神武天皇即位年異説

神武天皇即位年異説

[2] 日本史年表等では古くから「神武天皇即位から何年」型の経過年数表示が使われてきました。 また、神武天皇の即位年がいつであるかの説明がしばしばなされてきました。

皇紀, 天皇即位紀年

辛酉説

[1] 辛酉年は日本書紀神武天皇即位年で、 日本書紀の神武天皇元年です。

[4] 明治時代の法令で定められた現行皇紀の元年はこれと一致しています。

[25] 日本書紀および現行法によれば西暦紀元前660年辛酉に当たります。

[5] つまり奈良時代明治時代の政府の公認説であります。また、奈良時代から現在に至る通説ともいえます。

甲寅説

[3] 甲寅年は日本書紀では神武東征の出発の年で、 日本書紀本文 (神代を除く。) の最初の年でもあります。

[24] 日本書紀によればに当たります。

[16] 天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記 >>11

[17] 伊勢二所皇御大神御鎮座伝記 >>11

[18] 元元集代八巻御遷幸指図 >>11

[19] 神皇実録 >>11

[20] 重校神名秘書 >>11

[21] 麗気記 >>11

[26] 江戸時代吉見幸和 (-) は、 五分書説辨御鎮座次第記 などの甲寅説を偽作と厳しく非難しています。 吉見幸和神道五部書偽書説 (現在の通説) の提唱者でもあります。 >>23 p.八一八

[22] 昭和時代の友田吉之助は、 和銅時代の旧日本紀が神武天皇元年を甲寅年とし、 養老時代の現存日本書紀が神武天皇元年を辛寅年に改めたと主張しました。 また、甲寅年説は顓頊暦と関係しているとしました。 異種干支紀年法説 >>11

その他の説

[47] 神武天皇の即位年から何年という数え方は、 鎌倉時代初期の愚管抄や、 南北朝時代神皇正統記で使われました。 >>54

[284] 二中歴にも経過年数表示があります。

[9] 濫觴抄本朝年号 >>11

同(継体天皇)十六年壬寅善記元年或記云。元年壬寅㠯前一千百七十八年。無年号。云云。今案。従神武元年辛酉至継躰十五年辛丑。千百七十一年歟。 但甲寅年神武即位之説在之。若據此説。一千七百七十八年歟。

[14] 関連: 口遊

[12] 継体天皇16年壬寅は皇紀1182年。その1171年前は皇紀11年辛未。辛酉まで10年の計算ミス。

[13] 1178年前だとすると皇紀4年甲子。1778年前でも甲子年。辛酉と甲寅の差が7年は正しい。

[15] 天書では甲寅と辛寅の2つ元年 >>11

[27] 友田吉之助は当初論文で乙未年即位説を唱えていましたが、 その後の自著で撤回しました。 >>11

[8] 皇紀(神武天皇即位紀元) - Uyopedia http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E7%9A%87%E7%B4%80%EF%BC%88%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%B4%80%E5%85%83%EF%BC%89 (消滅確認 )
BC667年説
『倭姫命世記』『元々集』『天書』などは元年甲寅とする。これは日本書紀では東征軍が出発した年で日本書紀で最初に年代が記された年。
BC677年説
『宋史日本伝』には「神武帝、筑紫宮より入りて大和州橿原宮に居る。即位元年甲寅、周の僖王の時に当たる也」とあり。この甲寅は上記のBC667年とすれば僖王は恵王の誤り。僖王が正しいとするとこの王の在位期間に甲寅はないので甲辰が正しい。この場合はBC677年となる。
BC720年説
「竹内文献」は神武天皇の在位を60年長く見積もっていてその分即位した年も前になっている。
BC723年説
『海東諸国紀』には「周の平王四十八年、その始祖狭野、兵を起こして誅討、始めて州郡を置く」とあり。これはBC723年に当たる。
BC775年説
『神道原典』の説。『神道原典』は神武帝と綏靖帝の間に「芳武天皇」、孝元帝と開化帝の間に「二代孝元天皇」、仁徳帝と履中帝の間に「仁照天皇」がいたとするが、この3帝の在位期間の分で伸びているわけではない。詳細は不称天皇(未登録帝)をみよ。
BC1133年説
『霊素発輝』の説。この説では神武天皇・崇神天皇・清和天皇・明治天皇の4帝の即位元年がほぼ1000年周期となる。
数万年前説
萩野貞樹の私説。萩野貞樹は神武天皇を神話上の存在とした上で、その神話は数万年前から伝わっていたものとした。

関連

[28] 紀年法, 日本古代の日時

メモ