[10] 尾張藩士朝日重章の日記 鸚鵡篭中記 に改元関連の記事があります。 >>7
[17] 鸚鵡篭中記 元禄17(1704)年3月12日条と元禄17(1704)年3月13日条の間に 改元略記 として京都や江戸の改元儀式の日程が書かれています。 >>7 /244 改元略記 筆者本人がどちらも参加したとは考えにくく、 何らかの経路で入手した情報を転載したものと考えられます。
□十八日 雨。宝永元年と云字を板にて押し、一銭づゝ
にてうりめぐる◯巳ゟ晴、夜曇、戌前後雨、或後小降 ◯昼ゟ久太へ行。源右・権内◯暮ゟ加兵へ行。瀬左・ 半九。
とあります。 >>7 /245
[19] つまり「宝永元年」と印刷されて1銭で売り歩く者が名古屋城下に出現したようです。 この書き方は朝方から巳刻までの間、雨の降っていたときのこと理解していいのでしょうか。
[20] 鸚鵡篭中記 元禄17年4月1日条の後の方、元禄17年4月2日条の前に、
◯去月、京にて改元に付、行赦之節群聚す。板木屋来り
年号を聞て、板に刻みける。其比五所に万日の恵向あ り。是にて売し故大分うれたり。関東にて未御披露も 無之内に、如此事を有司聞而売る者を捕へ、篭に入。
とあります。 >>7 /247
[21] つまり江戸城で改元施行儀式が終わらぬうちに元号名を知って印刷し、 万日回向 (仏教行事) で人が集まった所で売って大儲けした者がおり、 逮捕したようです。
[22] 「去月」というのはどこまでに掛かっているのでしょうか。 この記事が4月1日条に掛けられているということは、 逮捕したのは4月1日のことなのでしょうか。それとも4月1日に思い出して書いた3月中の出来事なのでしょうか。 江戸城での改元実施は3月30日のことですが、 それが名古屋に伝わったのはいつのことでしょうか。 >>18 と >>20 は同一事象でしょうか、別事象でしょうか。
◯御勘定所にて今日ゟ宝永の年号を用ゆ。
とあります。 >>7 /249
[24] つまり尾張藩の機関である御勘定所では元禄17年4月6日に改元を施行したようです。 御勘定所と断っているのは、機関ごとに施行日の決定権があったのでしょうか。 それとも筆者が関係していたのが御勘定所だったのでそう書いたまででしょうか。
[25] この1,2日前くらいに江戸から改元施行の連絡が来たということでしょうか。
[26] 元禄17年3月18日なり元禄17年4月1日なりの時点で筆者や他の尾張藩の国元の役人達は江戸城での改元施行の日取りや、 新しい元号名を把握していたのでしょうか。それとも披露の後の江戸からの連絡で初めて知ったのでしょうか。
[27]
弘前藩の記録では、
元禄17年3月30日に江戸城で新元号が披露されたこと、
元禄17年4月22日に藩庁で新元号が施行されたことが記載されています。
[3] 昭和時代の瓦版研究者平井隆太郎は、 改元デマに関して新聞業界の雑誌に寄稿した記事で、 鸚鵡籠中記 から引いて次のように書いています。 から次のように引いています。 >>1
「三
月十八日、宝永元年と云う字を板にて 押し、一銭づつにて売りめぐる」、
「板木屋来り年号を聞きて板に刻み
ける。その頃、五ヶ所に万日回向あ り、是にて売りし故、大分うれたり。 売るもの牢舎」などとしるされてい る。
[8] >>18 >>20 と >>3 を比較して微妙に表現が違うのは底本の違いなのか、 引用がおかしいのか。
[4] >>1 は >>3 を引用し、元禄17年3月13日の宝永改元で (改元デマと違って) 確報なのに捕まるのは遣り切れないだろうと書いて、 幕閣当局者は瓦版のような「軽い出版物」が元号を扱うことを嫌う 「独得の発想」を備えていたと断定しています。 >>1
[6] しかし引用元の 鸚鵡籠中記 に 「関東にて未御披露も無之内に」 と説明があり、 江戸城の改元披露が元禄17年3月30日にあったことも書かれているのに、 なぜかそれらを省略して引用してまったく言及せず、 朝廷での改元日である元禄17年3月13日だけをきっちり書くのは不思議です。 なぜ原文に書かれていることを無視し、 どこにも書かれていない「独得の発想」 を理由とするのでしょう。
[9] 「確報」だったといえるのは宝永が新元号であることを知っている未来の我々が見た場合だからであって、 当時の一般民衆にとって元禄17年3月18日時点では、 未発表の新元号とされるものは真偽不明の怪文書でしかありません。 改元デマと本質的に変わらないもので、 未発表の不審な情報をあたかも事実であるかのように流布する者を取り締まるという点で幕藩体制側の姿勢は一貫しています。 (虚言すらも) 言論の自由を広く認められる現代の感覚とは違うかもしれませんが、 根拠のない「独得の発想」を導入することなく論理的に説明できます。
[28] この尾張藩の事案は改元伝達や江戸幕府・諸藩の元号政策の分析において興味深い事案と思われますが、 その後の元号研究で参照したものは見当たりません。
[34] 鸚鵡篭中記は昭和40年代に刊行されるまでほとんど内容は知られていなかったようです。 それ以前はこのような事件があったことも忘れられていたのでしょう。
[29] 印刷して売った者は、どのようにして「安永」の元号名を知ったのでしょうか。 何らかの情報源から今次の新元号を知ったのでしょうか、 それとも偶然なのでしょうか。
[31] 本当の新元号だった場合は情報源はどこでしょうか。 尾張藩の関係者でしょうか、それとも他でしょうか。 元禄17年3月18日時点で尾張藩の役人は新元号を知っていたのでしょうか。
[32] 京都で朝廷や公家に出入りした者や、 禁裏御料・公家領の改元情報が自然に広まって元禄17年3月18日時点で尾張藩領にも到達していた可能性もありそうです。