[7] 元年とは少し違った元二年 (元2年) という表記が稀に見られます。
[46] 「元二」の原形は「五十」だったんだろうなあ。
[34] 武家年代記 (治承4年―明応8年(貞和5年―観応5年欠)) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム, https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444660000/55c00b842ca2429abec42d873f4c3f18?p=22
(明徳)「
[35] 防災関連記事|防災情報、地震災害、被災地情報、官庁地方自治体情報を発信, http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_7477.html
1390~91年(明徳元年~2年)“自元年至二年、天下大飢(如是院年代記)”“明徳二年・今年、飢饉餓死、疫癘(疫病:感染症)流布(常楽記)”。92年(同3年)“四月より十一月に至る陸奥(東方地方東部)大旱(東北地方近古饉史)”。93年(同4年)“日照りにて自四月同十一月まで雨不降候(会津塔寺村:現・会津坂下町、八幡宮長帳)”、そして“天下大飢(武家年代記)”となった。
[36] 「元二年」は書写の繰り返しで劣化した結果か? この長帳の「自四月同十一月」も 武家年代記の「自元二年至七月」も原形からかなり変わっていそう。
[164] 中世日本の東国で 「元二年」 という独特の概念が存在したとする説を、 平成時代中頃に戦国時代の文献史学研究者らが提唱しています。
[165] ただその説の主張は論者によって少しずつ違いがあります。
[166] 「元年」が訂正されて「弐年」とされています。
[82] 元から弐への書き換えは、原本写真が不鮮明で、 同筆かどうかも判定困難です。 実見した人の見解がほしいですね。
[83] 元年とすると元号年と干支年が一致せず、 嘉吉2年を表したものと解釈するのが妥当です。 >>48
[84] 元年とすると1ヶ月の遡及年号となることからも、 2年と解釈するべきです。
[99] 干支年よりと思われる日付に「文亀元弐年」とあります。 「元弐」は普通に縦に並んでいて、修正と思われる記号類も見当たりません。
[101]
この「文亀元二年」は、明治時代の翻刻 >>71 は何の断りもなく「文龜貳年」
と校訂後だけを示していました。元
を誤って挿入された誤記と見なしたのでしょう。
[103] 明治時代の翻刻本は、 この直後に同じ田所宗好の発給した別の文書を収録しています。 そちらにも同じく「文龜二年」の日付があります。 >>71 前の文書は注釈なく校訂しているので、 こちらの原文がどうなっているのか、原物を確認する必要があります。
[104] 不思議なことに、 「文亀元二年」 を指摘した山田邦明はこちらには何も言及していません。 何も言及していないということはこちらは元から「文龜二年」なのではないでしょうか。
[163] 同じ人物が書いた文書が両方「文龜元二年」となっていたとすれば、 偶発的な誤記などではなく、 最低でも4ヶ月にわたって確かに「元二年」と意識的に書いていた決定的な証拠になります。
[167] 片方が「二年」だったとすると、「元二年」と意識的に書いたか、 偶発的な誤りで書いてしまっただけなのか、両方の可能性を考える必要があります。 壬戌年の5月に「二年」と書いていたのに9月に「元二年」と書いていますから、 年始から「今年は「元二年」だ」と認識してはいなかったことになります。
[173]
香取文書中、「康正元年」文書で実際には康正2年と考えられるものが1例あります。
[176]
香取文書中、「至徳元年」文書で実際には至徳2年と考えられるものが1例あります。
[175]
香取文書中、「正保元年」文書で実際には正保2年と考えられるものが1例あります。
[169] 香取文書にはこの他にも多数の文書があります。 他にも「元年」や「二年」のものはあるはずですが、 「元二年」とされるものは紹介されていません。
[170] 「元年」「二年」文書がどれくらいあって、 「元二年」文書とどう違うのかは説明されていません。
[174]
元二年説の根拠には使われていませんが、その他にもいくつか
「康正元年」
と書いて康正2年を指しているらしき事例がいくつか知られています。
[214] 各論者が根拠とする用例には、異なる性質のものが混在しています。
[227] これら性質の違う現象の全体を整理することもなく、 少しずつニュアンスが違った主張が繰り広げられています。
[241] こうした現象が中世の東国にあったと主張されていますが、
という当然想定されるべき疑問には明確な回答がありません。
[125] 戦国時代を専門とする平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、 平成時代初期の論文でいくつかの史料をもとに、 改元の翌年を新元号の開始年とする認識が中世の東国に存在したと考えました >>19 (戦国時代東国の地域年号について, 戦国時代論, )。
について、
誤記でも誤写でもない「
と主張しました。 >>258
[120] また、天文3年条に「始ノ年」とあることを、前年の天文2年を指すと解釈し、 編者が天文の年号の「始ノ年」を天文2年としたことは明らかだと述べました。 そして、 「改元による年号の年次は二年(実質的には元年と二年)よりはじまる」 という年号観なのだと主張しました。 >>258
[126] 更には、
と主張しました。 >>258
[116] こうした主張には不明瞭な点、疑問な点もいくつかありますが、 それを質したり、否定的に論じたりする論文等は見当たりません。 肯定的に参照する後続の論文も、 先行する当論文の主張を詳しく検討することなく独自の主張を繰り広げています。
[181] 不審な点をいくつか挙げると:
[27] 室町時代を専門とする平成時代の歴史研究者山田邦明は、 の論文で、 香取社関係文書「文亀元二年」 (>>87) のほか、 「元年」が実際は2年を指す事例を康正など複数指摘し、 改元が新年に実施されるとする認識が東国に存在したと考えました。 >>19 (香取文書にみる中世の年号意識, )
[106] 具体的には、
を提示することで、「
[188] より詳しくは、次のように述べています。
[191] この「現象」に元二年という術語を付けたのは山田邦明でした。 山田邦明説は勝俣鎮夫説に導かれながらもその結論を完全に踏襲するでもなく、 しかし勝俣鎮夫説とその根拠を再検討はせず、 新たな史料を中心に再構成した新説をもって元二年と呼んでいます。
[194] 勝俣鎮夫説同様、当論文に対してもその内容を詳細に検討したものは、 肯定的なものも否定的なものもありません。
[195] 気になる点を挙げておきます。
[28]
戦国時代を専門とする平成時代の歴史研究者丸島和洋は、
の論文で、
正木文書の「康正元年」が実際は2年を指す事例 (
[205]
この発表の媒体は頁数の少ない媒体で、
先行研究の妥当性はほとんど検証もなく前提に近い形で受け入れられています。
康正元年の用例の検討それ自体は妥当と思われますが、
それが誤った改元情報が原因ではなく「元二年」説によるものとするべき根拠は脆弱です。
[206] 日本語版ウィキペディアは勝俣鎮夫と丸島和洋の論文を引いています。 >>1 (なぜか山田邦明の論文は引いていません。)
を合わせて「元二年」と呼ばれる慣習があったという説だと説明しています。 >>1 丸島和洋説に近いですが、 微妙にニュアンスが独特なようにも感じられます。 この説明だけではなぜこれが「元二年」と呼ばれるのかわかりません。
[187] 戦国時代を専門とする平成時代の歴史研究者黒田基樹のの著書では、 勝山記で文亀2年の事件が「文亀元年」条 (ただし干支年は文亀2年相当) にかかれていることについて、改元の翌年を「元年」と認識する慣習によるものと説明しています。 >>186 根拠や出典は明示されていません。
[113] 中世を専門とする平成時代の歴史研究者遠藤珠紀のの論文は、 中世の元号に関する諸問題を一通り紹介したものですが、 最後に付け加えるように
なお室町時代の東国では、独特な改元認識も存在したと指摘されている。通常は改元がなされると、その年が元年、翌
年が二年とされる。しかし東国には新年号は改元の翌年二年から始まるという意識があり (踰年改元)、改元の翌年 (本 来は二年) が「元年」「元二年」のように表記されることがあったという。
と書いています。 >>440 (
[114] この論文は、その手前までは概ね通説と思われるものを断定調でまとめていますが、 この箇所だけ「という」と伝聞調で、肯定も否定もせずに書いています。 何の注釈もなく紹介している以上、肯定的ではあるのですが、 他の通説と同じように確定的に記述するには躊躇されるという感じなのでしょうか。
[115] なおこの「意識」を踰年改元と呼ぶのは他に見当たりませんが (ほぼ同時期の >>161 も参照)、独自の解釈でしょうか。
[142]
中世を専門とする平成時代の歴史研究者清水克行は、
の一般書
(初出記事はから)
で私年号の解説 (
[154] 本書は一般向けでわかりやすい言葉で書かれていますが、 そのために正確性が犠牲になったのか、 不適切と思われる記述が目立ちます。
[161] 元二年を踰年改元とみなすのは >>113 の影響なのでしょうか、 それとも独立して同じ結論に至ったのでしょうか。
[21]
多摩地域を専門とする令和時代の歴史研究者深澤靖幸は、
の論文で、
の板碑に福徳元年と福徳2年があるのは、
「
[212] 当論文は武蔵地域で現在までに知られている大量の福徳板碑を網羅的かつ定量的な方法で客観的に分析しており、 その方法論と得られた結果、それに対する考察は概ね納得感がありますが、 この「年号観」の説明には引っ掛かりがあります。
[31] 中世東国私年号には1,2年ずれて使われている例が散見されます。 公年号と誤認されて私年号が利用された例も知られています。 当時の改元伝達は相当に混乱していたと思われます。 他ならぬ当該論文こそがその混乱の解明を目的にしています。
[210] だとすれば、 福徳の私年号の利用者らの間にもかかる改元認識が実在したのか否かは、 先行研究による所与の事実とするのではなく、 様々な事象を総合的に勘案して検討する必要があるでしょう。
[211] 勝俣鎮夫説が福徳等の私年号における元年と2年の混在を論拠の1つにしていることにも注意が必要で、 福徳板碑に福徳元年と福徳2年があることを勝俣鎮夫説で説明するのは循環論法です。
[22] >>20 は福徳元年と福徳2年の混在の理由を「年号観」に求めています (>>21) が、 >>20 図2 で示されたからの期間でそのような奇妙な現象が表れているのは私年号の福徳だけに見えます。 公年号の長享、延徳、明応の元年と2年はそうでもないように見えます。 「年号観」に起因するなら、同時期、同地域の他の元年と2年にも同程度の混乱が生じていないとおかしいのではないでしょうか。
[23] そして >>21 は福徳元年と福徳2年の2種類の存在を「年号観」 の違いだと一々説明を加えながら分析し、 「福徳元年」と「福徳二年」は改元伝達ルートの違いに起因すると結論付けられているのですが、 「年号観」はこの結論には特に寄与していません。 異なる2説が生じた原因は特に説明されず、 そこに「年号観」が必要となっているわけでもないのです。
[24] 逆にこの「年号観」の証明材料の1つに「福徳元年」「福徳二年」 がなるのかといえば、そういうこともありません。 同じ武蔵地域に「福徳元年」「福徳二年」が混在し、 その境界は旧利根川とされますが、 これは元二年説の根拠として挙げられている他の材料とも特にリンクしていません。 (強いて言えば正木文書の例とは矛盾しないのかもしれませんが...)
[213] 論文から「年号観」 を削除してもそのまま成立するのに、なぜわざわざ回りくどい「年号観」 を想定する必要があるのかが謎です。
[138]
正中2年のことを正中元年と書いた石塔や棟札が大分や鳥取にありますけど。
[139] 友田吉之助が古代の1年や2年日付がずれた事例をかき集めて干支年の異種紀年法説を提唱したのと、 中世東国の1年や2年日付がずれた事例をかき集めて元二年とかいっているのと、 同じ轍を踏んでいるように見えますけどね。
[140] 友田吉之助だったら中世東国にも異種紀年法の伝統が残っていたとかいうんじゃないですか。 でも流石に令和2年にまで生き残っているとは言わないと思いますけどねえ。
[2] 「令和元年」を修正して「令和2年」にしたときの修正漏れなのか、 「令和元2年」 とするものがままみられます。 いずれも正しく「令和2年」と表記したものが近くにあり、 誤りであることは明らかです。
[8] [区長の一日]令和元2年2月17日から令和2年2月23日|豊島区公式ホームページ (豊島区著, ) https://www.city.toshima.lg.jp/010/kuse/034432/ichinichi/h31/2gatsu/2002141131.html
[9] 事務所通信令和元2年2月号 | 愛知県名古屋市の中京社労士法人グループ () http://chukyo-sr.jp/report/r2_32.html
[10] 広報ひじ 令和元2年1月号 | マチイロ () https://machiiro.town/p/65947#book/1
[11] 2020年、令和元2年元旦、明けましておめでとうございます! | リスタイル () https://store.restyle-net.com/blog/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%90%E5%B9%B4%E3%80%81%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%EF%BC%92%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%85%83%E6%97%A6%E3%80%82/
[136] Xユーザーのばにさん: 「職場で相手先に送った誤字ランキング 1位:大変申し訳有馬記念 2位:いつもオセアニアっております 3位:令和34年度もよろしくお願いします」 / X, , https://x.com/Gyoniku2580/status/1790318200321974676
[137] >>136 これは前年の癖で書いてしまった修正ミスなのか、指が滑って隣も押してしまったミスなのかどっちだろうね?