元2年

元二年

[7] 元年とは少し違った元二年 (元2年) という表記が稀に見られます。

目次

  1. 中世年代記類
  2. 中世東国元二年説
    1. 根拠とされる用例
      1. 勝山記の用例
      2. 普賢寺王代記の用例
      3. 香取文書の用例
      4. 正木文書の用例
      5. その他の康正元年
      6. 私年号の元年と2年
    2. 中世東国「元二年説」の主張
      1. 勝俣鎮夫の説
      2. 山田邦明の説
      3. その他の説
    3. メモ
  3. 近世
  4. 現代
  5. 関連
  6. メモ

中世年代記類#

[47] 年代記類にいくつか怪しい記述があります。


[14] 群書類従 : 新校. 第二巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/112

皇年代略記 神功皇后

(首書) 后嗣位例元二年皇后自討新羅

[17] >>16 p.344

皇年代略記 神功皇后の条首書

元二年皇后自討新羅

皇年代略記が元二年のこととしているのは、 皇代記の五十年のこととしているのと大きな相違である。

[46] 「元二」の原形は「五十」だったんだろうなあ。


[34] 武家年代記 (治承4年―明応8年(貞和5年―観応5年欠)) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム, https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444660000/55c00b842ca2429abec42d873f4c3f18?p=22

(明徳)「自元二年至七月 天下大飢

[35] 防災関連記事|防災情報、地震災害、被災地情報、官庁地方自治体情報を発信, http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_7477.html

1390~91年(明徳元年~2年)“自元年至二年、天下大飢(如是院年代記)”“明徳二年・今年、飢饉餓死、疫癘(疫病:感染症)流布(常楽記)”。92年(同3年)“四月より十一月に至る陸奥(東方地方東部)大旱(東北地方近古饉史)”。93年(同4年)“日照りにて自四月同十一月まで雨不降候(会津塔寺村:現・会津坂下町、八幡宮長帳)”、そして“天下大飢(武家年代記)”となった。

[36] 「元二年」は書写の繰り返しで劣化した結果か? この長帳の「自四月同十一月」も 武家年代記の「自元二年至七月」も原形からかなり変わっていそう。

中世東国元二年説#

[164] 中世日本東国で 「元二年」 という独特の概念が存在したとする説を、 平成時代中頃に戦国時代文献史学研究者らが提唱しています。

[165] ただその説の主張は論者によって少しずつ違いがあります。

根拠とされる用例#

勝山記の用例#

勝山記の日時

普賢寺王代記の用例#

[177] 普賢寺王代記元年の欄に元号年を書かず、 かわりに元号名を書いています。

香取文書の用例#

日時事例

[166] 「元年」が訂正されて「弐年」とされています。

[82] 元から弐への書き換えは、原本写真が不鮮明で、 同筆かどうかも判定困難です。 実見した人の見解がほしいですね。

[83] 元年とすると元号年干支年が一致せず、 嘉吉2年を表したものと解釈するのが妥当です。 >>48

[84] 元年とすると1ヶ月の遡及年号となることからも、 2年と解釈するべきです。


日時事例

[99] 干支年よりと思われる日付に「文亀元弐年」とあります。 「元弐」は普通に縦に並んでいて、修正と思われる記号類も見当たりません。

[101] この「文亀元二年」は、明治時代の翻刻 >>71 は何の断りもなく「文龜貳年」 と校訂後だけを示していました。を誤って挿入された誤記と見なしたのでしょう。

[102] しかし何の注釈もないのは困ったものです。

[103] 明治時代の翻刻本は、 この直後に同じ田所宗好の発給した別の文書を収録しています。 そちらにも同じく「文龜二年」の日付があります。 >>71 前の文書は注釈なく校訂しているので、 こちらの原文がどうなっているのか、原物を確認する必要があります。

[104] 不思議なことに、 「文亀元二年」 を指摘した山田邦明はこちらには何も言及していません。 何も言及していないということはこちらは元から「文龜二年」なのではないでしょうか。

[163] 同じ人物が書いた文書が両方「文龜元二年」となっていたとすれば、 偶発的な誤記などではなく、 最低でも4ヶ月にわたって確かに「元二年」と意識的に書いていた決定的な証拠になります。

[167] 片方が「二年」だったとすると、「元二年」と意識的に書いたか、 偶発的な誤りで書いてしまっただけなのか、両方の可能性を考える必要があります。 壬戌年の5月に「二年」と書いていたのに9月に「元二年」と書いていますから、 年始から「今年は「元二年」だ」と認識してはいなかったことになります。


[173] 香取文書中、「康正元年」文書で実際には康正2年と考えられるものが1例あります。 康正

[176] 香取文書中、「至徳元年」文書で実際には至徳2年と考えられるものが1例あります。 至徳

[175] 香取文書中、「正保元年」文書で実際には正保2年と考えられるものが1例あります。 正保


[169] 香取文書にはこの他にも多数の文書があります。 他にも「元年」や「二年」のものはあるはずですが、 「元二年」とされるものは紹介されていません。

[170] 「元年」「二年」文書がどれくらいあって、 「元二年」文書とどう違うのかは説明されていません。

正木文書の用例#

[168] 正木文書中の「康正元年」文書が、 実際には康正元年ではなく康正2年のものだったとされます。 康正

その他の康正元年#

[174] 元二年説の根拠には使われていませんが、その他にもいくつか 「康正元年」 と書いて康正2年を指しているらしき事例がいくつか知られています。 康正

私年号の元年と2年#

[171] 私年号福徳, 弥勒, 命禄の用例は、元年のものは少なく、 2年のものが多いです。

[172] 特に、 福徳を使った板碑には、 辛亥年を元年とするものと2年とするものがあります。 福徳

中世東国「元二年説」の主張#

[214] 各論者が根拠とする用例には、異なる性質のものが混在しています。

[227] これら性質の違う現象の全体を整理することもなく、 少しずつニュアンスが違った主張が繰り広げられています。

[241] こうした現象が中世東国にあったと主張されていますが、

  • [242] いつ発生しいつまで続いたのか
  • [243] どこからどこまでの地域であったことなのか
  • [244] 通常方式との違いはどのような過程で生じたのか
  • [245] 通常方式を使う人々とのやり取りはどうしていたのか
  • [246] 中世東国で通常方式も使われていることをどう理解したらいいのか

という当然想定されるべき疑問には明確な回答がありません。

[247] 中世の東国でそう考えられていた、という主張は中世の東国の史料でみられるから、 という以上の根拠がなさそうです。近世の史料にもあるからと、 時代を超えて存在した (>>190) と拡張されています。 それなら古代や現代や西国の事例 (>>138 >>139 >>2 >>34) も報告したら、そこまで含まれるように拡張されるのでしょうか...

勝俣鎮夫の説#

[125] 戦国時代を専門とする平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、 平成時代初期の論文でいくつかの史料をもとに、 改元の翌年を新元号の開始年とする認識が中世東国に存在したと考えました >>19 (戦国時代東国の地域年号について, 戦国時代論, )

[26] 勝山記改元年に奇妙な表記があること:

について、 誤記でも誤写でもない「一貫した編集方法」であると主張し、

  • [261] 編者は改元によって「年(干支)」も変わると考えていた
  • [262]それによって生じた干支と年次のくい違いを修正する編集上の操作」 で奇妙な表記が生じた
  • [263]改元によって年が交替するという、改元の機能にそくしたプリミティブな改元観」 を示している

と主張しました。 >>258

[120] また、天文3年条に「始ノ年」とあることを、前年の天文2年を指すと解釈し、 編者が天文年号の「始ノ年」を天文2年としたことは明らかだと述べました。 そして、 「改元による年号の年次は二年(実質的には元年と二年)よりはじまる」 という年号観なのだと主張しました。 >>258

[126] 更には、

  • [127] 甲斐国で編纂された王代記年代記部分の改元年に「元年」表記がなく年号干支年が示されるのみであることを、 改元年ではなく2年を「始ノ年」とする考え方、 改元による新しい年を元年でなく2年と考えていた >>258 根拠の1つとしています。 王代記
  • [128] 戦国時代東国私年号元年は極めて少数で、 「二年」のものが圧倒的に多い
    • [129] 福徳は2年辛亥が圧倒的多数で、元年辛亥はほとんどない
    • [132]命禄なども2年が元年より一般的、 一般的には2年だけでその改元の役割を終えた
    • [130] これは 「改元による最初の年を元年とするか二年と考えるかの観念をあらわしている」
    • [131] 私年号でみる限り 「二年を最初の年とする観念が圧倒的に優勢」
  • [133] 勝山記延徳条で庚戌年に福徳2年と改元したとあるのは、 庚戌年に足利義政が死去したための勝山記編者の操作である 勝山記の日時
  • [134] 一般社会は命禄への改元の翌年を「始ノ年」として命禄元年や命禄二年と書いたが、 武田信虎はいち早く取り入れて改元の当年から命禄元年と書いていた 命禄

と主張しました。 >>258

[135] また、私年号改元伝達と翌年のの記載による2段階の伝達を想定していて ( 中世私年号 )、 それが元二年につながると考えているようにも読めるのですが、はっきりしません。

[116] こうした主張には不明瞭な点、疑問な点もいくつかありますが、 それを質したり、否定的に論じたりする論文等は見当たりません。 肯定的に参照する後続の論文も、 先行する当論文の主張を詳しく検討することなく独自の主張を繰り広げています。

[182] この分野ではこういう研究方法が普通なのですかね?

[181] 不審な点をいくつか挙げると:

  • [45] 勝山記はその紀年が相当に混乱していることは誰の目にも明らかです。 勝山記の日時
    • [184] 当論文はその混乱を不意の「混乱」 ではなく編者の改元の認識に基づく意図的な編纂だとします。 しかるに、その根拠は「明らか」のような表現で片付ける表面的な議論だけです。
    • [179] 元年と2年の奇妙な表記が4種類もあって混乱しているものを 「一貫した編集」 というのは強引が過ぎます。 一貫した意識があれば一貫した表記になるはずでしょう。
  • [183] 勝山記 の 「始ノ年」 が元号の最初の年の意味だとする当論文の主張には、 何の根拠も提示されていません。 勝山記でもそれ以外でも、そのような用法は知られていません。 勝山記の日時
  • [117] 王代記改元年に新元号が書かれていることと、 2年が新元号の始まりの年と考えることに、どのようなつながりがあるというのでしょう。
    • [178] 2年が新元号の始まりなら、そこは新元号ではなく、 旧元号の最終年でなければいけないのではないでしょうか。 1年に新年号が書かれているなら、1年を新元号の始まりと考えていたと理解するのが普通でしょう。
    • [119] 改元年に元号年を書かずに元号名を書く方法は、 勝山記の前半にもみられます ( 勝山記 )。さらには、 東国ではない 興福寺年代記 にもみられます >>118。 当時の年代記類の慣用的な表記法の一種に過ぎません。
  • [180] 「改元によって干支年が変わる」ことと「元号の始まりの年が2年である」 ことの2つの主張がどう関係しているのかよくわかりません。

山田邦明の説#

[27] 室町時代を専門とする平成時代の歴史研究者山田邦明 (-) は、 の論文で、 香取社関係文書「文亀元二年」 (>>87) のほか、 「元年」が実際は2年を指す事例を康正など複数指摘し、 改元が新年に実施されるとする認識が東国に存在したと考えました。 >>19 (香取文書にみる中世の年号意識, )

[106] 具体的には、

  • 「元年」を「二年」に訂正した文書 (>>52)
  • 「元二年」の文書 (>>87)
  • 「二年」を「元年」とだけ書いた文書 (>>105, 正保 )

を提示することで、「改元の翌年を「元年」と意識していたこ との明証」 としました。 >>48

[188] より詳しくは、次のように述べています。

  • [86] 勝俣鎮夫説を念頭に、
    • [192] >>53 に「嘉吉元年」 と書いたことに「なにがしかの意味がありそう」 で、「改元の翌年を新年号のはじめの年とする意識」 があることを示すかもしれない >>48
    • [100] >>93 の筆者にとってこの年次は 「「文亀元二年」とも認識されていた」 のであり、 「改元の翌年を 「元二年」とする意識の存在」 が文書でも実証された >>48
  • [193] 「元年」が2年である事例があること:
    • [105] 香取文書に公年号康正2年に相当する「康正元年」文書が存在し、 「改元の翌年が元年であるという意識をもってい た筆者が、はしなくも「康正元年」と書いてしまったと考えたい」 「勝俣氏が示された改元の翌年を新年号のはじめとする意識は確実 にあり、文書そのものにも「元年」と書いてしまい、訂正も加えないことがあった」 と考える >>48
    • [108] 干支がない「元年」文書などにも実は2年相当のものが 「かなりあるとみられる>>48 至徳
  • [189] これらは「元年」とも「二年」とも異なる「元二年」なる概念といえること:
    • [109] 勝俣鎮夫改元の翌年の「二年」 から新年号を使う場合が多いとは指摘しているものの、 その「二年」が「「元年」とも意識されたとは述べられていない」 説だった >>48
    • [110] 香取文書に2年を「元年」と表記した例があるので、 「改元の翌年から新年号がはじまると考えた地域の人々が、ごく自然にこの年を「元 年」と表記することもありえた」。 >>48
    • [111] 香取田所家文書「文亀元二年」の例は、 「改元の翌年が「元二年」と認識されていたことを示すと、 とりあえず考えたい」。 >>48
    • [112] 常在寺衆年代記「延徳」「享禄年」は勝俣鎮夫の説 (改元による干支年の変化や編集上の修正) ではなく「現実に改元の翌年を「元二年」と呼ぶ世界が存在していたことの現われとみるほう が自然なのではないかとも思える」。 >>48
    • [190] 近世初期の用例 ( 正保 ) があるため、 「時代を超えて存在した地域住民の意識」 である >>48

[191] この「現象」に元二年という術語を付けたのは山田邦明でした。 山田邦明説は勝俣鎮夫説に導かれながらもその結論を完全に踏襲するでもなく、 しかし勝俣鎮夫説とその根拠を再検討はせず、 新たな史料を中心に再構成した新説をもって元二年と呼んでいます。

[194] 勝俣鎮夫説同様、当論文に対してもその内容を詳細に検討したものは、 肯定的なものも否定的なものもありません。

[195] 気になる点を挙げておきます。

  • [199] 全体的に「意識」の推測や根拠を示さない断定が目立つように感じられます。 少ない史料からの推論である以上致し方ないところはあるのですが、 断定できるだけの材料がない推測から、 なぜか揺るぎない結論が得られたかのようになっているのはいただけません。
  • [196] 勝俣鎮夫説を一部否定して自説に組み替えていますが、 勝俣鎮夫の示した事例を一々検討しているわけではありません。 そのような見解に至った理由が十分に説明できているようには思えません。
    • [197] これでは自説に都合の良い部分だけ採用しそうでない部分は無視しているようにも思えてしまいます。
    • [198] 勝俣鎮夫説の「始ノ年」や王代記の件をどう解釈したのかには言及もありません。
  • [107] >>105 は詳しい説明がなくよくわからないのですが、「書いてしまい」 (>>105) という表現があるので、 「改元の翌年がはじめ」とする意識はあるものの、 それを「元年」と書くのは不適切という意識もある、 でもうっかり「書いてしま」ったものが今に残っている、 という分析なのでしょうか。
  • [85] >>53嘉吉2(1442)年壬戌1月29日に新年間もないことからうっかり元年と書いてしまい、 気づいてから2年と書き直した、 と理解するのが穏当でしょう。今も昔もよくあることです。
    • [203] 未知の新概念を導入しなくても「ごく自然」に理解できます。 なぜそちらの可能性をまず検討しないで未知の新現象で説明しようとするのでしょう。
  • [204] 2年のことを「元年」と書いている各事例も同様で、 なぜ書き間違いや「今年が元年である」という誤情報の流布の可能性を検討もせず、 未知の新概念がさも当然の解釈であるかのように扱われているのかよくわかりません。
  • [200] 改元翌年を「元二年」と呼ぶ現象と、 改元翌年を「元年」と呼ぶ現象を指摘していますが、 提示された用例の圧倒的多数は「元年」の方です。 にも関わらず「「元二年」と呼ぶ世界」があったとまとめる理由がよくわかりません。
  • [201] 特殊な書き方の事例ばかりを提示して「元二年」概念の存在を主張していますが、 そうでない通常の「元年」「二年」がどれだけ存在し、 どう共存していたのかはまったく検討されていません。
    • [202] 少数派なのか多数派なのかもわからないのにそれが 「確実」で「ごく自然」な「地域住民の意識」 とは言い過ぎではないでしょうか。

その他の説#

[28] 戦国時代を専門とする平成時代の歴史研究者丸島和洋は、 の論文で、 正木文書の「康正元年」が実際は2年を指す事例 ( 康正 ) を紹介し、 勝俣鎮夫山田邦明の先行研究を引きつつ、 改元新年に実施されるとする認識が東国に存在したとしました。 >>19

[205] この発表の媒体は頁数の少ない媒体で、 先行研究の妥当性はほとんど検証もなく前提に近い形で受け入れられています。 康正元年の用例の検討それ自体は妥当と思われますが、 それが誤った改元情報が原因ではなく「元二年」説によるものとするべき根拠は脆弱です。 康正

[206] 日本語ウィキペディア勝俣鎮夫丸島和洋の論文を引いています。 >>1 (なぜか山田邦明の論文は引いていません。)

[207] ウィキペディア

  • [209] 改元通知をその年のうちは施行しないこと
  • [208] 2年の別名を「元年」とすること

を合わせて「元二年」と呼ばれる慣習があったという説だと説明しています。 >>1 丸島和洋説に近いですが、 微妙にニュアンスが独特なようにも感じられます。 この説明だけではなぜこれが「元二年」と呼ばれるのかわかりません。

[1] 改元 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83

中世後期(室町時代後期)から近世初期にかけての東国では、改元の報が知らされてもその年の内は旧年号を用い、年が明けてから2年の別名として「元年」と称したとする「元二年」と呼ばれる慣習があったとする説がある[1][2]。

  1. ^ 勝俣鎮夫「戦国時代東国の地域年号について」『戦国時代論』(岩波書店、1996年)
  2. ^ 丸島和洋「岩松持国の改元認識」(初出:『戦国史研究』58号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)

[187] 戦国時代を専門とする平成時代の歴史研究者黒田基樹 (-) の著書では、 勝山記で文亀2年の事件が「文亀元年」条 (ただし干支年は文亀2年相当) にかかれていることについて、改元の翌年を「元年」と認識する慣習によるものと説明しています。 >>186 根拠や出典は明示されていません。

[113] 中世を専門とする平成時代の歴史研究者遠藤珠紀の論文は、 中世元号に関する諸問題を一通り紹介したものですが、 最後に付け加えるように

なお室町時代の東国では、独特な改元認識も存在したと指摘されている。通常は改元がなされると、その年が元年、翌 年が二年とされる。しかし東国には新年号は改元の翌年二年から始まるという意識があり (踰年改元)、改元の翌年 (本 来は二年) が「元年」「元二年」のように表記されることがあったとい ((37))

と書いています。 >>440 ((37)>>51, 戦国時代東国の地域年号について (戦国時代論))

[114] この論文は、その手前までは概ね通説と思われるものを断定調でまとめていますが、 この箇所だけ「という」と伝聞調で、肯定も否定もせずに書いています。 何の注釈もなく紹介している以上、肯定的ではあるのですが、 他の通説と同じように確定的に記述するには躊躇されるという感じなのでしょうか。

[115] なおこの「意識」を踰年改元と呼ぶのは他に見当たりませんが (ほぼ同時期の >>161 も参照)、独自の解釈でしょうか。

[162] ただでさえ多義的で曖昧な踰年改元という語にまた新しい意味を付け足すのは混乱が深まるばかりだと思うのですが... 踰年改元

[142] 中世を専門とする平成時代の歴史研究者清水克行は、 の一般書 (初出記事はから)私年号の解説 ( 日本の私年号 ) に付け加えて元二年説も紹介しています。 >>141

  • [143] 年の途中、わずか7日で昭和64年から平成元年になったり、 4ヶ月で平成31年から令和元年になったり違和感、面倒さがある
  • [144] 戦国時代にも同じことを考えた人は多かったようだ
    • [145] 「延徳元二年」
      • [147] 長享3年の途中で延徳元年になるのは煩わしい
      • [148] 長享3年いっぱい非公式に長享3年を使い続けた
      • [149] その翌年延徳元年が始まる、としようとしたが、 正式な暦と1年ずれてしまうので「元二年」と呼んだ
    • [146] 「文亀元二年」
  • [150] では踰年改元、皇帝が死んだ翌年正月元日をもって新年号を使用開始する
  • [151] 令和改元でも踰年改元は検討されたがなぜか採用されなかった
    • [152] 非公式に踰年改元を採用した戦国民衆の方が頭が柔らかいかもしれない
  • [153] 参考文献: >>51

[154] 本書は一般向けでわかりやすい言葉で書かれていますが、 そのために正確性が犠牲になったのか、 不適切と思われる記述が目立ちます。

  • [155] 「延徳元二年」を主に説明していますが、この例は勝山記、 つまりリアルタイムの用例ではなく後年になって歴史書の編纂者がそう書いた事例に過ぎません。 長徳3年の年末まで「長徳3年」を使い続けた人が実在した証拠はありませんし、 翌年に「延徳元二年」と書いた人がいた証拠もありません。 それをあたかも一般的な風習であるかのように書くのは不適切です。
  • [156] 日本では天皇即位の翌年の任意の時期に改元することを踰年改元と呼んでいます。 一般書なので「踰年改元」という専門用語を使ってわざわざ誤解を招きに行く必要はなかったはずです。
  • [157] 令和改元踰年改元が検討されたかどうか確証を得られません。 そのような情報があったなら出典を示してほしかったです。
    • [158] 元日の即位同時改元を検討したものの、 宮中儀式との兼ね合いで難しいと断念したことは報道されていました。 令和改元
    • [160] 踰年改元がいいとインターネットなどで言っている人はいました。 (さすがにそれを検討された、にカウントはしていないと思いますが...)
    • [159] 平成改元では踰年改元が検討されたものの時期が合わなかった (年始早々のご崩御だったため。) とされています。

[161] 元二年踰年改元とみなすのは >>113 の影響なのでしょうか、 それとも独立して同じ結論に至ったのでしょうか。


[21] 多摩地域を専門とする令和時代の歴史研究者深澤靖幸は、 の論文で、 板碑に福徳元年と福徳2年があるのは、 「改元による年号の年次は2年より始まるという考え方が一般 的であったことも、明らかにされている」 というその「年号観」 によるものだと、 勝俣鎮夫山田邦明の先行研究を引きつつ説明しました。 >>20 (勝俣1996, 山田1998)

[240] ここにきて「一般的」「明らかにされている」と完全に既定事実化していることに注意。

[212] 当論文は武蔵地域で現在までに知られている大量の福徳板碑を網羅的かつ定量的な方法で客観的に分析しており、 その方法論と得られた結果、それに対する考察は概ね納得感がありますが、 この「年号観」の説明には引っ掛かりがあります。

[31] 中世東国私年号には1,2年ずれて使われている例が散見されます。 公年号誤認されて私年号が利用された例も知られています。 当時の改元伝達は相当に混乱していたと思われます。 他ならぬ当該論文こそがその混乱の解明を目的にしています。

[210] だとすれば、 福徳私年号の利用者らの間にもかかる改元認識が実在したのか否かは、 先行研究による所与の事実とするのではなく、 様々な事象を総合的に勘案して検討する必要があるでしょう。

[211] 勝俣鎮夫説が福徳等の私年号における元年と2年の混在を論拠の1つにしていることにも注意が必要で、 福徳板碑に福徳元年と福徳2年があることを勝俣鎮夫説で説明するのは循環論法です。

[22] >>20 は福徳元年と福徳2年の混在の理由を「年号観」に求めています (>>21) が、 >>20 図2 で示されたからの期間でそのような奇妙な現象が表れているのは私年号福徳だけに見えます。 公年号長享延徳明応の元年と2年はそうでもないように見えます。 「年号観」に起因するなら、同時期、同地域の他の元年と2年にも同程度の混乱が生じていないとおかしいのではないでしょうか。

[23] そして >>21 は福徳元年と福徳2年の2種類の存在を「年号観」 の違いだと一々説明を加えながら分析し、 「福徳元年」と「福徳二年」は改元伝達ルートの違いに起因すると結論付けられているのですが、 「年号観」はこの結論には特に寄与していません。 異なる2説が生じた原因は特に説明されず、 そこに「年号観」が必要となっているわけでもないのです。

[24] 逆にこの「年号観」の証明材料の1つに「福徳元年」「福徳二年」 がなるのかといえば、そういうこともありません。 同じ武蔵地域に「福徳元年」「福徳二年」が混在し、 その境界は旧利根川とされますが、 これは元二年説の根拠として挙げられている他の材料とも特にリンクしていません。 (強いて言えば正木文書の例とは矛盾しないのかもしれませんが...)

[213] 論文から「年号観」 を削除してもそのまま成立するのに、なぜわざわざ回りくどい「年号観」 を想定する必要があるのかが謎です。

メモ#

[138] 正中2年のことを正中元年と書いた石塔や棟札が大分や鳥取にありますけど。 正中 これも中世後期の東国の人達と同じような意識で2年のことを元年とも言ったのですかね? 無理があるのでは?

[139] 友田吉之助が古代の1年や2年日付がずれた事例をかき集めて干支年の異種紀年法説を提唱したのと、 中世東国の1年や2年日付がずれた事例をかき集めて元二年とかいっているのと、 同じ轍を踏んでいるように見えますけどね。

[140] 友田吉之助だったら中世東国にも異種紀年法の伝統が残っていたとかいうんじゃないですか。 でも流石に令和2年にまで生き残っているとは言わないと思いますけどねえ。

近世#

[6] 元年と2年の範囲を表した例 元年

現代#

[2] 「令和元年」を修正して「令和2年」にしたときの修正漏れなのか、 「令和元2年」 とするものがままみられます。 いずれも正しく「令和2年」と表記したものが近くにあり、 誤りであることは明らかです。

[3] 令和元年度学校公開講座(赤羽岩淵中学校「茶道をはじめませんか」第2回)開催のお知らせ|東京都北区 (北区著, ) https://www.city.kita.tokyo.jp/shogai_renkei/kosodatekyoiku/shochugakko/gakkokokaikoza/30akaiwasado2.html

令和元2年2月5日(水曜)

[4] 医療機器の保険適用について (厚生労働省保険局医療課長、厚生労働省保険局歯科医療管理官 保医発1227第2号 令和元年12月27日 ) http://www.hospital.or.jp/pdf/14_20191227_03.pdf#page=2

標記について、別紙のとおり令和元2年1月1日から新たに保険適用とするので通知する。

[5] ニュースリリース:2020年 | 株式会社ダスキン () https://www.duskin.co.jp/sp/news/2020/

2020年 (令和元2年)

[8] [区長の一日]令和元2年2月17日から令和2年2月23日|豊島区公式ホームページ (豊島区著, ) https://www.city.toshima.lg.jp/010/kuse/034432/ichinichi/h31/2gatsu/2002141131.html

[9] 事務所通信令和元2年2月号 | 愛知県名古屋市の中京社労士法人グループ () http://chukyo-sr.jp/report/r2_32.html

[10] 広報ひじ 令和元2年1月号 | マチイロ () https://machiiro.town/p/65947#book/1

[11] 2020年、令和元2年元旦、明けましておめでとうございます! | リスタイル () https://store.restyle-net.com/blog/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%90%E5%B9%B4%E3%80%81%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%EF%BC%92%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%85%83%E6%97%A6%E3%80%82/

[12] 統計情報 | 沖縄労働局 () https://jsite.mhlw.go.jp/okinawa-roudoukyoku/jirei_toukei/saigaitoukei_jirei/toukei.html

令和元年速報値

(令和元2年2月集計)

[13] 月例経済報告主要経済指標(令和2年2月) - 内閣府 () https://www5.cao.go.jp/keizai3/getsurei/2020/02shihyou/keizai-shihyou.html

月例経済報告主要経済指標(令和元2年2月20日)

[136] Xユーザーのばにさん: 「職場で相手先に送った誤字ランキング 1位:大変申し訳有馬記念 2位:いつもオセアニアっております 3位:令和34年度もよろしくお願いします」 / X, , https://x.com/Gyoniku2580/status/1790318200321974676

[137] >>136 これは前年の癖で書いてしまった修正ミスなのか、指が滑って隣も押してしまったミスなのかどっちだろうね?

関連#

[18] 法興元の元も関係あるのでしょうか?

メモ#