[13] 檀君紀元 (단군기원) >>5、 檀紀 (단기) >>5 は、朝鮮半島の紀年法の1つです (y~913)。
[457] 当初は開極紀元と呼ばれました。 >>456 #page=11, #page=13
[132] 日本語版ウィキペディアによると、 発音はタングンキウォン / タンキです。 >>5
[147] 日本語版ウィキペディアによると、 ローマ字転写は Dangun-giwon / Dan-gi です。 >>5 中文版维基百科によると、 文观部式表記は Dangun giwon / dangi、 马-赖式表記は Tan'gun kiwŏn / tan'gi です。 >>146
[158] POJ では Tân-kun kì-goân / Tân-kì です。 >>157
[160] English 版 Wikipedia は紀年法の名称を Dangi としながらも、本文中では 「15 March in the year 4340 of the Dangun Era」、 図題では 「in 1956 (Dangi 4289)」 のように書いていて、 表記が一定しません。 >>159
[443] 他に歴史的に用いられた異説がいくつかあります。
[137] 大韓民国での公用以後は、特に指定がなければ、 ほぼ確実にグレゴリオ暦の日付とともに使われています。
[138] それ以前は明確でないことがあり、ケースバイケースで検証が必要なので、 要注意です。 グレゴリオ暦のこともあれば、朝鮮半島の旧暦のこともあり得ます。
[133] 檀君紀元は、檀君王倹の即位の年によるものです。 >>5
[89] 檀君紀元は朝鮮人の民族意識の高まりと共に出現してきました。 >>7863 #page=22
[338] 檀君紀元はもちろんのこと、檀君伝説自体が、 古い史料にはまったくありません。 朝鮮だけでなく中国史書にも檀君朝鮮は記録されていません >>334。
[135] 高麗で編纂された現存最古の朝鮮の史書三国史記には檀君の記述がありません。 檀君朝鮮の実在性は低く、朝鮮の独立性を示すために後世になって創作されたといわれます。 >>5
[444] 檀君と王倹は元は別の存在で、 三国史記 には王でなく平壌の仙人の王倹が登場します。 >>150, >>93 /26
[339] 王倹は平壌の旧名の王険 (王険城) から派生したと推測されます。 >>334 王険城は衛氏朝鮮の首都として中国史書に記録されています。
[149] 高麗で編纂された現存最古級の朝鮮の説話集三国遺事 (代成立 >>150) に、
《魏書》云:乃往二千載有壇君王儉。立都阿斯達經云無葉山。亦云白岳。在白州地。或云在開城東。今白岳宮是開國號朝鮮。與高同時。《古記》云:。號曰壇君王儉。
以唐高即位五十年庚寅唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實
都平壤城今西京始稱朝鮮。又移都於白岳山阿斯達。又名弓一作方忽山。又今彌達。御國一千五百年。周虎王即位己卯封箕子於朝鮮。壇君乃移於藏唐京。
とあります。 >>148
[205] これが檀君の初出とされます >>93 /12, >>150, >>163。 三国遺事には他に2箇所檀君への言及があります >>93 /13 (が整合していません >>93 /16)。
[151] 魏書や古記が引かれていますが、 現存する魏書等中国史書には檀君は現れません。 >>150 三国遺事中の他の中国史書の引用にも原書にないものがあり、 信憑性には疑問が持たれます。 >>93 /14 古記が書名なのか一般名詞 (何らかの古記録) なのかは定かでありません。 >>200
[340] 唐高は唐尭󠄁の高麗における避諱です。 >>93 /13
[341] 本文ではこの避諱が行われていますが。 注釈では行われていません。 これが書写時の中途半端な書き換えでないのだとすると、 注釈は後から原文に挿入された注釈で、 高麗時代でなく李氏朝鮮時代に書かれた可能性が高いということになります。
[419] 大韓民国ではこの注釈は三国遺事の著者一然によるものと解釈されているようです >>118 が、根拠は不明です。
[342] 周虎王は周武王の高麗における避諱です。 >>93 /13
[91]
漢土の尭󠄁の即位紀年で年代が記述されています。
ところが尭󠄁の年代は漢土でも諸説あります。
尭󠄁の年代決定にこれら檀君関連文献が引かれることもあります。
[204] 本文の説明にある尭󠄁の即位紀年は漢土の古文献の説と一致しません。 >>200 三国遺事 編纂時 (少なくても注釈がつけられるよりは前) にそう書かれていたということは、 そのような説があったのか、 それとも何らかの誤りで年数か干支年が変化したものなのでしょうか。
[154] 注釈にある尭󠄁の即位紀年はy~3993 説 () と合致します >>163。 ただこの年代とする説は古文献によるものではなく、 檀君系の説 (三国遺事注釈より後に成立したもの) と思われます。
[382]
年代は異なりますが、元年戊辰とする説は元にそれらしきものがあります。
[206] 前近代歴史学で己卯年は西暦紀元前1122年と考えられていたとされます。 >>200 そこから1500年前となると、檀君の即位は西暦紀元前2622年頃となります。 ところが、その頃を尭󠄁の即位年とする古文献もありません。 >>200
[383] なお周武王即位を己卯年とするのは、 皇極経世書 にもある説です。 >>93 /20
[207] ここまでまとめると、 三国遺事 の記述を整合的に解釈して檀君の即位年代を決定するのは困難です。 >>200
[379] 李氏朝鮮の歴史研究者として有名な安鼎福は、 東史綱目 で檀君神話は荒唐無稽な仏教説話で史実でないとしました。 >>378
[380] 安鼎福所蔵三国遺事は近代において今西竜の所蔵となっていましたが、 安鼎福は
経世曆始定紀元、以尭󠄁元年為甲辰、歴代作史者遵行此云元年戊辰、未知従何書○ 尭󠄁戊辰至武王己卯、一千二百十二年、御國一千五百年者誤也
と注釈していました。 >>93 /19
[381]
経世曆とは皇極経世書と思われます。
皇極経世書は尭󠄁即位元年甲辰説です。
[335] 、 日本の歴史研究者那珂通世が三国遺事所載の伝承について、 僧徒の捏造した妄説に過ぎず、朝鮮の古伝ではないのは明らかと切り捨てています。 >>334 仏教関係者の創作と判断したのは、 三国遺事 が仏教系説話集だからでしょう。
[336] 明治27年1月、12月には日本の歴史研究者白鳥庫吉が那珂通世と同様の見解を示しました。 >>93 /11 後に五行思想との関係も指摘しました。
[337] その後の近代の日本人研究者らも更に検討を進めて同様の結論を得ました。 折しも日韓併合に反発する朝鮮人は民族意識を高め、 檀君やそれに紐づいた檀君紀元を民族の創世神話として崇拝するようになっていました。 内地人の近代歴史学研究と朝鮮人の民族信仰は、 相容れないものでした。 第二次世界大戦後はその反動で、 大韓民国人やそれに同調する一部の日本人らは近代日本の研究を皇国史観・植民史観による朝鮮人弾圧だったと糾弾しました。
初誰開國啟風雲?釋帝之孫名檀君。並與帝高興戊辰,經虞歷夏居中宸。
於殷虎丁八乙未,入阿斯達山為神。享國壹千二十八,無奈變化傳桓因。
卻後壹百六十四,仁人聊復開君臣。後朝鮮祖是箕子,周虎元年己卯春。
逋來至此自立國,周虎遙封降命綸。禮難不謝乃入覲,洪範九疇問彜倫。
とあります。 >>168
[92] また、
後唐末帝清泰二,乙未仲冬朝我陛,妻以長主封尚父,衣冠亦使朝聯袂。
とあります。 >>168
[411] これに対する注で、
我太祖十八年也、自檀君元年戊辰至此、凢三千二百八十八年
とあります。 >>7863 #page=27
[445] すなわち、
とのことです。
[174]
前近代歴史学で己卯年 (西暦紀元前1122年) が公認されていたとされます。
>>163 どこの誰が認めたのだかよくわかりませんが、
確かに説 (y~4178,
[175] 周虎元年とは周の武王の元年で、虎は武の避諱です。 年代は諸説ありますが、朝鮮方面に流布していた1説では確かに (y~4179) です。というより元はこの説から箕子の即位年が特定されたのでしょう。
[176]
殷虎丁は殷の武丁で、やはり避諱です。
武丁の年代にも諸説ありますが (
[177] を基準に 1028 + 164 = 1192 年遡る、つまりを-1年とするとき-1192年は >>168 になります。 ところが即位年は戊辰年のはずです >>163。
[178]
大韓民国の学界では1028年を1048年の誤記と考える >>118, >>163 そうです。
学界とは具体的にいつの誰のことかわかりませんが、
周武王の元年己卯の計算にも20年のずれがあって (
[179] を基準に 1048 + 164 = 1212 年遡る、つまりを-1年とするとき-1212年はになります。 確かに戊辰年になりました。 ところでこれは現在使われている檀君紀元の元年です。
[181] 韓国語版위키백과は、 なぜかこの20年の補正で西暦紀元前2400年戊辰が即位年になるとしています。 >>163 しかしは辛酉年です。 20年に加えて更に67年も遡っているのは、どこから来たのでしょうか。
[412] 注釈された経過年数表示は、 (y~417)、 (y~4045) に当たります。
[413] この注釈が自注なのかどうかわかりませんが、 「我」とあるので高麗時代なのは確かです。
[415] 3268年の誤りか >>7863 #page=27、 ともされ、その場合元年はに当たります。 現行檀君紀元に基づく訂正というわけです。 こちらでも20年のずれが見られることには注意が必要です。
[345] 本書は 三国遺事 とほぼ同時の成立ですが、 記載内容は少しく異なります。 特に檀君の即位年干支が 三国遺事本文ではなく注釈と一致すること、 檀君が神になった年がこちらにだけあることが注意されます。 当時既に内容の異なる複数の伝承が出回っていたことが知られます。
[166] 韓国語版위키백과は、 当時の歴史学の基準でも誤っているとしながらも、 帝王韻紀 東國君王開國年代 による即位年説も紹介しています。 >>163
[183] 李氏朝鮮で編纂された高麗の正史 高麗史 (成立) の高麗時代後期の公務員白文寶条には、
後上䟽言事曰:「國家世守東社,文物禮樂,有古遺風。不意寇患屢作,紅巾陷京,乘輿南狩,言之可謂痛心。今當喪亂之後,民不聊生,宜霈寬恩,以惠遺黎。且天數循環,周而復始,七百年爲一小元,積三千六百年,爲一大周元。此皇帝王覇,理亂興衰之期。吾東方,自檀君至今,已三千六百年,乃爲周元之會,宜遵堯、舜六經之道,不行功利禍福之說。
とあります。 >>182
なのだそうです。700年を積んで3600年になるといっていて、 5小元と100年余って中途半端なのは謎ですが...
[187] そして朝鮮半島方面では檀君から現在まで、3600年の「周元の会」、節目に当たるというのです。
又榜金、復州等處曰:「本國與堯並立,周武王封箕子于朝鮮,而賜之履,西至于遼河,世守疆域。
と書いています。 >>384
[386] 明言こそされていませんが、檀君を指すのは明らかです。 >>93 /49
[188] 白文寶の 淡庵逸集 の付録の編年によると >>163, >>200、 この上書は >>163。 あるいは8月 >>200 のこととされます。 そこでから3600年遡ると、 または >>163、 ないしはまたは >>200 が檀君の元年となります。
[208] 白文寶が何を根拠にこのように主張したのかは不明です。 >>200
[408] 皇極経世書説によれば3600年でなく3720年になるはずで、 干支2巡分少なく計算しています。 >>93 /77
[421] 現行檀君紀元と比べると元年が約100年新しくなっています。
[420] 大韓民国の研究者らは白文寶を檀紀の最初の利用者と考えているようです。 >>118
[180] 韓国語版위키백과は、 檀君紀元に直接言及した最古の記録は 高麗史 白文寶の条だとしています。 >>163
[189] これは檀君の即位から当年までの年数を数えた経過年数表示で、 たしかに広い意味の紀年法ではあるのでしょうが、 年表示、日時表示に使ったものではなく、 これをもって檀君紀元への「直接言及」という (のに >>167 のようなものは違うとする) のは些か躊躇されるところではあります。
[349] 李氏朝鮮の公式史書 朝鮮王朝実録 内 世宗実録 所収 地理志 は、 成立の 新撰八道地理志 >>347 に基づきに成立した >>348 とされる地誌です。
[350] 本書平壌府条に、
唐堯戊辰歲,神人降于檀木之下,國人立爲君,都平壤,號檀君,是爲前朝鮮。周武王克商,封箕子于此地,是爲後朝鮮。逮四十一代孫準,時有燕人衞滿亡命,聚黨千人,來奪準地,都于王險城,卽平壤府。是爲衞滿朝鮮。其孫右渠不肯奉詔,漢武帝元封二年,遣將討之,定爲眞蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡,隷于幽州。班固《前漢書》曰:「玄菟、樂浪,本箕子所封,昭帝始元元年,以臨屯、樂浪,置東府都護。」
とあります。また、
靈異,《檀君古記》云:上帝桓因有庶子,名雄,意欲下化人間,受天三印,降太白山神檀樹下,是爲檀雄天王。令孫女飮藥成人身,與檀樹神婚而生男,名檀君,立國號曰朝鮮。朝鮮、尸羅、高禮、南北沃沮、東北扶餘、濊與貊,皆檀君之理。檀君聘娶非西岬河伯之女生子,曰夫婁,是謂東扶餘王。檀君與唐堯同日而立,至禹會塗山,遣太子夫婁朝焉。享國一千三十八年,至殷武丁八年乙未,入阿斯達爲神,今文化縣九月山。
とあります。 >>346
[351] つまり
とあります。
[358] この檀君古記が先行文献の引用する古記と同じなのかどうか定かではありませんが、 内容は先行文献と少し違いがあります。
[359] こちらでは統治年数は1028年でも1048年でもなく1038年になっています。
[360] 檀君と堯の即位が同日と明記されていることも注意されます。
[387] 元々堯と檀君の在位が 「同時」 (>>375) と言われていたのを古記の著者が曲解して同日即位にしたものと考えられます。 >>93 /57
[389] なおこの世宗王の時代には、 初めて公的に檀君の祠が創設されました。 もっともこれは檀君に限ったものではなく、 新羅や高麗の諸王の祭祀も整備されました。 >>93 /58
[362] 李氏朝鮮政府の儒学研究者の権近は、 に明の皇帝の命で詩を作りましたが、 その詩題の自注に、
昔神人降檀木下、国人以為王、因号檀君、時唐尭󠄁元年戊辰也
[364] 孫の權擥がこれに更に注釈を加えてに出版したものには、
[370] 古記からの引用がどこまでかは明確ではありませんが、この部分全体とも解し得ます。 先行文献の古記と同じかどうかは定かではありません。 地理志と記述は似ていますが、同じではありません。
[371] ここでは年数が1028でも1038でもなく1048年となっています。 ただ、 先行文献でこの年数を「享國」などと書いていたのが、 ここでは「享年」と書いているのは気になる所です。
[372] 地理志と同じく唐尭󠄁と「同日」の即位となっています。
[373] >>179 のように己卯年を定めれば、この記述から数値の訂正なく現行檀君紀元を導けます。 ただ己卯年がどの己卯年か、この記述では確定できません。
[388] 元年を戊辰とするのは、元の時代に行われた説に直接よるものか、 三国遺事 の注釈によるものかは定かではありません。 >>93 /58
[410] 三韓詩龜鑑 所収の詩の注釈は、 権近などの時代に加えられたものと推測されています >>93 /77 が、
石磵曰古朝鮮檀君巳檀君寿一十八百歳在位一千五百年後箕子受武王命移都檀君旧都
[210] 李氏朝鮮時代に編纂された歴史書 東国通鑑 (成立) の檀君朝鮮条には、
とあります。 >>209
[220] 古記 が何を指すのか不明ですが、そこでは尭󠄁と檀君が「並立」するとされます。 ところが 東国通鑑 の編者はそれはおかしいと指摘し、尭󠄁25年戊辰が檀君の即位年だと言うのです。
[221]
編者の説がどこから来たものかは定かではありませんが、
尭󠄁の即位年が甲辰年だとする文献 (
[228] 大韓民国で出版されている 東国通鑑 の訳書 (のウェブ公開版) によると、
と解釈されています。 >>226
[232] 나무위키 は、 尭󠄁の即位年には諸説あるうち、 東国通鑑 は 皇極経世書 の説を引いたもので、 尭󠄁即位年は西紀前2357年で、 従って即位25年の西紀前2333年が檀君の即位年になった、 と >>228 を引きつつ説明しています。 >>200
[234] ここで、 >>228 の年代がどのように決定されたのかは明らかではありません。 は甲子で、乙未ではありません。
[235]
尭󠄁即位元年を西紀前2357年とする説 (y~3992) は確かに
皇極経世書
説ですが、
東国通鑑
の記載の情報だけからこれに確定できるのかはよくわかりません。
尭󠄁元年が甲辰年としつつも他の年とする説もあります。
[236] 重大なのは上元甲子と明記されていることです。 少なくても最も一般的に行われている三元甲子の説においては、 西紀前2357年は上元甲子中ではありません。
[233] 18世紀の 동사강목 も、 東国通鑑 の解釈を受けて25年戊辰を檀君の即位年にしました。 >>200
[238] 大韓民国の韓国史教科書では、 東国通鑑 の記録によればと断りながらも、 西紀前2333年を檀君の即位としています。 >>200
[390] 東国通鑑 は徐居正らによるものでしたが、 同じく徐居正による 筆苑雜記 (成立) には、
嘗考。自唐堯元年甲辰。至洪武元年戊申。摠三千七百八十五年。自檀君元年戊辰。至我太祖元年壬申。亦三千七百八十五年。吾東方歷年之數。大槩與中國相同。帝堯作而檀君興。周武立而箕子封。漢定天下而衛滿來平壤。宋太祖將興而高麗太祖已起。我太祖開國亦與太祖高皇帝同時。
古記云。檀君與堯同日而立。歷虞夏至商武丁八年乙未。入阿斯達山爲神。享年一千四十有八。當時文籍不傳。其眞僞不得而考。至今傳襲。以古記爲說。居正以爲當堯之時。人文昭宣。至于夏商。世漸澆薄。人君享國久長者不過四五十年。人壽。上壽白年。中壽六七十年。下壽四五十年。安有檀君獨壽千百年以享一國乎。知其說之誣也。又云。檀君生子扶婁。是爲東扶餘王。至禹會諸侯於塗山。檀君遣扶婁朝焉。其說無據。若檀君享國久長。扶婁往會塗山。則雖我國文籍不備。中國之書豈無一語及之乎。檀氏相傳享國之數。千四十八年者。無疑矣。權文忠公近詩曰。聞說鴻荒日。檀君降樹邊。世傳不知幾。歷年曾過千。蓋言其傳世歷年之久也。
とあります。 >>58
[391] 唐堯元年甲辰からまで3785年、 逆算すると唐堯の元年は (y~3994) です。 これは上元甲子の甲辰年です。
[392] 檀君元年戊辰から (y~4062) まで3785年、 逆算すると檀君の元年は。 現行の檀君紀元の元年の60年前に当たります。
[393] 共に徐居正が関わってほぼ同時期に成立した 東国通鑑 と 筆苑雜記 とで微妙に記述が異なっていますが、 東国通鑑 も 筆苑雜記 と同じ解釈 (>>392 >>392) とすれば紀年に矛盾は生じません。 現在流布している 東国通鑑 の解釈は誤りと判断せざるを得ません。
[394] 徐居正が堯元年甲辰説を採ったのは、 皇極經世書説に従ったものと考えられます。 そして檀君元年戊辰説を採って他の説を採らなかったのは、 中華の堯から洪武帝までの3785年と小中華の朝鮮太祖までの3785年が等しくなることによるものと考えられます。 >>93 /59
[395] ただ本来皇極經世書説では堯元年甲辰は中元甲子のはずが、 徐居正が上元甲子と誤ったために、 60年遡ることになってしまいました。 皇極經世書説では堯元年甲辰から洪武帝まで3725年になるはずです。 >>93 /59
[396] 徐居正説の檀君元年すなわちから数えて檀君即位1048年は、 となります。 現行檀君紀元によりから数えて檀紀1048年は、 となります。 どちらにしても「商武丁八年乙未」と干支年が一致します。
[398] 皇極經世書 では武丁乙未は8年でなく39年となるべきところです。 >>93 /59
[399] 李萬運の紀年児覧 (成立) は、干支の不一致を指摘して、武丁8年でなく武丁39年の乙未としています。 >>400, >>93 /59
[401] 官撰史書の東国通鑑に記載されたことで檀君は不動の地位を得ました。 >>93 /60 その頃から李氏朝鮮で檀君神話は官民含めて広く行われ、 元年甲辰説がよく使われるようになりました。
[403] 明の董越がに朝鮮を視察した訪問記 朝鮮賦 には、 檀君が帝堯元年甲辰に開国して云々とありました。 >>402 これによって檀君伝説は漢土にも伝わりました。
[404] 尹東暹日記によると12月9日、 王が洪啓禧に檀君のことは支那史書の何に見えるかと尋ねました。 洪啓禧は 酉陽雑俎 (頃成立) にあると即答しました。 ところが異本を調査しても檀君のことは書かれていませんでした。 虚言だったのです。 >>93 /60 (誰が調査したのか分かりづらいのですが、今西竜でしょうか。)
[448] 現在でも大韓民国や日本の多くの事典類やウェブページなどで檀君紀元の起源が 東国通鑑 とされているのも、 東国通鑑 の地位と広まりに関係しているのでしょう。
[134] 日本語版ウィキペディアによると、 三国遺事や東国通鑑が檀君即位を「中国の堯の即位から50年目」 とすることや、 世宗実録地理志が檀君即位を「唐堯的即位二十五年・戊辰」 とすることなどを根拠にしています。 >>5
[203] 나무위키によると、 現在の檀君紀元の年数は 東国通鑑 が初出とされます。 >>200
[152] 中文版维基百科によると、 三国遗事以下各種資料で建国年が固定されておらず、 「是唐尧戊辰岁也」 とある 東国通鑑 によって固定されることになったと説明しています >>146。 「非固定」が具体的にどの文献のどの説を指しているのかは不明です。
[161] English 版 Wikipedia は 東国通鑑 の記述 「contrary to the 40th year of the reign of the legendary Chinese Emperor Yao」 に基づき計算したものの異説もあったとして、いくつか引いています。 >>159
[162] English 版 Wikipedia の引くところによれば、 三国遺事 によれば Yao の50年、 朝鮮王朝実録によれば元年、 東国通鑑によれば25年だとのことです。 >>159 (同じ段落で40年条 (>>161) と書きながら25年とも書いていて、どういうことなのでしょう?)
[190] 韓国語版위키백과は、 西暦紀元前2400年に建国したと確定的に述べたのは 東国通鑑 が初めてとしながら、 唐堯戊辰年 = 西暦紀元前2333年と引いていて >>163、 意味がわかりません。
[153] 「「唐堯の即位25年・戊辰」」という独特な表現があり、 日本語版ウィキペディアはこのページの記述に基づくか、 同系統の資料に基づいたと思われます。
[449] これらの説明に反して、 東国通鑑 の説明をそのまま解釈しても現行檀君紀元は導出できません。 記述の矛盾を解消する解釈の1つで現行檀君紀元が導出できるのは確かですが、 それはより古い 帝王韻紀 にも言えること (>>447) です。
[271] 今西竜や藤田亮策のような日本の昭和時代の初期、中期の研究者は、 東国通鑑 を檀君神話成立の一過程で紹介していても、 現行檀君紀元の祖のような特別扱いはしていません。 平成時代以後 東国通鑑 由来説が日本語資料にも出現するのは、 大韓民国で行われた説の影響なのでしょうか。
[375] 李氏朝鮮時代の偽書 新羅國東吐含山華嚴宗佛國寺事蹟 に、
按鷄林古史及元魏書乃徃二千載有 聖君王候都阿斯達開國号朝鮮此即古朝 鮮與高同時御國一千五百年周武王即位 元年己卯封箕氏於朝鮮檀君乃移於荘唐 京後還隠於阿斯達為山神壽一千九百八 歳
とあります。 >>374
[376]
本書は大正4、5年頃に紹介されて広く知られるようになったもので、
に刊行されたものです。
の成立と書かれていますが、
矛盾が指摘されていて、偽書とされます。
[416] B0169 朝鮮寺剎史料 - 卷/篇章 2 | CBETA 線上閱讀, Axian Lee, , https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/B0169_002#:~:text=千佛山開心寺事蹟
秋、清領朝鮮
朝鮮開拓與堯並立至今為四千二百十七年之間而中國則歷代正統為二十三姓朝鮮則歷代正統但為五姓也地方不過東西一千七十里南北三千七里之內地官過於三百六十七官民戶過於一兆九億二萬六千四百八十五戶人家過於二十一兆六億六萬四千八百五十餘家故此地之所產不能支於此民之衣食可謂至貧之國也而然尚以堯舜禹湯文武周公之法道固守天命可謂禮義之國也是故中原一行道士見朝鮮地圖曰鯉形也鯉有亦白黃三種故山必有三神山鯉有三十六鱗故邑必有三百六十邑矣鯉之三十六鱗者是三十六宮之理也三十六宮都是春故三變為百八念珠形則朝鮮可謂佛國世界也若佛道崇尚則為國泰民安時和歲豐云道詵指空皆從道士之言以其造寺造塔山名水名一如道士所教之言者是之謂矣
人皇氏以後至四萬五千六百年甲辰即帝堯即位之元年堯之二十五年戊辰即檀君即位之元年也丁卯四月日檀君初自白頭山過次十日逗遛於此山之時逢見持提仙人問答山水後仍名此山為持提山矣厥後至一千二百十二年己卯即周武王即位之元年亦是箕聖即位之元年也箕來之初亦自白頭山過次三日歇惺於此山之際日夜雲龍之中雖聞笙簫之聲不知自何來心甚奇異仍名此山為風流山矣其後至一千四十七年乙巳即漢昭帝十一年亦是新羅即位之元年也其後至一百二十九年戊午即漢昭帝即位之元年也明帝十四年辛未十月初八日佛經始到中國矣厥後至五百七十七年戊申即唐太宗二十二年亦是新羅七百三十四年也是年國師道詵築千塔于此山仍名千塔山矣其後至十六年甲子唐高宗十五年亦即新羅七百四十九年也是年國師指空造寺於上基而山名為千佛寺號為開心矣
甲申秋述
[418] が4217年とすると、元年は。 現行檀君紀元 (y~913) と同じ数え方。
[417] これは讖緯家の書いた代表的なもので、天道教などでの通説とされます。 李氏朝鮮初期の道詵漢都讖記などに由来する伝統的記述とみられます。 >>7863
[136] 堯即位25年の檀君の即位は、 明の朱元璋の即位 () と李氏朝鮮の李成桂の即位 () の差に由来するといわれます。 >>5
[222] 歴史的に朝鮮人には自主独立を尊ぶ思想と、 中華王朝の属国たることを誇る思想の2通りの相反する考え方があったとされます。 前者には朝鮮の開祖への崇拝が、 後者には箕子崇拝が結びついています。 >>93 /86
[223] 高麗は高句麗の後継を称していましたので、開祖は高句麗の初代王でした。 ただ高麗政府は漢土の王朝に臣従していて、 政府より民間の方で朝鮮の開祖として檀君への信仰が発達しました。 >>93 /86
[224] 李氏朝鮮は明に臣従することで高麗からの王位簒奪の正当性を確保しました。 そこで周に臣従して王位を授かったとされる箕子を崇拝し、 国名の朝鮮もこれを継承したものでした。 李氏には (高麗の王氏にとっての高句麗王家のような) 系譜上の開祖がなかったので、 朝鮮の開祖は伝承上箕子につながる檀君へと遡ることになりました。 こうした事情で、相反する精神を反映していた檀君と箕子が同時に尊崇されることになりました。 >>93 /86
[139] 大韓民国の研究者李栄薫は、 李承晩政権が 「天皇の臣民だった朝鮮人を大韓民国の国民に転換するため」 に民族意識を高めるべく、 「李朝時代に箕子にはじき出されていた」 檀君を 「国の祖先として崇めた上で、檀紀という年号を使用し、開天節という国慶記念日を作り出した」 と指摘しています。 >>5 厳密に言えば檀君紀元を使い始めた李氏朝鮮末期頃から日本統治時代初期にかけての朝鮮人に生じた思想が李承晩政権に至ってこのような形で発露したということなのでしょう。
[225] 「箕子にはじき出され」たとの観察は、同時に崇拝されていたとの観察と矛盾するようにも思われますが、 明への崇拝と儒教が浸透した李氏朝鮮では、少なくても公的な場面では、 やはり箕子朝鮮に重きが置かれていたということなのでしょう。 民族意識が高まって明はもちろん清との関係も解消されると箕子朝鮮を崇拝する思想は弱まり、 民間信仰中心だった檀君の勢いが増すことになります。 日本統治に反対する意味からも、日本の皇紀を遥かに上回る古さを持つ檀君紀元はなくてはならないものになったのです。
[95]
20世紀後半の偽書桓檀古記を檀君紀元の起源とする説がありますが、
正しくない >>5 とされます。
なお日本で出版された桓檀古記が檀君紀元と呼んでいるものは、
檀君紀元とは違うものです。
[427] 桓檀古記はの成立を称しています。 檀君紀元の根拠になったとされるのは檀君世紀で、 の成立ということになっています。 ちょうど史実で檀君紀元が使われ始めた時期に編纂され、 その原史料はちょうど史実で三国遺事や帝王韻紀が作られた時期に成立したという設定になっているわけです。
[428]
頃、
「檀君開国四千四百」
と年号を書きかけた事例があります。
[331]
頃李氏朝鮮で朝鮮人向けに発行されていた
帝国新聞
には、
複数の紀年法の年が併記されており、
そのうちの1つが
「
[332] これはを元年とした数え方です (y~4180)。
[333] この時未だ現行檀君紀元が成立していなかった (または有力説として普及していなかった) ことがわかります。
[377] また、併記された紀年法に箕子即位紀年があることから、 李氏朝鮮時代にあって檀君と共に箕子尊崇が続いていたことがわかります。 (ただこの時期には檀君崇拝が強まり箕子崇拝はかなり弱まっていたといわれています。)
[405] 、 大韓帝国の王族や貴族などが発起人となって神宮奉敬会が発足し、 天照大神、 檀君、 李氏朝鮮の太祖を祀った神宮の建設を計画しました (未成)。
[406] この会の発行した 神宮建築誌 (ウェブ検索によると発行説と発行説あって不詳) には、 皇帝の親族で政治家の李址鎔の序に、
然則 檀祖相伝、亦至今四千二百余年
とありました。 >>93 /72
[407] 概数ではありますが、現行檀君紀元とも矛盾しない年数が書かれています。
[424] 明治42年に日本で出版された書籍に収録された文章で、
と書いたものがありました。 >>423
[239] 大韓帝国末期のに檀君教として設立され、 日韓併合のあったに分裂した大倧敎は、 東国通鑑 に基づく檀君紀元の使用を積極的に主張しました。 >>200 分裂後の檀君教も檀君紀元を使いました >>118。
[240] その後は民族意識の強い人々が檀君紀元を密かに使ったといいます。 >>200
[241] 大倧敎関係者が多数関与したとされる、 中華民国満州で制作されたという 大韓獨立宣言書 (戊午獨立宣言書, 무오 독립 선언서) は檀君紀元を採用しました。 三一独立運動の 宣言書 (己未独立宣言書) もこれを踏襲しました。 >>200
[256]
三一独立運動とその前後にはこれらの他にも檀君紀元を使った文書がいくつも作られました。
元号名はこの他に建国や紀元も使われました。
その一方で、大韓民国を使う大韓民国臨時政府系勢力もありました。
[257]
三一独立運動の後も、
こうした活動に関与したグループらは、
中華民国等国外で、ときに朝鮮を含む日本国内で活動を続けました。
それらの人々は、
反日活動を行うだけに留まらず、
檀君紀元を奉ずるグループと大韓民国を奉ずるグループ
(やその他の紀年法を使うグループ)
とで紀年法の選択を含む活動方針の違いによる抗争に励んでいました。
[47] (, ) http://www.nskk.org/province/shiryo/nikkan_1919_2019.pdf#page=7
[50] (, ) http://mswwres.meijigakuin.ac.jp/~kiriken/wordpress/wp-content/uploads/2018/06/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95-%E5%AE%A3%E8%A8%80%E6%9B%B8.pdf
[51] 3・1と韓(朝鮮)半島式の国づくり / 白楽晴 | 季刊 『創作と批評』 () http://magazine.changbi.com/jp/archives/91358?cat=2483
[456] 06_lcs_35_2_sassa.pdf, , https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/2000535/files/06_lcs_35_2_sassa.pdf #page=9
『マルモイ〔말모이〕』編纂事業の詳細については,周時経の弟子である李奎栄(1890 ~
1920)が書き残した資料が参考になる。李奎栄は 1913 年に『オンガッコ〔온갖것:すべての事〕』 という手稿本を書いている。本書は,冒頭に「4246 年〔檀紀による年表示,西暦に換算すると 1913 年〕9 月に朝鮮光文会朝鮮語字典を編輯する際に見聞きしたことを書き記す」(『全書』巻 4, 469)とあるので,『マルモイ〔말모이〕』編纂に参加した際の備忘録として書かれたものである ことがわかる。
#page=11
周時経の弟子であった李奎栄は 1917 年に『ハングル
モの通史〔한글모죽보기〕』という手稿本を著している。本書は,周時経が創設した研究会と国 語講習会の沿革について記録したメモ書きであり,紀元前 2333 年を基準とする「開極紀元(檀紀)」 を使用しながら,1907 年から 1917 年までの 10 年間にわたる学会の歴史が記されている。その 中で「朝鮮言文会創立記録〔한글모세움몯음적발〕」をみると,檀紀 4246 年〔=西暦 1913 年〕 3 月 23 日に普成学校で開催された臨時総会において,
[87]
に大日本帝国朝鮮京城府で初版が発行された朝鮮史の年表
東史年表
(
[450]
この年表は改訂版こそ発禁になったそうですが、
初版は朝鮮史研究者に重宝されていたそうです。
[453] Xユーザーの그저그런녀석 くもり ▶️さん: 「「朝鮮姓名復舊令에依하야姓 復舊檀紀四貳七九年拾貳月貳拾四日改訂함」 조선성명복구령에 의하여 성을 복구, 단기 4279년(1946년) 12월 24일 개정함. https://t.co/wwazOqi8ZN」 / X, , https://x.com/CMRbada/status/1489478291245334530
[43] 大韓民国は建国当初檀君紀元を公式の紀年法として使っていました。
[140] 大韓民国は、 に檀君紀元を法制化し、 公用開始しました。 >>5
[197] 、 国会議員133人中106人の賛成により、 연호에 관한 법률 (年号に関する法律) が可決されました。 >>195
[288]
それまで大韓民国を推す大韓民国臨時政府出身政府幹部らと、
檀君紀元を推す国会議員らの対立がありました。
政府機関は建国以来大韓民国を使っていましたが、
国会は法制化前から檀君紀元を使っていました。
[289] この法制化によって政府の紀年法は檀君紀元に一本化され、 民間でも広く使われるようになりました。
[191] 韓国語版위키백과は、 1944年7月11日に国会議員133人中106人が賛成し、 「대한민국의 공용 연호는 단군기원(檀君紀元)으로 한다.」 (大韓民国の公用年号は檀君紀元とする。) と定められ、 同年9月25日から施行された、 と説明しています。 >>168 これはの誤りでしょうか。 しかし月日も >>197 と違って謎です。
[290] 日本語版ウィキペディアはに大韓民国が公用化されたと書いていますが、
誤りで、真逆です。
[3] 大韓民国の檀紀4281年9月25日法律第4号 年號에關한法律 (年號に關する法律) は制定当時は漢字ハングル混じり文でした >>2 が、 現在の大韓民国政府機関ウェブサイトではハングル版が公開されています >>4。
[291] 本文は、大韓民国の公用年號を檀君紀元とすると定めただけの単純なものです。 >>2
[292] 檀君紀元とは何か、どのように使うか、といった詳細は何も明記されていませんでした。
[293] この法律を公布するに当たっての大統領の書名の日付が、 檀君紀元を使っていました。元号名は檀紀でした。 >>2
[294] この法律は即日、すなわちに施行されました。 >>2
[295] 大韓民国の政府機関ウェブサイトに書かれている制定理由は、 いつ誰が執筆したものかよくわかりませんが (国会審議時の提出資料?)、 民族の単一性と国家の同一性と歴史の遺構性を内外に誇示するために大韓民国の固有の年號を制定するのだと説明しています。 >>4
[296] 朝鮮半島が南北に分断され統一の見込みも立たないなかで、 北の朝鮮民主主義人民共和国に遅れて建国した直後の大韓民国にとって、 その統治の正当性と民族の統合はなんとしてでも主張しなければならないことだったのです。
[297]
いくら大韓民国政府の主要メンバーが大韓民国臨時政府の出身だとはいえ、
大韓民国臨時政府が活動し大韓民国を使っていたのは国外の一部勢力だけ、
しかもそれすらも統一できていませんでした (
[316] なお、この法律には檀君紀元を公用化すると書かれているだけで、 それ以前の公用の紀年法が何だったかは書かれていませんし、 それを廃止するとも書かれていません。 改正前の旧法律が存在していないからです。
[318] なおこの法律は公用の紀年法を定めただけで、 民間の紀年法については何も定めていません。
[324] この法律は既存の檀紀を採用したものに過ぎませんが、 一般には檀紀の「制定」と説明されることもあります >>7。
[12] 한국사데이터베이스 () http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npfp_1948_09_12_v0001_0070
法案国会通過の報道。
[8] 大韓民国の新聞である自由新聞は、 に改元を報道しました >>9。 この新聞自体は、 許認可番号の表示は一貫して西暦で >>9, >>10, >>11、 発行の日付の表示はまで大韓民國 >>9, >>10、 から檀紀となっていました >>11。
[156] 大韓民国発行の切手。
「
[260] この時期は檀君紀元が当然に使われたので、 檀君紀元と明記せず年数だけで書いた事例も多いです。 >>200
[261] 2桁年号も使われました。 双八年度のように造語されることもありました。
[18] アラベスク 消印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-56.html
[19] アラベスク Wrapper (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2432.html
[20] アラベスク 多数貼り (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-490.html
[32] 檀紀4290年度 復興白書 復興月報第3巻第5号付録(韓文)(大韓民国復興部編) / 出島書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 (東京都古書籍商業協同組合, ) https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=5415410
[38] 「ハンギョレ新聞は、衝撃度を高めるために日本人の死体を朝鮮人に偽装したか。」: 半可通日記 () http://half2.seesaa.net/article/a66877108.html
[37] (, ) http://do-cks.net/wp-content/uploads/2017/03/Korea03.pdf#page=61
[41] (, ) http://www.inbong.com/2012/0824rejime/20120824.pdf#page=7
[53] 韓国の年号, , http://busan.chu.jp/korea/old/life/etc/nengo.html
写真は龍頭山公園の入口にある石碑です。
「壇紀」の文字が見えます。
壇紀四千弐百八拾八年と書いてあるので 1955年に龍頭山公園として開園したのです。
[80] 豊本さんはTwitterを使っています: 「これ何年なんやって思ってたら檀紀って韓国独自の暦があるんやね。 この集合写真も日本軍み感じて好き。 https://t.co/jzXClpuuED」 / Twitter, , https://twitter.com/bulgaria115/status/1481813743130783746
[298]
、
大韓民国でクーデターがあり、
新政権が発足しました。
この年、新政府は (他の様々な制度改正とともに) 標準時改正、
改元、
年齢計算法改正といった日時制度改革を次々に実行しました。
[299] 大韓民国の法律第775号 연호에관한법률 (年號に関する法律) は、 制定当時は漢字ハングル混じり文だったと推測されますが、 現在の大韓民国政府機関ウェブサイトではハングル版が公開されています >>285。
[300] 本文は、大韓民国の公用年號を西暦紀元と定めただけの単純なものです。 >>285
[301] この法律は、 に施行されました。 >>285 この法律の制定・公布の時点では未施行のため、 附則で施行の日付が檀紀で記述されています。
[302] 大韓民国での法解釈はよくわかりませんが、 日本の法令と同じなら、 の施行とは日付が変わった瞬間に施行されることを意味します。 つまりがに変わった瞬間、 この法律が施行され、 に改められたことになります。 は法的にはこの一瞬だけ存在したことになります。
[303] 大韓民国の法律第4号 年號에關한法律 は、 この法律によって廃止されました。 >>285
[304] 附則第3項により、 この法律の施行の時点の公文書で檀紀表示の年は、 2333 を引いて西暦とみなすことと定められました。 >>285
[305] これはの年末まで旧法律に基づき檀紀の利用を継続し、 その結果翌年以後が檀紀で記述された (結果として延長年号となった) ものを法的に安定して解釈できるように設けられた移行規定と思われます。
[306] 実際に本法の制定後施行前に作られた公文書や私文書で西紀でなく檀紀がきっちり利用継続されていたのかはよくわかりません。
[307] この規定は年末時点で存在したまたはそれ以前の年の表示 (つまり延長年号ではない従来普通に使われてきた檀君紀元の年の表示) には適用できるとも適用されないとも解釈し得ますが、どのような意図だったのでしょうか。
[308] 附則第4項により、 公文書の年を訂正印により訂正できると定められました。 >>285
[310] 大韓民国の 법률 제12209호 (法律第12209号) 연호에 관한 법률 (年号に関する法律) は、 法律第775号を一部改正したものです。 >>286
[311] この法改正によって法律の題名はハングルに改められ、 本文はハングルに漢字の併記に改められました。 >>286 表記だけで内容は変わっていません。
[314] おそらく立法技術的な理由によるものなのでしょうが、元の法律の附則全4項は改正されないままになっています。 ただし大韓民国政府機関ウェブサイト掲載の条文はハングル化されたものになっています。
[313] この改正の目的は法律条文の平易化とされています。 >>286 このような改正は同時期の他の法律でも行われています。 元の法律の制定後の漢字廃止、ハングル専用化の進展が反映されています。
[319] この法律は檀君紀元の公用を廃止しただけですが、 一般には檀君紀元自体を廃止したもののように解説されていることもあります。
[192] 韓国語版위키백과は、 に大韓民国政府は 법률 제775호 (法律第775号) 연호에 관한 법률 (年号に関する法律) で 「대한민국의 공용 연호는 서력기원(西曆紀元)으로 한다.」 (大韓民国の公用年号は西暦紀元とする。) と定め、 から檀君紀元を廃止し、 西暦紀元を採用した >>168 と解説しています。
[141] 日本語版ウィキペディアは、 に大韓民国政府は檀君紀元を廃止し、 から公式な場での使用を禁止し、 公文書では西紀を使うこととした >>5 と解説しています。
[320] しかし檀君紀元の利用禁止について出典がなく、 他の解説にもそのような説明は出てきません。
[436] 의안정보시스템, http://likms.assembly.go.kr/bill/billDetail.do?billId=003661&ageFrom=21&ageTo=21
現在 使用중인 檀紀年號는 外交面을 爲始하여 一般行政에 많은 隘路와 缺点을 是正하기 위하여 現行 檀紀年號 에서 西紀年號로 바꾸려는 것임.
[123] (62시리즈)1962년부터 서기 연도 사용 시작하다 - 시니어오늘, 2022.04.30 00:00, http://www.seniortoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=10918
短期を書記に変えた最大の理由は、世界の多くの国が書記を使用するためだった。政府は歴史学界に諮問を求め、年号を変える場合についての様々な社会的長所と短所を比較した末、結局短期から書記に年号を変えることにした。年号を変えるのに必要な費用を最小限に抑えるために作られた公文書の年号はそのままにし、時には文書の部分だけ修正するようにしたり、発行した教科書の短期年号は教師の指導で書記に変更する方針も立てた。
[272] 나무위키 は次のように説明しています。 >>200
[279] この説明にはよくわからないところがあります。
[321]
現在大韓民国政府は西暦を使っていますが、
当時の戸籍が檀紀のまま保管されていて、
それは現在も法的効力を有するようです。
[328] 檀君紀元にかえて西暦紀元を採用したのがクーデターで成立した軍事政権だったため、 大韓民国民主化運動では 「米国帝国主義の傀儡の軍事政権」 の西暦紀元は政権とともに脱却するべき対象と認識されました。
[329]
西暦紀元を避けて檀君紀元を使う人達もいましたし、
それ以上に様々な私年号が作られることになりました。
[440] 西暦に慣れ親しんでいる現在の人々にとっては、 大韓民国建国時に檀紀を採用したり、 民主化運動が西紀を否定したりするのは、 近代化への逆行と映るかもしれません。
[441] しかし、 明の属国となって明の元号を使い、 清の属国となって清の元号を使い、 日本に併合されて日本の元号を使い、 大韓帝国のわずかな期間しか自国の元号を持てなかった朝鮮人たちにとって、 米国に占領されて導入された西紀も所詮は 「米帝の正朔」 でしかあり得なかったのだといえます。 数十年ぶりの独立を手にした大韓民国が独自の紀年法を採用しないという選択肢はなかったのです。
[330]
キリスト紀元であるところの西暦紀元の導入への抵抗感もありました。
大韓民国ではキリスト教は最大級の信者数を持っていますが、
仏教の信者も多く、その他の宗教も多数あります。
キリスト紀元の公用は、
各宗教の独自の紀年法の制定や利用の1つの契機となったと推測されます。
宗教的場面では干支年や檀君紀元も引き続き使われています。
[45] 現在大韓民国政府は公式には使っていませんが、 民間では一部で使われているようです。
[46] 現在でも大韓民国政府機関が建国記念イベントで使う事例はあります >>28。
[142] 日本語版ウィキペディアは、 西紀への改元以後檀君紀元が公式な場で使われることはないと説明しています >>5 が、事実と異なります。
[143] ウィキペディアの記載は何らかの根拠はあるのでしょうか。 記念イベントのような場では使われても公文書などでは使われないという線引を言っているのでしょうか。 それともかつては実際に檀君紀元が憚られるような時期もあったのでしょうか。
[144] 大韓民国の一部の新聞では、日付に西紀と檀君紀元を併記しています。 >>5, >>200
[262] 仏教のカレンダーに西紀と檀紀が併記されることがあります。 >>200
[263] 西暦1980年代でも卒業アルバムなどに西紀と檀紀が併記されることがありました。 >>20
[269] 古い建物の復元や、時代劇のナレーションで、檀君紀元が使われることがあります。 擬古風の表現と思われます。 >>200 (当時は檀君紀元を使っていなかっただろうに >>200 とのことなので、 檀君紀元公用時代の建物を復元しているわけではなく、 もっと昔のものを言っているようです。)
[164] 韓国語版위키백과は、 の大韓民国の研究者の論文を引いて、 韓民族の祖先が歴史と伝統を5000年間守ってきたことを示す自尊心の表現で、 現代でも民族の象徴的、神話的な起源と認められている >>163 とかなり好意的に説明しています。
[422] 歴史事典でも、 韓国民族史の悠久さを実証する根拠になる意義深きものと説明されています。 >>118
[59] 疲れました | J-アジョシの市立大報告(番外編) - 楽天ブログ, 最終更新日 2018/10/10 03:06:34 PM, https://plaza.rakuten.co.jp/konbu1hangugo/diary/201810090000/
探し出したのは、日付から見て、昨年の修学旅行の際のもののようです。 たまたま残っていた済州新報には、第1面の日付に、檀紀と陰暦が書き添えてありました。
[322] Xユーザーの智恵ちゃん@韓国農村から好きなことを発信さん: 「午前中にあった 町の会合の時にいただいたカレンダー 단기(壇紀)とは 「檀君王が即位した 紀元前2333年を元年とする 韓国の紀元」だそうです めちゃ歴史を感じました! https://t.co/170Tdi0ASU」 / X, , https://x.com/yagame_style/status/1604769553548193792/photo/1
[454] XユーザーのYun Sang Ho 윤상호さん: 「2016년 달력이 새로 나오고 있네 ^^ 근하신년 謹賀新年 단기 檀紀 4349년 병신년 丙申年 어느덧 연말이 다가오고 새해가 오고~ 시간은 참 빠른것 같다 내년엔 좋은일 가득하길... 병신같은 말이나 행위를 https://t.co/GxzpyA0HX4」 / X, , https://x.com/layplus/status/671868056474279936/photo/1
[100] 現代の大韓民国にも檀君紀元の復活を訴える人がいます。
[101] 現在の大韓民国でも民間の暦や新聞の日付欄など一部で檀君紀元の併記は続いています。 従って「復活」とは公用やより広範囲での利用、あるいは単記や優先利用を求めるということになるのでしょうか。
[193] 大韓民国の社会の一部と国会議員の一部は、 民族の主体性を示す檀君紀元を西暦紀元と併用しようと主張してきました >>168。 南北朝鮮の同質性の回復と民族の統一のためには、 開天節の意義と価値を再評価しなければならず、 開天節と密接に関わる檀君紀元も復活しなければならないと主張しています >>168, >>195。
[109] 「단기」연호 부활등 추진 | 중앙일보, 1983.06.02 00:00, https://www.joongang.co.kr/article/1696291
[97] 우리역사 바로알기 (31) :: 경남신문, 경남신문, http://www.knnews.co.kr/news/articleView.php?idxno=482588
[104] 檀紀 年號의 復活과 漢字敎育 李相萬, http://hanja-edu.com/home/m_view.php?ps_db=psd1&ps_boid=127&ps_mode=&ps_page=2&ckattempt=1
卷頭言 2010年 5月 <130號>
[114] 국학뉴스 ::, , https://web.archive.org/web/20110719224028/http://www.kookhaknews.com/
[115] 現在 www.ikoreanspirit.com で公開されている記事はかつては >>114 のサイトの記事だった模様です。こちらのサイトのトップページ左上には西暦年月日と檀紀年月日が併記されています。 右側には特集枠で記事への誘導があります。
[117] 署名サイト。残念ながら Internet Archive 所蔵はトップページのみ。
[194] こうした提案に対して、 大韓民国政府の 법제처 (法制処) は、 、 大韓民国の公用年号は西紀であって、 檀紀を併用する場合には仏紀、孔紀も問題となる可能性があって、 混乱が大きくなるだろうとの見解を示し、 檀紀の併用を否定しています。 >>168, >>195, >>102
[196] 、 민주당 (民主党) の 김성곤 議員は、 民族の主体性を生かした檀紀を西紀と併用することを提案しました。 それによって南北朝鮮の同質性回復と民族統一に資するのだといいます。 >>195
[199] また法制処の見解 (>>194) については、 政府の歴史意識の貧困さであり、 西欧の歴史認識に合わせて朝鮮人の半万年の歴史を否定、歪曲したものだと非難しました。 >>195
[98] 「檀紀」年号の復活運動:CRS NEWS, http://www.crs-news.com/5150
西暦を使用するから先進国でもなく、固有の年号を使用するからと言って弱小国でもない
[120] [민속이야기] 단기연호 부활하자 |, 2017-09-07, https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:84PyBjLHzFAJ:https://www.newscj.com/news/articleViewAmp.html%3Fidxno%3D376787
[127] 북조선은 신채호 사학, 남한은 조선총독부 사학 < 쟁점기사 < 기사본문 - 코리아 히스토리 타임스, 입력 2018.06.08 23:46, 수정 2018.06.29 21:30, http://www.koreahiti.com/news/articleView.html?idxno=3006
[128] >>127 南北統一のため檀君紀元で同質性を回復しようという提案
[124] 단군기원을 통한 남북동질성 회복 (1), 2021/10/08 (금), http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:oI85ulO0CwoJ:www.ltm.or.kr/2009/board.php%3Fboard%3Dkkkmagazine%26command%3Dbody%26no%3D4454%26PHPSESSID%3De3e254a75e0c21d4c2fd860b53804fb1
[131] 現在の大韓民国ではしばしば宗教的場面で使われます。
[130] 現在の大韓民国では 환기 や 신시개천 と併用されることがあります。
[458] Y-0840171.pdf, Received : May, 11, 2016, Accepted : June, 15, 2016, , http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/764/1/Y-0840171.pdf#page=13
8 )金敎獻『弘巖神兄朝天記』(ソウル、大倧出版社、2002年〔韓国語〕)10頁。
9 )大倧敎總本司『大倧敎重光60年史』(ソウル、開天4304年〔韓国語〕)35頁。 10)大倧敎總本司『大倧敎要鑑』(ソウル、大倧敎出版社、開天4330年〔韓国語〕)54頁。
[129] 2019년 10월 2일 개천문화 대축제 예고편 - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=Gqykg3VKpqY
신시개천 5916년, 단군기원 4352년(2019)
[16] >>14 は日本の大韓民国宗教研究者が平成時代初期に書いた論文です。 檀君教に関する論文で、とある教団で檀君紀元が用いられたことを書いていますが、 この論文は檀君紀元が「韓国の公式紀年」だと解説しています。 専門の研究者も正式な制度の情報を掴めないほど宗教的文脈では公然と用いられていたということなのでしょう。
[325] 大韓民国政府と密接に関係する在日韓国人団体である在日本大韓民国民団 (民団) は、大韓民国政府が檀君紀元を使っていた時期、 同様に檀君紀元を日本で利用していました。
[25] (, ) http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/honyaku/honyaku-2/766kara.pdf
[26] (, ) http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/honyaku/honyaku-2/766kara.pdf
[103]
日本国生駒山地にある朝鮮寺
(仏教に朝鮮や日本の土着信仰が習合している寺院)
ののカレンダーには、
紀年法の1つとして「
[145] 朝鮮民主主義人民共和国では檀君紀元は使われないとされます。 >>5
[52] 大韓民国で使われている主要なソフトウェアは、 欧米製品も含め、 檀君紀元に対応しています。 大韓民国で今でも需要が少なくないことが知られます。
[56] 計算機システムにおける暦の指定も参照。
[326] 윈도우10 PC 날짜 서기 ↔ 단기 표기 변경하기, https://thursday1101.tistory.com/599
[327] >>326 Windows のロケールの暦を檀君紀元に変更する方法。
[58] 125446 – Support to Korean Traditional Calendar, Dan-gi(단기/檀紀) Calendar on LibreOffice, https://bugs.documentfoundation.org/show_bug.cgi?id=125446
Nowaday, It's not official era in Korea, But, Private sector in Korea sometimes use it.
It supported on MS Windows & MS Office, Hancom Office Suite. Also, Windows 10 support Dangi Calendar.
[57] LibreOffice Presentation Template (Community) - AsiaCon2019_DaeHyun_Sung.pdf, , https://wiki.documentfoundation.org/images/f/f4/AsiaCon2019_DaeHyun_Sung.pdf#page=21
[60] [ICU-9003] Support for Korean Dangun/Dangi calendar - Unicode Consortium, https://unicode-org.atlassian.net/browse/ICU-9003
[61] [ICU-9616] Port DangiCalendar (Korean traditional calendar) to ICU4C - Unicode Consortium, https://unicode-org.atlassian.net/browse/ICU-9616
[62] [ICU-9967] Dangi calendar limits, failing exhaustive tests - Unicode Consortium, https://unicode-org.atlassian.net/browse/ICU-9967
[96] 檀君は朝鮮半島では史実として信仰されていますが、 その他の地域では史実性は低いと評価されることが多いようです。 しかし、歴史学はともかく、民族としてあるいは宗教として何を信仰するか、 しないかは当事者の決めることで、外野がとやかく言うべきことではありません。 神話が信仰に値するかどうかは史実性と独立した問題です。
[343] 檀君紀元の紀年法としての正当性も、 檀君の史実性や檀君の即位年の決定方法の妥当性とは別の問題です。 西紀や皇紀がイエスキリストの生誕や神武天皇の即位の史実性と無関係なのと同じで、 ひとたび紀年法として成立してしまえば、 それを使うことには何の問題もありません。
[99] >>1 一般的な檀君紀元なら4242年のはず。誤記なのか異説なのか。
[15] 名誉白人 池沼害吉さんはTwitterを使っています 「【 #害鉄 】これまで、害鉄HPの左上の年号が皇紀のみであったところを、皇紀・檀紀・李朝開国紀元・昭和・主体年号の5種類がランダムで表示されるように変更 http://t.co/GpoGZHW6aw」 / Twitter (午後10:33 · 2013年6月10日 , ) https://twitter.com/gaikitirail/status/344084979233456128
[17] 大韓民国『官報』-貴重書国レクション - ジェトロ・アジア経済研究所 () https://www.ide.go.jp/Japanese/Library/Search/Rare/korea.html
[21] 第149回 檀紀と主体年号―朝鮮半島の紀年法 | こよみの学校 () https://543life.com/campus/backnumber149/
[40] さよならテレビ 文化部 なぜ韓国語学習は時間のムダなのか (maaz, , ) http://maaz009.blog90.fc2.com/?no=123
[63] 闘争の跡を訪ねて, 石浜知行, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1018705/1/90 (要登録)
[64] 満洲及西比利亜地方に於ける朝鮮人事情, 朝鮮総督府内務局社会課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1272855/1/56
[65] 露西亜事情 (61), 露西亜通信社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1592936/1/5 (要登録)
[66] 法律春秋 4(6), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262321/1/25 (要登録)
[67] 法律春秋 5(10), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262337/1/11 (要登録)
[68] 朝鮮公論 19(1)(214);1月號, 朝鮮公論社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11187080/1/53 (要登録)
[69] 高等警察用語辞典, 朝鮮総督府警務局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1454642/1/62
/160
[70] アジア問題講座 第七卷, 創元社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1919011/1/184 (要登録)
[71] 三島刷毛目, 山田万吉郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1069157/1/104 (要登録)
[72] 朝鮮近代社会史話, 金斗鎔, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2994550/1/8 (要登録)
[73] 文学時標 (6), 文学時標社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1839359/1/20 (要登録)
[90] 世界の切手 (7), 世界の切手社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1731765/1/13 (要登録)
[75] 中国的考え方, 魚返善雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1660027/1/72 (要登録)
[76] 新日本文学 7(3), 新日本文学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6078875/1/59 (要登録)
[77] 新朝鮮読本 総篇, 近藤釼一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2992444/1/14 (要登録)
[78] アジアの歴史 上, 鳥山喜一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1627376/1/52 (要登録)
[81] 朝鮮独立運動 第2 (民族主義運動篇), 金正明, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3000559/1/103 (要登録)
朝鮮紀元
[83] 法律春秋 5(10), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262337/1/11 (要登録) 左上
[84] 満洲問題叢書 第2巻, 支那問題研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1214234/1/78 (要登録)
韓国紀元 : 何を意味するか要検証
[85] 思想調査資料 第27~29輯, 文部省思想局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1454707/1/155 左上
建国紀元
[86] 親和 (30), 日韓親和会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2251884/1/15 (要登録)
[94] https://kukhak.ube.ac.kr/?module=file&act=procFileDownload&file_srl=561&sid=148b8bf9e6a46585c4f4bb938f590ce3&module_srl=145
[105] untitled - 043kumagai.pdf, , https://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/08/043kumagai.pdf#page=10
「ソウル版」の序文では、「西暦 1928 年春に 1 か月間」パリ大学で音声の被験者になったと書 かれているが、「平壌版」の序文では「 1928 年 3 月に 1 か月間」と、より明確に書き直されて いる。李克魯博士記念事業会( 2010:83 )や朴龍圭( 2005:235 )に載せられた年譜では、こ れとは違って「 1928 年 5 月の 1 か月間」とされている。
序文の最末尾は、「ソウル版」では「檀紀四二八〇年三月 지은 이 씀」となっているが、北朝 鮮では檀紀を用いなかったので、「平壌版」では「 1949 년 10 월 평양에서 지은이 씀」( 1949 年 10 月 平壌にて、著者記す)と書き直されている。また、この序文を含め、「平壌版」のどこ にも、それが「ソウル版」を改訂増補したものであることについての言及がなされていないが、 発行月日はなぜか両者とも同じ 11 月 15 日となっている。
[119] 기록으로 만나는 대한민국 > 사회 > 연호, https://theme.archives.go.kr/next/koreaOfRecord/reginName.do
[435] 檀紀 年號 成立의 歷史的 背景 -檀君紀年意識을 中心으로-, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001639252 (先頭5ページのみPDF閲覧可能)