[1] 昭和23年 (1948年) から昭和26年 (1951年) までの4年間、 日本では夏時刻 (サンマータイム) が実施されました。
[22] 日本政府内では当初デイライト・セイヴィング・タイム >>634 や日光節約時間といった名称も用いられていましたが、 最終的に法律上の呼称は夏時刻となりました。 ただしその後も政府内では夏時間とも表記されることがあり、揺れていました。
[320] 新聞報道を始め世間一般ではサンマタイム、サンマータイムと呼ばれていました。
[296] 新聞では日本における夏時刻制度の時刻のことを「日本夏時間」と表記していたようです >>284。
[297] JDT と略される (Japan Daylight-saving Time) こともあります (当時から用いられていたのかは不明です)。
[3] 奄美を含む琉球地域では、 法令上日光節約時、日光節約時間と呼ばれていました。 琉球は米軍の軍政下にあり、米国風の呼称である daylight saving time が軍政布告で採用されたと思われます。
[6] ただしサンマタイムと併記された例 >>236 もありました。
[5] 日本人 (琉球の住民) で構成される政府機関の議事録では専らサンマータイムと呼ばれました。
[7] おそらく琉球でも現地住民はサンマータイム、サンマタイムと呼んでいたのでしょう。
[110] サンマータイムという当時の一般的日本人にとって聞き慣れない言葉と制度に、 秋刀魚と掛けた駄洒落のようなものも広まっていたようです。
[111]
遅刻することを秋刀魚タイムではなく鰯、
イワシタイムと呼んでいたという逸話もありました >>70。
[359] 西郊民俗 (36), [西郊民俗談話会], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6064282/1/9 (要登録) 左下
[360] >>359 昭和26年の対馬の老人たち。夏時刻をアメリカ時間といい、 わしらはアメリカ時間なんか使わん、と。
[628] 日本本土の制度によれば、 開始日は1日が23時間で構成され、終了日は1日が25時間で構成されました。
[670] 夏時刻法は、実施の期間「の間は、 すべて中央標準時より一時間進めた時刻(夏時刻)を用いる」と定めており、 これに従えば開始日は1時 (午前1時) から始まり24時 (午後12時) で終わると解釈できます。
[19] 同様に終了日は0時 (午前0時) から24時 (午後12時) が存在すると解釈できますが、 その直後の1時間の余分な時間がどう呼ぶべき時刻なのか、 夏時刻法からは判断できません。
[679] 夏時刻法制定時の国会審議では、政府委員は 「四月の第一土曜日に次ぐ日曜日は、午前零時から一時までの一時間が消滅し、九月の第二土曜日の午後十一時から、翌日曜日の午前零時までが、二時間となりますので」 >>495 と言及していました。この日の最後の1時間がどのような時刻なのか、 やはり不明瞭です。
[672] 夏時刻法の条文「中央標準時より一時間進め」 るに文言そのままに従うなら、翌日午前0時-午前1時ということになります。 しかしこれでは夏時刻最後の1時間の日付が変わってしまい、 最終日は25時間で1日との夏時刻法の規定と矛盾してしまいます (図の㋒)。 日付は無視して時刻部分だけ「中央標準時より一時間進め」るなら、 2回目の午前0時-午前1時が24時間ぶりに訪れたとも解釈できますが、大変不自然です (図の㋓)。
[51] 当時日本政府で夏時刻法を担当していた連絡調整事務局の文書には、 夏時刻から標準時に切り替える時刻は夏時刻の「午後十三時」 >>2246 とありました (図の㋑)。 2018年に照会された NICT (現在日本標準時を運用している政府機関) の担当者も、午後12時59分の次が翌日午前0時0分となったと回答しました >>2107。 ただその回答の根拠は示されていませんでした。
[343] 現代の文献は、24時間制で 24:00〜25:00 のように呼んでいる >>12, >>350, >>666 ことが多いです (図の㋐)。 しかし当時そのように表記したとする根拠は見当たりません。 この表記の古い用例として、 の読売新聞 >>432 がありました。
[295] 実際には、この時代に普及していたアナログ時計では、 深夜12時ないし就寝時に時計の針を1時間動かす方法で夏時刻への移行や復帰が行われました (>>49)。 「12時」に1時間戻すという時計の動きに忠実に従うなら、 「午後11時59分」のあと、12時になった瞬間に再び 「午後11時」が訪れたということになります (図の㋔)。 ただし、この方式では夏時刻法よりも1時間早く中央標準時に復帰したと解釈する (図の㋕) のが自然になってしまいます。
... と定められました >>1502 (図の㋗)。 これは図の㋔と同じですが、1回目の午後11時59分の次が再び午後11時0分となるのを、 区別して2回目の方に「(夏時刻)」とつけることになっています。
[170] 夏時刻法の規定により第25時間目の終了までが夏時刻ですから、 第25時間目を夏時刻と呼ぶことは間違っていませんが、 第24時間目までも夏時刻には違いなく、 また第25時間目は標準時とも一致する午後11時で、 夏時刻固有の特異な午後11時なのはむしろ第24時間目なのですから、 この表記には違和感があります。
[32] 琉球の法令では異なる表現が用いられました。 いずれも同じ時刻が2度繰り返されたことになり、 両者の区別の方法が存在したのか不明です。
[308]
同時期の大韓民国では、
子正に1時間進める、または戻すと定められました。
この「子正」が標準時なのか夏時刻なのかも明確ではなく、
日本の制度との正確な比較も困難です。
[317] 日本の本土では、 昭和23年から昭和26年まで、 中央標準時 を1時間進めた夏時刻 が実施されていました。
[18] 夏時刻法 >>13, >>14 によると、次のように夏時刻が運用されていました。
[147] Time Changes の JAPAN は、次のように示していました >>139。
[980] tzdata の Asia/Tokyo
は、
次のように定義しています >>159, >>64。
[47] 土曜日と日曜日の間に切り替えを行うのは全世界的な慣習ですが、 日本本土においてこれを踏襲したのは、鉄道ダイヤへの配慮 (>>171) でした。
[49] 日本政府は、夏時刻への移行について、 厳密には土曜日から日曜日に変わったに1時間進めるのだが、 一般には土曜日に就寝する際時計を1時間進めれば良い >>2246 としていました。
[50] 標準時への復帰については、 土曜日の「午後十三時」に1時間遅らせるのだが、 一般には土曜日に就寝する際時計を1時間戻せば良い >>2246 としていました。
[52] 「こんやの12時」に時計を調整して復帰するよう指示した当時の記録もあります >>513。
[199] 本項の他の章に示す通り、 初回実施前の検討や実施中の議論でも、 開始日や終了日についてはいろいろな案がありました。
[200] 切り替えの時刻については問題とされなかったようで、 代替案は見当たりません。
[228] 昭和のサンマータイムについては、 根拠不明の怪しい情報がいくつか流布されています。
[155] Shanks (1991 >>150, 2003 >>270) は日本のうち Asiya Air Force Base、Atsugi Naval Air Station (US)、Tachikawa Air Force Base、Yokosuka Naval Base (US)、Yokota Air Force Base (US) で夏時刻が実施され、それ以外では実施されていないとしています。 Shanks のデータにおける米軍基地とそれ以外の日本との違いはこの夏時刻のみであり、 Shanks は米軍基地のみ夏時刻が実施されたとする何らかの情報を得ていたのかもしれませんが、 不明です。 この時代には他にも米軍基地や英軍基地が設置されていたはずですが、 それらには言及がありません。
[156] tzdata は、Shanks を引用しつつ、
1951年に日本政府が世論調査で夏時刻を廃止したとの情報を根拠に、
米軍基地限定とは考えにくいとし Asia/Tokyo
に夏時刻を適用しています
>>159。
[622] tzdata の Asia/Tokyo
は、
の改訂 >>979 まで、
次のように定義していました >>159。
[158] Shanks (2003 >>270) と 2018年の改訂 >>979 以前の tzdata は、 切り替えの時刻をとしていました。 その根拠は不明です。夏時刻法と明らかに矛盾しており、誤りと考えられます >>157。 境界を2時とするのは米国式の制度であり、 GHQ や米軍基地が日本国内とは異なる制度を用いていた可能性も残りますが、 日本の本土のみならず米国占領地琉球や米国占領地南朝鮮・大韓民国でも0時を境界としていたのですから、 Shanks またはその情報源が誤解または根拠なく情報を補ったと推測する方が自然です。
[54] の日本政府の連絡調整事務局 (GHQ との連絡担当の部署) の文書は、 日本政府はと のに夏時刻を採用するとした上で、 「占領軍においても夏時刻を採用される由である」としていました。 >>2246 そもそも GHQ からの提案で連絡調整事務局が主導した夏時刻の実施方法が日本政府と GHQ とで異なっているとは考えにくく、 連絡調整事務局が何ら特記していない以上、 GHQ 独自制度は存在していないと判断するのが妥当でしょう。
[245] Shanks が米軍基地のみ夏時刻とした理由は不明ですが、 戸籍に記載された生年月日情報が夏時刻期間も標準時だったためではないか >>246 と予想されていたようです。 Shanks の目的は占星術で、 誕生の時刻の情報を換算するためのものでした。 (実際には戸籍の記載には夏時刻が用いられたようです。)
... としていました >>979, >>64。この古い定義では夏時刻最後の24時から25時までが標準時扱いになっていました (図 >>45 の㋕相当) が、 修正後は25時までが夏時刻として扱われるようになりました (図 >>45 の㋐相当)。
[91] これらの tzdata の変更は、より歴史的事実を正しく表現するための修正でしたが、 古い定義に依存していたソフトウェアが誤動作する事例がいくつか報告されました >>67, >>88。 (これ自体は珍しいことではなく、 tzdata の更新のたびに世界中で報告があります。仕組み上不可避の問題です。) また、新たな定義が25時を境界としたため、 Java 用の tzdata 処理プログラムなど24時より大きな時刻を扱えない (tzdata の暗黙の仕様を正確に実装したいなかった) ソフトウェアで問題が起こったことが多数報告されました。
[80] いくつかの Webページは、 4年目の昭和26年の終了について、 で「打ち切られた」としています。
[82] 夏時刻法に基づく本来の終了はと の間でした。 それが日本国との平和条約の締結により「打ち切られ」たというのです。
[105] 記載内容の類似性からその多くは Wikipedia >>2033 が大元と推測されます。 そうであるか断定できないものも含め、 すべてが大衆文化事典を出典としています。
[81] に出版された大衆文化事典は、 からまで実施されたものが、 極めて不評でに「打ち切られ」、 1952年から廃止となった >>102、 としていました。毎年開始と終了の日が違っていたことは本文から読み取れません。 Wikipedia と違って日本国との平和条約との関係性も言及がありません。
[106] 大衆文化事典は出典に 昭和の世相を挙げていますが、 昭和の世相には「打ち切られ」たというような記載は見当たりません >>145。 大衆文化事典は他に巻末の参考文献一覧を参照していますが、 サンマータイム以外の項目も含めて関連する数十冊の事典類や世相を取り上げた書籍を列挙しており、 昭和の世相以外に夏時刻を扱ったものがあるかは不明です。 いずれかに「打ち切られ」た旨の記載が含まれているのか、 あるいは大衆文化事典の独自の見解なのか明らかではありません。
[83] わずか1日終了を早める必要性は感じられず、 混乱の元にしかみえません。 (からで4日早めると考えても同じです。) 夏時刻の期間は法律で定められていますから、 その変更には法律の制定 (改正) が必要ですが、 条約締結を受けて国会で審議し、1日早めるというのはスケジュール的に無理がありすぎます。 実際そうした法律は制定されていませんし、 前後の官報にもそれらしき記載はまったくありません。
[152] は金曜日でしたから、 そこで「打ち切られ」たなら、金曜日と土曜日の間に標準時に切り替えられたことになります。 週休二日制実施の遥かに前であり、土曜日も勤務日でしたから、 それまでの土日間の切り替え以上の混乱に陥りそうです。
[84] 日本国との平和条約が調印されたのは、 サンフランシスコ現地時間のでした。 時差を考えれば日本では既に は終わりかけていたか、 になってしまっていたはずです。 には日本国の内閣総理大臣で首席全権の吉田茂が条約受諾の演説を行ったようです >>85 から、 それで締結がほぼ確定したといえるかもしれませんが、 日本ではの終わりかだったはずです。 条約締結を受けて夏時刻を「打ち切る」ことは、 物理的に不可能です。 締結だけで発効どころか批准すらしていない条約を根拠にするのもおかしな話です。
[87] 日本国との平和条約と夏時刻に直接の関係はありませんが、 日本国との平和条約によって GHQ が廃止され、 夏時刻継続の外圧が消失したのですから、 日本国との平和条約により夏時刻が廃止となった、 という表現は間違いではありません。 また、日界と時刻切り替えが重なるため、 夏時刻の期間は に終了したとも、 に復帰したともいわれます。 よく注意しないとこの1日のずれは容易に発生します。 伝言ゲームでいつの間にか終了が 終了にすり替わってしまった、 というのはありそうな話です。 これに日本国との平和条約の交渉がちょうど行われていたという情報が組み合わさって、 「打ち切られ」たという説に信憑性が付加されたといったところでしょうか。
[742] 大東亜戦争の終戦の後のの帝国議会で、 貴族院議員の向山均が電力不足に関する質問内で夏季時間の導入を求めたのに対し、 商工大臣の小笠原三九郎は検討中だと回答しました >>741。 もっとも小笠原は夏時刻についてピンときていないようで、 当人が推進していたのではなく商工省内で検討もされていたという程度なのでしょう。
[597] 日本本土の昭和のサンマータイム実施は、 GHQ 経済科学局長マーカット少将の覚書、 “日本におけるデーライト・セービング採用についての計画”に端を発するとされています >>598。これが何年のものかは不明です。
[11] 、 聯合軍司令部は、 日本政府の東京天文台長の関口鯉吉に対し、 夏時法の実施を「希望的意見」として口頭で示し、 意見を求めました。 関口は、 天文台として技術的問題は無いものの、 「我國社会ノ特殊事情」より実施の必要はなく、 移行時の混乱が予想されることから好ましくない、と回答しました。 関口は次のような見解を有していました。 >>2245
[25] 関口の反対に納得したのか、 あるいは他方面からも反対が多かったのか、 この年夏時刻は実施されませんでした。
[746] 、 総司令部連絡部から日本政府に対し、 デイライト・セイヴィング・タイム実施の公算が大きいとし、 準備を進めるよう連絡がありました >>634。
[29] 具体的な実施日の言及はありませんが、 この年の夏、すなわち連絡後早々にも開始することを目指していたのでしょうか。 しかし結局この年も夏時刻は実施されませんでした。
[775] 、 日本政府は夏時刻の実施を閣議決定しました >>1675, >>774, >>222。 当時の報道では、 を とし、9月一杯実施するとされていました >>1675, >>222。 終了時期が遅いですが、当初予定がそうだったのか、 不正確な報道だったのかは不明です。 実施の詳細はの閣議で決めるとされました >>222。
[223]
また、欧州の夏時刻実施国との調整のため船橋送信所から
11時と21時に国際報時を行うことになりました >>222。
欧州との調整というのがよくわかりませんが、
GHQ によって停止させられるまで海軍船橋送信所は
11時と21時の無線報時信号を送出しており、
これを夏時刻対応して再開する予定だったのでしょうか。
実際にはから
JJY に報時信号を載せる実験が始まり、
に正式運用開始となりました。
[747] には、 夏時間に⿵门󠄀关する件が閣議決定されました >>632。本件文書はからにかけてのいくつかのバージョンが残っており、 変更点が書き入れられたものもあります。
[748] 細かい点は変更が多いですが、大枠においては最終的な夏時刻法と同じ内容が既に含まれていました。 制度の呼称について、初期の版では日光節約時⿵门󠄀日 >>633 となっていましたが、最終版 >>631 では夏時間となっています。 頃に変更されたようです >>2201, >>630。 また本制度の時の呼称として夏季時や夏時 >>633 も検討されていたものの、 最終的に夏時⿵门󠄀日 >>631 となっています。 もっとも、それも仮称となっています。
[749] 初回実施は、をとすることになっていました。 以後の開始は4月10日前後、終了は9月10日前後 (初年は9月11日) とされていました。 終了を9月第3土曜日とする案もありました >>2200。 初年の開始日を と法律で定め、 終了日は政令に委任することも検討されました >>2200。 最終的にの次官会議で 4月第1土曜日と9月第2土曜日と決定しました >>2200。
[750] また特に制度上の措置が必要な項目として、期間計算、天文台の報時、 列車運行、労働時間・給与計算が挙げられていました。後の実施時には、 労働時間について政令で特例が定められましたが、それ以外の法的措置はとられていません。 列車については、国鉄の運行上調整が行われていたようです。 報時はもとより中央標準時によるものとなっていますが、 夏時刻法にはそれを否定しない規定があるため、それでカバーされているのでしょう。 法令上の期間計算については特別な規定がなされなかったのですが、 特に必要ないと判断されたということでしょうか。
[751] 付けの文書 >>616 では、 法律案として整えられた形になっています。要旨は閣議決定と変わっていませんが、 呼称が夏時刻に定まったことがわかります。
[777] 、外務省が からの夏時刻実施を告知しました >>776。
[752] 、 衆議院で川崎秀二が政府案に対する修正案を提示しました >>684。 これは内容としては変更がなく、法律としての体裁を整えるもので、 ここで最終的な初代夏時刻法が完成しました。 国会ではその他にはいくつか実施上の事項について質問があった程度で、 特別反対する意見もなく、スムーズに審議が進んだようです。
[753] そして衆議院ではのうちに >>695、 参議院ではに >>690 可決され、 法律第二十九号夏時刻法 >>13 として即日公布・施行されました。 の初回実施まで、わずか3日でした。
[46] 、 日本政府の連絡調整事務局は、 夏時刻法成立を受けて制度の解説 >>2246 を政府内に配布したようです。 ここでは夏時刻のメリットが次のように説明されていました。
[48] 本来の制度では4月の第1土曜日と翌日曜日の間に夏時刻が開始されることとなっていましたが、 この年は既に過ぎていたため、5月の第1土曜日と翌日曜日の間となりました。 ところがそれがたまたまと の間だったため、 4月と5月の間で切り替えるとの誤解が広がっていました。 連絡調整事務局は、 の日中は標準時のままであるとし、 各方面に訂正の協力を求めました。 >>2246 新聞でもこのことが取り上げられました >>598。
[16] 総理庁審議室と中央連絡調整事務局により >>1187 実態調査が行われました >>316。 付けのメモ >>315では、夏時刻制を継続するか廃止するか、 夏時刻制と政府執務時間の関係をどうするかが政府内部で検討されていたことがわかります。 結論としては、 節電に大きな効果が認められ >>1187、 夏時刻制を継続するべきとなったようです。 他に通年夏時刻 や、冬時間 、夏時間 のダブルサマータイムも候補に挙げられていましたが、 将来の研究 >>1187 に先送りされました。
[612] 政令第二百八十号 夏時刻終了の際における労働基準法の特例に関する政令 (施行) >>613 は、 夏時刻から標準時への復帰に伴い1日が25時間となる日が生じることに関連して、 労働基準法の労働時間の規制を1時間分緩和することを定めました。
[53] 終了時の特例の必要性は夏時刻法制定当時から認識されており、 夏時刻法の政令への委任条項が盛り込まれたのも労働時間の例外設定のためでした >>2246 が、 この政令自体の検討が始まったのは頃だったようです >>244。
[620] は閏時を含む25時間の日となり、 から中央標準時に復帰しました。
[624] 2年目である昭和24年は、初めて4月頭からの実施ということで、 開始時期が早すぎると実施前から議論になっていたようです。 には国会でも取り上げられました >>700。 政府委員は「終戦連絡事務局方面から関係方面に交渉」 したが延期とはならなかった >>700 と述べました。 日本政府と GHQ との間で協議が行われたものの、 GHQ が予定通りの実施を強硬に主張したものと思われます。
[625] 実施直前の、 国会の衆議院人事委員会は、 夏時刻開始を6月第1土曜日とする法改正を要望することを全会一致で決議しました >>697。しかし、流石に時間がなさすぎたのか、法改正には至りませんでした。 この決議の本文には含まれませんが、説明で 「そもそもこの夏時刻に対しましては、この前から実は各党各派とも反対であつた」 と述べられており >>697、「この前」がいつのことなのか判然としませんが、 国会の議事録上はスムーズに制定されたように見える夏時刻法が実はそれほど歓迎されていなかったことが窺えます。
[668] 同じくには、 政府機関の執務時間を変更する命令 (総理廳令第18号 政府職員の勤務時間に関する総理廳令(昭和24年総理廳令第1号)の特例に関する件, 総理廳令第19号 大正11年閣令第6号(官廳執務時間並休暇ニ関スル件)の特例に関する件) が制定されました >>629, >>671。 これは、元々執務時間が から である >>673 ところ、 この年限りでからの間は から と変更するものでした。 つまり、一度に1時間分業務開始を早めるのではなく、 二度に分けて30分ずつ開始を早めるというものでした。
[1029] そもそも夏時刻制は季節に関わらず表示上同じ時刻に固定できることがメリットだったはずで、 これを徹底するため前年にも政府機関の執務時間は変更しないと確認していたはずでした。 夏時刻実施延期が間に合わなかったための代替措置なのでしょうが、 このような移行期間という形態ながらも執務時間の方を変更してしまうことで、 早くも夏時刻制は破綻が明確になっていたといえます。
[1229] 当時の新聞は、 国民は不便を我慢しながら夏時刻に従っているのに、 公務員だけなぜ特例が許されるのかと強く批判していました >>1228。
[1682] 当時は公務員の始業時刻が で、 民間は が一般的だったため、 自然と時差通勤のような形になっていました。 ところが夏時刻初年には公務員の遅刻者が続出し >>1681、 出勤時刻の重なった鉄道は大変な混雑だった (>>1195) ようです。 2年目には正式に公務員の始業時刻も に改められたため出勤ラッシュは激化。 輸送力強化も限界で積み残しと負傷者が激増し 「通勤地獄」、「殺人ラッシュ」とまで報道されました >>1683。 しかもその報道の後、学校の新学期で駅の利用者が更に増えたといいますから、 予想もつかない混雑と混乱が起こったはずです。
[1206] この年の開始日は北海道から九州まで大変寒い日で、 札幌では積雪19cmに更に降雪があり、 仙台では気温-1°Cで炬燵で過ごすという「サンマー」 とは程遠い天候でした。当然国民には不評だったようです。 >>1204 新聞各紙も「寒いサンマータイム」を批判する記事を掲載し、 読者の反応が良かったといいます >>68。
[185] 、 日本の衆議院の人事委員会で、 衆議院議員の高橋權六は九州の視察を踏まえて夏時刻を九州では実施しないこと、 あるいは6月頃から8月頃までに限定することを提案しました >>138。
三月の記事としては、 「不人氣のサンマータイム」(共 同)、
四月から始まつ たサンマ ー タイム に對しては 「朝日」の「炬燵で迎えた夏時間」、「每日」の「冬姿 のサンマータイム」、「讀賣」の「夏時間、寒いふたあ け」を筆頭に共同ダネを採用した全國各紙も、揃つて 「寒いサンマータイム」を皮肉る調子の報道振りで、 これは國民の気持にうけたようである。續いて八日の 「朝日」は春寒異變を報じたが、最も早くこれを豫報した のは實は二月九日の「每日」であつた。
第006回国会 人事委員会 第11号
昭和二十四年十二月三日(土曜日)
午前十一時四十五分開議
出席委員
委員長 星島 二郎君 理事 小平 久雄君 理事 玉置 實君 理事 藤枝 泉介君 理事 吉武 惠市君 理事 中曽根康弘君 理事 加藤 充君 理事 木村 俊夫君 岡西 明貞君 高橋 權六君 柳津 義男君 松澤 兼人君 土橋 一吉君出席政府委員
(法制局長) 人事院事務官 岡部 史郎君○高橋(權)委員 私は先日から九州を国政調査でまわりまして、いろいろの労組の方、その他の方々に接して聞いておつたことが事実であることを確かめて参つたのであります。特にサンマー・タイムが行われておるのでありますが、これは東京と九州におきましては夜明けが一時間差かあります。ま’た日暮れも一時間くらい差がありまして、九州あたりでこの時間を励行されることになると、出勤する本人たちの苦労というものは、実に筆舌に盡すことのできないほどの苦労があります。また出勤するのに非常に遠路のところを交通機関もなく出て来るためには、非常に早起きをしなければならないのであります。今日寒冷地に対してはお手当もいただくように、われわれは盡力を申し上げたのでございますが、暑地の手当、こういうことは今日言うべきことではないかもしれませんが、こういう方面に対しても考慮すべきではないか。早く起きるということが一日か二日ならばよろしいのでありますけれども、何といつても毎日々々のことであります。非常に心労し、能率上非常に支障を来たしていることが多多あるのであります。まして長距離の通勤者のごときは、電車あるいは列車内における混雑、ラッシュアワーのごときに至つてはいすに寄りかかることもできないで、立ちづくめで数時間を要して出勤しておる。それだけですら労力を費し、出勤して事務に従事するときにはもうほとんど疲れ切つておるのてあります。帰りにおいてもまたその通りであります。出勤するところの本人もそうでありますが、家族のものはどうであるかと申しますと、それ以上に早起きをして炊事の準備に労力を費すのでありまして、特にいなかのごときは電燈などが非常にきゆうくつでありまして、一群大切な炊事時間に停電されて困難を来しておるのであります。そのためにろうそくのごときをともしまして、その結果が火事の原因になるというようなことが非常に多いのであります。でありますから、このサンマー・タイムを九州方面だけでも除いていただくようなお考えはないか。もしそれを実行して行かなければならないならば、六月ごろから八月ごろくらいの非常に日の長い時日のみに実行するような方法をしていただきたいという感じを持つておるものであります。皆さんからありがたい御同情のお話がありましたが、あながち賃金べースを上昇せしめるのみが、私は親切でないと思うのであります。賃金ベースどころではない。病気になつた結果、療養費に要する費用は大したものであります。そういう観点から出勤時間についての改良あるいは廃止というようなことに意を用いていただくことができるか。特にアメリカ人ですら東京都内の各所に行くのに夏時間というものはあまりよろしくないようなことを言つておるのであります。そういうところから、私は来るべき勤務時間を改正することについて、当局はどういうお考えを持つておられるか、承りたいと思うものであります。
○星島委員長 高橋君にお諮りいたします。が、サンマー・タイムの問題はよほど大きい問題でありますから別なときにこれを扱つていただきたい。直接この請願に関係ありませんから……
○高橋(權)委員 請願は一部であつて、これはずいぶん大きい問題です。
○星島委員長 何かその御答弁がありますか。
○岡部(史)政府委員 簡單にお答え申し上げますが、根本は実は夏時刻法の問題だと存じております。この夏時刻法のもとにおきまして、現在職員の勤務時間は四十四時間となつております。四十四時間を各勤務日に割当てることは、それぞれ総理庁令に一般的にはゆだねられておるわけであります。しかしわが国のような南北に長い地域におきましては、日没と日出の時間が地域によりまして非常に違うことも、高橋さんの仰せの通りであります。その間におきまして地方の実情に応じまして、勤務時間の四十四時間は総体においては変更いたしませんが、それを何時から始めて何時に終るかということは、地方の実情に応じて定める余地が残つておるわけであります。現に北海道におきましては、これも九州とは反対の事情があるわけでありますが、そういう事情のために、現在においても勤務時間を朝九時より六時までというように、特に例外を設ける、あるいはその反対に八時から四時半までとするというように例外を設けていることもございますので、そういうようなやりくりによりまして、九州地方の職員のために便宜をはかろうということは、現在の制度のもとにおいても可能でございます。それは考慮の余地があることでございますから、仰せの趣旨に従いまして考慮すべき問題だろうと存じます。
○高橋(權)委員 私は今当局から御答弁くださいましたようなことが、北海道において実現いたしておることであつたならば、私ら兄弟たち九州の人間でもみなお国のためには大いに盡しておるのでありますから、北海道にできることを今まで九州に行わせなかつたということは、当局があまりにも不親切であつたと思うのであります。事実先日の国政調査にはどなたもいらつしやらない。私ただ一人であつたから、党派を論ぜず労組の人は、共産党、社会党、民主党といろいろな党派に属する労働者の方にお目にかかつたが、私、年寄りであつたためでありましようか、ひとつもやかましくない。土橋さんのような、加藤さんのように、実に熱心に研究なさつた方も、あのじいやが来ておるからという意味からかしらぬけれども、おとなしく談笑裡に接していただいてお話はしましたが、そういう党についてはほんとうに感じたのでありますから、政府当局は、来年のサンマ一・タイムがだんだん近づいて参つておりますから、あとで言つても遅いことになりますから、来年度のサンマー・タイムの実施には実情に適応したようにしていただきたい。また寒冷地手当のことよりも、そういうことを望んでおる方が多いのでありますから、出勤する本人のみならず、家族の者の心労に御同情くだざいまして、一日もその実行の早からんことをお願いして、私の質問は打切つておきます。
[755] 3年目となる昭和25年、 法律第三十九号 夏時刻法の一部を改正する法律が公布、即日施行され、 夏時刻の開始が4月から5月に改められました >>14。
[756] この改正法案は、付の総理府文書に既に現れています。 国会では公聴会も行われ夏時刻自体についても国民から是非の意見の表明がありましたが >>682、それ以上に議論は深まらず、原案通りにに成立 >>674 しました。 (改正前の夏時刻法に基づく開始予定日は で、かなりぎりぎりではありました。)
[757] 夏時刻の開始を1ヶ月遅らせることになったのは、 4月初めにはまだ夜も開けきらないうちに活動時刻となること、 前年実績から4月中の節電効果はほとんど期待できないことが理由とされていました。
[183] 4年目である昭和26年には、 夏時刻に対する国民の不満の声がますます大きくなっており、 夏時刻制度の失敗は明白になりつつありました。 連合国との講和交渉も進行し、 GHQ から日本政府への国政介入圧力も弱まってきました。
[182] 日本政府は、夏時刻に対する国民の不満の高まりを受けて世論調査を実施し、 過半数の反対という結果を得ました (>>1115)。
[621] 5年目に当たる昭和27年、 法律第八十四号 夏時刻法を廃止する法律が公布、即日施行され、 夏時刻は廃止されました >>15。
[626] 本法律は、国会での日本国との平和条約発効に向けた諸法律の審議が行われるのに混じって提出されました。 どうやら夏時刻の廃止は既定路線となっていたようで、 衆議院に提出後直ちに可決 () >>688 されて送付された参議院でも 「労働委員会におきましても早くからこれが廃止をしたいということを考えて準備いたしておりましたことは御了承の通り」 >>693 と説明されていました。
[669] 本法案は内閣ではなく議員の提出 (議員立法) という形が採られましたが、 に同内容の法案が3件提出される >>687 という珍事となりました。
共産党が反米色の強い法案を提出したのに対抗して中立的な内容の他2案が提出されたようです。 結局18号と19号が「併合」されて衆議院で可決され、参議院へと送られて成立しました。
[675] 共産党は廃止法を通じて米国式制度導入の失敗を総括しようと試みたのに対して、 他党は単純に労働強化につながる結果となったことを廃止の理由としていました >>687, >>688。 いずれにせよ、この議事進行を巡る対立を除けば、 廃止すること自体には異論もなかったようです。
[1208] 当時の新聞は、予算や重要法案の審議も終わって国会議員も気が抜けて欠席も目立つ中での騒ぎだった >>1207 と伝えていました。 共産党と自由党その他の対立では、
共産党 太陽の時間まで、自分勝手に扱う自由党は、清盛以上だ
自由党 地下にもぐった共産党には、時間のことなどどうでもよかろう
廊下に笑声
... というやり取りがあった >>1207 といいます。
[758] 成立、公布施行ということで、 今回は夏時刻開始予定のまで1ヶ月の余裕がありました。
[623] には、 政令第百九号 夏時刻終了の際における労働基準法の特例に関する政令を廃止する政令が制定され、 夏時刻終了の際における労働基準法の特例に関する政令は廃止されました >>611。この政令は頃から用意されていたようです >>615。
[172] 古在由秀からの伝聞であるとする文書は、 文部省から東京天文台に送られた夏時刻の正式な中止の通達によると、 夏時刻の開始と終了の時期、 九州では児童の登校が日の出前になり、 文部省の通達に違反しているということが国政で問題となり、 夏時刻を中止することとなった、 としていました。 >>1812 古在由秀は当時東京天文台職員で、後に東京天文台長も務めた人物でした。
サンマー・タイム取止め自由党今国会に法案
提出: ...
お送り戴いたメール文をそのまま紹介します。
ぐんま天文台長の古在由秀さんより、以下のような情報がありました。
(1)終戦直後のサマータイムは、その末期、一般の一部が現在誤解しているように、「立ち消え」になったのではなく、正式な中止通達が、東京天文台へは彼らの上層部である当時の文部省からきちんとした形で流されていた。
(2)その正式文書では理由づけはたった一つだけであり、確かに世間一般の目を引く派手な内容ではなかった。
(3)すなわちそれは九州の寒村の、児童の通学時間の長い学校の関係者より、「サマータイムのシーズンの最初と最後の期間が、『児童へ、日の出以前に登校の為の出宅を強いるような時刻設定を禁止する』文部省の通達に違反しているにもかかわらず、サマータイムの実施で、九州ではしばしばそのような状態になってしまっている。」という苦情があり、国政レベルでそれが取り上げられたという内容であった。
(塵星)
衆議院 では第 13 回国会に「夏時刻法を廃止する法律 案」が、当時の自由、改進、共産の3党から 同時に個別に提出された。これは敗戦直後の 占領下において、占領軍の習慣に合わせて実 施を強制されていた夏時刻の制度を、独立回 復後に早々に廃止することにしたものである が、全く同一内容、同一字句の3案は、衆議 院でともに労働委員会に付託された。そこで 自由、改進の両党案は併合修正されて(併合 しただけで字句の変更はなし)一案となって 成立し、共産党案は議決不要として処理され た。
[43] 米国支配下の琉球では、夏時刻 (夏季時刻、夏季時間、日光節約時間、夏期時間、サンマタイム) が実施されました。
[302] 当時の琉球列島は、 日本政府の統治権が及ばず、 日本本土の新しい法令は適用されませんでした。 しかも4つの地域に分割され、 それぞれ別個の行政府により分断統治されていました。 夏時刻も、 本土の夏時刻法は適用されず、 各地域それぞれ、 しかも恒久法ではない単発の法令で施行されました。
[197] 時期に微妙な違いがありますが、誤りなのか実際地域により異なったのか不明です。 また終了日だけが示され時刻が示されていない場合、夏時刻最終日を表すのか冬時刻開始日を表すのか不明です。
[239] 1946年と 1947年に実施されたのかは不明です。 周辺諸地域で実施例がなく、実施されなかったと考えるのが自然です。
[968] 八重山民政府告示第30号は、 この日より時刻を1時間進めることとしました >>965。 これは南部琉球軍政府のマクラム軍政官から、 軍政府がに1時間進めた、 との通知があったことによるものでした >>965。 民政府からの通知文は付になっており、 軍政府が急遽実施したものが住民に知れ渡るまで数日の時間差があったのかもしれません。
[970] 八重山民政府告示第51号は、 をもって標準時に復帰するとの南部琉球軍政府からの通知を周知するものでした >>969。15日に告示されても既に過ぎてしまっているわけですが、 米国南部琉球軍政府からの通知文の日付も13日になっています。
[966] 20世紀末にまとめられたと思われる石垣市の年表は、 から まで夏季時刻 (サマータイム) が用いられたとしていました >>44。
[291] 21世紀初頭の書籍によると、 奄美では から まで夏時刻が実施されました。 >>289
[238] 1949年、1950年の臨時北部南西諸島政庁や1948年-1950年の沖縄民政府の公報には (すべて調べられたわけではありませんが) 同様の文書は見当たりません。 実施されなかったのか、公報に掲載されなかったのかは不明です。
[303] 1949年については、 南西諸島のどの地域でも、 夏時刻が実施されたと確定できる資料が見当たりません。 一方で実施されなかったとする証拠も見つかっていません。 この年も日本本土と大韓民国では夏時刻が実施されていました。 南西諸島でも実施されたのか、 それとも何らかの理由で実施されなかったのか、 はっきりしません。
[304] 奄美の当時の政治や社会の様子を網羅的にまとめた書籍 >>289 は、奄美では少なくても3回 (= この年以外) 夏時刻が実施されたとしていました。 出典は明記されていませんが、当時の新聞などの資料を調査した結果とみられます。 「少なくとも3回」 >>289 とある通り、 記録が見つかっていない夏時刻が実施された可能性を著者も否定はしていません。 1年だけ、しかも南西諸島だけ、 夏時刻が実施されなかったというのは不審です。 一方で、実施されたのに痕跡がまったく残っていないとしても不審です。
[972] 、米国の八重山軍政府は、 より標準時に復帰することを指示しました >>971。 相変わらず当日になってからの通知ですし、 は月曜日であり、世界的な慣例 (土曜日深夜・日曜日早朝) からずれているのですが、週が開けてから慌てて復帰したということでしょうか。
[967] 20世紀末にまとめられたと思われる石垣市の年表は、 から まで夏季時刻 (サマータイム) が用いられたとしていました >>44。 開始日が他の資料と大きく異なっており、 の誤りでしょうか。
[292] 21世紀初頭の書籍によると、 奄美では から まで夏時刻が実施されました。 夏時刻を詠み込んだ和歌が伝わっています。 >>289
[293] 21世紀初頭の書籍によると、 奄美では から まで夏時刻が実施されました。 >>289
[237] 日本本土の実施時期とは、ずれがあります。
初回1948年の実施時期は南朝鮮と一致します
(
[229] 昭和のサンマータイム時代はまだ日本本土と琉球との民間貿易が認められなかったため、 日本本土や琉球の住民が相互に行き来することは (密貿易を除き) ほとんどなかったと思われ、 夏時刻切り替え期に一時的に時差が生じたとしても、 大きな問題にはならなかったのかもしれません。 日本の国会の夏時刻法案の審議でも、 琉球との関係は全く話題にならなかったようです。
[294] 当時の沖縄や奄美の住民が夏時刻をどう考えていたのか、 実態を伝える資料や証言はほとんど見つかっていません。
[249] 中央標準時でも既に30分程度の通年夏時刻に相当している南西諸島の住民にとって、 日本本土以上にサンマータイムは不都合も多かったと推測されますが、 その実態は解明されていません。
[298] 日本本土でも GHQ の厳しい検閲が実施され、 夏時刻に対する不満はほとんど報道されませんでした。 (本土の項参照。) 米軍の直接統治下にあった南西諸島の住民は、 より厳しい状況に置かれていたとみられます。
[301] 奄美大島では、 報時のためのサイレンが1日数回鳴らされていました。 試行錯誤があったようで、 鳴らされる回数は頻繁に変更されていました。 夏時刻実施に伴う変更とされるものもありました。 >>289
[219] 日本本土が夏時刻を廃止した 1952年以後、 琉球でも同様に中止されたのかどうかも、 不明です。 日本と琉球の時差への言及がほとんど見つからないことから、 独自で実施した可能性は低いとは思われます。
[689] 琉球での夏時刻実施には、統治者である米国 (米軍) の意思が強く働いていたものと推測されます。 日本本土も大韓民国も、1952年以後夏時刻は実施していません。 1954年の大韓民国の標準時改正には米軍は反対しています。 つまりこの時期の米軍は同一の時刻を用いることに重大な関心を持っていたと思われますから、 琉球のみで夏時刻を継続したとは考えにくいでしょう。
[92] 日本本土と同じく奄美や沖縄県でも、 サンマータイム実施は徐々に人々の記憶から消えていっているようです。 過去のサンマータイムのことが話題になることはあまりありません。 さらに、日本の過去のサンマータイムを紹介する場合であっても、 琉球のサンマータイムにまで言及される例は本ウィキ以外では見たことがありません。
[299] 奄美の夏時刻については、 当時の奄美の政治や社会の情勢を総合的に整理した書籍が 21世紀に入ってから出版され >>289、 夏時刻が実施された期間が掲載されました。 他に、 奄美の歴史を扱った本の年表部に夏時刻の開始や終了の日を示したものがありました (図書館で見ましたが、書名は忘れました) が、 その書籍 >>289 よりも情報が不十分なものでした。
[300] 沖縄のこの時代について扱った本は奄美より遥かに多いのですが、 どうにも戦闘や復帰運動や米軍基地が話題の中心になりがちで、 人々の生活実態に関するものは多くありません。 夏時刻に言及したものはまだ見たことがありません。 (沖縄県史や市町村史になら書いてありそうなものですが、 図書館の開架にあるものをいくつか拾って覗いてみても、 見つかりません。 市町村レベルだと、 当時の新聞記事の集成の巻があっても、 当該市町村に直接関係しない記事は (不採録記事リストにすら) 載っていなかったりするようです。 夏時刻は地域全体に適用され、 当該市町村に特に指定されるものではないので、 対象から漏れてしまうようです。)
[226] 計算機ソフトウェアなどで過去の日時を取り扱う場合、 日本本土のサンマータイムは (切り替え前後の扱いなど何かしら問題はあったとしても) それなりに扱えることが多いですが、 琉球のサンマータイムを扱えるものは見たことがありません。
[305] 昭和時代末期、米軍基地では「サマータイム」が実施されました。
夏時刻制度でなく、夏季業務時間制度とみられます。
▲特別告示第二號
軍政府長官の指令に依り日光節約時間の件(北部南西諸島軍政府指令一九四八年第六號)を次のように告示する
一九四八年六月一日
臨時北部南西諸島
知事 中江實孝
北部南西諸島軍政府指令
一九四八年第六號
日光節約時間の件
北部南西諸島に日光節約時間制(夏期時間制)を實施するため、 一九四八年六月一日午前零時を期し、本諸島に於ける一切の時間を一時間進める様指令す
一九四八年六月一日
北部南西諸島軍政府長官
砲兵中佐
ヘンリ・ビ・ジョセフ
特別告示第四號
北部南西諸島軍政府長官の指令に依り日光節約時間の件(北部南西諸島軍政府指令一九四八年第八號)を次のように告示する。
一九四八年九月八日
臨時北部南西諸島
知事 中江實孝
北部南西諸島軍政府指令一九四八年第八號日光節約時間(サンマタイム)制の件
一九四八年九月十二日午前零時を期し、北部南西諸島軍政府指令一九四八年第六號はこれを廢止し、 本諸島内の一切の時計を一時間遅らせる。
一九四八年九月八日
北部南西諸島軍政府長官
歩兵大佐 ヒユー・デイ・アデア
サンマータイムは来る十三日(月)より解除元通りになる。
◎サンマータイムの切りかへは来る十三日(月)午前〇時から。
○新里銀三君 第五条の興行時間は十一時限とあるがサンマータイムの十一時では興行に支障ありませんか。事実田舎等では午前の一時頃までやっているようですが、何んとか出来ませんか。
1948 (昭和23年)
6月1日-9月11日 サマータイム実施
1950 (昭和25年)
5月7日-9月9日 サマータイム実施
来る六月二十 六日(月雄)予前拾時(サンマータイム)常事務所に於てセメントブロックの入札があります から武希望の方(企業免許を得たる者に限る)は基の時間逸に入札して下さい
左記により本日護告別式を行いますので謹告申 上げます時闇(サンマータイム)正午よッ一略まで於松川七班自宅五時より六騎まで
349 ページ
... 島田知事以下機寝神爆懸殿員層露祭は像て六月二十日、執行する処六月二十五日 、執行する事になりました A ら右御了承の上御参列kmいます一、日時及場所費一時騎 斧いて二シ合場所郡観、首属附近及中部北部地区より御出の方は賞日サンマータイム
...
1948/06/01
【八重山の部】夏季時刻使用。
1948/09/12
【八重山の部】夏季時間使用終る。 足祭り開催。
1950/05/06
【八重山の部】夏季時刻使用。
1950/09/08
【八重山の部】夏季時刻使用終了。
昭和23年(1948)
6月01日 夏季時刻(サマータイム)使用(~9月12日まで)
昭和25年(1950)
5月16日 夏季時刻(サマータイム)使用(~9月9日まで)
48年には時報サイレンが鳴るようになる。この年はサマータイムを実施。50年4月からは朝5時から夜の10時の5回。51年2月、それまで中止していた吹鳴が復活する。この年もサマータイム実施。7月からはサマータイム実施のために吹鳴時間を朝の5時から7時に変更している。
p.8 (ページ表記なし、巻頭写真ページ)
奄美タイムス(号外)
1953年12月24日(木曜)
〝復帰〟四時間後に迫る
今夕返還協定調印
pp.142-145
■1949(昭和24年)
12月31日付沖縄タイムス 「新か旧か戸惑うお正月」 婦人連合会長「新暦に統一したいという意見はあるがまだ実現しないのでまちまち」
■1950(昭和25年)
1月1日付沖縄タイムス 「旧正月について」 「わづかに新年をやるのは都市や官公街に勤めている人々の家庭」 「行政的に一定にまとめる必要はないものかどうか」
■1951(昭和26年)
11月4日付琉球新報 「正月は新暦で」
p.327
(2) 生活
①音またはサイレン 定時になると名瀬の町にサイレンが響く。役場屋上の報知用サイレンが鳴る。 46年2月は午前6、8時、正午、午後1、5、9時の6回。 47年4月からは6時が朝の5時と1時間早くなっている。 冬にはまた6時に戻る。 48年には時報サイレンが鳴るようになる。 この年はサマータイムを実施。 50年4月からは朝5時から夜10時の5回。 51年2月、それまで中止していた吹鳴が復活する。 この年もサマータイム実施。 7月からはサマータイム実施のために吹鳴時間を朝の5時から7時に変更している。 52年4月には、また朝5時から10時までの6回。 この時期、朝の5時から夜の10時まで、 6回サイレンの音が鳴っていた。 町に時を告げ、 時を刻んでいた。 復帰前から広告宣伝会社や映画館の騒音に悩む市民は少なくなかった。 復帰後に名瀬に住んだ島尾敏雄は騒音への苦情を雑誌に書いている。 58年におがみ山山頂にコンクリートのグランドピアノが建った。 平和のサイレンと時の市長が呼んだミュージックサイレンは朝の6時、正午、夕方5時と晩の9時の4回、 メロディーを奏で、市民に時を告げる。 もっともその後の故障続きで、苦情が出て、 撤去されたのだが。
②サマータイム 米軍政下にサマータイムは少なくとも3回実施されている、 1回目は48年6月1日から9月11日の103日間。 2回目は50年5月7日から9月9日の126日間。 「傘ささずサンマータイムに急ぐ子のかばん重げの姿消えたり」 (高岡雪江)、 「戸をもれてしらみゆく空を仰ぎつつ朝はせかるるサンマータイム」 (村中一枝) と短歌にも詠まれた。 3回目は51年5月6日から9月8日の126日間。
p.331
46年5月に大島の祝祭日を決定した。
51年1月から年齢を満で数えることになる。
pp.333-342 (抜粋)
■1946(昭和21年)
2月8日 サイレン吹鳴 (午前6、8時、正午、午後1、5、9時の6回)
5月27日 大島の祝祭日決定
■1947(昭和22年)
4月1日
サイレン吹鳴 (午前5、7時、正午、午後1、5、9時の6回)
12月1日 サイレン吹鳴 (午前6、8時、正午、午後1、4、9時の6回)
■1948(昭和23年)
6月1日-9月11日 サマータイム実施
この年 時報サイレン吹鳴 (それまでは役場屋上の報知用サイレン)
■1949(昭和24年)
11月2日 サイレン吹鳴 (午前6、8時、正午、午後1、4、9時の6回)
■1950(昭和25年)
4月1日 サイレン吹鳴 (午前5、7時、正午、午後5、10時の5回)
5月7日-9月9日 サマータイム実施
「傘ささずサンマータイムに急ぐ子のかばん重げの姿消えたり」 高岡雪江
「戸をもれてしらみゆく空を仰ぎつつ朝はせかるるサンマータイム」 村中一枝
8月16日 サイレン吹鳴 (午前6時、正午、午後5、10時の4回)
■1951(昭和26年)
1月1日 年齢を満で数えることになる
2月13日 しばらく止めていたサイレン吹鳴復活 (午前8時、午後1時の2回)
4月1日 サイレン吹鳴 (午前5、7時、正午、午後1、5、10時の6回)
5月6日-9月8日 サマータイム実施
7月1日 サイレン吹鳴 (午前7、8時、正午、午後1、5、10時の6回。 サマータイムによる変更)
■1952(昭和27年)
4月20日 時報 (サイレン吹鳴、午前5、7時、正午、午後1、5、10時の6回)
■1953(昭和28年)
6月10日付南海日日 「待つな待たすな皆の時間」時の記念日標語
7月15日付南海日日 よみがえる六月灯今年から盛大に
7月29日 六月灯
[362] 奄美復帰史, 村山家国, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9769087/1/292 (要登録) 左下
[1039] 初年の夏時刻開始直後には、 「銀座の服部時計店の大時計が正午をすぎるまで古い時間でカネをならし見上げる銀ブラたちを戸惑わせていた」 >>1203, >>429 など時間の違いに戸惑う人々が見られた >>1203 ようです。
[166] 国民はすぐに夏時刻に慣れることはできず、 「夏時刻の○時だから標準時だと○時」 といったような思考から抜け出せない人もいたようです >>352。 予定の時刻に遅れてくる人も少なくなかったようです >>1635。
[77] 祭事など野外の活動の時刻は従来のものと変更が必要になったりもしたようです >>2096。
[178] 両国の花火は明るいうちに打ち上げられました >>2000。
夏季時間を実施
來月一日から九月一杯
政府は九日の閣議で今夏サンマー ・タイムを採用することに決定、 実施要領はさらに十三日の閣議に はかつたうえ國会の承認を得て実 施するが、サンマー・タイム実施 期間は五月一日から九月一ぱいの 予定で、普通時間との切換え方法 は実施日の午前零時をサンマー・ タイムの午前一時に繰上げるほか ヨーロッパのサンマー・タイム実 施國と時間をあわせるために船橋 の送信所から十一時と廿一時に國 際報時を行う
この実施によつても出勤時間面 には変更はないが本質的には一 時間早まるわけで、問題は列車 ダイヤをどう改正するかにある が、運輸当局では時間を一時間 繰上げるとすればその際のうつ り変りのダイヤだけを一部修正 すればよいので実施前夜は十八 時ごろからの出発列車をその日 だけ一時間繰上げて発射させ、 実施当日は一時間の延着扱いと し翌日からは普通ダイヤの運轉 にもどす方法が考究されている なおサンマー・タイム実施によ る石炭、電力など光熱資源も相 当の節約が出來るものと期待さ れている
サンマー・タイムとは
夏の 季節 を日光にしたしみ、われらの社会 生活を能率的ならしめようとする 〝 夏季時間〟はすでにイギリスをは じめ北欧の諸國では一九三二年か ら國家的に採用し経済的にもかな りの成果をあげている、サンマー・ タイムは正確にはデーライト・セ ービング・タイム(日光節約時間) といゝ太陽の照射時間の長い六月 のはじめから九月末までの四ヶ月 の間を巧みに時計の針を一時間繰 り上ることによつて工場の銀行の 会社の商店の窓口を高度に能率化 して行くというのがねらいだ、本 社でも昨年六月このサンマー・タ イムの可否を世論に問うた結果可 五四・三パーセント、否三七・〇 パーセント、中間八・七パーセン トの結論を得ている
我輩幼少のみぎり、これを体験した。
あれは、小学校の夏に入ったとき、校長先生が全校生徒を集めて(といっても小中学校生合わせて200人弱)「明日からサンマータイムになります。今晩は寝る前に時計を1時間早くしておいてください」
純真無垢な小学生は、言われた通り時計を1時間早くして寝た。その前に姉がやはり早くしたのを知らず。おかげで、当家は前日にくらべて、2時間も早くサンマータイムに入り、誰もこない朝のラヂオ体操に出かけていた。
この文を書くにあたり、調べてみた所サンマータイムは昭和23年から5年続いたとある。たぶんGHQ(占領軍)あたりからの指示だったのだろう。よく「普通の時間にすると、、、、、」なんて言葉を聞いたことがあるから、完全に定着したものではなかったものと見受けられる。
「サンマータイム」が導入された1948年5月2日付毎日新聞の記事は以下のとおり
目が覚めたら夏時刻 時計の針は進めましたか
今日(二日)からいよいよ夏時刻、時計の針は進めましたか……
今朝の日の出は五時四十九分、日の入りは七時廿八分--これになれるまでは太陽の高さで時刻をはかると錯覚を起こすことがあります、國鉄以下各私鉄も(二日の長距離列車の一部を除く)きようからいままでのダイヤをそのまま夏時刻にあてはめ、ラジオのプロは朝九時五分から十五分までの気象通報が九時五十分から十時までとなり、九時半から十時までの邦楽の時間がぬけるほかは変りはない、ここで例外は天文台、気象台や学術関係の精密な記録には従来のグリニッチ標準時や日本標準時が使われる、気象台の船舶向け無線気象通報は従来の通りグリニッチ標準時が使用されるので漁船などの夏時刻ではいままでの時間より一時間遅れてキャッチしなければならない、九日の礼文島の金環食も標準時で観測されるので一般の時計では一時間遅れになるわけだ。
「小学生の頃はサンマータイムといって、土曜、日曜は学校が休みだったのよね。
その代わり、土曜日記を書くのが宿題だったけど、私はいつもさぼっていたから大変よ。
月曜日の朝に大急ぎで書いったっけ・・・・」、
私の言葉にうなづいたのは、18年生まれのすぐ下の妹だけで、20年と22年生まれの妹たちは、
まるで知らないという。
1941年生まれの私は、ちょうど小学1年生の頃からサンマータイムを経験していたことになる。
だとすれば私と同い年の人は、皆覚えているはずなのに、ほとんど誰も知らないのは、どうしてなのだろう。
1948年(昭和23年)4月28日に公布された夏時刻法に基づいて、同年5月から毎年(ただし、1949年(昭和24年)のみ4月の)第1土曜日24時(= 日曜日1時)から9月第2土曜日25時(= 日曜日0時)までの夏時間を実施していた(詳しくは夏時刻法を参照)。
実施期間を正確に記すと、条文のとおり、5月の(ただし、1949年のみ4月の)第1土曜日24時(=日曜日1時)から9月第2土曜日25時(=日曜日0時)までである。
1948(昭和23)年9月11日、戦後に初めて実施された1年目のサマータイムがこの日で終了した。時計の針を1時間進めて生活していたが、学校で「今夜の12時から元に戻ります」と児童たちは教えられた。連合国軍総司令部(GHQ)の指導により、夏時刻法に基づいてこの年から4年間だけ全国で実施された。
教室の写真あり、時計の針を動かす人、黒板には
さんまーたい
こんやの十二時
からもとへもど
(下部は見えない。)
家を整理していて、70年程前の綴りがでてきた、それはわたしの母の婚儀諸綴であるが、それをりを見ていると、サンマタイム實施に付御通知と書かれた資料に目がとまった。そこには、「サンマタイム實施により1時間繰り下げる・・・・」と書かれていた。
サンマタイムは節分でもないのに、サンマを食べる時間?と思ったが、よく読んでいくとGHQの指令で昭和23年5月2日に実施されたサマータイムのことで、5月2日から導入されることになっていた。結婚式は5月15日だったので、前に連絡した時間を1時間繰り下げて実施するとの緊急の連絡文書でしす。
サマータイムも戦後のGHQの力によって実施されましたが、東西に長い日本では非現実的な生活リズムとなってしまう地域がある為に、問題となり数年で廃止された経緯があるので、おそらく今後も実施はされないでしょう。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
サマータイム
日本では 1948年5月の第1土曜日を 23時で打切って翌日曜日の午前0時とし,9月の第2土曜日を 25時までとして実施され,以来毎年行われたが,不評のため 52年に廃止された。
齋藤茂吉の代田への居住は昭和二十二年十一月四日からである。そして、昭和二十五年十一月三日十四日、新宿区大京町二二の新居に移った。
いつしかもサンマ・タイムになりゐたる代田の森空のありあけの月
1949(昭和24)年4月3日、GHQの指導で前年からスタートしていた夏時間がこの年も始まった。
[404] >>403 時計店?で時計を進めるセレモニー?の写真あり。
[1033] <あのころ>サマータイムを実施 時計を1時間進める|BIGLOBEニュース (2018/4/3 08:00 ©一般社団法人共同通信社 ) https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0403/kyo_180403_5792635912.html
椴法華村でもこの時実施され、いつも早起きの漁師達はあまり影響されなかったが、月給取りと称される役場職員・先生・郵便局員等は、実質的に一時間勤務時間が延長されたような感じであったと云われている。
午後四時十三分(当時サマータイム同五時十三分)、マグニチュード(M)7・1の直下型地震が嶺北地方を襲い、倒壊家屋は三万四千棟を超えた。
昭和27年の「博多祇園山笠今昔物語」にはサマータイム(表記はサンマータイム)が実施されていた時代の櫛田入りの時間が5:59になっていたりと、大変興味深い資料が展示されています。
93歳になった落語芸術協会の最高顧問、4代目・桂米丸師匠が、約70年前の“苦い記憶”を振り返る。
「前にサマータイムが導入されたのは、ちょうど私が師匠・古今亭今輔の前名である桂米丸を襲名した頃でした。“社会全体が能率的になる”という話でしたが、寄席では厄介なことが起きましたよ。始まる時間を勘違いして1時間遅れで会場に来てしまうお客さんが、大勢いたんです。そうしたお客さんたちから、“もう終わっちまうのか”と不満をいわれ、閉口しましたよ」
導入2年目の1949年に中日ドラゴンズに入団した元プロ野球選手の杉下茂氏(92)は、アスリートの立場から「サマータイムは暑さ対策にならない」と話す。
「当時のプロ野球は、デーゲームしかありませんでした。試合開始は午後3時。とりわけ名古屋はやたら気温が高くて、とにかく暑かった記憶しかない。試合の時間が1時間や2時間ズレたところで、選手にとってあまり変わりはなかったですよ」
[361] 回顧と展望 : 大阪家庭裁判所創設20周年記念出版, 大阪家庭裁判所創設20周年記念出版委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12016206/1/202 (要登録)
[364] 栃木県教育百年のあゆみ, 執筆・編集: 雨宮義人 [等], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12113552/1/71 (要登録)
[171] 土曜日と日曜日の間に切り替えを行うのは全世界的な慣習ですが、 日本本土においてこれを踏襲したのは、 「最初の日と最後の日の翌日の半日位は鉄道のダイヤに影響が残るので休日の日曜日ならその影響によつて起り得る混乱が最少限度ですむと考えたから」 でした >>2246。
[346] 鉄道は、夏時刻実施中も通常ダイヤを(ずらした時間を使って)そのまま用いました。 ただし切替時の長距離列車は特別な扱いがなされたようです。 >>354
[198] 初年開始時には、 最初の日に合わせ、前日の一部列車の運行が1時間繰り上げられました >>193。
1948(昭和23)年9月12日付京都新聞山城版↓
京阪 バス ではサンマータイムが十二日からまた 元の標準時間に切り替えられたの で従前通りの時間運行に復した、
七日午前零時に時計の針を一時間進めるのが正しいわけだが、一般家庭では今夜寝る前に一時間進めておくのが一番いゝ、国鉄列車のダイヤの一部が昨報のように六日夜から七日にかけて変るほかは今年はサンマー・タイムへの切換の影響はない
列車時刻は日本中央標準時で表示したが,当時は夏時刻というものを使っていた関 係上,誤解を防ぐ意味で括弧内にこの時刻をも併記しておくこととした。
[327] 鉄道技術発達史 第5篇, 日本国有鉄道, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2423741/1/81
[353] 小原国芳全集 第24 (教育講演行脚,身辺雑記 第4), 玉川大学出版部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3035929/1/114 (要登録) 左上
[358] >>353 時間切り替えのため余計に発車を待ったとの体験談。昭和25年。
/35 には「サマータイムとはいえおそくまで・・・」という昭和24年の話も。
[345] 夏時刻実施当時は深夜のラジオ放送が行われておらず >>344、 夏時刻切り替えが放送中に行われたことはないようです。 標準時期間と夏時間期間とでは、番組の編成が一部異なっていたようです >>354, >>351。
[95] 当時 NHK はラジオ放送の聴取者数千人を対象に調査を行いました。 の調査では、 の調査と比べて聴取率が全般的に低下しており、 サンマータイムの影響とされています。 夕方から19時半頃までの番組が特に聴取率が低下しており、 遅くまで野外にいるためラジオを聴取しなかった反面、 21時頃から22時頃はほとんど聴取率が低下していませんでした。 >>69
[96] の調査では、 聴取に都合の良い時間が次の通りとなりました。 >>69
平日・時刻 | ||
---|---|---|
19:00 - 19:30 | 79% | |
19:30 - 20:00 | 47% | 83% |
20:00 - 20:30 | 67% | 77% |
20:30 - 21:00 | 74% | 70% |
21:00 - 21:30 | 73% | |
21:30 - 22:00 | 63% |
サンマー,タイムの冏題:ま,農村方面では夜閒唯一の 11 ^とし" 0 ^、る娯楽放聴けなレ、 からサンマ- ,タイムは廃止して欲し、、との要^ ^圧倒的に多かった。
最後に「HNKで放送終了を一時間繰り下げたような愚は二度と繰り返さぬことだ」とあるのは、せっかくサマー・タイムを実施したのに、放送終了時間を実施前の時間に合わせてしまったのだろう。「愚」だな。
引用:『ものしり事典』(風俗篇上、下/日置昌一著/河出書房/昭和27年12月10日再販発行)
画像:朝日新聞/昭和23年9月2日朝刊
[1038] 日本政府の中央気象台は「夏時間では」と注釈しながら解説していた >>1203, >>429 ものの、業務自体は一貫して中央標準時を用いており、 職員は2つの時刻を使う必要があって苦心していたようです >>1203。 気象台前で堀に向かって設置された大時計は夏時刻となっていました >>1203。
[57] 日本政府の東京天文台の暦では、 計算に中央標準時が用いられ、その旨の注釈が付されていました。 >>2244
[58] その他全国の大学等の研究施設では、論文の記述を見る限り、 夏時刻を採用したものと一貫して中央標準時としたものが混在していました。 どちらの時刻か明記がなく現在となっては断定し難いものも少なくないと思われます。
[202] 当時の少年雑誌に掲載されていた日食の時刻は中央標準時で、 特に注記もありませんでした。 >>201 (出版スケジュールに間に合わなかったのかもしれません。)
観測時刻は夏時刻施行中だが日本標準時に依つたことを附記する。
時間はすべてサンマータイム。
時刻は何れもサマータイムである
但時間は夏時間
時間はすべて夏時間で示した
9月8日 で夏時間が終ったが,9月8日 までは時刻は夏時間で 表わし,9月9日 以後は裡準時間で示した
時間はすべてサンマータイム。
之等の測定時刻ぼ夏時刻ではない
夏時間の21.00~22.30
時間はサンマータイム。
火災發生の時刻別統計を第4表に掲げる。此表では 夏時刻も標準時と變らないものとして修正しなかつた。
第4表 各種原因火災發生の時刻別變化 (昭和22~25年統計)
4月の第1土曜日に次ぐ日曜日は、午前0時より1時までの1時間が消滅し、9月の第2土曜日の午後11時より、翌日曜日の午前0時までが2時間となります。
たとえば、昭和23年の場合、5月1日午後12時(中央標準時)=5月2日午前1時(夏時刻)となり、9月11日午後13時(夏時刻)=9月12日午前0時(中央標準時)となります。
なお、暦象年表では夏時刻はまったく用いられていません。
昭和25~27年の暦象年表には「本年表に記された時刻は、特にことわらぬ限り、すべて中央標準時で、夏時刻は本書では全然之を用いない。中央標準時を夏時刻に換算するには、前者に1hを加えればよい。」と注釈されています。
暦要項の前身である暦象事項抜粋にも、昭和26年・昭和27年には「以上の時刻は、すべて中央標準時である。」という注意書きが書かれています。
[167] 日本政府の法務府は、 民事甲第2384号民事局長通達 戸籍の届出及び記載に関する夏時刻の表示方について により、戸籍における夏時刻の最終日の日付の表記方法 (>>169) を定め通達しました >>1502。
[168] 本通達は3年目の昭和25年の終了時のもので、 従来の方法のようなものへの言及がなく、少なくても戸籍業務においては、 それまで国レベルで統一された方法が定められたことも問題とされたこともなかった可能性が高そうです。 厚生省との協議にも言及があり、厚生省でもそれまで明確に定めていなかったのでしょう。
[224] 現在の電子化された戸籍システムでどう扱われているかは不明ですが、 日時が文字列として保持されていると推測されています >>1502 コメント欄。
[140] 夏時刻廃止後数年経った昭和33年の判決には、 夏時刻実施中の時刻が記載されており、 サンマータイム (夏時刻) であるとの注記が添えられていました >>1586。
『民事月報』のバックナンバーをあさっていたところ、第5巻第10号(昭和25年10月)p.56に「戸籍の届出及び記載に関する夏時刻の表示方について」(昭和25年9月7日民事甲第2384号民事局長通達)を見つけた。
夏時刻法(昭和二十三年法律第二十九号)第二條第二項の規定によつて、九月の第二土曜日は二十五時間をもつて一日とされているところ、同日の第二十五時間目中に発生した事件について戸籍の届出及び戸籍の記載に関する時刻の表示方につき疑義を生じている向があるようであるが、この表示は「午後十一時何分(夏時刻)」の振合によることに一定した(なお同日の第二十四時間目までの時刻の表示及び同日の第二十五時間目を終つたとき翌日の午前零時と表示することについては、他の日におけると同じである)。從つて、今後は出生及び死亡の各届出書に記載する事件の発生時分並びに死亡に関する戸籍記載上の時分はすべて前記の例によつて取り扱うよう貴管下各支局及び市区町村に対して徹底方取り計われるように通達する。
追つて本件については、厚生省とも連絡済みであり近く同省より、人口動態調査票の記載における夏時刻の表示について、本通達と同趣旨の指示がなされる筈である。
この通達に合わせて「人口動態調査票、人口動態調査票送付票、人口動態統計月報及び人口動態調査票送致目録作成手続」(昭和23年3月10日厚生省訓令第5号)も改正されたのだろう、と思ったのだが、私が調べた限りでは、こちらの訓令に「(夏時刻)」が現れたことは無いようだ。
[794] 夏時刻の廃止について、 現在では一般的に GHQ の意向で導入されたものが GHQ の撤兵に伴い撤廃することと説明されています。 また、朝鮮戦争と重なり労働強化につながったため、国民に不評だったとも言われています。 戦争によるインフラの荒廃で生じた電力不足の軽減に一定の効果が見られたものの、 復興が進んで昭和27年には電力事情が好転し >>599 その必要もなくなったことも廃止の一因のようです。
[109] 夏時刻法の廃止の国会審議は、議事録から読み取れる限り、 議論の余地もなく当然廃止されるべきものとして行われたようです。 4年間の夏時刻実施はそれほど自明な大失敗であったというべきでしょう。
[1676] に読売新聞社が実施した世論調査では、 賛成 54.3%、 反対 37.0%、 中間 8.7% でした >>222, >>1675。 実施前には国民も比較的好意的だったということになります。
[144] 夏時刻の実施は開始直前に決定されました。 形式的には国会の議決を経ているとはいえ、 生活に深く関わる事項を広く国民に議論を喚起することなく一方的に押し付けることに反感を覚える人もいました >>129。実施後の国会でも、請願などの形で反対意見が度々取り上げられていましたが、 ほとんど顧みられませんでした。夏時刻の実施・継続は GHQ の圧力で確定事項となっていて、民主的手続きによる議論の余地が残されていなかったようです。
[137] 1年目の開始後と終了後、 照明学会の学会誌で産学の識者らが誌上討論会を実施しました。 ほとんどの論者が夏時刻に賛成で、 明るいうちに帰宅できて家族団欒できる、 仕事に使える時間が1時間延びて嬉しい、 などと大絶賛していました。 >>129, >>75
[1189] 1年目の終了間際の朝日新聞では、 各界の状況が次のようにまとめられていました >>1187。
[500] 朝日新聞の「声」欄には 「太陽にはサンマータイムもなく、1時間早く地表に顔を出すので、 奥さん方がきっと主人につらく当たるようになるに違いない」 というような不満の声が掲載されていたようです >>429。
[1236] 読売新聞には、 子供は外が明るいままなので遊び回り、 夫も麻雀でなかなか帰ってこない、 出費もかさむという主婦の不満 >>1234 が掲載されました。余暇と消費の拡大という夏時刻のメリットを夫や子供は享受し、 妻は負担だけ強いられるという構図があったようです。
[124] 鉄道など交通機関では、 夏時刻実施に伴う始業時刻の変化により通勤ラッシュが激化し、 大混乱をもたらしました。 一方で、 時間帯や路線によっては逆に通勤通学が楽になったという証言もありました。 (>>1189, >>1682, >>125)
[126] 夏時刻実施の目的の1つだった電力消費の削減には大きな効果があったとされていますが、 これも必ずしも順調だったわけではなかったようです。 初年の振り返りでは、 夕方に一時的に電力消費が落ち込むため調整に苦労したり、 夏時刻終了後も夏時刻気分が抜けないため晩の電力消費が増大し停電が発生したりという電力会社からの報告がありました。 (>>125)
[181] 昭和25年には、 夏時刻とまったく関係ない洗剤の便乗広告も見られました >>180。 当時の米国式制度・文化の流入の中で、 夏時刻による生活合理化に米国式洗剤による合理化を重ね合わせたものでした。 夏時刻によって生活が改善されるという主張がこの広告の想定読者には行き渡っていたのだろうということになりますし、 サンマータイムにまだ決定的に悪い印象がついていなかったということでもあります。
[141] 4年目には、夏時刻の廃止を求める声が特に大きくなっていました。 読売新聞は、4年間の実施の結論が一応出てきた、と評していました。 >>2090
[142] 夏時刻反対派は、 サラリーマンが夕方の時間を持て余し浪費していること、 主婦が寝不足に陥っていること、 電力節約も期待できないことを批判していました。 一方で存続派は、諸外国で実施されている制度であり、 日本人も生活を計画化し夏時刻を有効活用するべきだ、 と主張していました。 >>2090
[1235] の読売新聞の世論調査では、 賛成 23.4%、反対 74.8%、わからない 1.8% でした >>1234, >>2090。
[1115] 昭和26年の夏時刻実施後の日本政府の世論調査では、 賛成 30%、 反対 53% と過半数が夏時刻制度の継続を望みませんでした >>740。
[2208] これだけ国民に不評であり、国会議員も反対していたにも関わらず夏時刻が4年間も続けられ、 GHQ が撤兵する直前まで廃止できなかったのは、 電力事情に加え、 GHQ の強い意志があったのでしょう。
[2209] また当時は GHQ が厳しく検閲していた言論の自由のない時代でしたから、 新聞などでも夏時刻のデメリットが十分に報じられなかった、 反対できなかった >>1590 との指摘もあります。 にも関わらず二年目には既に新聞各紙が揃って夏時刻を非難する記事を掲載する >>68 など、国民の不満はとても抑えきれるものではなかったようです。
先日、図書館で古い新聞を調べていたときに偶々発見したのが、冒頭に掲げた新聞記事である。
昭和24年3月26日の神奈川新聞だ。占領下の日本はアメリカ式のサマータイムを押しつけられていた。しかし、これが不評であちこちから苦情が出ていたのである。
新聞記事より:
高田保『ブラリひょうたん』「夏時刻」
時計の針を一時間進めて、出勤時刻を三十分遅らせる。何のことやらわからない。なぜ簡明に出勤を三十分早めるとしたのではいけぬのか。この疑問を常識だとすればサンマー・タイムは非常識となるだろう。常識なら申合せでも済むが、非常識となると法律ででも強制するのでない限り守るものはいない。法の煩わしきは国亡ぶるの基と昔の人はいったそうである。
「ここらあたりは出家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る」というセリフが歌舞伎にある。非常識は人間ばかりのものではない。天然自然の理法も狂うことがある。ここらあたりは都会ゆえ、夏時刻だというに氷雨が降る。外套のえりを深く立て、白い息を吐きながら電車を待っている風景――といいたいが、しかし夏時刻法というのは天然自然の理法に従ったものではあるまい。
小学校で先生がー「今日からはサンマー・タイムですから、何もかも一時間早くなります」
生徒が手を上げた――「太陽の上るのもですか?」
先生は答えた――「いえ、太陽だけは、逆に一時間おくれて出ることになります」
生徒は当然質問した――「なぜですか?」
先生は何の苦もなく答えた――「サンマー・タイムだからです」
時間というものは太陽の運行から割出されたものだ、などというものは古代の観念でしかあるまい。近代の時間はただ時計の針の先にだけある。だから人間が自由にそれを動かすことができる、というのだったら、むしろ、いっそ、一時間遅らせてみたらどんなものだろうか? 朝いつもの如くに床を離れる。しかし今日からは夏時刻だから出勤は一時間おくれてよろしい。ゆっくりした気持で新聞が読める。日ごろは及びもつかなかった社説や外電や学芸欄やにまで丹念に眼が届く。これだけだって大したものではないか!
昼の時間をできるだけ余計に利用させるための方法だというのだが、どうせ利用させるなら朝の新鮮な時間にした方が効果は多い。まさかに朝っぱらからマージャンやダンスをやる連中はあるまい。一日の勤務を終えての疲労しつくした時間では、どう与えられてもしんみり読書したりする気持にはなれぬのが普通である。針の先の動かし方一つで結果は雲泥に分れる。役人にはゆっくりした時間を与えて世界の勉強をさせねばならぬ、とこれは私の説ではない。荻生徂徠が「政談」の中で述べていることである。彼ならきっと一時間おくれの夏時刻の方を採用したにちがいない。 (四・五)
最終更新日 2005年04月10日 12時18分34秒
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夏時刻法により昭和23年~昭和27年までの5月~9月にサマータイムが採用された(占領期のため、GHQがサマータイムの本国の時刻と整合させるためという) http://www.agc.com/index2.html
サマータイムに関する世論調査報告(総理府)
わが国におけるサンマータイムは,昭和23年4月28日に「夏時刻法」として制定された。現在までに施行以来4カ年を経過したわけである。しかし国民一般がこの制度に対する経験を重ねてくるに従って,漸くこれに対する批判の声も高くなって来た。政府としては早急にこの制度に対する国民の意見と態度を把握し,国会における検討のための資料を準備することが必要になって来た。
第101回国会 予算委員会 第13号
昭和五十九年三月二十八日(水曜日)
午前九時十九分開会
○国務大臣(森喜朗君) 私は今でも疑問に思っておりますのは、やっぱり敗戦のショックによって、当時の文部省にいろいろと御検討いただくいわゆる学者の方々がかなり右往左往、言葉はよくないかもしれませんが、私がなり右往左往しておられたのじゃないかと思うのですね。例えば僕たちの子どものころに非常に困ったのは、右側通行が左側になったり右側になったり、何でもかんでもアメリカ流にしていって、我々はそれこそ右往左往、うろちょろしたことを今でも思い出しているわけですし、あるいはサマータイムなんていうようなものもたしかアメリカからそのまま取り入れて、日本に合わないということで急にやめられて、学校教育では随分現場では苦労したということを記憶をいたしておるわけでございます。
今回のサマータイム論議において、わたしが気になったことがいくつかある。一つはいい加減なコメントが多すぎたことだ。たくさんの識者がいろいろなことを発言していたが、そもそもサマータイムとはなんぞやということを理解せず、勘違いしたままのコメントが相当に見受けられたのである。
例えば、かつて日本でもサマータイムが導入されていた話。ある識者は「米軍に占領されていた時代にサマータイムを導入したが、国民の支持が得られなくて数年でやめてしまった」と、したり顔で述べていた。
確かに日本でも、1948年から1951年までサマータイムが導入されていたことがある。当時の新聞四コマ漫画などを見ると(例えば『サザエさん』など)、しばしばサマータイムが話題に上っていたりもする。こうしたものを読むと、当時の国民はサマータイムを「季節の風物詩」のように受け止めていたかのような観さえあるのだ。‥‥というのも乱暴な決め付けであろうが、少なくとも日本でサマータイムが廃止された理由を「国民の支持が得られなかったから」と表現するのは違和感がある。ではどうして廃止になったのか? ずばり、それは「貧しかったから」である。
サマータイムが導入されていた1948年から1951年とは、昭和でいえば23年から26年である。戦後すぐの混乱期だ。国民の栄養状態をどう改善するか、欠食児童をどうするかといったことがまだ真剣に議論されていた時代である。サマータイムのために仕事が1時間早く終わっても、実際に日が暮れるまでにたっぷりと時間が残っている。空腹だからさっさと帰宅して寝てしまいたいのだが、日が高くて簡単には寝られない。
そんな時代にあって、「ゆとりを持って時間を過ごそう」という趣旨のサマータイムが合うはずがない。食べものに困らない現在であれば、ビジネスパーソンも「日が高いなら、もう少し余計に遊ぼうか」ともなるだろうし、それは景気の活性化にも寄与しよう。だが、戦後間もない時代は状況が全く違っていたのである。
ついでに言うと、「残業が多くなってサマータイムが廃止された」という識者もいた。これもうそだ。当時は残業などそんなになかった。そういうことを発言する識者たちは、おそらくどこかのWebページで情報を探して、したり顔で解説していたのだろう。だから当時のことが分からないまま話すので、うそばかり並べ立てるようになるのだ。
[1114] 昭和の夏時刻の趣旨に「ゆとり」など当然あるはずもなく、 勝手に勘違いしているのはこの筆者の方である。世論調査でも国会でも反対多数だったものを、 「国民の支持が得られなかった」のではないと否定するのは、 もはや歴史修正主義と言ってもよいレベルだろう。
他の (当時の) 文章を読めば分かる通り、 残業がなかったというのは大嘘。 一方で残業しないで家族団欒したらいいじゃないとか言ってた上級国民もいる。
<有識者> 座長 八田 達夫 大阪大学社会経済研究所 招聘教授 委員 原 英史 株式会社政策工房 代表取締役社長 <ヒアリング対象者>
中上 英俊 (株)住環境計画研究所代表取締役会長 <事務局> 加藤 利男 内閣官房地域活性化統合事務局 局長 富屋 誠一郎 内閣官房地域活性化統合事務局 局長代理 ほか
飲食店について、喫茶店、飲食店、カフェなどは、カフェというのはいわゆるバー のことだが、例年の夏より客足が減って悲鳴が上がったと。やはりこのころでも、明るい となかなか飲むわけにはいかないというのは、時代を問わずあるようで やはり当時でも明るいと飲 み客は減ったそうだ。
次、教員の方々は、明るいので残業が多くなって、労働が過重だと。
次に、これは当時の世相だろうが、夜学生。昼間働いて、夜学校に通っている、今の塾 ではない。本当に学校で勉強するので、サマータイムは大歓迎で、当時で言うと十数万の 賛成投書が来たそうだ。明るい時間帯に学校に行けるというのは非常にいいのだとポジテ ィブに訴えてくださったそうだ。
○八田座長 それから、日本で1952年までやってサマータイムをやめたのは、私は小学校 の4年生か5年生だったが、雰囲気としては、道も右左の右側通行、左側通行を占領が終 わって変えたし、やはり非常にナショナリスティックな気持ちはあったと思う。サンマー タイムとか、いろいろな道路のあれとか、全部アメリカに押しつけられていたのだと。い なくなったのだから、もうよそうということがあったので、あまり実質的な議論をしたと いうことではなかったのではないかと思う。
○中上氏 座長がおっしゃるとおり。 それでまた思い出したのだが、国会議員の方々にもアンケートをした。すると、この時 代はまだ長老議員がいっぱい残っていて、皆さん経験されている。あまりいい経験がない ものだから、あれはだめだと言って、若い人がやろうと思っても全然話にならなかった。 それがだんだんリタイヤされて、若いほうに変わってくると、議員の方々の賛成度合いが ずっと高まってきた。そういう傾向は確かに、当時経験されていた方は、あまりポジティ ブなイメージはない。
○八田座長 押しつけられたという感じだろう。
政府は9日の閣議で今夏サンマー・タイムを採用することに決定、実施要綱はさらに13日の閣議にはかったうえ国会の承認を得て実施するが、サンマー・タイム実施期間は5月1日から9月一杯の予定で、普通時間との切り替え方法は実施日の午前零時をサンマー・タイムの午前1時に繰り上げる
本社でもサンマー・タイムの可否を世論に問うた結果、可54.3パーセント、否37.0パーセント、中間8.7パーセントの結論を得ている
サンマー・タイムの実施で官庁が出勤時刻を民間同様9時にそろえたため、毎朝8時半―9時の省電ラッシュはもの凄く、またまた通勤地獄を再現している。東鉄ではこの緩和策に苦心し車体増結や発駅変更など応急策を講じているが、時差出勤でもやらない限り殺人ラッシュは解消しようもない。
去る4日の夏時刻実施以来、各駅とも積み残しが激増、新宿駅では最高1800人ぐらいが上り線ホームにあふれ、混雑による負傷者も従来の3倍に跳ね上がっている。しかも11日から各学校が新学年に入るので、通勤と通学が8時半―9時の30分間を中心に鉢合わせする形となるが、輸送力の方は既に限度一杯まできているので、これ以上の増強は望めず「官庁勤務者を一般と同じ時間帯に投入したことに最大の難点があり、4月中だけでも官庁を8時半出勤に直すことが先決だ」と東鉄当局は完全に手をあげた形だ
[330] 北海道米軍太平記 : 黒と赤の日誌, 奥田二郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3451911/1/120 (要登録)
[331] >>330 「アメリカさんの執務時間に合わせるため」
[175] 余暇が充実するだの仕事の能率が上がるだのとの宣伝とは正反対に、 多くの国民が労働時間が延びた、 睡眠不足だ、 疲労が取れない、 といった不満を表明しました。 都市労働者、主婦、農民、学生と様々な職業の人達が不満を持っていました。
[127] 初年終了後に照明学会の学会誌に掲載された産学官関係者の感想集では、 夏時刻によって業務に使える時間が長くなった、 仕事が終わっても明るくて良い、 夏だけ業務時間をもっと長くしてもいいくらいだ、 と絶賛の嵐でした。一方で、家事の時間が長くなり早起きと遅寝を強要されているという主婦の不満の声も、 わずかながら触れられていました。 (>>125)
[179] 当時は戦後復興に全国民が必死だった時期で、 夏時刻であろうがなかろうが、 寝る間も惜しんで労働しようという意見もありました >>2092。
[180] 夕方の「余った」1時間を使った余暇の活用も、 商業施設や娯楽施設の閉店も1時間早まって意味をなさなかったり、 営業していても明るいうちには入りにくい空気があったりと、 矛盾があらわになっていました。 こうした業種の売上の低下も問題となりました。 >>2092
[1036] 後世の夏時刻再導入派は、
労働強化という印象を持たれているが実際にはそうではなかった、
朝鮮戦争特需の特殊事情によるもので夏時刻導入と直接関係ない、
といったように分析しているようです。
[1686] しかし当時の報道や体験者の回顧を読むと、 単純に労働時間が延びたというだけの話ではなく、 夜の暑さによる睡眠不足や日の出前の出勤、 出勤ラッシュなどの生活条件の悪化が積み重なっていった結末のようにみえます。 夏時刻推進派は詳細な分析もせず統計の数字の上の感想を述べるにとどまっており、 再発防止の検討すらしていないようです。
[176] 都合のいいデータを選んで示しているだけだとの批判もあります >>1813。
[267]
例えば夏時刻制度推進派の主要人物だった木本教子は、
1999年の新聞記事で、
「労働強化が言われたが、実施年はむしろ労働時間は減少し、
五〇年の朝鮮戦争以降に増加している」
と主張しました >>271。
これ以後の推進運動関係者もこの見解を踏襲したようです。
ところが昭和のサンマータイム実施年の昭和23(1948)年は、 法律四十九号 労働基準法 (施行) によって現行の労働時間規制が導入されて初めて迎える夏でした。
労働基準法の労働時間規制の導入以前の日本の伝統的な労働慣習では、 夏は労働時間が長く、 冬は労働時間が短い変動型の勤務時間が一般的でした (c.f. 昭和21(1946)年 >>90)。
つまり昭和23(1948)年は労働時間制度の変更と夏時刻制度の導入というダブルの変更で、 社会の急激な変化による相当な混乱があったはずなのです。 夏時刻制度は昭和24(1949)年も昭和25(1950)年も改正がありました。 そもそもが終戦直後の混乱期であり、 これに更に途中から朝鮮戦争という特殊な社会事情が加わります。
木本がどのような統計を参照していて、 それがこうした事情をどのように処理していたのかは、 不明です。
[279] サマータイムで労働時間が減少したのだとしたら、 むしろ過去の事例を強調したほうが良さそうなものですが、 なぜかそんなことはしていません。 なぜサマータイムで労働時間が減少したというのでしょうか。 朝寝坊で遅刻が増えたからとでも言うのでしょうか。
[177] 過去の事象を正確に分析せず、 サマータイムでゆとりが増えるだの健康促進になるだのと前回と同じ主張を繰り返すだけでは、 再実施してもまた同じ失敗を引き起こすことになりましょう。
政府首脳は「戦後の一時期、唐突に実施されて国民が混乱した苦い経験がある。私自身、暗いうちから勤めに出かけ、疑問を感じた」と自らの体験を披露。
当時の毎月勤労統計調査データhttp://wp.cao.go.jp/zenbun/seikatsu/wp-pl95/wp-pl95bun-1-1-40z.htmlをひっぱり出してきて、 「サマータイムでサービス残業が増えた事実は無かった」 ( サマータイム導入年に急増していないし、 廃止年に急減していない ) と主張する向きがあります。
しかし、 このデータは、 事業所規模 30人以上の製造業で、 賃金が支払われている労働時間です。 労働者のごく一部にすぎない上に、 サービス残業は含まれていません。
賛成
レス求隊
2018年8月28日 14:06
戦後導入された時みたいな事がなければ大賛成です。 戦後不評だったのは、始業はサマータイム、就業は通常時間みたいなバカなことをするアホ経営者や上司がワラワラと湧いたからです。
当時、サマータイムを体験した筑波大名誉教授の小林弥六氏(経済学)がこう言う。
「評判はよくなかったですね。1時間、早く出社しても日本のサラリーマンは、早く帰宅できませんからね。夕方時間が余っても、余暇を楽しむ文化もなかった。
困った「お化け」が顔を出した
無職 □□□□□
(熊本県
93 )熊本の夏の午後
5 時はかんかん照り だ。新任教師だった私が定刻に門を出る と、辺りは麦刈りの真っ最中。汗まみれ の顔で「今日は何のあっとですか」と驚 かれた。ない仕事も作り、本来の定刻ま で働いた。2 年間で体が悲鳴を上げた。
[328] 長野県警察史 概説編, 長野県警察本部警務部警務課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3001555/1/424 (要登録)
[332] 斉藤知一郎伝, 北川桃雄, 斉藤知一郎伝記編纂部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2983452/1/105 (要登録)
[333] >>332 昭和26年1月。新工場建設で意欲高まった社長は正月から自分だけサマータイムを実施するという。 社長にだけにさせるわけにはいかないと社員一同午前7時出勤に決まった。
つまり通常は8時出勤のところを7時出勤にしたということらしい。 時計は変えていないようなので夏季業務時間制度 (冬季)。 本当の夏時刻制度の最終年。
[164] 昭和のサンマータイムの実施当時の不満の声および廃止後の回想では、 多くの人が生活リズムの変化と睡眠不足、それに起因する体調不全を訴えました。
[1044] 夜暑くて寝苦しいと言われていたようです >>1043。
[1687] 2年目の昭和24年の大分市の広報誌には、 夏時刻に伴う「おやすみサイレン」時刻変更のお知らせが掲載されていました >>1212。 記事は「うつかりすると私たちを睡眠不足に追い込む、 殊に自覚の伴わない子供たちほどその影響は大きい」 としていました。 大分の日の入りは、 、 で、 「おやすみサイレン」が (変更後) でした。 日本西部に位置する九州では特に日没が遅いため、 子供がいつまでも遊び続け、なかなか寝付かず、 睡眠不足となる、という問題がより深刻だったのでしょう。
tz=+09:00 lat=33.1797026 lon=131.407557 day=1948-01-05
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[174] 九州では、 夏時刻の期間の始めや終わりの頃、 小学生が日の出前に登校しなければならない事態に陥っていました (>>172)。当然起床はその遥か前となります。 睡眠時間はもちろん、低音や暗い道での登校の危険があり、 国政でも取り上げられる問題となりました。
[186] 当時はまだ電力供給が不安定だったためか、 暗い中での食事準備中に停電し、 蝋燭を使っていたため火災につながることも多かったそうです >>138。
[1209] 夏時刻廃止時の新聞記事は、 「これでこの夏はユックリと眠られる」 と書いていました >>1207。 睡眠不足による健康被害が最も深刻かつ象徴的だったということでしょう。
[165]
廃止から数十年後の騒動 (
サンマー・タイム實施
五日夜、就寝前に時計を一時間進めること
夏時刻法により、五月五日の午 後十二時より全国一斉にサンマー タイム (夏時刻) が
実 施されます五月五日の夜、寝床に入られる 前時計の針を一時間進めることが 必要です。五月六日からは汽車の 発着時刻も、役所や会社の出退時 刻もすべて一時間繰り上げられる ので御注意下さい
尚このサンマー、タイム (夏時 刻) は、九月九日の午前〇時で終 り、その後は又元通りになります
(弘報係)
戦後、サマータイム導入された時の私の日記帳に起床時間と就寝時間との記録がある が、就寝時間は一定であるが、起床時間がサマータイム実施の期間中のみ、毎日 1時間早まっていたと記録されていた。つまりサマータイム期間中には睡眠時間が 削られていたのだ。当時の進駐軍が日本国民の不評を無視できず、サマータイムを 廃止したときに味わった喜びと安堵感を、50年以上経過した今でもはっきりと記憶して いる。
累計200万部超のベストセラー『思考の整理学』著者で、“知の巨人”とも呼ばれる御年94歳の英文学者・外山滋比古氏(お茶の水女子大学名誉教授)も憤りを隠さない。
「70年前は、たしかに時計を1時間早めたぶんだけ、日が高い夕方に余暇時間ができました。でも結局は、多くの人が生活のリズムを崩すだけだった。私の周囲の人たちも、“いつもより早起きになる上に、夜もなかなか寝つけない”と睡眠不足に陥って、疲弊していたと記憶しています。
読者から届いている意見はおおかた「反対」。
東京都の男性は「GHQ(連合国軍総司令部)が導入した時に経験していますが、覚えているのは眠かったことだけ」。
作家の小林信彦氏は20年近く前から、エッセーで導入反対論を説き続けている。「両国の花火が明るいうちに打ち上げられた」など、戦後間もない1948年から51年に導入された時の体験をつづり、「寝不足が生じ、頭がフラフラになる」と訴える。
[204] サンマータイムなる珍妙な言葉、わけのわからない制度に、 「夏時間? お日さんが1時間早よう出んさるようになるんの?」 >>201、 (日本ではまだ寒いのに)「今、アメリカじゃあ夏なんかね」>>1231、 といった感想があったようです。
[1237] 読売新聞に掲載された長野の農家の声によると、 夏時刻は農業の作業スケジュールと相性が悪く、 「私達の地方では夏時間を励行している農家は極めて少な」 かった >>1234 といいます。
[205] 広島県の農村では、 学校が夏休みに入ると夏時刻の影響を受けたのは近隣都市へ行く労働者と村役場や農協の従業員くらいで、 ほとんどの住民には無関係でした。 >>201
[207] 村の里山より更に奥の用倉地区の開拓民は、 電灯もラジオも新聞もない生活を送っていました。 「どこからともなく聞こえてくる」というのサイレンに柱時計を合わせていました。 >>201 ということはサイレンが夏時刻に合わせられていたのなら自然と夏時刻で生活していた可能性もありますが、 住民は標準時なのか夏時刻なのかは気にせず、 太陽の動きに従い開拓に励んでいたようです。
はじめて夏時間を採用した年の春、私は北海道の雪深い田舎にいた。4月1日は積雪最深期で、まだ6尺(編集部註:約1.8メートル)近く雪があった。最初の年は、4月1日から採用したのである。
「明日からサンマー・タイムですから、時計の針を1時間進めて下さい」という回覧板をもって、役場の人が、農家を一々回って説明した。
「サンマー・タイムって何じゃね」
「夏時間という意味で、夏は日が早く出るから、1時間早く起きることにするんだそうだよ」
「へえ、今、アメリカじゃあ夏なんかね」
という会話が至るところでかわされ、そして誰も不服をいわなかったそうである。
6尺の雪に埋もれ、あかぎれだらけの手足で冬仕事にいそしんでいた農民たちにとっては、「夏」時間は、まさに驚くべき異変であった。次の年から5月1日に延期されたが、事の本質にはちがいがない。すなわち日本のように気候の幅が広い国では、一律にことを決めることが無理なのである
[201] 第6部 戦後の開拓地で(3) - 満洲少年回想記 (saro109著, ) https://web.archive.org/web/20170501070214/saro109.jp/blog-entry-97.html
時計の針は予定時刻の午前10時を、すでに過ぎていた。
そうか、日食はサンマータイムでなく標準時間で始まるのだ。
ぼくの手持ちの雑誌には、「夏時間は1時間繰り下げ」といった注記は加えられていなかった。 新聞もラジオもない山の中の暮らしでは、こうした身近な情報すら伝わってこない。
戦後、わが国で初の日食を観測ができた日は、昭和23年5月9日の日曜日だった。 同様に、サンマータイムが初めて試みられたのは、その1週間前の5月2日の日曜日から9月11日の土曜日までである。
「夏時間? お日さんが1時間早よう出んさるようになるんの?」
村に新しいかカタカナ語が入荷すると、ぼくたち新制中学生は下校時に、立ち話中のおばさんや年寄りたちにつかまり、このような珍問奇問を受けることがままあった。
通りすがりの青年団の兄やんが、こうした話の輪に首を突っ込んだりすると、
「なんせ、マッカーサー元帥の命令じゃけぇ。どがいにもならんのよ」
最後に、したり顔でこう結論づけると、一件落着するのが常だった。
占領軍統治下のこのころ、進駐軍の米軍兵士やジープを見かけることもない辺ぴな田舎でも、連合国軍最高司令官ダクラス・マッカーサー元帥の名を掲げれば、水戸黄門の印籠ほどにご威光があった。 そんなサンマータイム騒動も一時のこと、村全体の日常生活には何の影響も及ぼさない。
学校が夏休みに入ると、夏時間を励行させられるのは隣接都市への通勤者か、村役場や農協で働いている一握りの人たちだけだった。
村の人たち以上にサンマータイムと無関係だったのは、村の里山からさらに奥に入った森林地帯で生活を送っていたわれわれ開拓民である。
用倉と呼ばれるこの一帯は、いまでこそ近代的な広島空港に変貌しているが、当時はどこからともなく聞こえてくる朝6時のサイレンに、柱時計の針を合わせておけば事足りた。
1日に10分や20分の狂いなど、開墾作業にまったく支障はない。
電灯もなく、ラジオや新聞などの情報源を持たない文明社会と隔絶した不毛の地では、暮らしのリズムはすべてお天道様にゆだねるのが最も賢明であり、理にも適っていた。
ぼくは、夏時間を1時間繰り下げた標準時間を確認し、再び表へ出た。
太陽はゆっくり欠けはじめた。
[214] 当時から現在まで続く稀有な国民的作品であるサザエさんでもサンマータイムが何度も取り上げられました。 夏時間の話題ではしばしばこのことが触れられています。
まず、サマータイムの朝一番、サザエさんが時計を1時間進めるのである。
そして、波平が起きてきて、サザエさんが進めた時計をさらに1時間進めるのである。
そして、次に、カツオが起きてきて、時計をさらに1時間進めるのである。
結局、磯野家のサマータイムは、世間より3時間進む、、というオチの漫画があったのである。
『サザエさん』では、今日からサマータイムだからというので、サザエさん、フネさん、波平さんがそれぞれ1時間ずつ時計の針を戻したので、カツオくんが「お父さん、ぜんぜん眠くないよ」「すぐになれる」(だったか「だまってねなさい」だったか)というオチがついていました。サマータイムが時計の針を逆進させるという具体的行動で実行されていたのだと判断されます。惟光の生まれる前の話です。
朝日文庫版4巻〔90頁〕・昭和25年
『家の外の道をお婆ちゃんが竹箒で掃除をしていました。するとそこへ、サザエさんがあわてて駆けつけ、「とけいがとまったんです いまなんじでしょう」と聞いています。お婆ちゃんは「みてきましょう」と答えました』
『サザエさんの家の中です、出勤の準備を済ましたお父さんは、新聞を読んでいます。出勤の準備を済ましたマスオさんは、タラちゃんと遊んでいます。そこへ、サザエさんが入って来て、「まだ7時半だって!」と教えてくれました。まだ、朝食を済ましていないカツオ君は、ご飯を箸で運びながら、「アーよかった」とホッとしています』
『なんとなく気になったのでしょうか、サザエさんは外に出て、まだ掃除中のお婆ちゃんの傍に駆けつけ、「おばあちゃんサンマ―タイムにしてあるんでしょうね」と確かめました。すると、お婆ちゃんは「ハイちゃんと一じかんおくらしてあります」と平然と答えました』
『サザエさん家からの門から、カバンを持ったお父さん、カバンを持ったマスオさん、ランドセルを背負ったカツオ君が、被った帽子も飛んでいきそうな勢いで飛び出して行きました。サザエさんが、心配そうな顔をして見送っています』
昭和23年4月28日に公布された夏時刻法に基づいて、同年5月から毎年4月の第1土曜日24時から9月第2土曜日25時までの夏時間を実施
ですから、サマータイムは、時計を一時間進めるのが正解です。しかし、お婆ちゃんは、一時間遅らせていました。お婆ちゃんが教えてくれた7時半は、正しい時間は既に8時半です。そら急げ、遅刻だ!
お婆ちゃんの大変迷惑な勘違いでした。
5.サマータイム
【磯江真知子、74歳、高知市井口町】
祖父は「今日から『サンマータイム』」と言って柱時計の針を1時間進めた。昔を思い出して、つぶやくと息子が「サザエさんで見た」と、「サザエさん」の漫画本を持って来た。
サザエさんが、「サア!今日からサンマータイムダ!」と柱時計を進め、続いて、フネさんも。カツオもランドセル姿で「1時間進めなさいと先生がおっしゃった」と針を進める。4こま目でカツオ、ワカメ、波平さんが寝ている。目を大きく描いて、「ちっともねむくないよ!」。目を閉じている波平が「いまになれるよ」。漫画だから面白いのである。
「サンマータイム」は高知だけの言い方かと思っていたが、漫画本にも載っていたので、日本中がそう思っていたかもしれない。
サザエさんは長っ尻の客を追い払おうと一計を案じる。柱時計の針を進めたのだ。客は「もう12時ですか。とんだ長居を」と腰を上げる。「ウチはきょうからサンマータイムにしたワ」というオチ。
[914] 昭和のサンマータイムは GHQ の指示によるものだというのが定説となっており、 現代の様々な文献でそのように説明されています。 ただ、その具体的な内容や詳細な経緯を扱ったものはほとんど見られません。
[59] 最初の実施の前にかなり早い時期から GHQ が夏時刻の導入を推進していた記録が残っています (>>11, >>746)。
[60] 日本政府の夏時刻担当部局は連絡調整事務局/終戦連絡事務局、 すなわち GHQ との交渉部門でした (>>46, >>16) から、 その内容が GHQ の強い影響下にあることは明白です。
[63] 夏時刻について投書が中央連絡調整事務局にあった (>>1202) ということですから、 当時の国民にもそうした状況が知れ渡っていたものと思われます。
[62] 2年目には終戦連絡事務局の「関係方面」 が夏時刻移行延期を拒否したとされており (>>624)、 GHQ が日本国民の反対を無視して予定通りの夏時刻強行を指示したと推測されます。
[203] 田舎の農村でも、 わけのわからない新制度が始まったがマッカーサー元帥の命令だから仕方ない、 という会話が交わされていたそうです >>201。
[285]
大日本帝国時代、
何度も夏時刻を実施しようとする動きが政府内外にみられ、
実施予定日まで決められたこともありましたが、
一度も実現しませんでした。
生活のすべてが統制下に置かれた戦時中ですら実施が困難な事情を抱えていたのです。
[188] GHQ の米英人が本国の制度を日本にも強制したものだといわれることもよくあります >>2094。 ただこの当時の欧米でも夏時刻は安定した制度ではありませんでした。 米国では州ごと、街ごとに実施の有無が分かれていました。 終戦までは季節性夏時刻ではなく戦時通年夏時刻を実施していました。 駐日軍人にとって慣れた本国の制度を導入する、 あるいは本国の優れた制度を日本に紹介する、 のどちらの意図にせよ、その解釈の妥当性は十分検討されているとはいえません。
[187] 当の米国人すら、東京各地に行くのに夏時刻は不便だと不満を持っていた >>138 という証言もあるようです。
[286]
米国占領地南朝鮮、
米国占領地琉球での夏時刻実施は、
日本本土より少し遅れていました。
これら地域の米軍は東京の米軍司令部の隷下であり、
少し遅れたということは日本の方針に追随したものとみられます。
一方で遅れたということは東京の GHQ
が連合国軍内部の調整や周辺地域への影響の検討もまともに行わないまま夏時刻実施を強行したことがうかがえます。
[309] 昭和のサンマータイムは 「定着しなかった」 >>352, >>256、 「立ち消えになった」 >>1812 などと説明されることがたまにあります。 平成30年夏時刻騒動でもそうした説明をしばしばみかけました。
[1911] いつからこうした説明が生じたのかよくわかりません。 どこかに発信源があるのだろうか。 定着も何も法律で全国に強制的に施行され、 国民の不満爆発で廃止になった、 というのは「失敗した」であって定着するとかしないとかいうものではなかろう。
[311] 当時はまだ地方では時計を意識しない生活が可能な人もいたことや、 「標準時での何時」のような二重制度下していたこと >>352 を、「定着しなかった」と表現するのは、 違和感を拭い去れないまでも、間違っているとまではいえません。 そうしたところから生じた表現でしょうか。
[313] それとももっと簡単に、わずか4年で廃止に至ったことを定着しなかったと評したのでしょうか。 これも表現として間違っているとまでは言い切れませんが、 どこか不正確に感じてしまいます。
[310] 「クールビズが定着した・しなかった」みたいな感覚なのだろうか。 (実施されても自分は実行しないので関係ないとか思ってそう。)
[314] たぶん廃止自体を「定着しなかった」と表現することはそれほど間違っていなくて、 でも社会制度や時刻に対する観念が大きく変わってしまった現代の夏時刻問題の文脈にその表現を持ってきたときに、 テレワークやクールビズやプレミアムフライデーのような働き方改革的な政策の定着・不定着と結びついて、 違和感が生じてしまうのでしょう。なにより夏季業務時間制度たるサマータイムやゆう活が 「定着しなかった」政策なので。
[319] 夏時刻制度の導入の是非をめぐる場面で「以前は定着しなかった」 と説明されると、なら今回も定着しないかもと思わされてしまいます。 そして暗黙のうちに採用する、しないの裁量が残されてると誤解してしまいます。 (説明した人自身も夏季業務時間制度と混同しているきらいがあります。) 昭和のサンマータイムですら夏時刻の存在をまったく意識せずに暮らせた人は多くなかったようです (旧来の生活リズムを保った農村でも役場や市場などの関係で悪影響があり、不評だったのです) から、 現在ではほぼ不可能でしょう。 定着しなくても社会が動いていたという誤解で、 制度への賛否の判断を歪めてしまう危険性があります。
[318]
つまるところ、夏時刻制度と夏季業務時間制度をどちらもサマータイムと称して混乱を招いた夏時刻運動の負の側面でしょうか。
[215]
森元らが東京五輪のために夏時刻を導入するよう日本政府に要請し世間の猛反発を受けていた
、
日本政府の副総理・財務大臣の麻生太郎は、
閣議後の記者会見で、
朝日新聞が煽って昭和のサンマータイムを導入させたものの、
新聞記者が明るいと飲みに行きにくいから廃止するべきと報道した、
などとする珍説を披露しました。 >>1447
[216] 朝日新聞は日本の代表的な新聞の1つですが、 大東亜戦争時に国民を煽ったことや、 朝日新聞珊瑚記事捏造事件などでその報道姿勢に疑問を持つ人も少なくありません。 麻生太郎もまた普段から朝日新聞に対して批判的であり、 今回もその延長線上と思われます。
[217]
麻生太郎は同時に夏時刻について、
熱中症などを避けるため早期導入が1つの選択肢であると述べました >>1447。
これは森元や武藤ら夏時刻推進派の主張やそれを受けた内閣総理大臣の安倍晋三の反応とも整合するもので、
これをアシストする意図の発言だったのでしょうが、
まったくの蛇足というべきものでした。
[218] 実際には当時の朝日新聞には約50本の夏時刻関連記事が掲載されたうち、 夏時刻の廃止を訴えたものは1つもなく >>1549、麻生太郎の主張は完全な誤りでした。
[221] 麻生太郎は内閣総理大臣時代にも夏時刻導入の動きに関わっていました。
公表されている情報を見る限り、麻生自身は夏時刻にそれほど強い関心を持っておらず、
周囲が推進すればそれに従う程度の消極的賛成のようです。
[247] 2013年に標準時改正が提案されたときは、 改正の必要性を疑問視した上で、 昭和のサンマータイムにも 「えらい評判が悪くて1年間でやめた」と言及していました >>248。 このときも実施期間を誤っていました。
[265]
ちなみに麻生太郎は、昭和のサンマータイムの改正法、廃止法に署名した内閣総理大臣の吉田茂の孫でした。
サマータイム(夏時間)導入は「吉田茂内閣の時に1回やったけど、えらい評判が悪くて1年間でやめた」と振り返った。
麻生太郎財務相は15日の閣議後会見で、昭和23年に導入された夏の時間を繰り上げるサマータイム(夏時間)が4年間で終わった理由について、「(終わったのは)朝日新聞の責任だぞ」とまくし立てる場面があった。
朝日新聞の記者が、政府・与党が平成32(2020)年の東京五輪・パラリンピックの酷暑対策として、サマータイムの導入を検討していることについて質問。すると麻生氏は「確か俺の記憶だけど、違ってたらごめん」と付け加えた上で、「(当時の朝日新聞はサマータイム導入を)あおって書いたんだ。だけど良くないから止めた方がよいって(報道した)」と朝日記者に対して恨み節を炸裂(さくれつ)させた。
さらに「(止めるべきと)書いた最大の理由は、新聞記者が明るい最中だと夜に飲みに行きにくいから。それが事実だろ?」「北緯40度以上の国では多分、日本以外はみんな(サマータイムを)やっていると記憶している」と説明。その上で「熱中症で死者が出るなどの可能性を避けるため、早めに導入するのはひとつの選択肢としては正しいと思う」との見解を示した。
[280] 当時の統計では、サマータイムによる節電効果があって、 切迫した電力事情を乗り切ることができ、 その後の状況改善で不要になった、 と説明されました。
[281] その後これを検証した研究は見当たりません。 戦災復興の混乱した状況下で、 しかも労働時間制度改正、 サマータイム実施、 朝鮮戦争勃発、 その他社会制度改革が同時並行していた、 相当に複雑な背景でのことです。 同時代には分からないこともあります。 統計値の妥当性も因果関係の分析も、 現代の視点から再検討する必要があるはずです。
[306] の読売新聞は、 残業や、 麻雀、パチンコ、飲酒などレジャーによる夜更しのため、 夕方から夜の節電効果がなかった >>432 と指摘しました。出典は不明です。
よみうり寸評
サマータイム (夏時間) 制の導 入を政府は検討している。イラ ン政情に伴う石油節約のために 通産省・資源エネルギー庁が打 ち出したもので、サマータイム 採用で、わが国の石油消費は約 三百万㌔・㍑ (一
% ) 節約でき ると言う◆サマータイムは、夏 の間、日中の時間を利用するた めに、仕事の開始と終了の時間 を一時間早める制度だ。石油節 約のため第一次大戦中に欧米に 採用された。わが国で、昭和二 十三年に採用された方法は、五 月の第一土曜日を二十三時で打 ち切り、この時刻を翌日の零時 とし、九月の第二土曜日を二十 五時までとする方式だったが、 二十七年に廃止された◆サマー タイムが実施されたのは、米占 領軍下にあったからで、占領終 了とともにこの制度も廃止され た。サマータイムは、合理的な 制度だったが、日本人の生活習 慣にはなじまなかった。せっか く早く仕事が終わっても残業し たり、マージャンやパチンコ、 飲酒などレジャーで夜更かしし て、夕方から夜の電力消費には 役立たなかった◆当時、時計の 針を一時間進めただけでなく、 出勤時刻を三十分遅らせたり色 々細工もした。が、時計の針を 実際の時間より一時間早めるにお は、天然自然の理法に反すると いった根強い感情が日本人の胸 から抜けなかった。朝は朝星、 夜は夜星、夏は梅ぼしいただき て……という勤勉な農業国民の 意識が、合理的なサマータイム を拒否したのだ。が、先進工業 国は、ほとんどサマータイムを 採用している◆夏だけ朝一時間 早く働くだけのことなのだが ……
[2]
[65] 昭和23年の福井地震による大火は、 ちょうど夕食の準備の時間帯で火が多く使われていたことで大きな被害につながったとされています。 夏時刻が実施されず中央標準時のままだったなら、 まだ夕食には早く、被害は軽減されていたのではないかと指摘されています。 >>66
福井地震の起きた 1948 (昭和 23 )年は、5月3日の日曜日からサマータイムが実施されて いるから、それから 56 日後に大地震が発生したことになる。
当時の体験記などには、地震は午後5時 14 分に起きたと書かれているが、サマータイム下 であるから、中央標準時では、午後4時 14 分であることはいうまでもない。
地震とともに各所で火災が発生して、たちまち燃えひろがり、福井市は一面の焼け野原にな ったのだが、出火原因については、夕食の支度のために火を使っていた家庭や料理屋が多かっ たことが挙げられる。また、風呂のかまどからの出火も目立った。午後5時すぎともなれば、 そろそろ夕食の準備や風呂の支度にかかっていたためである。
しかし、もしサマータイムが実施されていなかったとすれば、午後4時すぎの地震発生であ るから、大部分の世帯では、まだ夕食の準備に取りかかってはいなかったと思われる。したが って、出火箇所は大幅に減少していたにちがいない。
この年に実施されたばかりのサマータイムが、地震火災を招く要因になっていたとも見るこ とができよう。
[282] 回顧やサマータイム賛成・反対ではなく、 学術的な立場から検証した研究はないのだろうか。 探しても全然見つからない。
暮れて大分タイムがある遅れました。で御案内状を差上げる時はうかっであって、
そういうことをはっきり覚えていましたらそう書けば一寸事務的な御報告を一、一一致
させて頂きます。咋晚の十一一時から時間がサンマータイムに変りまして一時聞司會
蒔田耕三.
61 宜野湾村の I 部を兵舎にことを心配すべきである勤人や学生や奥さん方は朝寝
する時より一時間早くなるわけだから年のサンマータイムは実施され常活する時期、
きょうの零時か I は終り最早サンマ—タイムでの生猫がネズミをとることも忘れる頃〔
うるま,幼, ...
[252] 航海☆帝王(闘病中)さんのツイート: "やっぱりどれみても昭和のサマータイムは サンマータイムになってる。… " () https://twitter.com/kaizokuoji/status/1034111316355477504
[253] ゴードン・W・プランゲ文庫さんのツイート: "#東京オリンピック に向け、政府が #サマータイム 導入を検討中というニュースが出ていますね。さてこのサマータイム、占領期の1948年に一度導入され、数年で廃止された事はご存じでしょうか。画像は 学童良議叢書刊行会発行の「社會と生活」(1948)、「サンマータイム」の意義を簡単に説明しています。… https://t.co/sl6EfDhEd4" () https://twitter.com/PrangeColl_jp/status/1032640214525796352
[254] M.S+.さんのツイート: "「昔は日の出、日の入りでやってたんだからそうしたらいいのに」と書いている「サンマータイム」への意見が載っている暦の本(昭和24年刊)。 #ss954 https://t.co/2h5FwKsqp0… " () https://twitter.com/mdsch23/status/1030442150436036611
[255] Potebuuさんのツイート: "#サマータイム反対 私はサマータイム経験者、当時17歳だった生き残りです、戦後すぐ名前もサンマータイム、朝は一時間早く起きますが、寝るのは生理的に早くは寝付けず、兎に角 “眠い” “だるい” これが印象です、国民の不評が多く廃止された様です。" () https://twitter.com/potebuu/status/1030309864730324992
[256] 石黒彰さんのツイート: "子供の頃経験したサンマータイム、良いことは無かった。其れ故制度として定着しなかった、ロシアなどは既に廃止。緯度の高い国は日の落ちるのが遅い、夏時間にしなくとも私的活動は十分出来る。現在の室温は29℃湿度31%、冷房無しで快適です。… " () https://twitter.com/ablackstone3/status/1030293845425053696
[257] おさむしさんのツイート: "サンマータイムは横溝正史の何かの作品で読んだ。という方が多いけど、出てくるのは『女王蜂』です。 『だから九時過ぎにやっと腰をあげて、大道寺家を辞したとき、耕助の足もとはかなり危かったのである。 いかにサンマー・タイムとはいえ、九時過ぎといえばもう日が暮れている。』… https://t.co/snDnRhxehD" () https://twitter.com/osm4/status/1027796020741066752
[258] ゆーたさんのツイート: "いまの角川文庫だと『女王蜂』の「サンマー・タイム」が「サマー・タイム」に修正されちゃってるのか 誤字ではないのだから注釈で(現在は“サマータイム”の表記が一般的)とでも書いておけばよいものを" () https://twitter.com/latteteddy/status/1027184140871819264
[259] かやねずみさんのツイート: "1950年の世論調査「サンマー・タイムをどう思うか」…「給料取りに好評、農漁村では人気なし」の見出しで「わしらは昔から夏は夏時刻、秋は秋時刻で働いとるから、時計なんかどうでもええ」という農漁村の声。昔の日本人の健全さ。戦後まもなくのころには、政治家にも、きちんと物を言う人がいた日本。… https://t.co/LUaK0dmGwv" () https://twitter.com/kennenji/status/1027106942689275904
[260] 冨永 格(たぬちん)さんのツイート: "1950年の朝日世論調査「サンマー・タイムをどう思うか」…先ツイの通り、記事は「給料取りに好評、農漁村では人気なし」の見出しで「わしらは昔から夏は夏時刻、秋は秋時刻で働いとるから、時計なんかどうでもええ」という農漁村の声を紹介しているそうです。昔の日本、たくましかったなあ。" () https://twitter.com/tanutinn/status/1027032009355345920
[261] 前田 直人さんのツイート: "この記事の見出しは「サンマー・タイムをどう思うか 本社世論調査 給料取りに好評 農、漁村では人気なし」。本文では「明るいうちに帰れるからうれしい」とのサラリーマン家庭の声の一方、「わしらは昔から夏は夏時刻、秋は秋時刻で働いとるから、時計なんかどうでもえゝ」との農漁村の声も紹介。" () https://twitter.com/Nao_Maeda_Asahi/status/1027029004425998336
[262] 参議院会議録情報 第006回国会 本会議 第4号 () http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/006/0512/00610310512004a.html
[263] 衆議院会議録情報 第005回国会 考査特別委員会 第21号 () http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/005/1294/00507161294021a.html
[264] 解放迷さんのツイート: "@OnlyOn18 @akinoriTB @NoiMuzik @jumbo762 今でもときどきサンマータイム(サマータイム)復活論がでてきますが、体験者の昭和一ケタ(母)にきくとまあ、「あんないやなもんは無かった」そうです。まあ両方とも悪官僚の実績作り(ひまつぶし)でしょう。" () https://twitter.com/gobanyak/status/506930907102855168
[1420] Haruhiko Okumuraさんのツイート: "1988-04-27朝日夕刊「昭和23年4月28日、政府は「夏時刻法」を公布した」「ところがやってみると、サラリーマンは眠い目をこすっての満員電車。なかなか日は暮れず、明るいうちから酔っぱらいがあふれ、日に4回もご飯を食べたくなる始末。日本中が睡眠不足になり、27年4月、廃止」" () https://twitter.com/h_okumura/status/1027745850875760640
[266] Haruhiko Okumuraさんのツイート: "歳がバレるけど(もうバレてるか)私は1951年生まれ。生まれたのは何時何分だということまでわかっているが,あれはJST(日本標準時)じゃなくJDT(夏時間)だったのかと今ごろ気づく" () https://twitter.com/h_okumura/status/1028965155697094656
[1423] Tadさんのツイート: "かつてのサマータイムを実体験した小林信彦さんのコラムより。「日本人の生活感覚と相容れないことは、”往年の4年間の人体実験”によって身にしみている」とも。サマータイム、絶対に無理。 『最良の日、最悪の日』(小林信彦 著 2000年刊)… " () https://twitter.com/CybershotTad/status/1027497747430105089
私は、昭和23年頃はまだ子どもで、九州で育っていましたので、サマータイムになって、これはいいと。夕方いくら遊んでも日が暮れないから。東京より日が暮れないのです。
子ども同士で遠くまで遊びに行って、帰りにどうやって帰るか困ってしまい、夜中になって親に心配かけて叱られた覚えがあります。
生活に合わないとか、時計を変えるのが大変などという感情的理由と、景気回復を背景に1952年に廃止されました。
私は昭和23年から27年までのサマータイム導入された時期、ちょうど小学校高学年から中学3年までの間で経験を致しましております。で、私の経験から申しますと、朝の通学時間帯、更に寝るとき等の苦痛というのは少年期の健康に非常に問題があったのではないかという風に考えてございます。体験と致しまして私は何ら良い思いは致しておりません。
戦後の昭和の23年から26年に日本においてサマータイム制度が実施されていた時の経験では、太陽の明るさを有効利用する合理的な制度であると、全く抵抗感もなかったし、むしろ昭和27年に無くなったことの方が不思議に思えた。
(事務局:上野)
昭和20年代GHQが導入した理由についてですが、当時、石炭需給の非常な悪化があり、戦後でエネルギーが不足しており石炭が非常に不足していたことから、GHQが導入したものです。法律を作ってから施行するまでに3日しかなかったこともあり、国民が混乱という経緯があります。
当時の新聞をデータベースで検索しますと、サマータイムとか夏時間、サンマー・タイムとかですね。そうしますと、雰囲気としては最初のうちは普及啓蒙。というのはたしか法律が決まってからたった3日後という乱暴なスタートだったので、最初は大混乱だったんですね。それで政府は新聞で啓蒙したんです。
ところが制度をスタートして3年目になると、投書欄とかにですね、「辛い」とか「苦しい」といった声がいっぱい出てきます。「苦しい夏時間」(笑)なんていう見出しで、いつまで経っても子どもは寝ないし、騒がしい時間が夜まで続くし(笑)、という話がありまして、それに対して政府は、「いやいやそうじゃなくて、皆さんが自主的に時間を管理してずらせばいいじゃないですか」というようなやりとりがあって、結局は議員提案のかたちで廃止されています。
[2268] [tz] Japanese Summer time fallback transition in autumn 2020? () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2018-September/026891.html
欧米流の生活習慣を日本にも根付かせようという試みでした
[324] 国立公文書館さんはTwitterを使っています: 「かつて日本にも、夏時刻法により、昭和23年(1948)5月1日に開始されたサマータイムがありました。初年度を除き、4月の第1土曜日から9月の第2土曜日までを1時間早めるというものでしたが、日本に馴染まず、昭和27年4月11日に同法は廃止されました。 https://t.co/D3PXKz82cO https://t.co/871ldVT1xN」 / Twitter, 午後0:00 · 2022年4月11日, , https://twitter.com/JPNatArchives/status/1513351176825319425
[325] 弘道 64(689), 日本弘道会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6058231/1/15 (要登録)
GHQ政策の最悪失敗例として例示している
[329] 松川事件公判記録 第2審 11, [松川事件弁護団常任世話人会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3031695/1/62 (要登録) /66
[334] 共済新報 3(9), 共済組合連盟, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2648297/1/8 (要登録)
[335] 全逓・全電通労働運動史資料 第15集, 全電通労働組合全電通史編纂委員会, 全逓信労働組合全逓史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9523825/1/16 (要登録) /15
[336] >>335 昭和24年。サマータイムの即刻廃止を要求。
[339] 本山労働組合史, 日立鉱業所本山労働組合, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3446548/1/109 (要登録)
[340] >>339 昭和25年、労組でサマータイムの件を審議したと。内容は書かれていない。
[337] 神社祭式詳解 : 研究と実習, 好崎安訓, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2981741/1/180 (要登録)
[338] >>337 ジャーナリストが弾圧を恐れて萎縮して反対意見を書かなかった代表例にサマータイムを挙げている。
[341] 労働の科学 19(1), 大原記念労働科学研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2818809/1/9 (要登録)