五行十二支紀年

干支紀年法

[1] 東洋では古来六十干支紀年法として用いられてきました。 元号などと併記されることもあれば、単独で用いられることもあります。 干支年年干支干支紀年法甲子紀年法などといいます。

紀年法

[129] 六十干支の60種類が順に第0年から第59年までの60年間に割り当てられます。

[130] 第59年の次は第0年に戻ります。

[131] つまり干支単独では60年間の範囲内でしかを特定できません。 60年前、60年後などとの区別のためには他の情報が必要になります。

[132] 最近ではが第0年です。

換算

[9] 西暦年 ad を表す干支年 k は、

k = (ad - 4) mod 60

... で求められます。ただし k0起算干支です。

十二支紀年

[133] 六十干支十干十二支の組み合わせです。 十二支部分だけ取り出したのが十二支年です。 十二支年

[158] 十二支年六十干支年十二支部分と常に一致します。 十二支年を拡張したものが六十干支年とも、 六十干支年を簡略化したものが十二支年ともいえます。

[134] 東アジアでは十二支年六十干支年の簡略版として用いられてきました。 中央アジアでは十二支年が主に用いられてきました。

古代の十二支・干支紀年法

古代の干支紀年法

元号圏

[2] 支那日本などでは、 元号干支を併記していました。 元号年日本の暦南西諸島の日時

[16] 元号が無い時代 ( 日本古代の日時 ) や略式には、 干支のみを使ったり、 十二支年 (や元号十二支年の組み合わせ) を使ったりしていました。

[75] 元号名元号年干支年の3要素を併記する方式の他に、 元号名干支年の組み合わせで記述する方式もあります。 元号干支年表記

[17] 現代日本でもカレンダー寺社年賀状など限定的ながら使われています。

[27] 昭和54年日本政府は、 干支紀年は一般的に使われている紀年法とは言い難いとの見解を内部文書で示していました。 >>39

[119] 干支年元号年表示

[68] 意図的に使った例 建文, 裕民, 興朝

[146] 「年号」と「元号」 - 日本中近世史史料講読で可をとろう, https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20191022/1571751253

戦国大名北条氏の朱印状では年号が使用されず、干支で発給される場合も多い。干支は東アジア世界共通の暦であり、小島道裕氏の「東アジア標準」の文書様式*2とする指摘に重ね合わせたくなる。

*2:国立歴史民俗博物館『日本の中世文書』2018年

[63] 「年号」と「元号」 - 日本中近世史史料講読で可をとろう () https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20191022/1571751253

戦国大名北条氏の朱印状では年号が使用されず、干支で発給される場合も多い。

元号忌避としての干支年

[142] 東アジアでは通例元号が使われてきましたが、 元号が憚られる時に干支年を使った例が散見されます。

[135] 関連:

[71] 【黒塗り】01-内田G論文07-57【CC2015 mac】.indd - 2018ns_athesis_4_2.pdf, , https://www.nihon-shuji.or.jp/about/pdf/2018ns_athesis_4_2.pdf#page=60

陶淵明

[70] 東晋人で南朝宋の時代まで生きた陶淵明 (365-427) 詩人として名が知られていますが、 南朝宋元号を使わず干支年を使ったことでも有名です。

[69] 宋書/卷93 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%9B%B8/%E5%8D%B793#%E9%99%B6%E6%BD%9B

陶潛条:

所著文章,皆題其年月,義熙以前,則書晉氏年號,自永初以來唯云甲子而已。

[141] 義熙東晋の最後の前の元号。 その次が劉裕に擁立された東晋の最後の皇帝の元号元熙。 その次が禅譲で即位した劉裕南朝宋元号永初

[144] 江戸時代日本詩人大沼枕山 (-) 歴代詠史百律陶潛 はこのエピソードを詠み込んだ漢詩 >>143

[145] >>143>>69>>144 を紹介した平成時代日本の文学研究者の論文。

[298] 江戸時代の研究者の小山田与清 (-) ないし太田元貞 (大田錦城) (-) も、 私年号に関係して陶淵明の前例を引いていました。 >>299 日本南北朝時代の元号

南明・清初

[104] 銭謙益 (-) は、 臣でしたが清国の侵攻後は清国に仕えました。 しかしその後南明勢力に与しました。

[116] 銭謙益の仏典注釈書 大佛頂首楞嚴經疏解蒙鈔 の目録後の序文部分に干支年の記述があります。

[117] 朝再興を企てていた時期の著述であり、清の元号を使っていないのは意図的でしょう。

日時事例

清末民初

清末民初の日時

東南アジア華僑

[14] 6_KJ00000133720.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/6/4/6_KJ00000133720/_pdf#page=3

周縁諸民族

ヤオ族の日時

干支年接頭辞

[65] 干支年を書く時は、「歳次戊辰」のように歳次, 歳在, 天運などの接頭辞を書くことがありました。 干支年接頭辞

五行十二支紀年

日時事例

中央アジア

[74] huibao_058.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/78869/huibao_058.pdf#page=5

[78] Yoshimoto.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/653/653PDF/Yoshimoto.pdf#page=35

チベット暦

[24] チベット暦でも紀年法として用いられています。

チャンパー式

[136] 八天干, チャンパー式干支年

開始年

[92] 干支は60種類の循環で、どこが始まりとも定まらないものですが、 便宜上または思想上、特定のものを始まりと決めることがあります。 干支

[93] 干支年の場合、次項 (>>18) のように上位単位を決める時、 1巡の第1年をどれかに決めることになります。

限界の超え方

[127] 干支年の1巡分の60年間をや一般に周期 (cycle) といいます。

[18] 干支年干支の60ヶ年分を超えて表現できません。 近接した時代しか扱わない日常生活には十分ですが、 長い時間を扱うことができません。 類例は2桁年号

[20] 支那では元号干支年を組み合わせて使いました。 この方法は周辺諸国に広まり、近代に入るまでは標準的に使われました。 元号名元号年干支年表示, 元号名干支年表示

[21] 古代日本干支年を使っていましたが、 大宝以来の元号制度の本格導入はこの問題が一因といわれています。 大宝律令以後公文書元号利用が法制化され、 一般には元号干支年の併記が普及しました。 明治初期まで続きました。 日本古代の日時, 元号名元号年干支年表示

[25] チベット暦干支年の上位に何巡目かを表す単位を設けました。 丁卯年を1巡の最初のとします。 からが第1丁卯 (ラプチュン) とされます。 チベット暦

[81] 黄帝紀年と組み合わせて何巡目か指定する流儀があります。 からが第0巡、 からが第1巡となります。 黄帝紀年

[118] MPSLC では乙卯年が 1 となります。 MPSLC

[26] 李氏朝鮮満洲帝国流亡政府では干支年の前に何巡目かを表す数を加えています。 元号名干支年表示

[46] 中東ではイスラム暦と併記しました。 十二支年

[125] 三元甲子

[122] 百科全書 第4冊, [ウィルレム・チャンブル], [ロベルト・チャンブル], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/897067/1/26 (要登録)

[123] >>122 が支那年紀では第70甲子 (シークル) の第53年。

逆算するとが初年。

[120] 随筆(一〇)|第五巻 言霊解・其他|出口王仁三郎全集 - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121805c210

本年は (かしこ) くも神武天皇御即位の前年に (あた) る四十四回の庚申 (かうしん) の年である。

皇紀元年から数えた周回

[121] (四)新定の紋章|暁の烏(井上留五郎著) - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B116500c094

大正十三年は甲子 (きのえね) の歳でありますが、暦学上よりしても三千六百年目に来る意義深き甲子でありまして、神様の方より云えば十二万年目の甲子であって、その当時初めて神様により天地運行の (りつ) 即ち (れき) に対して、十干十二支の言霊を付与せられたのでありまして、これに動物を配したのは後のことであります。支那道院の侯延爽 (こうえんそう) 氏も、艮坤 (こんごん) 両方位が最も正しき位置に復帰する歳であると (はな) しておられました。聖師様はこの因縁深き甲子に因みて更始会を創立されたのであります。この会はミロクの御神業に奉仕する精神的の会であって、この会の徽章 (きしょう) にこの紋章が用いられているのであります。

[126] 暦 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E6%9A%A6%E5%88%B6#.E5.8E.9F.E7.90.86.EF.BC.9A.E6.98.9F.E8.AA.AD.E3.81.BF

明代の『三才図会』の説では天地開闢から年を数えるに、1世=30年、12世=1運=360年(普通、1運は60年で、この運は「周」の誤りかと思われる)、30運=1会=1万800年、12会=1元=12万9600年(会には子会、丑会というふうに十二支の名がついている。また元は本来は4560年であるから何か他の字の誤りだろう)として、AD2000年は天地開闢6万9017年にあたり、まだ最初の1元も終わっておらず、巳会の途中ということになっている。ただしこれらは後世のもので、干支の本来の用法ではない。

迷信

[31] 干支干支年には様々な迷信が付加されています。 干支

[32] そのためときには干支年そのものが迷信で排除されるべきと過激な主張をされることまであります。

[33] 実際のところ干支は単なる60個の記号で、数値で 0 から 59 で数えるのと同じことです。 たとえ干支以外、例えば数値で表すことにしても、 4 は「死」と同音だから不吉、 のように根拠のない迷信と結びつくのは必至で、干支干支年が取り立てて迷信と結びつきやすいとはいえません。 歴史が長くなればなるだけ、迷信との関係も強くなったというだけです。

[47] 丙午年には出生数の低下がみられました。 昭和時代の日時

派生紀年法の一覧

[28] 干支年から派生した紀年法

[3] 西暦と併記された例も知られています。 日本の西暦

[5] 干支紀年法に至るまでの過去の紀年法 (および学説) は古代の干支紀年法参照。

[6] 簡略化されたものは十二支年を参照。

[30] 紀年法と併用する接頭辞は歳次を参照。

干支年に基づく事件名

[51] 元号でなく干支年が事件名に使われがちな時代があります。

[52] 干支年の事件名

[54] 七支刀の銘文 (No.151)/藤井寺市, , https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/koramukodaikaranomemessezi/wanogoozidai/1387511038569.html

その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから東晋太和四年が通説となったのです。

[87] 日本文化と朝鮮, 朝鮮文化社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12211650/1/62 (要登録) 左ページ中央あたり

干支年の誤り

[147] Xユーザーの豆人さん: 「石巻市鹿又・鹿又八幡神社の元徳二年銘キリーク種子板碑(1330)。と言うよりも“藤原氏女の板碑”と言ったほうが通りがいいかもしらん。一連の写真は去年の春のもの。何がどうとは言わないけれど、貴重な石造物を倒れないようにと腐心してくださったというのが心底嬉しい。 #今日のいしぶみ https://t.co/v7MbEQnIPr」 / X, , https://x.com/_mamehito_/status/1792876361826161094/photo/1

存在しない干支の年

非妥当干支

関連

[12]

[128] 十二支年のことを干支年という場合があるので注意。

実装

[15] Cyclic year used in East Asian calendars · Issue #638 · MenoData/Time4J () https://github.com/MenoData/Time4J/issues/638

メモ

[29] (久野健 ) https://core.ac.uk/download/pdf/159511709.pdf

[8] 阪神甲子園球場 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92%E7%90%83%E5%A0%B4

大正13(1924)年が十干十二支の最初の組み合わせである甲子年(きのえねとし)という縁起が良い年という事もあり後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名。

[49] 甲寅叢書

[19] () https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61000/cks_007_021.pdf

[50] 古事類苑 (歳時部四, 年號下, 年號文字, 第 1 巻 334 頁, ) http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000334.html

[55] 金銀平文琴

[56] 元号 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%80%81%E6%9D%B1%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2

1949年以降の中国(中華人民共和国)では一般の公文書には「公元」(西暦)を使用し、元号やそれに準じた民国紀元のような紀年法は無く、西暦の使用が憚られる宗教建築の棟札などには干支と農暦(旧暦)による紀年が用いられる。

[57] 大正7年(戊午)・筆文字(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/17-fude.html

[58] 昭和5年(庚午)・古代の竹馬(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/24-takeuma.html

[59] 昭和5年(庚午)・将棋の桂馬(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/27-keima.html

[61] (, ) https://www.city.shimada.shizuoka.jp/fs/2/8/8/7/4/9/_/kawane-okanoya-sono8.pdf

[64] 年の干支: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201401/article_19.html

[66] 新江 利彦 (Toshihiko SHINE) - 研究ブログ - researchmap (Japan Science and Technology Agency, ) https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/478418/f27697ca22778495fd65b8079c90677a?frame_id=973630

[72] https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4938&file_id=22&file_no=1&nc_session=sp45iv8jrkg77i5ddintor8j10 PDF 22頁

[73] sial01-001.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/19363/sial01-001.pdf#page=36

[76] 年の干支: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201401/article_19.html

[77] m0020001004.pdf, , https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/files/public/3/31882/20170425035314552241/m0020001004.pdf

[79] The Letter of Petition from Yorimoto | WND I | Nichiren Buddhism Library, https://www.nichirenlibrary.org/en/wnd-1/Content/97

The twenty-fifth day of the sixth month in the third year of Kenji (1277), cyclical sign hinoto-ushi

創価学会ウェブサイトの日蓮文書英訳文。

[80] The Actions of the Votary of the Lotus Sutra | WND I | Nichiren Buddhism Library, https://www.nichirenlibrary.org/en/wnd-1/Content/93

ON the eighteenth day of the intercalary first month of the fifth year of Bun’ei (1268),

which I wrote in the first year of Bunnō (1260), cyclical sign kanoe-saru, has been fulfilled to the letter.

That evening, at the hour of the dog (7:00–9:00 p.m.),



[138] 福岡県立図書館蔵書検索より

記事・論文名干支と災害
掲載誌名 巻次故郷乃花 1999年5月 24号
著者多田隆
出版者小郡市郷土史研究会
45-64干支と災害多田隆
52-64干支別災害年表