豊島区

豊島区

[1] 豊島区

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[2] 東京坂道ゆるラン | 坂の町・東京(主に文京区、新宿区、千代田区)を歴史ラン。古地図、古写真でタイムスリップ!走って探すお江戸の物語。, , http://sakamichi.tokyo/

頼朝伝説と堀部安兵衛の新宿区早稲田、太田道灌の面影橋、砦のような造りの寺社など、遠い昔の古鎌倉街道に想いを寄せて観てきましたが、ここ金乗院前も街道色の濃い地であり、深い歴史に彩られています。

古鎌倉街道を行く1(新宿区編)

古鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

宿坂(江戸名所図会より)。残念ながら観音堂は今はない。

宿坂

中世の頃、「 宿坂の関 」と呼ばれる所が、このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。

“宿坂の関”は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道より、やや東寄りに位置していたが、一応ここも鎌倉街道の名残りといえよう。

今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。

説明書きには「 現在のこの道より、やや東寄り 」と書いています。明治の地図で見ると、

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図。 ブルーライン が古鎌倉街道。

東側( 赤矢印 )に崖があり、そちらの方に蛇行していたのでしょう。

東の崖上から宿坂を見る。

江戸名所図絵を見ても坂はクネクネしています。宿坂西隣りの「のぞき坂」は上下通行車道としては都内ナンバーワンの急坂。

のぞき坂坂上より

同じ目白台地を登る宿坂も、かなり急なので少しカーブしながら登っていたということでしょう。

金乗院の裏門あたりに「 宿坂の関 」と茶屋があったと云います。

宿坂の関は関東お留の関の一つ。中世には、四ツ谷、三軒茶屋、品川、千住などにも関があったと伝えらています。

また今は無き 姿見橋 の由来になった刑場もこの辺りにあったと云いますが、江戸以前、後北条氏の頃の話で場所の特定もできず、今では単に言い伝えとして残るだけの怖い話です(姿見橋=罪人の後ろ姿を見送る)。

金乗院門前の読めない碑

金乗院門前のこの碑、「むせる」?

またまた出現した読めない崩し文字。ということでいつものように歴史のFBグループに質問するとなんと、「 はせ寺 」と読むとのこと。長谷寺?金乗院なのに長谷寺とはこれ如何に?

そうです。ここには太平洋戦争の戦災(昭和20年、1945年5月)にあった

[3] “幻の貝塚” 縄文時代の遺跡 約120年ぶり見つかる | NHKニュース, , https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171225/k10011270771000.html?utm_int=all_side_ranking-access_002

明治時代に発見されたあと宅地開発などの影響で所在がわからなくなり、研究者の間で幻の貝塚と呼ばれていた縄文時代の遺跡が、東京・豊島区の住宅街でおよそ120年ぶりに見つかりました。周辺には大規模な集落が広がっていたと見られ、貴重な発見だと注目を集めています。

およそ3000年から4000年前の縄文時代後期の遺跡、池袋東貝塚は、明治時代に発見されたという記録がありましたが、豊島区教育委員会によりますと、周辺の宅地化が急速に進んだことなどから、その後、所在がわからなくなっていました。 ことし10月、豊島区の東武東上線の下板橋駅付近の住宅街で建物の建て替え工事が行われた際に大量の土器や貝が見つかり、当時の記録と出土した遺物や場所がおおむね一致したことなどから、池袋東貝塚だと確認されました。 この遺跡は蒔田鎗次郎という考古学者が発見したことが、明治29年に発行された東京人類学会誌に掲載された論文に記されていましたが、戦災や戦前・戦後の開発などで失われた可能性も指摘されるなど、研究者たちの間では幻の貝塚と呼ばれていたということです。 遺跡からは、縄文土器のほか、ハマグリやカキ、それにシカやイノシシなどの動物の骨が大量に見つかりました。また、当時の人が土を盛って作った盛土遺構が見つかったほか、火をおこした跡も確認され、豊島区教育委員会は遺跡が集落の一角だったと考えられるとしています。 縄文時代の考古学に詳しい明治大学の阿部芳郎教授は「東京では縄文時代後期の集落の遺跡が見つかることは少なく、当時の人々の生活の実態を知るうえで重要な発見だ。遺跡の保存状態がよいので、今後調査をすれば、周辺で大規模な集落が確認できる可能性も高いのではないか」と話しています。

[4] 小さすぎる公園めぐり(渋谷・新宿・池袋方面) - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/131115162364_4.htm

ここからようやく新宿区に突入。新宿区と豊島区は、区のホームページに公園の面積が記載されているので効率的に探すことができるのだ。

新宿区の公園で特に小さいのは、新大久保駅と高田馬場駅の間にある百人町地区の「ポケットパーク」。小さなもので50平方メートルほどの小さな公園が密集しているのだ。

[6] 「池袋本町電車の見える公園」の放射性物質が判明しました(4月28日発表)|豊島区公式ホームページ, , http://www.city.toshima.lg.jp/012/kuse/koho/1504281917.html

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「池袋本町電車の見える公園」の放射性物質が判明しました(4月28日発表)

「池袋本町電車の見える公園」(池袋本町4-41)で計測された高放射線量の原因である放射性物質について、専門機関である公益社団法人日本アイソトープ協会で調査が行われ、本日28日、その結果が報告されました。

報告によれば、24日に採取された土壌の中から、直径3ミリ、高さ3ミリの円筒状のステンレスカプセル(線源)が発見され、核種はラジウム(Ra-226)と同定されました。また、線源を取り除いた土壌から汚染を示す数値は検出されなかったため、線源は完全に密閉された状態であることが判明しました。

これにより、放射能が外部に漏れだしていないことが再確認されました。

【日本アイソトープ協会の報告内容】

24日に採取した土壌試料の中から発見された放射性物質と見られる金属塊及び、線源周辺の土壌について、27日、外観検査、核種の同定、放射能の定量、汚染検査の各調査を実施した。

【調査結果の概要】

外観検査

土壌試料の中からステンレスカプセルの線源1個を発見

1)外観写真

2)線源の形状:円筒形(3mmφ×3mmH)

3)刻印等:カプセル上部に「1」の刻印

核種の同定

測定されたγ線スペクトルから「Ra-226」と同定

放射能の定量

線源の概算放射能:37メガベクレル相当(1ミリキュリー)

*線源からの距離20cmにおける1cm線量当量率より換算

汚染検査

線源を取り除いた土壌から汚染は検出されなかった

[7] 豊島区最古の神社 - 路地ウラ観光案内, , http://rojiurawatch.hatenablog.com/entry/2016/12/31/153218

はやいもので、今日は2016年を締めくくる大晦日。

初詣にはどこの神社に行こうか、近所の 氏神 様か、車で有名な神社まで行ってみようか、悩んでしまいませんか?

豊島区の皆さんは、区内最古の神社「 駒込 妙義神社 」などいかがでしょうか。

JR 駒込駅 下車、徒歩約分。 本郷通り から「ここ行っていいの?」と思う細い坂道を上がります。そこが神社の参道となるそうです。大きな木が印象的。

参道を進むと、大木の先が幅広の階段になっていました。こういう高低差、道をつなぐ階段って好きです*

階段を下ると、突き当りに見えるのが 妙義神社 になります。

立派な鳥居。

急な階段。

小さな碑が並んでいます。

本殿。

本殿の右手には、広場があり、お祭りに使われる他、地域の方々の憩いの場となっています。その傍らには、 庚申塔 もありました。

庚申塔

神社の説明の看板には、「 駒込 村の農民によって建立された 庚申塔 が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたと推察される。」と記載されています。

古そう。

ソメイヨシノ の大木があり、根が力強くこっち側にのびてきていました。

ネットで公式HPを検索すると、「勝ちたい方の神社」という表示。

ホーム - 東京駒込妙義神社公式サイト|勝ちたい方の神社

サイト内でのお守りのページには、たしかに「勝守」と書かれた守護守りの御札がとてもご利益がありそうです。

是非、豊島区民のみなさま、一年の祈願に行ってみてはいかがでしょうか。

*****

最近は、可愛い御 朱印帳 がたくさんありますね*

[8] 《おさる日記、再び》 豊島区立最狭の公園、目白四丁目仮児童遊園, , http://brdg.blog70.fc2.com/blog-entry-79.html

西武池袋線の車窓からチラリと見えた、気になる公園。 Google Mapでも見えます。こんなんデス。 →Google Mapで見る 線路で行き止まっている路上に、柵で囲われた一角があります。 パッと見、不法占拠みたいですよねえ。 馬っぽい遊具があるので公園と認識できるのですが、必然性のなさ、というか、居心地の悪さがひしひしと伝わってきます。 ひょっとして、「道路拡張時に用地買収ができてなくて、道路に食い込んで宅地が残ってる」みたいなモノだったりして。 所有権をアピールするために、地主さんが遊具(実はガラクタ)を置いてるんじゃないかとか、勝手に想像してると楽しい。「既成事実を主張させるための馬」なんてねえ。地主さんの仕業としたら、あまりにもプリティな抵抗だなあとか。 とにかく近くで観察すべく、現地へ行ってみました。

椎名町駅からそれほど遠くありません。道なりに歩いて、すぐ発見。 電車から見えた印象より広く感じましたが、それでも手狭感は否めません。例の遊具のほかは、数本の植栽と用水の蓋でほぼ敷地いっぱいです。 そして看板には「目白四丁目仮児童遊園」とあります。そうか、フツーに公園なのか。立ち退きを拒む地権者の牙城ではないことがわかって、なぜか安堵の心持ちに。 それにしても「仮」と堂々と掲げているのがすがすがしい。そう明示されると、「やっつけで設置したんだかんね。すぐにでも撤収できんだかんね」みたいに思えてくるから不思議です。 帰宅してから豊島区の公式サイトをチェック。 →豊島区のWEBサイト ふんふん、「仮」と名のつく公園が他にもあるんだなあ。「仮」がつくかつかないかは、きちんとした定義があるんでしょうけど、そこは興味がないので調べません(お役所の区分定義は、たいていの場合、おもしろみのない機械的な線引きに過ぎないのだ)。 面積は31.53m2、豊島区が管理している公園のなかで最も狭いことがわかる。何だかウレシイ。 でも、待てよ。そんなにあったっけ?なにやら水増しのにおいがしますよ、こりゃ。もう1回行って実測する必要がありますな。 さて、行ったときの話に戻ります。 公園であることを示す重要な記号「馬の遊具」(もうひとつは看板ね。記号はこの2つしかないのだ)。 せっかくなので、これで遊んでみました。ええ、もちろん乗ってみたですよ。

[9] 真盛寺|杉並区梅里にある天台真盛宗寺院、三井寺, , http://www.tesshow.jp/suginami/temple_umezato_shinsei.html

真盛寺山門

真盛寺玄関

真盛寺の縁起

真盛寺は、寛永8年(1631)に湯島天神前に開創、天和3年(1683)谷中清水町に、元禄元年(1688)本所小梅寺町に、大正11年に当地に移転しました。当寺は三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、三井寺とも称されています。

杉並区教育委員会掲示による真盛寺の縁起

当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院で、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。

「江戸本所真盛寺之記」によれば伊賀国(現三重県)出身の真観上人によって寛永8年(1631)に湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和3年(1683)谷中清水町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(現墨田区横川)にと移り、のち煤煙と浸水を避けて大正11年に現在の地に移転しました。

当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称され、三井一門の香華院として知られています。

本所から移築した本堂は安永5年(1776)、元三大師堂は文政3年(1820)、中玄関書院は慶應元年(1865)と、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物です。

また客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町から移築したものです。

境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁財天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときうたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によってうたい継がれています。

なお当寺には、「真観上人画像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵されています。(杉並区教育委員会掲示より)

「杉並の寺院」による真盛寺の縁起

真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院である。当時の開創は、開山真観が、真盛上人開山の伊勢津の西来寺で得度、寛永5年関東に下り、川越仙波の無量寿寺中院末西明寺住職を経て江戸にのぼり、寛永8年、藤堂大学頭高吉の家来長谷川藤十郎の大きな援助により、湯島に江戸で最初の天台宗真盛派の寺を建立したことによる。開創間もなく豪商越後屋三井高利の帰依を受け、以来三井家の外護により、江

[10] 軍事工場の謎のトンネル(後編・消えた坂道、天神坂) | 東京坂道ゆるラン, , http://sakamichi.tokyo/?p=6059

後楽園駅前、礫川公園のトンネル跡。これは小石川税務署裏まで続いているのか? 前編 で考察した水戸藩江戸上屋敷とは関係あるのか?

後楽園駅前、礫川公園のトンネル跡。

前編・後楽園編はこちらから

どうも礫川公園の隧道入口のレンガは明治に比べ時代が新しいような気がします。

しかも税務署の方角を向いていません。

小石川税務署裏で露出したトンネルらしきもの。

古地図を見てもそうです。また、明治の当初、射撃場は地下では無かったようです。

古地図:明治13-19年(1880-86年)第一軍管地方2万分の1迅速測図原図より射撃場

古地図:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より射撃場

地面を掘り下げ、周りを土塁で囲ったような表記です。

夏目漱石先生の「こころ」にこんな記述があります。

散歩がてらに本郷台を西へ下りて 小石川の坂 を真直に伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が 砲兵工廠の土塀 で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。

西富坂

「小石川の坂」とは電車の通路と言っているので市電の通る「 西富坂 」のことです。西富坂から伝通院に向かって登っていくと、左手には砲兵工廠があり、土塀があったようです。レンガ塀ではなく土塀。弾丸がめり込みやすく流れ弾の反射を防げるということでしょうか。

西富坂

西富坂は、かつての射撃場に沿うように、かつての水戸上屋敷の敷地に沿うように、ここでカーブしています。

消滅してしまった江戸時代の 東富坂 と違い、西富坂は主要幹線道路となっています。

もう一つの射的場

明治期には文京区弥生にも射的場があり、そこは等高線を見る限り、かなり掘ったようで驚かされます。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より「東京共同射的会社。

砲兵工廠の射撃場は、弥生のこれとは違い、掘った土を積み上げ、ガードフェンスにしていたようです。

余談ですが、弥生、かつての射的場近くに 「弥生土器ゆかりの地」の碑 が立っています。

「弥生土器ゆかりの地」の碑

実は弥生式土器の出土地は正確に把握できておらず、東京大学校内だとか、向ヶ岡貝塚だとか、 異人坂 だとか、いま現在、碑のある場所だとか、意

[19] 【豊島区】ワンブロックぐるり散歩 - 路地ウラ観光案内, , http://rojiurawatch.hatenablog.com/entry/2016/11/12/012854

東京都豊島区の住宅密集地帯。

冬の寒空、ワンブロックだけぐるりと歩きます。

ゆるい下り坂。

電線。

道幅は、車がギリギリ1台通れる程度。

コン クリート のヒビから生まれた命。

ヒトしか通れない道幅。

ごちゃ感。

植木鉢ロード。

木枠のガラス扉がかっこいい。

近くで見ると、型板ガラスの模様が見られます。

ぐるっと歩いていると、神社に七五三の旗が。

鳥居から階段を見上げると、親子が仲良くお参りしていました。

妙義神社

とにかく空気が冷たく、手先も冷えてしまいました(笑) 

街歩きの際には、そろそろ防寒対策をしないといけませんね。

(つづく)

[20] 首都高トンネル内で車から煙 一部通行止め | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160406/k10010469301000.html?utm_int=news_contents_news-main_006

6日午後、東京・豊島区の首都高速道路中央環状線の山手トンネル内で、車両から煙が出て、一時トンネル内に煙が立ちこめました。消防によりますと、けが人の情報はないということですが、一部の区間が通行止めとなっています。

[21] 豊洲 (東京都江東区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/chinese-in-toyosu/

【東京=トンキン】アイヤー!タワマンバブルに湧く江東区「豊洲」で中国人が急増している件

2016/7/1

2016/7/1

江東区

少子高齢化を基に容赦なく進む日本の人口減少社会、その反面どんどん外国人人口が増えまくっているのが今の東京都である。そんな中で先日、 「23区ではどこの国籍の人口が多いのか?」 というタイトルの記事が出てきた。この記事では6月27日に東京都が公表した 「東京都の人口(推計)」の概要 に基いて、23区の中で外国人人口が増加した区、特に中国人が増加した区をグラフや地図上にプロットするなどして可視化したデータを掲載している。

記事では外国人人口の割合を国別に円グラフでまとめているがその中でも「中国」が42%(台湾・香港も含む)で見るからにダントツなのだが、そんな中国人が多い区を上位4区で新宿、江戸川、江東、豊島と挙げているのだ。新宿区は極東最大のエスニックタウン新大久保があるし豊島区は東京最大のチャイナタウン池袋があるのでまだ分かる。しかし気になるのが東京東側の江戸川区と江東区だ。

江戸川区も江東区もJR総武線及び地下鉄東西線沿線が軒並み大陸系の本格大衆中華料理屋と怪しいマッサージ屋に中国小姐が夜な夜な「オニイサンマッサージキモチイイヨ」と片言で客引きする光景が当たり前になっているアレな街ばかりなのだが、とりわけ街並みがドラスティックに変貌を続けているのが江東区豊洲・東雲・有明といったタワマン建設ラッシュに湧く湾岸エリアである。

元々は工場地帯の埋立地だったのに今では富裕層がこぞって集まる街に

元々、豊洲・東雲・有明一帯は関東大震災後の瓦礫処理の際に埋め立てられた土地で環境汚染や公害といった悪しきレッテルが付きまとっていた工場や倉庫街でしかなかったが、都心に程近い故に再開発によって高級タワーマンションが続々建てられて富裕層が続々と入居し、特に豊洲地域は子供の人口も急増した為に2007年に豊洲北小学校、2015年に豊洲西小学校が相次いで増設される羽目になっている。

5年前の東日本大震災の記憶も薄れ、地震がひと度起きて停電でもすればエレベーターが止まって日常生活もままならなくなるような埋立地のマンションをポンポンと億単位も払って買ってしまうお目出度い人々がそれほどまでに大勢居るのかという驚きもあるのだが、富裕層と貧困層の二極化がそれだけ進んでいる

[22] 山手線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E7%B7%9A

山手線(やまのてせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が運営する鉄道路線である。

「山手線」には、次の4つの意味合いがある。旅客案内および運行管理上は2.が多用される。

路線名称としての「山手線」:東京都港区の品川駅を起点に、渋谷駅・新宿駅・池袋駅を経由して北区の田端駅を結ぶ全長20.6kmの鉄道路線(幹線)の名称[1]。東海道本線の支線。鉄道要覧に記載された山手線の区間でもある。

全線複々線であるが、このうちの埼京線電車、湘南新宿ラインの列車や特急列車、貨物列車の走る路線を通称「山手貨物線」と呼ぶ。

運転系統としての「山手線」:上記 1. に東海道本線の一部および東北本線の一部区間を合わせて東京都区内で環状運転を行う近距離電車の運転系統。実際には同運転系統のみが使用する専用の線路があり、それを「山手線」と呼ぶ。

マルスのシステム上の経路表示における「山手線」:上記1.から、代々木駅 - 新宿駅間を除外し、田端駅 - 日暮里駅間を含む(代々木駅 - 新宿駅間は「中央東線」と表示される)。

運賃計算上の「東京山手線内」:東京駅からの営業キロ程が100km超200km以内の範囲に所在する駅に発着する乗車券(または1km超200km以内の範囲に所在する駅に発着する一部の特別企画乗車券)に表示されることがある運賃計算上の名称。上記2.の区間に加え、環状線内側にある中央本線神田駅 - 代々木駅間および総武本線秋葉原駅 - 御茶ノ水駅間を含む。また、この区間内相互の近距離運賃は区間外よりも低額に設定されている。

以降、本項において特記のない場合は、2. の運転系統としての山手線を指すものとする。

概要

山手線は、日本の首都である東京の都心部で環状運転を行い、多くの駅において、都心から各方面へと伸びるJR(在来線・新幹線)や私鉄各社の放射路線、および都心部を走る地下鉄各線に接続している。1周の長さは34.5km、1周の所要時間は最速59分、平均64分である。ラインカラーは1963年登場の103系電車の車体の色に使用されたウグイス色(■、国鉄黄緑6号)であり[2]、以降登場したステンレス車両の帯の色や旅客案内(路線図・サインシステムなど)にも使用されている。

山手線は、日本の文明開化期に日本鉄道(私鉄)が当時国内有数の貿易港であった横浜港と関東地方内陸部の各地(埼玉県、群馬県、栃

[23] 東京スカイツリー - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC

東京スカイツリー(とうきょうスカイツリー、英: TOKYO SKYTREE)は東京都墨田区押上一丁目にある電波塔(送信所)である。観光・商業施設やオフィスビルが併設されており、ツリーを含めた周辺施設は東京スカイツリータウンと呼ばれる。2012年5月に電波塔・観光施設として開業した。

概要[編集]

1997年頃から既存の電波塔である東京タワーに代わる新タワーについて首都圏各地で誘致活動が行われていたが、2003年12月に日本放送協会(NHK)と在京民間テレビ局5社(日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京)が600m級の新しい電波塔を求めて「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足、新タワー構想を推進していくことで建設に向けた計画に進展がついた[1][2](建設地決定についての経緯は後述)。

東京スカイツリーの建設目的は東京タワーが位置する都心部では超高層建築物が林立し、その影となる部分に電波が届きにくくなる問題を低減するほかにワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることも建設目的のひとつとされた[1][2]。

事業主体は東武鉄道が筆頭株主となる「東武タワースカイツリー株式会社」であり、事業費は約500億円とした。このために、同社は500億円のユーロ債のCBを発行して資金調達を行っている。建設費は約400億円。総事業費は約650億円。施工は大林組、設計は日建設計である。テレビ局からの賃貸料および観光客からの入場料などで収益を得る見込みである。

東京都墨田区に所在する東武伊勢崎線・東京地下鉄半蔵門線・京成押上線・都営地下鉄浅草線の押上駅(2012年5月22日より「押上(スカイツリー前)」)と東武伊勢崎線のとうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)の間に挟まれる、東武鉄道の本社隣接地で所有地でもある貨物駅跡地(貨物廃止後業平橋駅3、4、5番線ホームの敷地として使用されたが、廃止)に建設された。当地区は航空法上、東京国際空港(羽田空港)の制限表面の外側水平表面が被さる地域であるため空港標点の海抜295mまでの建造物しか建てられなかったが2005年4月28日に高さ規制区域が見直されて建設可能となった[3][4]。

2008年7月14日に着工され、3年半の期間をかけて2012年2月29日に竣工した[5]。2012年5月2

[24] 江東区 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%8C%BA

昼夜間人口[編集]

2005年に夜間人口(居住者)は420,827人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は490,708人で昼は夜の1.166倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行126,127ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)

地理[編集]

河川

隣接する自治体

中央区、港区、墨田区、品川区、大田区、江戸川区

※ 隣接する自治体とはすべて陸続きでもある。

地勢[編集]

かつて地下水の汲み上げにより地盤沈下したことで、区の大部分がゼロメートル地帯となっている。また、運河と橋が多く、区では“水彩都市”と呼んでいる。道路と水路が連なって作られており、住宅地のそばを船が行き交うことも多い。区内には東京都から副都心に指定されている臨海副都心と錦糸町・亀戸副都心があり、二つの副都心を包括している。この事もあり、区内には観光客や会社員も多くやって来る。

臨海副都心は品川区・港区にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めており、近年[いつ?]急速に開発が進められた新興開発地域であり、街の景観は非常に近代的である。 錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大繁華街で、古くから下町として栄えた。1990年代後半から、東京の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には埋立地が多く、ゴミ埋立て「東京ゴミ戦争」で有名な夢の島や青海、有明などは観光地区としても賑わっている。 また、臨海部にある湾岸地域は港区、江戸川区と海岸線を連ねてつながっており、台場や東京ディズニーリゾートへの交通の便が良い。なお、東日本大震災の際に、一部液状化した地区もあり、団地が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ地区もあるが、2013年現在、簡易な補修または放置されている場所もある。

面積は39.94km²だが、この数字には大田区と帰属係争中の中央防波堤地区は含んでいない。

自然環境[編集]

区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は大規模な公園が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられ、東

[25] 吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=4

東京都羽村市の羽村取水堰。ここから玉川上水に分岐する。現在は東京都の水源は利根川水系が8割で多摩川水系は2割となっている

[26] めちゃめちゃ綺麗になった東京駅前の「行幸通り」: 東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行, , http://building-pc.cocolog-nifty.com/helicopter/2010/10/post-fb6d.html
  • 行幸通り- 「行幸通り」の内側に「歩道兼馬車道」が再整備され、2010年4月12日から開放されました。 「行幸通り」は、皇居前の和田倉門交差点と東京駅中央口交差点を結ぶ、「東京都道404号皇居前東京停車場線」の通称です。 約73m幅の「行幸通り」にヒートアイランド現象を緩和する「保水性舗装タイル」を敷いた広い歩道が完成しています。 長さは約200mで、「歩道兼馬車道」の両側にはベンチが設置され、イチョウ並木も整備されています。 今までは、東京駅周辺には、皇居外苑まで足を延ばさないとまったりする空間がありませんでした。 新たに登場した超一等地のこの空間は非常に贅沢ですが、緑も多く都心のオアシスという感じです。私も歩き疲れて30分くらいポケーっとしていました。 東京駅前の長さ約200mの貴重な空間です。 イチョウ並木がいいですね。 (おまけ) 「新丸の内ビルディング」を見上げてみました。
[27] 小笠原村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

地理[編集]

東京都本庁から小笠原村本庁である父島までは、約1,000 km離れている。

山: 父島の最高峰は名前の無い山(326m・中央山ではない)、母島の最高峰は乳房山(463 m)

河川

八ッ瀬川

歴史[編集]

「小笠原諸島#歴史」および「小笠原支庁#歴史」も参照

1940年(昭和15年)4月1日 - 普通町村制の適用により、東京府小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される[3]。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。(東京府廃止)

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約により、5村は日本国政府の行政から分離され廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止[4]

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、東京都小笠原村となる[5]。小笠原総合事務所(国の機関)[5]、東京都小笠原支庁および小笠原村役場の行政機関設置。

1979年(昭和54年)

4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

4月23日 - 村政確立(それより前は東京都小笠原支庁長が小笠原村長職務執行者であった)

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

小笠原村村域の変遷(年表)

月日

現小笠原村村域に関連する行政区域変遷

[28] この春行きたい!東京の滅亡城跡めぐり - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/120329154596_1.htm

待ちに待った春が到来!

この4月から、大きな希望で胸をいっぱいに膨らませ、あこがれの東京で新生活を始める人も多いことだろう。

そんな皆さんに贈りたい。かつてこの地で覇を競い、繁栄を願いながら志半ばに散って行った多くの人々の夢の跡を。

[29] 千川上水橋梁と地上に姿を現す千川上水 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/16370558/

西武新宿線上井草駅から西に200mほどの線路上に、千川上水橋梁と記された小さな鉄橋がある。全長10mにも満たない小さな鉄橋だが、1926年竣工の古い橋だ。西武新宿線の開業が1927年だから、開業以来ずっと使われているということになる。

橋の名前からわかるように、この下には、千川上水が流れているのだが、前後の区間が暗渠化されているのに、なぜかこの鉄橋を潜る区間の開渠のまま残されている。

千川上水は1696年に玉川上水から分水された用水路だ。当初は小石川御殿や湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺などの飲料水を供給するための上水路としてひかれたが、後には現在の練馬区や豊島区のエリアの農業用水、そして明治以降は工業用水としても利用され、1971年に送水が停止されるまで、途中何度か中断をはさみながらもおよそ270年もの間流れ続けてきた。 1989年に玉川上水の清流復活事業が行われた際、千川上水のせせらぎも復活しているが、流れが見られるのは上流の5kmほどで、それより下流は、昭和初期から戦後にかけて暗渠化されたまま今に至っている。 千川上水は、青梅街道を越える関町一丁目交差点のところから千川通りの歩道の下を暗渠となって流れていくのだが、そこから1.2kmほどの西武新宿線を踏切で越えるこの場所で、再びヒューム管から顔を出す。

[31] 真盛寺 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%9B%9B%E5%AF%BA

歴史[編集]

当寺院は、寛永8年(1631年)伊賀国(現在の三重県)出身の真観上人によって現在の文京区湯島の地に建立された。その後天和3年(1683年)に現在の台東区谷中に、さらに元禄元年(1688年)に現在の墨田区横川(本所)に移転した。現在地へは大正11年(1922年)に移転した。当寺院は、延宝元年(1673年)に三井高利が江戸・日本橋において創業した越後屋の菩提寺になっており、俗に「三井寺」とも呼ばれている。また境内は杉並区内においては第3位の広さを誇る。

施設・史跡[編集]

本堂…安永5年(1776年)

元三大師堂…文政3年(1820年)

中玄関書院…慶応元年(1865年)

いずれも本所にあったものを当地に移築したもの。

客殿・庫裡…明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町(現在の豊島区)から移築したもの。

新鏡ヶ池

アクセス[編集]

地下鉄丸ノ内線東高円寺駅より徒歩8分。

東高円寺駅、新宿駅、阿佐ヶ谷駅などよりバス(都営バス宿91系統・渋66系統)セシオン杉並前下車徒歩2分

ただし境内は一般公開していない。

参考資料[編集]

杉並区教育委員会設置真盛寺案内板

関連項目[編集]

西教寺…滋賀県大津市にある天台真盛宗の総本山。

三井家

[32] 真盛寺の池: 行け! いけ! 探訪!! 東京の池, , http://peepooblue.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-3ad0.html

所在地:杉並区梅里1丁目

青梅街道と環状7号線の交差点の南西側の一帯には堀ノ内祖師で知られる妙法寺(日蓮宗)などいくつもの寺院が集まっていますが、その中にあるのが真盛寺(天台宗真盛派)です。江戸初期、湯島に創建され、やがて越後屋三井家の菩提寺となりました。現在地に移ってきたのは大正11年のことです。 環七から続く参道を行き、山門をくぐると、広い境内は清新な雰囲気で、なかなかよい感じです。そんな境内の東側に池があり、池畔には弁財天が祀られ、茶室があります。

[33] 八丈町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E7%94%BA

歴史[編集]

年表[編集]

1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制が施行され、八丈支庁の八丈島に大賀郷村・三根村・樫立村・中之郷村・末吉村が設置される。

1947年(昭和22年)5月3日 - 地方自治法が施行され、八丈小島に鳥打村・宇津木村が設置される

1954年(昭和29年)10月1日 - 三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併し、八丈村となる。

1955年(昭和30年)4月1日 - 八丈村は大賀郷村・宇津木村を編入。

同日、八丈村は町制施行し八丈町となる。

1966年(昭和41年)3月 - 八丈小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」が提出される。6月に八丈町議会が請願を採択。

1967年(昭和42年)9月 - 八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。

1968年(昭和43年)10月 - 土地買収に関する住民との協議が成立。

1969年(昭和44年)6月 - 八丈小島全島民の移住が完了(全島民撤退時の島の人口は旧宇津木村9戸31人、旧鳥打村15戸60人)。「全国初の全島民完全移住」として注目された。

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

八丈町町域の変遷(年表)

月日

現八丈町町域に関連する行政区域変遷

[34] 漁村の名残り「浦安」 (1) 当代島の船溜まり - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/post_385/

東京23区唯一という人工ではない自然の島「妙見島」を訪れたついでに、県境を跨いで浦安駅まで歩く事にした。

浦安橋を跨いで妙見島から対岸にすぐ都県境が現れる。此処から先はもう千葉県なのである。

かつて東京都と千葉県の境にある葛西や浦安といった町は鉄道も通っていない陸の孤島で、そこに住む人々はアサリや海苔などを養殖して生計を立てていた純朴な漁村だった。

戦後の高度経済成長期に入る中で旧江戸川流域で「黒い水事件」(江戸川漁業被害)と呼ばれる工場排水による深刻な環境汚染に見まわれ、その後は東西線開通後に急速に宅地化が進む中で、もはや漁業で生計を建てる事を諦め漁業権が放棄されるように至ってからも、旧江戸川沿いには漁村の名残りをそのまま留めるかのような船着場の風景が続いている。

浦安橋の上から見える旧江戸川沿いには、かつての漁港としてではなく屋形船や釣り船を経営する船宿の船溜まりが延々と続く。

これが東京・大手町駅から快速電車に乗ってたったの15分で見られる光景だなんて、毎朝寿司詰め電車に乗って都心へ通う痛勤千葉都民の皆さんも気づいているのでしょうか。

しかし橋を降りて歩道の階段に入ると途端に不法投棄が目立つ。一瞬異様な光景だ。

我々は捨てられたゴミの中に見てはいけないものを見てしまった。

人糞が落ちているのだ。しかも下痢便。

リアル浦安鉄筋家族である。

「WELCOME TO CHIBA」

ウエルカムとか言いながらとんでもないものに出迎えられてしまった。浦安橋東詰のカオスっぷりに早くもクラクラ。

浦安橋の東側は当代島一丁目になる。ここまで来ると浦安駅にはかなり至近であるものの街の雰囲気はかなり煤けている。人糞が落ちているかと思ったら目の前は打ち捨てられた廃屋。どうにもこうにも荒んでいる。

挙句の果てにはタクシーの運転手へ向けた注意書きが貼られている始末。

「タクシーの運転手の方 立小便 タバコ・ゴミのポイ捨て 通報させてもらいます」

…この殺伐っぷりは一体なんなのだ。

浦安橋を過ぎた後も廃墟になった民家や潰れた韓国系スナックなどなかなか香ばしい物件が散在しておりなんとも言えない気分にさせてくれる。そして、またしても不法投棄が…

県境や市町村境はゴミ捨てのルールが違っている等の理由で不法投棄が多かったりするものだ。

しかし程なくして浦安駅前メト

[43] 平山城址・絹の道散歩 - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/09/post-63.html

先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。 そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。 行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。

本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅 平山城址公園駅 平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。 さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。

宗印寺から丘陵に上る が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。 お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とり

[44] 【都市伝説を検証】目白の田中邸から新潟まで3回曲がれば着く...は本当か?, , http://n-knuckles.com/discover/urban_legend/news001465.html

乗り合わせたタクシーの車内。目白付近で運転手は自信ありげに言った。

「角栄邸から新潟の実家まで、3回曲がれば着くんですよ」

まさかと思った。目白から新潟まで300キロ近くあるはずだ。いくら田中角栄が建設行政ににらみがきいたと言っても遠すぎやしないか。かといって彼の言葉を完全に否定する論拠を僕は持ち合わせていなかった。

後日、東京から新潟へ行く用事があったので実走して、確かめることにした。午前7時、レンタカーで角栄邸の前から出発する。死後20年あまり。相続税のため物納されたため、通り沿いに延々と続く塀はもはやない。石造りの塀と鉄門扉がビルと公園の間にかろうじて通りに面している。「田中」と記された表札がなければそこがかつての角栄邸だとは気づくはずがない。

一路西へ。車はすぐに学習院大学、続いて目白駅の前を通る。駅前は二車線で沿線は繁華街になっている。早朝だが通行量は多い。

6キロ走ったところ、豊島区の南長崎一丁目の交差点で右折する。通りは目白通りのままだ。出発から30分ほどで関越道の練馬インターチェンジにさしかかった。目白通りの3車線のうち2車線が高速へつながっていて、そのまま高速に入った。

車は快調に北上していく。谷あいを選んで走行しているからか、緩やかに蛇行するようになった。

関越トンネルに入ったところで、角栄の発言が頭をよぎった。

「三国峠をダイナマイトでふっとばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸繋ぎになる」(初出馬のときの演説)

事実、このトンネルは谷川岳の真下を10キロ以上にわたって貫いている。

そうした発言や後の「日本列島改造論」からわかるように、角栄は自らの選挙区、新潟三区への社会基盤整備に熱心だった。特に昭和30年代後半は公共事業の山ともいえるほどの郷土の大改造を施した。国道17号線の三国トンネルの開通に始まり、上越線の複線化、清水トンネルの完成。

角栄の行動力の原点とも言える裏日本ルサンチマン。それを克服するために霞ヶ関のエリートを手玉に取り、東京への復讐を果たしていったのかも知れない。関越自動車道の完成はその集大成ともいえるのだろう。昭和60年に全線が開通している。

北陸道へ入り、10キロあまりで西山の出口にさしかかった。高速を出ると、目の前には田んぼがあり背後が山になっているいかにも米所といった田舎の風景が広がっていた。

[45] 港区の町名 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA%E3%81%AE%E7%94%BA%E5%90%8D_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)

本項 港区の町名 (みなとくのちょうめい)では、 東京都 港区 に存在する、または過去に存在した町名を一覧化するとともに、明治時代初期以来の区内の町名の変遷について説明する。

港区の前史と行政区画の移り変わり [ 編集 ]

東京都港区は、昭和22年( 1947年 ) 3月15日 、当時の東京都 芝区 、 麻布区 、 赤坂区 が合併して成立した。以下、明治時代初期から港区成立までの行政区画の変遷について略述する。

江戸 が「 東京 」と改称されたのは慶応4年( 1868年 )のことである。同年7月17日(1868年9月3日)、「 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書 」が発せられ、 東京府 が設置された(同年9月8日・1868年11月18日に明治と改元)。以後、明治22年( 1889年 )に 東京市 が発足するまでの過渡期には、東京府の行政区画はめまぐるしく変遷し、番組制、 大区小区制 、15区6郡制等と呼ばれる制度が相次いで実施された。

明治2年2月( 1869年 3月)、東京府では、町地と郷村部との境界線を定める 朱引 (しゅびき)が行われた。これは、 皇居 を中心とした市街地( 江戸時代 の 町奉行 所支配地に相当)を朱引内とし、その外側を郷村とするもので、朱引内を50の区画に分けて、50番組(50区)が設定された。これとともに、江戸時代から続いていた 名主 制度が廃止された。同年5月(1869年6月)、周囲の郷村部にも5つの組が設定され、これを地方5番組と称した。後に港区となる区域は、このうち朱引内の14番組から22番組、および地方1番組に属した。

明治4年6月( 1871年 7月)には朱引が見直されて、朱引内は44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。明治4年7月(1871年8月)には 廃藩置県 が実施された。これにともない、同年11月(1872年1月)、従来の東京府、 品川県 、 小菅県 が廃止され、新たな東京府が設置された。同時に朱引が廃止されて、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年( 1874年 )3月、区割りは再度見直され、朱引が復活。朱引内外に11大区・103小区が設置された。後に港区となる区域は、このうち朱引内の第2大区2 - 12小区、第3大区7・8・11小区、朱引外の第7大区第1・2小区、第8大区第1小区に属した。

[46] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[47] 都営地下鉄三田線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E4%B8%89%E7%94%B0%E7%B7%9A

三田線 (みたせん)は、 東京都 品川区 の 目黒駅 から 板橋区 の 西高島平駅 までを結ぶ、 東京都交通局 が運営する 鉄道路線 ( 都営地下鉄 )。『 鉄道要覧 』には 6号線三田線 と記載されている [1] 。開業当初は「都営6号線」と称した(後述)。

路線名の由来は名称制定時の終着駅である 三田 (みた)から。車体・路線図・乗り換え案内で使用される ラインカラー は「ブルー」(青): 、路線記号は I [2] 。

概要 [ 編集 ]

東京特別区部の南部から都心部の日比谷・大手町を経由し、北西部の板橋区まで、おおむね南北を弓なりに(西に向いた逆C字型)走る路線である。目黒駅で 東急目黒線 と 相互直通運転 を行っている(詳細は #運転 を参照)。

この路線は 高島平駅 側より開業したが、起点は目黒駅( 2000年 9月26日 - )である。 ワンマン運転 を実施しており、保安装置として 日立製作所 製の ホームゲートシステム [3] を全駅に装備する( #駅設備 を参照)。

収支状況は、 2004年 度決算で純損益が約16億2,131万6,000円の赤字 [4] 、 2005年 度決算で約14億8,247万4,000円の黒字 [5] 、 2006年 度決算で約21億6,957万6,000円の黒字 [6] で、着実に改善している。

路線データ [ 編集 ]

路線距離( 営業キロ ):26.5km

目黒 - 白金高輪間2.3km(第二種)、白金高輪 - 西高島平間24.2km

軌間 :1067mm

駅数:27駅(起終点駅含む)

複線区間:全線

電化区間:全線(直流1500V 架空電車線方式 )

地上区間:志村坂上 - 西高島平間

閉塞方式 :車内信号閉塞式

保安装置: CS - ATC

列車無線 方式: 空間波無線 (SR) 方式

漏洩同軸ケーブル (LCX) を使用したものである。

最高運転速度:75km/h

表定速度 :31.1km/h

全線所要時分:52分10秒

車両基地 : 志村車両検修場

目黒 - 白金高輪間 (2.3km) は 東京地下鉄 (東京メトロ) 南北線 と線路(施設)を共用しており、東京地下鉄が 第一種鉄道事業者 、東京都交通局が 第二種鉄道事業者 となっている。このため、運賃計算方式に特例がある。 東京メトロ南北線#運賃計算の特例 を参照

[48] JR下の特異空間 - 都市徘徊blog, , http://blog.goo.ne.jp/asabata/e/fe2024857d9795f4516318c4edd3c427

JR山手線、新幹線、品川操車場の下を潜り抜ける長さ200mほどのガード。< Google Map >。

ここが特異な空間になっている最大の理由は、写真で見れば一目瞭然、ガードの高さが極端に低いのだ。車輌の通行制限高さは1.5m。多少、余裕を見ているので、ガードの高さじたいが1.5mというわけではないが、それでもかなりの圧迫感。特に東側150mぐらいの区間の天井高がかなり低い。身長170cmの私もここでは頭がぶつかってしまうので、最低高は160〜165cm程度ではないだろうか。

ネットで調べてみると「提灯殺しのガード」という、すごい異名がついているという。提灯というのは、タクシーの屋根に付いているランプのこと。このガードがあまりにも低いため、その提灯が天井に引っ掛かって壊れてしまうのだそうだ。このエリアを走るタクシーは、ここのガードに合わせて、あらかじめ低い提灯を使っているという話さえある。確かにタクシーの提灯は天井すれすれをかすめるように駆け抜けていく。たまに見かける、大きな三角形の広告パネルを付けたタクシーなどは、絶対に無理。

提灯の明かりや、ブレーキランプの明かりが、天井に反射して映り込むガードって、そうそうない。

途中に何カ所か路面の凹凸があるのだが、ここでは多くの車が少し減速する。凹凸で車が上下して、万一天井に擦るといけないと思うかららしい。しかしその他の部分では一方通行であることもあって、皆かなりの速度で走っていく。天井の圧迫感から一刻も早く抜け出したいという心理もあるのかもしれない。地震で万一崩れたら、逃げ場もなくペシャンコになってしまうんだろうなという嫌な想像が頭をよぎる。

一番西側では頻繁に山手線の電車が行き交う。頭上2mぐらいのところを、何トンもある車輌が疾走し、雷のような大音響がガード内に響き渡るのはかなり恐い。音と振動で思わず首をすくめてしまう。そんなことしてもどうにもならないのはわかっているのだが。

今までここの名前は知らなかった。所在地をもとにGoogleで検索してみたら、高輪橋架道橋という名前だった。長くてトンネルのようになっているので、隧道かともちょっと思ったのだが、地面を掘って造ったものではないので、やはりトンネルや隧道ではなく、道路に架かる橋という扱いになっていた。現場で見落としていたのだが、ガードの梁にちゃんと高輪橋架

[49] 「すみ切り」を愛でる - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/150731194209_3.htm

上の道路以外の部分を塗りつぶしたものなら分かりやすいだろう(表示している地図範囲の四隅が塗りつぶされていないのはめんどくさかったからです)。

黒エリアの交差点はほとんどがすみ切られている。前ページまでのすみ切り事例は、これらだ。

先日、用事があって板橋駅に行った。初めて降りた駅ということもあり、地図を見ながら歩いているうちに、上のようなエリアによる道路の違いに気がついたしだいだ。

黒エリアとグレーエリアの間の道を歩いていると、左右の道幅の違いがおもしろい。黒エリアでは比較的太い道だったのが、グレーに入ったとたん路地風味になるのだ。

[51] 埼玉県の中にある練馬区[!?]…日本列島飛び地の謎[?] | おじさんのスポーツおたく奮戦記?, , http://ivory.ap.teacup.com/issan/915.html

岡山スポーツをまとめて応援するおじさんの気ままな戯言です。お気軽にお立ち寄り下さい。

背景を変えてみました。ベーシックなissanで勝負です(笑)

晴れの国から、岡山スポーツの応援をメインに様々な話題も拾っていこうと思います。

今後ともよろしくお引き立て下さいませ。

飛び地シリーズの第2弾です。地図に載らないほど小さな飛び地は日本各地にあります。今回は、たった7軒の民家と畑を含めてわずか563坪の飛び地の話です。

では、再び『日本列島飛び地の謎』よりの抜粋です。

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東京都の飛び地が、都県境を越えて埼玉県にある。練馬区西大泉の一部が、埼玉県新座市の中にまるでガラスの破片のように飛び離れているのだ。

なぜこのような飛び地が発生したのか。土地台帳に誤って記載されたためだとか、開発業者が住宅を建築する際に、新座市の土地を練馬区だと思い込んで、間違って練馬区に申請してしまったからではないかなどと諸説あるが、本当のところはよくわからないらしい。

だが、飛び地とはいっても、練馬区の本体からわずか数十メートルしか離れていない。それでも周囲をすべて新座市に囲まれているのだから、れっきとした飛び地である。飛び地の面積はわずか1,859�u(563坪)と小さく、その中に7軒の民家と小さな畑がある。その民家も一列に並んでいるわけではなく、新座市の民家と練馬区の民家が入り交じっている。具体的にいうと、飛び地の一画に14軒の家があり、そのうち7軒が練馬区で7軒が新座市の家。8軒と6軒、2列に並んでいるが、そのうちの1列には新座市の家が6軒と練馬区の家が2軒、もう1列は5軒が練馬区で1軒が新座市の家なのである。これからもわかるように、練馬区にある家の両隣が新座市の家という複雑さなのだ。

1962(昭和37)年に施行された「住居表示に関する法律」に基づき、練馬区の本体は住居表示法が実施されて「西大泉1丁目〜6丁目」という新しい住所になっているが、飛び地は住居表示法が実施されておらず、「西大泉町1179番地」という旧住所のままだ。

飛び地で一番気になるのが行政の問題だろう。例えば、上下水道は新座市からサービスを受け、ゴミの収集は練馬区が行っている。また、住民税は練馬区に納めているが、水道料金は新座市に払っている。飛び地はあくまでも

[52] 北浦和駐輪場 (さいたま市浦和区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/kitaurawa-churinjo/

京浜東北線に乗ってひたすら大宮方面に向かうと、大宮の3つ手前、浦和の次のところに「北浦和」という駅があり、このへんに来るとかつてのテレビ番組・タモリのボキャブラ天国にあった山本リンダの替え歌ネタで「浦和は7つの駅がある」というのを脊髄反射的に思い出してしまう困ったレトロ脳なのだが、今は埼玉高速鉄道の浦和美園駅もあるので浦和には8つの駅があるんだな…と、のっけから話が脱線してしまったが、いずれにしても地元民でなければあまり来ない場所であるには違いない。 そんな北浦和駅で降りると東西双方に商店街があり殊の外栄えている街である事に気付く。駅前は雑多な繁華街的風情だが、西川口や蕨のようなどこか危険でアレな香りがする事もないし、変な外国人がたむろしている事もない。文教都市浦和ですからね。 北浦和駅東口から少し歩いた所に「栄通り」というちょっとした飲み屋小路がある。かなり場末感のきつい佇まいだが、駅からバスターミナルが入居するビルの間を抜ける通勤客が頻繁に通行するので人通りは一応ながら激しい場所だ。 そんな飲み屋小路に昼間から行列ができている中華料理店「娘々北浦和店」。地元民のパワーフードでしょうか。店の前に浦和レッズの旗やポスターが掲げられているあたりがサッカー王国浦和のお土地柄である。 この栄通り沿いにやたら気になる駐輪場を発見した。そりゃ駅前だし駐輪場の一つくらいあるだろうと気にも留めずに素通りしてしまいそうになるが、どこかしらその佇まいに違和感を感じた。「北浦和駐輪場」という単刀直入過ぎるネーミング。うーん… 入口の横にある「更新の受付」と掲示された看板、それを囲っているどこかで見た事のありそうな独特な形状のごついフレームが一体何なのか、思い出すのにさほど時間は必要としなかった。これは…元キャバレーではないのだろうか。 24時間管理された駐輪場で、1階下段は月額3000円だが、1階上段と2階は月額2500円で契約する事が出来るという月極駐輪場、兎角気になってしょうがないのが、どう見ても元キャバレーにしか見えない2階部分である。古風な筆字と、「静」「負」の旧字体が際立つ手書きの警告文もじわじわくる。この勢いだとオーナーはかなりのご高齢ではないだろうか。 2階へ続く階段を見上げると、足下こそは駐輪場らしく自転車を押して上げ下げできるようスロープが設置された階段に変わっている

[53] 八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。

その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。

で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。

搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。

本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅

集合

[54] 廃線レポート 朝熊登山鉄道 鋼索線, , http://yamaiga.com/rail/asama/main4.html

2014/2/1 7:59 (59分経過) 【現在地】

鋼索線の起点からおおよそ900mの地点より 第二隧道 が始まる。

1078mの道のりで高低差415mを攻略するという“無茶な旅”も、決着の時は近い。

本路線の最急勾配は652‰もあり、これは地方鉄道法や鉄道事業法に準拠した鉄道としては歴代のナンバーワンであったとされる。

最急勾配区間が全線のどこに、どのくらいの長さあったのかは不明だが、ここまで歩いてきた感じだと、この第二隧道の勾配は群を抜いており、「これまでに私が見たことの無い」ものだった。

第二隧道の断面の大きさ自体は、普通の単線の隧道と変わらないはずだが、とにかく仰ぎ見るしかないせいで、パースが掛かり、より巨大に見えた。

また、第一隧道は石材の意匠であったが、第二隧道は場所打ちのコンクリートで扁額も無く、ややシンプルな印象である。とはいえ、笠石や帯石の出っぱりのほか、アーチ環が微妙な凹凸で表現されていた。

風化による表面の剥離がだいぶ進んでいるのも、コンクリートゆえにやむを得ないところだろう。

それはそうと、この坑門は私が現地でとても知りたいと思っていた事を、帰宅後にこっそりと教えてくれた。

尋常でない勾配区間にある隧道だが、坑門の壁面はおそらく正確な鉛直線である。

おかげさまで、水準計を用意してこなかった私でも、

坑門を真横から写した写真から、おおよその勾配を測る事が出来たのだ。

分度器をあてて実際に測ってみたのが、次の図だ…

↓↓↓

32度だって!

このように、画面からおおよそ32度という数字が計測されたが、

これを計算式に則って「‰」に換算すると、624‰が導かれる。

記録にある最急勾配の652‰との誤差は小さく、

ほぼ最急勾配 といって差し支えなさそうだ。

これ、マジですわ(笑)。

これが日本の営業用鉄道の最急勾配区間だったとすれば、そこにあるこの隧道は、日本一急な鉄道用隧道であった可能性が極めて高い。

営業用ではない森林鉄道や鉱山鉄道用のインクライン施設の中には、652‰を越えるものがあったようだが、そこに隧道があるかは未確認。

もちろん、道路用にこれを越える勾配の隧道はないだろう。

「勾配65%」などという道路が、そもそも見あたらない(車道の最急勾配はせいぜい30%台である)。

私は自動車の性能の限界を知らない

[55] 調布飛行場 (東京都調布市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/chofu-airport/

2015年7月26日、東京都調布市の調布飛行場から離陸した小型飛行機が富士見町一丁目の住宅地に墜落、飛行機の乗員と巻き添えを食らった民家の住民を含めて3人が死亡、5人が負傷する事故が発生。それ以来連日マスコミ報道が続いていて、事故直後の報道ヘリの上空からの映像で焼け焦げた被害者の遺体がそのまま映っていた件やら何やらでネット上でも騒ぎになっている訳だが、果たして現場はどんな状況になっているか気になったので調布飛行場及び事故現場周辺の様子を見てきた。 墜落事故の渦中にある調布飛行場があるのは、調布市の西北側一帯。厳密には三鷹市と府中市にも跨っていて、最寄りに鉄道駅がないので、京王線調布駅もしくはJR中央線武蔵境駅からバスかタクシーで来る事になる。飛行場の周辺に広がる「武蔵野の森公園」北側の丘の上から滑走路が見渡せる。 東京近郊で空港と聞くとどうしても羽田空港や成田空港をイメージしがちだが、この調布飛行場は東京都が運営する小型機専用のコミューター空港である。輸送需要が限られる伊豆諸島行きの定期便が発着していて、伊豆大島・新島・神津島・三宅島の四島に定期便が就航している他、個人や会社所有の自家用機24機が運航されている。今回墜落事故を起こしたのはこの自家用機のうちの1機である。 調布飛行場の歴史は戦時中にまで遡り、昭和13(1938)年に計画され、3年後の昭和16(1941)年4月30日に竣工。当初は「東京調布飛行場」の名称で、専ら陸軍の戦闘機の発着に使われていた。飛行場ターミナル手前の道すがらに空港の竣工当時に建造され当初の正面入口に置かれたごつい石造りの門柱が未だに残っている。 調布飛行場という場所が第二次大戦当時に日本本土の貴重な防空拠点だった事を示す生き証人のような存在があり、それが武蔵野の森公園北側の一角に二ヶ所残されている掩体壕。敵機である米軍のB-29を迎え撃つ為に「飛行第244戦隊」の下で首都圏に配備されていた三式戦闘機「飛燕」を格納するために作られたもの。大沢一号掩体壕は開口部が塞がれて、戦闘機のイラストが描かれている上にフェンスで仕切られて立ち入り不能な状態。 同じく大沢二号掩体壕。戦時中はこのような掩体壕が約60基造られたと案内板には書かれている。撃墜されたB-29の機体が調布市街地に落ちたり、当然ながら米軍による機銃掃射や焼夷弾などによる攻撃対象にな

[56] 信濃町 | 2007~2009年 (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/shinanomachi/

2007年夏、初めての信濃町 東京の地理に詳しい知人の話で「一度信濃町と言う所に行ってみろ、凄いから」という強いお勧めを受けて、2007年の真夏の暑い中、新宿から総武線各駅電車に乗って信濃町駅を目指した。 新宿御苑、神宮外苑、赤坂御用地など、皇室関係の敷地が数多くあるお陰で首都のど真ん中にありながら広大な緑地と自然環境が残ったエリアが存在するのは、東京に来て驚く事の一つである。そんな絶好のロケーションの土地が、とある新興宗教団体によって次々買い占められているという話を聞いたのは、もうかなり昔の事だ。 公称1000万人、日本最大の新興宗教団体「創価学会」の本拠地がここ信濃町にある。一体どんな場所だろうという好奇心だけでやってきたのだ。 信濃町駅の改札を降りた、駅の構内からして既に教団関係の広告ばかりでありヤバイ。 「信濃町饅頭・信濃町しぐれ 三色味」と書かれた饅頭屋は和風とは似ても似付かぬ鮮やかな青黄赤の極彩色大勝利カラーに包まれていて非常に香ばしい。信濃町限定の代表的な土産物だ。 赤色には梅、黄色には栗、青色にはずんだ餡が使われているのだそうだが、この青はどう見ても正常な食品の色には見えないぞ。 学会員ではない人でも、神宮球場や、この慶応義塾大学病院は足を運ぶ機会があるだろう。この病院は過去に前総理大臣安倍晋三氏が運ばれたり首を吊った松岡利勝農水大臣が運ばれたりするなど、政府要人などの大物が利用している。 他にも、謎の死を遂げたZARDの坂井泉水氏が転落した螺旋スロープもある。この件も事故だったのか自殺だったのか結局謎のままだ。 だが、それよりも信濃町と言えばやっぱり青黄赤の大勝利カラーである。町中至るところに大勝利カラー。ここはルーマニア領ですか? しかも、このステッカーをよく見ればわかるが、信濃町商店振興会のものだ。商店街からして既にSGIの配下にあるということなのだろう。いやはやたまげました。 信濃町から四谷三丁目までを南北に抜ける外苑東通り。ここにも創価専門仏壇店や書店などの関連店舗がズラリと軒を連ねる。 本当は一歩裏通りに入っていくと凄まじい密度で創価関連施設が密集しまくっているのだが、今回は写真なしです。ヘタレですみません。 ちなみに、この界隈では普通にカメラを持ってうろつくだけでも謎の警備員に尾行されたり、「何か御用ですか」とさりげなく尋問されたりする

[57] 信濃町 | 2007~2009年 (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/shinanomachi/2/

2009年、再びの信濃町 またしても信濃町にやってきてしまった。別にこの宗教団体に対して悪意はないし単純に一宗教団体の存在だけで作られる街の日常に興味があるだけだ、という事を口実に一年半ぶりに再びこの街を訪れた。 久方ぶりに信濃町駅を降りて、慶応義塾大学病院に向かう横断歩道の前にふと目をやれば凄まじい電波文が書かれたビラがべったり貼り付けられるのを見て唖然とした。 信濃町周辺に漂うスピリチュアルパワーが電波を呼び寄せたのかよくわからないが、これだけの文章を吐き出した張本人は一体何者なのか。 やけにソッチ方面にうるさい主張を放つ電波ビラ。性の乱れに危惧を抱く気持ちは一理あるが、渋谷道玄坂や六本木や歌舞伎町辺りは既に何十年も前から ソドムとゴモラ 状態である。性的マイノリティは罪であり許さないらしい。うーん、怖いよう。 よほどニューハーフが嫌いなのか知らんが、 はるな愛 の名前まで出して非難轟々の始末。既に半分以上がビリビリに破けていて読めなかった。どなたかこの電波文の詳細を知る方、連絡下さい。 のっけから強烈な電波浴を受けて頭がくらくらしてきたので近所の本屋に逃げ込む事にしよう。博文堂書店とあるが見た目は普通の本屋だよな?そうだよな? だが中に入るとそこにはプレジデント大作先生を称える「聖書」の数々が… そうかそうか、ここが信濃町だという事を忘れていた。 それ以外は普通の本屋なんだが… しかし変わった事にこの本屋は地下への連絡通路もあって、そちらは学会関連の仏壇やら仏具がぎっしり並べられた店がある。 白百合バージョンの某子猫など、キャラクターグッズも豊富。ちなみに白百合とは紛れも無く学会婦人部のシンボルフラワーである。 何故こんなものがあるのか、少し調べてみたら サイゾーの記事 が引っかかった。学会と関係があるのかどうかサンリオに問い合わせてみたらしいが、うちは関係ないし小売店におろした先どうなってるかわかんねえよ、という結論で終わっている。 青と黄色と赤がチカチカしすぎて落ち着かないのでさっさと店を後にした。 本屋の横手にあるショーウインドウを見ても、やはりプレジデント大作先生の本が大々的に宣伝されていた。他にネタがないのかよw 頭が痛い時は甘いものが効く。ならば和菓子でも一つ食べて…と思ったら、この店も見事に三色の帯が飾られている。店の雰囲気に全然マッチしていない

[60] 万世橋の電波自販機コーナー (東京都千代田区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/akihabara-mad-vending-machine/

最近当取材班が気になっているのが「個性的な自販機コーナー」ジャンルの物件。田舎にあるオートレストランのレトロ自販機コーナーも近年減少する一方だが、打って変わってこちらはド都心もいいところの東京都千代田区神田須田町、秋葉原駅の南側、万世橋を渡った先にある「肉の万世ビル」真裏の自販機コーナー。かなり電波キツすぎて酷いとネット上でも随分評判になっているので見に来た。 まずどういう自販機コーナーなのかというのは言葉で説明するより画像を見てもらえれば判断できるだろう。まあ自販機コーナーらしく店の外面に沢山の自販機が設置されているのだが、ちょっとおかしい事に気づかないだろうか。 自販機に売られているものが飲み物だけではないのだ。何故か唐突にアロマキャンドル、その隣にはミートソース缶が陳列されている。「その灯火暮らし」とか書かれていてのっけから意味がわからない。 さらには自販機まるまる一個チップスターしか置いていないものまであってどの購買層に訴求しているのか定まらない所が怖い。 チップスターばかりと思いきやソーラー充電式ライトやオイルライターといった品々を無理矢理挟み込んでくる不意打ち的な商品構成。「男の決め道具」と言われましてもね…他にも栄養ドリンクが何種類か置いてあったり、乳ボーロやラムネや金平糖といった古めかしい駄菓子も売られている。 ちなみにチップスター自販機の隣にはポップコーン自販機まであって、この怪しげな自販機コーナーでありつける食糧の類は殊の外多いようである。秋葉原から近いと言っても基本オフィス街だし、本当にどの客層を狙っているのかが分からない。 ポップコーン自販機も販売されているものはバター風味にいちごミルク風味、そしてカレー風味と3つの味が楽しめる。だが店主のお勧めはカレーらしく「みんな大好きカレー」とテプラを貼り付けてアピール。誰が買っているのか不明なのに何故かポップコーン自販機は店内にもう一台、合計二台据え付けられている。 食い物や日用品に留まらず、秋葉原という場所柄なのかして鉄道模型やトミカなども自販機で販売されている謎っぷり。売れているんですかこれ… 肉の万世ビルの裏手に面した路地にずらりと並ぶ自販機群。右端には証明写真機も設置。建物自体かなり古ぼけていて薄っぺらいのが特徴である。二階部分には人が住んでいたりするのだろうか…元々は「高見裏地店」という個人

[61] 万世橋の電波自販機コーナー (東京都千代田区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/akihabara-mad-vending-machine/2/

<1ページ目を読む これだけでも既にこの場所のカオスっぷりが伝わっているだろうが、この万世橋の自販機コーナーの磁場を狂わせているのは自販機本体やその周囲に大量に掲げられた看板やテプラによる案内や注意書き、謎の文言の数々である。 まず自販機コーナーの主からの警告文が色々と香ばしい。かなりお客を信じていないようで、建物内煙草禁止といった事から色々と注意書きの文言が黄色いテプラでベタベタ自販機本体に貼り付けられている。「喫煙禁止、吸い殻を捨てるのも禁止」なのだが、違反者には「5250円を支払っていただきます」と随分具体的な罰金の金額が提示されているのだ。5000円に消費税5%って事か。しかし2014年4月からの新消費税率8%には対応していない模様。 ゴミ箱の蓋にまでしつこく黄色テプラで威嚇しまくる自販機コーナーの主。「人が燃えたら弁済できますか」などと物騒な事まで言われるがこのボロい建物自体がかなり火災の原因となりそうな気がしなくもない。文言通り、隣接するのは人が住むマンションである。 建物外面にびっしり自販機が並んでいるのでうっかりしていると気づかないが、この建物の中にも自販機が沢山用意されている。でも入口が分かりづらい。 どうやらここが入口のようですね。「おでん缶中華そば缶販売中」との事です。秋葉原という土地柄だけにチチブデンキ前に次ぐアキバのおでん缶自販機二番目の名所を目指しているのかも知れませんが、こうして見ている間に他の客が寄り付く様子が全くありません。その電波な佇まいのせいか、人目に付きにくい場所にあるからか原因は定かではないが。 さて中に入ってきました。自販機で遮られているせいで内部はかなり薄暗く、屋内の蛍光灯はほぼ自販機に備え付けられているものだけである。頭上には建物を支える木材の柱や梁が剥き出しになっていて防災上如何なものかと疑問が残る。 かなり雑然とした空間で、人がすれ違うのもようやくの通路だけ確保されて、後は同じように様々な自販機が詰め込まれている屋内。これが西成だったらワンカップ酒やビールやおつまみになるんですが、ここはアルコール類は一切置いていませんね。 果たしてアキバ名物らしいおでん缶の自販機はどこへ…と思ったらこれ…小汚くベタベタと注意書きがびっしり書き連ねられたテプラが大量に貼り付けられて商品が見えなくなっているこの自販機がそうだったらしい

[63] 百人町区営アパート (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/hyakunincho-kuei-apartment/

不法占拠バタヤ住民を住ませて半世紀、JR大久保駅近くにある「百人町区営アパート」の怪 2015/6/12 新宿区

新宿のお隣、最近元気が無くなってきたらしいコリアタウン新大久保の現状は先日お伝えしたばかりだが、またしてもこの街に残る胡散臭い話題を聞きつけてしまった。 JR大久保駅から線路沿いの道を職安通り方向に進むと現れる、三軒棟続きの二階建て長屋の存在…通りがかる人々は誰もがそこを何も無かったかのように通り過ごすが、実はこの場所にとんでもない「戦後史」が隠れ潜んでいた… この建物、地図上で見ると「百人町区営アパート」と記されている。それにしても全く生活感は感じさせないのだが、これが「住民」が存在する新宿区営のれっきとした区営住宅という事になる。何故こんなものが大久保駅近くのこの場所にあるのだろうか。 二階部分が住居、一階部分は事務所や作業所といった使われ方をしている様子だが、落書きされまくっているわ、どうにも荒れ果てている。外壁に蔦が絡まって余計に不気味さを増しているあたりが、かつての大久保の暗黒街ぶりを思わせる。 この区営住宅が特殊な存在である事は、二階へ上がる階段の手前の壁に据え付けられた住民の郵便ポストを見れば分かる。殆どどれも在日コリアンの苗字ばかりである。さすが大久保と言いますか、やっぱりガチなコリアタウンなんですね… 二階に上がると建物の裏側が廊下になっており各世帯の玄関口もこちら側にある。しかしこの陰鬱っぷり…JR中央総武線の線路の土手に阻まれ、昼間でもろくに日光が当たらず薄暗い廊下である。ベランダもなく洗濯物を干す場所は事実上ここしかない。生活環境としてはかなりアレな部類に入る。 この「百人町区営アパート」をネット上で調べると、とある 区民オンブズマンのブログ記事 に行き当たった。そこにはこの建物の正式名称が 「新宿区立百人町作業宿泊所」 である事と、月々の「使用料」という名目の家賃が2300円~6600円と極めて激安である事が記されている。大久保の賃貸相場で外国人でも借りられるような風呂なしボロアパートでも5万円台は見なければならないのに、このアパートの住民は特権的だ。 さらにその成立経緯についても、昭和39(1964)年の東京五輪開催を前にしたスラムクリアランスの一環で、職安通りを挟んだ南側にある「新宿都税事務所」(旧西新宿保健センター)の敷地

[64] 大久保公園 - DEEP案内不動産部, , http://e.deepannai.info/okubo-park/

度重なる浄化作戦が進められ見た目には観光客も闊歩する健全な繁華街となっている歌舞伎町も、まだまだ暗黒面とも言える場所はそこかしこに残っている。歌舞伎町の旧コマ劇場を過ぎたところにある「東京都健康プラザハイジア」裏手の「新宿区立大久保公園」を見ると、公園の外周部分が全てフェンスで覆われている。夜間早朝は立ち入る事ができず、午前9時から午後7時(冬季は夜6時)までゲートが開放されて出入り可能になっていて、定期的にイベント会場にもなるので、もはや公園と呼べるべき場所ではなく、多目的スペースと言った方が近い。

何故大久保公園がこうなったかというと、以前この場所は立ちんぼや違法なホニャララを販売する裏稼業の連中が集まる曰くつきのスポットとしてあまりに有名になってしまったせいだ。浄化作戦の一環でフェンスで覆われてしまい、夜間は一切出入り禁止。未だに大久保公園とハイジアの間の道や周辺で「客待ち」をしているババアの姿を目にする。周囲には歴史を感じさせる連れ込み旅館やラブホテルが密集しており、現代においても街の役目は変わっていない。ハイジアの前の道には「座り込み・立ち止まり禁止」の張り紙と共にロープが張られていて、立ち止まる事すら許されないのかと突っ込みたくもなる。

ちなみにこの大久保公園向かいに「公益社団法人日本駆け込み寺」の事務所があり、DV・家出・ストーカー被害者の相談サポートをしている傍ら、刑務所から出所後、社会復帰に困っている元受刑者及び元暴力団員の就職サポートを兼ねた飲食店「新宿駆け込み餃子」を近くで経営している。

[65] 枝川コリアタウン (東京都江東区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/edagawa-koreatown/

凄まじい勢いで再開発の進み、首都圏の住みたい街ランキング(笑)上位にも加わる「豊洲」なのだが、有楽町線の豊洲駅から少し北東に歩くと見える豊洲運河を渡ると、そこは枝川一丁目というエリア。

ここは戦前の1940年に当時の東京市が幻のオリンピックを誘致するため、会場確保の名目で江東区内に住んでいた在日朝鮮人約千人をこの地に集団移住させた場所である、と言われている。

豊洲駅から枝川一丁目に入ると、大きな都営住宅の建物が現れる。

枝川一丁目交差点をはじめ周辺道路はコンテナ車など大型車の通行も多く決して良い住環境とは言えない。

たまたま訪れた日には、団地の入口の公園に盆踊りの櫓が組まれていた。

再開発著しい豊洲とは一転して、運河の向こうの枝川一丁目は静けさを残す古い住宅街だ。

都営住宅の多さを見るとやはりこの地域が港湾労働者と工場労働者が住むダウンタウンであるということがよくわかる。

白山湯という銭湯が一軒だけ、営業を続けているようだ。

小さな島のようになっている枝川一丁目地区の西側は都営アパート群と倉庫街、東側は低層住宅地と工場群が目立つ。団地は高齢化が進んでおり、介護施設が併設されている箇所もある。

商店街というような洒落たものは枝川一丁目には存在せず、肉屋だけが辛うじて営業を続けている小さな市場など数店舗が残っているのみ。

割と最近にできたと思われる焼肉屋が一軒。寂れた地区ではあるがやはり数世代に渡る歴史を持つコリアタウンだけあって焼肉屋の数だけは結構多いのだ。しかしよく見ると店の前に変な張り紙がしているぞ。

そういえばさっきからプーンと臭い匂いが店の前を漂っていて気になっていたのだが、実のところは隣のアパートの大家が飼育するペットの悪臭だと、店主が主張している張り紙だった。

「この悪臭の発生源は、当店ではありません」と必死の書き込み。まあ、八百屋とかならまだしも扱っているものが肉なので誤解を受けるのも無理はない。

で、隣の「赤い階段のアパート」はこれまた物凄く新しいわけだが、最近豊洲地区の発展の煽りを受けて隣接する枝川一丁目も新しくマンションやアパートが増えだしている。しかし隣人トラブルの火種になっていたりして宜しくありませんな。

地区東側の枝川橋からこの地区に渡ってくると、交差点の角に韓国物産専門の「コリア物産」の店舗があり、コリアタウンであることが分かる。この店の

[66] EU離脱で頭の体操、町田市が東京を“離脱”するとしたらどんな手続が必要? (THE PAGE) - Yahoo!ニュース, , http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160706-00000011-wordleaf-soci

EU離脱の是非を問い、「離脱賛成」が過半数を占めたイギリスの国民投票。このニュースを受けて、ネットでここぞとばかりにネタにされたのが「町田市の東京都離脱」だ。神奈川県に食い込むように存在するその形、市内を走る主要バス「神奈中(神奈川中央交通)バス」の存在、神奈川県相模原市や川崎市と同じ市外局番など、日頃から「神奈川県町田市」と言われてしまう要素に事欠かない町田市だが、本当に「東京都離脱」が実現するようなことはあるのだろうか。

現在の町田市を含む多摩地区の大半は、1871(明治4)年の廃藩置県後、神奈川県に所属していた。その後「東京府」に移管されたのは22年後の1893(明治26)年。東京の水源である多摩川の上流を管理するためという理由だったが、その水源があるのは北多摩郡と西多摩郡で、町田がある南多摩郡まで移管する必要はなかった。

『あなたの知らない神奈川県の歴史』(2012年)によると、南多摩郡も含めた移管には、政治的思惑があったという。北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡の「三多摩」で勢力の強かった自由党に手を焼いた当時の神奈川県知事・内海忠勝が、彼らの影響力を削ごうと南多摩を切り離さぬよう主張したのだ。

東京府への移管当時は、甲武鉄道(現JR中央線)の開通で東京への親近感が強まっていた北多摩の住民には移管賛成が多かったものの、西多摩と南多摩では激しい反対運動が起こった。しかし、後に三多摩だけでなく現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を一つの県とする「武蔵県」構想や三多摩を神奈川県に戻す案、「多摩県」として独立する計画が持ち上がると、東京の経済発展の恩恵を受けていた多摩の住民は、一転して東京からの離脱に反対した。

町田市が市制を施行したのは1958年。以降これまで、河川改修などに合わせて、隣接する神奈川県相模原市や大和市と、何度も境界変更を行っている。相模原市との境界変更は、主に飛び地を解消して生活や土地利用上の不便をなくすためのもので、今後も段階的な実施を予定している。

[67] 都バス一日乗車券で東京23区すべてまわれるか? - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160816197195_1.htm

東京都交通局の運行する都営バスにひたすら乗りつづけ、一日で東京23区全てをまわることができるだろうか?

むりやり都営バス乗り継ぎの旅をやってみた。

※この記事は とくべつ企画「むりやり○○」 のうちの1本です。ライターがいろいろなことにむりやり挑戦します。

[68] 「出身はどこ?」「岐阜」「岐阜ってどこ?北海道?」(馬鹿にされてる…)→実は高学歴トークだったのかもしれない - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/1036963

学生時代の飲み会、出身は何処?という話になったので岐阜と答えたら高学歴女子に 「岐阜ってどこ?北海道?」 と笑いながら返されたので、あぁ馬鹿にされたなぁと当時は思っていたのだけど、 最近北海道には岐阜という地名があると知って、実はあの返しは高学歴トークだったのではないかと疑い始めてる。 pic.twitter.com/rXi0Uv0bRr

[69] ちょっと不気味な路地裏をすり抜ける - 路地ウラ観光案内, , http://rojiurawatch.hatenablog.com/entry/2016/11/20/214051

超路地裏を通って、向こうの通りに抜けてみました。

たったそれだけ、なのにドキドキ。

高円寺の住宅地にポカンと空いた空間。

広くて人の気配の無い場所、そのすぐ横にこれから通る細い道があります。

こんな感じ。とても細い。

遊歩道によく見られる「止まれアニマル」がありました。

ワニのイラストと消えかかった「とまれ」の文字。

ここを通るのは、勇気がいります。「すすめ」って書いて欲しい(笑)

向こうから誰か来てもすれ違えない(笑)

誰も来ないことを祈りましょう。

上を見上げるとそこには廃墟が。

蔦が建物を覆い、もじゃもじゃ状態。

自然へと還っていくようです。

急に不安にかられて足早に進もうとすると、

既に向こうの道路が見えています。なんとゴールは目の前でした(笑)

とはいえ、廃墟の真横でゴミやトタンが捨ててあると

突然何かが出てくるのでは?と、色々想像してしまいます。

ちょっと急いで突破しようと思います。

***

と言うことで、無事に超路地裏を通り抜けました。

木漏れ日のキレイな秋の空気、平和でおだやかな住宅地、ホッとする風景♪♪

通ってきたばかりの細い道は、何とも言えず薄気味悪く、ディズニーアニメで言うところの、魔女のいる場所のような雰囲気。

このギャップはすごいですね。

先ほど廃墟だのもじゃもじゃだの言っていた建物も、細部を見ると

実は昭和中期のモ ダン なデザインが施されていてとってもフォトジェニック*

ドキドキしつつも可愛い昭和の建物を見ることができました。

秋、夕方、誰もいない家、ノスタルジー、不安からの平和。

来年も小さな発見でドキドキしたい。

[70] 30年以上前のガイドブックで洋食屋を巡る - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/161128198166_2.htm

昭和48年のガイドブックに載っていた「ファンタジー」と「アンガス」は残念ながら今はなかった。次はガイドブックを昭和60年の「東京の味どころ2」に変えて、練馬にあるスパゲティ専門店「まほうつかいのでし」に行こうと思う。

[71] 【首都圏最後のフロンティア】「八潮市」がNIMBYでヤクザな街からニュータウンへ脱皮する時 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio-newtown/

【首都圏最後のフロンティア】「八潮市」がNIMBYでヤクザな街からニュータウンへ脱皮する時

2017/4/6

2017/4/6

八潮市

東京都心からたったの15キロ、足立区に隣接し、2005年に開通したつくばエクスプレス線で秋葉原から最短17分で来ることができる「埼玉県八潮市」…21世紀に入り初めて鉄道が開通したこの街は、これまで工場や産業廃棄物処理業者が乱立する工業地帯として発展してきた反面、住宅地として発展することもなく、足立区に隣接するお土地柄だけあって暴力団構成員やDQNなどガラの悪い人種が大量に流入し、治安の悪さでも頭角を現していた街でもあった。

前回この街を訪れた のは2010年、それから6年以上が経過して少しは駅前の風景も変わったのだろうかと気になって再度八潮の地に降り立ったんですが、以前より心なしか駅の利用者も増えた気がする。

つくばエクスプレス線開業直後の2005年には約7万5千人だった八潮市の人口も今では約8万7千人(2017年4月時点)に増えている。駅前ロータリーから見える周囲の街並みもマンションや商業施設が以前よりも明らかに多くなっている。まあ当然っちゃ当然なんですが、やはり沿線住民の人気は千葉県内に集まり、快速が通過する埼玉県区間は超絶不人気なのだ。

八潮駅開業の翌年2006年にオープンした駅前商業施設「フレスポ八潮」も健在である。これまで工場地帯と農村しか無かった八潮に初めて誕生した大型商業施設であり、近隣から車でやってくる現地民と、これまで他の街でたまるしかなかった中高生や不良DQNの姿で活気に満ちている。

ここの駐輪場で2010年11月に近くの オウム真理教(現・アレフ)八潮大瀬施設 に暮らす出家信者だった元妻を刺殺した男が逮捕された事件があったことはよく覚えていますよ、ええ。

八潮駅南口には何も無かったが今では商業施設が次々と誕生している

以前は原っぱしか無かったはずの駅南口ロータリー付近も続々と商業施設が出来ている。駅を出た真正面にある「BiVi八潮」は2013年11月オープン。まだ真新しい印象を受ける。郵便局やサイゼリヤやら学習塾、クリニックなどがちょこちょこ入居しているこじんまりしたモールである。出来て間もないせいか空きテナント多めですね。

そんなモールよりも圧倒的に大規模なのがパチンコ・パチスロ総台数1000台と大型立体駐

[72] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

東京23区最強のDQNスラム地帯とかねてから評判の高い「足立区」に隣接する埼玉県八潮市は、近年つくばエクスプレスの開業でベッドタウンとしての開発がいよいよ始まろうとしている東京近郊最後のフロンティア。

つくばエクスプレスの区間快速で秋葉原からわずか17分、さらに首都高三郷線が通じている為にクルマでも電車でも交通の便が良くなった。当取材班は、この一見何にもなさそうな東埼玉の辺境地帯である八潮の街を訪れた。駅だけはやたら立派であるが周囲は殆ど宅地化されておらず、だだっ広い印象を受ける。

八潮駅を出ると、駅の南側にはひたすら原っぱが広がっている。これからマンションが続々建設されて、さぞかし近代的な街が生まれるに違いない。つくばエクスプレス沿線の駅前はどこもこんな感じでフロンティア感が凄まじい。

八潮駅南口ロータリー。実はここから亀有行きのバスが出ていたりする。北関東の田舎にでも来たかのような印象を受ける駅前のスカスカっぷりにあんぐりしてしまうが、車があると足立区や葛飾区は目と鼻の先。首都圏ってまだまだ土地が余ってるんですね。

足立区に接する八潮は、膨張する首都東京から溢れ出た「人」ではなく「工場」を受け入れて成長してきた街である。人口8万2千人という街の規模に対して工場数はさいたま市・川口市に次ぐ県内第三位。八潮にある工場の多くが狭い都心を離れて広い土地を求めて移転してきた。

23区に隣接しているとは思えない広大な田園地帯に、都心から移転、または退けられた工場や建設資材・残土置き場、産廃業者、葬儀式場、ラブホテルなどが点在する特異な風景が見られる場所、それが八潮だ。

この土地には不動産用語的に言う所の「嫌悪施設」が寄せ集められている。江戸時代の浅草・南千住小塚原よろしく東京の鬼門とされる右上部分にそうした施設が集まってしまうという土地の因縁は平成の世となった今でも受け継がれているようである。

中小企業の工場や事務所と思しき建物を見ても、殆どが工事関係の業者や塗装業といったガテン系職種のものであることが分かる。周りに何もないので余計に目立って見える。

ちなみに東京各所にいる塗装や土木など色んな現場作業の車両を見てみると

[73] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - Page 2 of 3 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/2/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

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すっかりニュータウン臭くオシャレに変貌したつくばエクスプレス八潮駅前の風景を抜けると、その先には田園地帯に建設資材置き場が散在する、どこか殺伐とした独特の街並みが広がっている。現場作業のトラックや工事車両などはこの場所から東京都心に出て仕事をしているのだろうか、巨大なユンボのアームがいくつも錆びた鉄のフェンスから頭を覗かせている。土建屋と工場だらけの街、それが八潮である。

八潮駅から少し離れた首都高三郷線沿いに建つ、何の変哲もない3階建ての貸し倉庫。

ここがどうやらオウム施設として使われているらしい。

首都高の高架に沿って走る下道も大型車が引っ切り無しに通り抜けるような場所で排ガスだらけ、周りは工場地帯、住む環境としてはよろしいはずもないのだが、こんな場所をわざわざ選ばなければならない程、彼らは生活の場に不自由している訳だ。

見れば分かるが、ここは本来は工場関係の貸し倉庫として使われる為に建てられたはずのもの。そこにわざわざ生活の場を作り上げているのである。殆ど窓もなく、辛うじて見える窓はことごとく目張りがされていて中の様子を伺う事が出来ない。凄まじい住環境だ。

だがそこに人が暮らしている形跡は確かにある。住人の自転車置き場が建物横にあるのだ。元夫に刺されて亡くなった被害者女性もこの場所で生活していたことであろう。

一体この建物の中でどれだけの人間がどんな日常が繰り広げられているのか。迫害されながらもオウムの残党として暮らす方がマシだという日常は我々平凡な人間には理解出来る世界ではない。

そして当然のごとく貸し倉庫の周囲には地域住民による抗議の立て看板がずらりと並んでいて一目に見て異様さが伝わる。

「ここにオウムの巣があります」 だなんて書かれているので事情を知らないよそ者でも一発で事態が分かってしまう訳だ。 「出て行け出て行け出て行け」 と三連呼されたりして凄まじい嫌われっぷりだ。それでも信者達は「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」とこの場所に居座り続けているようだ。

オウムの教団施設はここ八潮市大瀬の貸し倉庫の他、足立区辺縁部の環境の劣悪な工業地帯に何箇所か点在していて、今も活動を続けて

[75] 千駄ヶ谷トンネル (渋谷区) by ねむ エンターテイメント/動画 - ニコニコ動画, , http://www.nicovideo.jp/watch/sm31301393

動画の説明文:

千駄ヶ谷トンネルを撮ってきました。真っ昼間なのでそんなに怖くありません。2017年5月撮影ニコニコ動画マイリストhttp://www.nicovideo.jp/mylist/56313017OPとEDのサウンドは下記より『畏怖』を拝借しています。音楽素材提供:Music-Note.jpURL:http://www.music-note.jp/

履歴

[76] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567316978544

メモ