[1] 永長は日本の元号の1つです。 これまでに公年号1種、私年号 / 改元デマ3種の計4種類が確認されています。
[18] 摂津国大念仏寺引接鋤の銘で永長元年とされるものがあり、偽作とされています。 >>19
[20] 検索しても情報がなく詳細不明。
[19] 研究連絡誌 第7・8号の4 - kenrenshi_007_8_4.pdf, , http://www.echiba.org/pdf/kenrenshi/kenrenshi_007_8_4.pdf#page=6
[87] 下総町史 通史 近世編, 下総町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644911/1/217 (要登録)
[25] 文化14(1817)年 (朝廷では翌年4月22日文政に改元)、 江戸では、 永長と改元されたと紙に書き付けて売り歩いた者があり、 入牢しました。 >>23 普及版 p.599 (我衣、藤岡屋日記)
[28] 加藤曳尾庵の随筆 我衣 には次のような話が掲載されました。 江戸では文化14年4月28日に文化から永長に改元されるとの噂があり、 この日に江戸を出た菓子屋の召使の関所切手に番頭が 「永長元年四月」と書いたため、 箱根関で改元の触もない元号を書くのは不届きであるとし、 通行を許可されませんでした。 >>23 普及版 p.611
[29] これが事実なら「永長」は改元デマとはいえ (わずかながらも) 実用された私年号の1つとなります。
[79] 幕末に往来手形に私年号の神治を書いた例があります。 時代も地域性も違いはありますが、 信頼できない改元情報を信用して書類に書いてしまう事案が起こり得るという実例が他にあるということで、 永長の事案もリアリティーが高まります。
[84] 歴史評論 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=t14ZAAAAMAAJ&dq=%E6%B0%B8%E9%95%B7
113 ページ
先年天保改元の句も、年号永長と書付売あるき召捕るく也」(同上)という記事に注目したい。前近代の改元には本来、改元による人心一新があった。そこには支配者の意識的な政治操作だけでなく、被支配者側の改元によるそ る可能性はないが、そんな史実 ...
[53] https://dl.ndl.go.jp/pid/9546114/1/193 (非公開)
日本庶民生活史料集成 第15巻
図書
三一書房, 1971
193 コマ: 。其中には小さき紙に永長と改元也と書て町々をうりありくもありしゆへ、悉く召捕て入牢しぬ。
[74] 新聞研究 (337), 日本新聞協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3360896/1/6 (要登録)
[45] 後世になってこれを政府で検討中の新元号だったと主張する時代小説作家がありますが >>27、永長は過去の日本の元号ですから、 あり得ません。 過去の中華王朝の元号を日本で採用した事例はありますが、過去の日本の元号の再利用は一度もありません。 仮に検討案に含まれていたとしても、過去の元号の調査すらしていない早期の案になり、 漏れたから撤回というのは考えられません。
[59] それでも撤回されたのだと主張したいなら、根拠を持って行われるべきです。 そうでないならただの虚偽情報です。 (政府批判のネタに何百年も前の江戸幕府の政治判断を捏造 (妄想) するとかどうかしています。当時改元デマを流した人も、そんなに後世まで影響を与えるとは思っていなかったでしょうね。) 光文事件といい、 改元デマは陰謀説と相性がいいようです。 (嘘が嘘に結びつくのも必然なのでしょうか。)
[57] 史実では翌年の改元ですから、実際の改元の1年前に江戸で新元号案が検討されていた (ないし京都で検討されていた案が漏れて江戸まで伝わってきた?) という時間差の矛盾の説明は少なくてもなされる必要があります。
[48] に河野昭昌が我衣記載のこの永長を報告しました。 >>47
[52] また、
「
[51] 同時代の第3者の記録というのが我衣のことをいうのか、 それ以外で河野昭昌が報告しているのか、 はたまた >>35 の事例のことなのか、この引用だけではよくわかりません。
[50] 多く見られるという近世の狂歌や落首の私年号も、 どんなものがあったのか、 現在広く知られているものには見当たりません。
[33] https://dl.ndl.go.jp/pid/7910559/1/68 (非公開)
日本歴史 (503)
雑誌
日本歴史学会 編 (吉川弘文館, 1990-04)
度的検討岩淵令再生に江戸時代私年号に関する覚書-永長·長徳をめぐって-河野昭昌氏◇神奈川地域
[34] https://dl.ndl.go.jp/pid/7940686/1/59 (非公開)
歴史評論 (480)
雑誌
歴史科学協議会 編 (歴史科学協議会, 1990-04)
討」、河野昭昌氏が「江戸時代私年号に関する覚書」をそれぞれ報告した。◇朝鮮史研究会1月例
[15] [65] に天保と改元された頃、 永長と改元されたと紙に書き付けて売り歩いた者があったといわれます。 >>64, >>86
[58] 記録は回想ですし、「改元の時」というのもピンポイントで改元通知のときとは限らないので注意が必要です。 他の証言も見つかるといいのですが...
[5] >>2 >>60 加賀 >>4 美濃 : 近くはありますが、かなり広範囲です。
[2] 「永長元丁酉暦」 と書かれた大小暦の絵暦があります。 天保8(1837)年のものとされています。 >>54
[55] 絵暦の詳細はわからない。ウェブ検索では出てこないし、
の旧蔵暦リストにも載っていない。
[62] 詳細不明とはいえ元年の暦はかなり例外的で、 普通は前年末に暦が作られるので旧元号で発行されるはずです。 来年改元があるという前情報から作られたのでしょうか。 それとも通常の暦と違って大小暦は新年になってから作られることもあったのでしょうか。
[16] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
永長 - 天保8年(1837年) 不明 加賀藩の豪商木谷藤右衛門らが使用[7]。この年号を持つ絵暦あり[8]。
^ 「はじめてみつかった“永長”私年号」(『石川県社会教育会館だより』第113号、1977年、NCID AA11922555)
^ 岡田芳朗 「暦と年号」(『歴史読本』第53巻第1号(通巻823号)、新人物往来社、2008年1月、NCID AN00133555)
[80] Xユーザーの大森博子 Hiroko Ohmori🔍🌗さん: 「【元号】368 永長 えいちょう 天保8年(1837年)期間不明 加賀藩の豪商木谷(木屋)藤右衛門らが使用(この年号を持つ絵暦あり)。藤右衛門は当時日本一の豪商でもあった。年号まで自分のものを使用。 「永長」は堀河天皇の時の元号(出典『後漢書』)。それを踏襲したのかは不明。 https://t.co/0jeHXVQzhd」 / X, , https://twitter.com/11111hiromorinn/status/1064988368096784384
[14] >>13 >>12 輪中一円で天保8年を永長元年としたとのこと。史料は何かあるのだろうけど、 通史、年表とも特にそれを示してはいない。
[63] 「ひそかに」建元したと言っているが、その根拠はあるのかどうか。 現存最古を発生と誤認した事案なのでは。
[78] 「ひそかに」は久宝の説にも出てきて、この時代の地方史研究者による私年号観あるあるなのかも。
[9] 『福島県史料情報』第63号 - shiryojoho63.pdf, , https://www.fcp.or.jp/history/uploads/2022/06/shiryojoho63.pdf#page=2
陸奥国伊達郡大石村
「永長元年丁酉五月」 「永長元年丁酉六月」
[11] >>9 利用者が正月から五月まで江戸に滞在し帰郷したところとのこと。 >>9 はどこで改元情報に接触したか明確にしていない (材料がない)。 陸奥国内とも限らず、江戸ないし帰路で得たという可能性も?
[39] 日本国の埼玉県立文書館所蔵森田家文書に永長が書かれた 御用留 があります。 >>35 埼玉県立文書館の目録検索で
文書群番号 目録-018-01 文書番号 森田家260(CH31)
の文書が所蔵されていることがわかります。 >>38 (ウェブサイトで公開されているのは目録だけなので、 特にこれといった情報は得られません。)
永長元年丁酉正月吉日
御用留
天保八酉年正月日
大野村
会所
とあります。 私年号は表紙の他の文字と違和感なく同筆と考えられます。 >>35
[41] 内容は天保8年正月21日から天保9年正月21日までの48記事です。 現存する直前の御用留は天保7年5月22日までで、 約半年分が現存しません。 >>35
[44] 森田家は日本武蔵国秩父郡大野村 (近代の日本国埼玉県比企郡都幾川村大野、平成の大合併でときがわ町) の村役人の家でした。 >>42 /12
[46] 表紙は同筆とのことですが、永長と天保がいつ (どちらが先で、 どれだけ時間を置いて) 書かれたのかは気になります。 同筆とはいっても左右に対照?に書かれているのに日付の表記は統一されておらず、 後から体裁を気にせず追記したようにも思われます。 普通に考えれば「永長元年」が先でしょうか? そして「永長元年」が書かれたのは天保8年正月21日頃でしょうか。
[30] 入間市史調査報告書 第1集 (近世史料目録 1), 入間市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641994/1/120 (要登録)
[31] >>30 目録のみで本文不明ながら、永長元年2月文書があるとのこと。
根拠不明ながら「
[21] 江戸でずっと燻っていた改元デマがある時ついに地方にまで波及したというシナリオも考えないといけなそう。
[22] 飢饉で世が荒れていたとはいえ幕藩体制がまだ盤石だった時代。 東海北陸東北の3箇所で同時に私年号が使われていた形跡があるとは衝撃的ではないでしょうか。
中世私年号は乱世で正規の改元伝達経路が麻痺したところに公年号と誤認された私年号が流通したというのが近年の主流説になっていますが、 それとの関係も含めてよく考えた方が良さそうですね。
天保期に正規の改元伝達路が機能していなかったとは考えにくい。 それなのに民衆はどこかで改元の噂を聞きつけて、勝手にそれを使い始めているわけですから。
[75] 宝永の事例を見ると本当の改元のときも幕府からの正式な通知の前に民間に噂を触れ回っている輩が表れて処罰されていたとのこと。 正規の改元情報が手続きを経て通知されるために時間がかかるので、 いち早く知りたい人と知らせたい人がいて非正規の改元情報が出回り得る「隙間」は生じていたらしい。
[24] 公年号があるせいで私年号が検出されにくくなってる気がしますね。 ウェブ検索でも公年号情報が多く、見落としがありそう。
[26] 本来私年号なのに、質の悪い偽作とみなされ無視されてる史料もありそう。
[66] これ、私年号研究の研究史反省ポイントが詰め込まれた事案ですな。