[6] 朝鮮民主主義人民共和国は建国後に漢字廃止してチョソングルに統一しました。
[10]
世論の全面的な支持を受けることはなかったものの、
折衷的な漢字制限政策が行われて現在に至っています。
昭和時代後期以降行き過ぎが是正されたものの、
未だ日本人の言語生活に多くの傷跡を残しています。
[1] 回顧漫録 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 尾崎行雄, 昭和22 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438901/53
[2] 卒翁夜話 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 尾崎行雄, 昭和23 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1038037/23
[3] 民主政治読本 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 尾崎行雄, 昭和22 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438958/97
[4] 尾崎行雄は漢字廃止、仮名専用を主張していたようですが、 ローマ字化に転向したようです。 世界共通語導入も賛成していました。
[5] 国語英語化を主張していたとする説もありますが出典未詳。
[13] 真剣に漢字廃止を主張し活動する人には、賛同はせずとも一定の敬意を表したいが、ネタで漢字廃止しろとか言っている人には面白くないし恥を知れと思う。漢字の勉強に疲れた小学生の戯言なら可愛いものだけどね。でもそうやってネタにできるくらい漢字廃止論が過去のものになったのは良いことなのかもしれない。共産趣味やソ連好きを素直に楽しめたのも平成の平和な頃だったからこそだからね。漢字もいつまた危機に見舞わられるかわかったものではないから、警戒を怠るのはよくないのだろう。そう考えるとネタで漢字廃止を口走る人への嫌悪感は、現行の生きた文化を尊重できない情けない態度への忌避なのかもしれないね。
[14] シーズン2 第6回 漢字廃止へのまなざし——文字とことばの「国際化」とは(前編) 尾山 慎 | 花鳥社, https://kachosha.com/mojimado20250814206/
「(自然に)なくなっていく、減っていく」ことと「人為的になくす」こととをごっちゃにしてはいけない。なくすというのは、社会から、ということだから、そうなると多分いくつかの法律があらたに必要になる。ということは教育と政策が必ずセットで動く必要がある(『日本語の文字と表記』第4章Ⅱ参照)。つまりは自然に〝なくなっていく〟のとは社会的な動きが違うものになるはずで、漢字をなくす/なくなる——は、ことばと文字の未来を考えるにあたり、重要な違いなのである。
[15] >>14 これは常識的な見解ではあるのだけど、現実には当用漢字による漢字制限も、 昭和の常用漢字による漢字制限撤回も、法律事項ではなく内閣告示に過ぎないことには注意されたい。 漢字以外の国語政策も法律事項ではない。唯一「人名漢字に制限を加える」 ということだけが法律で定められている。 実際の人名漢字も、あるいは教育漢字も、省令でしかない。
[16] 戦後の国語改革は「国語の民主化」というふざけた謳い文句で進められてきたが、 「民主的」な要素はどこにもなく、内閣の一存でいくらでも日本語のあり方を改変でき、 民意は国会を通じた内閣の選任という間接的な正統性のほかは、各政策の意見募集の機会に意見を送れるという程度しか反映されないのである。
[17] さてこれが幸か不幸かはなかなか評価が難しい。制度がそうであるからといって国民がついてくるとは限らない、 というのは漢字制限政策の結末の通りではあるが、国民のほうが強いかといえばそんなことはなく、 人名漢字は拡大すれども厳しい制限はついているままだし、 学校教育を通じた漢字の認知への影響力は計り知れないのだから、 政府の国語に対する統制力はかなり強いと見積もるべきであろう。 政府は国語を不透明なプロセスで一方的に決定し半ば強制できるといったところだ。
[18] しかし国語が法律事項ではないことで、国会議員がおかしな法律で国語を改変することから護っているという見方もできる。 戦後の国会で国語が法律事項だったなら、ローマ字派や仮名書き派の国会議員がわけのわからない法案を国会で議論していたことになったであろう。 それはそれでおもしろそうで、無関係の第三者としては見てみたい気もするが、 おそらく政治決着のための綱引きで史実以上にわけのわからない迷走した政策に結実していそうである。