、 一部都市で誤ってマドラス時間 (telegraph or Madras time) が用いられた、として次の通りマドラス時間との時差が記述されています >>486。
[393] 英印各地の鉄道が相互接続されつつあった、 英印政府の Public Works Department は、 ボンベイ政府の提案に基づきマドラス時間を共通の鉄道時として採用することとし、 Consulting Engineer for Railways と GIPR に対し 1870年以後の時刻表をマドラス時間とすることを指示しました。 マドラスには唯一の政府立観象台があること、マドラスが英印の中央に位置する大都市であることがマドラス時間採用の理由に挙げられていました。 >>337 52ページ
[260] 1870年に英印のすべての鉄道がマドラス時間に統一された >>259 というのは、この決定に基づくものと思われます。 あるいは、1880年代頃に鉄道が次第にマドラス時間に統一されていった >>163, >>193, >>226, >>236 とするものもあります。
[248] 実際のところ、 East Indian Railway が長年 Jabalpur 地方時 (カルカッタ時間より 34分6秒遅い) を使っていたなど、 マドラス時間を使わない鉄道も少なからずありました >>236。
[396] あるいはの英印政府と軍の Quarter Master General との文書によれば、軍の駅では地方時も用意しておき、 鉄道時と軍の用いる地方時とを換算できるようにしていたようです。 >>337 53ページ 鉄道自体がマドラス時間を採用したといっても、 鉄道駅や周辺地域がすべてマドラス時間に統一されたわけではありませんでした。
[704] tzdata の Asia/Kolkata
は、
2017年の改訂 >>702 の後、
1870年を境に Madras local time
としています >>105。
Asia/Kolkata
という名前でありながらカルカッタの市内の時刻よりも英印全域の時刻を優先したと思われます。[172] いずれにせよ、英印の多くの鉄道で採用されたことから、 マドラス時間は鉄道時 >>236、インド鉄道時 >>193、インド標準鉄道時 >>236 とも呼ばれました。
[247] 1880年代末頃から、 Newman の Indian Bradshaw などの時刻表も、 マドラス時間を採用するようになりました >>236。 Indian Bradshaw により鉄道時としてのマドラス時間が普及しました >>259。
[249] 19世紀末にはマドラス時間が英印全域の鉄道時刻表で用いられるようになりました。 ボンベイの鉄道についてはマドラス時間と地方時が併記されていました。 >>236
[256] 19世紀の鉄道では、電信により時刻が各駅に通報され、 時計が同期されていました。16時に同期するのが一般的でした。 (これは1852年に英国で開発されたシステムに基づくものでした。) >>236
[394] この頃から、一部の地域を除き (>>402)、郵便でもマドラス時間が用いられました >>337 55ページ。
[294] の情報によると、 マドラスの Marine Office flagstaff の semaphore time signal は、 マドラス平均時の 08:00 および 12:00 に落下させられました >>295。
[739] Shanks の INDIA は、から #1 (Bombay, Madras, Pondicherry その他多くの地域) は 、 #3 (Calcutta などの地域) は としています (それ以前は LMT) >>729。
[735] Shanks の SRI LANKA は から としています (それ以前は LMT) >>729。
[438] tzdata の Asia/Colombo
は、
1880年を境に としています (以前より8秒進んでいます)。
Moratuwa Mean Time と注記があります。 >>407
[740] 以前は tzdata の Asia/Kolkata
も
1880年を境界としていました (>>120)。
[191] 19世紀のはじめの頃、アンダマン諸島とニコバル諸島の時間帯が Port Blair mean time と定められたといいます >>192。
[198] 1881年に起こった地震の報告には、「Port Blair mean time」>>196、 「local mean time at Port Blair」>>197 といった説明があります。また、 カルカッタ平均時より 早く、 マドラス時間より 早いことが記されています >>196。
[504] マドラス時間が だとすると 、 カルカッタ時間が だとすると で、いずれにせよほぼ だったようです。
[614] この地震に関する2003年の論文は、 Port Blair time を だとしています (根拠は不明)。 当時の潮位観測体制についても紹介されており、 マドラス時間と電信の報時で定期的に同期されると共に、 補助的に観測員の携帯時計で電信局の時計と潮位計とを見比べて調整していたようです。 >>613
[415] ボンベイ省のうち、ボンベイ市内ではボンベイ時間が使われていました。 カラチでは、マドラス時間より約53分遅い >>337 58ページ (52分遅い >>261) 地方時を使っていました。
[427] 19世紀初め頃から Bombay Castle には報時球があり、 ボンベイ市内の Colaba 観象台監督官によって太陽時が報時されていました。 これがいわゆるボンベイ時間であり、 Colaba平均時とも呼ばれました。 >>337 75ページ time gun により音声でも伝えられていました。
[263] Bombay University には大きな時計があり、 ボンベイ市内を代表する時計として、 市民はみなこれに従っていました >>261。 1869年起工、1878年竣工で >>430 University Clock Tower や Rajabai Clock Tower と呼ばれていました >>337 81ページ。 実際には資金難のため1882年にようやく時計が設置されました。 運営資金は University Syndicate の他ボンベイ政府と Municipal Corporation (市政自治会) も負担することになりました >>337 82ページ。
[158] 1881年、ボンベイは一時マドラス時間を採用しましたが、 すぐに元の地方時 (ボンベイ時間) に戻しました >>153 (tomorrow's The Hindu の Nitya Menon の記事)。
[399] 、 ボンベイの知事 James Fergusson は、 マドラス時間をすべての政府機関で採用して「すべての目的の公式な時刻」とすると共に、 市民に対してもマドラス時間の採用を求めました。 >>337 55ページ
[262] 実施前はボンベイの商工会議所もマドラス時間の採用に好意的でした >>337 55ページ。
[400] しかし実際には政府機関のマドラス時間と民間のボンベイ時間が併存して混乱し、 市民にはかなり不評だったようです。
[402] ボンベイ省管内の郵便局は1878年よりマドラス時間を採用していましたが、 ボンベイ市内だけは、ボンベイ時間を用いていました。 になっても、ボンベイ市内の郵便局はマドラス時間に移行しませんでした。 郵政局長 A.N. Fanshawe は、 これは市民 (特に商人) の便宜のための措置であり、 マドラス時間に移行して30分営業終了が早まるとボンベイ時間を用いる市民にとって時間が30分減ってしまい、 郵便配送船の時刻にも間に合わず問題だと説明していました。 しかし中央政府から独断が過ぎると非難されたため、 営業時間と配送時間の調整を経てにはマドラス時間に移行しました。 >>337 55ページ
[429] 商工会議所は、ボンベイ大学の University Syndicate に対して、 大学時計塔をマドラス時間に移行せずボンベイ時間を維持するよう要請しました (43賛成 / 6反対 Bombay Gazette )。 University Syndicate は University Senate に諮り、 34賛成 (うち24印度人、10欧州人 (反知事派)) / 6反対 (うち5欧州人、1パールシー) で可決されました Bombay Gazette 。 対抗してボンベイ政府が時計塔を管理下に置こうとしていたという噂もありました Bombay Gazette が、 時計塔運営資金の負担を中止することに決めました Bombay Gazette 。 >>261
[281] この頃、ボンベイ市内の time gun は、 マドラス時間 12時、 ボンベイ時間 9時に発砲されていました。 >>261 Bombay Gazette
[265] 商工会議所は改めてマドラス時間採用の取り消しを知事に要請しました。 地方政府は、市内で複数の時間が並立するのは不便であるとし、 ボンベイや印度全体の単一の時刻に合意できるまで、 これを棚上げとすることにしました。、 政府機関の時計もボンベイ時間に戻されました (発表)。 時計塔運営資金の負担の中止も取り消されました Bombay Gazette 。 >>261
[417] カラチでも、官庁、電信、鉄道ではマドラス時間が採用されましたが、 (欧州系・印度系共) 商業と水運では引き続き地方時が使われました >>337 58ページ。
[264] カラチの商工会議所は、カラチもマドラス時間から元の地方時に戻すことを地方政府に提案し、 、これが認められました >>261, >>337 58ページ。
[266] ボンベイ市内 (Bombay City and Island) とカラチを除くボンベイ省管下では、 マドラス時間が用いられ、元の時刻には戻されませんでした >>261, >>337 60ページ。 これは軍事や郵便の都合によるものとされています >>261。 ボンベイとカラチ以外ではマドラス時間に反対があった形跡はありません >>337 60ページ。
[418] こうした時刻の標準化に反対する動きの中には、マドラス時間という他の都市の時刻の採用への反感もあったようで、 公式にはマドラス時間を印度平均時と呼ぶようになっていったようです >>261。
[561] 1883年のクラカトアの津波観測記録には、次のようにあります >>560。
[616] この頃の英印の観測網は Port Blair を除き、 Madras の報時に同期されていました。 Port Blair は、 92.45E の時刻を使っていました。 >>615
[468] この時期の英印の時刻について、... などと説明されることがしばしばあるようです。大枠では間違っていないものの、 他の詳細な記述を比較すると、あまり正確な説明でも無さそうです。 特に、この時期のボンベイ時間とカルカッタ時間を現代の時間帯に当てはめ、 印度が地理的に二分されていたかのように捉えるのは誤りでしょう。
[210] 1884年の国際子午線会議の間に英印におけるカルカッタ時間 90E = とボンベイ時間 75E = の2つの時間帯が決定された >>209, >>220 とされることがあります。 しかし国際会議で特定国内の時間帯が決められるというのはおかしな話ですし、 この時代に や が実際に用いられたとすると他の情報と矛盾します。 Wikipedia は出典として国際子午線会議の議事録 >>212 を示しています。そこでは確かに世界各国の時間帯分割案が提示されていますが、 議論の中で提示されただけに過ぎず、各国の標準時に立ち入ることは会議の決議としては否決されています。 印度の時間帯としてこの2つが1884年に確立された >>163 と説明されることもありますが、これと同じことを指していると思われます。 1884年標準時説は誤りと考えられます。
[241] ボンベイ時間は1884年から公式に用いられるようになった >>236 とする説もありますが、これと地方時のボンベイ時間が混同されたものか、 あるいは1883年のボンベイ時間への復帰 (>>265) に由来するものでしょうか。
[761] 付け情報によると、 Karachi の郵便局から通知があって、 より Merewether Pier の報時球が稼働しました。 これは Karachi mean time 13:00:00 = Greenwich mean time 20:32:08 (失敗時は Karachi mean time 14:00:00 = Greenwich mean time 21:32:08) に落下させられました。 >>760 つまり Karachi 平時とは です。
[150]
Shanks の BANGLADESH は
から としています
(それ以前は LMT) >>729。
tzdata の Asia/Dhaka
は、
1890年を境に としています >>147。
いずれも根拠は不明です。
[214] 19世紀後半、英印の天文学や地質学では、主としてカルカッタ時間が用いられたといいます。 の地震の論文などの例が知られています。 >>209
[287] 英領セイロンは、独自の時刻を用いていましたが、 その後マドラス時間を使うようになった >>287 といいます。
[595] 1899年に Milne は、Ceylon について、 Colombo mean time が使われていたところ、 からマドラス平均時を使うようになった >>576 としています。
[446] tzdata は、これを引用しつつ、 Colombo の経度 と違いすぎるため無視するとしています。 >>407
[289] の情報によると、 英領セイロンの Master Attendant's Office の semaphore time signal (6.56.35N 79.50.35E) は、 マドラス平均時 20:15 = 地方時 20:13:23 = GMT 14:54:00.6 と、 マドラス平均時 04:15 に落下させられていました。 >>28
[609] 国際電信会社も元の時刻を としています (>>606)。
[567] Milne の情報源は英国政府機関となっており、 セイロンは当時英領です。しかもほぼ同時期の出来事ですから、 信頼性は高いと考えられます。 時差は転記ミスなどの可能性もありますが、 この時期に時刻の改正があったことは確かとみて良さそうです。
[610] 報時球はなぜか正時ではなく15分に落下させられていますが、 コロンボの経度と Milne が示すコロンボ平均時の差も約15分です。 これには何らかの関係があるのでしょうか。 地方時の正時に落下していると誤解して時差を計算したため15分ずれた値としてしまった、 という可能性もありそうです。
[251] 1899年、Kodaikanal Observatory が設置され、 Madras Observatory から時間管理業務を引き継ぎました >>236。
[577] 1899年の英国政府機関由来の情報によると、 英印では鉄道や電信でマドラス時間が用いられたものの、 その他の場面では公私共に地方時が用いられました。 しかしもっぱらマドラス時間を使う都市もありました。 詳しくは次の通りとされています。 >>576
[578] この他、港湾報時情報より Bombay の Colaba Observatory は 、 Karachi は とされています >>576。
[597] 更に、電信会社の情報では、英印域内はマドラス時間を示している会社もあれば、 地方時を次のように地方時を示している会社もありました >>576。
[606] 英領セイロンはどの会社も Colombo 、 Galle としていました >>576。
[701] 1899年には、標準時採用の提案が学会で採択されました。 ボンベイやカルカッタが「格下」のマドラスの時間を採用することに抵抗を持っているなどと指摘しつつも、 標準時が存在しないことで不便が生じているとし、 英印を2区や3区に分けてグリニッジ標準時から整数時の時差の標準時を設定することを求めました。 過日の地震の記録が時刻の問題で活用できなかったとの体験談もあります。 >>698
[267] 1899年、 Royal Scottish Geographical Society と Royal Geographical Society of London は英印で標準時を実施することを提案しましたが、 総督はこれを不要としました >>261。
[268] 1902年、 Royal Society の Observatories Committee は英印で標準時を実施することを提案しました >>261。
[40] 1904年から1905年にかけて、 London の Royal Society は英印政府に対し、 マドラス時間を に改めれば現状より改善されること >>693、 と の東西2区の標準時を採用することが国際的な科学の面ではより好ましいこと >>337 38ページ を示しました。
[423] 1896年、 ボンベイでは気象部から港への助言に基づき時刻通信監督官が設置され、 Colaba 観象台監督官 Nanabhoy Ardeshir Framji Moos が任命されました。 ボンベイ港湾組合 (BPT) の監督下で、 Bombay Castle の報時球と港湾組合保有の Victoria and Prince's Docks の報時球によって市内への報時業務を行うものでした (当該報時業務自体は以前から行われていましたが (>>427)、 これによって公式な職務となりました)。 >>337 75ページ
[426] Bombay Castle の time gun は、報時球と共に市内 (Fort and Native Town) に時刻を伝えていました。 >>337 75ページ
[425] Harbour Clock は、毎日13時に電気的装置で自動的に落下させられる報時球と同期されていました。 >>337 75ページ
[424] 後の印度標準時に関する議論における監督官 Moos の文書によると、 従来 Prince's Dock の報時球は Colaba平均時12時 (GMT 7時51分15.7秒) に落下させていたところ、 から GMT 3時0分0秒に変更されました。これは、 寄港船舶の時刻調整の便宜 (GMT との分以下の時差を解消すること) を目的としたものでした。 Bombay Castle は引き続き Colba平均時 13時0分0秒とされました。 >>337 75ページ
[428] この港湾報時球の時刻 は、 Port Signal Time と呼ばれています。 この時期、ボンベイではボンベイ時間 = Colaba平均時、Port Signal Time、 マドラス時間 = 印度平均時の3つの時刻が混在していました。 >>337 75ページ
[618] 1897年の Assam の地震に関する 2003年の論文には、 「17h 15m local time (11h 09m GMT)」 >>617 とあります。 時差は ということになります (根拠は不明)。
[612] 1906年に日本で出版された、 前年の印度の地震に関する論文では、 「地震の起つた時刻は印度の時で(印度の時は昨年夏迄はマドラスの時を使ひました)丁度頃でありまして、日本東京で観測しました時は(日本第一標準時)であります。」 と記述があります >>611。日本の研究者がどのように現地の時刻を得たのかは不明ですが、 マドラス時間で記述されたものを得たとみられます。
[269] 、 英印政府は、印度標準時 >>261, >>23 (とビルマ標準時 ) を実施しました。
[24] これは鉄道と電信における印度標準時 >>261, >>23 でした。 気象観測など他の事業では、この新標準時はまだ採用されていませんでした >>14。
[270] これまで内陸部では鉄道時に従うのが便利とされる一方、 カルカッタ、ボンベイ、カラチといった海洋都市では地方時を使っていました >>388。 英印政府はそうした都市に新標準時を採用することを要求はしないものの、 採用する意思が示されれば支持・協力し現地にある政府施設でも採用するとの方針でした >>261, >>388。 中央政府としてはボンベイにおけるマドラス時間採用の一件のような各都市との軋轢を避け、 慎重に新標準時に移行することを望んでいたようです。
[477] すべての分野に適用されたものでもなく、実施されない都市もあったものの、 現在ではこれが印度標準時の制定と捉えられている >>163 ことが多いようです。 あるいはこれより前に公式な標準時はなかった >>226 ともいわれます。 これより前からマドラス時間 (印度平均時) が (同じく不完全ながら) 事実上の標準時となっていたのですが、何をもって「公式」な標準時の「制定」 とするかにも色々な解釈があるのでしょう。
[710] 先述の通り、科学者は度々グリニッジ標準時基準の標準時の採用を求めていました。
[419] 、気象報告官が英印政府に 「note on a proposal for an Indian Standard Time」を提出し、 GMT に基づく科学的な標準時の採用を求めました。 ここから新しい印度標準時の検討が始まりました。 >>337 71ページ
MSA General Department Abstracts of Proceedings, 1905, Serial no. A-33, "Propsal for the adoption of a Standard Time for general purposes all over India", pp.99-107.
[695] 1904年、 英印政府は地方政府と各種団体に文書を送付し、 鉄道と電信で印度標準時 、ビルマ標準時 を採用すること、その他の目的で用いる時刻は標準時が非常に好ましいが、 各地方で定めるべきことが示されました >>693 が抜粋引用。
[696] と の2区に分割する提案 (>>40) については、欧州から英印まで文明国が連続しているわけではなく、 英印は孤立しているのであるから、 域内に時差が生じて分断されるよりは、 既に実質的な標準時となっていたマドラス時間に近い に統一する方が良いであろうと判断されました >>693。
[21] 、印度標準時 の採用が決まりつつあったと報告されています >>22。
[284] 、Railway Board と電信局が新標準時を採用しました >>283。
[292] の報告によると、 マドラスの郵便局の semaphore time signal (13.5.47N 80.17.37E) は、 従来の地方平時基準ではなくなっており、 印度標準時 の 13:00:00 = GMT 19:30:00 となっていました。 >>291
[227] 、 英領セイロンはマドラス時間から新標準時に移行しました >>287。
[297] の報告によると、 英領セイロンで印度標準時 が実施され、 Colombo の Harbour Master's Office の time signal (6.56.34N 79.50.34E) は標準時 4:15:00、20:15:00 = GMT 22:45:00、14:45:00 に変更されることと決まったようです >>296。
[769] Time Changes の CEYLON は、 から標準時 (それ以前は Columbo 地方平時 79.53E (= )) としていました >>1256。
[439] Shanks の SRI LANKA は から としています >>729。
[768] tzdata の Asia/Colombo
は、
1906年を境に としています >>407。
[194] 、 アンダマン諸島とニコバル諸島は Port Blair mean time から新標準時に移行しました >>192。
[228] 英印および英領セイロンではに印度標準時
が実施された >>226, >>236, >>693, >>105 (tzdata) Asia/Kolkata
とされることもあります。
実際よりも半年遅いのですが、ボンベイ市での実施 (>>272) を指しているのでしょうか。
[478] カルカッタは、新標準時に移行せず、カルカッタ時間を継続しました >>693。
[52] ボンベイでは、この時もまた新標準時を採用するべきかが問題となりました。 大論争どころか暴動まで起き、以後数十年、政府機関と欧米人の印度標準時と現地人のボンベイ時間に分断された状態が続くことになりました。
[422] 英印全体での印度標準時の導入の流れの中で、 ボンベイでも新標準時を採用することが議論されました。
[481] 鉄道、農村行政、郵政各局は賛意を示していました >>337 74ページ が、 ボンベイ政府もボンベイ市内での実施は難しいとみていました。 その場合マドラス時間とボンベイ時間の30分の時差が 38分50秒の中途半端な時差となり、不便になると危惧していました >>261。
[479] 、ボンベイの商工会議所は、 ボンベイ時間 22 / 新標準時 17 で新標準時採用を拒否しました >>261。 港湾組合、市政理事もボンベイ市内での新標準時の実施に反対しました >>337 74ページ。 Bombay Native Piece Goods Merchants' Association, Cotton Exchange, Grain Merchants' Association も新標準時に反対しました >>261。
[480] 反対者には、鉄道時に市内の時刻を合わせることを好ましく思わない者や、 英印全体で単一の標準時とするのではなくカルカッタとボンベイの2つの時間帯に分けるべきだと主張する者などもいました。 >>261
[482] 、 Bombay Presidency Trades Association が新標準時に賛成しました >>261。
[434] 新標準時が全国的に実施された、 ボンベイ市を除くボンベイ省のすべての政府機関で新標準時が採用されました >>337 83ページ。
[550] カルカッタの新聞に掲載された付けのボンベイからの報告には、 電信と鉄道で標準時が実施されたが、それ以外では地方時が継続され、混乱している >>548 とあります。
[271] 、商工会議所は ボンベイ時間 16 / 新標準時 51 で新標準時派が逆転しました。 に Bombay Port Trust が新標準時への賛成を表明し、 更に Bombay Association of Fire Insurance Agents, Native Share Brokers' Association, Mill Owners' Association も賛同しました。 、 Municipal Corporation が賛成 26 / 反対 21 で新標準時に賛成しました Bombay Gazette 。 >>261
[431] 1905年、ボンベイ政府は、 ボンベイ大学の大学時計塔が新標準時を採用するよう University Senate に求めていました。ボンベイ大学副学長の Mackichen 博士は新標準時に強く賛成しており、 University Syndicate も新標準時採用を推奨しました。 >>337 82ページ
[272] 十分な支持があるとみたボンベイ政府は、 ボンベイ市内でも新標準時を実施することとし、 中央政府と協議してからこれを実施することとしました。 ボンベイ市内にも徐々に新時刻が浸透していくものと期待していました。 港湾組合や銀行などは新時刻に合わせて営業時間を変更することに決めました。 >>261
[273] Victoria and Prince's Docks 報時球は、 ボンベイ時間午前7時51分15.7秒から、 印度標準時8時30分に改められました。 Bombay Castle 報時球は、 ボンベイ時間13時から、印度標準時14時に改められました。 >>261 Bombay Gazette 英印政府は、から印度標準時 の実施によりボンベイの報時球は次のようになったと通知しています >>29。
[275] ボンベイの中流階級の市民は、新標準時実施の直前に大規模な集会を実施し、 新標準時の実施は混乱を招くとして中止を求めました。各宗教の礼拝の時刻がわかりづらくなることなどが理由に挙げられていました。 >>261 その他にも商取引の市場への影響を危惧であったり、 植民地支配政策の1つとしての新時刻の強制への反発が強かったりしたようです >>337 90ページ。
[114] 、ボンベイでは新標準時に対する激しい抗議活動がありました >>113。 Parel 地区の Jacob Sassoon Mill の製粉所労働者は、 、新標準時への切り替えに抗議し、 ボンベイ時間に復帰するまでのストライキに入りました。 結果、ボンベイの製粉所はボンベイ時間に戻すことにしました。 >>261 Bombay Gazette 、
[276] ボンベイ政府はすぐに新時刻が普及するだろうと考えていましたが、 実施後しばらくしての新聞の調査では、市内の 90% がなお旧時刻に基いていたといいます。 >>261 Bombay Gazette
[277] 、Municipal Corporation は賛成 31 / 反対 30 で新標準時の継続を決議しました。 >>261 Bombay Gazette
[217] の論文誌記事には、次のような報告があります >>215。
[279] その後も再度ボンベイ市内で大規模な新標準時反対集会が行われ、 ボンベイ政府に対して新標準時中止を要求しました。 >>261
[278] 、 Municipal Corporation はボンベイ時間に戻すべきであると表明し、 Municipal Clocks をボンベイ時間とすることを賛成 31 / 反対 22 で決議しました。 Bombay Gazette >>261 Municipal Corporation Hall の時計は からボンベイ時間に戻されました >>337 102ページ。
[435] 中央政府はこれを受けてボンベイ政府に対応を照会していますが、 ボンベイ政府は商人が Municipal Corporation の決議により地方時に戻すとは考えにくいと回答しています。 ボンベイ政府は、欧州人の商人が新標準時を使えばそれでよく、 印度人が使う時間はどうでもよいと考えていたようです。 >>261
[222] 、 Grain Merchants' Association はボンベイ政府に対し標準時問題の再検討を要請しました >>261。
[776] Time Changes の INDIA は、 から標準時 が政府により使われたものの、多くの都市が地方平時を使い続けた、 それ以前は Madras 地方平時 80.15E (= ) が合法時だった >>1256 としていました。
[128] Shanks の INDIA #1 (>>739 参照) は から としていました >>739。 Shanks の PAKISTAN は から としていました (それ以前は LMT) >>729。
[775] tzdata の Asia/Karachi
は、
1907年を境に としています >>125。
[221] ボンベイではその後も新標準時反対の集会が続きました。 印度の独立を求める活動家 Tilak の逮捕・裁判もあり、 1908年の反対集会は欧州人に対する印度人の特に激しい対立となりました >>220, >>224, >>261 Bombay Gazette 。
[436] 1908年、 Bombay 政府の会計官の F.C. Harrison は、 Municipal Corporation Hall で新標準時を採用することを提案しました。 これに対して Municipal Corporation は、 改めてボンベイ時間への復帰を政府に要求しました。 >>337 103ページ
[274] 新標準時派もボンベイ時間派もどちらも譲らず、膠着状態に陥りました。 ボンベイ市内には2つの時間が併存し、 BT や ST のように表記されるようになりました。 公的な場面や欧州人は BT を使い、それ以外は ST を使いました。 ボンベイ中心部の Bori Bunder では、 Victoria Terminus 駅の時計は ST で、 対面の Municipal Corporation の Municipal Clocks は BT でした Bombay Gazette。 印度語の新聞や、ほとんどの宗教は、 BT を使いました。 唯一イスラム教の Khoja 派だけは、 ST を使いました。 >>261 B.T. と S.T. が併記されることはほとんどありませんでした >>337 104ページ。
[645] のポルトガル標準時法により、 ポルトガル領インドの標準時は とされ、 実施とされました。 ただし、隣接植民地 (英印) が標準時を実施するまでは従前の時刻によるともされました。 >>644
[819] 1932年の米国政府の時差の表は、 India の French Establishments について から標準時 としていました >>820。
[777] Time Changes の INDIA は、 から French Establishments と Portuguese Goa が標準時 としていました >>1256。
[774] Time Changes の PORTUGUESE INDIA (Daman, Diu, Goa) は、 から標準時 としていました >>1256。
[773] Time Changes の FRENCH ESTABLISHMENTS IN INDIA (Chandernagor, Kirkal, Mahe, Pondicherry, Yanaon) は、 から標準時 としていました >>1256。
[742] Shanks の INDIA の #2 (Daman and Diu Goa) は、から としていました (それ以前は LMT) >>729。
[635] 米国の新聞に掲載された1912年付の小説では、 Benares (ベンガル地方北方の都市) の時計はすべて鉄道のマドラス時間に合わせられている (正午に影がちょうど見える配置になっているが、太陽時とマドラス時間に数分差がある) という話題が出てきています >>634。
[341] 1913年の日本の雑誌は、 英領印度と錫蘭をマドラス子午線 、 葡領印度を適法時 としています >>340。
[694] 1918年かそれ以前に英印で書かれたと思われる書籍 >>693 では、 カルカッタで地方時を、 ボンベイの Municipal clocks および正当派ヒンドゥー教徒がボンベイ時間を使っていることを除けば、 印度標準時に統一されて混乱は収まっているという論調です。
[344] 1919年の日本の書籍では、カルカッタ、マドラス、ボンベイをすべて とするものもあります >>343。
[282] の新聞報道によると、ベンガルの商工会議所は、 カルカッタの時刻を36分進めてビルマ標準時 を採用するべきとの提案を検討していました >>20。
[765] Time Changes の ANDAMAN ISLANDS は、 1920年頃、 標準時 としていました >>1256。
[778] Time Changes の INDIA は、 Bengal province の Burma が1920年に標準時 としていました >>1256。
[346] 1920年の日本政府の資料は、錫蘭、印度 (Calcutta 以外) は 、葡領印度 (Goa) は としています >>345。
[347] 同じく1924年版には、錫蘭と印度 (Calcutta 以外) は 、 Calcutta は 、 葡領印度 (Goa) は とあります >>348。
[523] 大正11年の古倫母港訪問記録には、標準時はの報時球で通知されていた >>522 とあります。
[229] 1925年、 omnibus telephone system や train control circuit を通じた報時システムが整備され、駅など正確な時刻が必要な組織で利用されるようになりました >>226, >>236。
[391] 1925年の米国政府の情報によると、 ポルトガル領印度 (ゴア) は 、 カルカッタを除く印度とセイロンは とされています >>390。
[493] 日本政府出版の報時信号表では、 1924年版と1933年版で Port Blair は とされています >>489, >>490。
[495] 日本政府出版の報時信号表では、 1924年版, 1933年版, 1935年版, 1937年版で カルカッタは地方時とされており、郵便電信局のみ標準時 と注記があります >>489, >>490, >>491, >>492。
[632] の米国海軍の地図では、 英印、ネパール、ブータン、シッキム、セイロン、 Goa (ポルトガル領インド)、Pondicherry (仏領インド) が に塗られています。 Goa の周囲には国境線が描かれていますが、 Pondicherry には描かれていません (都市名は記入されています)。 ネパール、ブータンの国境線は描かれていますが、 シッキムは英印の一部となっています。Calcuttaは とされています。 Bombay は描かれていますが、 地域に含まれています。 アンダマン諸島は 、英領ビルマとニコバル諸島は とされています。 >>631
[349] 1927年の日本政府の資料には、 Nicobar Is. 、 Andaman Is. 、 錫蘭、印度 (Calcutta 以外)、Laccadive Is.、葡領印度 、 Calcutta とあります >>350。
[352] 1931年の日本政府の資料には、 Nicobar Is.、Andaman Is. 、 Chittagong 、 錫蘭、印度 (Calcutta, Chittagong 以外)、Laccadive Is.、葡領印度 、 Calcutta とあります >>351。
[354] 1932年の日本の書籍には、 印度 (カルカッタ、葡領印度以外)、セイロン島は 、 葡領印度 (ゴア) は とあります >>353。
[356] 1934年の日本の書籍には、 カルカタ 、 印度の大部分、セイロン島 、 ポルトガル領印度 とあります >>355。
[494] 日本政府出版の報時信号表では、 1935年版と1937年版で Port Blair は とされています >>491, >>492。
[358] 1941年の日本政府の図では、 Nicobar Is.、Andaman Is. 、 錫蘭、印度 (ネパール、ブータンを含む。)、 Laccadive Is.、葡領印度 、 Calcutta で描かれています >>357。 Chittagong も描かれていますが、 の中にあって特に注記もありません。 仏領印度は描かれていません。
[516] ベンガルのうちカルカッタや多くの地域と、隣接する Bihar、Jharkhand、 Assam、Orissa などいくつかの地域は、まで地方時を使っていました >>515。 >>515, >>310, >>693、 ベンガル政府 >>515, >>693 がベンガル全域で >>515 ベンガル時間 >>515, >>693 (B.T. >>537) >>310, >>693 を導入しました。
[533] カルカッタの新聞の のラジオ欄には、 Indian Standard Time の時刻であり、 Calcutta time はそれに24分加えたものとあります。 鉄道時刻表には3路線記載されており、 CALCUTTA TIME と記載されています。 >>532
[536] カルカッタの新聞の のラジオ欄には、 Indian Standard Time の時刻であり、 Bengal time はそれに 60分加えたものとあります。 鉄道時刻表には3路線記載されており、 BENGAL TIME と記載されているものが2路線、 STANDARD TIME と記載されているものが1路線あります。 >>535, >>534
[782] Time Changes の INDIA は、夏時刻開始を次の日としていました >>1256。
[121] Shanks の INDIA の #3 (>>739 参照) と BANGLADESH は、 から としていました >>729。
[743] tzdata の Asia/Kolkata
, Asia/Dhaka
は、
を境に としています
(なぜか 「Burma Time」と注釈があります) >>105, >>147。
[744] Shanks の INDIA の #5 (Assam や Andaman and Nicobar Islands などの地域) は、 から としています (それ以前は LMT) >>729。
[745] Shanks の INDIA の #4 (Bihar などの地域) は、 から としています (それ以前は LMT) >>729。
[770] Time Changes の CEYLON は、 に夏時刻で30分進めたとしていました >>1256。
[440]
Shanks の SRI LANKA は
から としています >>729。
tzdata の Asia/Colombo
は、
を境に としています >>407。
[313] 、ベンガルは印度標準時 に復帰しました >>310, >>515。
[538] カルカッタのの新聞によると、 過日の政府決定に基づき、 この日の深夜 (早朝) から、 Bengal province 全体でベンガル時間は廃止され、 インド標準時へと移行しました。 Bengal と Assam の郵便・電信等の各局も、 インド標準時となりました。 >>537 (同じ日のラジオ欄には、まだ60分を加えたのがベンガル時間だと注記があります >>540。)
[784] Time Changes の INDIA は、 夏時刻を実施していた Bengal, Assam, Bihar について、終了としていました >>1256。
[122] Shanks の INDIA #3, #4, #5 と BANGLADESH は、 から としていました >>729。
[783] tzdata の Asia/Kolkata
, Asia/Dhaka
は、
を境に としています >>105, >>147。
[231] >>541, >>693、英印政府の決定により、 印度標準時は から に改正され >>541, >>693、 カルカッタを含む英印全体で実施されました >>541。
[785] Time Changes の INDIA は、 から夏時刻としていました >>1256。
[771] Time Changes の CEYLON は、 に夏時刻で30分 (計1時間) 進めたとしていました >>1256。
[123]
Shanks の INDIA (#1, #2, #3, #4, #5), PAKISTAN, BANGLADESH, SRI LANKA は、
から としています >>729。
tzdata の Asia/Kolkata
, Asia/Karachi
, Asia/Dhaka
,
Asia/Colombo
は、
を境に としています >>105, >>125, >>147, >>407。
[305] 英印政府の政令第6号 Indian Standard Time (Interpretation of References) Ordinance, 1943 >>306 は、印度標準時が と定義されている場合であっても、 中央政府が他の時刻を印度標準時として実施している間は、 その時刻によるものと解されるべきである、と定めています。 印度で現在もこの法令が有効なのかどうかは不明ですが、 少なくてもパキスタン >>301 とバングラデシュ >>298 では、 (国名に関する改正を経た上で) 現在も有効なようです ( となっている箇所は改正されていません)。
[552] の日本政府文書には、次のようにあります >>551。
[641] のボンベイ埠頭大爆発に関する政令に示された様式には、 「on or about ... o'clock a.m./p.m. Indian Standard Time on the ... day of April, 1944」 とあり、インド標準時による時刻の記載が求められています >>640。 このインド標準時が何を表すかは本政令には明記されていませんが、 1943年の政令 (>>305) の解釈に従い、 当時日光節約時間 (>>231) が実施されていたとするなら、 ということになります。
[232] をもって War Time を終え、印度標準時 に復帰しました >>226, >>513。
[544] 新聞によると、15日から印度標準時は元の に戻りました。 郵便局、港湾局、鉄道 (EIR) などは旧標準時 に復帰しました。 ベンガル政府政庁はベンガル時間 を使い続けました。 >>543, >>545, >>546, >>547
[786] Time Changes の INDIA は、 Bengal Province を除き、 まで夏時刻としていました >>1256。
[772] Time Changes の CEYLON は、 に標準時に復帰したとしていました >>1256。
[124]
Shanks の INDIA #1, #2, #4, #5 と PAKISTAN は、
から としています >>729。
tzdata の Asia/Kolkata
と Asia/Karachi
は、
を境に としています >>105, >>125。
[442]
Shanks の SRI LANKA は
から としています >>729。
tzdata の Asia/Colombo
は、
を境に としています >>407。
[488] こうした戦時日光節約時の実施中にボンベイでどのような時刻が用いられたのかは明らかではありません。
[300] 出版の書籍には、 にボンベイで生まれた子供の出生時刻について、 英印政府が1時間時刻を進めていたはずだが、記憶の中の病院の時計がどの時刻か明確ではない >>299 という話があります >>299。
[208] 印度の独立後、標準時をマドラス時間にかえて >>205 とすることが決められた >>205, >>226、あるいは 、 が印度標準時となった >>329, >>622, >>621 といわれます。こうした説明が何に基づいているのかは定かではありません。 ベンガルとボンベイを除けば既に になっていたはずですが、 独立後に改めてこれが標準時と定められたり、従来実施されなかった分野にも拡大されたりしたのでしょうか。
[780] Time Changes の INDIA は、 Hindustan (India) がから標準時 としていました >>1256。
[781] Time Changes の INDIA の Bengal Province は、 まで夏時刻としていました >>1256。
[747] SHANKS の INDIA の #3 (>>739 参照) は、 から としていました >>729。
[763] Time Changes の PAKISTAN は、 1947年から1951年の間、 市民の標準時 、 鉄道・郵便その他 としていました >>1256。
[162] >>511、 カルカッタはカルカッタ時間から に移行し >>50, >>209, >>226、 それまではカルカッタ時間が公式に用いられていた >>236 といいます。しかしその出典は明らかではありません。
[497] 印度のいくつかの法律には、次のような規定があります。
[575] これらの法の当該条項が適用された例があるのかどうかは不明です。 現代の印度では、死文と思われているようです。
[230] 1940年代、旧来システム (>>229) にかわり電波による報時システムが政府により運用されるようになりました >>226。 鉄道の時刻同期も、従来の16時の時報による調整から、 電波報時による自動調整に移行していきました >>236。
[360] 1949年の航空時刻表には、 KARACHI、DELHI、CALCUTTA とも とあります >>359。
[330] 1950年の世界の標準時の表では、 India, Pakistan, Nepal, Bhutan, Ceylon Island が , Burma, Andaman Islands, Nicobar Islands が とされています >>327。
[257] 1952年-1954年頃、印度の鉄道は、 従来の地域毎に基準時計を置くシステムから部門毎に基準時計を置くシステムへと移行していきました >>236。
[254] 当初印度の標準時は Benaras (Varanasi) の時計で管理されていました >>236。
[207] 中央観象台は、印度の独立の後、 マドラス (Chennai) から Shankargarh Fort Allahabad district に移転しました >>50。
[255] 1953年、 Sarnath に観象台が設置され、 印度の新たな標準時の時計が置かれました >>236。
[517] まで、東パキスタン (現バングラデシュ) では、 常用時としてベンガル時間 が、 鉄道と郵便でパキスタン標準時 が用いられていました。 >>515
[322] 、 西パキスタンは >>323, >>515 に、 東パキスタンは >>515 に移行しました。 切り替え時刻は深夜とされています >>324。
[764] Time Changes の Pakistan は、 から、 East Pakistan が標準時 、 West Pakistan が標準時 としていました >>1256。
[131]
Shanks の PAKISTAN は、
から としています >>729。
tzdata の Asia/Karachi
は、
を境に としています >>125。
Shanks の BANGLADESH は
から としています >>729。
tzdata の Asia/Dhaka
は、
を境に としています >>147。
[326] このパキスタンの標準時変更は数学者の Mahmood Anwar 教授の提案で、 の出来事だといいます >>325。
[803] 1954年の英国の書籍には Western Pakistan が 、 Eastern Pakistan が とありました >>802。 根拠は不明であり、他の情報と矛盾することから、誤りと思われます。
[106] ボンベイは、非公式ながら >>236 1955年まで地方時 を使っていました >>9, >>163 が、 に移行した >>50, >>224, >>226 とされています。ボンベイ付近の鉄道でも、 この時までボンベイ時間が使われることがあった >>236 といいます。 英印時代の印度標準時とボンベイ時間の分裂が、これでようやく解消されたようです。
[573] 非公式なものが解消するとは何をもって言えるのかは不明ですが、 市民の自治団体や業界団体が政府と同じ標準時の採用に同意し、 傘下企業がそれに従った、ということなのでしょうか。
[336] 付けの日記には、 「It was ten thirty Bombay time [seven-thirty local time] when we landed in Damascus.」 とあります >>335。この時既に印度標準時 だったはずのボンベイと、 地方時 (ダマスカス時間だとすると ) で時差が 3時間ということになります。旧時刻だとしても時差は2時間のはずですから、辻褄が合いません。
[519] の世界の標準時の表では、 西パキスタン , 印度, セイロン, ポルトガル領印度 , 東パキスタン となっています >>518。
[827] ソ連・米欧紀行, 丹羽保次郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2985776/1/63 (要登録)
20時30分イタリア国ローマの空港到着。
8時45分パキスタンカラチ空港着陸、
「
[165] 1962年、印度で日光節約時刻が実施された >>163, >>226 といいます。
[166] 1965年、印度で日光節約時刻が実施された >>163, >>226 といいます。
[167] 1971年、印度で日光節約時刻が実施された >>163, >>226 といいます。
[620] これら3度にわたる戦時日光節約時刻について、 >>163 と >>226 (および各言語版 Wikipedia) は言及していますが、 それ以外で独立してこれに言及する文献は見当たらず、その詳細は不明です。 実施時期すら明記している資料は見当たりません。
[639] インドの法律や政令 >>637 でその根拠法らしきものも見当たりません。 (OCR されていない PDF しか無いので、確実なことは言い難いですが...) 官報検索でもそれらしきものは出てきません (検索の動作が不安定なので断定しづらいですが...)。
[421] 1968年の米国政府の地図に基づくという 1972年に日本で発行された地図では、 印度、ネパール、ブータン、シッキムは 、 西パキスタンは 、バングラデシュは で塗られています >>549。
[173] 1980年代、印度では時間帯を2つか3つに分けるべきとの提案がありました >>160, >>50, >>174。
[766] Time Changes の BANGLADESH は、 標準時を としていました >>1256。
[451] 1996年、スリランカ政府は標準時を変更しました。 LTTE はこれに従わなかったため、両者の支配地域はこの後約10年にわたり異なる時刻を用いる状態となりました。
[443] tzdata の Asia/Colombo
は、
を境に としています >>407。
付現地Webサイト記事 >>447に金曜日深夜 (GMT 18:30)
に国家標準時が1時間進められるとあるのを根拠としています >>407。
[736] Shanks の SRI LANKA は から としています >>729。
[800] この変更は旱魃のための電力不足対策だといいます >>796。
[444] tzdata の Asia/Colombo
は、
を境に としています >>407。
スリランカの媒体大臣発表を引いたネットニュース記事に
から となる、
とある >>448 のを出典としています >>407。
[737] Shanks の SRI LANKA は から としています >>729。
[450] LTTE は、スリランカ政府の標準時変更を無視し、印度と同じ従来の標準時 を引き続き用いました。 >>1, >>2, >>407
[175] 2001年、印度政府は時間帯を分けるべきか検討する委員会を設置しました >>174。
[142] 2002年、4月7日から10月6日までの間 >>125, >>308、パキスタンで夏時刻が実施されました。
[132] tzdata の Asia/Karachi
は、
に1時間進めて夏時間 としています >>125。
[133] tzdata の Asia/Karachi
は、
に1時間省いて標準時 としています
>>125。
[139] 2002年の両切り替えの時刻は、とも言われていたようですが、 日を明確にするためであって、実際にはとも考えられたようです。 >>125 英語版 Wikipedia もとしています >>308。
[140] また、パキスタン政府の発表では、開始を毎年の 「4月の最初の土日の間の深夜」から「10月15日」までとすることとされていました >>125。 (2002年の開始は4月7日に当たりますが、終了は1週間ずれています。)
[141] tzdata は付けの Webサイトの記事から、 実際の終了は5日と6日の間だった、としています >>125。
[143] 、パキスタン政府は、 夏時刻を実施しないと発表しました。
[177] 、印度政府の委員会 (>>175) は、 時間帯を分割するべきではないと答申しました >>176。
[445] tzdata の Asia/Colombo
は、
を境に としています >>407。
Webサイト記事 >>449 を出典に、
4月15日0時30分が14日24時0分となるとしています >>407。
[161] 2007年の Webサイト記事によると、印度では当時、 東部で を採用するべきだという意見が出ていました >>160。
[717] 印度全域で標準時を30分進めて とするべきと主張する研究者もいました >>715, >>714, >>716。
[319] 2007年、バングラデシュで夏時刻の実施が検討されましたが、 実現しませんでした >>317。
[145] 2008年、6月1日から10月31日まで >>125, >>308、パキスタンでは資源不足問題の対策として夏時刻が実施されました。
[134] tzdata の Asia/Karachi
は、
に1時間進めて夏時間 としています >>125。
[135] tzdata の Asia/Karachi
は、
に1時間省いて標準時 としています
>>125。
[144] 、パキスタン政府は から3ヶ月間夏時刻を実施すると発表しました >>125。
[138] 当初はに標準時 に復帰する予定でした >>6 が、にパキスタン政府は 2ヶ月延長してまで夏時刻とすることを発表しました >>125。
[146] 2009年、パキスタン (4月15日から10月31日 >>125, >>308) とバングラデシュで夏時刻が実施されました。 バングラデシュも資源不足が理由での実施でした >>796。
[136] tzdata の Asia/Karachi
は、
に1時間進めて夏時間 としています >>125。
[137] tzdata の Asia/Karachi
は、
に1時間省いて標準時 としています
>>125。
[130] 、パキスタン政府は から夏時刻を実施することを決定しました >>125。9月末、パキスタン政府はから標準時に復帰することとしましたが、 その後から復帰することに変更しました >>125。 更に、今後から夏時刻とし、 から冬時刻とすることと定めました >>125。
[155] tzdata の Asia/Dhaka
は、
に1時間進めて夏時刻 としています >>147。
[156] tzdata の Asia/Dhaka
は、
に1時間省いて標準時 としています >>147。
[151] の情報によると、バングラデシュ政府は からまで夏時刻を実施し、 翌年以降も実施するならに開始することとしたといいます >>147。 の情報によると、 との間の深夜 (23時) に開始し、 終了日は未定と決定したようです >>147。 の報道によると、 まで夏時刻を実施し、 翌年以後からまで実施するとされていました >>833。 末、ようやくバングラデシュ政府は をもって標準時に復帰し、 にまた夏時刻を開始すると決めました >>147。
[318] バングラデシュの夏時刻への移行時刻について、 19日と20日の間の0時と説明されていました (例えばバングラデシュ政府の英語記事には 「at midnight on June 19」とあります)。これを旧時刻0時に1時間進めて20日1時とすると解釈するものもありました。 しかし官報や timeanddate.com がバングラデシュ首相府に問い合わせたところによると、 19日23時に1時間進めて新時刻0時とするのが正しいようです。 >>317
[834] バングラデシュの夏時刻は、 電力危機への対処の一貫でした。 >>833
[797] この2年間の夏時刻実施中も、 パキスタンの一般市民、特に農村部では標準時が使われることが多く、 real time のような呼ばれ方をしていました。一方で夏時刻のことは Musharraf time と呼ばれたりしました。 >>796
[798] 2008年の夏時刻実施中、 パキスタンの Lahore 駅の時計は標準時のままでしたが、 鉄道運行は夏時刻に従っていました >>796。
[799] バングラデシュでも市民は標準時を用いていることが多くありました >>796。
[152] の情報によると、 バングラデシュ政府は夏時刻を実施しないこととしました >>147。 市民に不評だったため >>796 だといいます。
[129] 、 パキスタン政府はから まで夏時刻 を実施すると発表しました >>125, >>5。しかし直後から反対意見があり >>125、、 パキスタン政府はこれを中止すると発表しました >>4。
[182] Assam (印度北東部) の農園では、 が使われており、 bagantime >>181, >>379 (bagaan time >>796) や Tea Garden Time >>181, >>379 や chai bagaan (black tea) time >>796 と呼ばれているようです。 これは英印時代から続く慣習だといいます >>190, >>379。 2014年には現地政府の Tarun Gogoi も言及しています (>>184) >>186。
[738] 英印時代からということで、かつてのベンガル時間 が都市部で用いられなくなった後も、農村部では残り続けているということなのでしょうか。 1860年頃から英国が茶農園で資源節約のため導入した日光節約時の一種 >>796 と説明するものもありますが、 その時期はちょうど地域ごとの鉄道時が確立しつつあった頃です。 日光節約時という考え方はまだ欧米でも導入されていません。 1860年頃から使われ続けているというのが事実なら、 全国標準時統一以前の時刻が標準時に移行せずに残り続けていると解釈する方が妥当そうです。
[184] 、印度の Assam Chief Minister の Tarun Gogoi は、 Assam その他北東部の時刻を60分-90分程度進めるべきだと発言しました >>183, >>186。
[235] しかし中央政府はこれを承認していません >>226。
[185] Jahnu Barua は、2014年時点で25年間、 北東部で独自の時刻を用いるべきだと主張し続けています。 2010年には DoNER に北東部の時間帯の分割を提案しています。 >>183
[187] 現在、印度の標準時はニューデリーにある National Physical Laboratory (CSIR-NPL) の Time and Frequency Standards Laboratory が原子時計で管理しており、 各機関に報時しています >>711, >>50, >>236 (UTC(NPLI) >>713)。
[321] 現在、バングラデシュの標準時は Bangladesh Standards and Testing Institutions (BSTI) が管理し、 Bangladesh Computer Council (BCC) が配布しています >>320。
[503] 現在、スリランカ標準時 (ශ්රී ලංකා සම්මත වේලාව, இலங்கை நியம நேரம், Sri Lanka Standard Time) は Ministry of Industry and Commerce の Measurement Units, Standards & Services Department >>252 が管理しています >>411。
[53] Time in India - Wikipedia, the free encyclopedia () https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_India
[630] インド国内にはチベット亡命政府があり、チベット人が多数居住しています。 独自の標準時は制定せず、インド標準時 を用いているものと思われます。
[748] カシミールは印度、パキスタン、中華人民共和国がそれぞれ一部地域を実効支配しています。 これらの地域では、それぞれの国の標準時・夏時刻が運用されているものと思われます。 各国軍の進攻により統治者が変化した地域では、それに応じて時刻も変化したものと考えられます。
[749] 印度のアルナーチャル・プラデーシュ州は、中華人民共和国も領有権を主張しており、 何度か進攻して一時的に支配しています。 現在は印度の標準時が用いられていますが、 一時的に中華人民共和国の標準時が用いられていた可能性もあります。
[808] インド洋のアンダマン諸島に属する北センチネル島は、 形式的には英印を経て現インド領アンダマン諸島に属しますが、 現在まで英国およびインドの統治下に入ったことがないだけでなく、 外部との一切の接触を拒んでいます。
[809] インドの法令上形式的にはインドの標準時である が適用されているものと推測されますが、実効性はありません。
[810] 現地人の生活様式は不明ですが、近代的標準時制度以前から続く原始的な日時観念を独自に維持しているものと思われます。
[812] インドやパキスタンには、 原住民が独自の社会を維持して生活していて中央政府の完全な統治下に置かれていない地域がいくつかあります。
[754] パキスタンのトライバルエリアには、中央政府の法令のほとんどが適用されず、 現地部族の統治下にあります。標準時関連の英印やパキスタンの法令がこの地域でどう扱われているのかは不明です。
[811] インド領アンダマン諸島の大アンダマン島には、 ジャラワ族居住地域があります。 ジャラワ族はインド政府との交渉には応じているものの、 ほとんど外部との交流を絶っており、域内はジャラワ族の自治区となっています。 北センチネル島のように完全に遮断された領域とはなっていませんが、 現地人は独自の日時観念を維持して生活していると思われます。
[56] tzdata の Asia/Kathmandu
は、元の地方時を
としています >>54。
[60] Malla (マッラ朝) 時代には、 Hanuman Dhoka (王宮) 近くの池で官吏が水没した pala の数を数えていました。 pala には小さな穴があって、ちょうど24分で水没していました。 >>59
[594] 1899年時点で英国政府経由で得られた情報によると、 Nepal の首都 Katmandu では鉄道も電信もなく、 経度は正確に決定できない >>576 とされていて、 時差も示されていません。 事実上の英印の保護国とはいえ、英印のマドラス時間もこの頃ネパールには波及していなかったようです。
[57]
Shanks の NEPAL は、
から
としています (それ以前はLMT) >>729。
tzdata の Asia/Kathmandu
は、
1920年を境に としています >>54。
根拠は不明です。
[97] 1930年代の日本軍の時間帯の地図では、ネパールの国境線は描かれていません。 英印は で塗られており、そこに含まれているようです。 あるいは北部は支那に含まれているのかもしれませんが、 どこが境界なのかは明確ではありません。 1935年版まで支那のチベット付近に色は塗られていませんが、 1937年版以後は / に塗っています。 >>95, >>96
[61] 1956年、初めて Nepal Standard Time が定められました。 Gauri Shankar 山 (首都 Kathmandu から100km東) の時刻とされました。 >>59 山頂は 86.20.9E = なので、 86.25E = と思われます。
[762] Time Changes の NEPAL は、 標準時 としていました >>1256。
[58]
Shanks の NEPAL は、
から
としています >>729。
tzdata の Asia/Kathmandu
は、
1986年を境に としています >>54。
根拠は不明です。
[405] 米国政府の地図では、1985年版-1989年版と1997年版以降は 5 となっていますが、 1990年版-1995年版は 5 となっています >>403。
[68] に執筆された英語版 Wikipedia の最初の版は、 1986年に標準時変更があり、その前は だった >>69 としています。には、 は誤りで、 改正前の旧時刻は印度標準時 だとする異説が追記されました >>70 が、に削除されています >>71。 更にに、誤りだとして1986年の言及自体が削除されています >>72。 英語版 Wikipedia の他の記事や、各言語版の記事にも1986年以前は異なる標準時だった、 だったといった記述がその後も残っています。 これらの記述のいずれも出典は不明です。
[44] 英語版 Wikipedia の の記事には、 1986年より前のネパール時間であるところのカトマンズ平均時 の近似で が用いられることがあった >>43 と記述されています。
[63] 2003年の記事によると、印度との15分の時差が不便との声もあるものの、 主流とはなっていないようです >>59。
[74] には、英語版 Wikipedia に、 地域によっては異なる時刻が用いられている (詳細不明) という旨の記述が追加されています。 しかしその後なぜか削除されています。 >>73
[55] tzdata はネパールについて、
Asia/Kathmandu
を定義しています。
[84] tzdata の Asia/Thimphu
は
を元の地方時としています >>82。
[94] 1930年代の日本軍の時間帯の地図では、ブータンの国境線は描かれていません。 英印は で塗られており、そこに含まれているようです。 あるいは北部は支那に含まれているのかもしれませんが、 どこが境界なのかは明確ではありません。 1935年版まで支那のチベット付近に色は塗られていませんが、 1937年版以後は に塗っています。 >>95, >>96
[85] Shanks の BHUTAN は
から
と (それまでLMT) しています >>729。
tzdata の Asia/Thimphu
は
を境に としています >>82。
根拠は不明です。
[87] 付けの Webサイト >>89 や出版の書籍によると、1980年、 Bhutan Standard Time が導入された >>88 といいます。
[767] Time Changes の BHUTAN は、 地方平時が使われているものの、 インドは標準時を と指定した、とありました >>1256。
[91] 1983年の政府文書では、ブータンには標準時がある (が標準の曆はない)、と言及されています >>90。
[86] Shanks の BHUTAN は
から
としています >>729。
tzdata の Asia/Thimphu
は
を境に としています >>82。
根拠は不明です。
[93] 1987年付けの日本人研究者の論文には、 1985年秋の気象観測の結果が掲載されています。 「Standard Time in Bhutan(BST)」が であることがわかりますが、 標準時変更には言及がありません。 >>92 執筆が同年の10月の前か後かわかりませんが、標準時が変更されたとすると不審です。
[404] 米国政府の地図は、1997年版まで 、1998年版から としています >>403。
[750] 中華人民共和国支配地域では、中華人民共和国の標準時が用いられるようになったと考えられます。
[625] 2008年に Bhutan Broadcasting Service から受領したという QSLカード (英語) には、 「BST」 が であると明記されています。 >>624
[730] このようにかつて が用いられていたとする資料が複数存在していますが、 その開始と終了の時期はまちまちで、根拠もはっきりしません。
[731] おそらくこれらはブータンが英領インドの保護領だったことに由来するもので、 英領インドの標準時 が適用された地域に含まれていたと考えたものでしょう。
[732] ブータンの地方時が 前後であること、 保護領とはいえ内政に英国はそれほど干渉していないと思われること、 英領インドと直結する鉄道が通じていなかったこと (電信は不明) を考え合わせると、 ブータン国内では一貫して 前後が使われていたと考えるのが自然です。
[83] tzdata はブータンについて Asia/Thimphu
を定義しています >>82。
[648] 中華人民共和国領チベットでは、現在北京時間 が用いられています。
[651] の清国海関制定の標準時では、 亜東は であると明記されていました。
[670] 1918年、中華民国の標準時が制定され、 チベットは回藏時區 と崑崙時區 に分けられました。これがチベットでどの程度実施されていたのかは不明です。
[654] 1934年に日本で発行された地図帳の標準時の図では、 ラッサを含む西藏の大部分は (支那の大部分同様) 標準時不明を表す無色になっていますが、西南部の加托克やカイラス山の付近一帯は、 国境線を超えてインドと同じ色に塗られています。 >>655 この地域はインダス川流域で、チベットでも特に英国の影響が強く、 が使われていた、ということなのでしょうか。
[661] チベット時間 が廃止されたのは 1959年ともいいます >>662。
[663] 郭庆生は幾つかの資料を検討しつつ、 1960年以前は 、 1960年以後は がチベットで用いられていると結論付けています >>664。
[666] 1971年には、 新疆とチベットを含む中華人民共和国の支配地域全土が に統一されました >>665。
[667] 1968年の米国政府の地図に基づくという 1972年に日本で発行された地図では、 中華人民共和国は新疆が 、それ以外が で塗られています >>668。
[669] その後、一時中華人民共和国では夏時刻 が実施されていました。
[673] ウイグルのように北京時間とは異なる独自の時刻を用いている >>658, >>671, >>689 とするものもありますが、情報が少なく、 ウイグル時間ほど一般的ではないのかもしれません。
[687] >>684 と >>685 から書かれた記事が >>685 なので、 >>685 では 「チベット時間」と「北京時間」と書かれている。 >>684 はチベット、 >>685 は北京が情報源なのでそのように書かれていたのだろう。 実際両者が同じ時間なのか違う時間なのかはよくわからない。
[638] エベレストをはじめとするヒマラヤ山脈の登山では、 ネパール、中華人民共和国領チベット、印度を行き来することがあります。 登山者は、便宜上、国境を超えていずれか適当な時間 (ネパール時間など) を使い続けることがあるようです。
[12] The Standard Time (Interpretation of References) Ordinance, 1943 (Ordinance No. VI of 1943) () http://nasirlawsite.com/laws/sto.htm
[45] 青龍彡/太刀魚Pさんのツイート: "TINAMIのメンテナンス終了時刻がわかりにくいよ!「終了予定日時:7/27 19:00頃(ブータン王国標準時)」" () https://twitter.com/seiryu3/status/96206849514291200
[46] TINAMIのメンテ終了時がブータン王国標準時な件 on Twitpic () http://twitpic.com/5wmwbd
[47] TINAMI@さりげなく20周年さんのツイート: "ひとつプログラムミスを発見して修正中。それが終われば投稿できるか最終チェックして、問題なければ開けます!19時(ブータン標準時)過ぎちゃってごめんなさい!" () https://twitter.com/tinami_info/status/96206820187713537
[531] Use numeric time zone abbrs for Asia/Colombo (eggert著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/3e8fa4c9590e6911291be651d7f5cb6bd6055a65
[569] History of Bombay’s quest for time - The Economic Times () http://articles.economictimes.indiatimes.com/2010-01-05/news/27567638_1_time-zones-bombay-time-viceroy
[571] Bombay time battles - The Economic Times () http://economictimes.indiatimes.com/industry/bombay-time-battles/articleshow/5408109.cms
[642] Remove many invented abbrs in 'africa', 'backzone' (eggert著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/87f960b0458754d83a15ab7f444e9ce1a2e5d168
[643] Remove many invented abbreviations in 'asia' (eggert著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/1b99dcde6342dd10969041b32b00b813d4f4a36e
NPT
[707] マドラス時間に近いが、果たしてそんなことあるだろうか。
[723] * asia: Fix typos (thanks to J Connell). (eggert著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/7f10ef042dbbd1bacd8d600051e4cef5aeff4f68
[724] Fix typos. (dpelle著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/0764007fa3f45fa9083db9164b28659a2d073a27
[813] Papers Past | IMPORTANT TO MARINERS. (New Zealand Gazette and Wellington Spectator, 1842-06-01) (National Library of New Zealand著, ) https://paperspast.natlib.govt.nz/newspapers/NZGWS18420601.2.5
[814] Why India Could Do With One More Time Zone | Economic and Political Weekly () https://www.epw.in/engage/article/time-zone-india
[815] Newspaper Article - Daylight Saving in Calcutta., The Straits Times, 4 August 1919, Page 3 () http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19190804-1.2.7
[816] Newspaper Article - DAYLIGHT SAVING., The Singapore Free Press and Mercantile Advertiser (Weekly), 18 March 1925, Page 167 () http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/singfreepresswk19250318-1.2.48
[817] Newspaper Article - DAYLIGHT SAVING., The Singapore Free Press and Mercantile Advertiser, 11 March 1925, Page 8 () http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/singfreepressb19250311-1.2.46
[818] #時刻表にみる大戦直後のパンナム () http://www.tt-museum.jp/cold_0050_pa1947.html
[821] ‘Need a separate cadre, time zone for Arunachal’: CM Pema Khandu - india news - Hindustan Times () https://www.hindustantimes.com/india-news/need-a-separate-cadre-time-zone-for-arunachal-cm-pema-khandu/story-WqPKglNXEq0V4zgHbBhs1K.html
[822] The Standard Time (Interpretation of References) Ordinance, 1943 () http://bdlaws.minlaw.gov.bd/act-details-204.html
[824] [tz] [PATCH] Update Bahrain as per article in The National () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2020-July/029175.html
[826] ネパールと日本の時差はなぜ3時間「15分」?超中途半端な理由を考えてみた | ネパールにハマ~ル!, https://nepal-lovers.com/2017/10/nepal-time-difference/