[196] 読みは、 「えいき」 >>749, >>195, >>98, >>679, >>101, >>756 とされます。
[680] 永亀は、 日本の中世私年号の1つです。 永喜の異表記とするのが通説となっています。
[197] 永善と読む説ある金石文があります (>>190)。
[1401] 付Webページで、 私年号の代表例に永嘉を挙げるものがあります。 文脈および比定年から、永喜の誤りの可能性が高そうです。 >>1400
さて戦国時代の私年号の具体例としては、1491年頃の福徳・1507年の弥勒・1527年の永嘉・1542年の命禄、といったものが挙げられる。
[913] 永喜元年は、 です。 2年は、 です。
[914] 永亀元年は、 です。
[915] 過去に提案され現在では否定されたまたは実用例と一致しない諸説 :
[227]
写真によると膝裏銘は比較的字画のはっきりした字形で、
十二支は亥の異体字です。 >>205
[228]
写真によると右腰裏銘は字形がやや不明瞭で、
あるいは実物や高精細な写真ならもう少しわかりやすいのかもしれませんが、
昭和の書籍の白黒写真だと正確な字形はわかりません。
第2字は、膝裏銘と見比べても亀よりは喜と思われます。
年の字は年に近いのか季に近いのか断定できません。
輪郭が年よりは季寄りには思われます。
日の字はなさそうで、2字ごとに改行されているので字数からも不存在といえます。
>>205
[229] の地域史は、 >>132 を紹介し、次のように述べています。 >>85
[200] (再刊: ) の史料集は、 >>132 を紹介し、
[192] の司東真雄の書籍は、 金石文の異年号として、 私年号の >>134 を、 >>190 を、 >>193 より大永6年が永喜元年、 千葉・茨城・栃木・福島・滋賀・宮城でとしています。 >>42 のほぼ同内容の記事では、 >>190 が大永7年に統一されています (銘文は変更無し)。 >>99
[198] の書籍の私年号の表は、 >>42 からの孫引きでから継続年数不明の永喜に >>134、 から2年継続の永喜に >>190, >>193 があるとしています。 >>46
[211] の報告書は、 >>132 について次のように書いています。 >>73
[236] の地域史, の書籍は、 >>132 について、 と元喜2年?の私年号があり、 元喜2年は元亀2年にあたり開基年とも合う、と説明しています。 >>89, >>87
[605]
の史料集は、
>>190
を紹介し、
は喜か、とし、
永喜は私年號としています。
>>20
[898]
永喜の直前の「
[899] 大永5年は本来で、 丙戌はです。1年ずれています。
[251] 昭和47年8月、 偶然 >>249 が發見されました。 >>54 (司東真雄)
[252] 昭和47年9月頃の司東真雄は、 >>249 より永喜元年丁亥となり、永喜2年丁亥とは1年ずれがある、 と指摘しています。 >>54
[801] の地域史は、 >>249 を紹介し、 永喜(元年-3年)は私年号で、元年は大永7年、 としています。 >>798
[818] >>798 は永喜2年の次が省略されていて、その後どうなっているのか不明ですが、 他のどの引用も2年までで3年の存在は示していません。なぜ >>801 が3年までとするのか不明です。
[253] の地域史は、 >>222 を紹介し、次のように述べています。 >>54
[238] の地域史は、 次のように述べています。
[519] 新編会津風土記は、 >>116 を紹介して、 永承2年丁亥の誤りか、 としています。 >>810, >>516
[224] の司東真雄の書籍は、 >>116 を紹介し、 私年号の永喜は >>221, >>222, >>193, >>134 にもあってみな丁亥で、 >>193 よりと見るべき、 としています。 >>74
大国印刻板 1枚
板後に『奥州會津磐梯山慧日寺求聖正座主玄朝永喜貳年丁亥卯月八日□□聖昌珎』と彫付けあり。
(案ずるに永喜の年号なり。永承2年丁亥(1047年)の誤にや。聖昌の上2字弁じ難し)
[351]
第2字は崩れた字形ですが、明らかに喜ではなく亀です。
>>350
[347]
の書籍は、
>>142 について、
「
[508] 蓬莱鏡は、令和時代現在も須賀神社に所蔵されていますが、非公開です。 国指定重要美術品となっています。 >>8
[510] 昭和24年5月26日文化財指定。 >>509, >>727, >>740, >>742
[115] 図柄様式は室町時代初期以降。康安以後。 >>104
[732] 大正12年11月の丸山瓦全の下野国遺跡・遺物の一覧表に >>112 が掲載されています。 >>731 後年の版にも掲載されています。 >>733
[355] の史料集は、 >>112 を紹介して、私年號で大永7年であり、 下野で私年號の初発見としています。 >>58
[730]
大正14(1925)年10月11日夜、
足利考古會第23回例会が市役所で開催されましたが、
丸山瓦全による
[607] の報告書は、 >>112 を紹介して、私年號で大永7年で、 栃木県で私年號の初発見としています。 >>21
[357] の記事によると、 足利の丸山瓦全は、 年始の挨拶状として蓬莱鏡の複製印刷を送付し、その説明書きに、 下野国唯一の私年號であり、 大永7年に當たると述べました。 >>60
[745] の書籍は、 >>112 を紹介して、 永喜2年は大永7年としています。 >>743
[737] 、 下野式内社巡拝団が諸社を訪問しました。 丸山瓦全らも参加しました。 行程中、 「珍らしい私年號」の >>112 も拝観しました。 >>736
[354] の史料集は、 >>112 を紹介し、 私年號で大永7年としています。 また、おそらく鎌倉時代末から吉野朝時代あたりの鋳造で、 後に銘文を刻して奉納したのだろうとしています。 >>53
[358] の書籍は、 >>112 を紹介し、 大永7(皇紀2187)年としています。 正中2年を初見とする様式で古式を襲用したものであろう、 鋳造は同年か1,2年前と信じる、とされています。 >>72
[726] の書籍は、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>725
[769] の書籍は、 >>112 を紹介し、 私年号刻入で有名で大永7年としています。 >>768
[782] の書籍は、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>781
[748] の書籍は、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>747
[578] の史料集は、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>576
[735] の書籍は、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>734
[677] の書籍は、 >>112 を紹介し、 公的には存在しない年号、私年号であり、 地方の寺社への奉納物や板碑などに多く見られ、 公年号の一部を変えてつくられているのであって、 より良い意味の年号を用いて世の中の不安を取り除こうとした人々の願いが込められている、 としています。 >>676
[582] の地域史は、 次のように述べています。 >>580
[777] の書籍は、 >>112 を紹介し、 永喜2年は大永7年としています。 >>776
[373] の書籍は、 >>112 を紹介し、 永喜2年は大永7年としています。 >>88
[708] の書籍は、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>706
[675] 付 Webサイトは、 >>112 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>674 (参考文献: 『かがみよ鏡―銅鏡の歴史と美―』展図録(小山市立博物館、一九九五年))
[774] の地域史は、 >>221 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>773
[807] の書籍は、 >>221 に言及して私年号でとしています。 当銘文に見える人物が銘文にみえる日光市温泉神社の銅祠を解説しています。 >>806
[93] の書籍は、 >>221 を紹介し、 私年号で大永7年にあたり、 関東から東北にかけて分布、近江に1例、 >>112 もある、としています。 >>92
[366] 昭和50年代の粟野町史編さん史料調査で >>360 >>364 が始めて報告されました。 >>364 は昭和54年12月7日に中島正らが調査しました。 >>76
[367] の地域史は、 次のように述べています。 >>76
[12] >>671、 >>360 は粟野町指定文化財となりました。 >>9 現在は鹿沼市指定有形文化財 (歴史資料) です。 >>681
[505] 、 >>22 が出現し、 八木林治が確認しました。 >>9
[673] 平成22年の地元 Webサイトは、 >>360 を紹介し、 私年号で天災など悲惨な農村状況を背景に生まれたのだろうといわれているとし、 大永7年に当たるとしています。 >>671
[515] 令和時代の Webサイト (初出不明) は、 >>364 (と >>360) を紹介し、 の私年号としています。 >>511
栃木県粟野町にある「上永野今宮大明神」の社(やしろ)の板壁が破られ、中から約四百七十年前のものとみられる祭り用の餅板(もちいた)二枚が見つかった。壁にはクマのツメ跡が残されており、ハチの巣を探しにきたクマが板壁を壊したらしい。
餅板は二十五センチ四方のスギの木で、高さ約三センチの足が付いている。一方の板には「永野今宮大明神餅板 □□□□□□八月吉日」との朱書きの文字が読み取れた。
同社には、「永喜二年丁亥八月吉日」と朱書きされた餅板一枚が従来もあり、九一年五月に町文化財に指定。「永喜」は一部限られた地域でだけ使われた私年号。永喜二年は大永七年(一五二七年)にあたり、約四百七十年前のものとされる。
同社の社は一五〇〇年以前に建立されたと伝えられ、現場で板を確かめた町文化財審議委員の八木林治さん(73)は「同じ朱塗りで、字も同じようだ。文化財に指定されている餅板と同じ年代のものとみて間違いない」と指摘。
[387] 大正12年春、 猪熊信男が >>126 写本を入手しました。 >>86
[388] 大正12年秋、 猪熊信男は岩橋小弥太に >>126 を見せました。 猪熊信男は奥書に永喜2年の私年號があることに特に注意しました。 岩橋小弥太はすぐに久能寺縁起の記事を想起しました。 の岩橋小弥太の書籍はそのことを記述していますが、 永喜2年は大永7年であるとしています。 >>389, >>86
[750] 大正13年の書籍に >>126 への言及があります。 >>749
[739] , , , の書籍は、 >>126 に言及して、永喜2年は大永7年としています。 >>738, >>751, >>778, >>746
[372]
の書籍は、
>>126
を紹介し、
私年号でであり、
この時期に至っても吉野朝方が称した年号であり、
常陸枕石寺住の順西がなぜ南朝方の私年号を「
[617] の論文は、 >>126 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>616
[771] の書籍は、 >>126 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>770
[393] の史料集は、 >>126 を紹介しています。 横山重の写本、 大正15年・昭和47年・昭和51年復刻等の書き下し文翻刻本、 京都大学図書館所蔵影写本から校訂したものとされています。 永喜2年は私年号で大永7年とされています。 >>55 の別巻にもこれの予告があります。 >>766
[780] の書籍は、 >>126 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>779
[380] の書籍は、 >>126 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>97
[809] の Webページは、 >>126 を紹介し、 私年号で大永7年としています。 >>808
[385] の書籍によると、 >>382 は昭和20年代頃に盗難に遭い、 銘文の部分を含む一部のみが残存しているそうです。 本書は永喜の年号は見当たらないとしています。 公年号にないという意味でしょう。 >>80
[764] の史料集は、 >>624 を紹介して、 大永6年としています。 >>762
[717]
像の伝来と寺の創建について、光福寺所蔵光福寺縁起に、
大同3年云々とあります。 >>715
[719] の史料集は、 >>710 を紹介し、 日本私年号の研究を引いて私年号で大永7年と説明しています。 >>715
[713] の史料集は、 >>710 を紹介して銘文について、 年号と共に像との関連は詳らかではない、 としています。 >>709
[845] 「丙戌」 が少しおかしな場所にかかれていますが、
... であり、これは日干支ではなく年干支とみて良いでしょう (文書でこのように日干支を書くことはほぼないといってよいはずです)。
[602]
>>599 は草書であり字画は崩れています。 >>601
なるほど亀の元号名が出現するのはむべなるかなと思わせられます。
[603] の地域史は、 >>599 を紹介し、 私年号で大永6年と説明しています。 >>19
[615] の地域史は、 >>599, >>612 を紹介し、 関東・東北で使用された私年号で永喜元年は大永6年、 永喜2年は大永7年としています。 >>25
[797] の地域史は、 >>599 を紹介し、 大永6年としています。 >>796
[795] の史料集は、 >>599 を紹介し、 大永6年としています。 >>793
[723] 近世末期編纂、明治時代刊行の 香取文書纂 は、 >>106 を紹介し、 異年號 >>724, 私年號で大永7年としています。 >>721
[398] の史料集は、 >>106 を紹介し、 大永7年と注釈しています。 >>395
[404] の報告書は、 >>106 を紹介し、 私年号で干支年からとしています。 また、次のように述べています。 >>403
[645] 史料編纂所データベース (初出不明) は、 >>106 を紹介し、私年号で大永7年と説明しています。 >>45 (戦国遺文房総編)
【管理番号】 XA000000430002
【和暦年月日】 (大永7年)3月(15270030550)
【文書名】 小林胤治年貢免除状
【詳細内容】 ○永喜二年は私年号で、大永七年にあたる。
[69] 唐突に永喜の解説が出てきます。原資料に何か記述があったのでしょうか。
[911] これだけでは永喜元年の用例があったのか、2年以降の用例があったのか決定できません。
[426] の報告書は、 >>419 を紹介し、次のように述べています。 >>61
[425] の地域史は、 >>419 を紹介し、 私年号で大永6年であり、 北関東から東奥羽一帯に使用例があるとしています。 >>18
[422] の地域史は、 >>419 を紹介し、 私年号で大永6年であるとしています。 日光山(二荒山)周辺地域の使用例が知られており、 長宗の人物像を明らかにしなければ確言できないが、 泉南値域あるいは根来寺と東国との何らかの交流を暗示する、 と解説しています。 >>65
[436] の論文は、 >>419 を紹介し、 大永6年の私年号としています。 >>64 (根来寺と和泉国―天正十三年の紀泉戦争前後, 三浦圭一, 根来寺に関する総合研究, 昭和58年, p.26)
[449] 明治時代の 石見国名跡考附録 に、 大永3年や天文年間の経筒があることが書かれています。 >>30
[450] の 島根県史 は、 当時伝わっていた経筒8口の銘文を掲載し、 伝説によれば数十個あったがいつしか散乱したという、 と書いています。 >>90, >>30 うち1個は永喜 (>>49) ですが、 特に注釈などはありません。 >>90
[451] 、 鉄塔および経筒8口は島根県指定有形文化財となりました。 >>30
[452] 、 鉄塔の内部調査が行われ、多数の経筒が発見されました。 大田市教育委員会と研究者らによってにかけて調査が行われました。 >>30
[453] 発見者によると経筒は雑然と投げ込まれていました。 経筒の大部分は破損変形しており、ある時期に一括して納められた可能性があります。 >>30
[495] 鉄塔が六角堂内に移されたのは安政3年と考えられ、それ以前は風雨に晒されていたのではないかと推測されます >>30
[454] 調査報告によると、既知8口を含めて168口があります。 >>30
[35] 大永7年の15個のうち、4個が永喜2年です。永喜元年はありません。
[37] >>38 のように元号がないものもあり、大永8年と推定されています。 >>30
[474] このような表記は異例で、考えさせられます。
[482] >>47 は大永7年。これは年号上部欠損とされています。 >>30
[478] >>48 のように元号があるものもちゃんとあります。
[39] 大永7年で月がわかるものは年の前半に集中しています。
[36] 国は日本全国に散らばっています。 全国からの来訪者がこの地で書いて納めたものでしょうか。
[496] 経筒銘文は陰刻らしいので、ここで書いたというよりは発注時に決めたものでしょう。 どのタイミングでどこで誰が銘文を決めたのかは要検討。
[492] の報告書は、 経筒168口 + 納札7枚 = 175点の銘文等を掲載しています。>>30
[493] 永喜は私年号とし、大永6年に永喜1、大永7年に永喜2と併記しています。 大永6年は計8点、大永7年は計15点、 は計4点となっています。 >>30
[494] また、経筒はA類からE類の5種に分類可能で、 D類が最も普遍的であること以外に形式と年代や地域の特性は認められないとし、 むしろ廻国聖や寄進者の注文で経筒を製作する工人が各地に存在したことが考えられ、 製作技術も各地に共通したものがあったのだろう、 としています。 >>30
[610] の史料集は、 >>284 を紹介し、 私年號で永喜2年は大永6年としています。 >>284
[401] の地域史は、 >>284 を紹介して永喜2年はとしています。 同書中で >>286 を紹介して永喜5年は私年号で大永7年としています。 >>78
[400] の報告書は、 >>284 を紹介して私年号で大永6年としています。 >>77
[819] ほとんどは明朝体または Unicode で永喜と表記されますが、 実物の写真ではいろいろな字形が見られます。 個別に検討を要するものの、 多くは異体字、書き癖、類型異字の誤記と考えられます。 不明瞭なものもあります。
喜󠄄`
のような字形で、
喜と翻刻されています。喜と読まれています。㐂と翻刻されています。
草書またはその系統の異体字で記載されていると思われます。善 (永善)
や艹 喜 と翻刻されています。
喜の異体字の不明瞭な字形と推測されます。十 苦 のような字形で、
喜と翻刻されています。喜の異体字と思われます。喜と紛らわしい嘉の誤記と思われます。
現在知られる限りでは平成時代初見の孤例です。亀に近い字形で、
亀 (永亀) や龜 (永龜)
と翻刻されています。
亀のつもりで書いたのか喜のつもりがあったのか、検討を要します。
どちらも「き」と読んで同音です。[826] これら以外も実物の写真が見られれば、現在の喜の通用字体と異なる字形が確認できる可能性が大いにあります。
[827] 元号名以外の喜の用例を確認する必要はあるものの、
(亀や嘉は別として)
喜の字形の揺れとしてあり得る範囲内でのいろいろな表現と思われます。
その字形の選択に特段の意志は感じられません。
[912] 用例の月日や所在の地域、利用者の属性や媒体の種別などで、 字形の選択に特段の傾向は認められません。
[828] 永亀には若干の問題があるものの、 干支年などの状況からこれらは同じ元号として同定してよいと思われます。
[829] 永亀については、 >>148 が永喜と音通として同定し、 >>557 が永喜からの訛転の2次的なものと主張していますが、 いずれもそれだけであり、 これまでほとんど検討されてきていません。
[830] 地理的、時間的な位置からみて、 >>348 の永亀が永喜と同義であることは確実と思われます。 永亀が孤立例であるのに対し永喜は多数かつ広域的に分布するので、 永喜が原形の可能性は極めて高いと考えられます。
[831] だとすると、変形してごく一部の地域で永亀が使われた可能性と、 たまたま偶発的に >>348 でだけ変化した可能性があります。 現状では材料が少なく、結論を出すのは困難です。
[850] 永亀は干支にも問題があり、それと関わっている可能性もあります。
[832]
>>135 のように他の元号名にも喜と亀が通用した事例が存在し、
当時の文字認識を考える上で参考になりそうです。
[833] 永喜の時期については、 近世末期から現代に至るまで、ほとんどが
... とする解釈で一致しています。
... から断定可能であり、ほとんどの用例もこれに矛盾しません。
[853] 年代記は前年丙戌の公年号も1年ずれています。 何年か後からまとめて書いたのか、ずれたままの前年から気づかず続けたのか、 編集上の誤りであって同時代的に使われたわけではないとも考えられます。 近隣の金石用例は2年丁亥です。
[854]
長帳は、
1月と10月の日付があり、
1月にすべて書かれたわけではなさそうです。
しかしその性格上あまり遅れての成立とも考えにくいです。
元号名も亀であり、
この地域では元号年が1年ずれて使われた可能性は否定できません。
[856] ただ、同じ会津地域の >>116 は永喜2年丁亥で、 長帳とは違います。
[847] 現在知られる用例は、これら2例を除き、干支年付きのものは元年丙戌と2年丁亥で一致しています。 したがって、干支年なしのものも、 一応これと等しいと推定するのが妥当と考えられます。 全用例の時系列的分布から見るとそれで問題はなさそうに見えます。
[848] 5年とされるものが1例ありますが (>>286)、2年丁亥 (>>284) が何らかの理由で誤って伝わった幽霊用例と考えられます。
[849] 3年に言及する文献が1例ありますが (>>801)、根拠が不明です。仮に当該史料 (>>249) に由来するとしても、 それは年代記であり、同時代的に実用されたかどうかは断定できません。現段階では、 3年の確実な用例は知られていません。
[843] >>116 には、 とする説がありました (>>519)。 私年号の永喜が認識されていない時代だったため、 文字のおよその一致に頼ったのでしょう。 他の用例の時代感に合わず、 これ1例だけ別時代とするべき理由もありません。
[844] >>142 には、永亀元年をと解釈する説がありました (>>347)。 私年号の永喜が認識されていなかったため、 文字のおよその一致に頼ったのでしょう。 資料の構成上、 文亀説が妥当とは現在では考えられていません。
[855] 元年のものは、
... が知られており、早期には紀伊半島西部で使用され、 年末には関東東部で使用されたことがわかります。
[860] 2年2月から5月には、常陸, 下総, 下野, 宮城県, 福島県に用例が見られ、 3月が全期間を通して最多です。関東から東北の太平洋側を中心に使用されたことがわかります。 飛び地的に近江にも2年4月が存在します。
[861] ほぼ同時の出現であり、地理的変遷は見えてきませんが、 強いて言えば件数が最多で元年12月から2年5月までの用例が存在する常陸が中心的に見えます。 ただ、史料の残存環境が良かったための偏りとも考えられます。
[862] 少し間が空いて、8月に下野、9月に石見、11月に陸奥の用例があります。 6月、7月に用例がないのは偶然未報告であるに過ぎないとも考えられますし、 下野以外は地理的に離れており、一旦終息して再使用された可能性も否定できません。
[863] 3月の牧の巣, 11月の陸奥諸用例, 記載時期不明の年代記はいずれも北上川流域で、 下総から水路による北上説があります (>>326)。
[864] 会津の長帳の永亀2年丁亥は、書かれたのが10月以後だとすると、 後半ブロックになります。
[873] 日光やその周辺に用例が見られますが、日光山の公式の記録のほとんどは公年号とされます。 いくつかの永喜用例は、外部からの伝播による偶発的使用 (>>28)、 小山地方はその日光山からの伝播による使用ではないか (>>594) とする説があります。
[874] 香取文書に2年丁亥3月の用例があります (>>106) が、 同一著者で12月に公年号の用例があります (>>412)。 この間に公年号に復帰したことがわかります。
[865] 石見は全国各地から納められたものですが、銘文の地名は安房, 常陸, 丹波, 大隅と、 関東東部以外に遠隔の地も含まれます。このうち丹波には2年丁亥9月とありますが、 他は月不明です。丁亥年は15個あり、そのうち4個が永喜2年、残りが大永7年ですが、 大永7年で月が明記されたものは2月、3月、8月と前半に集中しています (>>39)。 永喜は年の後半に使われたと推測したくなります。
[866] ただし、それらの銘文が石見で決められたものか、各地で作ったものが持ち込まれたのかが問題となります (>>36)。 製作者が全国各地にいたとの推測があります (>>494) が、永喜の用例の分布と伝播と共に考えてみなければなりません。
[867] とはいえ、丁亥年9月頃に石見に永喜用例が存在していた可能性は高いといえます。
[908] 公年号との併記や同じ人の完全に同時期の使い分けの事例は確認されていません。
[909] 公年号との時間的使い分け (ある時期には公年号を使わず永喜だけを使う) が示唆される事例は >>907 >>865 >>874 があります。
[868] 用例のみられる媒体は、仏像, 寺社奉納品, 寺社什器, 板碑, 経筒, 年代記, 写本奥書, 文書など多岐にわたります。
[869] 寺社関係のものが多いですが、そうでない文書もあります。 寺社関係でも、必ずしも宗教的性格の強い媒体に限られません。
[870] 中世東国私年号は板碑のイメージがありますが、武蔵国の板碑文化圏に用例がほぼ皆無の永喜は、 板碑用例がわずかです。そのために、他の私年号と違って野外で衆目に晒されるものは多くありません (>>323)。
[871] 利用者層は、 僧侶 (学問僧, 巡礼者含む), 神官, 在地領主, 荘官, 氏子など様々です。宗派や政治勢力にも統一性はありません。
[872] 用例が多い常陸国に関しては、 佐竹氏に支えられた常州太田の学問文化圏とのつながりが指摘されています (>>379)。 局所的にはそれが影響を与えている可能性はありますが、 全国的な現象の全体をこれだけで説明するのは無理です。
[875]
僧侶創作説は、
私年号全般によく支持されているものですが
[876] 北関東発生説は、 北関東で発生し、各地に伝播したとするものです (>>164)。 しかし、現在では北関東に先立つ用例が紀伊半島で確認されているのであり、 この説では説明が困難です。
[877] 日光山私年号説は、 日光山が足利成氏との関係の中で私年号を意識的に利用しており、 永喜も日光山だけで使用された日光山の私年号と考えるものです。 >>426 はそのように理解していると読めます。 ところがその出典とされる >>207 はそうは主張していません。 >>207 によると日光山の近辺で用例があるものの、日光山自体の公式記録にはなく、 日光山周辺地域の中では孤立例だとしています。より広く関東や東北を見れば他にも用例はありますが、 >>207 は日光が論題なので、それには触れていません。足利成氏の関係を >>207 が指摘するのも、延徳だけで永喜には関係しません。 当説は誤解に基づく幽霊学説といえます。
[878] 香取神宮発生説は、 永喜は信仰に直接関係する用例で使用されるのであり、 作成者は私年号の知識を持っているとして、 私年号用例が他にも豊富な香取神宮で発生したと考えます。 しかし発生の原因は不明としています。 (>>559) しかし、現在では香取神宮に先立つ用例が紀伊半島で確認されているのであり、 この説では説明が困難です。
[879]
地域年号説は、
比較的狭い地域にみられる永喜はその地域の暦作成主体の有力社寺が制定した、
と主張しました。
[880]
後南朝の元号説は、
後南朝が制定した元号と考えるものです。しかしその根拠は示されず、
当然そうであるかのように語られています (>>372)。
私年号をむやみに後南朝と結び付ける風潮に由来するのではないかと思われます。
[881]
足利義晴制定説は、
永喜や他の私年号を室町幕府の制定とするものです。しかしその根拠は示されていません
(>>785)。
[895]
元年の早期用例が和泉国や紀伊国に見られ、発生地はその近辺、
場合によっては畿内とも考えられます。
後南朝説や足利将軍説は根拠も何もない俗説ですが、あながち無視できるものでもないかもしれません。
京都で「王」が死去して改元されたとの噂が甲斐で記録されている事例はあり
[882] 佐竹氏接近反映説は、 当時の常陸国の政治・軍事的勢力分布が永喜の用例に反映されていると主張するものです (>>639)。佐竹氏が制定・使用者であるとまでは主張されていませんが、 勢力圏と私年号の使用に相関があるとの考えと読み取れます。 局所的なそうした関係性は一概に否定されるものではありません (むしろ十分あり得ることです) が、 私年号の用例の存在だけでそれを断じるのは無理があります。 例えば同時期の勢力圏外で公年号が使われない、など傍証を集めていく作業が必要です。
[883] 海夫伝播説は、 香取大神宮支配下の海夫が香取から北上川方面へと伝播させたとするものです。 両地の用例の存在と文化的な強いつながりの背景が根拠となっています (>>243)。 状況的には蓋然性が高いと考えられますが、確定させる物証は欠きます。
[884] 順礼伝播説は、 関東から陸中へ巡礼者が伝播させたとするものです (>>166)。 用例の分布と巡礼路の関係や、他の私年号での事例を根拠としています。 ただ、その関係性はこじつけに近く、 主要な寺社や交通路に沿った用例の分布である、と説明する方がより妥当に思われます。 また、北上川沿いの用例が提唱当時より多く報告されている現在となっては、 水路伝播説の方がより魅力的に感じられます。 なお、当説の元来の想定ではないものの、近江国や石見国の飛び地的な用例は、 遠方へ移動する修行僧が関与した可能性が検討されるべきでしょう。
[885] 伝播の主体と媒体については、 紀伊半島, 東国, 陸奥, 近江, 石見と遠く離れた地域に所在する用例の関係を説明する必要があります。 このうち東国と陸奥については議論がなされているものの、 他はほとんど手つかずです。
[886] 和泉国の用例 (>>419) について、日光山の私年号を知っていたのだから、 日光山や関東とのつながりがあった可能性がある、と指摘されています (>>435)。 しかし和泉では元年、日光では2年が使われているので、順序は逆と考えるのが自然です。
[887]
私年号秘密説は、
私年号が秘密裏に使われたとする説で、多くの私年号で主張されることがありますが、
いずれも強い論拠は見られません。
[888] 和泉国個人使用説は、 和泉国の用例 (>>419) について、 著者個人の裁量で使用したが、領主も承認していた (>>432) とするものです。 領内で他の用例がないことが理由のようですが、無理があるように感じられます。
[907] 正法年譜住山記 (>>249) は永喜を他の公年号とまったく同じように年表示に使っています。あたかも1つの公年号であるような使われ方で、そこに特殊な意識の存在は読み取れません。 千々和到の改元待望論のように、公年号と誤認されて一時的に利用された私年号という考え方に有利な物証といえます。
[889]
災異背景説は、
公年号の災異改元をモデルに、
天災、飢饉、戦乱などを私年号発生の要因とする、
あるいは災異に対する招福、厄払い、世直し、呪術などを創造・使用の要因とする諸説です。
多くの私年号について論じられており
[890] 永喜に関して、一部の用例にしか適用されない事例や用例のない地域に関する事例も根拠とされ、 不適切と指摘されます (>>538)。 それらを除外すると、残るは特定の時期と結びつかない一般的な災異で、 戦国時代の日常とも言えるものであって、 この年に広範囲に用いられ受け入れられた理由として説得力あるものは見当たりません。 物証なき印象論に留まらない議論が今後求められる領域でしょう。
[891] 終息についてはほとんど論じられていません。唯一 >>572 は、災異に対する呪術のために用いられたとの前提で、 災異の終息が呪術の意義喪失 = 公年号の復帰と主張しています。しかし、具体的にどの時点でどの災異が終息したのか、 誰が何を基準に判定したのか、その判断が如何にして伝達されたのか、といった詳細は論じられていません。
[892] 嘉例説は、 永喜の私年号の利用の特殊性、嘉例性を論じるものです。 何を意図した説なのかどうにも不明で、提唱者自身もそれほど自身を持っているわけでもなさそうです (>>407)。 同著者の公年号文書の存在を説明しようと試みたものであり (>>405)、 両者が意識的に使い分けられたと暗黙裡に前提を持ち、 一方に他方にない特殊性を見出そうとしたものでしょうか。
[893]
1字置き換え説は、
当時の公年号である大永の1字が永喜と共通していると指摘します (>>536)。
私年号全般にそうした法則性がみられると主張するもので、
外形的事実としては明らかに成立しますが、
その解釈は悩ましいところです。
[894] 改元デマ説は、 永喜に関して明確に論じたものは確認されていませんが、私年号全般に対して検討されるべきでしょう。 永喜は延徳や福徳のような改元デマとされる中世東国私年号と共通のパターンを持ちます。 すなわち、元年の年末頃に広まり始め、2年の春頃に盛んに使われ、 2年の秋頃に再び出現し、2年年末には終息して公年号に戻ります。 命禄においては暦が拡散に寄与した疑いが濃厚で、永喜でもそれが初期拡散と終息を説明し得ます。 ただし、永喜での物証は皆無です。また、福徳などが武蔵国を中心に東日本に広く分布するのに対し、 永喜は武蔵国に皆無で、かわりに西日本に点在するという大きな違いが見られます。
... と編年しています。
[905] 本書の成立過程は不明ですが、この部分は永喜を同時代的に体験した人が同時代または遠くない時代に書いたものと思われます。
[906] 他の年代記類にも同様に記載された事例はあったかもしれませんが、現在知られていません。 これらが広く流通することはなく、やがて永喜の存在は忘れられました。
[812] 成立の新編会津風土記は、 >>116 を紹介して永承誤記説を提唱しました。 >>810
[813] これが永喜の (第三者的) 研究史上の初出です。 近世の私年号研究の中では永喜はほとんど認識されていなかったようです。
[814] 幕末に至って香取文書の整理の中で私年号と認識されるようになったようです (>>723, >>504)。
[504]
安政時代刊行の日本下総国の研究者清宮秀堅の
新撰年表
の6月付の
[785] 明治時代初期の書籍は、 足利氏が正朔を乱したとし、
... の3つが知られているとしています。 >>784
[186] 昭和9年の久保常晴の論文は、 次のように述べています。 >>900
[178] 昭和40年の久保常晴の論文は、 次のように述べています。 >>103
[160] また、伝播について次のように述べています。 >>159
[517]
また、
私年号を公年号と誤解している例として永亀 (永喜)
を文亀とすることがあるように書かれていますが、
具体例は示されていません。
>>2 pp.
[816] 昭和時代には次々と用例の新報告がありました。 その一部は総括的な私年号研究に組み込まれ、 一部は地域史/分野史研究の中で私年号としての考察が進められれ、 一部は認識されずに埋もれていきました。
[536] 千々和到は、1字置き換え説の代表例として、 公年号の大永の1字を置き換えた永喜を挙げて法則性に従うと述べました。 >>535
[437]
に刊行された学会の報告書に、
千々和到の東国の私年号に関する発表とその質疑が収録されています。
>>71
[438] 他の発表と一括しての質疑のため私年号についての言及は多くありませんが、 次のような発言がありました。 >>71
[14] 千々和到は、 論文をまとめた著書で、 和泉国日根郡熊取谷中家文書目録 によると中家文書 信達荘納帳 に永喜元年とある >>13 p.256 (>>419) とだけ紹介していました。
[537] の山崎真佐恵の論文は、 次のように述べています。 >>16
亀表記、
干支から2年とするべきが元年とする、
の2つの齟齬から、会津を発生地とするには難しい[643] 当説は、他の私年号の考察とあわせて、 中世東国私年号は使用者が意識的・選択的に利用したものであるとして、 千々和到の公年号改元誤認説を否定するものです。 私年号の意図的採用は久保常晴説と同様ですが、久保常晴説の政治的色彩はなくなり、 私年号の呪術的性格が強調された論です。
[644] ただその論理構成は粗雑で (最も典型的には >>565)、
後続の研究者にはほぼ支持されていません。
卒業論文・報告 十五・六世紀における私年号の考察--「永喜」を中心として=Graduation Theses and Reports A Study of "Shinengo" (Unofficial Name of an Era) in the 15th and the 16th Centuries / 山崎真佐恵 / p154~177 (0083.jp2)
[757] の書籍は、 次のように述べています。 >>756
[268] の地域史は、 >>222 を紹介し、 次のように述べています。 >>96
卯とするが、 >>73 図版だと𬽇喜にもつかず善でもない判定に苦しむ文字、
永喜とは異なると考え一応参考[29] の私年号に関する論文で触れられています。 下野国を中心に分布するとされていました >>217 (>>4) が、 千々和到が岩手県水沢市正法寺の年譜正法寺年譜往山記 や宮城県川北町の永喜2年板碑にあることを紹介して、 永喜が陸奥まで伝わったことが明らかとしました。 >>217 (暦と改元, ) 更には日本私年号の研究にも岩手県江刺市西光寺木造阿弥陀像墨書銘の 「永喜二年丁丑霜月吉日」 が掲載されています。 >>217
[379] の論文は、 >>377 を紹介し、 大永7年としています。 常州太田を中心とする学問文化圏があって佐竹氏が支えたと論じる中で、 次のように述べています。 >>41
[658] 一覧表の類には、新撰年表 >>461 に掲載されているのを例外に近世には未掲載でしたが、明治時代以後の辞書類等にはほぼ掲載されています。いずれも大永6年から2年継続としています。 >>659
[597] 日本語版ウィキペディアの一覧表には初期から掲載されています。 平成20年には別名として永亀が追加されています。 >>596
[896] 永亀は永喜のほとんどの用例と1年ずれがありますが、「別名」 として掲載されこの違いは無視されています。
[666] の SNS 投稿は、 ウィキペディア出典だろうかと思われる説明に、独自とみられる感想(?)を付加しています。 >>101
[667]
平和の永続を祈る気持ちで永がよく使われるとしており >>101、
永喜や他の元号で永が使われる意図を示したものと思われますが、永喜以外のどれ (他の私年号なのか、公年号も含むのか) は不明です。
既知の論文等で永喜の意味をこう解釈したものは見当たりませんが、独自説なのでしょうか。そうだとしても根拠は不明です。
[668] 当投稿は、同時期に出版された日本国紀 >>669 を非難すると思われる記述に接続されており、 「出典・典拠の明記は絶対」と述べています >>101 が、自虐ギャグか何かでしょうか。 「マトモに相手にしても馬鹿を見るだけ」とあり >>102、 当投稿の内容を真剣に読解しようとする人を嘲笑する自己言及的な何かかもしれません。
[670] いずれにせよ、なぜ唐突に永喜から日本国紀の話題に転じたのか意味不明です。日本国紀に永喜が記述されているという情報も見当たりませんが、どうなのでしょう。
[802] その他私年号の代表例のつとして永喜を掲出する事例が散見されます。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 永喜 永亀 大永6年(1526年) 2 『旧案主家文書』(『香取文書』)、『会津塔寺八幡宮長帳』など
[663] から永喜元年は100年ほど離れており、疑義が持たれます。
[664] 公佐の甥に当たる公高は延徳頃の太宮司とあります。 その孫の公通は太永頃の太宮司とあります。 >>66 ここまで数代太宮司職が継承されているので、 公佐が極端に長寿という可能性も低そうです。
[695] 誤記か
[705] 永喜三年 (三〇九)
[803] 永嘉, 永壽, 永享などが[OCR]]で誤読されて永喜となることがままあります。