[102]
日本国奈良県天理市の石上神宮所蔵七支刀に
「泰□四年」
とあります。
1字目は泰と読まれていますが、
2字目の字画の大部分は剥落し、
読めない状態です。
[126] この刀は百済から日本に贈られたものとされています。 >>100
[123] に石上神宮大宮司で歴史研究者の菅政友が再発見して公表し、 以来研究が続いています。 >>121 #page=6
[115] 銘文は損傷が酷く判読困難なところが多く、多くの研究者が解読を試みてきました。 実見が困難で先行説を頼りに推測を重ねた説も出されてきました。 に村山正雄が 石上神宮七支刀銘文図録 >>140 を出版したことで、 精巧な実写真とレントゲン写真を利用できるようになって、 研究環境は著しく向上しました >>121 #page=7。
[127] 1文字目は「泰」と読むのが通説です。
[118] 2文字目は「和」や「始」と読む説が多いです。 >>85
禾
の痕跡がより明確に見えたと報告されています。
>>242[391] >>390 に、 「鈴木勉・河内國平編著『復元七支刀』(雄山閣2006)の口絵写真より石上神宮所蔵カラー写真」 より第1字、第2字があります。
[182] 3文字目と4文字目は「四年」と読まれています。 諸研究者の見解が一致しています。
[142] 5文字目以後は「[五]月十六日」と読まれていますが、 当初より判読困難で、諸説ありました。
調査は、作られてから1600年以上がたつ七支刀の「健康診断」として奈良国立博物館が実施。CT画像には、一部がさびに覆われて読みづらく、別の文字とする説もあった百済の「済」の字が鮮明に写っていた。
また、多くの研究者が中国の元号「泰和(=太和)四年」(369年)と読んできた七支刀の制作年は、「和」の残りが悪いため、「泰始四年」(468年)とする説もあった。今回、象眼が脱落した「のぎへん」の痕跡がより明確に見えたことから、「泰和」の可能性がさらに高まった。
[608] 西晋泰始4(268)年、 東晋太和4(369)年、 劉宋泰始4(468)年なとの説があります。 >>100 現在では東晋太和4(369)年説が有力視されているようです。
[232] 福山敏男は (y~868) などを候補に挙げましたが、 そのうち 日本書紀2巡繰り下げと時期があうこの説が通説化しました。 >>228
[1249] 七支刀は、 日本書紀 神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子条の 「七枝刀」 との関係が指摘されます。 日本書紀紀年に従えば西暦252年に当たりますが、 干支2巡繰り下げで西暦372年となります。 東晋太和4(369)年 (y~868) ならちょうど時期が合います。
[120] 昭和時代の研究者坂元義種は、 「泰[和]四年□月十六日丙午正陽」 と読まれていると引いて、 百済が東晋の元号を使った、 としました。 >>119
[153] この時期百済が泰和を使ったかには疑問があります。
[156]
従ってこれより前に百済が東晋の元号を使い、
倭王に贈ることはあり得ないとの理解が強いです。
しかも百済ではこれ以前も以後も、
東晋 (や他王朝) の元号を使った形跡がありません
(
[157] 百済王権に仕える中国系の文筆担当者が東晋を尊崇して使ったとする説もあります >>121 #page=11 (鈴木靖民1983)。
[159] しかし外交上重要な贈呈品に外交上重要な元号を担当者が勝手に使うかには疑問があります。 そこで、 元々東晋から百済が与えられたものを、 東晋との外交関係を倭とも共有する意図で、 百済で仿製して倭に贈ったとする説があります >>121 #page=12。
[7]
この説の最大の弱点は、太と泰の字形差でした。
中には少々無理にこじつけたような解釈もなされました。
しかし、太和側の研究の進展により、もはや問題とはならなくなりました。
[69] この説のもう1つの弱点は、16日の日干支が丙午とならないことです。 そこで月日は吉祥句であって実際の暦日の表記ではないと説明されてきました。
[70]
確かにそのような慣習が無いわけではありません。
[3] 仔細疑問を残しつつも、中核となる年代比定の部分に関しては、 昭和時代から現在に至るまで通説として広く支持されています。
[217] 現在の大韓民国でもこの説が通説となっています。 >>216
[277] の大韓民国の研究者 오택현 の論文は、七支刀の銘文釈読の諸説を丁寧に比較するものですが、 元号名の解釈は主要説を紹介した上で、 この説に賛同しています。 >>276
[362] なお、 >>1249 は金石文に文献史料の裏付けを与える強力な補強材料であると同時に、 当通説が干支2巡繰り下げ紀年論の1つの重要な物証となっている、 いわば循環論法のような状態であることには、特に注意が必要です。
[363] ややこしいのは、これが純粋な学問だけの問題に留まらないということです。
[364] 日本の一部の日本書紀信奉者は、干支2巡繰り下げを否定し、 日本書紀の記述それ自体の信憑性が裏付けられることを望んでいます。
[365] 大韓民国の一部の者は、任那日本府や三韓征伐など朝鮮人にとって不快な記事が多い 日本書紀 (特に神功皇后紀近辺) の信憑性が毀損されることを望み、 干支2巡だろうが否定しようと試みます。
[238] 西晋の泰始 (y~910) とする説がありました。
[175]
菅政友は「
を候補に挙げました >>165 /280。
[179] 現在の研究者の見解と合わせると「11日」はあり得ますが、 「6月」は合わず、該当する日がなくなります。
[180] 五月丙午の吉日と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。
[144] 近代日本では高橋健自以来「六月十一日」と読まれ >>197, >>121 #page=8 (高橋健自1914)、 三正綜覧によると西晋泰始4年6月11日は丙午であることから >>197, >>121、 有力視されました。
[5] この説は、銘文の解読が現在以上に不完全だった研究初期の断片的な情報から構築されたものです。 学説史的な歴史的意義はありますが、現在となっては支持されていない、 判明している字形と整合しない説です。
[470] ただ、令和時代に入ってもアマチュア歴史愛好家などの一部では、 第一発見者の観察を信じたいなどといった理屈のもと、この説を主張する者が、 少数ながらも一定数存在するようです。
と読んで、西晋泰始4(268)年5月16日丙午正陽の日、と解しています。 >>565
[566]
[568]
音通も、彫りやすい字への置き換えも、一般論としてはあり得るものの、
類似例の1つでも提示されないことには説得力はありませんし、
始を祇󠄀に置き換えることが彫りやすさにつながるのかも自明ではありません。
[158] 劉宋泰始4(468)年 (y~777) とする説があります。
[160] に百済王は宋の鎮東大将軍に冊封されています >>121 #page=12。
[161] 百済で宋の元号を使った例も知られていませんから、 百済で宋の元号を使ったとするのは難しいです >>121 #page=12。
[173]
菅政友は「
[174] 五月丙午の吉日と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。
[6] この説は、銘文の解読が現在以上に不完全だった研究初期の断片的な情報から構築されたものです。 学説史的な歴史的意義はありますが、現在となっては支持されていない、 判明している字形と整合しない説です。
[233] 李進煕は、 「五月十一日丙午」 と読んで、 日干支がでは合わず、 (y~1355) なら合うと主張しました。 >>228
[20] この説はマルクス学派に人気があったようです。 >>270
[8] 銘文が「十六日」と判明した現在では、この説を積極的に支持する理由はありません。
[239] 泰初と読む説がありました。
[1]
日本私年号の研究
は、
銘文を
「
[475] の日本の考古学者村上英之助の論文は、 次のように主張しています。 >>474
[509] 当説の最大の特徴は銘文ではなく媒体の編年を根拠とすることです。 決定打に欠く元号名の解釈を後回しにする戦略は、 この説の強みであると同時に弱点でもあり、史料不足による編年の不完全さ、 研究者間の見解の相違といった不安定な基盤の上でかろうじて成立しています。
[510] また、月日について、可能な解釈の幅を限定するべきでないと意識していたにも関わらず、 当時の通説に引きづられて1月から5月に限定してしまい、令和時代の現在新たに通説化しつつある 11月を除外してしまったのは、痛恨のミスと言わざるを得ません。
[511] 候補年の範囲を限定し、元嘉暦で暦日を求めるプロセスは、 論理としては妥当なものと判断されますが、 現実にはやはり推算通りの運用が保証されると考えるべきではないでしょう。
[512] 当説そのままの採用は困難と思われますが、 考古学的編年の方法を適用したことには意義があります。 現在までの新たな考古学研究の進展も反映し発展させていくべき方法論といえるでしょう。
[857] 百済独自の元号とする説もありましたが、 当時百済では干支年が用いられたとして否定されています。 >>100
[226] 朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国で繰り返し独自元号説が提唱される (そして一部の人々から支持される) 背景には、 純粋な歴史学的興味だけでなく、植民地統治の反動という政治的動機があるようです。 朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国には、 百済や高句麗が元号を持っていたことを独立の証とみなし、 過剰な主張をする人々がいます。 七支刀については特にその銘文の解釈を巡って近代日本の通説の百済献上説と現代朝鮮の通説の百済下賜説の対立があり (現代日本の通説は対等的な贈与説か)、 神功皇后や任那日本府と絡めて、 古代と近現代が接続した政治問題と化しているのです。
[18] に考古学者の斎藤忠らが出版した書籍では、 金錫亨の初期朝日関係研究が百済の私年号だとする、 と紹介しつつ (それ以上の詳細は言及なし)、 「泰和」を「太和」とする説と比べて、 「文字が異なる点その他」により、 百済の私年号とする説が「適当としたい」と述べています。 >>271
[19] これだけの説明ではあまりに論理が飛躍していますが、 要するに通説に弱点があるので新説に飛びついたということでしょう。 既知の元号名と一致しないので未知の私年号に違いない、と。 「その他」が気になりますが、詳しい論拠が説明されていないので、 推測のしようがありません。
[17] 本書は□月十一日と読んで、月を四カとしています。 >>271 他に6月説があることも紹介しています。なぜ4を妥当としたのかは不明です。
[11] 、大韓民国の歴史研究者張八鉉は、 百済に私年号の事例があるとして、泰□もそうであると主張しました。 >>251
[12]
確かに一時、百済の元号の存在が他にも主張されたことはありましたが、
現在の研究では否定されています。
[87]
(日本語訳は >>86)、
朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨 (김석형)
( - )
は、
三韓各国が日本国内にそれぞれ植民地を持っていたとする珍説を発表しました
>>86。
皇国史観への「意趣返し」のようなもので学問といえるレベルにないものですが、
皇国史観バリアで穴だらけでもスルーされてきた日本古代史の基礎を固めるいい契機にはなったのかもしれません。
[469] 七支刀もまた「穴」の1つだったといえます。 金錫亨の説は日本の研究者の間でも紹介され、議論を喚起することになった、 という研究史上の意義は認められます。
[94] 論証なく百済の元号とするこの説は論外だと評されています。 >>85 #page=4
[22] 続く訳の書籍では、次のように主張しました。 >>21
[31]
の独創的な古代史の主張の書籍は、
>>21
を引いて、
「
[32] ところが引用されている >>21 には5世紀の百済の年号との説はある (>>22) ものの、 私年号とは述べていませんし、 大和なる私年号への言及は皆無です。
[33] 本書では >>21 説を紹介するものの、本書が独自に付加した(?) 「大和」「私年号」は、この紹介の部分で登場するだけで、 肯定的にも否定的にもまったく言及していません。誤読とも、 誤引用とも思われますが、誤りが生じそうな記述や類似書籍も現時点で見つかっていません。
[513] なお、 >>18 >>505 も金錫亨説を百済の私年号の説と紹介しています。 当時の日本ではそのような理解があったのでしょう。
[97] 大韓民国の歴史研究者李丙燾 (이병도) ( - ) は、 次のように主張しました。 >>85 #page=4, #page=5, >>121 #page=12
[106] この主張に対し、 日本書紀紀年については、元の日付はそれ自体誤ったものではないので、 恣意的に誤りとみなすことは不適切といわれます。 >>85 #page=5
[107] 西暦369年5月16日が丙午でないことについは、 五月丙午説が有力とされます。 >>85 #page=5
[108] また、馬韓統一も推測に過ぎず、記録にはありません >>85 #page=5。 この年に建元したとする根拠が見つかりません >>121 #page=12。
[162]
あるいは、□が和と読まれるとすると、
東晋泰和4年が百済泰和元年だったことになり、
無理が生じます。
>>121 #page=12
[111] 20世紀後期の朝鮮人の延敏沫は、次のように主張しました。 >>85 #page=5
[116] この主張に対し、七子鏡から七支刀の年代を決定するのは無理があるとされます。 >>85 #page=6
1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした[8]。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され[9]、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした[2]。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真[10]による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された[2]。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし[2][11]、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない[2]。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない[2]。
銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる[2]。「泰」は「太」と音通するため[2]。
[580] に日本国東京で開催された討論会に参加した朝鮮人の研究者孫永鐘は、 次のように主張しました。 >>579
[220] 大韓民国の研究者 홍성화 は、 「11月16日丙午」 の日干支と一致する日から、 に比定し (y~4165)、 泰○ (태○) は百済の独自元号と主張しました。 >>218, >>224
[227] 日干支が一致し、しかもそれが即位紀年の4年とも一致するのは、 大変興味深いところであります。 しかし百済が独自の元号を制定し利用していた根拠はこんにちまでまったく見出されておらず、 その事情が説明されなければならないでしょう。
[244] 近年の大韓民国では支持を得ている >>243 とされますが、 相応の根拠があってのことかは不明です。
[326] にも 홍성화 は著書 칠지도와 일본서기 でこの話題を扱っているようです。 >>325
[327] に紹介した新聞 Web サイト記事によると、 홍성화 の主張は次の通りです。 >>326
[342] 、 홍성화 は新たな論文を発表しました。 >>341
[343] この論文の内容は Webサイトで一般公開されていませんが、 概要は次のように主張しています。 >>341
奉の異体字である奉で始まる年号はないので、
百済の年号の可能性が高まった[355] 冬至説は魅力的ではあるものの、概要から察せられる限りでは、 (中世の歴史書の) 即位紀年との一致以外の根拠は無さそうです。 詳細は内容を確認する必要がありそうですが、 これまでに提出された百済独自元号説諸説の課題は解決できていなそうに見えます。
[73] の大韓民国の研究者 조경철 の論文は、 次のように主張しています。 >>71
[261] 当論文は豊富な事例と暦学的事実から論理的に導出されたかに一見思えますが、 いくつか致命的な問題を指摘できます。主要なものを挙げるなら、次の通りです。
[286] の大韓民国の研究者 박남수 の論文は、 奉元 (봉원 >>325, Bong-won >>285) と読むべき百済の元号であって、 奉元4年はに当たると主張しています。 >>285
十の残画があり、
五である可能性皆無、「十一」の可能性が高く、「十二」の可能性も排除できない[294] 銘文解読については、非常に慎重に議論を進めているものの、 文字の痕跡と認めるか、ただの疵痕に過ぎないと見るか、 の判断が恣意的とも思われ、容易に賛同し難いと言わざるを得ません。 仮にこの判断を認めるとしても、問題は残ります。
丰とされる部分の実際の残画は、|の左右で分離されており、
従って通説が氺と解釈します。この現存字形のあり方は安易に無視できません。元とされる字形は、
一般的な元の字形とあまりにバランスが異なる上に、
七支刀の銘文中央線と比べても左に異常に偏りすぎています。元とされる字形が延寿元年銘の元と似ているとされますが、
率直に言って同意しがたい、という程度に異なります。[322] また、丙午の解釈に関しては暦の違いや誤り、 踰年改元などの暦法的概念を駆使して吉祥句説を排除する一方で、 の選択の過程ではこうした揺れの可能性に一切言及せず、 「百済は正確な暦法を運用していた」 で押し切っているのも、重大な問題です。
[323] 引用されている >>73 は、暦のずれの可能性を考慮していないことが問題でしたが、 当論文は他説に都合の良い論理は暦のずれを使って否定し、 自説の核心では暦の厳密性を主張する、 という二重基準を適用しており、その恣意性は批判を免れないでしょう。
[324] 当論文の他の部分では、 経度差による北京とソウルと大阪の冬至のずれを計算しています。 最終的にこれらの「事実」認定を基礎に、 百済が建元によって治天下を宣言したと論じているのですが、 そうであればこそ、 漢土の制度に基づき「正確」な暦法と無邪気に評価することの妥当性は無視できません。
[358] 論文の日付に先立つ には、 박남수 が 백제 전지왕 ‘奉元四年’銘 칠지도와 그 사상적 배경 と題して学会で発表しています。 >>356
[359] 当該セッションでは 홍성화 が指定討論者を務めています。 >>356
[340] の新聞 Web サイト記事で、 박남수 の主張が紹介されています。 >>326 内容は論文と同様です。
[515]
に発表され >>516、
の著書に収録された論文
初と読んでいた[559]
当説は、第2字を初と読むことと、日干支の一致から、
百済の独自の元号と結論付けています。
時期的には朝鮮人らによる百済元号説に遅れますが、
それらを参照せず独立して導出されています。
[560]
日干支から年を決定する、という手法は他の独自元号説と共通していますが、
月番号を五と判読したために、
21世紀の大韓民国の諸説とは異なる結論に至っています。
[561] 日本書紀の泰初という「誤記」の謎を説明できる、 大変面白い説ですが、日本書紀の編者が七支刀を実見する機会を持ったかは全く不明ですし、 そこから泰初の「誤記」へも飛躍があります。
[587] なお、 OpenCode の既定のモデルが自らプログラムを作成し平均朔望月による近似計算を行った結果は、
... であり、丙午日となるのは5月16日でなく4月16日とされます。
[572] の日本の歴史愛好家坂田隆の書籍では、 次のように主張されています。 >>571
[45] 令和時代初期の日本の歴史愛好家が、 通説である東晋太和4年説では時系列に問題が出るとして、 説を提唱しています。 >>387, >>44, >>388
[393] のブログ記事では、 次のように主張しています。 >>390, >>387
元がどんな字形か自分には資料がない[46]
の愛好家団体記事では、
太元が選ばれたのは、
1文字目が太で、時系列が論者にとって都合が良いものを探したに過ぎないのではないかと思われます。
「
[405] の動画では、 次のように主張しています。 >>388
[472] の対談動画でも、 太元4年説を主張しています。 >>471
[443]
のブログ記事等では、
CT調査による第2字の禾の判読について、
銘文中の他の文字と字形が異なるとし、
疑問を示しています。 >>441
[430] 当説は、従来考慮されてこなかった (少なくても学術論文の形で明示的に議論された記録が見当たらない) 次のような論点を提示したことに、一定の価値が認められます。
[434] 一方で、次のような致命的な欠陥を抱えています。
元と読めることの論証を放棄している[440]
なお、第2字を元と読むことについては、 (成立するかはともかく)
奉元説が提起されています。それと同程度には蓋然性があるとは言えそうです。
(まったく新規の元号名である奉元よりはむしろ蓋然性が高いとも言えます。)
[449] https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIchEgWw5bZ&pp=0gcJCSIANpG00pGi (>>388 の投稿者自身によるコメント)
『復元七支刀』(鈴木勉・河内國平編著/雄山閣/平成18年)で、石上神宮所蔵のカラー写真、橿原考古学研究所所蔵のカラー写真およびモノクロ写真、奈良国立文化財研究所所蔵のX線写真を比較検討して詳細な考察がなされています。 そこでは、「のぎへんの可能性が高い」とはされていますが、必ずしもそうでない可能性もある画像が掲載されています。
[456] https://www.youtube.com/watch?v=odu6DvvdSeE&lc=Ugz_mskgs1xovFGm-dl4AaABAg.ATvwpXC2jiwATvyx8UfOvc (>>442 の投稿者自身によるコメント)
百済以外で作られた可能性もあると思います。 五胡十六国時代のどれかの国が独自の元号を持っていた可能性とか。
[52] 三国時代の魏の嘉平 (y~573) に比定する説があります。 説得力ある根拠は提示されていません。
[48] の日本の歴史愛好家の書籍は、 通説である日本書紀神功皇后時代の干支2巡120年繰り下げによる紀年修正説は成立しないと主張しています。 >>47
[49] 七支刀銘文の年号については、レントゲン照射でも不明であるとし、 神功紀五十二年 = 西紀二五二年 = 魏嘉平三年であると述べています。 >>47
[51]
本書は「
[53]
令和時代の日本で提唱された独創的な説は、
次のように主張しています。
>>54 書籍 p.
四は一致している。第1字が嘉なら、一致する嘉は複雑すぎ、刻字しづらいから簡略化され得る泰を太の音の仮借とするのは、根拠のない俗説[60] 論者は、これをもって日本書紀紀年が実年代と一致し、 干支2巡120年繰り下げの通説が否定されたとし、 日本書紀紀年をそのまま読むのが正しいと主張しているようです。
[61]
銘文の第1字が容易に泰と読めてしまったために、ほとんどの論者はこれを出発点とし、
疑ってきませんでした。異説はあっても奉と読むものでした。
日本書紀の七枝刀条と結びついた時点で、
神功52年 (ないしその少し前) 説は当然検討されているべきものだったはずです。
この点は >>57 の批判に一分の理があります。
[62] といっても、銘文の解釈にはやはり銘文それ自体が重視され、次にその媒体が考慮され、 その後にようやく関係しそうな他の史料を援用されるべき、という優先順位を見失ってはいけません。
[63] >>49 説は銘文解読を諦めて推測に移ったものであり、 銘文の一部が読めることが知られている今となっては、 議論の対象となり得ません。
[64]
>>53 説は、第2字をまったく検討していないという点で、
第2字の一部の字形が知られている令和時代に新たに提出されたにしては物足りないものです。
しかも、第1字が明らかに泰と読める字形であることへの反論がありません。
[65]
第1字が嘉の簡略形だと主張し、嘉の字形が揺れ得ることまでは示していますが、
七支刀の字形に似た物は1つも提示できておらず、第1字が嘉である、
とは机上の空論に過ぎません。
[275]
なお、この時代感を保ちつつ1文字目の泰を重視したのが、
研究初期の西晋泰始説で、に当たります。
ただし、その場合は日本書紀の七枝刀より少し後の時代になるので、時系列は微妙に合いません。
[245] 令和時代の日本で活動する大韓民国人の言語学研究者が説を主張しています。 >>243 北燕系の亡命政権が百済にあり建元したと説明していますが >>254、 具体的根拠は示されておらず不明です。 この年に比定されるのは、 銘文と文献の人名の言語学的比定と、 11月16日が丙午であることによります >>255。
[2] なお、北燕の王族が百済に亡命して政権を立てたとする説は、 少なくても現代の歴史研究者の間で有力学説として存在することは確認できません。
[192] 星野恒は、 当時日本にも韓土にも当時元号がないとして、 漢土の元号に候補を求めました。 >>184
[193]
星野恒は、
「泰
[208] 喜田貞吉は、 前漢、前秦、南凉、西秦の太初、 魏、後趙、成漢、東晋、北魏「等」の太始を、 日干支から否定しました。 >>197
[194] 他の研究者も、明記せずとも同様の検討を経ていると推測されます。
[35] 日本の独自元号説, 新羅, 高句麗, 任那の独自元号説, 漢土の小勢力の独自元号説などは、 提唱や検討された事例が見当たりません。
[268] 中華王朝の元号とする説を否定する論者は、当然、 こうしたあらゆる可能性の中から論理的に最も適切なものを選ぶ手続きが要求されるのですが、 なぜか「中国の元号にないので百済の元号としか考えられない」のような短絡的な論考ばかりです。
[269] 銘文に百済らしき名称があることによっての推定なのでしょうが、 そうだとすれば、最低でもそのことを明記する必要があるはずなのに、 それを欠いて先走りがちです。
[272] しかも、銘文に百済が登場しても東晋の元号だと考えられてきたのですから、 同様に他の国の元号だったという可能性も、自動的には排除されないはずです。 例えば「高句麗に臣従し高句麗の元号を使った」 「北朝に臣従し北朝の元号を使った」 「日本に臣従し日本の元号を使った」 「百済のように見える銘文は実はそうではないので百済とは関係ない」 のような可能性よりも「百済は独自の元号を使っており、銘文にもそれを使った」 とする可能性の方が十分に大きい、ということを論証しないことには、 問題領域の一部を論じただけに終わってしまいます。
[274] また、 東晋説など既存説を否定するのであれば、 時代の絞り込みもふり出しに戻ることに注意が必要です。 日本書紀の120年の「ずれ」も、 七支刀の存在がその重要な物証の1つなので、 これを使わずに時代を特定する論証が要求されます。
[366] 例えば次のような可能性も、論理的には有り得ます。
[38] 七支刀偽造説を提唱する者もありました。その論拠の1つには、 元号年がどの説によっても辻褄の合わないことが挙げられています。 >>37
[39] このような説は、十分な根拠があるものとはいえず、現在では支持者はほとんどいないと思われます。
[40] 偽造説によれば年の不整合は解決されるかのように思われますが、 逆になぜ不審な年を記したのかが新たに課題となります。
[41] 記録が失われた時代に雑に作ったからだ、などと再反論することになるのでしょうが、 だとすると元号名と年月日は意味のない文字列で、その解釈の試みはすべて無価値ということになってしまいます。
[42] この他、一時期朝鮮人の間で銘文改竄説も行われました。 >>577, >>36 やはり十分な根拠なしに行われているもので、しかも改竄のメリットも不明瞭です。 現在では支持者はほとんどいないと思われます。
[43] 偽造説や改竄説は、同時期に作られたとされる他の金石文にもひととおり提起されています。 そうした可能性が提示され、慎重な再検討が加えられること自体は意義のあることです。
[246] >>243 は説を提示していますが、その根拠は、説明が皆無のため不明です。
[247] 百済の蓋鹵王の即位年がとされます。 しかし蓋鹵王の即位改元にしても、 前王の代始改元にしても年数が合いませんから、 百済の元号とするには難しさがあります。
[248] 北魏の興安 (y~449) は3年で改元されましたが、4年がに当たります。 しかしこれが百済で用いられたかには疑問が多いでしょうし、 元号名がまったく類似していませんから、これに比定する説とは思われません。
[445] >>388 / >>442 コメント欄には、視聴者から次のような説も提示されています。
[446] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIcSc_h19Du
泰和、泰祝、泰平、奉和、奉祝、奉天などでしょう。傷かもしれませんが画数が多そうではあります。四の中に横線が2本入ると酉の篆書体で369年も酉年なので捨てがたいです。年は右に傾いているのが気になります。海なら右に傾いてもおかしくないです。十一月十六日ですが六の線が妙に中央よりなので丙で十干の丙年かとも考えたのですが六は兴(興)にも見え、王や世子の荘重な表現として十興して曰くとも考えてみました。十は王の一部とするか、肖はシャオなので仇、首あたりは十(ジュ、シュ)と音も近いと思います。
[447] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIcYG_ELind
ただタガネの跡と経年劣化による錆、傷の区別や浅い跡、特に複雑な曲線はそれほど深く入れられないのではと思います。祝でも深い縦線は入るでしょう。示編と禾編は縦線が上の横線まで繋がるかどうかの違いですし。
[448] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIg8EJxYDWp
示へんは点の下に不をつけた形(左下へのはらいが曲がっている)のようですが、右側がはっきりしないのですが、単純な口でないなら祝、の右側に跪いた人の形の兄か、和と混同された調和を意味する音を出す龢(鐘)なら複雑な形にもなると思います。百済側としては下手に出ている感じなってしまう気もしますが、泰の跡を見ると横棒がはっきり繋がっているので奉かなぁと。百済は年号に対して関心が薄いようにも思います。
[451] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=Ugywb_54-UXNzrQPT8h4AaABAg
CT画像を見た上で一応解読終了したのでお知らせ致します。(表) 奉禴四方中 禹月一六日丙午正陽 告百錬續七支刀善辟百兵 宜使供候王併示佯後孫 (裏) 先世未有此刀 百濨王世子寄生聖意 故為倭王旨善徳示後世 (表)四方に(春の)奉禴せし中、禹月一六日丙午正陽(太陽歴369年5月16日)に、
[452] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=Ugywb_54-UXNzrQPT8h4AaABAg.AKLzZ7-oKlgAKMLg4kUl89
示す編であるにせよ。右が口ではなく冊の様なものが見えるので口ではなく龠と判断しました。和の場合には左右逆もあり得るのですが禴はヤクで和は龢でないと和にならないようなので周禮の春の祭事の豊禴ホウヤクとしました。年は卂のように見えますが鳥と関係があり方も同じです。それが四方に行われた後で七支刀を百錬続せよとの命令がなされたのが太陽歴の丙午正陽が丁度5月16日に当たるので太陰暦369年丙午正陽7月8日頃より正陽なので適切と考えて其のように訳してみました。
[453] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=Ugywb_54-UXNzrQPT8h4AaABAg.AKLzZ7-oKlgAKMV_54cUOR
荒目のct画像で見ると右側は呂のように強めの線で見えたものが詳細画像ですと下部については卌のような線がある事が示す編と同程度の強さの線を抽出して見ると分かる様に思います。祝ではないと直ぐに思い、それで龠の篆書体の下部と判断したのですが、上部に関しては確かに良くわかりませんが他に適当な文字が想定できません。しかし奉禴であれば東晋年号でないので東晋冊封下でない369年の問題は消失すると思います。龢(和)の誤字かもしれませんが。大禴というもの周禮の君主が行う奉禴でありますし四方中への奉和でも年号ではなくなるでしょう。篆書体では元の左下も折れ曲がる形があり、二つ並んでいる書体もありますが三本線があるようなので元ではないかなと思いました。
[458] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=odu6DvvdSeE&lc=UgyIGNW-aVzCM_KXakl4AaABAg
最近CT画像をiPadで画像処理(露出・ブリリアンスで明暗調整+精細度最大)すると細い線が分かりやすくなる文字がいくつかあると思うようになりました。禾については不に類似したタイプで、同形の示後世や示詳後孫と思われる小の部分も折れ曲がりの線で書かれているとこの部分から判断しています。右側は下半分がが𠘨のようなのが写っていますが、春の周礼祭祀の奉禴と文脈上から判断します。四は下部分が装飾的で酉年でも369年ですが、年は訊・訪という字形が関連した複雑な線で、禹の文字は意外と見易い筈ですが、上はセットになる大、夏、戎あたりでしょう、農歴369年5月16日は半島の方がより正確に丙午正陽のようで、計算は私は無理なのでAI頼みです。年号でなく大奉、奉禴酉年や四方であれば、問題はないと思いますが、369年ではマズイでしょうか?
[467] >>388 コメント欄には、視聴者から次のような説も提示されています。
[454] @kimioitou, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgxnA6aL7Kd0XFUVwaN4AaABAg
製作年はヰソキネ22歳の垂仁39年10月…ヤマト暦天鈴727年ヱト"サシヱ"干支"丙子"西暦436年…好太王碑391年辛卯の崇神62年シホノリヒコ任那派遣そして8年後の垂仁2年再派遣から37年後の出来事でした…銘は後の朝鮮帰化人が刻んだもの…歴史年表正しましょう…。😄記紀原本ホツマツタヱより
[596]
>>99 >>589 >>454 も一応踏まえつつ、
日干支の丙午を丙子と解釈してみるのも面白い着眼点ではありそうですが、
銘文の字形は子では無さそうで、
相応の論理を構築する必要があるでしょう。
[66] 諸説は銘文の解読と歴史的背景の整合性を主要な論拠・論点としています。
[67] 媒体である七支刀自体の様式論的な方向の議論は皆無ではありませんが、 年代を決める決定的な要素として扱われてはいないようです。 類例があまりない物ゆえに比較基準も明確ではないのでしょうし、 神宝で文化財なので科学的な測定も気軽には行えないという事情があるのでしょうが、 今後の進展が望まれます。
[361] 銘文は4世紀の南朝的な漢文との評価もあるようですが、 これまでの年代決定の議論であまり重視されてきていない要素のようにも思われますし、 こうした評価が元号名の解釈と独立してなされているか (循環論法になっていないか) は常に留意する必要があります。
[597] 多くの論者は、年月日干支の記載から該当する暦年を特定しようとしています。 ところが、各項にある通り、その多くが方法論的な不完全性を抱えています。
[598] 暦法の差異など、この種の議論が採るべき手続きや配慮が必要な事項などをまとめた指針を、 AIシステムに執筆してもらいました。
[599] 新説や既存説の再検証などを行う人は、この手引書の提示する手順に従うことで、 暦学的に誤った又は不十分な行論のおそれを軽減できます。
[600] また、既存説については、 当該説がどの領域に目を配れており、どの領域へは注意が欠けているのか、 客観的かつ網羅的に評価するための基準として活用できます。
[602] 同時に、実際に16日丙午となる暦日がどの年、どの月に存在した (存在し得る) か、当指針に則った網羅的な計算で一覧表を作成してもらいました。
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[258] 石上神宮宝物誌, 石上神宮, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12419868/1/33 (要登録)
[236] 日本美術工芸 (434), 日本美術工芸社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2281903/1/18 (要登録)
[241] 東アジア世界における日本古代史講座 第3巻 (倭国の形成と古文献), 井上光貞 [ほか]編集, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12238815/1/79 (要登録)
[256] 日本古代国家形成期の対外関係研究, 延敏洙, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3097904/1/32 (要登録)