はじめてみつかった〝永長〟私年号

永長

[1] 永長日本の元号の1つです。 これまでに公年号1種、私年号 / 改元デマ3種の計4種類が確認されています。

永長 (公年号)

[6] 永長 (y~342) は、 日本の公年号の1つです。 平安時代堀河天皇元号の1つで、 にあたります。

永長元年良忍上人引接鋤

[108] 日本国大阪府大阪市平野区 (摂津国) の融通念仏宗総本山大念佛寺に、 良忍上人引接のといわれるものがあります。 >>103

日時事例

[112] 良忍 (-) 融通念仏宗の開祖です。 つまり平安時代末期の開祖の遺物とされるものが総本山に伝わっているのであります。

[18] 昭和時代には偽作と考えられています。 >>19, >>109

[20] 大正時代大日本金石史 >>103 など >>107 で紹介されましたが、当時は偽作とはされていませんでした >>103, >>105, >>106

[114] 岩井武俊 (-) 大正時代当時から明瞭なる偽物と指摘していましたが、 編者木崎愛吉は断定する勇気がないと答えていました。 >>104

[115] 偽作とみなす根拠が何なのかはよくわかりません。 昭和時代偽作と明確に指摘する研究があったのかどうかもよくわかりません。

[116] の様式や銘文と教学史的な事情の関係についても考察が必要でしょうが、 銘文の日付にも不審な点はあります。

[117] 良忍の12月15日銘と作者祐光の12月1日銘と、 干支年年の字の順序が違います。 良忍銘のように年の字の前に干支年が入る形式は近世のもので、 平安時代末期とするのは難しいでしょう。 東洋の日時表示

[118] 嘉保から永長への朝廷での改元日は12月17日でした。 京都から摂津まで何日か伝達に時間がかかったことも考慮に入れると、 12月1日は1ヶ月弱、12月15日は数日の遡及年号に当たります。 少し遡って区切りの良い日付にするようなこともあるにはあるでしょうが、 やや不審です。

下総永長元年文書

[88] 日本国千葉県成田市西大須賀 (平成の大合併以前は香取郡下総町)八幡神社明治時代の社寺明細帳等によると、 古文書があったそうです。 しかし平成時代の町史によると、 所在不明となっています。 >>87

[119] 八幡神社は社伝ではの創建とされますが、 確実な記録はからのようです。 >>87

[120] 文書の真偽は慎重にならなければいけなそうですが、 現物も (おそらく文面も) 伝わらないとなると判断材料は皆無です。

永長 (江戸時代文化年間)

[25] 文化14(1817)年日本武蔵国江戸永長 (y~4194) の改元デマがありました >>3


[123] 江戸時代の元水戸藩士で江戸在住の加藤曳尾庵 (-) の随筆 我衣 に記録があります。

[124] 我衣 によると、 文化14(1817)年4月27日, 文化14(1817)年4月28日の頃、 改元があると江戸の町中で噂になっていました。 >>91

[125] その中で、 小さい紙に「永長と改元也」 と書いて町々を売り歩く者がありました。 その者らはことごとく逮捕されて入牢しました。 >>91, >>53, >>23 (我衣藤岡屋日記)

[28] また、江戸から箱根関へ向かった者が通行を許可されない事案がありました。 文化14(1817)年4月28日には永長改元されるとの噂があったため、 菓子屋の召使の関所切手文化と書くのはまずかろうと思った番頭が 「永長元年四月」と書きました。 しかし改元もないような元号を書くのは不届きであるとし、 召使は通行を許可されませんでした。 >>51, >>94

[90] 残念ながら、 我衣 は現時点で知られている唯一のこの事件の記録です。 入牢者の判決文は伝わりません >>89

[122] いや、むしろ、我衣だけでも残ったことを幸というべきかもしれません。 記録に残らず伝わらない改元デマもきっとあったのでしょう。

[126] >>23 はこの事件の出典で我衣藤岡屋日記の両方を挙げていますが、 後者に見当たらず、誤引用が疑われます。

[53] https://dl.ndl.go.jp/pid/9546114/1/193 (非公開)

日本庶民生活史料集成 第15巻

図書

三一書房, 1971

193 コマ: 。其中には小さき紙に永長と改元也と書て町々をうりありくもありしゆへ、悉く召捕て入牢しぬ。


[121] 文化14(1817)年3月22日光格天皇仁孝天皇譲位しました。 (仁孝天皇文化14(1817)年9月21日即位文化15(1818)年4月22日文政改元しました。) 当初から翌代始改元の方針があり、 1月には4月か5月の改元の意向を朝廷から江戸幕府に示しました。 >>23

[127] の4月という改元デマのタイミングは、 仁孝天皇践祚の約1ヶ月後です。 一般の情報伝達のタイミングでいえば、 代替わりの知らせが届いて間もない頃に当たります。 新天皇の時代になったのだから改元があるはず、 というところからデマが生じたものでしょう。

[128] この時代は即位の翌年の改元が普通でしたから、 知識がある人が冷静に考えればそんなはずはないとわかるはずですが、 そういう人ばかりではないのでデマも生じるというものです。

[129] 「改元がある」「永長と改元される」「4月28日に永長と改元される」 の3段階の噂があったようにも読めますが、 言葉の綾とも思われ、はっきりしません。

[130] 「永長」がどこから出てきたものか、 「4月28日」がどこから出てきたものかもよくわかりません。 たまたま27日頃に噂になっていたところで、 「もう今日明日中にも」とどんどん具体的に尾びれが付いたようにも思われますが、 どうでしょう。

[131] 筆者はこうした情報をどこで入手したのでしょうか。 改元デマには自ら接して見聞きしたのでしょう。 「紙を売り歩く者がいた」 「紙を売り歩いた者が捕縛された」 も自ら目撃したのでしょうか、それとも噂を聞いたのでしょうか。 「入牢した」 はどうでしょう。噂でしょうか、それとも当局からの発表があったのでしょうか、 それとも関係者から聞いたのでしょうか。 箱根関の一件はどうでしょう。当事者から聞いたのでしょうか、 それとも噂になっていたのでしょうか。

[29] 箱根関の逸話が事実なら「永長」は改元デマとはいえ (わずかながらも) 実用された私年号の1つとなります。

[79] 幕末往来手形私年号神治を書いた例があります。 時代も地域性も違いはありますが、 信頼できない改元情報を信用して書類に書いてしまう事案が起こり得るという実例が他にあるということで、 永長の事案もリアリティーが高まります。

[95] 紙の販売について、 瓦版研究者の平井隆太郎はこの事案を瓦版屋によるものと断言しています。 >>89 当時このような行為をするのは瓦版屋ということなのでしょう。

[132] 「悉く」捕縛されたとあり、 多数の瓦版屋が活動していたと考えられます。


[133] この事案に言及されることはしばらくありませんでしたが、 瓦版の研究者平井隆太郎新聞業界の雑誌で紹介したものがあります。 江戸時代改元デマ瓦版屋の関わりを列挙していました。 >>89 改元デマ

[92] 平井隆太郎文政改元の際に事件があったとして、 「四月二十七、八日」云々と引いて、 文政改元が西暦1818年4月22日で、 「 布の時期はかなりおくれたらしい」 と書いています。 >>89

[134] どうもこれは文政改元があったの4月と事件のあったの4月を混同しているように思われます。 改元の決定 (22日) 後に公布されるまで時間がかかり、その合間 (27日・28日) に誤報があったという理解なのでしょう。

[93] 実際に文政改元が江戸で諸藩に発表されたのは文化15(1818)年5月16日です。 ( 弘前藩日記 ) 改元日の約1ヶ月後ですが、これは別に遅いわけではなく、 例えば1つ前の文化改元でも同じくらいの遅延です。 改元手続き 現代とは違って京都から江戸までの情報伝達だけでも時間がかかることに注意が必要です。

[48] 、 歴史研究者の河野昭昌我衣記載のこの永長を報告しました。 >>47

[136] 平成時代後期の日本年号史大事典はコラムで永長を紹介しています。 >>23

[17] 平成時代後期の文化財行政関連資料で永長に触れたものは、 江戸の事案を、 箱根の事案をか、 と紹介しています。 >>60 #page=13 しかし両事案は日付も一致しており、 後者ものこととみて良さそうです。

[207] 令和改元を間近に控えたには一般雑誌で紹介した事例もありました。 改元デマ

[91] >>89

「四月二十七、八日の間、 年号改元ありと専ら風説す、其中に小 さき紙に永長と改元也と書て町々を売 りあるくものありしゆえ、悉く召捕て 入牢しぬ」

[94] >>89

箱根の関所で江戸麴町の菓子屋の使 用人が通過を許されず江戸に追い返さ れた。くだんの使用人のいう所では 「四月二十八日には文化の年号永長と 改まると専ら風聞あるにつき、二十八 日の朝江戸表出立しぬるによりて、文 化と書きてはあしかりなんとて番頭殿 (したた) め」た手形があだとなり、「改元 () (ふれ) もなき年号」を勝手に書き入れた ことを関所役人に咎められたのであっ た。

[3] 庶民の世論が影響? 江戸時代の改元|日経BizGate (日本経済新聞社著, ) https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4285708025032019000000?channel=DF150320194919&page=2

享和4年(1804年)に「文化」に代わる直前には「元明」と改元されたと売り歩いた者がいたという。文化14年(1817年)には改元していないのに「永長」(実際は翌年に「文政」)を、天保15年(44年)には「嘉政」(実際は翌年に「弘化」)と書いて売るなどのケースが続いた。吉野氏は「幕府はニセ元号に神経をとがらせ、どのケースも犯人を入牢や追放の処分にした」という。

特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。

[135] 吉野氏は >>23 の著者の1人。
[84] 歴史評論 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=t14ZAAAAMAAJ&dq=%E6%B0%B8%E9%95%B7

113 ページ

先年天保改元の句も、年号永長と書付売あるき召捕るく也」(同上)という記事に注目したい。前近代の改元には本来、改元による人心一新があった。そこには支配者の意識的な政治操作だけでなく、被支配者側の改元によるそ る可能性はないが、そんな史実 ...

[83] 歴史評論は (少なくてもこの時代は) 極左系運動家の歴史をネタにした扇動文を集め、 余ったページに歴史学者の論文を載せたような偽装学術雑誌。 この時期は元号法制定反対に忙しく、元号関係の記事が多いので、 これだけではどこにこれが含まれているのかわからない。 近世の元号雑感--改元をめぐる民衆の反応あれこれ, 山田忠雄という記事がそれかもしれない。

[45] 平成時代日本の小説家永井義男 (-) は、 ウェブサイト我衣永長記事を翻案した小説を掲載しました。 >>27

[137] この記事の末尾で「筆者曰く」として、次のように主張しました。 >>27

[57] しかしこの主張には一切の根拠が示されていません。 幕府からの漏洩であるとの根拠が無いだけでなく、 幕府が当時元号を検討中だったとする根拠すら示されていません。

[144] 仁孝天皇践祚直後で代始改元がありそうだと指摘すれば後者の傍証くらいにはなるのに、 そのことすら指摘していません。不思議ですね。

[145] 光文事件については、 日本政府が検討していた光文案が漏洩したので昭和に差し替えられた、 とする陰謀論説が昭和時代に出現し、 現在もマスコミ関係者などに信仰されています。 光文事件 本説は光文事件江戸時代に投影したものですが、 その根拠は「ほうふつとさせる」という永井義男の感想だけです。 それってあなたの感想ですよね

[143] 永長は、過去に採用例のある日本の元号の1つです。 江戸時代当時明文化された規則ではなかったものの、 過去の日本の公年号を再利用した事例は1回もありません。 仮に候補に上がったとしても、最終候補となる前に落とされるはずのものです。

[146] また、この時代の改元江戸幕府朝廷が協議を重ねながら決めるものです。 情報伝達に片道だけで数日かかることを考慮しなければなりませんし、 幕府朝廷が一度決めたことを変更できるのか、 といった手続き的、政治的な検討が一切なされていません。

[147] 実のところ江戸幕府が施行前の元号案が庶民に漏れることを問題視していたのかどうかも定かではありません。 朝廷改元日を過ぎてから未発表の新元号が知られた事例はありますが ( 改元伝達 )、 未発表元号の伝達や利用を咎めることはあっても、元号を差し替えたことはありません (改元定は終わっているので手続き上不可能です)。 改元定前だと、江戸幕府は候補中好ましいものを提示することはあっても、 江戸幕府自身が元号を決定することはなく、 最終決定は京都朝廷に委ねています。 このタイミングで江戸幕府から庶民に新元号が漏れることは原理的に不可能です。

[148] 結局のところ「漏れたから差し替えた」という光文事件陰謀論の筋書きを江戸時代の制度を調べもしないで当てはめただけの稚拙な説なのでしょう。

[59] それでも幕府がこっそり撤回したのだと主張したいなら、根拠を持って行われるべきです。 そうでないならただの虚偽情報です。 (政府批判のネタに何百年も前の江戸幕府の政治判断を捏造 (妄想) するとかどうかしています。当時改元デマを流した人も、そんなに後世まで影響を与えるとは思っていなかったでしょうね。) 光文事件といい、 改元デマ陰謀説と相性がいいようです。 (に結びつくのも必然なのでしょうか。)

[27] 江戸の醜聞愚行166, 永井義男, 更新 () http://motokiyama.art.coocan.jp/nagai4/nagai4-166.html

第166話 改元のデマ

けっきょく、光文は取りやめになり、昭和が採用された。

永長という新年号はけっして根拠がなかったわけではあるまい。おそらく、江戸城のどこかからリークされたのではあるまいか。

幕府は本当に改元を考えていたのだが、下々に知れ渡ってしまったのを知って、取りやめたのであろう。

いかにも「お役所の面子」という気がする。

もしリークがなければ、文化の次は永長だったかもしれない。

永長 (江戸時代天保改元)

[15] 文政13(1830)年12月10日天保改元された頃、 永長改元されたと紙に書き付けて売り歩いた者があったといわれます。 >>64, >>86

[65] 江戸時代の商人の日記藤岡屋日記天保15(1844)年12月6日条に記録があります。 >>86

[58] 記録は回想ですし ( 嘉政 )、「改元の時」 というのもピンポイントで改元のときとは限らないので注意が必要です。 他の証言も見つかるといいのですが...

[64] 平成 30 年度(第 7 回)県立図書館・公文書館合同展示(平成 31 年 2 月 1 日~3 月 31 日) 「改元漫遊」 その1:江戸期の改元、または、改元あ・ら・かると Part1&2 解説パンフレット, Ver1.2_20190210, , https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=18

天保 15(1845)年の師走、江戸で改元に関する偽の情報が流れるという事件が起こりました。『藤岡 屋日記』の同年 12 月6日条によれば

今日から年号が替わりました、と紙切れに「嘉政」と書いて1枚4文で売 り歩いた輩がおり、都合6人が捕縛されたという。また、去る天保改元の 時も「永長」と書いた紙を売り歩いた事件があったとのこと

といったものでした。

永長 (江戸時代天保年間)

[61] 頃、日本全国各地で永長 (y~295) が使われました。

[154] 訓みは「えいちょう」とされます。 >>80 自然な読み方ではあるのですが、根拠は不明です。

用例

[5] 日本各地の村方文書等の用例が知られています。

[206] 用例が広範囲に分散しているだけでなく、時期もばらばらなのがこの私年号の特徴です。

[221] 使われたは、

から、天保8年と断定できます。 輪中の用例 (>>14) も天保8年と断定されています。

[224] 入間市の用例 (>>31) は詳細不明で、天保8年なのかどうかわかりません。

[225] 用例が知られているものは、いずれも私年号を意識的に使うべき明確な原因を見いだせません。 比企郡の用例 (>>39) は不自然に併記していること、 伊達郡の用例 (>>170) は公年号に訂正していること、 加賀国の用例 (>>49) が公年号からの改元と明記していることから、 私年号の利用が意図的ではなかった可能性が示唆されます。

埼玉県下の用例

[39] 日本国埼玉県立文書館所蔵森田家文書永長が書かれた 御用留 があります。 >>35 埼玉県立文書館の目録検索で

文書群番号目録-018-01
文書番号森田家260(CH31)

文書が所蔵されていることがわかります。 >>38 (ウェブサイトで公開されているのは目録だけなので、 特にこれといった情報は得られません。)

[40] 御用留 表紙に、

永長元年丁酉正月吉日

御用留

天保八酉年正月日

大野村 

  会所

とあります。 私年号は表紙の他の文字と違和感なく同筆と考えられます。 >>35

[41] 内容は天保8年正月21日から天保9年正月21日までの48記事です。 現存する直前の御用留は天保7年5月22日までで、 約半年分が現存しません。 >>35

[44] 森田家は日本武蔵国秩父郡大野村 (近代日本国埼玉県比企郡都幾川村大野平成の大合併ときがわ町) の村役人の家でした。 >>42 /12

[43] この資料は私年号の記載が報告される >>35 より前から目録に掲載されていました >>42 が、目録には天保の方の日付だけが掲載されていました。 目録作成時によくわからない年号状のものの正体をいちいち気にしていられないのはやむを得ませんが、 せめて何らかの注釈があればもっと早く注目されていたかもしれません。 このように既に文書館に収蔵されて目録が作成されている文書でも、 未だ私年号資料としては未発見のまま眠っているものが他にもまだまだありそうです。

[46] 表紙は同筆とのことですが、永長天保がいつ (どちらが先で、 どれだけ時間を置いて) 書かれたのかは気になります。 同筆とはいっても左右に対照?に書かれているのに日付の表記は統一されておらず、 後から体裁を気にせず追記したようにも思われます。 普通に考えれば「永長元年」が先でしょうか? そして「永長元年」が書かれたのは天保8年正月21日頃でしょうか。

[231] 「元年正月」が書かれたタイミングと改元伝達のタイミングと、 考察のし甲斐のありそうな問題です。

[31] に出版された自治体史所収の日本国埼玉県入間市上小谷田滝沢達夫家所蔵文書の目録によると、 目録のみで本文不明ながら、永長元年2月付の質流証文文書があるとのことです。 目録には、根拠不明ながら「私年号 使 用」とあります。 >>30

[201] 干支年の有無は不明です。

[200] この目録中に同じ発給者の文書は天保10年のもの1通のみです。 同じ名前だから同じ人物とは限らないものの、 他に1つだけしかないなら同一人物、同時代と考える有力な根拠になるでしょう。

永長元年暦

[2] 「永長元酉暦」 と書かれた大小暦絵暦があります。 天保8(1837)年のものとされています。 >>54

[55] 絵暦の詳細はわからない。ウェブ検索では出てこないし、 国立天文台所蔵の岡田芳朗の旧蔵暦リスト >>56 にも載っていない。

[62] 詳細不明とはいえ元年の暦はかなり例外的で、 普通は前年末にが作られるので旧元号で発行されるはずです。 来年改元があるという前情報から作られたのでしょうか。 それとも通常のと違って大小暦は新年になってから作られることもあったのでしょうか。

加賀の用例

日時事例

  • [49]天保八年二月 (年号相改り永長元年也) 大河端飛地」 (草書) >>34
    • [52] 白黒写真あり、字形はほぼ完全に読み取れるが細部はやや難あり

[96] この史料は、 木屋藤右衛門梶屋九郎兵衛木屋藤蔵酒屋九兵衛の4商人が日本加賀藩加賀国石川郡大河端村 (現在の日本国石川県金沢市) の新開の土地を購入した際の文書であり、 大河端村宗左衛門らを雇って測量させ、 出資金に応じて分配し明確に図示した文書です。 4人が1枚ずつ所持したと考えられます。 >>34

[97] この文書はおそらく石川県のどこかで見つかって調査されたもの、 もしかすると石川県立図書館に収蔵されたものかもしれませんが、 詳細が説明されておらず不明です。 少なくても4枚存在したと推測されていますが、何枚見つかったのかは不明です。 特記がないということは1枚でしょうか。 4家のうちどこかに伝わったものなのでしょう。

[149] この用例より永長加賀の商人によりに使用されたと考えられています。 >>16, >>60

[98] 本文の肩に明らかに注記の形を取って加筆された永長私年号の部分ですが、 同筆なのか別筆なのかなど考察はなされていません。

[232] 論文掲載の白黒写真 >>52 からの判断は困難です。 は本文と字形差があり、 は本文のものと微細な差がありますが、 他人の筆と断定できるような違いではありません。

[233] ともかく天保8年2月に原文が成立した後に、改元を知って注記したということでしょう。

福島県下の用例

[170] 日本国福島県下に残る豪農の文書群である大橋健佑家文書に、 永長の用例がいくつかあります。

日時事例

[171] に報告されたものです >>163

輪中での利用

[14] 昭和時代日本国岐阜県安八郡墨俣町 (現在の大垣市墨俣町) の自治体史墨俣町史によると、 に 「輪中一円」で私年号永長元年 >>13 /198, /273 を使いました。 >>13 /391

[159] 史料は何かあるのでしょうが、 墨俣町史 は通史、年表とも特にそれを明記はしていません。

[161] 「輪中一円」が具体的にどのような範囲なのかは定かではありません。 現在墨俣輪中と呼ばれるのは墨俣町域の他に岐阜県安八郡安八町北部 (旧結村域) があるとされます。

[160] 年表では「八月」記事と「八月十四日」記事の間に置かれていますが、 私年号記事自体には日付がありません。 >>13 /391 この配置に意味があるのかも不明です。

  • [13] 墨俣町史 - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/3016849/1/273
  • [4] 墨俣町史 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=a2pAAQAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

    病名は知れざるも現在の赤痢の如し、その流行ぶりは特にはげしく死亡者も多く 出たれば、ひそかに年号を改め、天保八年を永長元年と私年号をつけた万延二年 六月墨俣輪中に疫病流行す。明治十九年六月下旬墨俣村に虎烈拉病の患者発生す 。

    天保七年十一月一日多くの乞食が墨俣に集結した。亦同八年三月、四月には墨俣 宿に盗人のそうどうが起つた。その上同八年には疫病が流行したので、ひそかに 私年号を永長とつけ、天保八年を永長元年といつた)鶏石春秋には天保飢饉の ...

    ... 輪中一門私年号十四日大風保二十二三軒倒。"十日より一ヶ月島石は毎日白粥二 斗づつ人命救うためほどこす。州月明月九泊月月九侯月本日线“误导町大御吴邪九 「の地 OOOOOO 二四 O 二 O 四 OO 二 O 四 OOO 四 O 十四八八八七六狂月干月 ...

研究史

[208] 江戸改元デマ (>>25) は同時代的記録もあった (>>123) ものの、 昭和時代まで広く公刊されずに埋もれていました。

[211] 天保改元の頃の江戸改元デマ (>>15) は約15年後の記録があった (>>65) ものの、 平成時代 >>23, >>64 まで紹介されていません。


[12] 昭和時代中期の 墨俣町史 は、同地で私年号永長が使われた (>>14) としています。 >>13

[162] 同書はからの天保の大飢饉と関連付けて、 飢饉疫病が理由で改元したとしています。 >>13 /198, /273 しかしその理由は示していません。

[63] 同書は「ひそかに永長私年号建元したとしていますが >>13 /198, /273、 なぜ輪中の人々による建元といえるのか、 どのように「ひそか」だったのかは説明がありません。

[78] 「ひそかに」は久宝の説にも出てきて、この時代の地方史研究者による私年号観あるあるなのかも。 現存最古を発生と誤認した事案なのでは。

[212] 墨俣町史私年号説は令和時代に至るまで私年号研究の分野で気づかれずに埋もれていました。


[209] 昭和時代後期から平成時代には江戸改元デマ (>>25) が知られるようになり >>89, >>84, >>47, >>23, >>60、 一般書等にも紹介されましたが >>27, >>3, >>207、 史料的制約によるものか興味が限られるのか、 研究は広がりを見せていません。

[210] 逆に十分な検証がされないままに政治的その他の動機による怪しげな言説に利用されてしまっています (>>133, >>83, >>45)。

[216] 加賀の用例 (>>49) が報告され、 私年号とされました。 しかし私年号研究の分野では平成時代半ば頃まで気づかれずに埋もれていました。

[234] 昭和時代日本国石川県の歴史研究者田川捷一は、 加賀の用例 (>>49) を次のように報告、考察しました。 >>34

[250] 当時の研究水準からすればやむを得ないとはいえ、 現在からみれば無理が多い考察です。 久保常晴日本私年号の研究の分析手法の悪いところを真似てしまっています。 千々和到のいうように、 元号名を付けた記録が残っていないところで無理に推測しても仕方がありません。 日本の私年号 本例はまさしく現存最古を発生と誤認した事案の1つで、 たまたま永長改元を知って使ったに過ぎない4商人の事情から永長という元号名の理由を探しても得るものはありません。
[251] 本史料は公年号私年号に訂正された事例の1つといえますが、 その理由が改元のためと明記されています。 これは非常に重要な記録なのですが、 さらっと流して元号名大喜利を始めてしまいました。 千々和到平成時代初期の研究で関東東国私年号改元デマだと判明した後だったなら、 本事例も改元デマをそうと知らずに新元号を使ったという単純な話だと理解できていたでしょうに、 10年早すぎました。

[214] 入間市の用例 (>>31) が私年号と判断されました。 しかし令和時代に至るまで私年号研究の分野で気づかれずに埋もれていました。


[198] 平成時代の歴史研究者の白井哲哉は、 埼玉県の用例 (>>39) を報告しました。 >>35 昭和時代後期に整理された文書群ながらも、 その際には私年号として認識されなかったものでした (>>43)。

[213] なお報告では先行研究 >>47 から江戸の事例 (>>25) をも引いています。 >>35 (公年号を除く) 別種の永長が同時に紹介されたのはこれが始めてです。

[199] 分析結果は改めて報告する予定だとしています >>35 が、その報告は見つかっていません。その後何らかの形で報告されたのかは不明です。


[215] 日本研究の大家岡田芳朗永長元年暦 (>>2) の存在に触れました。 これより前から存在は知られていた可能性はありますが、不明です。

[151] 日本語ウィキペディアは天保8年の永長のみを掲載しています。 >>16 の改訂で追加されました >>322

[152] 絵暦 (>>2) と加賀 (>>149) の用例を、 それらを紹介する論文を出典に紹介しています。 >>16

[153] のツイートで、 ウィキペディアの記述によく似たものがあります。 >>80 ウィキペディアにない情報もあります。 投稿者が足したものなのか、 足された出典が(明記されていないが)あるのか、 何らかの共通の出典があるのかはよくわかりません。

[156] このツイートは、公年号永長を踏襲したのかどうかは不明としています。 >>80 「不明」ということでその根拠も何も示していないのですが、 ここでいう踏襲とは、 かつての公年号に何らかの愛着のようなものがあって私年号として敢えて再利用した、 という可能性を指摘しているのでしょう。

[157] 日本の私年号でそのような主張がなされたものはいくつかありますが、 どれもこれといった根拠はありません。 日本の私年号 日本の公年号でも踏襲といえるのは元和くらいです。 漢土には事例がいくつかありますが、その意図は十分に解明されていません。

[158] 検討はしないよりした方がいいのは当然なのですが、 元号文化圏全体を見渡してもほとんどない、 慣習として確立されていない「踏襲」なる概念を唐突に持ち出した理由がよくわかりません。

[155] 木谷藤右衛門は日本一の豪商で、年号まで自分のものを使用したとも解説しています。 >>80 何でもほしいままにしたととらえられる説明ですが、その根拠は不明です。

[255] 初めて報告した >>34 は4人の商人の文書としており、その筆頭に挙げているのが木屋藤右衛門で (明記されていませんが、文書の署名順でしょうか?)、 その商人らが作ったような見解ではあるのですが、 木屋藤右衛門が作ったとまでは言っていません。

[150] 平成時代の文化財行政関連資料では、 加賀の用例 (>>149) を引いて、 加賀の商人が使用した私年号と紹介しています >>60 #page=13, #page=18。 参考文献がいくつか示されていますが、これの出典は不明です。

[16] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

永長 - 天保8年(1837年) 不明 加賀藩の豪商木谷藤右衛門らが使用[7]。この年号を持つ絵暦あり[8]。

^ 「はじめてみつかった“永長”私年号」(『石川県社会教育会館だより』第113号、1977年、NCID AA11922555)

^ 岡田芳朗 「暦と年号」(『歴史読本』第53巻第1号(通巻823号)、新人物往来社、2008年1月、NCID AN00133555)

[253] 藤右衛門, 藤右衛門のどちらの表記も見られるようだが、 >>16 が引いている >>34 での表記は藤右衛門ウィキペディアがなぜ藤右衛門としたのかは謎。
[254] >>16 だけ見ると絵暦も加賀藩で流通したものと読んでしまうが、 暦と年号には場所の記載なし。

[172] 日本国福島県の歴史研究者小野孝太郎は、 福島県の用例 (>>170) を報告しました。 この際次のような見解を示しました。 >>163

[191] 令和時代小野孝太郎福島県域から他にも多数の新出の私年号用例を紹介しています。

[192] 改元待望論は中世東国私年号の伝播の説明として通説になっているものを、 ここでは近世にも適用したものです。

[193] 加賀国で云々は従来説を踏襲したものでしょう。

[194] 私年号公年号を否定するもので公文書では使用しないというものも、 従来そのように説かれることがあったものに従ったのでしょう。

[195] しかし 「私年号公年号の否定なので憚られる」 という発想は私年号に恒常的に触れていなければ起こらない発想で、 そのような「常識」が近世の日本各地にあったものかは疑問もあります。 私年号禁止説参照。 日本の私年号

[11] 5月3日に帰宅し、5月中に改元情報を得たというのは、 5月3日より後に陸奥国内で改元デマを受け取ったという想定なのでしょうか。 具体的にいつどこでどのように情報を得たのかは書かれていませんし、 それを推定できる材料も無いということなのでしょう。 だとすれば改元デマの受取地は陸奥国内とは限らないはずで、 江戸なり道中なりで知って大橋儀助陸奥国に持ち込んだという可能性も想定するべきでしょう。

[196] 「広範囲に伝播」したという以外に記述がなく加賀国の事例と具体的にどう関係していると考えているのかよくわかりませんが、 「伝播」があったとするのなら加賀国発祥説も再検討が求められるはずです。

メモ

[226] まだまだ不明なことが多いです。

[21] 江戸でずっと燻っていた改元デマがある時ついに地方にまで波及したというシナリオも考えないといけなそう。

[22] 飢饉で世が荒れていたとはいえ幕藩体制がまだ盤石だった時代。 東海北陸東北の3箇所で同時に私年号が使われていた形跡があるとは衝撃的ではないでしょうか。

中世私年号は乱世で正規の改元伝達経路が麻痺したところに公年号と誤認された私年号が流通したというのが近年の主流説になっていますが、 それとの関係も含めてよく考えた方が良さそうですね。

天保期に正規の改元伝達路が機能していなかったとは考えにくい。 それなのに民衆はどこかで改元の噂を聞きつけて、勝手にそれを使い始めているわけですから。

[75] 宝永の事例を見ると本当の改元のときも幕府からの正式な通知の前に民間に噂を触れ回っている輩が表れて処罰されていたとのこと。 正規の改元情報が手続きを経て通知されるために時間がかかるので、 いち早く知りたい人と知らせたい人がいて非正規の改元情報が出回り得る「隙間」は生じていたらしい。

[218] 慶喜命禄の事案とも合わせて、私年号の伝達媒体としてのの役割はよくよく考察される必要があるでしょうね。 永長を含めていくつかの私年号の用例が1月、2月あたりに集中しているのは偶然ではないかもしれません。

[219] の出版が統制された近世になぜ、という疑問もありますが、大小暦というのは大きなヒントですね。


[24] 公年号があるせいで私年号が検出されにくくなってる気がしますね。 ウェブ検索でも公年号情報が多く、見落としがありそう。

[26] 本来私年号なのに、質の悪い偽作とみなされ無視されてる史料もありそう。


[66] これ、私年号研究の研究史反省ポイントが詰め込まれた事案ですな。