開極紀元

檀君紀元

[13] (だん) (くん) () (げん) (단군기원) >>5 (だん) () (단기) >>5 は、朝鮮半島の紀年法の1つです (y~913)。

呼称

[201] 現在最も多い呼称は檀君紀元または檀紀です。

[457] 当初は開極紀元と呼ばれました。 >>456 #page=11, #page=13

[132] 日本語ウィキペディアによると、 発音はタングンキウォン / タンキです。 >>5

[147] 日本語ウィキペディアによると、 ローマ字転写は Dangun-giwon / Dan-gi です。 >>5 中文维基百科によると、 文观部式表記は Dangun giwon / dangi、 马-赖式表記は Tan'gun kiwŏn / tan'gi です。 >>146

[158] POJ では Tân-kun kì-goân / Tân-kì です。 >>157

[160] EnglishWikipedia紀年法の名称を Dangi としながらも、本文中では 「15 March in the year 4340 of the Dangun Era」、 図題では 「in 1956 (Dangi 4289)」 のように書いていて、 表記が一定しません。 >>159

[202] 他に 단군원호 (檀君元號) とも呼ばれます。 >>200

紀年法

[323] 元年は、です。

[443] 他に歴史的に用いられた異説がいくつかあります。

暦法

[137] 大韓民国での公用以後は、特に指定がなければ、 ほぼ確実にグレゴリオ暦日付とともに使われています。

[138] それ以前は明確でないことがあり、ケースバイケースで検証が必要なので、 要注意です。 グレゴリオ暦のこともあれば、朝鮮半島の旧暦のこともあり得ます。

檀君紀年法成立前史

[133] 檀君紀元は、檀君王倹即位の年によるものです。 >>5

[89] 檀君紀元朝鮮人の民族意識の高まりと共に出現してきました。 >>7863 #page=22

[338] 檀君紀元はもちろんのこと、檀君伝説自体が、 古い史料にはまったくありません。 朝鮮だけでなく中国史書にも檀君朝鮮は記録されていません >>334

[135] 高麗で編纂された現存最古の朝鮮の史書三国史記には檀君の記述がありません。 檀君朝鮮の実在性は低く、朝鮮の独立性を示すために後世になって創作されたといわれます。 >>5

[444] 檀君王倹は元は別の存在で、 三国史記 にはでなく平壌の仙人の王倹が登場します。 >>150, >>93 /26

[339] 王倹平壌の旧名の王険 (王険城) から派生したと推測されます。 >>334 王険城衛氏朝鮮の首都として中国史書に記録されています。

三国遺事

[149] 高麗で編纂された現存最古級の朝鮮の説話集三国遺事 (代成立 >>150) に、

《魏書》云:乃往二千載有壇君王儉。立都阿斯達經云無葉山。亦云白岳。在白州地。或云在開城東。今白岳宮是開國號朝鮮。與高同時。《古記》云:。號曰壇君王儉。

以唐高即位五十年庚寅唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實

都平壤城今西京始稱朝鮮。又移都於白岳山阿斯達。又名弓一作方忽山。又今彌達。御國一千五百年。周虎王即位己卯封箕子於朝鮮。壇君乃移於藏唐京。

とあります。 >>148

[205] これが檀君の初出とされます >>93 /12, >>150, >>163三国遺事には他に2箇所檀君への言及があります >>93 /13 (が整合していません >>93 /16)。


[151] 魏書古記が引かれていますが、 現存する魏書中国史書には檀君は現れません。 >>150 三国遺事中の他の中国史書の引用にも原書にないものがあり、 信憑性には疑問が持たれます。 >>93 /14 古記が書名なのか一般名詞 (何らかの古記録) なのかは定かでありません。 >>200

[340] 唐高唐尭󠄁高麗における避諱です。 >>93 /13

[341] 本文ではこの避諱が行われていますが。 注釈では行われていません。 これが書写時の中途半端な書き換えでないのだとすると、 注釈は後から原文に挿入された注釈で、 高麗時代でなく李氏朝鮮時代に書かれた可能性が高いということになります。

[419] 大韓民国ではこの注釈は三国遺事の著者一然によるものと解釈されているようです >>118 が、根拠は不明です。

[342] 周虎王周武王高麗における避諱です。 >>93 /13


[91] 漢土尭󠄁即位紀年で年代が記述されています。 ところが尭󠄁の年代は漢土でも諸説あります。 尭󠄁の年代決定にこれら檀君関連文献が引かれることもあります。 尭󠄁

[204] 本文の説明にある尭󠄁の即位紀年は漢土の古文献の説と一致しません。 >>200 三国遺事 編纂時 (少なくても注釈がつけられるよりは前) にそう書かれていたということは、 そのような説があったのか、 それとも何らかの誤りで年数か干支年が変化したものなのでしょうか。

[154] 注釈にある尭󠄁の即位紀年はy~3993 説 () と合致します >>163。 ただこの年代とする説は古文献によるものではなく、 檀君系の説 (三国遺事注釈より後に成立したもの) と思われます。

[382] 年代は異なりますが、元年戊辰とする説はにそれらしきものがあります。 尭󠄁

[206] 前近代歴史学で己卯年は西暦紀元前1122年と考えられていたとされます。 >>200 そこから1500年前となると、檀君の即位は西暦紀元前2622年頃となります。 ところが、その頃を尭󠄁の即位年とする古文献もありません。 >>200

[383] なお周武王即位を己卯年とするのは、 皇極経世書 にもある説です。 >>93 /20


[207] ここまでまとめると、 三国遺事 の記述を整合的に解釈して檀君即位年代を決定するのは困難です。 >>200

[379] 李氏朝鮮の歴史研究者として有名な安鼎福 (-) は、 東史綱目檀君神話は荒唐無稽な仏教説話で史実でないとしました。 >>378

[380] 安鼎福所蔵三国遺事近代において今西竜の所蔵となっていましたが、 安鼎福

経世曆始定紀元、以尭󠄁元年為甲辰、歴代作史者遵行此云元年戊辰、未知従何書○ 尭󠄁戊辰至武王己卯、一千二百十二年、御國一千五百年者誤也

と注釈していました。 >>93 /19

[381] 経世曆とは皇極経世書と思われます。 皇極経世書は尭󠄁即位元年甲辰説です。 尭󠄁


[335] 日本の歴史研究者那珂通世三国遺事所載の伝承について、 僧徒の捏造した妄説に過ぎず、朝鮮の古伝ではないのは明らかと切り捨てています。 >>334 仏教関係者の創作と判断したのは、 三国遺事 が仏教系説話集だからでしょう。

[336] 明治27年1月、12月には日本の歴史研究者白鳥庫吉那珂通世と同様の見解を示しました。 >>93 /11 後に五行思想との関係も指摘しました。

[337] その後の近代の日本人研究者らも更に検討を進めて同様の結論を得ました。 折しも日韓併合に反発する朝鮮人は民族意識を高め、 檀君やそれに紐づいた檀君紀元を民族の創世神話として崇拝するようになっていました。 内地人の近代歴史学研究と朝鮮人の民族信仰は、 相容れないものでした。 第二次世界大戦後はその反動で、 大韓民国人やそれに同調する一部の日本人らは近代日本の研究を皇国史観植民史観による朝鮮人弾圧だったと糾弾しました。

帝王韻紀

[167] 高麗時代の帝王韻紀 (成立) に、

初誰開國啟風雲?釋帝之孫名檀君。並與帝高興戊辰,經虞歷夏居中宸。

於殷虎丁八乙未,入阿斯達山為神。享國壹千二十八,無奈變化傳桓因。

卻後壹百六十四,仁人聊復開君臣。後朝鮮祖是箕子,周虎元年己卯春。

逋來至此自立國,周虎遙封降命綸。禮難不謝乃入覲,洪範九疇問彜倫。

とあります。 >>168

[92] また、

後唐末帝清泰二,乙未仲冬朝我陛,妻以長主封尚父,衣冠亦使朝聯袂。

とあります。 >>168

[411] これに対する注で、

我太祖十八年也、自檀君元年戊辰至此、凢三千二百八十八年

とあります。 >>7863 #page=27

[445] すなわち、

  • [169] 戊辰年 檀君即位
  • [170] 殷虎丁8年乙未 神になる
  • [171] 1028年間統治
  • [172] 164年経過
  • [173] 周虎元年己卯春 箕子即位
  • [446] 檀君元年戊辰 から 我太祖18年 3288年

とのことです。


[174] 前近代歴史学で己卯年 (西暦紀元前1122年) が公認されていたとされます。 >>163 どこの誰が認めたのだかよくわかりませんが、 確かに説 (y~4178, 箕子紀元 ) はあって、これを計算の出発点にできます。

[175] 周虎元年とは周の武王の元年で、虎は武の避諱です。 年代は諸説ありますが、朝鮮方面に流布していた1説では確かに (y~4179) です。というより元はこの説から箕子の即位年が特定されたのでしょう。

[176] 殷虎丁は武丁で、やはり避諱です。 武丁の年代にも諸説ありますが ( 武丁 )、 1説では確かに8年が乙未年です (y~4001)。 といってもその1説はどうも朝鮮方面で流布していた説のようで、 結局は本書と同系統と思われます。

[177] を基準に 1028 + 164 = 1192 年遡る、つまりを-1年とするとき-1192年は >>168 になります。 ところが即位年は戊辰年のはずです >>163

[178] 大韓民国の学界では1028年を1048年の誤記と考える >>118, >>163 そうです。 学界とは具体的にいつの誰のことかわかりませんが、 周武王の元年己卯の計算にも20年のずれがあって ( 周の即位紀年 )、 無縁ではなさそうです。

[179] を基準に 1048 + 164 = 1212 年遡る、つまりを-1年とするとき-1212年はになります。 確かに戊辰年になりました。 ところでこれは現在使われている檀君紀元の元年です。

[181] 韓国語위키백과は、 なぜかこの20年の補正で西暦紀元前2400年戊辰が即位年になるとしています。 >>163 しかしは辛酉年です。 20年に加えて更に67年も遡っているのは、どこから来たのでしょうか。


[412] 注釈された経過年数表示は、 (y~417)、 (y~4045) に当たります。

[413] この注釈が自注なのかどうかわかりませんが、 「我」とあるので高麗時代なのは確かです。

[414] が3288年だとすると、 元年に当たります。

[415] 3268年の誤りか >>7863 #page=27、 ともされ、その場合元年に当たります。 現行檀君紀元に基づく訂正というわけです。 こちらでも20年のずれが見られることには注意が必要です。


[345] 本書は 三国遺事 とほぼ同時の成立ですが、 記載内容は少しく異なります。 特に檀君の即位年干支が 三国遺事本文ではなく注釈と一致すること、 檀君が神になった年がこちらにだけあることが注意されます。 当時既に内容の異なる複数の伝承が出回っていたことが知られます。

[166] 韓国語위키백과は、 当時の歴史学の基準でも誤っているとしながらも、 帝王韻紀 東國君王開國年代 による即位年説も紹介しています。 >>163

[344] 今西竜は、 帝王韻記 に記述があるらしく重要だが読む機会が得られていない >>93 /16 と書いていました。 他書からの参照で知ったようですが、 当時の日本では閲覧困難だったようです。 昭和時代中期、 藤田亮策は引用しているので、 その頃までには参照可能になっていたようです >>7863 #page=27

[447] 記述内容に訂正を加えていますが、一応、現行の檀君紀元を導出できる現存最古の文献といえます。

高麗史

[183] 李氏朝鮮で編纂された高麗正史 高麗史 (成立)高麗時代後期の公務員白文寶 (-) 条には、

後上䟽言事曰:「國家世守東社,文物禮樂,有古遺風。不意寇患屢作,紅巾陷京,乘輿南狩,言之可謂痛心。今當喪亂之後,民不聊生,宜霈寬恩,以惠遺黎。且天數循環,周而復始,七百年爲一小元,積三千六百年,爲一大周元。此皇帝王覇,理亂興衰之期。吾東方,自檀君至今,已三千六百年,乃爲周元之會,宜遵堯、舜六經之道,不行功利禍福之說。

とあります。 >>182

[184] すなわち、 何らかの術数

なのだそうです。700年を積んで3600年になるといっていて、 5小元と100年余って中途半端なのは謎ですが...

[187] そして朝鮮半島方面では檀君から現在まで、3600年の「周元の会」、節目に当たるというのです。

[385] なお高麗史はこの他にも

又榜金、復州等處曰:「本國與堯並立,周武王封箕子于朝鮮,而賜之履,西至于遼河,世守疆域。

と書いています。 >>384

[386] 明言こそされていませんが、檀君を指すのは明らかです。 >>93 /49


[188] 白文寶淡庵逸集 の付録の編年によると >>163, >>200、 この上書は >>163。 あるいは8月 >>200 のこととされます。 そこでから3600年遡ると、 または >>163、 ないしはまたは >>200 が檀君の元年となります。

[208] 白文寶が何を根拠にこのように主張したのかは不明です。 >>200

[408] 皇極経世書説によれば3600年でなく3720年になるはずで、 干支2巡分少なく計算しています。 >>93 /77

[421] 現行檀君紀元と比べると元年が約100年新しくなっています。


[420] 大韓民国の研究者らは白文寶檀紀の最初の利用者と考えているようです。 >>118

[180] 韓国語위키백과は、 檀君紀元に直接言及した最古の記録は 高麗史 白文寶の条だとしています。 >>163

[189] これは檀君即位から当年までの年数を数えた経過年数表示で、 たしかに広い意味の紀年法ではあるのでしょうが、 年表示日時表示使ったものではなく、 これをもって檀君紀元への「直接言及」という (のに >>167 のようなものは違うとする) のは些か躊躇されるところではあります。

朝鮮王朝実録

[349] 李氏朝鮮の公式史書 朝鮮王朝実録世宗実録 所収 地理志 は、 成立の 新撰八道地理志 >>347 に基づきに成立した >>348 とされる地誌です。

[350] 本書平壌府条に、

唐堯戊辰歲,神人降于檀木之下,國人立爲君,都平壤,號檀君,是爲前朝鮮。周武王克商,封箕子于此地,是爲後朝鮮。逮四十一代孫準,時有燕人衞滿亡命,聚黨千人,來奪準地,都于王險城,卽平壤府。是爲衞滿朝鮮。其孫右渠不肯奉詔,漢武帝元封二年,遣將討之,定爲眞蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡,隷于幽州。班固《前漢書》曰:「玄菟、樂浪,本箕子所封,昭帝始元元年,以臨屯、樂浪,置東府都護。」

とあります。また、

靈異,《檀君古記》云:上帝桓因有庶子,名雄,意欲下化人間,受天三印,降太白山神檀樹下,是爲檀雄天王。令孫女飮藥成人身,與檀樹神婚而生男,名檀君,立國號曰朝鮮。朝鮮、尸羅、高禮、南北沃沮、東北扶餘、濊與貊,皆檀君之理。檀君聘娶非西岬河伯之女生子,曰夫婁,是謂東扶餘王。檀君與唐堯同日而立,至禹會塗山,遣太子夫婁朝焉。享國一千三十八年,至殷武丁八年乙未,入阿斯達爲神,今文化縣九月山。

とあります。 >>346

[351] つまり

とあります。


[358] この檀君古記が先行文献の引用する古記と同じなのかどうか定かではありませんが、 内容は先行文献と少し違いがあります。

[359] こちらでは統治年数は1028年でも1048年でもなく1038年になっています。

[360] 檀君の即位が同日と明記されていることも注意されます。

[387] 元々檀君の在位が 「同時」 (>>375) と言われていたのを古記の著者が曲解して同日即位にしたものと考えられます。 >>93 /57

[389] なおこの世宗王の時代には、 初めて公的に檀君の祠が創設されました。 もっともこれは檀君に限ったものではなく、 新羅高麗の諸王の祭祀も整備されました。 >>93 /58

権近等

[362] 李氏朝鮮政府の儒学研究者の権近 (-) は、 の皇帝の命で詩を作りましたが、 その詩題の自注に、

昔神人降檀木下、国人以為王、因号檀君、時唐尭󠄁元年戊辰也

と書きました。 >>93 /17, >>361

[364] 權擥がこれに更に注釈を加えてに出版したものには、

とあります。 >>93 /18, >>363

[370] 古記からの引用がどこまでかは明確ではありませんが、この部分全体とも解し得ます。 先行文献の古記と同じかどうかは定かではありません。 地理志と記述は似ていますが、同じではありません。

[371] ここでは年数が1028でも1038でもなく1048年となっています。 ただ、 先行文献でこの年数を「享國」などと書いていたのが、 ここでは「享年」と書いているのは気になる所です。

[372] 地理志と同じく唐尭󠄁と「同日」の即位となっています。

[373] >>179 のように己卯年を定めれば、この記述から数値の訂正なく現行檀君紀元を導けます。 ただ己卯年がどの己卯年か、この記述では確定できません。

[388] 元年を戊辰とするのは、の時代に行われた説に直接よるものか、 三国遺事 の注釈によるものかは定かではありません。 >>93 /58


[410] 三韓詩龜鑑 所収の詩の注釈は、 権近などの時代に加えられたものと推測されています >>93 /77 が、

石磵曰古朝鮮檀君巳檀君寿一十八百歳在位一千五百年後箕子受武王命移都檀君旧都

としていました。 >>93 /77, >>409

東国通鑑

[210] 李氏朝鮮時代に編纂された歴史書 東国通鑑 (成立)檀君朝鮮条には、

とあります。 >>209


[220] 古記 が何を指すのか不明ですが、そこでは尭󠄁檀君が「並立」するとされます。 ところが 東国通鑑 の編者はそれはおかしいと指摘し、尭󠄁25年戊辰が檀君の即位年だと言うのです。

[221] 編者の説がどこから来たものかは定かではありませんが、 尭󠄁の即位年が甲辰年だとする文献 ( 尭󠄁 ) があって、 そこに上元甲子のことだと書かれていたのでしょう。 そして「並立」が誤りでも同時期と見たのでしょう。 あるいは「並立」ももともと厳密に同年に即位したということでもなく、 同時期に在位状態にあったという意味だったのかもしれません。


[228] 大韓民国で出版されている 東国通鑑 の訳書 (のウェブ公開版) によると、

と解釈されています。 >>226

[232] 나무위키 は、 尭󠄁の即位年には諸説あるうち、 東国通鑑皇極経世書 の説を引いたもので、 尭󠄁即位年は西紀前2357年で、 従って即位25年の西紀前2333年が檀君の即位年になった、 と >>228 を引きつつ説明しています。 >>200

[234] ここで、 >>228 の年代がどのように決定されたのかは明らかではありません。 は甲子で、乙未ではありません。

[235] 尭󠄁即位元年を西紀前2357年とする説 (y~3992) は確かに 皇極経世書 説ですが、 東国通鑑 の記載の情報だけからこれに確定できるのかはよくわかりません。 尭󠄁元年が甲辰年としつつも他の年とする説もあります。 尭󠄁

[236] 重大なのは上元甲子と明記されていることです。 少なくても最も一般的に行われている三元甲子の説においては、 西紀前2357年は上元甲子中ではありません。

[237] 三元甲子には起点の違う異説もあるので、 それに従っている可能性はありますが... 三元甲子

[233] 18世紀の 동사강목 も、 東国通鑑 の解釈を受けて25年戊辰を檀君の即位年にしました。 >>200

[238] 大韓民国の韓国史教科書では、 東国通鑑 の記録によればと断りながらも、 西紀前2333年を檀君の即位としています。 >>200


[390] 東国通鑑徐居正らによるものでしたが、 同じく徐居正による 筆苑雜記 (成立) には、

嘗考。自唐堯元年甲辰。至洪武元年戊申。摠三千七百八十五年。自檀君元年戊辰。至我太祖元年壬申。亦三千七百八十五年。吾東方歷年之數。大槩與中國相同。帝堯作而檀君興。周武立而箕子封。漢定天下而衛滿來平壤。宋太祖將興而高麗太祖已起。我太祖開國亦與太祖高皇帝同時。

古記云。檀君與堯同日而立。歷虞夏至商武丁八年乙未。入阿斯達山爲神。享年一千四十有八。當時文籍不傳。其眞僞不得而考。至今傳襲。以古記爲說。居正以爲當堯之時。人文昭宣。至于夏商。世漸澆薄。人君享國久長者不過四五十年。人壽。上壽白年。中壽六七十年。下壽四五十年。安有檀君獨壽千百年以享一國乎。知其說之誣也。又云。檀君生子扶婁。是爲東扶餘王。至禹會諸侯於塗山。檀君遣扶婁朝焉。其說無據。若檀君享國久長。扶婁往會塗山。則雖我國文籍不備。中國之書豈無一語及之乎。檀氏相傳享國之數。千四十八年者。無疑矣。權文忠公近詩曰。聞說鴻荒日。檀君降樹邊。世傳不知幾。歷年曾過千。蓋言其傳世歷年之久也。

とあります。 >>58


[391] 唐堯元年甲辰からまで3785年、 逆算すると唐堯の元年 (y~3994) です。 これは上元甲子の甲辰年です。

[392] 檀君元年戊辰から (y~4062) まで3785年、 逆算すると檀君の元年。 現行の檀君紀元の元年の60年前に当たります。


[393] 共に徐居正が関わってほぼ同時期に成立した 東国通鑑筆苑雜記 とで微妙に記述が異なっていますが、 東国通鑑筆苑雜記 と同じ解釈 (>>392 >>392) とすれば紀年に矛盾は生じません。 現在流布している 東国通鑑 の解釈は誤りと判断せざるを得ません。

[394] 徐居正が堯元年甲辰説を採ったのは、 皇極經世書説に従ったものと考えられます。 そして檀君元年戊辰説を採って他の説を採らなかったのは、 中華のから洪武帝までの3785年と小中華の朝鮮太祖までの3785年が等しくなることによるものと考えられます。 >>93 /59

[395] ただ本来皇極經世書説では堯元年甲辰は中元甲子のはずが、 徐居正上元甲子と誤ったために、 60年遡ることになってしまいました。 皇極經世書説では堯元年甲辰から洪武帝まで3725年になるはずです。 >>93 /59

[396] 徐居正説の檀君元年すなわちから数えて檀君即位1048年は、 となります。 現行檀君紀元によりから数えて檀紀1048年は、 となります。 どちらにしても「商武丁八年乙未」と干支年が一致します。

[397] >>93元年甲辰から武丁乙未まで1048年とするのが 皇極經世書と合うと書いていますが、これは誤りです。

[398] 皇極經世書 では武丁乙未は8年でなく39年となるべきところです。 >>93 /59

[399] 李萬運紀年児覧 (成立) は、干支の不一致を指摘して、武丁8年でなく武丁39年の乙未としています。 >>400, >>93 /59


[401] 官撰史書の東国通鑑に記載されたことで檀君は不動の地位を得ました。 >>93 /60 その頃から李氏朝鮮檀君神話は官民含めて広く行われ、 元年甲辰説がよく使われるようになりました。

[403] 董越朝鮮を視察した訪問記 朝鮮賦 には、 檀君が帝堯元年甲辰に開国して云々とありました。 >>402 これによって檀君伝説は漢土にも伝わりました。

[404] 尹東暹日記によると12月9日、 王が洪啓禧檀君のことは支那史書の何に見えるかと尋ねました。 洪啓禧酉陽雑俎 (頃成立) にあると即答しました。 ところが異本を調査しても檀君のことは書かれていませんでした。 虚言だったのです。 >>93 /60 (誰が調査したのか分かりづらいのですが、今西竜でしょうか。)

[448] 現在でも大韓民国日本の多くの事典類やウェブページなどで檀君紀元の起源が 東国通鑑 とされているのも、 東国通鑑 の地位と広まりに関係しているのでしょう。

[134] 日本語ウィキペディアによると、 三国遺事東国通鑑檀君即位を「中国の堯の即位から50年目」 とすることや、 世宗実録地理志檀君即位を「唐堯的即位二十五年・戊辰」 とすることなどを根拠にしています。 >>5

[203] 나무위키によると、 現在の檀君紀元の年数は 東国通鑑 が初出とされます。 >>200

[152] 中文维基百科によると、 三国遗事以下各種資料で建国年が固定されておらず、 「是唐尧戊辰岁也」 とある 東国通鑑 によって固定されることになったと説明しています >>146。 「非固定」が具体的にどの文献のどの説を指しているのかは不明です。

[161] EnglishWikipedia東国通鑑 の記述 「contrary to the 40th year of the reign of the legendary Chinese Emperor Yao」 に基づき計算したものの異説もあったとして、いくつか引いています。 >>159

[162] EnglishWikipedia の引くところによれば、 三国遺事 によれば Yao の50年、 朝鮮王朝実録によれば元年、 東国通鑑によれば25年だとのことです。 >>159 (同じ段落で40年条 (>>161) と書きながら25年とも書いていて、どういうことなのでしょう?)

[190] 韓国語위키백과は、 西暦紀元前2400年に建国したと確定的に述べたのは 東国通鑑 が初めてとしながら、 唐堯戊辰年 = 西暦紀元前2333年と引いていて >>163、 意味がわかりません。

[79] 檀紀について, たかゆ, 01.08.01, , http://web.archive.org/web/20040619094722/http://www001.upp.so-net.ne.jp/seza/danki.html

檀紀(檀君紀元)とは、「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号のこと。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着するようになった。

参考文献:

  • 「世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮」蠣波護・武田幸男,1997.1,中央公論社
  • 「新版世界各国史2 朝鮮史」武田幸男・編,2000.8,山川出版社
  • 「歴史とはなにか」岡田英弘,2001.2,文春新書155

[153] 「「唐堯の即位25年・戊辰」」という独特な表現があり、 日本語ウィキペディアはこのページの記述に基づくか、 同系統の資料に基づいたと思われます。

[449] これらの説明に反して、 東国通鑑 の説明をそのまま解釈しても現行檀君紀元は導出できません。 記述の矛盾を解消する解釈の1つで現行檀君紀元が導出できるのは確かですが、 それはより古い 帝王韻紀 にも言えること (>>447) です。

[271] 今西竜藤田亮策のような日本昭和時代の初期、中期の研究者は、 東国通鑑檀君神話成立の一過程で紹介していても、 現行檀君紀元の祖のような特別扱いはしていません。 平成時代以後 東国通鑑 由来説が日本語資料にも出現するのは、 大韓民国で行われた説の影響なのでしょうか。

その他の李氏朝鮮資料

[375] 李氏朝鮮時代の偽書 新羅國東吐含山華嚴宗佛國寺事蹟 に、

按鷄林古史及元魏書乃徃二千載有 聖君王候都阿斯達開國号朝鮮此即古朝 鮮與高同時御國一千五百年周武王即位 元年己卯封箕氏於朝鮮檀君乃移於荘唐 京後還隠於阿斯達為山神壽一千九百八 歳

とあります。 >>374

[376] 本書は大正4、5年頃に紹介されて広く知られるようになったもので、 に刊行されたものです。 の成立と書かれていますが、 矛盾が指摘されていて、偽書とされます。 仏国寺事蹟 その時代の高麗では契丹の元号が公用されていて、 宋の元号の用例が無いこともありませんが、 その点も疑問であります。 朝鮮半島の紀年法


[416] B0169 朝鮮寺剎史料 - 卷/篇章 2 | CBETA 線上閱讀, Axian Lee, , https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/B0169_002#:~:text=千佛山開心寺事蹟

秋、清領朝鮮

朝鮮開拓與堯並立至今為四千二百十七年之間而中國則歷代正統為二十三姓朝鮮則歷代正統但為五姓也地方不過東西一千七十里南北三千七里之內地官過於三百六十七官民戶過於一兆九億二萬六千四百八十五戶人家過於二十一兆六億六萬四千八百五十餘家故此地之所產不能支於此民之衣食可謂至貧之國也而然尚以堯舜禹湯文武周公之法道固守天命可謂禮義之國也是故中原一行道士見朝鮮地圖曰鯉形也鯉有亦白黃三種故山必有三神山鯉有三十六鱗故邑必有三百六十邑矣鯉之三十六鱗者是三十六宮之理也三十六宮都是春故三變為百八念珠形則朝鮮可謂佛國世界也若佛道崇尚則為國泰民安時和歲豐云道詵指空皆從道士之言以其造寺造塔山名水名一如道士所教之言者是之謂矣

人皇氏以後至四萬五千六百年甲辰即帝堯即位之元年堯之二十五年戊辰即檀君即位之元年也丁卯四月日檀君初自白頭山過次十日逗遛於此山之時逢見持提仙人問答山水後仍名此山為持提山矣厥後至一千二百十二年己卯即周武王即位之元年亦是箕聖即位之元年也箕來之初亦自白頭山過次三日歇惺於此山之際日夜雲龍之中雖聞笙簫之聲不知自何來心甚奇異仍名此山為風流山矣其後至一千四十七年乙巳即漢昭帝十一年亦是新羅即位之元年也其後至一百二十九年戊午即漢昭帝即位之元年也明帝十四年辛未十月初八日佛經始到中國矣厥後至五百七十七年戊申即唐太宗二十二年亦是新羅七百三十四年也是年國師道詵築千塔于此山仍名千塔山矣其後至十六年甲子唐高宗十五年亦即新羅七百四十九年也是年國師指空造寺於上基而山名為千佛寺號為開心矣

甲申秋述

[418] が4217年とすると、元年は。 現行檀君紀元 (y~913) と同じ数え方。

[417] これは讖緯家の書いた代表的なもので、天道教などでの通説とされます。 李氏朝鮮初期の道詵漢都讖記などに由来する伝統的記述とみられます。 >>7863


[136] 即位25年の檀君の即位は、 朱元璋の即位 () と李氏朝鮮李成桂の即位 () の差に由来するといわれます。 >>5

[222] 歴史的に朝鮮人には自主独立を尊ぶ思想と、 中華王朝属国たることを誇る思想の2通りの相反する考え方があったとされます。 前者には朝鮮の開祖への崇拝が、 後者には箕子崇拝が結びついています。 >>93 /86

[223] 高麗高句麗の後継を称していましたので、開祖は高句麗の初代王でした。 ただ高麗政府は漢土の王朝に臣従していて、 政府より民間の方で朝鮮の開祖として檀君への信仰が発達しました。 >>93 /86

[224] 李氏朝鮮に臣従することで高麗からの王位簒奪の正当性を確保しました。 そこでに臣従して王位を授かったとされる箕子を崇拝し、 国名の朝鮮もこれを継承したものでした。 李氏には (高麗の王氏にとっての高句麗王家のような) 系譜上の開祖がなかったので、 朝鮮の開祖は伝承上箕子につながる檀君へと遡ることになりました。 こうした事情で、相反する精神を反映していた檀君箕子が同時に尊崇されることになりました。 >>93 /86

[139] 大韓民国の研究者李栄薫は、 李承晩政権が 「天皇の臣民だった朝鮮人を大韓民国の国民に転換するため」 に民族意識を高めるべく、 「李朝時代に箕子にはじき出されていた」 檀君を 「国の祖先として崇めた上で、檀紀という年号を使用し、開天節という国慶記念日を作り出した」 と指摘しています。 >>5 厳密に言えば檀君紀元を使い始めた李氏朝鮮末期頃から日本統治時代初期にかけての朝鮮人に生じた思想が李承晩政権に至ってこのような形で発露したということなのでしょう。

[225] 「箕子にはじき出され」たとの観察は、同時に崇拝されていたとの観察と矛盾するようにも思われますが、 への崇拝と儒教が浸透した李氏朝鮮では、少なくても公的な場面では、 やはり箕子朝鮮に重きが置かれていたということなのでしょう。 民族意識が高まってはもちろんとの関係も解消されると箕子朝鮮を崇拝する思想は弱まり、 民間信仰中心だった檀君の勢いが増すことになります。 日本統治に反対する意味からも、日本皇紀を遥かに上回る古さを持つ檀君紀元はなくてはならないものになったのです。

[88] 地理讖緯説と関係しています。 三元甲子

桓檀古記

[95] 20世紀後半の偽書桓檀古記檀君紀元の起源とする説がありますが、 正しくない >>5 とされます。 なお日本で出版された桓檀古記檀君紀元と呼んでいるものは、 檀君紀元とは違うものです。 桓檀古記の日時

[427] 桓檀古記の成立を称しています。 檀君紀元の根拠になったとされるのは檀君世紀で、 の成立ということになっています。 ちょうど史実で檀君紀元が使われ始めた時期に編纂され、 その原史料はちょうど史実で三国遺事帝王韻紀が作られた時期に成立したという設定になっているわけです。

李氏朝鮮時代末期

[428] 頃、 「檀君開国四千四百」 と年号を書きかけた事例があります。 李氏朝鮮の日時 正確な年数はわかりませんが、 現行檀君紀元より200年ほど大きいです。

[331] 李氏朝鮮朝鮮人向けに発行されていた 帝国新聞 には、 複数の紀年法が併記されており、 そのうちの1つが 「檀君元年三千二百四十七年」 でした。 李氏朝鮮の日時

[332] これは元年とした数え方です (y~4180)。

[333] この時未だ現行檀君紀元が成立していなかった (または有力説として普及していなかった) ことがわかります。

[377] また、併記された紀年法箕子即位紀年があることから、 李氏朝鮮時代にあって檀君と共に箕子尊崇が続いていたことがわかります。 (ただこの時期には檀君崇拝が強まり箕子崇拝はかなり弱まっていたといわれています。)


[405] 大韓帝国の王族や貴族などが発起人となって神宮奉敬会が発足し、 天照大神檀君李氏朝鮮太祖を祀った神宮の建設を計画しました (未成)。

[406] この会の発行した 神宮建築誌 (ウェブ検索によると発行説と発行説あって不詳) には、 皇帝の親族で政治家の李址鎔 (-) の序に、

然則 檀祖相伝、亦至今四千二百余年

とありました。 >>93 /72

[407] 概数ではありますが、現行檀君紀元とも矛盾しない年数が書かれています。

[424] 明治42年に日本で出版された書籍に収録された文章で、

と書いたものがありました。 >>423

大日本帝国朝鮮時代

[239] 大韓帝国末期の檀君教として設立され、 日韓併合のあったに分裂した大倧敎は、 東国通鑑 に基づく檀君紀元の使用を積極的に主張しました。 >>200 分裂後の檀君教檀君紀元を使いました >>118

[240] その後は民族意識の強い人々が檀君紀元を密かに使ったといいます。 >>200

[241] 大倧敎関係者が多数関与したとされる、 中華民国満州で制作されたという 大韓獨立宣言書 (戊午獨立宣言書, 무오 독립 선언서) は檀君紀元を採用しました。 三一独立運動宣言書 (己未独立宣言書) もこれを踏襲しました。 >>200

[82] 大倧敎などの満州での活動については、 天統 (渤海) も参照。

日時事例

[255] 独立宣言と称する文書にはそもそもいくつかの版があり、 ハングル版や日本語訳も複数あり、 またその紹介記事も説明と宣言文や写真が食い違っていたりすることがままあるので、 注意が必要です。

[256] 三一独立運動とその前後にはこれらの他にも檀君紀元を使った文書がいくつも作られました。 元号名はこの他に建国紀元も使われました。 その一方で、大韓民国を使う大韓民国臨時政府系勢力もありました。 大韓民国 (紀年法)

[257] 三一独立運動の後も、 こうした活動に関与したグループらは、 中華民国等国外で、ときに朝鮮を含む日本国内で活動を続けました。 それらの人々は、 反日活動を行うだけに留まらず、 檀君紀元を奉ずるグループと大韓民国を奉ずるグループ (やその他の紀年法を使うグループ) とで紀年法の選択を含む活動方針の違いによる抗争に励んでいました。 大韓民国 (紀年法)

[47] (, ) http://www.nskk.org/province/shiryo/nikkan_1919_2019.pdf#page=7

[49] 【中央時評】三・一運動100周年(1) | Joongang Ilbo | 中央日報 (, ) https://s.japanese.joins.com/JArticle/248716?sectcode=140&servcode=100

三・一は何だったか。まず「すでに独立」と「すでに建国」だ。『宣言書』は「朝鮮独立」を主に主張する代わりに「朝鮮の独立国であること」を宣言して、始めて、「朝鮮『建国』4252年3月1日」で終わる。それなのに1948年の建国と1919年の建国を争うのは恥ずかしい。「独立」さえ独立で成し遂げたものではなく独立回復だった。すなわち主権回復であり、光復(解放)だった。光復・光復軍・光復運動・光復節が正しい。

[50] (, ) http://mswwres.meijigakuin.ac.jp/~kiriken/wordpress/wp-content/uploads/2018/06/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95-%E5%AE%A3%E8%A8%80%E6%9B%B8.pdf

[51] 3・1と韓(朝鮮)半島式の国づくり / 白楽晴 | 季刊 『創作と批評』 () http://magazine.changbi.com/jp/archives/91358?cat=2483

[456] 06_lcs_35_2_sassa.pdf, , https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/2000535/files/06_lcs_35_2_sassa.pdf #page=9

『マルモイ〔말모이〕』編纂事業の詳細については,周時経の弟子である李奎栄(1890 ~ 1920)が書き残した資料が参考になる。李奎栄は 1913 年に『オンガッコ〔온갖것:すべての事〕』 という手稿本を書いている。本書は,冒頭に「4246 年〔檀紀による年表示,西暦に換算すると 1913 年〕9 月に朝鮮光文会朝鮮語字典を編輯する際に見聞きしたことを書き記す」(『全書』巻 4, 469)とあるので,『マルモイ〔말모이〕』編纂に参加した際の備忘録として書かれたものである ことがわかる。

#page=11

周時経の弟子であった李奎栄は 1917 年に『ハングル モの通史〔한글모죽보기〕』という手稿本を著している。本書は,周時経が創設した研究会と国 語講習会の沿革について記録したメモ書きであり,紀元前 2333 年を基準とする「開極紀元(檀紀)」 を使用しながら,1907 年から 1917 年までの 10 年間にわたる学会の歴史が記されている。その 中で「朝鮮言文会創立記録〔한글모세움몯음적발〕」をみると,檀紀 4246 年〔=西暦 1913 年〕 3 月 23 日に普成学校で開催された臨時総会において,


[87] 大日本帝国朝鮮京城府で初版が発行された朝鮮史年表 東史年表 ( 朝鮮半島の紀年法 ) は、 西暦などと共に檀君紀元を全時代に表示しています。 >>451, >>477

[450] この年表は改訂版こそ発禁になったそうですが、 初版は朝鮮史研究者に重宝されていたそうです。 朝鮮半島の紀年法

米国占領地時代

[453] Xユーザーの그저그런녀석 くもり ▶️さん: 「「朝鮮姓名復舊令에依하야姓 復舊檀紀四貳七九年拾貳月貳拾四日改訂함」 조선성명복구령에 의하여 성을 복구, 단기 4279년(1946년) 12월 24일 개정함. https://t.co/wwazOqi8ZN」 / X, , https://x.com/CMRbada/status/1489478291245334530

大韓民国時代

[43] 大韓民国は建国当初檀君紀元を公式の紀年法として使っていました。

大韓民国建国初期の公用

[140] 大韓民国は、 檀君紀元を法制化し、 公用開始しました。 >>5

[197] 国会議員133人中106人の賛成により、 연호에 관한 법률 (年号に関する法律) が可決されました。 >>195

[288] それまで大韓民国を推す大韓民国臨時政府出身政府幹部らと、 檀君紀元を推す国会議員らの対立がありました。 政府機関は建国以来大韓民国を使っていましたが、 国会は法制化前から檀君紀元を使っていました。 大韓民国 (紀年法)

[289] この法制化によって政府の紀年法檀君紀元に一本化され、 民間でも広く使われるようになりました。

[191] 韓国語위키백과は、 1944年7月11日に国会議員133人中106人が賛成し、 「대한민국의 공용 연호는 단군기원(檀君紀元)으로 한다.」 (大韓民国の公用年号は檀君紀元とする。) と定められ、 同年9月25日から施行された、 と説明しています。 >>168 これはの誤りでしょうか。 しかし月日>>197 と違って謎です。

[290] 日本語ウィキペディア大韓民国が公用化されたと書いていますが、 誤りで、真逆です。 大韓民国 (紀年法)

[3] 大韓民国の檀紀4281年9月25日法律第4号 年號에關한法律 (年號に關する法律) は制定当時は漢字ハングル混じり文でした >>2 が、 現在の大韓民国政府機関ウェブサイトではハングル版が公開されています >>4

[291] 本文は、大韓民国公用年號檀君紀元とすると定めただけの単純なものです。 >>2

[292] 檀君紀元とは何か、どのように使うか、といった詳細は何も明記されていませんでした。

[293] この法律公布するに当たっての大統領書名日付が、 檀君紀元を使っていました。元号名檀紀でした。 >>2

[294] この法律は即日、すなわち施行されました。 >>2

[295] 大韓民国の政府機関ウェブサイトに書かれている制定理由は、 いつ誰が執筆したものかよくわかりませんが (国会審議時の提出資料?)、 民族の単一性と国家の同一性と歴史の遺構性を内外に誇示するために大韓民国の固有の年號を制定するのだと説明しています。 >>4

[296] 朝鮮半島が南北に分断され統一の見込みも立たないなかで、 北の朝鮮民主主義人民共和国に遅れて建国した直後の大韓民国にとって、 その統治の正当性と民族の統合はなんとしてでも主張しなければならないことだったのです。

[297] いくら大韓民国政府の主要メンバーが大韓民国臨時政府の出身だとはいえ、 大韓民国臨時政府が活動し大韓民国を使っていたのは国外の一部勢力だけ、 しかもそれすらも統一できていませんでした ( 大韓民国 (紀年法) )。 檀君以来の歴史の継承を表明する檀君紀元でなければ民族統合のシンボルとはなり得なかったのでしょう。

[316] なお、この法律には檀君紀元を公用化すると書かれているだけで、 それ以前の公用の紀年法が何だったかは書かれていませんし、 それを廃止するとも書かれていません。 改正前の旧法律が存在していないからです。

[317] それとは別に政府側で政令などの改廃はあったかもしれません。

[318] なおこの法律は公用の紀年法を定めただけで、 民間の紀年法については何も定めていません。

[324] この法律は既存の檀紀を採用したものに過ぎませんが、 一般には檀紀の「制定」と説明されることもあります >>7

[2] 국가기록원 기록물뷰어 () http://theme.archives.go.kr/next/common/viewEbook.do?singleData=N&archiveEventId=0028303508

官報 第六號,

國會의議決로確定된年號에關한法律을 이에公布한다

大統領 李承晩 印⃞

檀紀四千二百八󠄂十一年九月二十五日

國務委員 國務總理兼󠄁國防部長官 李範奭

國務委員 內務部長官 尹致暎

國務委員 外務部長官 張澤相

國務委員 財務部長官 金又󠄂

國務委員 法務部長官 李 仁

國務委員 文敎部長官 安浩相

國務委員 農林部長官 曺奉岩

國務委員 商工部長官 任永信

國務委員 社會部長官 錢鎭漢

國務委員 交󠄄通󠄃部長官 閔󠄂熙植

國務委員 遞信部長官 尹錫龜

國務委員 李靑天

國務委員 李允榮

法律第四號

年號에關한法律

大韓民國의公用年號는檀君紀元으로한

附則

本法은公布日로부터施行한다

[4] 연호에관한법률, https://www.law.go.kr/%EB%B2%95%EB%A0%B9/%EC%97%B0%ED%98%B8%EC%97%90%EA%B4%80%ED%95%9C%EB%B2%95%EB%A5%A0/(00004,19480925)

연호에관한법률

[시행 1948. 9. 25.] [법률 제4호, 1948. 9. 25., 제정]

행정안전부(의정담당관실), 02-2100-4077

대한민국의 공용연호는 단군기원으로 한다.

부칙 부 칙 <법률 제4호, 1948. 9. 25.>

본법은 공포일로부터 시행한다

【제정·개정이유】

[신규제정]

민족의 단일성과 국가의 동일성 및 역사의 유구성을 내외에 과시하기 위하여 우리나라 고유의 년호를 제정하려는 것임.

●대한민국의 공용년호는 단군기원으로 함.

【제정·개정문】

법령 본문과 동일하여 제개정문을 생략합니다.

[42] 大韓民国 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD#%E6%AD%A3%E5%BC%8F%E5%90%8D%E7%A7%B0

1948年に米軍統治下の朝鮮のみで独立することが決まると、米軍は憲法制定(制憲)国会を招集して独立準備にあたらせた。その際、憲法起草委員会が新国家の憲法起草とともに新国家の国号と年号も決めることになり、国号候補として「大韓民国」「高麗共和国」「朝鮮共和国」「韓国」の四つが挙げられた。最終的には、1948年6月23日に採決が行われ、独促国民会が推す「大韓民国」が新国家の国号に決定した[26]。なお委員会が国号を決定しかねていたある日、臨時政府側の池青天(チ・チョンチョン)将軍(光復軍司令官)が起草委員でもないのに突然委員会に姿を現し、「国号は『大韓民国』、年号は『檀紀』に即決せよ、さもないと割腹自殺する」というハプニングがあったという[27]


[12] 한국사데이터베이스 () http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=npfp_1948_09_12_v0001_0070

法案国会通過の報道。

[8] 大韓民国新聞である自由新聞は、 改元を報道しました >>9。 この新聞自体は、 許認可番号の表示は一貫して西暦>>9, >>10, >>11、 発行の日付の表示はまで大韓民國 >>9, >>10から檀紀となっていました >>11

[156] 大韓民国発行の切手。 「4289」「12.4」。 >>150

[260] この時期は檀君紀元が当然に使われたので、 檀君紀元と明記せず年数だけで書いた事例も多いです。 >>200

[261] 2桁年号も使われました。 双八年度のように造語されることもありました。

[18] アラベスク 消印 (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-56.html

檀君紀元 欧州数字4桁のみ

[19] アラベスク Wrapper (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2432.html

[20] アラベスク 多数貼り (かきたがわ, , ) http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-490.html

檀君紀元2桁年号 欧州数字2桁のみ

[27] 大阪の韓国領事館ってどんなところ? | 帰化申請(大阪) () http://kikashinsei.jp/?p=150

今はあまり見かけることが少なくなりましたが、かつては、西暦ではなく檀紀4290年とかいう表示にびっくりしたことがありました。

※檀紀(だんき)とは?大韓民国で一時使用されていた年号

「1948年(檀紀4281年)9月25日に檀紀使用に法的根拠を与え、公式な場で使用を開始した。しかし1961年(檀紀4294年)12月2日に朴正煕が年号廃止の法令を制定、1962年1月1日からは公式な場での使用が禁止され、公文書では西暦が使用されるようになった」

[30] 高等国語 国文学古典篇(金根洙編) / 泰成堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 (東京都古書籍商業協同組合, ) https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=334231260

檀紀4281年刊

[31] 漢方歴代医家特効処方選集(崔水亮) / 泰成堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 (東京都古書籍商業協同組合, ) https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=334229019

檀紀4294年10月1日

[32] 檀紀4290年度 復興白書 復興月報第3巻第5号付録(韓文)(大韓民国復興部編) / 出島書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 (東京都古書籍商業協同組合, ) https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=5415410

[33] (韓)殉国烈士李漢応先生遺史 (孫世昌) / 岡本書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 (東京都古書籍商業協同組合, ) https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=311428874

檀紀四二九二年

[35] 釜山劇場 (, ) http://busan.chu.jp/korea/old/fukei/naka/nmp/pt.html

釜山教育史(釜山市教育委員會)63頁より

壇紀4292年5月発行(1959年)

[36] 関東大震災時に殺害された朝鮮人名簿、駐日大使館で発見 : 日本•国際 : hankyoreh japan (한겨레, ) http://japan.hani.co.kr/arti/PRINT/16058.html

駐日大使館当局者は17日 「今年6月東京四谷の韓国大使館を現在の麻布十番庁舎に移転する過程で、書庫に保管されていた大量の日帝強制占領期間被害者名簿が確認され、これを関連政府部署に移管した」と明らかにした。 これら文書は鉄筆・手書きで作成されたもので、檀紀4386年(1953年)という道知事職印などが捺されている事実に照らして李承晩政権時期である1950年代中盤に作成されたものと推定される。

[38] 「ハンギョレ新聞は、衝撃度を高めるために日本人の死体を朝鮮人に偽装したか。」: 半可通日記 () http://half2.seesaa.net/article/a66877108.html

[39] 韓国の声 45号 (, ) http://www.eonet.ne.jp/~unikorea/041050/45c.htm

もともと在日朝鮮人の外国人登録上の「国籍」はすべて朝鮮だった。しかし、祖国の分断状況に起因する在日朝鮮人の「国籍」問題の発端は、朝鮮戦争直前の1950年、当時の韓国代表部からGHQに対して、韓国に変えるように要望が出され、日本政府が「本人の希望によって」韓国籍を採用してもよいことにしたことにある。だが実際、「大韓民国を支持」することを登録原票に記載するために、わざわざ国籍欄を韓国へと変更申請する在日朝鮮人は多数ではなかった。それは協定永住許可者数=韓国籍の在日朝鮮人と単純化して統計を見ても、1966年で1万2,435人(入国管理局編、同前)に過ぎない。 私の登録原票の記載によると、国籍欄を韓国とする根拠となったのは、「檀紀4294.12.23(2文字判読不能)第1492号大韓民国国民登録証による」とされている。国交もなく大使館もなく、連絡通信も現在と比較にならぬほど不便だった当時において、大韓民国の国民登録をする事務的なわずらわしさは、いま以上だったはずだ。したがって、何らかの事情があったとしても、かなり積極的な韓国国籍取得だったと言えよう。

[37] (, ) http://do-cks.net/wp-content/uploads/2017/03/Korea03.pdf#page=61

[41] (, ) http://www.inbong.com/2012/0824rejime/20120824.pdf#page=7

[53] 韓国の年号, , http://busan.chu.jp/korea/old/life/etc/nengo.html

写真は龍頭山公園の入口にある石碑です。

「壇紀」の文字が見えます。

壇紀四千弐百八拾八年と書いてあるので 1955年に龍頭山公園として開園したのです。

[80] 豊本さんはTwitterを使っています: 「これ何年なんやって思ってたら檀紀って韓国独自の暦があるんやね。 この集合写真も日本軍み感じて好き。 https://t.co/jzXClpuuED」 / Twitter, , https://twitter.com/bulgaria115/status/1481813743130783746

西紀への改元

[298] 大韓民国クーデターがあり、 新政権が発足しました。 この、新政府は (他の様々な制度改正とともに) 標準時改正、 改元年齢計算法改正といった日時制度改革を次々に実行しました。 大韓民国の標準時

[299] 大韓民国法律第775号 연호에관한법률 (年號に関する法律) は、 制定当時は漢字ハングル混じり文だったと推測されますが、 現在の大韓民国政府機関ウェブサイトではハングル版が公開されています >>285

[300] 本文は、大韓民国公用年號西暦紀元と定めただけの単純なものです。 >>285

[301] この法律は、 施行されました。 >>285 この法律の制定・公布の時点では未施行のため、 附則施行日付檀紀で記述されています。

[302] 大韓民国での法解釈はよくわかりませんが、 日本の法令と同じなら、 施行とは日付が変わった瞬間施行されることを意味します。 つまりに変わった瞬間、 この法律施行され、 に改められたことになります。 は法的にはこの一瞬だけ存在したことになります。

[303] 大韓民国法律第4号 年號에關한法律 は、 この法律によって廃止されました。 >>285

[304] 附則第3項により、 この法律施行の時点の公文書檀紀表示のは、 2333 を引いて西暦とみなすことと定められました。 >>285

[305] これはの年末まで旧法律に基づき檀紀の利用を継続し、 その結果翌年以後が檀紀で記述された (結果として延長年号となった) ものを法的に安定して解釈できるように設けられた移行規定と思われます。

[306] 実際に本法の制定後施行前に作られた公文書私文書西紀でなく檀紀がきっちり利用継続されていたのかはよくわかりません。

[307] この規定は年末時点で存在したまたはそれ以前の年の表示 (つまり延長年号ではない従来普通に使われてきた檀君紀元年の表示) には適用できるとも適用されないとも解釈し得ますが、どのような意図だったのでしょうか。

[308] 附則第4項により、 公文書の年を訂正印により訂正できると定められました。 >>285

[309] 日本では古くから定期的に改元があって慣習が成立しているためか、 このような移行措置は明文法となっておらず、 改元のたびに政府や関連団体、企業等が周知する程度になっています。 例えば令和改元 大韓民国の人々も大正改元昭和改元は経験していたはずなのですが、 このように明文化されています。

[310] 大韓民国 법률 제12209호 (法律第12209号) 연호에 관한 법률 (年号に関する法律) は、 法律第775号を一部改正したものです。 >>286

[311] この法改正によって法律の題名はハングルに改められ、 本文はハングル漢字の併記に改められました。 >>286 表記だけで内容は変わっていません。

[315] 大韓民国政府機関のウェブサイト掲載法律文の題名は、 改正前が 연호에관한법률、 改正後が 연호에 관한 법률 になっています。 改正前は本来漢字ハングル混じり文の条文がハングルに改められたもので、 漢字ハングルに置き換えられただけで分かち書きがされていませんが、 改正後は元からハングル専用の新しい正書法で書かれているので、 分かち書きされています。

[314] おそらく立法技術的な理由によるものなのでしょうが、元の法律の附則全4項は改正されないままになっています。 ただし大韓民国政府機関ウェブサイト掲載の条文はハングル化されたものになっています。

[312] この改正法はに即日施行されました。 >>286

[313] この改正の目的は法律条文の平易化とされています。 >>286 このような改正は同時期の他の法律でも行われています。 元の法律の制定後の漢字廃止ハングル専用化の進展が反映されています。

[285] 연호에관한법률, https://www.law.go.kr/%EB%B2%95%EB%A0%B9/%EC%97%B0%ED%98%B8%EC%97%90%EA%B4%80%ED%95%9C%EB%B2%95%EB%A5%A0/(00775,19611202)

연호에관한법률

[시행 1962. 1. 1.] [법률 제775호, 1961. 12. 2., 폐지제정]

행정안전부(의정담당관실), 02-2100-4077

대한민국의 공용연호는 서력기원으로 한다.

부칙 부 칙 <법률 제775호, 1961. 12. 2.>

①본법은 단기 4295년 1월 1일부터 시행한다.

②법률 제4호 연호에관한법률은 이를 폐지한다.

③본법 시행당시의 공문서중 단기로 표시된 연대는 당해 단기연대에서 2333년을 감하여 이를 서력연대로 간주한다.

④연대 정정에 있어서는 공문서정정에 관한 타 법령의 규정에 불구하고 당해 공문서의 서식에 적합하도록 연대 정정인을 사용하여 정정할 수 있다.

【제정·개정이유】

[폐지제정]

현재 사용중인 단기연호는 외교면을 위시하여 일반행정에 많은 애로와 결점이 있어 이를 시정하기 위하여 현행 단기연호에서 서기연호로 바꾸려는 것임.

①대한민국의 공용연호는 서력기원으로 함.

②이 법은 단기 4295년 1월 1일부터 시행하도록 함.

③이 법 시행당시의 공문서중 단기로 표시된 연대는 당해 단기연대에서 2333년을 감하여 이를 서력연대로 간주하도록 함.

④연대 정정에 있어서는 공문서 정정에 관한 타 법령의 규정에 불구하고 당해 공문서의 서식에 적합하도록 연대정정인을 사용하여 정정할 수 있도록 함.

【제정·개정문】

    국가재건최고회의의결로확정된연호에관한법률을이에공포한다
              대통령        윤보선 (印)
        단기사천이백구십사년십이월이일
              내각수반        송요찬
              문교부장관        문희석
              내각사무처장        금병삼

⊙법률제칠칠오호

연호에관한법률

[본문 생략]

부칙

①본법은 단기 4295년 1월 1일부터 시행한다.

②법률 제4호 연호에관한법률은 이를 폐지한다.

③본법 시행당시의 공문서중 단기로 표시된 연대는 당해 단기연대에서 2333년을 감하여 이를 서력연대로 간주한다.

④연대 정정에 있어서는 공문서정정에 관한 타 법령의 규정에 불구하고 당해 공문서의 서식에 적합하도록 연대 정정인을 사용하여 정정할 수 있다.

[286] 연호에관한법률, https://www.law.go.kr/%EB%B2%95%EB%A0%B9/%EC%97%B0%ED%98%B8%EC%97%90%EA%B4%80%ED%95%9C%EB%B2%95%EB%A5%A0

연호에 관한 법률

[시행 2014. 1. 7.] [법률 제12209호, 2014. 1. 7., 일부개정]

행정안전부(의정담당관실), 02-2100-4077

대한민국의 공용(公用) 연호(年號)는 서력기원(西曆紀元)으로 한다. <개정 2014. 1. 7.>

부칙 부 칙 <법률 제775호, 1961. 12. 2.>

①본법은 단기 4295년 1월 1일부터 시행한다.

②법률 제4호 연호에관한법률은 이를 폐지한다.

③본법 시행당시의 공문서중 단기로 표시된 연대는 당해 단기연대에서 2333년을 감하여 이를 서력연대로 간주한다.

④연대 정정에 있어서는 공문서정정에 관한 타 법령의 규정에 불구하고 당해 공문서의 서식에 적합하도록 연대 정정인을 사용하여 정정할 수 있다.

부칙 부 칙 <법률 제12209호, 2014. 1. 7.>

이 법은 공포한 날부터 시행한다.

【제정·개정이유】

[일부개정]

◇ 개정이유 및 주요내용

법치국가에서의 법 문장은 일반 국민이 쉽게 읽고 이해해서 잘 지킬 수 있도록 해야 함은 물론이고 국민의 올바른 언어생활을 위한 본보기가 되어야 하는데, 우리의 법 문장은 용어 등이 어려워 이해하기 힘든 경우가 많고 문장 구조도 어문(語文) 규범에 맞지 않아 국민의 일상적인 언어생활과 거리가 있다는 지적이 많음.

이에 따라 제명과 법 문장의 표기를 한글화하고 띄어쓰기를 한글맞춤법 등 어문규범에 맞게 함으로써 쉽게 읽고 잘 이해할 수 있으며 국민의 언어생활에도 맞는 법률이 되도록 하려는 것임.

<법제처 제공>

【제정·개정문】

    국회에서 의결된 연호에관한법률 일부개정법률을 이에 공포한다.
              대통령        박근혜 (인)
        2014년 1월 7일
              국무총리        정홍원
              국무위원 안전행정부 장관        유정복

⊙법률 제12209호

연호에관한법률 일부개정법률

연호에관한법률 일부를 다음과 같이 개정한다.

제명 "연호에관한법률"을 "연호에 관한 법률"로 한다.

본칙을 다음과 같이 한다.

대한민국의 공용(公用) 연호(年號)는 서력기원(西曆紀元)으로 한다.

부칙

이 법은 공포한 날부터 시행한다.

[319] この法律檀君紀元の公用を廃止しただけですが、 一般には檀君紀元自体を廃止したもののように解説されていることもあります。

[192] 韓国語위키백과は、 大韓民国政府は 법률 제775호 (法律第775号) 연호에 관한 법률 (年号に関する法律) で 「대한민국의 공용 연호는 서력기원(西曆紀元)으로 한다.」 (大韓民国の公用年号は西暦紀元とする。) と定め、 から檀君紀元を廃止し、 西暦紀元を採用した >>168 と解説しています。

[141] 日本語ウィキペディアは、 大韓民国政府は檀君紀元を廃止し、 から公式な場での使用を禁止し、 公文書では西紀を使うこととした >>5 と解説しています。

[320] しかし檀君紀元の利用禁止について出典がなく、 他の解説にもそのような説明は出てきません。

[430] >>429 も禁止したと書いていますが、根拠は示していません。

[432] Wikipediaの改訂から禁止としており、 そちらのほうが古いです。

[433] 本件と関係ありませんが、 >>429 は植民地時代に朝鮮人が日本の元号を 「使わざるをえな かった」 と書いて、 その注釈に 「王名と年号を暗記するのが受験勉強の主要な項目であった。」 と書いています。

[434] この文脈なら日帝元号を強制されたような事例 (例えば大韓帝国の元号を書いて発禁になったとか、 檀君紀元を書いたら逮捕されたとか?) を探してきて紹介してほしいところですが、 これではテスト勉強をサボりたい学生の言い訳みたいです。

[436] 의안정보시스템, http://likms.assembly.go.kr/bill/billDetail.do?billId=003661&ageFrom=21&ageTo=21

現在 使用중인 檀紀年號는 外交面을 爲始하여 一般行政에 많은 隘路와 缺点을 是正하기 위하여 現行 檀紀年號 에서 西紀年號로 바꾸려는 것임.


[123] (62시리즈)1962년부터 서기 연도 사용 시작하다 - 시니어오늘, 2022.04.30 00:00, http://www.seniortoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=10918

Google翻訳

短期を書記に変えた最大の理由は、世界の多くの国が書記を使用するためだった。政府は歴史学界に諮問を求め、年号を変える場合についての様々な社会的長所と短所を比較した末、結局短期から書記に年号を変えることにした。年号を変えるのに必要な費用を最小限に抑えるために作られた公文書の年号はそのままにし、時には文書の部分だけ修正するようにしたり、発行した教科書の短期年号は教師の指導で書記に変更する方針も立てた。

[272] 나무위키 は次のように説明しています。 >>200

[279] この説明にはよくわからないところがあります。

  • [280] 生まれ年の違いを比べると、 改元と同時に卒業証書も切り替わったようです。 採用教科書と卒業証書紀年法が連動するかのような書き方ですが、 これは言葉の綾でしょうか。
  • [281] 教科書によっては檀君紀元が書かれており、 そうでない教科書もあったように読める書き方ですが、 どうなのでしょうか。 当時の制度はわかりませんが、 大韓民国では韓国史世界史国定教科書の時期がほとんどのようです。 国定教科書なら選択の余地はないのでは。
  • [282] 下級学校や下の学年檀君紀元で学んだ学生上級学校や上の学年でどうなったのでしょう。 この説明だと移行措置が取られず換算が要求されたようにも読めます。
  • [283] 紀年法の換算が課程に入ったのはいつのことなのでしょう。 理由付けを見ると檀君紀元公用時代のことを書いているように見えます。 その後の移行期間も教育は続いたのでしょうか。

[321] 現在大韓民国政府は西暦を使っていますが、 当時の戸籍檀紀のまま保管されていて、 それは現在も法的効力を有するようです。 戸籍の日時 他にも同じようなケースはあるのかもしれません。


[328] 檀君紀元にかえて西暦紀元を採用したのがクーデターで成立した軍事政権だったため、 大韓民国民主化運動では 「米国帝国主義の傀儡の軍事政権」 の西暦紀元は政権とともに脱却するべき対象と認識されました。

[329] 西暦紀元を避けて檀君紀元を使う人達もいましたし、 それ以上に様々な私年号が作られることになりました。 大韓民国の私年号

[440] 西暦に慣れ親しんでいる現在の人々にとっては、 大韓民国建国時に檀紀を採用したり、 民主化運動西紀を否定したりするのは、 近代化への逆行と映るかもしれません。

[441] しかし、 属国となって明の元号を使い、 属国となって清の元号を使い、 日本に併合されて日本の元号を使い、 大韓帝国のわずかな期間しか自国の元号を持てなかった朝鮮人たちにとって、 米国に占領されて導入された西紀も所詮は 「米帝の正朔」 でしかあり得なかったのだといえます。 数十年ぶりの独立を手にした大韓民国が独自の紀年法を採用しないという選択肢はなかったのです。

[442] 中国からも日本からも独立してもなお、 「時の支配」も統治の一部という東アジアの伝統的価値観からそうやすやすとは逃れられないのです。

[330] キリスト紀元であるところの西暦紀元の導入への抵抗感もありました。 大韓民国ではキリスト教は最大級の信者数を持っていますが、 仏教の信者も多く、その他の宗教も多数あります。 キリスト紀元の公用は、 各宗教の独自の紀年法の制定や利用の1つの契機となったと推測されます。 宗教的場面では干支年檀君紀元も引き続き使われています。 朝鮮半島の紀年法, 大韓民国の私年号, 仏紀

改元後の利用

[45] 現在大韓民国政府は公式には使っていませんが、 民間では一部で使われているようです。

[46] 現在でも大韓民国政府機関が建国記念イベントで使う事例はあります >>28

[142] 日本語ウィキペディアは、 西紀への改元以後檀君紀元が公式な場で使われることはないと説明しています >>5 が、事実と異なります。

[143] ウィキペディアの記載は何らかの根拠はあるのでしょうか。 記念イベントのような場では使われても公文書などでは使われないという線引を言っているのでしょうか。 それともかつては実際に檀君紀元が憚られるような時期もあったのでしょうか。

[144] 大韓民国の一部の新聞では、日付西紀檀君紀元を併記しています。 >>5, >>200

[262] 仏教カレンダー西紀檀紀が併記されることがあります。 >>200

[263] 西暦1980年代でも卒業アルバムなどに西紀檀紀が併記されることがありました。 >>20

[269] 古い建物の復元や、時代劇のナレーションで、檀君紀元が使われることがあります。 擬古風の表現と思われます。 >>200 (当時は檀君紀元を使っていなかっただろうに >>200 とのことなので、 檀君紀元公用時代の建物を復元しているわけではなく、 もっと昔のものを言っているようです。)

[270] 日本でも、例えば江戸時代の雰囲気を再現したテーマパークで、 現代日本人が理解できる程度の古めかしい雰囲気だけで当時は書かなかったであろう書体の文字が書かれていたり、 時代劇で「時代劇っぽい」喋り方をしていたりします。 本気で時代考証すると一般人の娯楽には向かないものができてしまいます。 檀君紀元もそれと同じように、 現代の韓国人にとってぎりぎり理解可能な古めかしい雰囲気の演出なのでしょう。

[164] 韓国語위키백과は、 大韓民国の研究者の論文を引いて、 韓民族の祖先が歴史と伝統を5000年間守ってきたことを示す自尊心の表現で、 現代でも民族の象徴的、神話的な起源と認められている >>163 とかなり好意的に説明しています。

[165] 4300年の檀君紀元を根拠に切り上げて5000年の歴史というのは盛りすぎ感がありますが、 5000年 (半万年) の歴史という言い方は大韓民国では珍しいものではないそうです。

[422] 歴史事典でも、 韓国民族史の悠久さを実証する根拠になる意義深きものと説明されています。 >>118

[28] 2018年 開天節 記念レセプション開催 상세보기|公館長及び公館の活動駐仙台大韓民国総領事館 () http://overseas.mofa.go.kr/jp-sendai-ja/brd/m_624/view.do?seq=761378&srchFr=&amp;srchTo=&amp;srchWord=&amp;srchTp=&amp;multi_itm_seq=0&amp;itm_seq_1=0&amp;itm_seq_2=0&amp;company_cd=&amp;company_nm=&page=4

駐仙台韓国総領事館は10月5日(金)、仙台国際ホテルで檀紀4351年 開天節を記念する祝日レセプションを開催しました。

[29] 檀紀4343年開天節, 南北でそれぞれ民族共同行事を - NPO法人 三千里鐵道 () https://blog.goo.ne.jp/sanzenri2010/e/5edfd1cdee8428fdcbbeff7287384ee3

"統一成し遂げて, 檀君民族の誇りを!

"檀紀4343年開天節(建国記念日)民族共同行事南北でそれぞれ開かれる

2010年10月03日(日)17:16:10チョ・ジョンフン記者whoony@tongilnews.com

檀紀4343年開天節をむかえ、南北民族団体らが3日'開天節民族共同行事'をソウルと平壌でそれぞれ開催すると'南北共同宣言文'を発表した。

[34] (, ) http://hyogo-mindan.org/pdf_word/nisikobe60.pdf#page=6

来年は午年です。どうぞよろしく・・・。

甲午年(檀紀 4347 年)

[54] 한글/한말에 관련된 나라 안팎 자료 한마당 (, ) http://asadal.pusan.ac.kr/~gimgs0/hangeul/

(마지막으로 고친 때 (Last updated): 2016 (Dangi 4349).12.31.토.13:11)

[55] 김 경석 명예 교수의 누리집 (home page): 한글/한말 자료, 책, 글, 그 밖에 (, ) http://asadal.pusan.ac.kr/

(마지막으로 고친 때 (Last Updated): 2022 (Dangi 4355).02.10.목.12:05)

[59] 疲れました | J-アジョシの市立大報告(番外編) - 楽天ブログ, 最終更新日 2018/10/10 03:06:34 PM, https://plaza.rakuten.co.jp/konbu1hangugo/diary/201810090000/

探し出したのは、日付から見て、昨年の修学旅行の際のもののようです。 たまたま残っていた済州新報には、第1面の日付に、檀紀と陰暦が書き添えてありました。

[322] Xユーザーの智恵ちゃん@韓国農村から好きなことを発信さん: 「午前中にあった 町の会合の時にいただいたカレンダー 단기(壇紀)とは 「檀君王が即位した 紀元前2333年を元年とする 韓国の紀元」だそうです めちゃ歴史を感じました! https://t.co/170Tdi0ASU」 / X, , https://x.com/yagame_style/status/1604769553548193792/photo/1

[454] XユーザーのYun Sang Ho 윤상호さん: 「2016년 달력이 새로 나오고 있네 ^^ 근하신년 謹賀新年 단기 檀紀 4349년 병신년 丙申年 어느덧 연말이 다가오고 새해가 오고~ 시간은 참 빠른것 같다 내년엔 좋은일 가득하길... 병신같은 말이나 행위를 https://t.co/GxzpyA0HX4」 / X, , https://x.com/layplus/status/671868056474279936/photo/1

[455] >>454 カレンダー。西暦年、檀紀年、干支年

復活論

[100] 現代の大韓民国にも檀君紀元の復活を訴える人がいます。

[101] 現在の大韓民国でも民間の新聞日付欄など一部で檀君紀元の併記は続いています。 従って「復活」とは公用やより広範囲での利用、あるいは単記や優先利用を求めるということになるのでしょうか。

[193] 大韓民国の社会の一部と国会議員の一部は、 民族の主体性を示す檀君紀元西暦紀元と併用しようと主張してきました >>168。 南北朝鮮の同質性の回復と民族の統一のためには、 開天節の意義と価値を再評価しなければならず、 開天節と密接に関わる檀君紀元も復活しなければならないと主張しています >>168, >>195

[109] 「단기」연호 부활등 추진 | 중앙일보, 1983.06.02 00:00, https://www.joongang.co.kr/article/1696291

[97] 우리역사 바로알기 (31) :: 경남신문, 경남신문, http://www.knnews.co.kr/news/articleView.php?idxno=482588

[104] 檀紀 年號의 復活과 漢字敎育 李相萬, http://hanja-edu.com/home/m_view.php?ps_db=psd1&ps_boid=127&ps_mode=&ps_page=2&ckattempt=1

卷頭言 2010年 5月 <130號>

[114] 국학뉴스 ::, , https://web.archive.org/web/20110719224028/http://www.kookhaknews.com/

[115] 現在 www.ikoreanspirit.com で公開されている記事はかつては >>114 のサイトの記事だった模様です。こちらのサイトのトップページ左上には西暦年月日と檀紀年月日が併記されています。 右側には特集枠で記事への誘導があります。

[117] 署名サイト。残念ながら Internet Archive 所蔵はトップページのみ。

[108] この辺の動きは反東北工程運動の延長にあるらしい。

[194] こうした提案に対して、 大韓民国政府の 법제처 (法制処) は、 大韓民国の公用年号は西紀であって、 檀紀を併用する場合には仏紀孔紀も問題となる可能性があって、 混乱が大きくなるだろうとの見解を示し、 檀紀の併用を否定しています。 >>168, >>195, >>102

[198] >>195仏紀孔紀を挙げていますが、 >>168>>102 はなぜか仏紀しか挙げていません。 (>>168>>195 を出典としているにも関わらず。)

[122] >>121 議員の提案

[196] 민주당 (民主党) の 김성곤 議員は、 民族の主体性を生かした檀紀西紀と併用することを提案しました。 それによって南北朝鮮の同質性回復と民族統一に資するのだといいます。 >>195

[199] また法制処の見解 (>>194) については、 政府の歴史意識の貧困さであり、 西欧の歴史認識に合わせて朝鮮人の半万年の歴史を否定、歪曲したものだと非難しました。 >>195

[98] 「檀紀」年号の復活運動:CRS NEWS, http://www.crs-news.com/5150

西暦を使用するから先進国でもなく、固有の年号を使用するからと言って弱小国でもない

[120] [민속이야기] 단기연호 부활하자 |, 2017-09-07, https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:84PyBjLHzFAJ:https://www.newscj.com/news/articleViewAmp.html%3Fidxno%3D376787

[127] 북조선은 신채호 사학, 남한은 조선총독부 사학 < 쟁점기사 < 기사본문 - 코리아 히스토리 타임스, 입력 2018.06.08 23:46, 수정 2018.06.29 21:30, http://www.koreahiti.com/news/articleView.html?idxno=3006

[128] >>127 南北統一のため檀君紀元で同質性を回復しようという提案

[124] 단군기원을 통한 남북동질성 회복 (1), 2021/10/08 (금), http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:oI85ulO0CwoJ:www.ltm.or.kr/2009/board.php%3Fboard%3Dkkkmagazine%26command%3Dbody%26no%3D4454%26PHPSESSID%3De3e254a75e0c21d4c2fd860b53804fb1

[102] 今年は檀君紀元(檀紀)4355年朝鮮の方は檀紀って使っているの? - Yahoo!知恵袋, Yahoo! JAPAN, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14262991374

智さん

2022/6/8 19:05

その後、開天節(檀君朝鮮建国記念日)の意義と価値を認識して南北統一のために檀紀を復活させて西暦と併用しなければならないという主張が提起されました。

しかし、韓国法制処は『大韓民国の公用年号は西暦紀元である』『檀紀を併用する場合、仏紀併用問題が提起されるなど、混乱が生じる恐れがある』という理由で檀君紀元の復活を反対しました。

一部のカレンダーは檀紀や仏紀を併記しています。

宗教での利用

[131] 現在の大韓民国ではしばしば宗教的場面で使われます。

[130] 現在の大韓民国では 환기신시개천 と併用されることがあります。


[458] Y-0840171.pdf, Received : May, 11, 2016, Accepted : June, 15, 2016, , http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/764/1/Y-0840171.pdf#page=13

8 )金敎獻『弘巖神兄朝天記』(ソウル、大倧出版社、2002年〔韓国語〕)10頁。 9 )大倧敎總本司『大倧敎重光60年史』(ソウル、開天4304年〔韓国語〕)35頁。 10)大倧敎總本司『大倧敎要鑑』(ソウル、大倧敎出版社、開天4330年〔韓国語〕)54頁。

[459] 大倧敎重光六十年史のものとのこと。

[129] 2019년 10월 2일 개천문화 대축제 예고편 - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=Gqykg3VKpqY

신시개천 5916년, 단군기원 4352년(2019)

[16] >>14日本大韓民国宗教研究者が平成時代初期に書いた論文です。 檀君教に関する論文で、とある教団で檀君紀元が用いられたことを書いていますが、 この論文は檀君紀元が「韓国の公式紀年」だと解説しています。 専門の研究者も正式な制度の情報を掴めないほど宗教的文脈では公然と用いられていたということなのでしょう。

在日本大韓民国民団

[325] 大韓民国政府と密接に関係する在日韓国人団体である在日本大韓民国民団 (民団) は、大韓民国政府が檀君紀元を使っていた時期、 同様に檀君紀元日本で利用していました。

[22] (, ) http://mindan-aichi.org/test/60nensi/1-6.pdf#page=9

また民団では創団以来、年号(元号)として檀君紀元(建国神話の最初の王・檀君の即位を起源とする。檀紀ともいう)を使用してきたが、本国同様1962年1月1日より西暦(西紀)を実施することになった。

[23] (, ) https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/104/104120301.pdf#page=7

資料のほとんどの書類は旧字体の漢字交じりのハングルである。年号はほとんど檀紀7)で表記されている。

第3節 宝塚韓国小学校における教育

宝塚韓国小学校校則の第一条ては「本校は大韓民国教育法及び学校教育施行今に準拠する。在日本大韓民国児童に義務教育課程と初等普通教育を実施することを目的とする」とあり,最後の第三十条では「本校は檀紀四千二百八十一年度四月一目から施行する」とある。檀紀4281年すなわち1948年4月にはまだ大韓民国が成立していない。ゆえに記載の法律が成立しているとは思えないため,この校則も後年に作成されたものと思われる。

[24] 写真でたどる65年の足跡 闘い泣き笑った…この伝統を次代へ (, ) https://www.mindan.org/old/front/newsDetaileab2.html

創団1周年に合わせて行われた「開国記念民衆大会」(47年=檀紀4280年)

[25] (, ) http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/honyaku/honyaku-2/766kara.pdf

[26] (, ) http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/honyaku/honyaku-2/766kara.pdf

日本国内の朝鮮寺

[103] 日本国生駒山地にある朝鮮寺 (仏教朝鮮日本の土着信仰が習合している寺院) のカレンダーには、 紀年法の1つとして「檀紀」年が書かれています。 >>44

その他の地域

[145] 朝鮮民主主義人民共和国では檀君紀元は使われないとされます。 >>5

2桁年号

2桁年号, 双八年度

実装

[52] 大韓民国で使われている主要なソフトウェアは、 欧米製品も含め、 檀君紀元に対応しています。 大韓民国で今でも需要が少なくないことが知られます。

[56] 計算機システムにおける暦の指定も参照。

[326] 윈도우10 PC 날짜 서기 ↔ 단기 표기 변경하기, https://thursday1101.tistory.com/599

[327] >>326 Windowsロケール檀君紀元に変更する方法。

[58] 125446 – Support to Korean Traditional Calendar, Dan-gi(단기/檀紀) Calendar on LibreOffice, https://bugs.documentfoundation.org/show_bug.cgi?id=125446

Nowaday, It's not official era in Korea, But, Private sector in Korea sometimes use it.

It supported on MS Windows & MS Office, Hancom Office Suite. Also, Windows 10 support Dangi Calendar.

[57] LibreOffice Presentation Template (Community) - AsiaCon2019_DaeHyun_Sung.pdf, , https://wiki.documentfoundation.org/images/f/f4/AsiaCon2019_DaeHyun_Sung.pdf#page=21

[60] [ICU-9003] Support for Korean Dangun/Dangi calendar - Unicode Consortium, https://unicode-org.atlassian.net/browse/ICU-9003

[61] [ICU-9616] Port DangiCalendar (Korean traditional calendar) to ICU4C - Unicode Consortium, https://unicode-org.atlassian.net/browse/ICU-9616

[62] [ICU-9967] Dangi calendar limits, failing exhaustive tests - Unicode Consortium, https://unicode-org.atlassian.net/browse/ICU-9967

紀年法としての正当性

[96] 檀君朝鮮半島では史実として信仰されていますが、 その他の地域では史実性は低いと評価されることが多いようです。 しかし、歴史学はともかく、民族としてあるいは宗教として何を信仰するか、 しないかは当事者の決めることで、外野がとやかく言うべきことではありません。 神話が信仰に値するかどうかは史実性と独立した問題です。

[343] 檀君紀元紀年法としての正当性も、 檀君の史実性や檀君の即位年の決定方法の妥当性とは別の問題です。 西紀皇紀イエスキリストの生誕や神武天皇の即位の史実性と無関係なのと同じで、 ひとたび紀年法として成立してしまえば、 それを使うことには何の問題もありません。

関連

權紀

メモ

[1] 「檀君とハヌルニム(天の神様)、神様は同じ方」 - 宗教は変えることができる:매일종교신문 ( 版) http://www.dailywrn.com/sub_read.html?uid=5083

それで開天4343年(檀君から始まる年号)、西暦1909年陰暦1月15日を「重光節」として、「大倧教」の4大慶節の一つになった。

[99] >>1 一般的な檀君紀元なら4242年のはず。誤記なのか異説なのか。

[15] 名誉白人 池沼害吉さんはTwitterを使っています 「【 #害鉄 】これまで、害鉄HPの左上の年号が皇紀のみであったところを、皇紀・檀紀・李朝開国紀元・昭和・主体年号の5種類がランダムで表示されるように変更 http://t.co/GpoGZHW6aw」 / Twitter (午後10:33 · 2013年6月10日 , ) https://twitter.com/gaikitirail/status/344084979233456128

[17] 大韓民国『官報』-貴重書国レクション - ジェトロ・アジア経済研究所 () https://www.ide.go.jp/Japanese/Library/Search/Rare/korea.html

[21] 第149回 檀紀と主体年号―朝鮮半島の紀年法 | こよみの学校 () https://543life.com/campus/backnumber149/

[40] さよならテレビ 文化部 なぜ韓国語学習は時間のムダなのか (maaz, , ) http://maaz009.blog90.fc2.com/?no=123

[63] 闘争の跡を訪ねて, 石浜知行, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1018705/1/90 (要登録)

[64] 満洲及西比利亜地方に於ける朝鮮人事情, 朝鮮総督府内務局社会課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1272855/1/56

[65] 露西亜事情 (61), 露西亜通信社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1592936/1/5 (要登録)

[66] 法律春秋 4(6), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262321/1/25 (要登録)

[67] 法律春秋 5(10), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262337/1/11 (要登録)

[68] 朝鮮公論 19(1)(214);1月號, 朝鮮公論社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11187080/1/53 (要登録)

[69] 高等警察用語辞典, 朝鮮総督府警務局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1454642/1/62

/160

[70] アジア問題講座 第七卷, 創元社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1919011/1/184 (要登録)

[71] 三島刷毛目, 山田万吉郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1069157/1/104 (要登録)

[72] 朝鮮近代社会史話, 金斗鎔, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2994550/1/8 (要登録)

[73] 文学時標 (6), 文学時標社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1839359/1/20 (要登録)

[90] 世界の切手 (7), 世界の切手社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1731765/1/13 (要登録)

[75] 中国的考え方, 魚返善雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1660027/1/72 (要登録)

[76] 新日本文学 7(3), 新日本文学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6078875/1/59 (要登録)

[77] 新朝鮮読本 総篇, 近藤釼一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2992444/1/14 (要登録)

[78] アジアの歴史 上, 鳥山喜一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1627376/1/52 (要登録)

[81] 朝鮮独立運動 第2 (民族主義運動篇), 金正明, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3000559/1/103 (要登録)

朝鮮紀元

[83] 法律春秋 5(10), 法律春秋編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2262337/1/11 (要登録) 左上

[84] 満洲問題叢書 第2巻, 支那問題研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1214234/1/78 (要登録)

韓国紀元 : 何を意味するか要検証

[85] 思想調査資料 第27~29輯, 文部省思想局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1454707/1/155 左上

建国紀元

[86] 親和 (30), 日韓親和会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2251884/1/15 (要登録)

[94] https://kukhak.ube.ac.kr/?module=file&act=procFileDownload&file_srl=561&sid=148b8bf9e6a46585c4f4bb938f590ce3&module_srl=145

[105] untitled - 043kumagai.pdf, , https://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/08/043kumagai.pdf#page=10

「ソウル版」の序文では、「西暦 1928 年春に 1 か月間」パリ大学で音声の被験者になったと書 かれているが、「平壌版」の序文では「 1928 年 3 月に 1 か月間」と、より明確に書き直されて いる。李克魯博士記念事業会( 2010:83 )や朴龍圭( 2005:235 )に載せられた年譜では、こ れとは違って「 1928 年 5 月の 1 か月間」とされている。

序文の最末尾は、「ソウル版」では「檀紀四二八〇年三月 지은 이 씀」となっているが、北朝 鮮では檀紀を用いなかったので、「平壌版」では「 1949 년 10 월 평양에서 지은이 씀」( 1949 年 10 月 平壌にて、著者記す)と書き直されている。また、この序文を含め、「平壌版」のどこ にも、それが「ソウル版」を改訂増補したものであることについての言及がなされていないが、 発行月日はなぜか両者とも同じ 11 月 15 日となっている。

[119] 기록으로 만나는 대한민국 > 사회 > 연호, https://theme.archives.go.kr/next/koreaOfRecord/reginName.do

[435] 檀紀 年號 成立의 歷史的 背景 -檀君紀年意識을 中心으로-, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001639252 (先頭5ページのみPDF閲覧可能)

[439] >>437 は、 鄭榮薰 (정영훈, Jeong, Young-Hun) の >>439