[174] 日本国大分県の灯篭や日本国鳥取県の棟札に1年ずれのものがあるとされます。
[184] 墨書がいつのものかが問題。当時だとすると10ヶ月の遡及年号。 改元後に遡って書かれたものなら問題ない。完成直後に書かれたのだとすると1年ずれ正中の可能性が出てくる。
[199] 正中2年己酉、正中2年乙酉がいくつかあります。正中2年乙丑の誤りなのでしょうか。 (間違いやすそうにはみえませんが。)
[189] https://dl.ndl.go.jp/pid/9540986/1/237 (非公開)
加能史料 鎌倉 2
図書
加能史料編纂委員会 編 石川県, 1994.3
237: 花押)○以上二通、巻正中二年乙酉七月十八日子一巻ニ収ム、○石川県羽咋〔洞谷記〕市永光寺所蔵洞
[204] 日本国滋賀県の古記録などに正中2年己、正中2年巳と書かれているものがあります。 正中年間に巳年は無く、十二支を伴わない十干も不審です。 乙丑 → 己丑 → 己、 と変化したものでしょうか。
[223] 計算が全然合わないので何も信じられない。
[227] 今川氏房は該当人物不明とされ、 この縁起などの当神社所蔵文書は後作とみなされています。 他に例えば建久元年正月十五日 (遡及年号) 源頼朝納書があります。 元禄頃の造作と推測されます。 >>224
[237] 偶然かもしれませんが、静岡県での用例というのは引っかかります。
[242] 史跡で綴る都於郡伊東興亡史 は日向三山陵実記から引いていますが、 「正中元壬辰」は「正平元年丙戊」であると訂正し、 他にも誤りが多いと指摘しています。 >>238
[243] 都於郡城について は創建説は不当とは言い難いとし、 棟札に「正平元年壬辰六月」とあるとすれば誤り、 正平元年は丙戌、正平壬辰は7年で創健者の死後と指摘しています。 >>241 棟札の引用元は明記されていませんが、 棟札にあるとすれば、と述べているので孫引きでしょうか。 最初に「正中」と引用しながら2回目に「正平」にすり替わっているのですが、 説明がありません。
[244] 正中元年壬辰を正平元年丙戌に訂正すると「正」しか残っていません。 誤りが多い史料だからといって他の根拠なくこれだけ書き換えてしまうのは無理でしょう。
[121] 現在までに用例は多数報告されていますが、 干支年が併記されたものや前後関係がはっきりしたものが数点あり、 それ以外も正平の誤写の可能性がある1系統2例を除き、 正中と判断して矛盾しないようです。
[122] 中を仲と書くことがある元号は他にもあり、 元号以外の一般の文章中でも交換されることがあるので、 特段意味のない前近代日本語の表記慣習に基づく表記揺れの範囲内の異年号 (同音異字年号) と考えるのが良さそうです。
[126] 地域、媒体、社会階層などの偏りも特になさそうで、 正中の石造物が多い地域にぽつりと正仲が出現したりするので、 使い分けようとする意識もなく、 伝播経路といえるようなものもなさそうです。
[146] 同時代用例か同時代用例由来が多く、後の時代に新規に書かれた用例はあまり見つかりません。
[147] 同時代の人は深く考えずに同音の通用字で書くことがあった、 後の時代の人が何か言及するときは資料などを見ながら書くので新しい正仲を生産しない、 というような感じなのでしょうかね?
[33] 大正時代の論文は春日版で正仲のもの (>>32) を紹介し、特に注記もなく正中のものとしました。 >>30 判断の理由も書かれていませんが、 類似した正中のもの (>>31) もあるためでしょう。 著者大屋徳城の数年後の単著ではママ注が付されています >>49。
[25] 昭和時代初期の代表的な板碑概説書である服部清五郎の 板碑概説 は、板碑 (>>22) を引き誤刻といえばそれまでだがと断りつつ私年号として示し、 正中のことだとしました。 >>19 判定の根拠は述べられていませんが、 板碑の様式などから推測したものでしょう。
[27] 昭和時代初期に日本国大分県の師範学校が発行した 郷土要録 では板碑に私年号が使われることがあるとし、 大分県の板碑の私年号例として正仲を挙げました。 私年号を意識的に使用したのかは不明と説明しました。 >>136 なお具体例や年代比定は示されていません。
[129] 昭和時代初期の大分県の金石文一覧では、 板碑 (>>22) を引いて、 正仲を正中のことと解していました (年代比定のみで明示的な説明は無し)。 >>128
[26] 昭和時代初期の学術書 仏教考古学講座 では、 正仲は正中のことだとし、 異年号とまではいかなくても普通と異なる文字を使ったもの、 文字の詮索を怠慢したものとして紹介されました。 >>18 (用例や根拠の説明はされていません。)
[55] 昭和時代初期に金沢文庫所蔵文書を刊行した金沢文庫古文書では、 文書 (>>21) の日付で文仲とあるところに(中)と校注しています。 >>50 判定の根拠は述べられていませんが、 文書内容などから推測したものでしょう。
[133] 昭和時代中期の佐賀県の史料集成では、 文仲文書2件 (>>131, >>132) を特に注記もなく文中に配列していました。 >>130
[23] 日本私年号の研究は、 板碑と文書各1例 (>>21, >>22) 引いて同音異字年号とし、 文仲 (文中) の事例と同様に正中の異表記だとしています。 >>20 p.一七四
[24] 日本私年号の研究は、 他の「中」を「仲」とした事例とあわせ、 動乱の時代にあって「中」という精神的、徳高きものを求めるよりも より現実的な「仲」、親愛を標榜するものが求められたと考察しています。 >>20 p.一八󠄃四
[127]
なお同じ著者の昭和時代初期の旧論文
[57] 昭和時代中期の日本国山形県上山市の文化財調査報告書は、 当地の板碑1例 (>>54) を紹介し、大分県の板碑 (>>22) も引きつつ、正仲は正中のことだとしました。 >>56 判定の根拠は明言されていませんが、 大分の正仲 >>19 を引いたのはそれと同じと判断したということなのでしょう。 山形県の文化財保護の中心人物だった川崎浩良も同時期の著書でこの板碑を引いて、 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し) >>64, >>65。
[135] 昭和時代後期の日本国大分県の町史は、 当地の板碑1例 (>>22) を紹介し、 正仲は正中だと説明しました。 >>134 判定の根拠は明記されていません。
[68] 昭和時代の日本国岩手県の文化財調査報告書は、 当地伝来の職原抄写本奥書 (>>67) を紹介し、 正仲を正中のことだと校注しました。 >>66 判定の根拠は明記されていません。
[102] 昭和時代の論文で職原抄諸写本の奥書を比較したものがあり、 そのうち1本 (>>96) は正仲2年を朱書訂正して正平2年とされています。 その訂正について特に言及はありませんが、 紹介されている他の諸本は元々正平2年と書かれているようです。 >>93
[103] 訂正されているもの (>>96) は上巻、 されていないもの (>>67) は下巻の他の本と書写月日が一致しており、 同系統であることは間違いなさそうです。 2本で同じように「正仲」になっているのは偶然とは思えませんが、 他の多数の「正平」本のがみな訂正後の本から派生したようにも見えません。
[75] 昭和時代の日本国新潟県の村史は、 当地伝来の写本奥書 (>>69) を紹介し、 正仲を正中のことだと校注しました。 >>70 判定の根拠は明記されていません。
[92] 昭和時代後期の市史は、 伽藍開基記󠄂 (>>39) を紹介し、 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>91
[90] 平成時代初期の県史は、 峯相記 (>>47) を紹介し、 正仲を正中のことだと校注しました。 >>88 判定の根拠は明記されていません。
[82] 平成時代初期の町史は、 中世文書2点 (>>81, >>77) を紹介し、 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>79
[107] 平成時代初期の石造物銘文集は、 日本国山形県の石塔婆 (>>105) を紹介しています。 正仲を正中のことと解していました (西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>105
[29] 平成時代初期の石造物銘文集は、 日本国千葉県の石塔婆 (>>28) を紹介しています。 特に注記もありませんが、 正仲2年を正中2年に配列しています。 >>9 なお他に正中年間の関東地方の銘文が多数収録されており、 「仲」の1文字以外は同じような石造物が多く現存することがわかります。
[85] 平成時代初期の東京大学の所蔵目録は、 経典の日付 (>>84) を紹介し、 正仲を正中のことと解していました (正中への読み替えと西暦年比定のみで明示的な説明は無し)。 >>83
[123] こうして振り返ると十分な根拠がなくまたは根拠を示すこと無く文中に校訂ないし同定されることが多いようです。 結果的にはそれで間違っていないことが多いようなのですが、 「正平」の誤写が疑われる例があるので、安易な断定は避けた方が安全ではあります。 正中と正平は時期が近いので、区別はつきにくいこともありそうです。
[137] https://dl.ndl.go.jp/pid/11199119 (非公開)
史学雑誌 88(6);1979・6
雑誌
史学会 編 (史学会, 1979-06)
20: (マヽ) 12 武·正仲三年二月六日藤原康門田地売券(佐(二)-九八) 13 中·正平十二年十月廿五日れん与譲状
[138] https://dl.ndl.go.jp/pid/3140498
景観にさぐる中世 : 変貌する村の姿と荘園史研究
博士論文
服部英雄 [著]
253: 〇三)。 12 武·正仲三年二月六日藤原康門田地売券(佐(二)-九八)。 13 中·正平十二年十月廿五日れん与譲
[5] 静岡県の歴史, 若林淳之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9568852/1/98 (要登録)
土地関係の文書に正中二年壬戍と私年号があり、文書の性格から元和8(1622)年。 幕府権力へのささやかな抵抗と推定。
[6] 静岡県の歴史 : 近世編, 若林淳之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539217/1/23 (要登録)
佐久間町浦川の土豪の近世初期の土地関係の文書に正中二年壬戌、 元和8(1622)年の私年号で、 幕府権力へのささやかな抵抗と推定。
[7] 静岡県の歴史 : 近世編, 若林淳之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539217/1/40 (要登録)
私年号は領主への抵抗の1つ
[248] 国史論集 : 小葉田淳教授退官記念, 小葉田淳教授退官記念事業会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12209977/1/403 (要登録)
[12] 佐久間町史 上巻, 佐久間町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569509/1/246 (要登録) /297 左
川上 山田家文書 1件を翻刻引用、日付
「
山田家文書 1件を翻刻引用、日付「
両者は細部を除いてほぼ同文。元和8年文書は公的に用いられ、 正中2年文書は用いられなかったと推測される。 正中2年文書は元和8年文書を写したもので、元和9(1623)年癸亥の私年号。 幕藩体制への移行の中で意識的に元和を拒否し後醍醐天皇の正中を選んだ。
[8] 佐久間町史 下巻, 佐久間町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9570894/1/856 (要登録)
正中二年壬戌は元和8(1622)年の私年号で、 古きよき理想の時代を夢に描き現実の権力に抵抗、 権力による山村の切り捨てへの憤りかもしれない。
[11] 静岡県史: Kinsei - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=Icg0AQAAIAAJ&q=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
670 ページ
元和に代えて「正中」という私年号を使ったりもしている(『佐久間町史』上巻、若林淳之「郷土の成立とその展開」「国史論集』所収)。以下では阿多古領における「公文百姓」について取り上げてゆくが(佐藤孝之前掲書参照)、阿多古領は六名の「公文百姓」 ...
[2] 222.pdf, , https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/files/somu/222.pdf#page=18
2年の用例があり、元年は元和7年、西暦は1622と書かれている。
[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 正中 - 元和7年(1621年) 不明 『山田家文書』(『佐久間町史 史料編3下』所収)[6]
若林淳之 「郷士の成立とその展開 ―三・遠・信国境地帯における―」(『国史論集―小葉田淳教授退官記念』 同教授退官記念事業会、1970年、NCID BN02380189)
[148] 宗良親王丶信州大河原の三十年: 南北朝の諸物語 ; 東海信越南北朝編年史 ; 南北朝 ... - 松尾四郎 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=6kRlAAAAIAAJ&q=%22%E6%AD%A3%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E5%B9%B4%22
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と研究り二十名連記の「本高河上村分」としたものが、正中二年癸亥十月朔日付のものがある。へ佐久間町史上四三五 V 正中二年は後醍醐天皇の時代である。其間三百年経つうちに、内容に全く変化が無いとは考えられないので、これは元和八年に届出する際 ...
267 ページ
り二十名連記の「本高河上村分」としたものが、正中二年癸亥十月朔日付のものがある。へ佐久間町史上四三五 V 正中二年は後醍醐天皇の時代である。其間三百年経つうちに、内容に全く変化が無いとは考えられないので、これは元和八年に届出する際 ...
[14] 私年号の使用を権力への反抗の証とみなすのは古典的な考え方ですが、 昭和時代後期以後の研究で見直しが進んでいます。 確たる根拠なくそう理解するのは難しく、本事例でも再検討が必要でしょう。
[15] 本事例の場合、 類似文書を日付だけ書き換えて写したという不審な点があるので、 特に慎重になるべきです。
[17] 正中二年壬戌の文書と正中二年癸亥の文書があるということで、 2つの「2年」の関係性も問題です。
[16] 南朝遺臣の伝承が近くにあるということで後醍醐天皇の正中との関係を付会しがちなようですが、 当該利用者が後醍醐天皇の正中を知り意識していたという傍証がない限りは、 可能性の示唆という程度に留めておくべきでしょう。
[249] 静岡県の歴史, 若林淳之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9568852/1/98 (要登録)