ベトナムの元号

越南の日時

[124] 越南 (ベトナム) では歴史的に中華文明の影響を受けつつ, 独自性もある日時制度が使われてきました。 仏国統治時代を経た現在は、 フランスの影響を受けた制度が使われています。

[351] 現在の越南では、 グレゴリオ暦キリスト紀元が使われています。

[352] 伝統的な越南暦干支年も使われています。

[1] 太陽暦 (グレゴリオ暦) が主として使われています。

[2] 歴史的には中国式太陰太陽暦が使われてきました。いまでも広く用いられています。 越南陰暦

紀年法

[3] 現在は西暦が用いられています。

[46] 同慶地輿誌 (豆瓣), https://book.douban.com/subject/26365276/

對編寫一部大規模地舆誌的設想就在紹治年代末期曾已提出,但延至嗣德二 年(1849年)史館總裁装櫃才申請書名爲大南一統志⑷並再經過十年後,内容大 爲簡略的大南一統舆圖 書成,包括七十六張地圖,收綠省三十一及府四十五。 其進書表曰:

“大南十四年十月二十日,史館總裁纂修臣等覆茲:

?

越南の元号

[4] 歴史的には長く独自の越南の元号が使われてきました。

  • (阮朝) 保大 (1926年〜1945年8月(崩壊))

[123] 実用当時は漢文が公用され漢字元号名が書かれていました。 現在はChữ Quốc Ngữ (ラテン文字) 表記されることもあります。 元号名

[182] 越南の元号

[171] 現在の北ベトナムの北部は古くは中華王朝の統治下にあり、 その元号干支年が使われていました >>185。 時折現地勢力が蜂起しても長続きせず、 独自の元号も建てていませんでした。

[172] かつては越南の元号のはじめは丁朝太平 y~1516 () とされていました。 >>170

[173] 後に遡って前李朝天德 y~1401, 大徳 y~1806 () が最初の越南の元号とされるようになりました。 >>170 大徳

[318] 建徳 (西暦紀元前111年) は実在が確認できないとされ (>>319)、 現在では最初の越南の元号とはされていません。

[11] 越南ではいくつかの王朝の興亡があり、 それぞの多くが建元しました。 時には同時に複数の王朝の元号が並立しました。 中華王朝によって現地王朝が滅ぼされて独自元号が断絶した時期もありました。

[324] 統計は元号を、 一覧は元号一覧をも参照。

安南国の歴史の元号

[128] 安南国の歴史 は、 越南人キリスト教関係者が手紙に記載した越南通史です。 本書は記述内容には誤りも少なくないものの、 当時の民間人の歴史認識を知る貴重な史料であります。 >>126

[129] 原文はクオック・グーで書かれています。 現在の越南語の表記とは異なることもあります。 >>126

[130] 日本の研究者による和訳は、 固有名詞片仮名表記し、 漢字表記を併記しています。 >>126

[131] 本書は皇帝元号を混同しており、 元号名皇帝名前として使っています。 複数の元号を使った皇帝が別人になっているなど、 混乱がみられます。 >>126

  • [132] y~30 Thuận Thiên トゥアンティエン 順天 p.18, p.27 段落17
  • [133] y~1562 Thái Báu タイバウ 大宝 p.18, p.27 段落17
  • [134] y~628 Thái Trinh タイチン 泰貞 p.18, p.28 段落17
  • [135] y~1338 Đoan Khánh ドアンカイン 端慶 p.18, p.28 段落17
  • [136] y~1407 Hồng Thuận ホントゥアン 洪順 p.18, p.28 段落17
  • [137] y~155 Quang Thiệu クアン・ティェウ 光紹 p.18, p.28 段落17
  • [138] y~87 Cảnh Thống カイントン 景統 p.19, p.28 段落17
    • [139] (本来 y~1557 Thống Nguyên トングエン 統元)
  • [140] y~851 Minh Đức ミンドゥック 明徳 p.19, p.28 段落18
  • [141] y~1501 Đại Minh ダイミン 大明 Gia Tĩnh ザーティン 嘉靖 p.19, p.28 段落18
  • [142] y~454 Đại Chính ダイチン 大正 p.19, p.28 段落18
  • [143] y~1145 Quảng Hòa クアンホア 広和 p.19, p.28 段落18
  • [144] y~847 Vĩnh Định ヴィンディン 永定 p.19, p.28 段落18
  • [145] y~1374 Cảnh Lịch カインリック 景暦 p.19, p.28 段落18
  • [146] y~315 Quang Báu クアンバウ 光宝 p.19, p.20, p.28, p.29 段落18
  • [147] y~401 Hồng Ninh ホンニン 洪寧 p.19, p.20, p.28 段落18, p.21, p.29 段落20
  • [148] y~1473 Chính Trị チンチ 正治 p.20, p.29 段落18, p.5
  • [149] y~1386 Ja Thái ジャータイ 嘉泰 p.20, p.29 段落18, p.5
    • [151] ドー・クアン・チン (Đỗ Quang Chính) の校注 (): Gia Thái の誤り。
  • [150] y~1487 Quang Hưng クアンフン 光興 p.20, p.29 段落19, p.5

[152] 越南語Wikipediaが使っている現行の綴字と比較すると、 嘉泰のほか、大宝と光宝の「宝」の綴りが異なります。

越南における一世一元制

一世一元

代始改元の時期

代始改元の時期

越南における中華王朝の元号

[348] 越南はたびたび漢土の王朝の支配を受けてきました。 そのため越南史の研究のための年表では、 ただ越南の元号を並べるだけではなく、 漢土の元号も記載したものが望まれます >>296

[349] 漢土の統一国家のない時代には、特に漢土南方 (地方など) を統治していた国家の元号が重要となります。

元号と外交

[262] 前黎朝皇帝を称して元号を建てましたが、 それを知ったはこれを非難しました。 元号制定権 >>261, >>196

[263] 越南側は元号に限らず、と対等に接しようとしていました。 しかしやがては貿易等の実利を取って冊封体制を受け入れました。 それでも使節を国境から中に入れないなど、 皇帝号や元号中華王朝側に見えないよう情報を制御していました。 >>196

[265] 情報統制の結果、 宋史 には後李朝の第3代が初めて皇帝を称し元号を建てたように書かれたり、 玉海 には李朝の33の元号のうち6つしか掲載されませんでした。 >>196 (四庫全書大越史略提要)

[264] 阮朝の時代になっても、 に提出する文書から越南の元号を削るような辻褄合わせが行われていました。 協和

私年号

[270] 越南の私年号はほとんど知られていません。 これが制度や文化の違いに由来するものなのか、 未発見なだけなのかはよくわかっていません。

[271] 現代の私年号として、賦重が知られています。

越南元号研究

[174] 越南地域は中華王朝の統治下にあったり、独自王朝を立てたりの繰り返しでした。 そのためなのか中華王朝正史や他の史書等では越南 (安南) は外国・外藩扱いだったりして、独自の元号の情報はあまり充実していません。

[267] 資治通鑑 には越南側で越南王朝扱いされる国の元号の一部が (中華王朝からみた反乱事件の記事として) 収録されています。

[266] 宋史玉海には越南の元号のごく一部が収録されています。 (>>265)

[190] 歴代建元考には外国の部に一部の越南の元号が収録されています。

[191] 紀元編には外国の部に越南の元号が収録されています。

[213] 欧亜紀元合表には越南の各王朝の皇帝と元号が収録されています。

[175] 中国歴代年号考では越南 (や日本朝鮮) の元号は対象から除外されています。

[176] 日本でも文明の中心地としての中華王朝元号を自国と対比するようなことがあっても、 比較的交流の少ない越南元号を題材としたものはほとんどありませんでした。

[212] 日本の書籍に収録された 安南史󠄃詩 は、越南の歴代皇帝などをまとめた漢文で、 元号も注記されています。 >>211

[197] 近代日本日本政府宮内省の研究者吉田増蔵年号索引 には越南の元号も収録されていたようですが、 残念ながら一般公開はされていません。

[215] 日本で発行された越南の通史は、 本文で越南の史書と同様に干支年元号年を書き、 改元記事もあります。 更に巻末には皇帝元号一覧があります。 >>214 一覧は基本的に大越史記全書などの即位紀年元号を踏襲しているようですが、 一部怪しい箇所 (西暦年の誤記らしき部分) もあります。

[207] 近世日本の研究者は、 鎖国政策のため越南の情報があまり入ってこなくなったためもあるのか、 日本の元号にも漢土の元号にもない謎の元号安南に区分するようなこともありました。 近宝

[1591] 教科書裁判への関与で知られる大学教員の矢沢康祐 (-) 共産主義系教員団体の歴史教育者協議会の機関誌歴史地理教育に寄稿した記事があります。 >>1589 この記事は昭和の元号危機の頃に元号存続に反対する立場から元号の歴史をまとめたものです。 全4ページがおよそ3分されて中国本土朝鮮半島越南の事情が語られています。 中国本土越南の大部分が元号廃止の経緯に割かれています。 内容は政治活動の素材として寄せ集められたに過ぎず、 学術的には見るべき所がまったくありません。

[177] 越南本国では史書がいくつか作られ、そこに歴代の元号も収録されています。 しかし仏国の植民地支配の時代と独立後の戦乱の時代が長かったためなのか、 それらの時代に漢字元号が廃止された文化的断絶の影響なのか、 元号の研究はまだまだ未着手の領域が多いようです。 歴史学, 暦法, 貨幣の研究の一環としての元号の研究は20世紀の越南や周辺諸国で多少は行われてきたものの、 元号を中心とした研究はほとんど行われてきませんでした。 >>196 そのような状況のため、 越南の元号の情報は21世紀初頭まで入手困難で、 元号一覧のような簡易的なものがあればいい方でした。 >>157

[347] 越南の研究者によると、 21世紀初頭の時点でいくつかの年表類があって越南の学界で利用されていましたが、 元号皇帝の異動などに誤りが多いものばかりでした。 >>296

[226] 20世紀の終わり頃、越南の研究者らが金石銘を使って史書記載の莫朝時代の元号情報の誤りを訂正する研究を行いました。 (>>222)

[180] 中華民国台湾の研究者が朝鮮越南元号を比較した日本語 (台湾正体表記) 論文を発表しています。 >>402 中華王朝の周縁国家の元号というテーマでこの2つの国を選んだのでしょうが、 PDF で全22ページあるうち、 越南は本文3ページ弱、 付表3ページ余りに過ぎず、 その本文も1ページ分が越南の王朝の興亡を概説したものです。 付表は 角川世界史辞典, から作成したという元号一覧で、 皇帝名と元年年次が示されているだけのものです。 分量でも内容でも朝鮮がメインで、 越南はどちらかといえば蛇足感が否めません。 学術的な評価は高くありませんが >>196, >>202、 これでもウェブ上では少ない貴重な情報源の論文でした。

[183] 一覧には数個、他に掲載のない元号名または元年が現在の通説と異なるものがあります。 類似した元号の誤記と思われますが、 本論文と角川世界史辞典、或いはそれ以前のいつの時点で発生したものかは不明です。

[35] 実はこの論文朝鮮半島部分と越南部分は、それぞれ非常によく似た構成、 内容、文面の先行する文獻が日本昭和時代に (まったく別の人物によって) 発表されていました。 朝鮮とベトナムの年号についての一考察 だとすると本論文の貢献は、 (倫理的評価を置いておくことにすれば) それを早い時代にウェブに公開したことくらいになります。

[36] そのことを今まで誰一人指摘していないというのも、 この分野に閑古鳥が鳴いている証拠です。

[365] 平成時代日本で制作された近代諸元号現象は、 大韓帝国の元号の章で越南の元号に触れています。 >>364 ただ、 台湾大韓帝国満州国中華帝国蒙古は各1章が割かれているのに、 越南は1段落だけしかありません。

[186] 平成時代末期の日本で発行された日本年号史大事典は、 コラムとして、 越南の元号一覧太平 () から保大まで掲載しています。 元年皇帝が記載されています。 平成13年の角川世界史辞典と平成20年の >>402 を参考に作成したとされています。 >>185

[187] >>402 と比較すると天徳 () がこちらの表にはありません。 他は >>402 の不審点も含めて踏襲しています。 こちらの表は治世途中の改元は「神宗5年」のような即位紀年で時期を記述しています。
[34] 巻末の年表は越南の元号についてはコラム参照となっていて、 いくつかを備考欄で紹介する程度です。

[179] 平成時代中期頃に各言語版Wikipeida越南の元号の一覧や個別記事が整備され、 ようやく世界中でその情報が簡単に得られるようになりました。 Wikipediaの日時関連記事

[198] 越南人の研究者が元号諡号廟号漢字についての越南語の論文を発表しました。 この論文は元号名漢字の用法を簡易的に分析していました。 ただし元号の章の大半は中国の元号における漢字の用法の説明に割かれていて、 越南の元号については元号名の文字数や同名別時代元号を列挙しただけに留まっています。 >>193

[199] 越南人の研究者が越南の元号の制度の歴史、 改元の時期と理由、 元号名の出典といった基礎的な事項をまとめた日本語の論文を発表しました。 >>196 関連: 元号名, 代始改元

[203] 越南人の研究者が越南の元号漢字の利用頻度や元号名から垣間見える思想を検討した日本語の論文を発表しました。 >>202 には越南語版が発表されました >>230 関連: 元号

[204] これら以前に越南では「年号史」という研究分野は確立されておらず >>196, >>202、 ほとんどはじめて元号それ自体を中心的テーマとした画期的な研究といえます。 とはいえ他地域の元号と比較すると未だごく初歩的なレベルに留まっており、 今後の深化が期待されるところです。

[205] なおこれら日本語論文が掲載された媒体日本令和改元と関連してこの時期に発行されることになったもので、 そこに掲載された論文の研究内容が改元きっかけとは言えないにせよ、 異国の改元が契機となって越南の元号の研究も進展するのは興味深い巡り合せであり、 喜ばしいことでもあります。

[316] なお >>203 の論文も内容はともかく、 文献の引用には年数の誤りや URL の誤りなど問題が多く、 Wikipedia の丸写しのような怪しげなウェブサイトまで参照しているのは、 本項および関係各項の関係箇所で注記している通りです。 和訳も意味が取りづらいところや細かな誤記が多く、 越南語版と比較しながら読む必要があるのは残念な点です。 (特に、越南語の参考文献の題名が日本語でしか書かれていないのは、 引用文献に到達するのを困難にしています。 なので越南語版の引用も間違っているのは困ったものです。)

[317] 専門誌なので編集者はあまり口を出さないのかもしれませんが、 特集記事なのですから、 このような表面的な問題くらいはどうにかできなかったのですかねえ。 せっかくの研究なのにもったいない。

[206] 漢字文化圏の周縁としての日本越南 (や他の諸地域) の元号の在り方の比較分析は、これまでほとんど行われていないものの、 日本の法制史や文化への理解を深める意味でも重要と思われます。 日本の元号の研究の蓄積を応用した越南の元号の研究に手を伸ばす日本人研究者も、 この機会に増えてほしいものです。

[325] 越南の元号は年表や研究によって出入りがあります。 に148個とされ >>193にも踏襲されていますが >>196、 個数だけで一覧が示されておらず数え方は不明です >>202 統計については元号も参照

[337] そのの論文と同じ書籍に、 論文著者が協力者としてクレジットされている元号一覧 (年表) があります >>336 が、その一覧にある越南の元号 (日本の漢字字体) は139個です。 ただしこの一覧には誤植らしき箇所や怪しげな記載も含まれています。 (ところでその一覧の製作者は同書の編集部で、 越南以外は収録論文著者らが協力したとは書かれていません (歴史辞典などが出典に挙げられています)。 この点を取っても越南の元号の研究が立ち遅れていることがわかります。)

[326] , の研究では一覧を示して140個とされています。 >>202, >>230

[334] しかしそのリスト、丁朝1の太平 () を次の皇帝も踏襲して丁朝2の太平 () を使ったとしています。これが出典の >>332 の説なのかどうかわかりませんが、 他書等にない独自説で、どれだけの根拠があるものなのか不明です。

[157] 紀元・暦法を集めるスレ, https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/180-181

181 :世界@名無史さん:03/07/28 18:01

私も昭和→平成のときにあるミニコミ誌に年号の蘊蓄を書いたのですが、 ベトナムの年号については、三省堂のコンサイス世界年表より詳しい資料が入手できず、 「ベトナムでも6世紀から年号が制定され使われた」としか書けなかったことがあります。

[189] 元号 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0

1945年にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム民主共和国(1945年 - 1976年)の成立に伴い君主制が廃止されると、元号も全廃され、公用年号は西暦に統一された。しかし、 を非公式の紀年法として使用した例がある。

... を雑にコピペして生まれたデマか?

年号銭

[223] 他の東洋諸国と同様に越南の王朝も年号銭を発行しました。 年号銭

越南皇帝即位紀年

[158] 越南皇帝即位紀年も使われることがあります。 主に史書でみられます。

[181] 越南でも古い時代には干支年即位紀年が使われたと説明されます。 >>402 #page=14 しかし干支年はともかく、即位紀年が使われたとする根拠は提示されておらず、 実用されていたのかはよくわかりません。

[360] 金石文で実用される即位紀年は1例あります (>>233)。 その他の時代にも実用された可能性はありますが、 史書の便宜上の紀年法に過ぎないと思われるものもあります。

[361] 即位紀年の実態については元号以上に研究が少ないようです。

史書の即位紀年

[338] 越史略 は古い時代は中華王朝の元号で記述していますが、 丁朝以後に越南の元号即位紀年を使っています。 後の時代の史書には出て来ないような即位紀年もみられます。

[339] 越史略越南の元号の年代も後続の他の史書と違う説を採っている場合が多いです。 >>340

[344] >>343 の表は英武昭聖の項に誤引用あり、出典ウェブページと不一致。


[160] 大越史記全書 (外紀, 本紀, 続編) は干支年越南の元号または即位紀年、 (小書き) 支那の元号、 本文、 のような形式を採用しています。 南方の史書にみられる干支年を重視する書き方です。 涇陽王以来、伝説を含む歴代君主の即位紀年が (元号のない時代に) 使われています。

[161] 涇陽王大越史記全書に「壬戌元年初」とあります。

[166] 同様に安陽王即位紀年南越5代の各即位紀年徵王即位紀年士燮即位紀年、 があります。 それらの間の時代は中華王朝の統治下にあり、 干支年中華王朝の元号だけで独自の紀年は示されていません。

[165] 前李南帝李賁越南独自の最初の元号建元しましたが、 それ以前は即位紀年が使われています。

[167] その後は趙光復, 後李南帝李佛子即位紀年, 越南呉朝のうち3代の各即位紀年があります。 ただし呉朝のうち楊三哥簒奪扱いのため干支年楊三哥即位紀年を併記する例外的な形式になっています。

[168] 先皇帝丁部領の最初の元号建元前は即位紀年が使われています。

[162] 涇陽王 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%87%E9%99%BD%E7%8E%8B

以「壬戌年(公元前2879年)」為元年。

阮伯卓《皇越甲子年表》凡例:一,謹按我越鴻龎氏起於壬戌年(西曆紀元前二千八百七十九年),是在中國黃帝(甲子元年)之前一百八十三年。

[164] 欽定越史通鑑綱目 には 「甲辰,蜀安陽王元年,周赧王五十八年」 以来の各年が書かれています。 >>163

[69] 欽定史書の大南寔録は、 阮朝の皇帝即位以前を、 半独立政権の広南国の長阮主 (阮朝皇帝家の祖先) の時代は阮主即位紀年を使っていました。 >>116, >>68 即位の翌年を元年としていました。 >>116 まで続きました。 >>72

[71] 広南国の滅亡の後、阮朝の成立までしばらく空白時期がありますが、 初代皇帝の世祖阮福暎の即位紀年が使われています >>70, >>122が「世祖攝政元年」とされます。 >>120, >>72

[116] 大南寔錄/大南寔錄前編/凡例 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8D%97%E5%AF%94%E9%8C%84/%E5%A4%A7%E5%8D%97%E5%AF%94%E9%8C%84%E5%89%8D%E7%B7%A8/%E5%87%A1%E4%BE%8B

一,國初年紀用黎年號,今遵欽定萬年書,各于繼統之明年起書元年,而黎與明、清年號,分注其下,以徵世代,明統紀;

[73] 元号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E5%89%8D%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%BA%80%E5%B7%9E%E3%81%A8%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%EF%BC%88%E8%B6%8A%E5%8D%97%EF%BC%89

ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において中国の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。ベトナム阮朝では、南ベトナムの広南阮氏の正史編纂に際し、阮氏歴代の廟号 + 干支、中国の元号と大越(北ベトナムの黎朝)の元号の三つを併記した。

Wikipedia の即位紀年

[47] 韓国語Wikipedia越南の各皇帝の記事に、 即位年を元年とする紀年と、 元号西暦との対照表を掲載しています。 (例えば: >>48, >>49, >>50)

[52] 黎朝黎愍帝の3年 () まで確認できます。 >>51 莫朝, 西山朝, 阮朝の記事には確認できません。 一世一元阮朝はともかく、 莫朝西山朝に付していない理由は不明です。

[169] 治世の途中で改元した皇帝は少なく、ほとんどの即位紀年元号は年数が一致しています。

[53] 半独立政権の鄭氏政権の長鄭主の記事には、 対照表はありません。

[54] 半独立政権の広南国の長阮主の記事には、 対照表があります。 大南寔録が参照されています。 >>52, >>53, >>54, >>55, >>56, >>57, >>58, >>59, >>60, >>61, >>62, >>63 ただし最後の新政王は元年だけのためか、 掲載されていません >>64

[67] 阮主在位と同時期の元号記事の対照表には、 僊主から新政王までの阮主即位紀年が掲載されています。 >>65, >>66

[121] 大南寔録と比較すると、Wikipediaには新政王があり、 世祖攝政がありません。

建国紀元

[5] 越南帝国の崩壊後に成立した各政府は、 当初従来の皇帝元号のかわりに建国紀元を使いました。

[7] 北ベトナム硬貨は原則的に4桁西暦年アラビア数字が記載されていましたが、 「NAM II」 (越南民主共和2年) と併記されたものも1種類確認されています。 越南民主共和

[269] しかしいつの間にか西暦年が公用されるようになり、 建国紀元はあまり使われなくなりました。 (公式に廃止されたのかは不明。)

[345] こうした建国紀元は非公式、私年号だとする解説もありますが、 少なくてもある時期に於いて公用されたとのことですから (政府が私年号で貨幣を発行するというのはおかしいでしょう)、 適切な説明ではありません。 越南共和, 越南民主共和

干支年

[346] 東アジアの他の地域と同じように、 干支年がすべての時代に使われていたようです。 単独で使うことも、 元号年と併記されることもありました。

[362] 干支接頭辞もしばしば使われます。

[25] 中華民国を拠点に活動した越南民国光復軍軍票には (低画質のため判読しづらいですが) 「壬子年 月 日」 (楷書) とあるようです。 >>17 のものと思われます。

その他

[354] 仏教徒は仏暦の1種も使っています。

[353] 伝承上の建国に基づく雄王紀元が、国外の越南人コミュニティーなどで使われています。

[355] 在日越南人を中心とする日本越南語話者のコミュニティーでは、 行政関係を中心に、日本の元号も使われています。 元号名越南語漢字音に基づき読まれることがあります。 元号名

日時形式

[29] 金石文書籍には通常の東洋の日時表示が用いられることが多いです。

[30] 史書には干支元号年形式が用いられることが多いです (特に帝紀の記事の先頭の日付)。 本文中には通常の東洋の日時表示の形式もままあります。 干支元号年形式

[356] 現代の越南語国語表記では越南語の語順で年月日を表記するため、 漢文大エンディアン年月日とは逆の小エンディアンになります。

[357] 越南語による日本の元号年月日越南語の語順で表記されます。 元号名

時刻

越南の標準時

祝日

越南の祝日

漢以前の時代

[227] 伝説では越南は5000年前の赤鬼国, 文郎国に始まるとされますが、 その時代の日時制度は明らかではありません。 雄王紀元はその初代から数えた建国紀元ですが、 後世になって創設されたものです。

[274] 大越史記全書では初代涇陽王の元年の干支年とそれが何年前かを書いているだけで、 何代続いたのかもよくわかりません。

[273] この時代は18代の王がいたと伝承にあります。 中文维基百科は18代の王の名前を挙げて、 出典を日本昭和時代の越南の通史としています。 >>272 その歴史書は出典を明記していません。 >>275 元々越南の史書か何かに由来するはずですが、 どこに書かれているのでしょうか。

[276] この18代の王の年代がいくつかのウェブページに掲載されています。 例えば >>277

Kinh Dương Vương (涇陽王): 2879 – 2794 TCN (số năm trị vì là ước đoán). Húy là Lộc Tục (祿續).

Hùng Hiền vương (雄賢王), còn được gọi là Lạc Long Quân (駱龍君 hoặc 雒龍君 hoặc 貉龍君): 2793 – 2525 TCN. Huý là Sùng Lãm (崇纜).

Hùng Lân vương (雄麟王): 2524 – 2253 TCN

Hùng Diệp vương (雄曄王): 2252 – 1913 TCN

Hùng Hi vương (雄犧王): 1912 – 1713 TCN (phần bên trái chữ “hi” 犧 là bộ “ngưu” 牛)

Hùng Huy vương (雄暉王): 1712 – 1632 TCN

Hùng Chiêu vương (雄昭王): 1631 – 1432 TCN

Hùng Vĩ vương (雄暐王): 1431 – 1332 TCN

Hùng Định vương (雄定王): 1331 – 1252 TCN

Hùng Hi vương (雄曦王): 1251 – 1162 TCN (phần bên trái chữ “hi” 犧 là bộ “nhật” 日)

Hùng Trinh vương (雄楨王): 1161 – 1055 TCN

Hùng Vũ vương (雄武王): 1054 – 969 TCN

Hùng Việt vương (雄越王): 968 – 854 TCN

Hùng Anh vương (雄英王): 853 – 755 TCN

Hùng Triêu vương (雄朝王): 754 – 661 TCN

Hùng Tạo vương (雄造王): 660 – 569 TCN

Hùng Nghị vương (雄毅王): 568 – 409 TCN

Hùng Vương là ai và lịch sử các Vua Hùng: 1 vị vua Hùng

Hùng Duệ vương (雄睿王): 408 – 258 TCN

とあって、コピペ同文が他のいくつかの頁にあります (どこが元祖なのかは不明)。

[278] >>277 には

Theo Đại Việt Sử ký Toàn thư, tính từ thời Kinh Dương Vương (2879 TCN) cho đến hết thời Hùng Vương (năm 258 TCN) kéo dài 2.622 năm. Nhà nước Văn Lang tồn tại đến năm 258 TCN thì bị Thục Phán (tức An Dương Vương) thôn tính. Theo Nguyễn Khắc Thuần trong “Thế thứ các triều vua Việt Nam” thì 18 vị vua Hùng là:

と書かれていて、 Nguyễn Khắc ThuầnThế thứ các triều vua Việt Nam が出典だとのことですが、 ウェブページで公開されている同書 >>282 には18代の王名しかなく、年がどこから来たのかは不明です。

[284] 日本語ウィキペディアにも同じ18王の名前と年代のリストがあり、 それもThế thứ các triều vua Việt Namが出典だと述べています。 >>283

[286] English中文Wikipedia には18王は実は18王朝だとする学説を紹介していて、 そちらに18王説でいわれているのと同じ年の範囲を王朝の年の範囲として書いています。 >>285, >>272

[287] 初代以外の即位紀年の用例は見当たらず、近代の年表類にも出てこないので、 17代の年代は現代の研究者が提唱した学説に由来しているのかもしれません。


[228] 次の甌雒国の時代の紀年法は史料がなく不明です。 >>196

[235] 大越史記全書では干支年即位紀年の併記が使われています。

[229] 次の南越国の時代には即位紀年が使われました。 >>196

日時事例

[319] 20世紀後半の越南の研究者による 越南の年表 >>310 は、 建徳 (西暦紀元前111年, y~3827) を最初の越南の元号としていました。 >>202 (>>313)

[320] しかし 越南史記全書 によれば、 南越国の最後のである術陽王は、 1年在位、 が元年 (y~3783) でしたが、 そのが建德でした。

[323] >>202 に趙明王が術陽王の長男とあるのは誤りで、 術陽王が明王の子。

[321] そのため建徳は王の名前であって元号でなく、 よって建徳が最古の元号とは確認できないとされています。 越史略 にもこの元号はありません。 >>202

[322] 術陽王趙建徳の名前が誤って元号とみなされたのでありましょうが、 歴代南越王のうちなぜ最後の建徳だけが誤認され、 最初の元号となったのかは謎です。 とはいえ確かに他の歴代王の諱は1文字だったり、 2文字でも元号らしさがなかったりするのですが、 建徳はその後の時代に各国で実際に元号として使われるほど元号らしさがあります。

中華王朝統治時代

[236] 南越国が滅亡して前漢に併合されると、 北ベトナムはしばらく中華王朝統治時代になりました。 魏晋南北朝時代を経て五代十国時代の南漢まで、 混乱の時代にたびたび自立の動きがありながらも短命に終わり、 中華王朝の統治する一地域に留まりました。

[252] この時代の北ベトナムでは中華王朝の元号が使われました。 出土文物からも確かめられます >>196

日時事例

[245] 中華王朝の力が弱まった時代には越南で使われた元号にもその混乱が反映されました。

日時事例

[250] 隋末、 北ベトナムにはが滅亡してもそれが伝わらず、 交趾太守の丘和䔥銑 (元号: 鳳鳴) への抵抗を続けましたが、 の滅亡を知ってに朝貢することに決めました。 ところが䔥銑に破れたことを知り、 に従うことを決めました。 >>196

[251] 越南九真郡黎氏延長年号石碑 (>>246) を作ったのは、義寧改元を知らなかったのか認めなかったのかのいずれかであり、 丘和黎氏䔥銑と争っていたことから後者と推定されています。 >>196

[244] 越南の史書では中華王朝統治時代は干支年中華王朝の元号の併記で記述されています。


[253] 文帝の時代に北ベトナム交州で建立された舎利塔の銘文に隋の元号があります (>>254)。 この解釈について、

の2説があります。 >>196

日時事例

[260] 五代十国南漢元号銘の鐘が北ベトナムハノイで発見されています (>>258)。 ところが既にに当地の呉権南漢の初代皇帝劉龑に勝利し、 その影響力を交州から排除していました。 呉権やその後継者はを称していました。 そのため、 紀年法として南漢元号を利用していても、 支配を示すものではないとされています。 >>196

日時事例

莫朝

[178] 越南南北朝時代越南には黎朝莫朝 (など) がありました。 最終的に黎朝が勝利したため、 その後莫朝は非正統王朝として低く評価されてきました。 元号その他の莫朝の制度史も長く軽視されてきました。 >>196, >>296

[222] 20世紀も終わり頃になって、 莫朝時代の金石文などから元号を整理して、 元号から当時の情勢を検討するような研究がなされるようになりました。 >>196 (>>221, >>217)

[224] それ以前から莫朝を扱った研究がなかったわけではありませんが、 Đoan Thái (端泰), Hồng Ninh (洪寧), Long Thái (隆泰) が欠落していたり、 改元日が記述されていなかったりと、 不正確なものでした。 >>216

[225] 光宝元年と利用期間が間違ったまま信じられていて、 それを元に延長年号や年号の誤りとみなした研究は誤った前提によるものでした。 >>216

[350] 王朝の正閏論のようなものと無縁となった現在、 越南の一定の領域を一定の期間統治し続けた莫朝を無視するのは適切とはいえません。 越南史を扱う年表や変換ソフトウェアなどは、 南北朝のどちらも同じように扱えるのが便利でしょう >>296

黎朝

開国間もない順天元年には早くも、

旨揮自詔書出日以後、凡軍民詔書内年號・國號・都號違者、以杖・貶論。其買賣・交易・借貸文書・契券、不依詔書 内者、不用。(『全書』一〇 順天元年(一四二八)四月十七日の条)

と新生王朝の成立に合わせて、詔書の出た後は年号・国号・都号を誤った者は「杖」・「貶」で裁かれること、買売・交 易・借貸の文書や契券も詔書の年号・国号・都号を使用せねばならないとしている。

(明朝体)

仏国統治時代

漢文 (元号越南暦) ・仏文 (キリスト紀元グレゴリオ暦) 併記

日本の仏印進駐

[41] 大東亜戦争期、 日本軍仏印進駐しました。 そのため越南域内で多数の日本人が生活しました。

[358] 日本軍と関係者は中央標準時昭和, 皇紀のような日本の日時制度を使っていました。 大東亜の標準時

[359] 日本軍が駐留していても、 阮朝、 および仏印処理までは仏印政府が従来通り存在していましたので、 両政府および一般の住民は従来通りの日時制度を使っていました。

チャンパー

チャンパー式干支年

ターイ人

[268] https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7857&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 #page=5

ヤオ族

ヤオ族の日時

メモ

[8] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

嘉隆乙丑年(一八〇五)

[9] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

景興萬萬歳〔實際は四三年(一七八二)〕の序一葉あり

[10] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

扉に「啓定辛酉六年(一九二一)/樂生心得/敬書」を墨書。龍飛壬戌年(一八〇二)荷月の南驩・阮衡「樂生心得序」半葉あり、本書を著すと記す。

[12] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

書末に「運氣經絡總圖各/保大拾年(一九三五)陸月拾五日初起」の書き入れあり。

[13] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

扉に上段横書きで「大南嗣徳丙子(一八七六)夏重刻」

[14] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

三三葉末尾に「己丑年(一八八九)夏孟月選寫」と記す。三四葉に「庚寅年(一八九〇)夏仲月吉日」と題し、

[15] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

書末に乙丑年五月十二日・戊辰年六月十二日・己卯年六月二十八日・庚戌年正月六日・壬寅年正月八日の記年あり。

[16] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

書末の三七葉ウラに「明命御製醫家略問卷終/申年六月日抄寫」と墨書。

[6] 啓定

[18] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

書末に「乙酉年冬月戊子崑山鎮玉陸琮敬序」と記す。

[19] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

末尾に「旹/黎朝景興萬萬年歳在辛巳(一七六一)鞠月福生日重刊識。中都槐樹坊福洪(ママ)寺本/來和尚撰獲刊記」の刊記あり。

[20] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

末尾に「辰丙寅一八六六季秋之六日、英川裴叔貞誌」とあり

[21] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

そのウラに「旹/嗣德十二年(一八五九)夏月吉日新鐫」の刊記。

[22] ベトナム漢喃研究所の古醫籍書誌 (mayanagi makoto著, ) http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/hannom.html

書末に「黎順天己酉年(一四二九)菊月穀日書成/陳光泰丙子科太學生潘孚先撰」の識語。

[23] べトナム独立宣言(和訳付き) (垂水源之介, , ) https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030805viet-nam.html

[26] ベトナム式日付の書き方 | ベトナム生活情報サイト VIETJO Life(ベトジョーライフ) (Vietjo Life, ) https://life.viet-jo.com/howto/life/38

[27] ベトナム語の曜日の表現 ~第1日曜日ってどう言うの?~│ベトナム生活情報サイト、VIETJO Life(ベトジョーライフ) (Vietjo Life, ) https://life.viet-jo.com/howto/vietnamese-language/394

[28] ベトナム語で数字言える?~慣れれば簡単!読み方の法則~│ベトナム生活情報サイト、VIETJO Life(ベトジョーライフ) (Vietjo Life, ) https://life.viet-jo.com/howto/vietnamese-language/445

[31] https://ir.soken.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=5301&item_no=1&attribute_id=19&file_no=2 #page=12

[153] 三千字解音 - 维基百科,自由的百科全书 (, ) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%83%E5%AD%97%E8%A7%A3%E9%9F%B3

原本共49頁,書皮中間有書名《三千字觧音》,右邊寫有印刷年代「皇朝辛卯年孟秋上浣新刊」,左邊寫有印刷地點即「富文堂藏版」。

[154] Consultation, https://archivesetmanuscrits.bnf.fr/ark:/12148/cc95707n

其餘幾種印本均為富文堂明命辛卯年(1831)印本。,四周單邊。扉頁正中題書名“三千字解音”,右側題“皇朝辛卯年孟秋上浣新刊”,左側題“富文堂藏板”。

[155] Trung tâm Triết học, Văn hoá và Xã hội Ðại học Temple, http://mlp.cs.nyu.edu/nlv/lib/hn/R.0468/001/nlv_hn_R.0468_001.php

Column 1 皇朝辛卯年孟秋上浣新刊

– Quốc ngữ Hoàng triều Tân mão niên mạnh thu thượng hoán tân san

[156] 牢獄の人々, アンドレ・ヴィオリス, 安倍靖 訳, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1132686/1/123 (要登録)

[37] bchnctd 300623.pdf, , http://www.hannom-rcv.org/NS/bchnctd%20300623.pdf#page=2

委班復生漢喃越南 Uỷ ban Phục sinh Hán Nôm Việt Nam

𣎃5𢆥2022 Tháng 5 năm 2022

河內 Hà Nội

[38] >>37越南語漢字表記の復興を目指すグループ。

[39] >>37 の #page=191 に「𢆥」、 #page=282 に「𣎃」

[40] 討論:張正 – 韋那威其(VI-NA-UY-KI)・委班復生漢喃越南, , http://www.hannom-rcv.org/wi/index.php/%E8%A8%8E%E8%AB%96:%E5%BC%B5%E6%AD%A3

20:12, 次𦉱, 𣈜10𣎃6𢆥2017 (ICT)

𠓨𣅶 11:48, 主日, 𣈜17𣎃12𢆥2017‎。

[363] 嗣德 – 韋那威其(VI-NA-UY-KI)・委班復生漢喃越南, , http://www.hannom-rcv.org/wi/index.php/%E5%97%A3%E5%BE%B7

阮福洪任生𣈜25𣎃8𢆥己丑(即22𣎃9𢆥1829)在化、