[124] 越南では歴史的に中華文明の影響を受けつつ, 独自性もある日時制度が使われてきました。 仏国統治時代を経た現在は、 フランスの影響を受けた制度が使われています。
[351] 現在の越南では、 グレゴリオ暦とキリスト紀元が使われています。
[1] 太陽暦 (グレゴリオ暦) が主として使われています。
[2]
歴史的には中国式太陰太陽暦が使われてきました。いまでも広く用いられています。
[46] 同慶地輿誌 (豆瓣), https://book.douban.com/subject/26365276/
對編寫一部大規模地舆誌的設想就在紹治年代末期曾已提出,但延至嗣德二 年(1849年)史館總裁装櫃才申請書名爲大南一統志⑷並再經過十年後,内容大 爲簡略的大南一統舆圖 書成,包括七十六張地圖,收綠省三十一及府四十五。 其進書表曰:
“大南十四年十月二十日,史館總裁纂修臣等覆茲:
[4] 歴史的には長く独自の越南の元号が使われてきました。
[123]
実用当時は漢文が公用され漢字で元号名が書かれていました。
現在はChữ Quốc Ngữ (ラテン文字) 表記されることもあります。
[171] 現在の北ベトナムの北部は古くは中華王朝の統治下にあり、 その元号や干支年が使われていました >>185。 時折現地勢力が蜂起しても長続きせず、 独自の元号も建てていませんでした。
[172] かつては越南の元号のはじめは丁朝の太平 y~1516 () とされていました。 >>170
[173]
後に遡って前李朝の天德 y~1401,
大徳 y~1806
()
が最初の越南の元号とされるようになりました。
>>170
[318] 建徳 (西暦紀元前111年) は実在が確認できないとされ (>>319)、 現在では最初の越南の元号とはされていません。
[11] 越南ではいくつかの王朝の興亡があり、 それぞの多くが建元しました。 時には同時に複数の王朝の元号が並立しました。 中華王朝によって現地王朝が滅ぼされて独自元号が断絶した時期もありました。
[128] 安南国の歴史 は、 越南人キリスト教関係者が手紙に記載した越南の通史です。 本書は記述内容には誤りも少なくないものの、 当時の民間人の歴史認識を知る貴重な史料であります。 >>126
[129] 原文はクオック・グーで書かれています。 現在の越南語の表記とは異なることもあります。 >>126
[130] 日本の研究者による和訳は、 固有名詞を片仮名表記し、 漢字表記を併記しています。 >>126
[131] 本書は皇帝と元号を混同しており、 元号名を皇帝の名前として使っています。 複数の元号を使った皇帝が別人になっているなど、 混乱がみられます。 >>126
[152] 越南語版Wikipediaが使っている現行の綴字と比較すると、 嘉泰のほか、大宝と光宝の「宝」の綴りが異なります。
[348] 越南はたびたび漢土の王朝の支配を受けてきました。 そのため越南史の研究のための年表では、 ただ越南の元号を並べるだけではなく、 漢土の元号も記載したものが望まれます >>296。
[262] 前黎朝は皇帝を称して元号を建てましたが、
それを知った宋はこれを非難しました。
[263] 越南側は元号に限らず、宋と対等に接しようとしていました。 しかしやがては貿易等の実利を取って冊封体制を受け入れました。 それでも使節を国境から中に入れないなど、 皇帝号や元号が中華王朝側に見えないよう情報を制御していました。 >>196
[265] 情報統制の結果、 宋史 には後李朝の第3代が初めて皇帝を称し元号を建てたように書かれたり、 玉海 には李朝の33の元号のうち6つしか掲載されませんでした。 >>196 (四庫全書本大越史略提要)
[270] 越南の私年号はほとんど知られていません。 これが制度や文化の違いに由来するものなのか、 未発見なだけなのかはよくわかっていません。
[174] 越南地域は中華王朝の統治下にあったり、独自王朝を立てたりの繰り返しでした。 そのためなのか中華王朝の正史や他の史書等では越南 (安南) は外国・外藩扱いだったりして、独自の元号の情報はあまり充実していません。
[267] 資治通鑑 には越南側で越南王朝扱いされる国の元号の一部が (中華王朝からみた反乱事件の記事として) 収録されています。
[266] 宋史 や 玉海には越南の元号のごく一部が収録されています。 (>>265)
[190] 歴代建元考には外国の部に一部の越南の元号が収録されています。
[191] 紀元編には外国の部に越南の元号が収録されています。
[213] 欧亜紀元合表には越南の各王朝の皇帝と元号が収録されています。
[176] 日本でも文明の中心地としての中華王朝の元号を自国と対比するようなことがあっても、 比較的交流の少ない越南の元号を題材としたものはほとんどありませんでした。
[212] の日本の書籍に収録された 安南史󠄃詩 は、越南の歴代皇帝などをまとめた漢文で、 元号も注記されています。 >>211
[197] 近代日本の日本政府宮内省の研究者吉田増蔵の 年号索引 には越南の元号も収録されていたようですが、 残念ながら一般公開はされていません。
[215] に日本で発行された越南の通史は、 本文で越南の史書と同様に干支年と元号年を書き、 改元記事もあります。 更に巻末には皇帝と元号の一覧があります。 >>214 一覧は基本的に大越史記全書などの即位紀年と元号を踏襲しているようですが、 一部怪しい箇所 (西暦年の誤記らしき部分) もあります。
[207]
近世日本の研究者は、
鎖国政策のため越南の情報があまり入ってこなくなったためもあるのか、
日本の元号にも漢土の元号にもない謎の元号を安南に区分するようなこともありました。
[1591] 教科書裁判への関与で知られる大学教員の矢沢康祐がに共産主義系教員団体の歴史教育者協議会の機関誌歴史地理教育に寄稿した記事があります。 >>1589 この記事は昭和の元号危機の頃に元号存続に反対する立場から元号の歴史をまとめたものです。 全4ページがおよそ3分されて中国本土、 朝鮮半島、 越南の事情が語られています。 中国本土と越南の大部分が元号廃止の経緯に割かれています。 内容は政治活動の素材として寄せ集められたに過ぎず、 学術的には見るべき所がまったくありません。
[177] 越南本国では史書がいくつか作られ、そこに歴代の元号も収録されています。 しかし仏国の植民地支配の時代と独立後の戦乱の時代が長かったためなのか、 それらの時代に漢字と元号が廃止された文化的断絶の影響なのか、 元号の研究はまだまだ未着手の領域が多いようです。 歴史学, 暦法, 貨幣の研究の一環としての元号の研究は20世紀の越南や周辺諸国で多少は行われてきたものの、 元号を中心とした研究はほとんど行われてきませんでした。 >>196 そのような状況のため、 越南の元号の情報は21世紀初頭まで入手困難で、 元号一覧のような簡易的なものがあればいい方でした。 >>157
[347] 越南の研究者によると、 21世紀初頭の時点でいくつかの年表類があって越南の学界で利用されていましたが、 元号や皇帝の異動などに誤りが多いものばかりでした。 >>296
[226] 20世紀の終わり頃、越南の研究者らが金石銘を使って史書記載の莫朝時代の元号情報の誤りを訂正する研究を行いました。 (>>222)
[180] に中華民国台湾の研究者が朝鮮と越南の元号を比較した日本語 (台湾正体表記) 論文を発表しています。 >>402 中華王朝の周縁国家の元号というテーマでこの2つの国を選んだのでしょうが、 PDF で全22ページあるうち、 越南は本文3ページ弱、 付表3ページ余りに過ぎず、 その本文も1ページ分が越南の王朝の興亡を概説したものです。 付表は 角川世界史辞典, から作成したという元号一覧で、 皇帝名と元年年次が示されているだけのものです。 分量でも内容でも朝鮮がメインで、 越南はどちらかといえば蛇足感が否めません。 学術的な評価は高くありませんが >>196, >>202、 これでもウェブ上では少ない貴重な情報源の論文でした。
[35] 実はこの論文の朝鮮半島部分と越南部分は、それぞれ非常によく似た構成、
内容、文面の先行する文獻が日本の昭和時代に (まったく別の人物によって)
発表されていました。
[365] 平成時代の日本で制作された近代諸元号現象は、 大韓帝国の元号の章で越南の元号に触れています。 >>364 ただ、 台湾、大韓帝国、満州国、中華帝国、蒙古は各1章が割かれているのに、 越南は1段落だけしかありません。
[186] 平成時代末期の日本で発行された日本年号史大事典は、 コラムとして、 越南の元号の一覧を太平 () から保大まで掲載しています。 元年と皇帝が記載されています。 平成13年の角川世界史辞典と平成20年の >>402 を参考に作成したとされています。 >>185
[179]
平成時代中期頃に各言語版Wikipeidaに越南の元号の一覧や個別記事が整備され、
ようやく世界中でその情報が簡単に得られるようになりました。
[198] に越南人の研究者が元号、諡号、廟号の漢字についての越南語の論文を発表しました。 この論文は元号名の漢字の用法を簡易的に分析していました。 ただし元号の章の大半は中国の元号における漢字の用法の説明に割かれていて、 越南の元号については元号名の文字数や同名別時代元号を列挙しただけに留まっています。 >>193
[199]
に越南人の研究者が越南の元号の制度の歴史、
改元の時期と理由、
元号名の出典といった基礎的な事項をまとめた日本語の論文を発表しました。
>>196
[203]
に越南人の研究者が越南の元号の漢字の利用頻度や元号名から垣間見える思想を検討した日本語の論文を発表しました。
>>202
には越南語版が発表されました >>230。
[204] これら以前に越南では「年号史」という研究分野は確立されておらず >>196, >>202、 ほとんどはじめて元号それ自体を中心的テーマとした画期的な研究といえます。 とはいえ他地域の元号と比較すると未だごく初歩的なレベルに留まっており、 今後の深化が期待されるところです。
[205] なおこれら日本語論文が掲載された媒体は日本の令和改元と関連してこの時期に発行されることになったもので、 そこに掲載された論文の研究内容が改元きっかけとは言えないにせよ、 異国の改元が契機となって越南の元号の研究も進展するのは興味深い巡り合せであり、 喜ばしいことでもあります。
[316] なお >>203 の論文も内容はともかく、 文献の引用には年数の誤りや URL の誤りなど問題が多く、 Wikipedia の丸写しのような怪しげなウェブサイトまで参照しているのは、 本項および関係各項の関係箇所で注記している通りです。 和訳も意味が取りづらいところや細かな誤記が多く、 越南語版と比較しながら読む必要があるのは残念な点です。 (特に、越南語の参考文献の題名が日本語でしか書かれていないのは、 引用文献に到達するのを困難にしています。 なので越南語版の引用も間違っているのは困ったものです。)
[317] 専門誌なので編集者はあまり口を出さないのかもしれませんが、 特集記事なのですから、 このような表面的な問題くらいはどうにかできなかったのですかねえ。 せっかくの研究なのにもったいない。
[206] 漢字文化圏の周縁としての日本と越南 (や他の諸地域) の元号の在り方の比較分析は、これまでほとんど行われていないものの、 日本の法制史や文化への理解を深める意味でも重要と思われます。 日本の元号の研究の蓄積を応用した越南の元号の研究に手を伸ばす日本人研究者も、 この機会に増えてほしいものです。
[325]
越南の元号は年表や研究によって出入りがあります。
に148個とされ >>193、
にも踏襲されていますが >>196、
個数だけで一覧が示されておらず数え方は不明です >>202。
[326] , の研究では一覧を示して140個とされています。 >>202, >>230
[334] しかしそのリスト、丁朝1の太平 () を次の皇帝も踏襲して丁朝2の太平 () を使ったとしています。これが出典の >>332 の説なのかどうかわかりませんが、 他書等にない独自説で、どれだけの根拠があるものなのか不明です。
[189] 元号 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 の
1945年にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム民主共和国(1945年 - 1976年)の成立に伴い君主制が廃止されると、元号も全廃され、公用年号は西暦に統一された。しかし、 を非公式の紀年法として使用した例がある。
... を雑にコピペして生まれたデマか?
[223]
他の東洋諸国と同様に越南の王朝も年号銭を発行しました。
[158] 越南の皇帝や王の即位紀年も使われることがあります。 主に史書でみられます。
[181] 越南でも古い時代には干支年や即位紀年が使われたと説明されます。 >>402 #page=14 しかし干支年はともかく、即位紀年が使われたとする根拠は提示されておらず、 実用されていたのかはよくわかりません。
[360] 金石文で実用される即位紀年は1例あります (>>233)。 その他の時代にも実用された可能性はありますが、 史書の便宜上の紀年法に過ぎないと思われるものもあります。
[361] 即位紀年の実態については元号以上に研究が少ないようです。
[338] 越史略 は古い時代は中華王朝の元号で記述していますが、 丁朝以後に越南の元号や即位紀年を使っています。 後の時代の史書には出て来ないような即位紀年もみられます。
[339] 越史略は越南の元号の年代も後続の他の史書と違う説を採っている場合が多いです。 >>340
[160] 大越史記全書 (外紀, 本紀, 続編) は干支年、越南の元号または即位紀年、 (小書き) 支那の元号、 本文、 のような形式を採用しています。 南方の史書にみられる干支年を重視する書き方です。 涇陽王以来、伝説を含む歴代君主の即位紀年が (元号のない時代に) 使われています。
[161] 涇陽王は大越史記全書に「壬戌元年初」とあります。
[166] 同様に安陽王の即位紀年、 南越5代の各即位紀年、 徵王の即位紀年、 士燮の即位紀年、 があります。 それらの間の時代は中華王朝の統治下にあり、 干支年と中華王朝の元号だけで独自の紀年は示されていません。
[165] 前李南帝李賁は越南独自の最初の元号を建元しましたが、 それ以前は即位紀年が使われています。
[167] その後は趙光復, 後李南帝李佛子の即位紀年, 越南呉朝のうち3代の各即位紀年があります。 ただし呉朝のうち楊三哥は簒奪扱いのため干支年に楊三哥の即位紀年を併記する例外的な形式になっています。
[168] 先皇帝丁部領の最初の元号の建元前は即位紀年が使われています。
[164] 欽定越史通鑑綱目 には 「甲辰,蜀安陽王元年,周赧王五十八年」 以来の各年が書かれています。 >>163
[69] 欽定史書の大南寔録は、 阮朝の皇帝即位以前を、 半独立政権の広南国の長阮主 (阮朝皇帝家の祖先) の時代は阮主即位紀年を使っていました。 >>116, >>68 即位の翌年を元年としていました。 >>116 まで続きました。 >>72
[71] 広南国の滅亡の後、阮朝の成立までしばらく空白時期がありますが、 初代皇帝の世祖阮福暎の即位紀年が使われています >>70, >>122。 が「世祖攝政元年」とされます。 >>120, >>72
[73] 元号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E5%89%8D%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%BA%80%E5%B7%9E%E3%81%A8%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%EF%BC%88%E8%B6%8A%E5%8D%97%EF%BC%89
ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において中国の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。ベトナム阮朝では、南ベトナムの広南阮氏の正史編纂に際し、阮氏歴代の廟号 + 干支、中国の元号と大越(北ベトナムの黎朝)の元号の三つを併記した。
[47] 韓国語版Wikipediaは越南の各皇帝の記事に、 即位年を元年とする紀年と、 元号や西暦との対照表を掲載しています。 (例えば: >>48, >>49, >>50)
[52] 黎朝の黎愍帝の3年 () まで確認できます。 >>51 莫朝, 西山朝, 阮朝の記事には確認できません。 一世一元の阮朝はともかく、 莫朝と西山朝に付していない理由は不明です。
[169] 治世の途中で改元した皇帝は少なく、ほとんどの即位紀年と元号は年数が一致しています。
[53] 半独立政権の鄭氏政権の長鄭主の記事には、 対照表はありません。
[54] 半独立政権の広南国の長阮主の記事には、 対照表があります。 大南寔録が参照されています。 >>52, >>53, >>54, >>55, >>56, >>57, >>58, >>59, >>60, >>61, >>62, >>63 ただし最後の新政王は元年だけのためか、 掲載されていません >>64。
[67] 阮主在位と同時期の元号記事の対照表には、 僊主から新政王までの阮主即位紀年が掲載されています。 >>65, >>66
[5] 越南帝国の崩壊後に成立した各政府は、 当初従来の皇帝の元号のかわりに建国紀元を使いました。
[7] 北ベトナムの硬貨は原則的に4桁西暦年アラビア数字が記載されていましたが、
「NAM II」 (越南民主共和2年) と併記されたものも1種類確認されています。
[269] しかしいつの間にか西暦年が公用されるようになり、 建国紀元はあまり使われなくなりました。 (公式に廃止されたのかは不明。)
[345]
こうした建国紀元は非公式、私年号だとする解説もありますが、
少なくてもある時期に於いて公用されたとのことですから
(政府が私年号で貨幣を発行するというのはおかしいでしょう)、
適切な説明ではありません。
[346] 東アジアの他の地域と同じように、 干支年がすべての時代に使われていたようです。 単独で使うことも、 元号年と併記されることもありました。
[25]
中華民国を拠点に活動した越南民国光復軍の軍票には
(低画質のため判読しづらいですが)
「
[353] 伝承上の建国に基づく雄王紀元が、国外の越南人コミュニティーなどで使われています。
[355]
在日越南人を中心とする日本の越南語話者のコミュニティーでは、
行政関係を中心に、日本の元号も使われています。
元号名は越南語漢字音に基づき読まれることがあります。
[29] 金石文や書籍には通常の東洋の日時表示が用いられることが多いです。
[30]
史書には干支元号年形式が用いられることが多いです (特に帝紀の記事の先頭の日付)。
本文中には通常の東洋の日時表示の形式もままあります。
[356] 現代の越南語国語表記では越南語の語順で年月日を表記するため、 漢文の大エンディアンの年月日とは逆の小エンディアンになります。
[227] 伝説では越南は5000年前の赤鬼国, 文郎国に始まるとされますが、 その時代の日時制度は明らかではありません。 雄王紀元はその初代から数えた建国紀元ですが、 後世になって創設されたものです。
[274] 大越史記全書では初代涇陽王の元年の干支年とそれが何年前かを書いているだけで、 何代続いたのかもよくわかりません。
[273] この時代は18代の王がいたと伝承にあります。 中文版维基百科は18代の王の名前を挙げて、 出典を日本の昭和時代の越南の通史としています。 >>272 その歴史書は出典を明記していません。 >>275 元々越南の史書か何かに由来するはずですが、 どこに書かれているのでしょうか。
[276] この18代の王の年代がいくつかのウェブページに掲載されています。 例えば >>277 に
Kinh Dương Vương (涇陽王): 2879 – 2794 TCN (số năm trị vì là ước đoán). Húy là Lộc Tục (祿續).
Hùng Hiền vương (雄賢王), còn được gọi là Lạc Long Quân (駱龍君 hoặc 雒龍君 hoặc 貉龍君): 2793 – 2525 TCN. Huý là Sùng Lãm (崇纜).
Hùng Lân vương (雄麟王): 2524 – 2253 TCN
Hùng Diệp vương (雄曄王): 2252 – 1913 TCN
Hùng Hi vương (雄犧王): 1912 – 1713 TCN (phần bên trái chữ “hi” 犧 là bộ “ngưu” 牛)
Hùng Huy vương (雄暉王): 1712 – 1632 TCN
Hùng Chiêu vương (雄昭王): 1631 – 1432 TCN
Hùng Vĩ vương (雄暐王): 1431 – 1332 TCN
Hùng Định vương (雄定王): 1331 – 1252 TCN
Hùng Hi vương (雄曦王): 1251 – 1162 TCN (phần bên trái chữ “hi” 犧 là bộ “nhật” 日)
Hùng Trinh vương (雄楨王): 1161 – 1055 TCN
Hùng Vũ vương (雄武王): 1054 – 969 TCN
Hùng Việt vương (雄越王): 968 – 854 TCN
Hùng Anh vương (雄英王): 853 – 755 TCN
Hùng Triêu vương (雄朝王): 754 – 661 TCN
Hùng Tạo vương (雄造王): 660 – 569 TCN
Hùng Nghị vương (雄毅王): 568 – 409 TCN
Hùng Vương là ai và lịch sử các Vua Hùng: 1 vị vua Hùng
Hùng Duệ vương (雄睿王): 408 – 258 TCN
とあって、コピペ同文が他のいくつかの頁にあります (どこが元祖なのかは不明)。
Theo Đại Việt Sử ký Toàn thư, tính từ thời Kinh Dương Vương (2879 TCN) cho đến hết thời Hùng Vương (năm 258 TCN) kéo dài 2.622 năm. Nhà nước Văn Lang tồn tại đến năm 258 TCN thì bị Thục Phán (tức An Dương Vương) thôn tính. Theo Nguyễn Khắc Thuần trong “Thế thứ các triều vua Việt Nam” thì 18 vị vua Hùng là:
と書かれていて、 Nguyễn Khắc Thuần の Thế thứ các triều vua Việt Nam が出典だとのことですが、 ウェブページで公開されている同書 >>282 には18代の王名しかなく、年がどこから来たのかは不明です。
[284] 日本語版ウィキペディアにも同じ18王の名前と年代のリストがあり、 それもThế thứ các triều vua Việt Namが出典だと述べています。 >>283
[286] English と中文の Wikipedia には18王は実は18王朝だとする学説を紹介していて、 そちらに18王説でいわれているのと同じ年の範囲を王朝の年の範囲として書いています。 >>285, >>272
[287] 初代以外の即位紀年の用例は見当たらず、近代の年表類にも出てこないので、 17代の年代は現代の研究者が提唱した学説に由来しているのかもしれません。
[228] 次の甌雒国の時代の紀年法は史料がなく不明です。 >>196
[235] 大越史記全書では干支年と即位紀年の併記が使われています。
[229] 次の南越国の時代には即位紀年が使われました。 >>196
[319] 20世紀後半の越南の研究者による 越南の年表 >>310 は、 建徳 (西暦紀元前111年, y~3827) を最初の越南の元号としていました。 >>202 (>>313)
[320] しかし 越南史記全書 によれば、 南越国の最後の王である術陽王は、 1年在位、 が元年 (y~3783) でしたが、 その諱が建德でした。
[321] そのため建徳は王の名前であって元号でなく、 よって建徳が最古の元号とは確認できないとされています。 越史略 にもこの元号はありません。 >>202
[322] 術陽王の趙建徳の名前が誤って元号とみなされたのでありましょうが、 歴代南越王のうちなぜ最後の建徳だけが誤認され、 最初の元号となったのかは謎です。 とはいえ確かに他の歴代王の諱は1文字だったり、 2文字でも元号らしさがなかったりするのですが、 建徳はその後の時代に各国で実際に元号として使われるほど元号らしさがあります。
[236] 南越国が滅亡して前漢に併合されると、 北ベトナムはしばらく中華王朝統治時代になりました。 漢、魏晋南北朝時代、隋、唐を経て五代十国時代の南漢まで、 混乱の時代にたびたび自立の動きがありながらも短命に終わり、 中華王朝の統治する一地域に留まりました。
[252] この時代の北ベトナムでは中華王朝の元号が使われました。 出土文物からも確かめられます >>196。
[245] 中華王朝の力が弱まった時代には越南で使われた元号にもその混乱が反映されました。
[250] 隋末、 北ベトナムには隋が滅亡してもそれが伝わらず、 交趾太守の丘和は䔥銑 (元号: 鳳鳴) への抵抗を続けましたが、 隋の滅亡を知ってに朝貢することに決めました。 ところが䔥銑が唐に破れたことを知り、 に唐に従うことを決めました。 >>196
[251] 越南の九真郡の黎氏が延長年号石碑 (>>246) を作ったのは、義寧改元を知らなかったのか認めなかったのかのいずれかであり、 丘和と黎氏が䔥銑と争っていたことから後者と推定されています。 >>196
[244] 越南の史書では中華王朝統治時代は干支年と中華王朝の元号の併記で記述されています。
[253] 隋の文帝の時代に北ベトナムの交州で建立された舎利塔の銘文に隋の元号があります (>>254)。 この解釈について、
の2説があります。 >>196
[260] 五代十国の南漢のの元号銘の鐘が北ベトナムのハノイで発見されています (>>258)。 ところが既にに当地の呉権は南漢の初代皇帝劉龑に勝利し、 その影響力を交州から排除していました。 呉権やその後継者は王を称していました。 そのため、 紀年法として南漢の元号を利用していても、 支配を示すものではないとされています。 >>196
[178] 越南南北朝時代、 越南には黎朝と莫朝 (など) がありました。 最終的に黎朝が勝利したため、 その後莫朝は非正統王朝として低く評価されてきました。 元号その他の莫朝の制度史も長く軽視されてきました。 >>196, >>296
[222] 20世紀も終わり頃になって、 莫朝時代の金石文などから元号を整理して、 元号から当時の情勢を検討するような研究がなされるようになりました。 >>196 (>>221, >>217)
[224] それ以前から莫朝を扱った研究がなかったわけではありませんが、 Đoan Thái (端泰), Hồng Ninh (洪寧), Long Thái (隆泰) が欠落していたり、 改元日が記述されていなかったりと、 不正確なものでした。 >>216
[225] 光宝は元年と利用期間が間違ったまま信じられていて、 それを元に延長年号や年号の誤りとみなした研究は誤った前提によるものでした。 >>216
[350] 王朝の正閏論のようなものと無縁となった現在、 越南の一定の領域を一定の期間統治し続けた莫朝を無視するのは適切とはいえません。 越南史を扱う年表や変換ソフトウェアなどは、 南北朝のどちらも同じように扱えるのが便利でしょう >>296。
開国間もない順天元年には早くも、
旨揮自詔書出日以後、凡軍民詔書内年號・國號・都號違者、以杖・貶論。其買賣・交易・借貸文書・契券、不依詔書
内者、不用。(『全書』一〇 順天元年(一四二八)四月十七日の条) と新生王朝の成立に合わせて、詔書の出た後は年号・国号・都号を誤った者は「杖」・「貶」で裁かれること、買売・交
易・借貸の文書や契券も詔書の年号・国号・都号を使用せねばならないとしている。
(明朝体)
[41] 大東亜戦争期、 日本軍が仏印進駐しました。 そのため越南域内で多数の日本人が生活しました。
[358]
日本軍と関係者は中央標準時や昭和, 皇紀のような日本の日時制度を使っていました。
[359] 日本軍が駐留していても、 阮朝、 および仏印処理までは仏印政府が従来通り存在していましたので、 両政府および一般の住民は従来通りの日時制度を使っていました。
[268] https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7857&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 #page=5
[23] べトナム独立宣言(和訳付き) (垂水源之介, , ) https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030805viet-nam.html
[26] ベトナム式日付の書き方 | ベトナム生活情報サイト VIETJO Life(ベトジョーライフ) (Vietjo Life, ) https://life.viet-jo.com/howto/life/38
[27] ベトナム語の曜日の表現 ~第1日曜日ってどう言うの?~│ベトナム生活情報サイト、VIETJO Life(ベトジョーライフ) (Vietjo Life, ) https://life.viet-jo.com/howto/vietnamese-language/394
[28] ベトナム語で数字言える?~慣れれば簡単!読み方の法則~│ベトナム生活情報サイト、VIETJO Life(ベトジョーライフ) (Vietjo Life, ) https://life.viet-jo.com/howto/vietnamese-language/445
[31] https://ir.soken.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=5301&item_no=1&attribute_id=19&file_no=2 #page=12
[154] Consultation, https://archivesetmanuscrits.bnf.fr/ark:/12148/cc95707n
其餘幾種印本均為富文堂明命辛卯年(1831)印本。,四周單邊。扉頁正中題書名“三千字解音”,右側題“皇朝辛卯年孟秋上浣新刊”,左側題“富文堂藏板”。
[155] Trung tâm Triết học, Văn hoá và Xã hội Ðại học Temple, http://mlp.cs.nyu.edu/nlv/lib/hn/R.0468/001/nlv_hn_R.0468_001.php
Column 1 皇朝辛卯年孟秋上浣新刊
– Quốc ngữ Hoàng triều Tân mão niên mạnh thu thượng hoán tân san
[156] 牢獄の人々, アンドレ・ヴィオリス, 安倍靖 訳, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1132686/1/123 (要登録)
[37] bchnctd 300623.pdf, , http://www.hannom-rcv.org/NS/bchnctd%20300623.pdf#page=2
委班復生漢喃越南 Uỷ ban Phục sinh Hán Nôm Việt Nam
𣎃5𢆥2022 Tháng 5 năm 2022
河內 Hà Nội
[38] >>37 は越南語漢字表記の復興を目指すグループ。
[39] >>37 の #page=191 に「𢆥」、 #page=282 に「𣎃」
[40] 討論:張正 – 韋那威其(VI-NA-UY-KI)・委班復生漢喃越南, , http://www.hannom-rcv.org/wi/index.php/%E8%A8%8E%E8%AB%96:%E5%BC%B5%E6%AD%A3
20:12, 次𦉱, 𣈜10𣎃6𢆥2017 (ICT)
𠓨𣅶 11:48, 主日, 𣈜17𣎃12𢆥2017。
[363] 嗣德 – 韋那威其(VI-NA-UY-KI)・委班復生漢喃越南, , http://www.hannom-rcv.org/wi/index.php/%E5%97%A3%E5%BE%B7
阮福洪任生𣈜25𣎃8𢆥己丑(即22𣎃9𢆥1829)在化、