慶㐂󠄂

慶㐂󠄂

[72] 慶喜 (y~609) は、 江戸時代寛永年間に用いられた日本の私年号 (改元デマ) の1つです。

元号名

[382] 元号名慶喜です。 草書に由来する異体字慶㐂翻刻されることもあります。

[381] 慶貴の用例が1つあります (>>90)。しかし写真などがなく詳細は不明です。 同字形も似ていて容易に混同され得たと考えられますが、 どの程度の広がりを持っていたのかなど、今後の検証が期待されます。

[383] 慶貴ラジオ番組で「けいき」と読まれた事例があります (>>90)。


[94] >>1 >>105 の写真見ると草書 () は字形が似ていますね。 元号名の元ネタは慶長そのものの可能性、あると思います

紀年法

[384] 元年は、 です。


[396] 元年、 2年がであることは、

から決定できます。

経緯

[409] 奥能登では、 1月初め頃から少なくても2月終わり頃まで使われました (>>122)。 農民役人の用例が見つかっています。

[410] 静岡県下では、 少なくても2月初め頃に使われました >>117農民の用例が見つかっています。

[411] 薩摩藩では少なくても2月頃から3月頃まで、 おそらく1月頃から4月頃まで使われました。 役人の用例が見つかっていますが、 住民も含め広く使われていた可能性があります。 4月の中頃に江戸藩屋敷で発覚し5月の初め頃に鹿児島に連絡がありました (>>361, >>374)。

[412] これらより、 (= 慶喜元年) 末頃に改元情報が発生し、 年末年始全国各地に伝播し、 (= 慶喜2年) の初めのうちにしばらく信じた地域があったと推測できます。 現在知られていない地域でも使われたことがあったかもしれません。


[47] 福井県下の短刀銘は「慶喜元年正月大吉日」で (>>227)、 唯一辻褄が合わない用例です。

[67] 改元は年中に行われるので、 「元年正月」 銘がリアルタイムで作られることはあまりありません (1月中に改元があり、1月中にそれが伝わった場合のみです)。

[413] 「正月大吉日」もそうであるように、刀剣銘は縁起を重視することがあり (>>286)、 月日単位の正確性はさほど重要とは思われません。 慶喜への改元(というデマ)を知ったのがいつであれ、 遡って「元年正月大吉日」とめでたそうな表記を選ぶのは、 ありそうなことです。

[414] あるいは年末年始をまたいで改元情報が伝わったため、 新年 (= 慶喜2年) を「慶喜元年」 とする説が一部で行われた可能性もあります。

[415] そのような1年ずれの事例は中世東国私年号でみられます。

[71] この年始という時期に改元デマが広まったのは、 火のない所に煙は立たぬ、まったくの出鱈目ともいえません。

[70] 後光明天皇は、 寛永20(1643)年10月3日践祚寛永20(1643)年10月21日即位礼がありました。 そして寛永21(1644)年12月16日正保改元がありました。 改元デマはちょうどこれらの間です。

[69] この間改元に向けた具体的な動きはありませんでした (>>367)。 先代の明正天皇代始改元がなく、 3代にわたって寛永が20年以上も続くことになっていました。 これは前例がないと朝廷から要求があって結局改元が決まったのがの後半でした。

[424] 中世東国私年号は「改元のあるべきところにない」とき改元デマとして発生することが指摘されています。 慶喜も、「代始改元があるべきなのにない」状況で生じたものといえます。


[425] 江戸時代改元は、 朝廷から江戸幕府へ、江戸幕府から諸大名へ、 初藩江戸屋敷から国元へ、 庁から一般庶民へ、 と伝えられました。 改元手続き

[426] それ故に本来なら江戸屋敷が把握しているはずの改元を知らないうちに薩摩藩が実施していたことに驚愕し困惑することになるのです (>>37)。

[427] 近世的な改元伝達機構が未成熟の近世初期にあって中世的な改元伝達の旧習が役人まで巻き込むレベルで残存していたと見ることもでき、 改元伝達の実態解明のためにも大変興味深い事案といえます。

用例

[385] これまでに日本国内

の合計15件の用例が知られています。

[391] また、同時代の記録が3件、江戸時代の考察が1件残されています (>>239)。

福井県下の用例

日時事例

[280] 慶喜元年銘短刀 (>>227) には「以南蛮鉄越前康継」とあります。 2代下坂康継の作刀と知られます。 2代康継は寛永元年や正保元年の作刀事例がありますが、 慶安元年には既に死去していました。 >>46

[281] 銘文には 「敦賀気比大神宮奉掛御宝前尾張住人杉江長七」 とあります。 日本尾張国に住む杉江長七気比大神宮に奉納したことが知られます。 >>46

[285] つまり尾張の住人が発注し越前の刀工が制作して越前神社に奉納した刀の銘文に 「慶喜元年」が使われていることになります。

[353] この短刀が文化財指定等されているとの情報は見当たらず、現状は不明です。 氣比神宮の所蔵でしょうか。

[354] 氣比神宮米軍の空襲により焼かれてしまいましたが、 に詳しく紹介されたものである (>>46) からには無事だったのでしょうか。

石川県下の用例

日時事例

[392] 日本国石川県奥能登地域 (旧加賀藩領) の旧家などに多くの用例が残されています。

[99] 日本国石川県輪島市に残された上梶家文書に属する文書に用例があります (>>170)。 上梶家寛永期から加賀藩十村役を務めた有力農家です >>1

[119] 加賀藩の地方統治機関である奥郡御算用場が発行した受領書に用例があります (>>115)。役人から地元の農民に対して発行したものです。

静岡県下の用例

日時事例

薩摩藩領の用例

日時事例

[239]薩摩藩領関係で慶喜を使った文書慶喜に関する議論の記録があります。

[355] 旧記雑録 は、薩摩藩内の古文書等を集成したものです。 薩摩藩記録奉行伊地知季安 (-) 文政時代の頃から作業を開始し、 伊地知季安によって明治時代まで編纂が続けられました。 昭和時代鹿児島県より鹿児島県史料として刊行が開始され、 令和時代現在も続いています >>307

[356] 現在ウェブ公開されている範囲の 旧記雑録 中には慶喜関連文書が数点含まれています。 うちいくつかは藩内での書写に由来するらしい重複です。 各文書には 旧記雑録 編者によるらしい注釈の他に別筆朱書の注釈も加わっていますが、 どれがいつ誰による注釈なのかは検討が必要です。


[38] >>324 >>340利息に関する書付と、それを写して注釈を付けたものです。 いつのものかは定かではありませんが、本文中字下げされた部分に、 12月から慶喜2年2月まで、月数77ヶ月 (閏月込み) とあります。 (ただし >>340 は71ヶ月となっています。)

  • 寛永14年 12月 : 1ヶ月
  • 寛永15年 : 12ヶ月
  • 寛永16年 閏月あり : 13ヶ月
  • 寛永17年 : 12ヶ月
  • 寛永18年 : 12ヶ月
  • 寛永19年 閏月あり : 13ヶ月
  • 寛永20年 : 12ヶ月
  • 寛永21年 1月, 2月 : 2ヶ月

で合計77ヶ月であり、慶喜2年とはを指すことがわかります。

[27] >>324 >>340 とも慶喜2年にを意味すると注釈があり、 計算と一致しています。


[357] >>328薩摩藩士の根占重永 (-) (禰寝重永, 藩主島津忠恒) による文書ですが、 日付が慶喜2年申3月となっています。

[358] >>328 の注釈には、慶喜は当時の誤りでに当たるとあります。

[359] 残念ながら近い時期に根占重永発給文書は他に収録されていませんが、 他者のものでは寛永21年2月22日 (378番)、寛永21年4月2日 (391番, 392番), 寛永21年4月5日 (394番), 寛永21年4月大吉祥日 (395番、文中に根占重永言及あり) など寛永と明記した文書があります。

[360] >>334 は藩主島津光久の子島津綱久 (-) から薩摩藩種子島忠時 (-) に宛てた文書です。 日付は3月12日で、朱書とされています。 >>334 本文には「改年」云々とあります。 これが改元を指すのか新年を指すのか、あるいは他の意味なのかは検討が必要ですが、 いかにもな時期なので一応紹介しておきます。


[361] >>314林鵞峰から島津久通への4月12日付文書です。 >>318 >>622新納久詮島津久通から北郷佐渡守山田有栄らへの4月13日付け文書です。 >>622写本です。

[362] 林羅山 (道春) (-) , 林鵞峰 (春斎) (-) 親子は江戸幕府儒学者でした。 正保度を含む改元にも江戸幕府方で関与し、 春斎が子孫のために改元の事情を記録したという改元物語は現在では当時の改元手続きの基礎的な史料となっています。 当時は日本武蔵国江戸に居住していたと思われます。

[363] 新納久詮薩摩藩家老でした。 島津久通 (-) 薩摩藩士で、 後に家老となりました。 この2人は当時は日本武蔵国江戸の藩邸に居住していたと思われます。 島津久通江戸滞在中に春斎の門人となりました。

[364] 北郷佐渡守薩摩藩士でした。 山田有栄 (-) 薩摩藩家老でした。 この2人は当時は日本薩摩国鹿児島に居住していたと思われます。

[31] >>314 には寛永20年と朱書があり、 に配置されています。 >>318 には年がありませんが、 >>314 の次に配置されています。 >>622 は明暦2年と朱書があり、 に配置されています。

[26] >>318 >>622 は明らかに同文です。 >>318 文中に春斎への照会の旨があり、 >>314 はその春斎からの返答であることが明らかです。 >>318 末尾には、4月13日の書状が5月5日に届いた旨が書かれています。 また、春斎の書状にも言及があります。 >>318 >>314 は同じ年に書かれ、 セットで鹿児島に届いて保管されたと解釈するのが自然です。

[28] >>314 >>318 とも、 林羅山林鵞峰が「御即位」につき上洛した旨の記載があります。 >>314 に「去年」とあります。 後光明天皇寛永20(1643)年10月3日践祚寛永20(1643)年10月21日即位礼で、 これに関係しているのだとすると、 4月と解釈しなければなりません。

[32] 説、 説はどちらも誤りで、 年月が経過してから整理した際に誤認したのでしょう。

[37] >>314 >>318 には次のような記述があります。

[416] この時代の薩摩でどのようなが使われたのかはよくわかりません。 薩摩暦の創始は貞享暦の頃とされます。

[374] >>349種子嶋左近丞伊集院右衛門佑から申5月10日付で発出された文書で、 春の札改改元があったからと改札慶喜と書いていたものを、 改元デマだったため寛永に書き直すかどうかの話になっていたことが書かれています。

[375] >>349日付は申年としかありませんでしたが、 と書き入れがあります。 >>345 によると >>349加久藤古帳に書かれていたもので、 >>340 に書かれた「慶喜二年」の解釈に使われました。

[376] 加久藤古帳は他に用例が見つからず不明ですが、 薩摩藩加久藤地域でそのような記録があったのでしょう。

[377] >>345伊地知季安の記述なのでしょうか、それとも更に古い記録の引用でしょうか。 時期不明ですが、これが慶喜の研究史上の初出と考えられます。

慶貴

[90] 日本国鹿児島県薩摩川内市一部欠損 (けいき) 2年 (おそらく没年) の (五輪塔) を 「つい最近」 みたという証言があります。 中世末期 (西暦1500年代) から近世初期頃のだといいます。 >>91 40分頃

[378] 日本国鹿児島県姶良市ラジオ局あいらびゅーFMで放送され、 YouTube で配信開始された たっつぁんのテラバナシ川田達也が紹介しました。

[380] 川田達也 (-) ブログで10年以上にわたって鹿児島県下の石造物の写真を公開しています >>379。 しかし慶貴2年墓は掲載されていません。

研究史

[417] 正体が不明となっていた昭和時代に色々な説が提出されました。

改元デマ説

[393] 江戸時代末期の日本薩摩藩の歴史研究者伊地知季安の記録中 (>>345) に、 文書中の「慶喜二年」を当時の薩摩藩公文書を引いて正保改元時の改元デマと考察したものがあります (>>377)。

[394] これが当時の用例そのものや同時代の公文書等を除いた研究史上の慶喜の初出といえます。 同時代記録にアクセスできたことで改元デマという「正解」に初めからたどり着けていました。

[395] しかし残念ながらこの考察は平成時代まで広く刊行されることがなく、 他地域の研究者は独立した検討を重ねることになります。

[279] 日本国静岡県下の用例 (>>269 >>270) は昭和10年代が研究史上の初見でしたが、 ママ注のみで年代の比定は行われていませんでした。 日本国石川県下の用例は昭和20年代が研究史上の初見でした (>>254)。 これらはしばらく埋もれていました。

慶祝年紀説

[233] 佐藤貫一 (-) は、 昭和時代日本刀研究の権威として知られ、 には東京国立博物館刀剣室に勤めていましたが、 著書 康継大鑑 で多くの刀剣類の1つとして慶喜元年銘短刀 (>>227) を紹介しました。 >>46

[282] 本書がこの短刀の現在知られている初見ですが、これ以前から知られていた可能性はあります。

[283] 本書によれば、銘文は「慶喜」としか読めません。 しかし日本支那朝鮮元号にはありません。 古くは私年号というものがありましたが、それも鎌倉時代以後にはありません。 >>46

[293] 私年号鎌倉時代以後にないという事実はなく、何らかの誤解と思われます。

[286] そこで本書は 「元年」「正月」「大吉日」と共に「最上のよい日」を意味する 「慶祝年紀」だと推定しました。 それが奉納者の創案なのか、作刀者が奉納者の意を察したものなのかは不明としました。 >>46

[48] ただ本書は 「慶喜元年正月大吉日」は「慶祝年紀」だと断定しながらも、 こうした例は康継にも他にもないと書いています。 >>46 /392

[49] 刀剣の専門家である筆者がこう推測するのは、 銘文に目出度い文句を書く事例が多いからでしょう。 古くは五月丙午のような例があります。 が、元号名の事例はなかなかみません。 「元年正月大吉日」に目出度さを感じた可能性は確かにありますし、 , がいかにも目出度い文字ではあります。 しかし類例がない限りは慎重になりたいところですね。 「慶喜」に改元して目出度いのに合わせて 「元年正月大吉日」 という日付を選んで書いたという逆向きの可能性もあるでしょう。

[45] 本書は二代康継は「余程の洒落者」だったとみて銘文の事例を3つ挙げていて、 そのうちの1つが 「慶喜元年正月大吉日」のようなものは「慶祝年紀」です。 他の1つはの字で、「如何なる辞書にもなく」 訓みを推測しています。 >>46 /103

[287] ところがその康煕字典にも大漢和辞典にもあり、 現在はJIS第2水準漢字にもなっています。 昭和時代当時は見つけることが難しかったのかもしれませんが、 実は普通の漢字として用いられているものですから、再考が必要でしょう。 洒落者という評価も例示の23が疑わしいとなれば怪しくなってきます。

刀剣研究者の私年号説

[295] に刊行された講演記録で日本の刀剣研究者福永酔剣 (-?) は、 刀剣銘文の日時表示の解釈をめぐって私年号をいくつか紹介しています。 >>50

[296] 慶喜は「私年号と見るべきもの」であるとし、 当時私年号空白期とされていた近世私年号の存在を実証する貴重な資料と指摘しました。 >>50 しかしその判断の根拠は示していません。

[299] 日本の刀剣研究者すいけんは、 刀剣銘文にみられる私年号をいくつか紹介しています。 >>297

[300] 慶喜を「慶祝年紀」とする康継大鑑説 (>>286) に対して、 慶喜永喜のように私年号だとしています。 そして「作品からみて寛永年間と断定し、 近世私年号がないとする定説を覆す貴重な資料と指摘しました。 >>297

[303] 日本の刀剣研究者福永酔剣は、 慶喜元年銘短刀 (>>227) の銘文を検討しました。 >>302

[294] 慶喜を「慶祝年紀」とする康継大鑑説 (>>286) に対して、

を挙げて、慶喜慶長にヒントを得た私年号と見るべきだとしました。 >>302

[301] >>52 中で福永酔剣, すいけん, 酔剣の3名義が登場し、 国立国会図書館目次データでは福永醉剣とも表記されていますが、 いずれも同一人物でしょう。

慶長説

[204] 日本国石川県能登地方の用例は昭和20年代が研究史上の初見で (>>254)、 昭和40年代になって存在がよく知られるようになりましたが、 当初は時代と字形が近い慶長と誤認されていました。

[100] 輪島市史資料編は、 上梶家文書から慶喜の用例2件を収録しました (>>181 >>98)。 慶喜慶長の誤りではないかと疑い、 慶長2年の見出しをつけて配置しました。 >>3

[201] 刊行の 加能古文書 の補遺は、 上梶家文書から慶喜の用例2件を収録しました (>>196 >>200)。 慶喜慶長翻刻されて、何の注釈もありませんでした。 >>18

[202] 輪島市史加能古文書の収録する2件は同一のものです。 両者に参照関係なり、同じ調査結果からの書籍化なりの関係性があるのかどうかは不明です。 田川捷一加能古文書輪島市史を引いたと思えると書いています >>164

[203] 加能古文書 が注釈もなしにと読んだ理由も不明で、 誤読の可能性もありますし、 草書㐂󠄂のように見えなくもないので、 敢えて注釈するまでもない軽微な誤字として暗黙に校訂した可能性もあるでしょうか。 いずれにせよ翻刻にはこうした「正規化」が紛れ込んでいるケースが他にもあろうこと、 注意が必要です。

[208] 加能古文書 の補遺は、の原編者死去以後に編集されたものとのことで、 少なくてもその頃までには慶喜の存在も研究者に知られていなかったと考えられます。

[209] に刊行された輪島市史の編集のための調査 (やそれと前後した頃であろう加能古文書補遺のための調査) で慶喜が初めて見出された可能性が高そうですが、 単純な誤記と片付けられて重視されなかったと思われます。

能登地域史研究者の私年号説

[92] 石川県で見出された慶喜慶長の誤記ではなく私年号であることは、 昭和50年代の調査研究で田川捷一らによって明らかにされました。 田川捷一 (-) 昭和時代能登近世史の研究者です。 日本国石川県七尾市小学校長を務めたほか、 能登地方各地の自治体史の編纂にも関わりました。 私年号関係では他に久宝の再発見にも寄与しました。 昭和50年代に続々と刊行された自治体史等に、 新発見を通じて私年号説が発展していく様子が残されています。

[108] 田川捷一は、 上梶家文書の調査で慶喜2年文書を再発見しました。 >>4 ところがその本文は輪島市史説では時代が合わないことに疑問を持ちました。 >>4

[207] 田川捷一は昭和51年度の上梶家文書調査を率い、 昭和52年刊行の報告書で私年号説を発表しましたが、 それに先立ち昭和51年1月印刷の市史にもその見解が反映されています。 市史編集のためか他の事業か個人でかはわかりませんが、 昭和51年度になる前にも調査を行っていたのでしょう。 市史の慶長説に疑問を持ち私年号説に至ったのはおおよそからの間と思われます。 時点で慶喜の考察が公表されていたのか、 関係者間の情報交換に留まっていたのかは不明です。

[212] 田川捷一によると、 年表にない慶喜慶長の「間違いと想うのは当然」で、 輪島市史資料編や増訂加能古文書は 「間違えて掲載してあり」ます。 >>164

[213] ところが、慶喜2年文書(B) (>>96) には

との問題があり、 説では通説の再考を要します。 >>164

[216] そこで他の文書を参照すると、

であることから、これらを総合して慶喜2年の実年代と判明します。 >>164, >>4

[219]その後」昭和52年の報告書までに、石川県下で慶喜文書(F) (>>112), 慶喜文書(G) (>>189), 慶喜文書(H) (>>115) が知られるようになりました。 >>164 慶喜文書(F) (>>112) は、 慶喜文書(H) (>>115) はのことが書かれており、 慶喜2年をとする結論を強化するものといえます。

[110] 能都町史によると、 次の用例が知られていました。 >>4

[121] >>9 >>10 は「その後」判明したとのことです。 >>4 具体的にいつかは不明なのですが、 昭和50年代中頃でしょうか。

[278] 増参寺文書慶喜文書 (>>269 >>270) は慶喜2年申と十二支年が明記されており、 慶喜2年をとする結論を強化するものといえます。

[211] 輪島市史通史編は、 慶喜は「正式のものではない」「私年号」 であると説明していました。 >>41 目録解題は、 慶喜年表にない「いわゆる「私 年号」」 だと説明していました。 >>164

[120] その私年号というものは、 「年号は朝廷で決められ、みだりに私年号を使用することは禁じられていた>>164、 「私年号は勝手に使用できなかったのである>>4 と説明されていました。 しかしその根拠は何も示していませんでした。

[143] 朝廷なり幕藩なりが「禁止」するというからには、 市井にそのような発想があった、 禁止しなければ私年号が濫りに用いられる実態ないし現実性があった、 ということになりますが、 果たしてそのような社会だったのでしょうか。 私年号禁止説については日本の私年号も参照。

[205] 輪島市史通史編は、 「幕藩体制づくりも延びなやみ何となく行きづまりからの脱出 を願う気持ちが原因」 で生じた私年号と推測しました。 >>41 これも田川捷一の見解のうちなのかは定かではありませんが、 この時点ではまだ田川捷一もこの見解に少なくても反対ではなかったと思われます。

[103] 理由の説明は意味がいまいちよくわかりません。 能登の農民が幕藩体制づくりに挑戦していたのでしょうか!? 理由の推測にいい考えに及ばない行き詰まりの気持ちが表れているようなw
[104] マジレスすると私年号にはその時代の政治情勢が現れてくるという 日本私年号の研究 の推測説を慶喜の場合に当てはめようとしたのでしょうね...

[66] ところが、 慶喜文書(F) (>>112) と慶喜文書(H) (>>115) の差出人は加賀藩御算用所の役人や郡奉行で、 つまりこれらは公文書であるにも関わらず私年号を使っています。 当時の加賀藩は反幕の姿勢を疑われ寛永の危機とも言われた時期に当たり、 敢えて私年号を使って江戸幕府の反目を買う必要もありません。 >>164, >>4

[118] の報告書では、

と3説提示していました。 >>164

[228] 筆者も断定を避けていますが、どうにもしっくり来ないですね。

[229] 改元物語の「例」「古例」というのもよくわかりません。 改元物語自体は近世初期の改元について江戸時代初期の幕閣が記録したものです。 改元物語に記録された「1元号で3天皇にまたがらない」 慣例を指すようにも思われますが、 説1の「例」はそうだとしても、説2の「古例」はよくわかりません。

[230] 説2の正月だけ特別な元号を使うというのは他で聞いたことがない風習です。 元号を作るというのも聞いたことがありません。 (私大の例もありますし、他にないからあり得ないとは言い切れず、 検討するのはいいことですが、説得力に欠けます。)

[231] どころか出先機関でだけ祝賀のために使ったという説もかなり無理を感じます。

[232] 改元物語の「古例」から出た説2がなぜ藩主の子供の誕生祝いになるのかもよくわかりません。

[237] 私年号の性格を大きく変えてしまっているというのもよくわかりませんが、 反政府とまでいかずとも社会不満・不安の現れという昭和時代当時の通説的(中世)私年号感と乖離しているということを言っているのでしょう。 ちなみにこの祝賀説を採るなら、類例は征露ですかね。

[238] この時点では説2が一番有力と考えていたように文章からは感じられます。

[109] 能都町史は、 後光明天皇即位があったこと、 1つの元号で3代の天皇にわたる例がなかったことから、 代始改元誤報があったと推測しました。 >>4 つまり報告書3説のうち説1 (>>221) のみが残りました。 これはこの間に新たに静岡県の用例が報告されて説2 (>>222) が成立し得なくなったためと考えられます。

[124] 私年号として実用されたものが実は改元デマだったと考えた早い例です。 中世東国私年号では千々和到が唱えたのが初めでした。 千々和到
[123] ただ、消去法で残った説で、 改元デマと判断するべき確証に欠けるのは残念です。

[122] 用例から、「慶喜2年」の1月から2月の頃に誤報が伝わったものと推測され、 奥能登静岡に分布するため今後の各地からの発見が期待されるとしていました。 >>4 果たしてその後薩摩でも発見されることになります (>>239)。

[111] なお上梶家文書には

の文書があり、完全に時期を絞り込むには至らないまでも、 慶喜が通用した期間が短かったことが確かめられます。

[284] 越前の刀銘用例 (>>227) はの時点で既に知られていたにも関わらず (>>102)、 の報告書でも一応申し訳程度に関係を示唆する程度で (>>226)、 関係性を十分検討し切れず、 静岡の用例が知られるに至って加賀藩独自説を破棄することになりましたが、 その後も説明に組み込まれていません。

[298] 干支がなく静岡の用例と違って時期の確定に直結しなかったことや、 「慶祝年紀」説は知っても刀剣研究者の私年号説は知らなかった (引用されていない) こと、 前田藩領と同じ北陸ながらも能登から遠い小浜藩 (藩主酒井忠勝) 領の敦賀所在で尾張人の奉納という微妙な扱いにくさ、 そして「元年正月」という改元デマ説と矛盾する日付のため、 扱いあぐねていたのでしょうか。


[141] 輪島市の広報誌の上梶家文書の紹介では、 わずかな紙面で慶喜文書が代表例として取り上げられており、 今なお地元で高く評価されていることがわかります。 >>137

[142] しかしよく見ると図題はまったく間違っています (>>139)。 「「慶喜」など公的に用いられない私 年号の文書>>137 と説明された「など」は何を指しているのか気になります。 「慶喜 2 年は私年号で公的に禁止されていた。 実際は、寛永 21 年(1644)に比定される。>>137 というわかるようなわからないような説明は、 先行する解説 (>>120) を踏襲したものでしょうか。

[1] 石川県/上梶家文書・平家文書 (石川県著, ) https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/komonjyo/k-16.html

特異な文書として、「慶喜2年」(寛永21年《1644》の私年号使用の文書や、「急々如律令」の文言をもつ呪符、さらに、承応4年(1655)より明治3年(1870)にいたる161点の暦の伝蔵は、県下に類例はみられない。

昭和60年「石川の文化財」より


[248] 和嶋俊二 (-) は、 昭和時代日本国石川県能登地方で高等学校長などを務めながら、 地域史を研究しました。 慶喜の他に法徳にも寄与しています。

[249] 夏、高等学校教員だった和嶋俊二は、 民俗学社会学など9学会の能登調査の際に偶然、 尾間谷家文書を調査することができ、 翻刻文をに発表しました。 >>247

[251] そのうちの1つが慶喜2年文書でした (>>189)。 元号名にはママ注が付されていました。 また、

  • [25] 宛名の人々は寛永の文書などに出ているので、 あるいは慶長
  • [252] 紙質、書体ともにその頃のものと考えられる

と注釈していました。 >>247

[253] つまり寛永に近い慶長ではないかと考えたものの、断定までは避けています。 誤記と誤読のどちらを疑ったのかはっきりしませんが、 慶喜と書いてママ注を付けているので誤記と考えたのでしょうか。

[254] 従って慶喜という元号名も、慶長比定説も、 実はこの論文が近代史学的な初出ということになります。 寛永時代と見抜いたのも慧眼です。 しかしこの成果はしばらく埋もれていました。

[75] 時代は下って平成時代和嶋俊二法徳に絡めて慶喜も簡単に考察しています。 >>151 この間の新たな発見を踏まえて私年号説となっています。

  • [76] 慶喜2年 = 寛永21年 = 正保元年 =
  • [77] 珠洲市南山 尾間谷家文書
    • [81] 「慶喜弐年正月廿一日」
    • [80] 法徳に関連して参照された「天正元年八月六日」文書の南山九郎兵衛の末孫の文書。
    • [84] 郡奉行3人宛。
  • [78] 延武文書
    • [83] 「慶喜弐年正月九日」
    • [82] 寛永19年分年貢の件
    • [86] 御算用所奉行5人連署
      • [87] うち3人は尾間谷文書の郡奉行3人
      • [88] 他文書より、珠洲郡の飯田御算用場。
    • [85] 藩主側用人?宛
  • [79] 輪島市上梶文書
  • [89] 「慶喜」は奥能登だけ、正月1ヶ月だけ通用した私年号だろう.
[19] 奥能登の研究: 歴史・民俗・宗教 - 和嶋俊二 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=3V1MAQAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

203 ページ

... をしたいう出つ迄罷越、最前被仰出之ことく御請可申上之由申候へとも、一度御仰付を背申付而于今相延申候、此上ハ御けちろんとおほしめし人なみ之御百姓ニ罷成申候様ニ御相談ヲ以被為仰付被下候ハゞ難有森可奉存候、以上若山与之内(ママ)慶喜弐年正月 ...

204 ページ

言 204 ニもにその頃のものと考えられる文書) [追記、慶喜二年=寛永二十一年]すなわち前田藩は天正十一年から、元和六年にかけて検地を行っているが、これはその間における有様であろうか。この検地を通して過去の中世的な勢力がほとんど一掃されるので ...


[58] https://dl.ndl.go.jp/pid/2246681/1/28 (非公開)

歴史手帖 3(7)(21)

雑誌

名著出版 [編] (名著出版, 1975-07)

28 コマ: 間を示すその年号は「慶喜」。(北国新聞金沢5/5)奥能登初の繩文前期の土器繩文中期と見られていた

[160] https://dl.ndl.go.jp/pid/2246700/1/30 (非公開)

歴史手帖 5(2)(40)

雑誌

名著出版 [編] (名著出版, 1977-02)

30 コマ: 。例えば「久宝」や「慶喜」など、県立図書館の調査で明らかにされた。(読売新聞高岡12/12)▽徳

[161] https://dl.ndl.go.jp/pid/2246743/1/28 (非公開)

歴史手帖 8(9)(83)

雑誌

名著出版 [編] (名著出版, 1980-09)

28 コマ: 前が連署された後に「慶喜二年二月二十一日」と年号と日付けが記されている。「慶喜」という年号は


[73] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
慶喜-寛永20年(1643年)不明『上梶家文書』

[74] >>73 なぜ継続年数が「2年以上」となっていないのか謎。 筆者が上梶家文書を直接参照したとは思えず、何かしらからの孫引きと思われる。

林業史研究者の私年号説

[255] 山口隆治 (-) 日本国石川県の歴史研究者で、 近世地域史を研究しています。 前田藩林業政策七木の制の研究の前提として慶長2年説の当否は重大な関心事であり、 当該慶喜2年文書 (>>96) について検討しています。

[256] 論文 >>154 が最初の言及です。 翌に続編論文 >>155 があります。 (いずれも未見)

[145] これらに関係して、山口隆治の単著では、

を引用しています。 >>144 /52 左 (6)

[158] ところが、 発行元の江沼地方史研究会の公式サイト上でも、 所蔵図書館の書誌情報でも、 この題名の論文は第22号に収録されています。 >>146, >>147 第23号には山口隆治の後続の論文が収録されていることになっています。 >>146

[159] 明記されていませんが、 山口隆治の単著のうち第三章 >>144 /35 はこの2つの論文を統合再構成したもののように思われます。 そのために著者本人も混同して誤引用してしまったのではないでしょうか。

[259] さて、そのの単著では、

と指摘して、 説の再考を促しています。 >>144

[262] この2点は初出論文刊行と同じの報告書が指摘した説の問題点 (>>213) と同じです。 報告書サイドと本書サイドで独立して同じ課題を検出したのか、 参照ないし情報交換があったのかはわかりません。 (この程度なら独立して一致しても偶然とは言い難いでしょう。) 本書は注釈(9)で「最近刊行された」として報告書を引いてその私年号説を紹介しています >>144 /43 が、 本文はそれに言及していません。 本文を書き上げてから報告書を読んだ可能性もあるでしょう。

[16] 注釈(9)では山口隆治が師事した研究者所三男の見解も示されています。 >>144 /43

[63] 所三男は、加賀藩の慶喜2年文書に関係して (>>16)、

との見解を示しました。 >>144 /43

[266] 所三男 (-) は、 日本林業史研究の草分け的な研究者でした。 特に尾張藩が専門でしたので、 木曽天竜という地域にも馴染みが深かったと考えられます。

[65] 所三男の弟子に当たる山口隆治が伝聞で記したもので、 山口隆治の研究に関する助言ですから、 所三男の論著にあるとか研究していたとかいうことでもなさそうで、 研究上たまたま得た知識なのでしょう。

[267] そうなると木曽天竜に2,3点というのもどれだけ正確なのかわかりません。 磐田の用例 (>>117) と同じものなのか、別にあるのか、どうなのでしょうか。 磐田を指して木曽天竜というのかどうかは絶妙なラインです。

  • [144] 加賀藩林制史の研究, 山口隆治, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12009989/1/35 (要登録)
    • [13] 加賀藩林制史の研究 - 山口隆治 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=bb8eAAAAMAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

      8 ページ

      寛政九年の十村役列は、左の如く九階層に区分されていた。 ... 両人の「由緒書」にも「寛( 6 )一、無組御扶持人之始は、山本清三郎等四人、寛文元年改作奉行被仰付、存寄可申上旨被仰出候処、一郡一人宛成とも、縮 ...

      しかし、慶喜二年(三章一節を参照)の山林縮に関する定書の一条には「一、在々脇之者家作り申時分致吟味、七木少も遣申候者有様=村肝煎方十村かたへ理り可申御事」とあ既に慶喜二年に「十村」の名称を見ることができる。後述するが、この十村の上には、承 ...

      59 ページ

      山口隆治 59 第三章加賀藩の七木の制について 右の御立書は、「輪島市史資料編第一巻』所収の「上梶家文書」に慶長二年のものとして掲載されたものである。右の御立書の日付では「慶喜弐年正月廿一日」と明記するものを、『右書』において「慶長」の誤記 ...

      73 ページ

      山口隆治 73 333 第三章加賀藩の七木の制について ( 9 )所三男氏の御意見では、「慶喜」年代の文書は木曽・天竜地方でも二・三点見られ、「私年号」であろう。また、その年代的位置としては、寛永末から正保頃とのことであった。最近刊行された『能登輪島上梶家文書目録』(石川県立図書館)には、次の八点の慶喜年代文書を紹介している。( 8 )『史料二』三六頁( 7 )『輪島市史・資料編第一巻』一一一頁( 6 )前掲「徳川時代に於ける林野制度の大要」(『山林彙報』三二ー三)一五五頁( 5 ) ...

      74 ページ

      ( 2 )『資料』六〇〇頁( 11 )『資料』四三四頁( 10 )『資料』一二九頁同書では、この中の F と H が加賀藩の御算用所と郡奉行より出された藩の公文書であることを指摘しながら、「慶喜弐年」の実代年代は寛永二一年であるとしている。

      そして、加賀藩が慶喜の私年号を使用した理由として「『改元格』の例から慶喜と改元されたと誤って伝えられた。それで、慶喜年号は正月の一と月だけで、誤りが判明した後、使用したかったと思える。また、逆に『改元格』の古例により、 わざわざ加賀藩が『慶喜』というめでたい年号を正月のみ使用したとも思える。 その理由の一つに、五代藩主となった綱紀が寛永二十年十一月十六日に生まれたので、寛永二十年を慶喜元年として、二十一年正月だけを祥瑞記念として使用したのかも知れない。しかし、これも問題がある。それは、慶喜年号の遺存があるのは現在のところ奥能登だけで、それ以外の地では発見されていない。

      ページ

      116 , 126 , 133 , 135 七郎右衛門(小泉村) 120 ..34 私年号: .73 119 柴山 93 , 106 , 147 , 150 107 , 116 柴山割· 103 40 , 44 島崎丞 49 • 47 嶋田久次郎... 141 .46 御鷹山 28 , 49 鎌留山· .36 iii 五兵衛(田井村) .96 11 下鳥越村(鳳至)

  • [146] 第21号 昭和51年(1976) - enumatihousi2 ページ!, https://enumatihousi2.jimdofree.com/%E3%81%88%E3%81%AC%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%AB%E7%9B%AE%E6%AC%A1/21%E5%8F%B7-30%E5%8F%B7/
  • [147] 「慶喜」年代文書と七木の制度について | SHOSHO | 石川県立図書館, https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/E000001110
[14] 加賀藩山廻役の研究 - 山口隆治 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=tFw6AQAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

17 ページ

ところで、『増訂加能古文書」「輪島市史」には慶喜二年(一六四四)の山林縮に関する御法度書を、慶長二年(一五九七)の誤記として収載する。その一部を左記しよう。御法度立書之御事一、七木之儀者不申上及御事一、唐竹戴之御事一、野竹數之御事一、薙畑仕 ...

18 ページ

右之趣私共与中へ堅申付、御誕之通相背候者御聞御見付被成次第急度可被仰付候、其時一儀之子細申上間敷候、仍後日之書付如件慶喜関年正月廿一日名舟与太郎左衛門嶋田勘右衛門樣小森又兵衛様三吉佐助様(故人)は慶喜年号の文書が木曽・天竜地方にも三点ほど ... 「慶喜」は私年号(偽年号・異年号・逸年号)であり、現在、能登国奥郡(珠洲・鳳至郡)に限って「慶喜二年 ... 加賀藩主五代前田綱紀は寛永二〇年一一月一六日に誕生しており、寛永二〇年一二月を慶喜元年とすると共に、翌年正月だけを祥瑞記念として使使用したとも考えられよう。ただ、これは能登国奥郡に限って使用された説明にならず、また所三男氏 討を必要と ...

79 ページ

「指上申名舟与借塩釜貨銀之事」(慶喜式年正月廿日)「御法度定書之事」(慶喜式年正月廿一日)「川除普請心付与中人足願」(慶喜式年正月廿一「用水川崩心付与中人足願」(慶喜式年正月廿二「永代立申田中屋敷之事」(慶喜式年正月廿七日)「寬永拾九年若山与御 ...

[15] 加賀藩林野制度の研究 - 山口隆治 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=A9cxAAAAMAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22

48 ページ

( 2 )ところで、「増訂加能古文書」「輪島市史」は慶喜二年(一六四四)の山林縮に関する御法度書を、慶長二年(一五檜・栗(七樹)が、同一一年(一七二六)に松・杉・桐・樫・槻・檜(六樹)が七木であった。なお、加賀国でも天明六年(一七八六)に石川・河北両郡が ...

49 ページ

慶喜弐年正月嶋田 た林制は、ここに至って一本 49 第 2 章留木制度の設定 七木制度は能登国奥郡で創始され、その後能登国口郡および加賀・越中両国でも施行されたものの、七木の種類は用されていた。( 5 ) ( 1 )保」と改元した。 五代綱紀は寛永二〇年一一月一六日に誕生しており、寛永二〇年一二月を慶喜元年とすると共に、翌年正月だけを祥瑞記念として使用したとも考えられよう。ただ、これは能登国奥郡に限って使用された説明にならず、また所三男氏は慶喜年号の文書が木曾・天竜 ...

66 ページ

山口隆治 66 「指上申名舟与借塩釜賃銀之事」(慶喜弐年正月廿日)「御法度定書之事」(慶喜弐年正月廿一日)「川除普請に付与中人足願」(慶喜弐年正月廿二日)「用水川崩に付与中人足願」(慶喜弐年正月廿二日)「永代立申田中屋敷之事」(慶喜弐年正月廿七 ...

現代

[428] 昭和時代に提出された諸説は、 石川県の研究者によって石川県の用例の解釈に組み込まれたものの、 全国的な視点で詳細に再検討されることはないままでした。

[429] 前項までに示したように平成時代にもいくつかの論考は発表されていますが、 ほとんど既発表論文の再刊行や既存説の再紹介の域を出ていませんでした。

[430] 私年号研究者による収集にも漏れて、一覧表等にも掲載されていませんでした。 日本語ウィキペディアにはに追加されました >>432 が、 出典は不明です (>>74)。

[433] 令和時代になって、 薩摩藩の用例と研究 (>>239) や刀剣類研究者の説 (>>295) が再発見されました。 国立国会図書館デジタルコレクション鹿児島県史料の電子版公開によって全文検索が可能になったことで得られた成果です。

[434] 今後は全国各地に未だ眠っているかもしれない用例の発掘や、 改元デマ情報の発生、伝播過程の解明が期待されます。

[435] 特に、薩摩藩近世史の専門家による精細な検討や、 旧薩摩藩領地域の金石文用例の検出が待たれます。

関連

[68] 徳川慶喜とは無関係ですが、検索ではよく引っかかります。

メモ

[2] 慶応や慶暦が OCR の誤読で慶喜になる事例がままみられます。


[59] 日本の古建築, 太田静六, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1058829/1/102 (要登録)

松本城が慶喜二年頃完成とある。隣には慶長何年が並んでいる。誤植か。

[60] 松本城天守の完成時期は諸説あり、しかし正保元年だと遅すぎる?


[54] 日本大観 第19号, 世界文化社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3042334/1/25 (要登録)

日本国岩手県台温泉の説明中に「慶喜元年」発見とある。

[56] 公式サイト説明によると1200年前、大同年間の坂上田村麻呂が発見したという伝承があるとのこと。

[57] 誤りだとしてもどこから「慶喜」が出てきたのか謎。慶雲は時代が古すぎる。 延喜は新しすぎる。


[135] 丹後観光, , https://obase-kijikanko.jp/A28-tango-kankou.html

成相寺

西国最北端の札所

慶喜元年(704年)創立

[136] >>135 慶雲が正しい。


[436] 鎌倉遺文フルテキストデータベース - 検索, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w11/search?keyword=%E6%85%B6%E5%96%9C%E5%85%83%E5%B9%B4&resultoption=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%A1%A8%E7%A4%BA&page=1&itemsperpage=200&sortby=jc_date&sortdesc=false&sortitem=%E5%B9%B4%E6%9C%88%E6%97%A5%EF%BC%9A%E6%98%87%E9%A0%86

延慶元年12月27日

延慶 () 元年十二月廿七日

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内閣文庫蔵摂津国古文書