[15] 中華文化圏では、貴人の名前に使われた文字を他の目的で利用しない避諱なる慣習が行われてきました。 避諱は品詞や一般名詞・固有名詞の別を問わず広く適用され、 日時表示の語句も例外ではありません。
[16] 人名に使われる漢字には偏りがあります。 元号に使われる漢字にも偏りがあります。 人名に頻用される漢字と元号に頻用される漢字は必ずしも同じではありませんが、 重なるところも多いようです。 文字や字義の持つイメージや語感、理想像の反映といった命名の基準となる方向性が共通しているからでしょう。 少なくない元号名が避諱の対象となっています。
[17] 避諱は、読者にとって文意の理解が難しくなる迷惑な風習でありつつ、 時代判定のヒントになるという便利さもあります。 日時表示でもそれは同じことで、 謎の元号名で時代の特定が難しくなったり、 誤解の元になったりもしています。
[41] 避諱が適用された元号を避諱元号といいます。 避諱前のオリジナルの元号名を避諱前元号、 避諱後の改変された元号名を避諱後元号といいます。
[7] 避諱が必要になった時点が当該元号の利用期間中である (次の改元の前である) 場合と、既に改元された過去の元号である場合とがあります。 漢土では原則的に後者となります。 朝鮮半島では前者も出現します。
[9] 避諱一般と同じく、避諱にはいくつかの手法があります。 避諱によって欠画したものと、 文字の順序を入れ替えたもの、 他の文字に置き換えられたものがあります。 置き換えは元号名2字のうち1字のものが多いですが、2字のものもあります。
[12] 同じ避諱前元号が、複数の異なる方法 (別字など) で避諱されて使われていることがあります。
[8]
日本私年号の研究では避諱年号は公年号に含まれるとしています。
>>1543 p.
[38] 避諱の元号の存在は古くから知られており、研究も多いですが、 説明的な記述が多く、 1語になった避諱年号の国立国会図書館デジタルの初出はの朝鮮史研究者秋浦秀雄の論文です。 >>37
[39] 後に藤田亮策の論文や 日本私年号の研究 でも使われています。 >>7862, >>1543 その後も朝鮮史関連の論文でたまに使われています >>45。
[40] 避諱年号という語は、避諱された結果と目される元号が避諱年号であるか、 ないか、と表されます。 >>37, >>7862 避諱される前の元号を表す語は特に無かったようです。
[42]
藤田亮策の論文では、
立安を避諱年号の1つとして挙げつつも、
当時の用例ではないので真の避諱年号とは言い難いとも書いています。
>>7862 #page=49
日本私年号の研究
も同じことを書いています。
>>1543 p.
[43] このような考え方になるのは、 実用当時から避諱が行われ得るという朝鮮史の特殊事情が影響していそうです。 漢土の諸王朝では、避諱しなければならないような元号名を選ぶことが原則的にあり得ないので、 必然的に避諱は後世になって記述するときのものになります。
[22] 泰初, 鴻佳, 白亀, 宋暦, 延祥は不明なため避諱元号の可能性が検討されたこともありますが、 今のところその証拠は見つかっていません。
[10] 朝鮮半島では、 中華王朝と朝鮮半島国家の二重の避諱が行われたという特殊性があります。 当代の朝鮮半島国家の王家の避諱だけでなく、 宗主国たる中華王朝王家の避諱も適用されます。
[11] 中華王朝は避諱しなければ使えないような元号名を選ぶことが始めからありません。 ところが朝鮮半島国家で避諱していることを中華王朝は気にせずに元号名を決めますから、 中華王朝の属国である朝鮮半島国家は避諱字を含む元号を使わざるを得ないことがあります。 そこで現用する元号名が避諱後元号であるという事態が生じます。
[21] 피휘(避諱) - 한국민족문화대백과사전, https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0060499
세조의 휘자 ‘융’의 경우 ‘정륭(正隆: 금나라의 연호)’을 ‘정풍(正豊)’으로 바꾸어 썼고, 태조의 휘자인 ‘건’의 경우 ‘건안(建安: 후한 헌제의 연호)’을 ‘입안(立安)’, 그리고 ‘건염(建炎: 남송 고종의 연호)’을 ‘입염(立炎)’으로 바꾸어 썼다.
혜종의 휘자인 ‘무’의 경우 ‘홍무(洪武: 명나라 태조의 연호)’를 ‘홍호(洪虎)’로, 후한 무제(武帝)를 ‘호제(虎帝)’로 바꾸어 썼다. 또한 966년(광종 16) 5월에 세워진 문경의 봉암사 정진대사원오탑비(靜眞大師圓悟塔碑)에 ‘무반(武班)’이라는 관직을 ‘호반(虎班)’으로 피휘하였다.
성종의 휘자인 ‘치’의 경우 ‘지치(至治: 원나라 영종의 연호)’를 ‘지리(至理)’로, ‘혁거세 치(治) 육십 년’을 ‘혁거세 이(理) 육십 년’으로 각각 바꾸어 썼다.
심한 경우 ‘건륭(建隆: 송나라 태조의 연호)’을 ‘준풍(峻豊)’과 같이 글자를 모두 뜻이 통하는 다른 글자로 바꾼 경우도 있어 조사를 할 때 세심함이 요구된다.
[1]
日本にはアジア大陸のような体系的で確立された避諱の制度がほとんどなく、
雑多な個別的事例が報告されているに過ぎません。
[80] 日本の元号については、 年号定で天皇の名前との類似が問題とされたことはあります >>79 が、 後から日本人が元号を改名した事例はほとんどありません。
[81]
清国人が日本の元号を避諱した例があります。
[59]
唐土の慣習に影響された日本人が丙
を景
と書いた事例はままあります。
[2] アジア大陸では元号の避諱が昔から行われており、 元号一覧的資料で避諱元号を集めたものや、 各種文献の注釈で避諱について説明したものなどが多数あります。
[3] 学術用語としての避諱年号は、近代日本の朝鮮史研究で出現したものが早い例です (>>38)。 朝鮮半島では中華王朝と半島国家の二重の避諱が行われたという特殊性と朝鮮半島の紀年法の複雑性から、 避諱元号が特に注目され研究されることになりました。
[5] 近現代の学術研究の中では元号研究の視点で避諱元号を扱ったものは、 朝鮮半島のものなど個別具体的な追求を除けば、それほど多くありません。 どちらかといえば避諱の研究の中で元号についても扱ったものをよく見かけますが、 どうしても元号としての側面の検討は薄めになります。
[6] 令和時代初期の時点で東アジア全体をカバーした避諱元号の一覧資料は無く、 総論的な研究もほとんどありません。
[14] 避諱元号の中には、異表記の元号名の発生理由を検討したところ、 避諱に起因していたと判明したものがいくつかあります。 漢土の元号には事情が不明の異表記が存在するものが数多くあり、 その中には避諱によるものも含まれると考えられますが、 検討は進んでいないのが現状のようです。