[2]
中華王朝では、ほとんどの期間、元号が使われてきました。
本項は歴史的事項を説明しています。本項の内容の一部または全部は、現在の状況とは異なるかもしれません。
(なお本項の内容の一部または全部は、互換性または歴史的連続性のために現在も有効な場合もあります。しかし新たに利用することは避けるべきです。)
[1] 漢から清までの期間は、ほぼ元号が用いられていました。
[539] ただし異民族王朝の成立直後の漢化前の時期には元号が建てられず、 在位紀年によることがあります。
[540] また、唐の安史の乱の頃には、改元されて元号が建てられなかった時期 (肅宗元年 (761年) - 2年) がありました。
[31] 元号制度成立前にも在位中に何度か改元した皇帝がいました。
[57] https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=51048&file_id=18&file_no=1
[17] Andrew West 魏安さんはTwitterを使っています 「The edict also provides the previously-unknown exact date of the death of Liú Hè, on the yǐsì 乙巳 cyclical day of the 9th lunar month (8th day of the 9th month of the 3rd year the Shénjué 神爵 era of Emperor Xuān = 6th October 59 BCE) [3rd fragment from the left: 九月乙巳死] 3/3 https://t.co/gb9XuYcWV1」 / Twitter, , https://twitter.com/BabelStone/status/1478343731594080259
[58] 晉書/卷040 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7040#%E6%A5%8A%E9%A7%BF
[90] https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/28215/files/159490 #page=23
初始
[27] 漢武帝は四元から元鼎に改元すると共に、一元-四元に名前を与えました。
これが元号の始まりとされています。
[18] 建元から元封までは、追号と考えられています。 これらの元号を使った紀年銘は、後刻または偽銘と考えられています。 >>236 (辛德勇等) ただし元鼎や元封には異説もあります。
[61] 太初は改暦・改年始と改元が同時であり、 当初から元号名が制定されていたと考えられているものの、 未だ出土品がなく未確定です。 >>236
[62] 武帝の最後の元号が後元であることも注目されています。 後元は元号とする説と、元号名のない紀年とする説があります。 確かに「後元」という元号名を“たまたま”治世最後に付けたというのは納得感がありません。 死去前の最後の時代が元号名のない時代だったとすると、 武帝の生前は未だ改元と同時に元号名を制定する制度が整っていなかったことになります。
[48] Kyoto University Research Information Repository: 漢武帝の年號制定に就いて : 雷海宗「漢武帝建年號始於何年?」の批判, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/145570
[23] 辛徳勇著『建元与改元 : 西漢新莽年号研究』, 目黒杏子, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240417/1/shirin_098_4_649.pdf
[52] 研究論集第8集_hyo1 - 研究論集 第08集.pdf, , http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/images/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%AB%96%E9%9B%86%E3%80%80%E7%AC%AC08%E9%9B%86.pdf#page=125
[49] 漢の時代には、まだ皇帝の即位紀年以外に諸侯の即位紀年が使われていました。 元号名の導入にはその差別化の意図もあったといわれます。
[11] 董珊教授:戰國紀年法的改革與年號的產生_腾讯视频, Tencent VFE Team, https://v.qq.com/x/page/g31597qijho.html
[65] 日蓮聖人遺文全集講義 第18巻, 大林閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1246427/1/106 (要登録)
[66] >>65 支那の年号は建元が最初ではない。 (じゃあどれ?)
[40] 後元 (漢武帝) - 维基百科,自由的百科全书 () https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%83_(%E6%BC%A2%E6%AD%A6%E5%B8%9D)
[89] https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/26990/files/ioc14901.pdf #page=39
[41] >>590 は武帝後元を「年号が付されない時期」 と解しています。
[42] 仮にこれが元々元号名でなかったなら、 次の昭帝の始元もいささかあやしい。
[69] 日本家庭大百科事彙 第3巻, 富山房百科辞典編纂部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1225461/1/716 (要登録)
[60] 三国時代になると漢土は3大勢力に分割して支配されました。 元号も3つ同時に建てられました。 元号の並立状態は新以来ですが、複数世代に亘って恒久化したのは史上初でした。
[91] 紀元・暦法を集めるスレ, https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/740-746
[76] 五代十国時代は旧唐領土周辺に十数国が乱立し、 自国の元号を建てたり、他国に臣従してその元号を使ったりしました。
[77] 荒れた時代の割には、政権の数が多いため複数の元号が並立しているだけで、 他の戦乱時代のような小規模な蜂起の元号がほとんど無いのがこの時代の不思議な特徴です。 分割統治されただけで各地域は安定していた、ということでもないでしょう。 現在に記録が残っていないだけで、 中小勢力の元号は他にもまだあったのかもしれません。
[78] 安定政権があれば、反乱があったときどんな元号を使ったかが記録され、 その後正史にも記述されることになります。 混乱時代にはそうした連絡が中央政府に届かなかったり、 届いても記録が後世に残らなかったりするかもしれません。 直感に反しますが、世の中が乱れているからといって記録に残る元号が多いとは限らないのです。
宋人馬永卿嘗謂“南唐自顯德五年用中原正朔,然南唐士大夫以爲耻,故江南寺觀中碑多不題年號,而但書甲子而已”,
[15] 明国の歴代皇帝は代始改元をしましたが、 それ以外で改元しませんでした (一世一元)。 そのため明の元号は長期間に渡るものが多いのが特徴です。
[72] ただし明清交替期の南明の元号はほとんどが短期間で終わり、 狭い支配地域でのみ使われました。
[64] http://repository.center.wakayama-u.ac.jp/files/public/0/2777/20180820140055270910/AN0007142538408.pdf
[51]
中華人民共和国では建国時に民国紀元から公元に改元され、
公暦が引き続き用いられていますが、
しばしば改暦、改元が提案されます。
[75] JOR_68_2_219.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/160359/1/JOR_68_2_219.pdf
[53] 通鑑綱目 は嗣聖を21年間継続し、神龍に接続しています。 則天武后の元号を飛ばしています。 >>7862
[20] 都立中央図書館: 年号迷路, http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_b72c.html
PDF 40ページ
また、『明実録』「天啓7年正月26日条」によると、次に差し出された書簡には、「皇帝」の二字が「汗」に改められていたという。ここでは、年号を「天啓」としていなかったことが問題視されているが、
[6]
支那王朝の影響下にあった周辺諸国でも一時期あるいは長期間、
支那王朝の元号が使われたことがありました。
[7] Kyoto University Research Information Repository: 史記漢書の一考察 : 漢代年號制定の時期に就いて () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/138707
[9] 中国と日本の元号制, 池田温, 日中文化交流史叢書 2 法律制度, 1997
という論文があって、池田温が元号の考案者に選ばれたきっかけになったそうです。
法律制度 (日中文化交流史叢書) | 池田 温, 劉 俊文 |本 | 通販 | Amazon () https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4469130427/wakaba1-22/
[10] 他に 東亜年号管見--踏襲・模倣をめぐって というのがあるようです。
[22] 熙寧 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%99%E5%AF%A7
乾隆帝は、偉大な祖父康煕帝の治世を超えてはいけないということで、乾隆60年
で息子の嘉慶帝に譲位、翌年は嘉慶元年となるわけです。しかし、乾隆帝は太上
皇帝として権力を維持し、宮廷内では引き続き乾隆年号を使用したというのです。
(ある大臣が、宮廷内では乾隆年号を引き続き使用することを提案し、乾隆帝が
承諾したということらしい:このあたり、典拠があやふやです)
なお1912年の中華民国成立以降も中華民国が提示した清室優待条件によって、清朝皇帝の称号を維持すること、皇帝をはじめとする皇族がそのまま紫禁城内に居住することが認められたため、しばらくの間城内では宣統元号が使われていた。また1917年には張勲復辟により皇帝に復位する事件も発生している。このため、この頃編纂が行われていた『清史稿』では、中華民国成立後の記事に関しても「民国」ではなく「宣統」が使われている。当然のことながら、中国国民党をはじめとする共和派は、この措置に対して激しく反発していた。
しかし、第二次奉直戦争の最中であった1924年10月、馮玉祥による突然の北京における首都革命で清室「優待条件修正案」の突き付けにより溥儀は皇帝の尊号を廃され、元号の使用も違法とされた。
国民政府は「清史稿」が中国国民党を「賊」として扱っている事、辛亥革命後に及んだ記事についても宣統の元号を用いている事(例えば清史館が設置された西暦1914年は中華民国では民国4年であるべきところを宣統6年と記されていた)、革命後も清朝復興と宣統帝復位を画策していた張勲や康有為の列伝が立てられていたことに対して強く反発した。
宣統三年十二月二十五日
[83] 20151207112446.pdf - jfl_043_023_039.pdf, http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/53875/20160528122853568728/jfl_043_023_039.pdf
[19] 中研院史語所 Institute of History and PhilologyさんはTwitterを使っています 「The IHP Archives possesses a collection of the Gu family's personal documents, a series of contracts regarding two properties in Beijing from the Qing to the early Republican era, including certifications, maps, newspaper clippings, and judicial records. 1/3 https://t.co/8ZiBz1HyA7」 / Twitter (午前0:05 · 2021年1月28日 , ) https://twitter.com/ihptaiwan/status/1354445380881006594/photo/1
[25]
[39] ノート:元号一覧 (朝鮮) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%3A%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE)
[43] Kyoto University Research Information Repository: 史記漢書の一考察 : 漢代年號制定の時期に就いて, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/138707
[12] ›¡4/‰gŒ{/’ÓŠ¹ - yosimoto.pdf, , http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/586pdf/yosimoto.pdf
[73] 資治通鑑系列: 資治通鑑前紀卷002, , https://good19850812.blogspot.com/2018/06/002.html
三十九年(戊戌、紀元五一五年)