泰昌

泰昌

[5] 泰昌は、明の元号の1つです。

西暦
西暦年
干支
干支年
万暦
万暦 (y~413)
泰昌1
泰昌 予定 (y~1829)
泰昌2
泰昌 実際 (y~440)
天啓
天啓 (y~598)
西暦
干支
己未
万暦
47
西暦
干支
庚申
万暦
48
泰昌2
1
西暦
干支
辛酉
泰昌1
1
天啓
1
西暦
干支
壬戌
天啓
2

[11] 明国の皇帝万暦帝 (神宗) が死去しました >>33

[35] この日を 「7月21日 (グレゴリオ暦8月18日)」 とする資料と 「7月20日 (グレゴリオ暦8月18日)」 とする資料があります。 7月丙申はで、 明万暦48年7月21日、 日本元和6年7月20日でした。 その辺の混乱に起因する誤りでしょうか。

[6] 泰昌帝 (光宗) が即位しました >>33

[39] 即位と同時に、 翌始に泰昌 (y~1829) と改元することが定められました >>1, >>4, >>12, >>33。 当時明国では即位時に翌年始の改元を定めるのが慣例化していました。

[36] 資料によって暦法を明記せず8月、8月1日、8月18日、8月28日と諸説ありますが、 どうやら同じ日を表すようです。


[7] 泰昌帝が死去しました >>33, >>37

[8] 天啓帝 (熹宗) が即位しました >>37

[38] 9月26日説もありますが、根拠は不明です。

[13] 泰昌帝泰昌元号の施行を待たずに死去したため、 慣例に従い天啓帝天啓の新元号を施行すると、 泰昌が宙に浮くことになります。 当時政府内には、

... の3案がありました >>40, >>2。 そのうち第2案が選ばれました。

[9] 即位と同時に、 翌始に天啓 (y~598) と改元することが定められました >>37, >>1明史には明記されておらずにどうあったか不明ですが、 先帝による泰昌 (y~1829) への改元はこれによって上書きされました。

[10] 更に、 から までを泰昌元年とする (y~440) こと (「改萬曆四十八年八月後為泰昌元年」 >>33、 「以是年八月以後稱泰昌元年」 >>37) が定められました。 >>1, >>3, >>4, >>12, >>2, >>23, >>20

[41] 、 このことが定められました >>37

[17] 天啓帝泰昌元年大統曆敕諭 を発し、そのことを定めました >>2, >>20

[42] 9月15日のこととする明史と9月20日付の敕諭があります。 明史は誤っているのでしょうか。それとも15日の決定を承けての20日の敕諭なのでしょうか。

[43] 9月6日の翌年始改元決定と15日ないし20日の泰昌改元まで数日ありますが、 第2案選択はいつ決定されたのでしょうか。6日時点で翌年始改元は決定していたのでしょうか。 それとも明史が慣例通りに書いただけなのでしょうか。


[18] これを受けて例年通り10月1日配布の準備をしていた 大明泰昌元年歲次辛酉大統曆大明天啟元年歲次辛酉大統曆 に改められました >>20, >>2 (>>20) が、わずか10日後では間に合わず、 11月1日配布となりました >>20

[22] 現存する大統暦の残欠で 「大明泰昌元年(1620)歳次庚申大統暦」 とされるものがあります >>19, >>20。 一部しか現存しませんが、 暦日の照合から (y~440) ではなく、 (y~1829) のものです >>20。 また 「大明泰昌元年歳次庚申大統暦」 との題名は後補です >>20

[21] 変更の指示が遠隔地まで行き届かず 大明泰昌元年歲次辛酉大統曆 が印刷され民間に流布されたこともあったのだろうと考えられています。 >>20, >>2 (>>20)


[30] 泰昌帝の治世に実際には泰昌元号はまだ使われていなかったのですが、 死後になって約2ヶ月遡って泰昌 (y~440) が開始されました。

[31] もし泰昌帝の治世の1ヶ月間に「泰昌元年」と書かれていたら、 それは翌年の予定を表したもの (y~1829) で、 実際の泰昌元年 (y~440) とは1年のずれがあることになります。

[32] 現存する「泰昌元年」のほとんどは泰昌帝の死後に書かれたものでしょうから、 それは泰昌帝の治世を指すものも含め、 実際の泰昌元年 (y~440) を意味するはずです。 ただし大統暦のような例外がある (>>22) ので、注意が必要です。

[44] 当初予定の 泰昌 (y~1829) は、開始日の到来前に中止されたという意味で未実施元号ではあるのですが、 翌年を表す意味で実用はされたことがある、実在した元号でもあります。

[34] 中国歴代年号考は、 万暦を西暦1620年7月 (農暦) まで、 泰昌を西暦1620年8月から12月 (農暦)、 天啓を西暦1621年からとしていました。 >>104 元年変更の件には何も言及がありませんでした。

[25] 中文維基百科の元号一覧は、 萬曆を「1573年—1620年七月」、 泰昌を「1620年8月28日—1621年1月21日」、 天啟を「1621年—1627年」 としています >>24農暦グレゴリオ暦が入り混じって理解し難くなっています。 記事中の日付では泰昌帝の在位期間中も泰昌 (y~440) で書いていました >>45

[27] 日本語ウィキペディアの元号一覧は、 万暦を「1573年 - 1620年7月」、 泰昌を「1620年8月 - 12月」、 天啓を「1621年 - 1627年」 としていました >>26。 記事中の日付では泰昌帝の在位期間中も泰昌 (y~440) で書いていました >>12

[29] 百度百科の元号一覧は、 万历を「1573年—1620年」、 泰昌を「1620年」、 天启を「1621年—1627年」 としています >>28

[19] 国家図書館蔵明代大統暦日彙編 1‐6, , https://www.chugoku-shoten.com/mokuji/cmokuji/38033/38033.html

93. 大明万暦四十八年(1620)歳次庚申大統暦 407

94. 大明泰昌元年(1620)歳次庚申大統暦 439

95. 大明天啓元年(1621)歳次辛酉大統暦 449

96. 大明天啓二年(1622)歳次壬戌大統暦 483

[46] Page:Gujin Tushu Jicheng, Volume 631 (1700-1725).djvu/111 - 维基文库,自由的图书馆, https://zh.wikisource.org/wiki/Page:Gujin_Tushu_Jicheng,_Volume_631_(1700-1725).djvu/111

[47] min0427x.html (, ) http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_a/html/min0427x.html

年代 : 萬暦48年(改元泰昌)10月