박남수

泰□ (七支刀)

[102] 日本国奈良県天理市石上神宮所蔵七支刀に 「泰□四年」 とあります。 1字目はと読まれていますが、 2字目の字画の大部分は剥落し、 読めない状態です。

[126] この刀は百済から日本に贈られたものとされています。 >>100

[123] 石上神宮大宮司で歴史研究者の菅政友 (-) が再発見して公表し、 以来研究が続いています。 >>121 #page=6

元号名

[72] 大韓民国英語では、 泰和Taewha と表記しています。 >>71

銘文の解読

日時事例

[115] 銘文は損傷が酷く判読困難なところが多く、多くの研究者が解読を試みてきました。 実見が困難で先行説を頼りに推測を重ねた説も出されてきました。 村山正雄石上神宮七支刀銘文図録 >>140 を出版したことで、 精巧な実写真とレントゲン写真を利用できるようになって、 研究環境は著しく向上しました >>121 #page=7

[139] 従って、それ以前で実見せずに提出された説は慎重に扱う必要があります。

[127] 1文字目は「泰」と読むのが通説です。

[118] 2文字目は「和」や「始」と読む説が多いです。 >>85

[391] >>390 に、 「鈴木勉・河内國平編著『復元七支刀』(雄山閣2006)の口絵写真より石上神宮所蔵カラー写真」 より第1字、第2字があります。

[182] 3文字目と4文字目は「四年」と読まれています。 諸研究者の見解が一致しています。

[142] 5文字目以後は「[五]月十六日」と読まれていますが、 当初より判読困難で、諸説ありました。

[189]」に続いて「丙午」と読まれています。

[122] 「正陽」は正午とされます >>100

[150] Wiktionary日本語の「正陽」は陰暦4月、 朝鮮語の「正陽」は日中、真昼の時間または陰暦正月と解説しています。 >>151 文脈より明らかに月名ではありません。

年代の特定

[608] 西晋泰始4(268)年東晋太和4(369)年劉宋泰始4(468)年なとの説があります。 >>100 現在では東晋太和4(369)年説が有力視されているようです。

東晋太和説

[232] 福山敏男 (y~868) などを候補に挙げましたが、 そのうち 日本書紀2巡繰り下げと時期があうこの説が通説化しました。 >>228

[1249] 七支刀は、 日本書紀 神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子条の 「七枝刀」 との関係が指摘されます。 日本書紀紀年に従えば西暦252年に当たりますが、 干支2巡繰り下げで西暦372年となります。 東晋太和4(369)年 (y~868) ならちょうど時期が合います。

[120] 昭和時代の研究者坂元義種は、 「泰[和]四年□月十六日丙午正陽」 と読まれていると引いて、 百済東晋の元号を使った、 としました。 >>119

[153] この時期百済泰和を使ったかには疑問があります。

[156] 従ってこれより前に百済東晋元号を使い、 倭王に贈ることはあり得ないとの理解が強いです。 しかも百済ではこれ以前も以後も、 東晋 (や他王朝) の元号を使った形跡がありません ( 朝鮮半島の紀年法 )。 >>121 #page=11

[157] 百済王権に仕える中国系の文筆担当者が東晋を尊崇して使ったとする説もあります >>121 #page=11 (鈴木靖民1983)

[159] しかし外交上重要な贈呈品に外交上重要な元号を担当者が勝手に使うかには疑問があります。 そこで、 元々東晋から百済が与えられたものを、 東晋との外交関係をとも共有する意図で、 百済で仿製してに贈ったとする説があります >>121 #page=12

[7] この説の最大の弱点は、の字形差でした。 中には少々無理にこじつけたような解釈もなされました。 しかし、太和側の研究の進展により、もはや問題とはならなくなりました。 太和

[69] この説のもう1つの弱点は、16日の日干支が丙午とならないことです。 そこで月日吉祥句であって実際の暦日の表記ではないと説明されてきました。

[70] 確かにそのような慣習が無いわけではありません。 五月丙午 しかし、すっきりしない、 いささか不安の残る解釈であることは否定できません。 長年最有力の通説とされながらも、断定されずにいる要因であります。

[3] 仔細疑問を残しつつも、中核となる年代比定の部分に関しては、 昭和時代から現在に至るまで通説として広く支持されています。

[217] 現在の大韓民国でもこの説が通説となっています。 >>216

[277] 大韓民国の研究者 오택현 の論文は、七支刀の銘文釈読の諸説を丁寧に比較するものですが、 元号名の解釈は主要説を紹介した上で、 この説に賛同しています。 >>276

[362] なお、 >>1249金石文に文献史料の裏付けを与える強力な補強材料であると同時に、 当通説が干支2巡繰り下げ紀年論の1つの重要な物証となっている、 いわば循環論法のような状態であることには、特に注意が必要です。

[363] ややこしいのは、これが純粋な学問だけの問題に留まらないということです。

[364] 日本の一部の日本書紀信奉者は、干支2巡繰り下げを否定し、 日本書紀の記述それ自体の信憑性が裏付けられることを望んでいます。

[365] 大韓民国の一部の者は、任那日本府三韓征伐など朝鮮人にとって不快な記事が多い 日本書紀 (特に神功皇后紀近辺) の信憑性が毀損されることを望み、 干支2巡だろうが否定しようと試みます。

西晋泰始説

[238] 西晋泰始 (y~910) とする説がありました。

[175] 菅政友は「□月十□日丙午」と読みましたが、 長暦から

を候補に挙げました >>165 /280

[179] 現在の研究者の見解と合わせると「11日」はあり得ますが、 「6月」は合わず、該当する日がなくなります。

[180] 五月丙午吉日と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。

[203] 那珂通世はこの説を取りました。 >>197

[144] 近代日本では高橋健自以来「六月十一日」と読まれ >>197, >>121 #page=8 (高橋健自1914)三正綜覧によると西晋泰始4年6月11日は丙午であることから >>197, >>121、 有力視されました。

[5] この説は、銘文の解読が現在以上に不完全だった研究初期の断片的な情報から構築されたものです。 学説史的な歴史的意義はありますが、現在となっては支持されていない、 判明している字形と整合しない説です。

[470] ただ、令和時代に入ってもアマチュア歴史愛好家などの一部では、 第一発見者の観察を信じたいなどといった理屈のもと、この説を主張する者が、 少数ながらも一定数存在するようです。

[563] 安台洲の書籍では、

  • [564]泰祇󠄁四歳五月十六日丙午正陽

と読んで、西晋泰始4(268)年5月16日丙午正陽の日、と解しています。 >>565

[566] 泰祇󠄀4年は泰始4(268)年の同音異字であり、 彫刻師が彫り易い文字に勝手にすり替えているのだといい、 中国音への理解があれば問題ないが、古代の漢字訓みを絶対視する日本人には理解し難いところがある、 と従来説を批判しています。 >>565

[570] の書籍も同様の主張です。 >>569

[567] 祇󠄀と読んだ根拠はまったく説明がありません。

[568] 音通も、彫りやすい字への置き換えも、一般論としてはあり得るものの、 類似例の1つでも提示されないことには説得力はありませんし、 祇󠄀に置き換えることが彫りやすさにつながるのかも自明ではありません。

南朝宋泰始説

[158] 劉宋泰始4(468)年 (y~777) とする説があります。

[160] 百済王鎮東大将軍冊封されています >>121 #page=12

[161] 百済元号を使った例も知られていませんから、 百済元号を使ったとするのは難しいです >>121 #page=12

[173] 菅政友は「□月十□日丙午」と読みましたが、 長暦で合致する日はなく、 この説は否としました >>165 /280

[174] 五月丙午吉日と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。

[6] この説は、銘文の解読が現在以上に不完全だった研究初期の断片的な情報から構築されたものです。 学説史的な歴史的意義はありますが、現在となっては支持されていない、 判明している字形と整合しない説です。

北魏太和説

[233] 李進煕は、 「五月十一日丙午」 と読んで、 日干支では合わず、 (y~1355) なら合うと主張しました。 >>228

[20] この説はマルクス学派に人気があったようです。 >>270

[8] 銘文が「十六日」と判明した現在では、この説を積極的に支持する理由はありません。

泰初説

[239] 泰初と読む説がありました。

[215] 現在となっては荒唐無稽な説にも思われますが、 史書の表記が同時代の金石文の研究によって不正確だったと判明して訂正されることはままあります。

[1] 日本私年号の研究 は、 銘文を 「泰初 ((ママ)) 四年六月一日平午」 (明朝体) と引いた上で、 百済元号説、 西晋泰始説、 東晋泰和説などを紹介しています。 独自の判断は避けていますが、 東晋泰和説が定説化してきた、 独自説は否定されていると紹介されています。 >>1543

[13] >>271 は、

泰初と読んでいることを紹介しています。また、 泰始 (265-74) 初、 だとしています。

[16] なお、 >>14 >>15 は6月11日としています。 >>271

西暦548年説

[475] 日本考古学者村上英之助の論文は、 次のように主張しています。 >>474

[509] 当説の最大の特徴は銘文ではなく媒体編年を根拠とすることです。 決定打に欠く元号名の解釈を後回しにする戦略は、 この説の強みであると同時に弱点でもあり、史料不足による編年の不完全さ、 研究者間の見解の相違といった不安定な基盤の上でかろうじて成立しています。

[510] また、月日について、可能な解釈の幅を限定するべきでないと意識していたにも関わらず、 当時の通説に引きづられて1月から5月に限定してしまい、令和時代の現在新たに通説化しつつある 11月を除外してしまったのは、痛恨のミスと言わざるを得ません。

[511] 候補年の範囲を限定し、元嘉暦暦日を求めるプロセスは、 論理としては妥当なものと判断されますが、 現実にはやはり推算通りの運用が保証されると考えるべきではないでしょう。

[512] 当説そのままの採用は困難と思われますが、 考古学的編年の方法を適用したことには意義があります。 現在までの新たな考古学研究の進展も反映し発展させていくべき方法論といえるでしょう。

百済独自元号説

[857] 百済独自の元号とする説もありましたが、 当時百済では干支年が用いられたとして否定されています。 >>100

[226] 朝鮮民主主義人民共和国大韓民国で繰り返し独自元号説が提唱される (そして一部の人々から支持される) 背景には、 純粋な歴史学的興味だけでなく、植民地統治の反動という政治的動機があるようです。 朝鮮民主主義人民共和国大韓民国には、 百済高句麗元号を持っていたことを独立の証とみなし、 過剰な主張をする人々がいます。 七支刀については特にその銘文の解釈を巡って近代日本の通説の百済献上説と現代朝鮮の通説の百済下賜説の対立があり (現代日本の通説は対等的な贈与説か)、 神功皇后任那日本府と絡めて、 古代と近現代が接続した政治問題と化しているのです。

[181] 百済高句麗元号諸説については朝鮮半島の紀年法参照。
[468] 21世紀初頭、大韓民国で反日的風潮が高まった時期にこうした説が提唱されたり、 紹介されたりする動きが見られることは、安易に直結させるべきではないとはいえ、 無視できません。

[18] に考古学者の斎藤忠らが出版した書籍では、 金錫亨初期朝日関係研究百済私年号だとする、 と紹介しつつ (それ以上の詳細は言及なし)、 「泰和」を「太和」とする説と比べて、 「文字が異なる点その他」により、 百済私年号とする説が「適当としたい」と述べています。 >>271

[19] これだけの説明ではあまりに論理が飛躍していますが、 要するに通説に弱点があるので新説に飛びついたということでしょう。 既知の元号名と一致しないので未知の私年号に違いない、と。 「その他」が気になりますが、詳しい論拠が説明されていないので、 推測のしようがありません。

[17] 本書は□月十一日と読んで、月を四カとしています。 >>271 他に6月説があることも紹介しています。なぜ4を妥当としたのかは不明です。


[11] 大韓民国の歴史研究者張八鉉は、 百済私年号の事例があるとして、泰□もそうであると主張しました。 >>251

[12] 確かに一時、百済の元号の存在が他にも主張されたことはありましたが、 現在の研究では否定されています。 朝鮮半島の元号

百済泰和(5世紀)説

[87] (日本語訳は >>86)朝鮮民主主義人民共和国金錫亨 (김석형) ( - ) は、 三韓各国が日本国内にそれぞれ植民地を持っていたとする珍説を発表しました >>86皇国史観への「意趣返し」のようなもので学問といえるレベルにないものですが、 皇国史観バリアで穴だらけでもスルーされてきた日本古代史の基礎を固めるいい契機にはなったのかもしれません。 分国論

[469] 七支刀もまた「穴」の1つだったといえます。 金錫亨の説は日本の研究者の間でも紹介され、議論を喚起することになった、 という研究史上の意義は認められます。

[95] 金錫亨は、次のように主張しました >>86

[94] 論証なく百済元号とするこの説は論外だと評されています。 >>85 #page=4

[22] 続く訳の書籍では、次のように主張しました。 >>21

百済私年号大和(5世紀)説

[31] の独創的な古代史の主張の書籍は、 >>21 を引いて、 「年号を百済の私年号の「大和」(五世紀) 」 と紹介しています。 >>270

[32] ところが引用されている >>21 には5世紀の百済年号との説はある (>>22) ものの、 私年号とは述べていませんし、 大和なる私年号への言及は皆無です。

[33] 本書では >>21 説を紹介するものの、本書が独自に付加した(?) 「大和」「私年号」は、この紹介の部分で登場するだけで、 肯定的にも否定的にもまったく言及していません。誤読とも、 誤引用とも思われますが、誤りが生じそうな記述や類似書籍も現時点で見つかっていません。

[34] 大和なる元号については他にも朝鮮半島絡みで独創的な説があるものの、 ここでの話題とは少しずれていて、混入しそうとも思われませんが... 大和

[513] なお、 >>18 >>505金錫亨説を百済私年号の説と紹介しています。 当時の日本ではそのような理解があったのでしょう。

百済泰惣4(372)年説

[97] 大韓民国の歴史研究者李丙燾 (이병도) ( - ) は、 次のように主張しました。 >>85 #page=4, #page=5, >>121 #page=12

[106] この主張に対し、 日本書紀紀年については、元の日付はそれ自体誤ったものではないので、 恣意的に誤りとみなすことは不適切といわれます。 >>85 #page=5

[107] 西暦369年5月16日が丙午でないことについは、 五月丙午説が有力とされます。 >>85 #page=5

[108] また、馬韓統一も推測に過ぎず、記録にはありません >>85 #page=5。 この年に建元したとする根拠が見つかりません >>121 #page=12

[162] あるいは、と読まれるとすると、 東晋泰和4年が百済泰和元年だったことになり、 無理が生じます。 >>121 #page=12

[163] ただ、魏晋南北朝時代には近隣国が同時期に同じ元号を違う元年で使った例がないわけではありません。

百済奉□4(504)年説

[111] 20世紀後期の朝鮮人延敏沫は、次のように主張しました。 >>85 #page=5

[116] この主張に対し、七子鏡から七支刀の年代を決定するのは無理があるとされます。 >>85 #page=6

[100] 七支刀 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80

1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした[8]。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され[9]、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした[2]。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真[10]による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された[2]。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし[2][11]、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない[2]。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない[2]

銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる[2]。「泰」は「太」と音通するため[2]

5月13日説

[580] 日本国東京で開催された討論会に参加した朝鮮人の研究者孫永鐘は、 次のように主張しました。 >>579

[585] 会場の他の研究者は、五月丙午吉祥句だと反論しました。 >>579

[586] 会場のまた別の研究者は、北魏太和説でだと説きました。 >>579

百済

[220] 大韓民国の研究者 홍성화 (-) は、 「11月16日丙午」 の日干支と一致する日から、 に比定し (y~4165)、 泰○ (태○) は百済の独自元号と主張しました。 >>218, >>224

[227] 日干支が一致し、しかもそれが即位紀年の4年とも一致するのは、 大変興味深いところであります。 しかし百済が独自の元号を制定し利用していた根拠はこんにちまでまったく見出されておらず、 その事情が説明されなければならないでしょう。

[244] 近年の大韓民国では支持を得ている >>243 とされますが、 相応の根拠があってのことかは不明です。

[326] にも 홍성화 は著書 칠지도와 일본서기 でこの話題を扱っているようです。 >>325

[327] に紹介した新聞 Web サイト記事によると、 홍성화 の主張は次の通りです。 >>326

[342] 홍성화 は新たな論文を発表しました。 >>341

[343] この論文の内容は Webサイトで一般公開されていませんが、 概要は次のように主張しています。 >>341

[355] 冬至説は魅力的ではあるものの、概要から察せられる限りでは、 (中世の歴史書の) 即位紀年との一致以外の根拠は無さそうです。 詳細は内容を確認する必要がありそうですが、 これまでに提出された百済独自元号説諸説の課題は解決できていなそうに見えます。

百済泰和4(408)年(冬)説

[73] 大韓民国の研究者 조경철 の論文は、 次のように主張しています。 >>71

  • [74] 五月丙午の慣習の事例を調査した
    • [75] 月日が明示されているのは、実際の日であると考えられる
      • [76] 1月の事例はあるが、5月の事例はない
    • [79] 同じ月に丙午日があるのに、16日丙午とするのはおかしい
  • [77] 刀剣銘は5月でない事例があり、5月でなく11月や12月の可能性はある
  • [83]
    • [80] 369年5月27日丙午であり、369年5月16日説の成立可能性は最低
    • [81] 369年11月30日丙午であり、369年11月16日(壬辰)説の可能性は低い
    • [82] 369年12月3丙午日はなく、369年12月16日(丙午)説の可能性はある
  • [84] 日干支から可能性がある年 (表1)
    • [88] 11月16日丙午 : 5, 31, 98, 191, 222, 284, 315, 408, 439, 501, 532, 625
    • [101] 12月16日丙午 : 36, 67, 103, 129, 160, 289, 329, 346, 413, 537, 563, 594, 630, 656
    • [152] 泰和4年に合致する中国の年号はないので、百済の年号である
    • [166] 5月13日丙午よりの腆支王の年号とした説があるが、 5月13日とは判読できない
    • [200] 腆支王4(408)年11月16日丙午が一番近い
    • [201] 腆支王9(413)年12月16日丙午も候補となる
    • [202] 熊津・泗沘期の聖王と武王は年号を使用していないため、候補から除外される
    • [205] 漢城期(毗有王代)439年11月16日も候補となり得るが、
    • [231] 腆支王と倭の密接な関係を考慮すれば、腆支王代がより有力
      • [240] 腆支王代の408年と413年のうち、腆支王の即位と関連づけて考えるなら408年が有力
  • [257] 腆支王の代始改元とすれば、腆支王4年 = 泰和4年
    • [259] 腆支王は熾烈な王位継承戦を経て即位したため、 これを記念して 태화 (泰和) という年号を用いた可能性
  • [260] 当時の高句麗永楽を用いたことも参考になっただろう

[261] 当論文は豊富な事例と暦学的事実から論理的に導出されたかに一見思えますが、 いくつか致命的な問題を指摘できます。主要なものを挙げるなら、次の通りです。

  • [262] 丙午銘の事例を整理していますが、そこから「導出」 された適不適の判断基準は恣意的で客観性を欠いています。 既存説に都合が悪く、自説に都合の良い集計方法で合う、合わないと言っているに過ぎません。
  • [263] (主要な) 中国の元号にないから百済の元号だ、というのは飛躍です。
  • [264] 日干支の一致を11月、12月のみから求めていますが、この二ヶ月に限る理由がありません。
  • [265] この時代の農暦の復元の信頼性には保証がなく、 ましてや中華王朝に臣従していたかも定かでない時期の百済暦日と完全に一致していることを前提とする絞り込みは、 意味がありません。最低でも前後1,2日のずれや閏月による月番号のずれを加味しなければなりません。
  • [266] 候補となるを大量に列挙したところからのの選択の過程は、 あまりに大胆な仮定の積み上げで、「そういう考え方もあり得る」程度の参考にしかなりません
    • [267] 一番大きな問題は >>202 でしょう。意味が不明です。 (干支年の用例が知られている、 ということが言いたい?) この理屈でいけば、 「百済は年号を使用していないため、候補から除外される」 でこの議論はおしまいです。

百済奉元4(408)年説

[286] 大韓民国の研究者 박남수 の論文は、 奉元 (봉원 >>325, Bong-won >>285) と読むべき百済の元号であって、 奉元4年はに当たると主張しています。 >>285

[287] 次のように述べています。 >>285

  • [288] 傷跡を除外すると、奉元と読める
  • [293] 月番号は、の残画があり、 である可能性皆無、「十一」の可能性が高く、「十二」の可能性も排除できない
  • [302] 月日が正確な暦日かどうか、
  • [306] 他国にも奉元は見えない
    • [305] >>84 のうち、
      • [307] 11月16日丙午 : 西涼 李暠即位8年 = 建初4年(408)
      • [308] 12月16日丙午 : 陳 文帝即位4年 = 天嘉4年(563)
      • [309] ... は他の元号がある
    • [310] 古代東アジアで王の即位4年で日干支が丙午なのは腆支王4年のみ
  • [311] 従って七支刀の製作は奉元4年 = 腆支王4年(408)11月16日丙午と確定できる
  • [312] 日本書紀神功皇后49/50年の遣使記事は、 応神天皇15/16年の遣使記事に対応する
    • [313] 神功皇后49年条の木羅斤資の子である木満致は、 久爾辛王が即位した際の政治家なので、 神功皇后49年 = 応神天皇15年 = 腆支王即位元年
    • [314] 従って神功皇后52年 = 応神天皇18年 = 腆支王4年
    • [315] 現在の通説では、神功紀と応神紀の記事は重複と理解されているようです。 しかし、ここで主張されているような単純な計算で紀年を修正できるという考えは、 あまり一般的では無さそうです。

  • [316] 「奉元」は「元を奉ずる」という意味
    • [317] 春秋公羊伝隠公元年の注 「當繼天奉元養成萬物」 >>318 が典拠か
    • [319] 「王者は天の意思を継承する」という儒教的政治理念により制定された
    • [320] 乾坤と陰陽の調和に関する儒教的理念を投影し、 天の意思を継承した王者であることを宣言したもので、 魯隠公の故事を参照ないし採用したものと推測される
    • [321] 儒教的理念が投影されたことから、 晋から受容した新知識を備えた僧侶王師や五経博士のような存在が関与したと推測される

[294] 銘文解読については、非常に慎重に議論を進めているものの、 文字の痕跡と認めるか、ただの疵痕に過ぎないと見るか、 の判断が恣意的とも思われ、容易に賛同し難いと言わざるを得ません。 仮にこの判断を認めるとしても、問題は残ります。

  • [295] 1字目のとされる部分の実際の残画は、|の左右で分離されており、 従って通説がと解釈します。この現存字形のあり方は安易に無視できません。
  • [296] 2字目のとされる字形は、 一般的な字形とあまりにバランスが異なる上に、 七支刀銘文中央線と比べても左に異常に偏りすぎています。
  • [297] とされる字形が延寿元年銘のと似ているとされますが、 率直に言って同意しがたい、という程度に異なります。
    • [298] しかも延寿元年銘のの字形は一般的なと大きく異なり、 と読むのが正しいかには議論の余地があります。 少なくても、他の文字の判読の根拠として耐え得るものではありません。

[322] また、丙午の解釈に関してはの違いや誤り、 踰年改元などの暦法的概念を駆使して吉祥句説を排除する一方で、 の選択の過程ではこうした揺れの可能性に一切言及せず、 「百済は正確な暦法を運用していた」 で押し切っているのも、重大な問題です。

[323] 引用されている >>73 は、のずれの可能性を考慮していないことが問題でしたが、 当論文は他説に都合の良い論理はのずれを使って否定し、 自説の核心ではの厳密性を主張する、 という二重基準を適用しており、その恣意性は批判を免れないでしょう。

[324] 当論文の他の部分では、 経度差による北京ソウル大阪冬至のずれを計算しています。 最終的にこれらの「事実」認定を基礎に、 百済建元によって治天下を宣言したと論じているのですが、 そうであればこそ、 漢土の制度に基づき「正確」な暦法と無邪気に評価することの妥当性は無視できません。

[358] 論文の日付に先立つ には、 박남수백제 전지왕 ‘奉元四年’銘 칠지도와 그 사상적 배경 と題して学会で発表しています。 >>356

[359] 当該セッションでは 홍성화 が指定討論者を務めています。 >>356

[360] その模様は動画で配信されています。 >>357

[340] 新聞 Web サイト記事で、 박남수 の主張が紹介されています。 >>326 内容は論文と同様です。

[515] に発表され >>516の著書に収録された論文 七支刀の製作年代 は、 宇都宮大学教育学部に所属し、 昭和五六十年代に紀年論を研究した稲田晃が、 七支刀日付を検討したものです。

[517] 次のように主張しています。 >>514

[559] 当説は、第2字をと読むことと、日干支の一致から、 百済の独自の元号と結論付けています。 時期的には朝鮮人らによる百済元号説に遅れますが、 それらを参照せず独立して導出されています。

[560] 日干支から年を決定する、という手法は他の独自元号説と共通していますが、 月番号と判読したために、 21世紀の大韓民国の諸説とは異なる結論に至っています。

[561] 日本書紀泰初という「誤記」の謎を説明できる、 大変面白い説ですが、日本書紀の編者が七支刀を実見する機会を持ったかは全く不明ですし、 そこから泰初の「誤記」へも飛躍があります。

[562] しかし、 七支刀の伝来の過程を追求し、 明治時代の再発見より前に完全な銘文を読んだ人が存在した可能性を追求する、 という研究の価値を示唆してくれる、 とても興味深い論文といえるでしょう。

[587] なお、 OpenCode の既定のモデルが自らプログラムを作成し平均朔望月による近似計算を行った結果は、

  • [588] 362年 第4月(4/10朔): 16日=04/25=丙午 ✓
  • [589] 362年 第5月(5/9朔): 16日=05/24=丙子 ✗
  • [590] 362年 第6月(6/8朔): 16日=06/23=丙午 ✓

... であり、丙午日となるのは5月16日でなく4月16日とされます。

[591] もちろん、暦法次第で如何様にも解釈できるのですが、 干支日を使う方法の脆弱性を体現しています。

[572] 日本の歴史愛好家坂田隆の書籍では、 次のように主張されています。 >>571

[594] なお、太興のことは現在の資料では大興と表記されることも多いようですが、 特に問題とはなりません。

[592] 当説は、日干支の問題への見解を示していません。

[593] 近似計算 (>>587) によれば、のどの月も16日丙午ではありません。

[45] 令和時代初期の日本の歴史愛好家が、 通説である東晋太和4年説では時系列に問題が出るとして、 説を提唱しています。 >>387, >>44, >>388

[392] 当該説が発表されたブログの他の記事では「隠蔽」など陰謀論じみた主張も見られるものの、 七支刀関連ではそこまで飛躍していません。 当該説が発表された同じ動画では「物語編」と称して自ら「フィクション」 と断った、史料的根拠が皆無ではないかとも思われる独創性溢れたストーリーが語られますが、 一応「銘文解釈編」と分離されてはいます >>388

[393] ブログ記事では、 次のように主張しています。 >>390, >>387

[46] の愛好家団体記事では、 太元が選ばれたのは、 1文字目がで、時系列が論者にとって都合が良いものを探したに過ぎないのではないかと思われます。 「二文字目が剣身上から消滅してしまった現状では、真実は歴史の闇の中」 と述べており >>44、銘文解読の努力は端から放棄しているようです。 月日との整合性にも言及が皆無です。

[405] 動画では、 次のように主張しています。 >>388

[472] の対談動画でも、 太元4年説を主張しています。 >>471

[443] のブログ記事等では、 CT調査による第2字のの判読について、 銘文中の他の文字と字形が異なるとし、 疑問を示しています。 >>441

[430] 当説は、従来考慮されてこなかった (少なくても学術論文の形で明示的に議論された記録が見当たらない) 次のような論点を提示したことに、一定の価値が認められます。

[434] 一方で、次のような致命的な欠陥を抱えています。

  • [435] 第2字がと読めることの論証を放棄している
  • [436] 時系列が通説より整合的、という弱い論拠以外に太元に比定する根拠が皆無
  • [437] 月名は用例なく決められないとしながら、 「丙午正陽」は用例なく時間表現と断定する一貫性の無さ
  • [438] 日干支性の否定の根拠の脆弱さ
  • [450] 百済の習熟云々の荒唐無稽さ

[440] なお、第2字をと読むことについては、 (成立するかはともかく) 奉元説が提起されています。それと同程度には蓋然性があるとは言えそうです。 (まったく新規の元号名である奉元よりはむしろ蓋然性が高いとも言えます。)

[449] https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIchEgWw5bZ&pp=0gcJCSIANpG00pGi (>>388 の投稿者自身によるコメント)

『復元七支刀』(鈴木勉・河内國平編著/雄山閣/平成18年)で、石上神宮所蔵のカラー写真、橿原考古学研究所所蔵のカラー写真およびモノクロ写真、奈良国立文化財研究所所蔵のX線写真を比較検討して詳細な考察がなされています。 そこでは、「のぎへんの可能性が高い」とはされていますが、必ずしもそうでない可能性もある画像が掲載されています。

[456] https://www.youtube.com/watch?v=odu6DvvdSeE&lc=Ugz_mskgs1xovFGm-dl4AaABAg.ATvwpXC2jiwATvyx8UfOvc (>>442 の投稿者自身によるコメント)

百済以外で作られた可能性もあると思います。 五胡十六国時代のどれかの国が独自の元号を持っていた可能性とか。

曹魏嘉平説

[52] 三国時代嘉平 (y~573) に比定する説があります。 説得力ある根拠は提示されていません。


[48] 日本の歴史愛好家の書籍は、 通説である日本書紀神功皇后時代の干支2巡120年繰り下げによる紀年修正説は成立しないと主張しています。 >>47

[49] 七支刀銘文の年号については、レントゲン照射でも不明であるとし、 神功紀五十二年 = 西紀二五二年 = 魏嘉平三年であると述べています。 >>47

[50] ただし、は、 本来で、 とは1年ずれています。

[51] 本書は「嘉平四年=二五四」とも書いており >>47 /222、 ここでは2年ずれています。


[53] 令和時代日本で提唱された独創的な説は、 次のように主張しています。 >>54 書籍 p.27 前後

  • [55] 日本書紀神功皇后52年 = 西暦252年 = 魏嘉平4年
  • [56] 七支刀は一致している。第1字がなら、一致する
    • [57] あらゆる歴史家が第1字をと読むのを前提としてきたことに問題がある
  • [58] は複雑すぎ、刻字しづらいから簡略化され得る
  • [59] の音の仮借とするのは、根拠のない俗説

[60] 論者は、これをもって日本書紀紀年が実年代と一致し、 干支2巡120年繰り下げの通説が否定されたとし、 日本書紀紀年をそのまま読むのが正しいと主張しているようです。


[61] 銘文の第1字が容易にと読めてしまったために、ほとんどの論者はこれを出発点とし、 疑ってきませんでした。異説はあってもと読むものでした。 日本書紀七枝刀条と結びついた時点で、 神功52年 (ないしその少し前) 説は当然検討されているべきものだったはずです。 この点は >>57 の批判に一分の理があります。

[62] といっても、銘文の解釈にはやはり銘文それ自体が重視され、次にその媒体が考慮され、 その後にようやく関係しそうな他の史料を援用されるべき、という優先順位を見失ってはいけません。

[63] >>49 説は銘文解読を諦めて推測に移ったものであり、 銘文の一部が読めることが知られている今となっては、 議論の対象となり得ません。

[64] >>53 説は、第2字をまったく検討していないという点で、 第2字の一部の字形が知られている令和時代に新たに提出されたにしては物足りないものです。 しかも、第1字が明らかにと読める字形であることへの反論がありません。

[65] 第1字がの簡略形だと主張し、の字形が揺れ得ることまでは示していますが、 七支刀の字形に似た物は1つも提示できておらず、第1字がである、 とは机上の空論に過ぎません。


[275] なお、この時代感を保ちつつ1文字目のを重視したのが、 研究初期の西晋泰始説で、に当たります。 ただし、その場合は日本書紀七枝刀より少し後の時代になるので、時系列は微妙に合いません。

西暦439年説

[245] 令和時代日本で活動する大韓民国人の言語学研究者が説を主張しています。 >>243 北燕系の亡命政権が百済にあり建元したと説明していますが >>254、 具体的根拠は示されておらず不明です。 この年に比定されるのは、 銘文と文献の人名の言語学的比定と、 11月16日が丙午であることによります >>255

[249] 西方にあった異民族政権の1つ後仇池建義 (y~193) の4年がに当たります。 しかしこれが百済で用いられた可能性は地理的に皆無と思われますし、 元号名がまったく類似していませんから、無関係でしょう。

[2] なお、北燕の王族が百済に亡命して政権を立てたとする説は、 少なくても現代の歴史研究者の間で有力学説として存在することは確認できません。

その他の説

[192] 星野恒は、 当時日本にも韓土にも当時元号がないとして、 漢土元号に候補を求めました。 >>184

[193] 星野恒は、 「泰亻□」 と読んでいましたが、 前漢武帝泰初泰始を候補に挙げつつも、 様式からこれを否定しました。 >>184 太初 (y~503), 太始 (y~1486) を指すと思われます。

[208] 喜田貞吉は、 前漢前秦南凉西秦太初後趙成漢東晋北魏「等」の太始を、 日干支から否定しました。 >>197

[229] 福山敏男は、 を候補としました。 >>228

[194] 他の研究者も、明記せずとも同様の検討を経ていると推測されます。

[35] 日本の独自元号説, 新羅, 高句麗, 任那の独自元号説, 漢土の小勢力の独自元号説などは、 提唱や検討された事例が見当たりません。

[268] 中華王朝の元号とする説を否定する論者は、当然、 こうしたあらゆる可能性の中から論理的に最も適切なものを選ぶ手続きが要求されるのですが、 なぜか「中国の元号にないので百済の元号としか考えられない」のような短絡的な論考ばかりです。

[269] 銘文百済らしき名称があることによっての推定なのでしょうが、 そうだとすれば、最低でもそのことを明記する必要があるはずなのに、 それを欠いて先走りがちです。

[272] しかも、銘文百済が登場しても東晋元号だと考えられてきたのですから、 同様に他の国の元号だったという可能性も、自動的には排除されないはずです。 例えば「高句麗に臣従し高句麗の元号を使った」 「北朝に臣従し北朝の元号を使った」 「日本に臣従し日本の元号を使った」 「百済のように見える銘文は実はそうではないので百済とは関係ない」 のような可能性よりも「百済は独自の元号を使っており、銘文にもそれを使った」 とする可能性の方が十分に大きい、ということを論証しないことには、 問題領域の一部を論じただけに終わってしまいます。

[274] また、 東晋説など既存説を否定するのであれば、 時代の絞り込みもふり出しに戻ることに注意が必要です。 日本書紀の120年の「ずれ」も、 七支刀の存在がその重要な物証の1つなので、 これを使わずに時代を特定する論証が要求されます。

[366] 例えば次のような可能性も、論理的には有り得ます。

  • [373] 高句麗正朔説
    • [367] 広開土王碑によれば、百済は高句麗に臣従した時期がある。
    • [368] このとき百済が高句麗の元号を文書・金石に使用したとしても不思議はない。
    • [370] 高句麗の元号は断片的にしか知られていない。
    • [371] 「泰□」が未知の高句麗元号である可能性は百済独自元号説と同程度の蓋然性で存在する。
  • [374] 加羅関与説
    • [375] 加羅は鉄資源と製鉄技術で知られ、倭との関係が極めて深かった。
    • [376] 七支刀の製作技法・様式に加羅系技術者の関与があった可能性は排除できない。
    • [377] 加羅に独自元号の慣行があった証拠はないが、 百済独自元号説と同程度の蓋然性とはいえる。
  • [378] 日本の私年号
    • [380] 4〜5世紀の倭に中国式元号の慣行があったとは考えにくいが、
    • [381] 後世 (7世紀以降) の私年号として「泰□」が倭で作られた可能性は皆無ではない。
    • [382] ただしその場合、日本書紀の七支刀記事との年代整合がさらに困難になる。
  • [460] 避諱元号
  • [464] 小勢力元号

[38] 七支刀偽造説を提唱する者もありました。その論拠の1つには、 元号年がどの説によっても辻褄の合わないことが挙げられています。 >>37

[39] このような説は、十分な根拠があるものとはいえず、現在では支持者はほとんどいないと思われます。

[40] 偽造説によればの不整合は解決されるかのように思われますが、 逆になぜ不審なを記したのかが新たに課題となります。

[41] 記録が失われた時代に雑に作ったからだ、などと再反論することになるのでしょうが、 だとすると元号名年月日は意味のない文字列で、その解釈の試みはすべて無価値ということになってしまいます。

[42] この他、一時期朝鮮人の間で銘文改竄説も行われました。 >>577, >>36 やはり十分な根拠なしに行われているもので、しかも改竄のメリットも不明瞭です。 現在では支持者はほとんどいないと思われます。

[43] 偽造説や改竄説は、同時期に作られたとされる他の金石文にもひととおり提起されています。 そうした可能性が提示され、慎重な再検討が加えられること自体は意義のあることです。

[578] ただ、一部で行われたような確証も無しに捏造を主張する論法は、 先人への冒涜に他ならず、仮に政治的・思想的な立ち位置が相容れないとしても、 酌量の余地もありません。

[246] >>243説を提示していますが、その根拠は、説明が皆無のため不明です。

[247] 百済蓋鹵王即位年がとされます。 しかし蓋鹵王即位改元にしても、 前王の代始改元にしても年数が合いませんから、 百済の元号とするには難しさがあります。

[248] 北魏興安 (y~449) は3年で改元されましたが、4年がに当たります。 しかしこれが百済で用いられたかには疑問が多いでしょうし、 元号名がまったく類似していませんから、これに比定する説とは思われません。


[445] >>388 / >>442 コメント欄には、視聴者から次のような説も提示されています。

[446] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIcSc_h19Du

泰和、泰祝、泰平、奉和、奉祝、奉天などでしょう。傷かもしれませんが画数が多そうではあります。四の中に横線が2本入ると酉の篆書体で369年も酉年なので捨てがたいです。年は右に傾いているのが気になります。海なら右に傾いてもおかしくないです。十一月十六日ですが六の線が妙に中央よりなので丙で十干の丙年かとも考えたのですが六は兴(興)にも見え、王や世子の荘重な表現として十興して曰くとも考えてみました。十は王の一部とするか、肖はシャオなので仇、首あたりは十(ジュ、シュ)と音も近いと思います。

[447] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIcYG_ELind

ただタガネの跡と経年劣化による錆、傷の区別や浅い跡、特に複雑な曲線はそれほど深く入れられないのではと思います。祝でも深い縦線は入るでしょう。示編と禾編は縦線が上の横線まで繋がるかどうかの違いですし。

[448] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgyTXJXVyeS2Vp7E3BR4AaABAg.AILXQ3Hwq80AIg8EJxYDWp

示へんは点の下に不をつけた形(左下へのはらいが曲がっている)のようですが、右側がはっきりしないのですが、単純な口でないなら祝、の右側に跪いた人の形の兄か、和と混同された調和を意味する音を出す龢(鐘)なら複雑な形にもなると思います。百済側としては下手に出ている感じなってしまう気もしますが、泰の跡を見ると横棒がはっきり繋がっているので奉かなぁと。百済は年号に対して関心が薄いようにも思います。

[451] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=Ugywb_54-UXNzrQPT8h4AaABAg

CT画像を見た上で一応解読終了したのでお知らせ致します。(表) 奉禴四方中 禹月一六日丙午正陽 告百錬續七支刀善辟百兵 宜使供候王併示佯後孫 (裏) 先世未有此刀 百濨王世子寄生聖意 故為倭王旨善徳示後世 (表)四方に(春の)奉禴せし中、禹月一六日丙午正陽(太陽歴369年5月16日)に、

[452] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=Ugywb_54-UXNzrQPT8h4AaABAg.AKLzZ7-oKlgAKMLg4kUl89

示す編であるにせよ。右が口ではなく冊の様なものが見えるので口ではなく龠と判断しました。和の場合には左右逆もあり得るのですが禴はヤクで和は龢でないと和にならないようなので周禮の春の祭事の豊禴ホウヤクとしました。年は卂のように見えますが鳥と関係があり方も同じです。それが四方に行われた後で七支刀を百錬続せよとの命令がなされたのが太陽歴の丙午正陽が丁度5月16日に当たるので太陰暦369年丙午正陽7月8日頃より正陽なので適切と考えて其のように訳してみました。

[453] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=Ugywb_54-UXNzrQPT8h4AaABAg.AKLzZ7-oKlgAKMV_54cUOR

荒目のct画像で見ると右側は呂のように強めの線で見えたものが詳細画像ですと下部については卌のような線がある事が示す編と同程度の強さの線を抽出して見ると分かる様に思います。祝ではないと直ぐに思い、それで龠の篆書体の下部と判断したのですが、上部に関しては確かに良くわかりませんが他に適当な文字が想定できません。しかし奉禴であれば東晋年号でないので東晋冊封下でない369年の問題は消失すると思います。龢(和)の誤字かもしれませんが。大禴というもの周禮の君主が行う奉禴でありますし四方中への奉和でも年号ではなくなるでしょう。篆書体では元の左下も折れ曲がる形があり、二つ並んでいる書体もありますが三本線があるようなので元ではないかなと思いました。

[458] @潤也藤原, https://www.youtube.com/watch?v=odu6DvvdSeE&lc=UgyIGNW-aVzCM_KXakl4AaABAg

最近CT画像をiPadで画像処理(露出・ブリリアンスで明暗調整+精細度最大)すると細い線が分かりやすくなる文字がいくつかあると思うようになりました。禾については不に類似したタイプで、同形の示後世や示詳後孫と思われる小の部分も折れ曲がりの線で書かれているとこの部分から判断しています。右側は下半分がが𠘨のようなのが写っていますが、春の周礼祭祀の奉禴と文脈上から判断します。四は下部分が装飾的で酉年でも369年ですが、年は訊・訪という字形が関連した複雑な線で、禹の文字は意外と見易い筈ですが、上はセットになる大、夏、戎あたりでしょう、農歴369年5月16日は半島の方がより正確に丙午正陽のようで、計算は私は無理なのでAI頼みです。年号でなく大奉、奉禴酉年や四方であれば、問題はないと思いますが、369年ではマズイでしょうか?


[467] >>388 コメント欄には、視聴者から次のような説も提示されています。

[454] @kimioitou, https://www.youtube.com/watch?v=Fsz7HrAV2NA&lc=UgxnA6aL7Kd0XFUVwaN4AaABAg

製作年はヰソキネ22歳の垂仁39年10月…ヤマト暦天鈴727年ヱト"サシヱ"干支"丙子"西暦436年…好太王碑391年辛卯の崇神62年シホノリヒコ任那派遣そして8年後の垂仁2年再派遣から37年後の出来事でした…銘は後の朝鮮帰化人が刻んだもの…歴史年表正しましょう…。😄記紀原本ホツマツタヱより


[596] >>99 >>589 >>454 も一応踏まえつつ、 日干支丙午丙子と解釈してみるのも面白い着眼点ではありそうですが、 銘文の字形では無さそうで、 相応の論理を構築する必要があるでしょう。


[66] 諸説は銘文の解読と歴史的背景の整合性を主要な論拠・論点としています。

[67] 媒体である七支刀自体の様式論的な方向の議論は皆無ではありませんが、 年代を決める決定的な要素として扱われてはいないようです。 類例があまりない物ゆえに比較基準も明確ではないのでしょうし、 神宝で文化財なので科学的な測定も気軽には行えないという事情があるのでしょうが、 今後の進展が望まれます。

[361] 銘文は4世紀の南朝的な漢文との評価もあるようですが、 これまでの年代決定の議論であまり重視されてきていない要素のようにも思われますし、 こうした評価が元号名の解釈と独立してなされているか (循環論法になっていないか) は常に留意する必要があります。

暦学的手法の適用について

[597] 多くの論者は、年月日干支の記載から該当する暦年を特定しようとしています。 ところが、各項にある通り、その多くが方法論的な不完全性を抱えています。

[598] 暦法の差異など、この種の議論が採るべき手続きや配慮が必要な事項などをまとめた指針を、 AIシステムに執筆してもらいました。

[599] 新説や既存説の再検証などを行う人は、この手引書の提示する手順に従うことで、 暦学的に誤った又は不十分な行論のおそれを軽減できます。

[600] また、既存説については、 当該説がどの領域に目を配れており、どの領域へは注意が欠けているのか、 客観的かつ網羅的に評価するための基準として活用できます。

[602] 同時に、実際に16日丙午となる暦日がどの年、どの月に存在した (存在し得る) か、当指針に則った網羅的な計算で一覧表を作成してもらいました。

関連

七支刀

紀年論

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[543] glyph
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