[8] 戦後 (y~1759) は、 大東亜戦争の終戦の翌年である昭和21(1946)年頃を元年とする紀年法です。 いくつかの流儀があります。
[9] 日本では第二次世界大戦やその戦後復興に関する事項を扱う際に 「今年は戦後○年」のように表記されることがよくあります。 終戦の日のある夏に使われることが多く、 年末年始に使われることもあります。
[11]
確かに年を表す手法ということで広義の紀年法なのでしょうが、
日付表記や年の表示に実用されないのであれば、
「スーパー開店3周年」のようなものと同様で、
元号や西暦と同種の狭義の紀年法として扱うべきものではない、
紀年法の成熟度の低いものでしょう。
[300] に発表された日本の天皇陛下 (現在の上皇陛下)のおことばの冒頭に、 「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。」 とありました。 >>298 日本政府の宮内庁の Webサイトに掲載された英文版には、 同じ部分が 「A major milestone year marking the 70th anniversary of the end of World War II has passed, and in two years we will be welcoming the 30th year of Heisei.」 とありました。 >>299 陛下は日頃からご自身の発言の英文版のことも気にかけていらっしゃったと言われます。 重要性の特に高いこのおことばが英語でどのように訳されるかにも、 大きな関心をお持ちだったに違いありません。
[301] ここでは「平成30年」の英訳が「the 30th year of Heisei」 という一般的な元号年の表現であるのに対し、 日本語では同じような表現の「戦後70年」の英訳が 「the 70th anniversary of the end of World War II」 と全く異なる表現になっていることがわかります。 この英文からは「戦後70年」にまったく紀年法的性質が感じられないのです。
[294] 普通は大東亜戦争の終戦の頃を0年と数えます (y~1759)。
[78] 戦後暦は、 昭和時代に 元号法案が検討されていた頃、 日本の極左活動家の明良佐藤が考案し、 手紙などで使い始めたものでした >>14, >>16。
[59] 明良佐藤は、 昭和59(1984)年の 「戦後40年」版以来毎年戦後カレンダーを発行しています >>39, >>14。
[82] 日本語の戦後の他、 英語では After The War と直訳するようです。
[81] 戦後カレンダーには、 年号が日本語で 「戦後70年」、 英語で 「After The War 70」 のように記載されています >>14, >>122。
[80] 8月15日を年始とします >>14。 の昭和天皇の玉音放送に因んでいるようです。 このため1つのグレゴリオ年は2つの年に分かれます。 8月は前半と後半で別の年となります。
[125] 8月15日は、 新年始と前年末になります >>16。 年末を8月14日とする説明もありますが >>124、 考案者本人は8月15日から8月15日までが1年としています。 戦後カレンダーには 「2014.8.15 ▶ 2015.8.15」 と範囲が西暦で記述されており、 両端が8月15日となっています。 >>14 両端は厳密には正午とするようです >>164。 ということは月どころか日が2つの年に2分されることになります。
[99] の後半が、元年となります。 の前半が、元年と2年となります (y~1759)。 グレゴリオ年の前半は 1945 を引き、 後半は 1944 を引くと、 戦後暦年が得られます。
[103] までは、 明治、大正、昭和と続いた 「元号」 で表されます。 >>16
[104] 以後は、 「戦後元年、二年、三年」 と戦後紀元で数えます。 >>16 戦後歴ともいいます >>122。
[105] この戦後紀元の意味は、 「一九四五年八月十五日に至る大戦争で失われた命こそ紀元となる価値」 であるとされます。 >>16
[118] 一般にが大東亜戦争の終戦とされますが、 それによって直ちに戦闘が終了したということはありません。 それ以前と以後を区別する意味はあるのでしょうか。 戦後何年と数えるだけならともかく、 この日をピンポイントで選んで 「失われた命」 を数えると、 それ以前に失われた命とそれ以後に失われた命に、 何らかの差別を与えることになってしまいます。
[123] 「戦争による死者に思いを馳せることが戦前へ二度と後戻りさせないことの歯止めですが、戦後何年と数えつづけることが、戦争を起こさせない象徴ともなっているのです。なぜなら、戦争を日本が起こしてしまえば、それこそ「戦後何年」と数えられなくなるのですから。」 とも説明されています。 >>122 日本の紀年法として考案されたもの (>>100) であるためか、 日本以外の戦争は数に入っていないようです。 また、 日本が開戦しないことだけが目的で、 他国が日本に宣戦することで 「戦後」でなくなる可能性は考慮されていないように読めます。 (しかし戦後カレンダーの戦死者数にはなぜか他国の死者もカウントされているそうです。)
[117] ここでは戦後は元号とは区別されています。 その意図するところは不明です。 日本の元号とは違うという主張でしょうか。 当初は戦後を年号と呼んでいたようです (>>54) が、方針が変わったのでしょうか。 それとも元号と年号を区別しているのでしょうか。
[15] 明良佐藤は、 昭和時代に 元号法案が検討されていた頃、 元号は天皇と結びついたもので基準として不適切で、 西暦はキリスト教と結びついたもので基準として不適切 (だが便利には使える) と考え、 「八月になると、日本人は毎年『戦後何年』という年の数え方をしている」 ことを発見しました。 >>16
[100] 明良佐藤は、 「戦後」 は右翼も左翼も文句がない妙案で、 国会議員が元号と西暦にかわる第3案として提案しないかと期待しました。 >>16 (当然そんなことは起こり得なく、なぜそう考えるに至ったのか不明です。) 後に 「日本の国の戦前からいまに至る歴史を知ると、 戦後の日本を生きる者としては、戦後歴は納得」 >>122 とも書いており、 日本人に当然受け入れられるべきものと認識しているようです。
[102] 明良佐藤は、 自身の信念に反して 元号法 が成立したことから、 日記や手紙に 「戦後何年何月何日」 と書くようになりました。 あるとき西暦年が書かれたカレンダーを受け取り不満に思い、 自らカレンダーの制作にかかりました。 >>16
[54] 明良佐藤を代表とする年号戦後カレンダーをつくる会は、 年号を〝戦後〟とすることにあなたはどう応えますか! ―1945年(昭和20年)8月15日に至る戦争による死者をふまえて―, 年号戦後カレンダー・40年版・予約協力のお願い! 戦後の原点にこめられたメッセージをくらしの部屋の中に などの文書を配布し支持を募りました。 >>40
[55]
前者には
「戦後
[56] 後者は戦後40年を略して「40年」と書いたものとみられます。 申し込みフォームには 「 年 月 日」 とありました >>40 が、 何年と書き入れることが想定されたのか不明です。
[57]
明良佐藤による手書きの送付状には、
「
[58] 元号が独自であることを除けば、 書字方向と数字の関係や西暦の併記法、 元号名の省略表記といった日時表示の特徴は、 昭和時代当時の一般的な作法を踏襲していたようです。
[114] 明良佐藤の Webサイトやブログでは、 戦後暦の日付表記がたまにみられます。 日付は漢数字表記が多いですが、 アラビア数字表記もみられます。
[115] しかし戦後暦が徹底されているわけでもないようです。 Webページの大部分はそもそも無紀年のようです。 文中に年が出てくることも多くないのですが、 引用文やそれに関係する主張で年や時期の記述が出てくることはあって、 ほとんどが西暦年か西暦2桁年号 (の漢数字表記) のようです。
[116] 本人は日記や手紙には戦後暦を使うとしていますが、 Webサイトの状況は日頃から文書に日付を表記したり、 日時の関係を前提に考察したりするような習慣があるようにみえません。 日常生活で日付を書く機会が多くないからこそ、 独自の元号が成り立つのでしょうか。 そして社会とのつながりでそれが必要となる場面では、 西暦年に頼らざるを得ないのかもしれません。 この推測が許されるのなら、 戦後暦は独立した日時の体系として未だ成熟していないことになります。
[295] 戦後暦のカレンダーは、 時点で引き続き発行されているようです >>42。 明良佐藤はカレンダーを貼り出した講演会を度々開催していたようです。
[126] 明良佐藤が世話人を務める群れ遊びの復活とともに教育を変える住民運動なる Webサイトは、 「2010年・戦後66年・11月20日」 と西暦年と戦後暦を併記していました >>84。 本人 Webサイトにはみられない形式ですが、 戦後暦では支持を集めにくいと判断したのでしょうか。 (賛同者リストは募集中のまま放置されており >>127、 活動実態は不明。)
[266] 戦後カレンダーには、 戦前・戦後の出来事が書かれているようです。 本人は講演会で西暦年で読み上げていました。 カレンダー上の表記は画像不鮮明により不明です。 >>51
[158] 戦後カレンダーは、 戦争に関係する事項の他に、 「日本の学校を「テストのない学校」に変えるためのQ&A」 >>49 のような明良佐藤の主義主張を伝達する媒体として活用されているようです。
[66] 極左活動家の高橋健一は、 自身の Web日記で戦後を使いました。
[67] Web日記は に新設されました。 () 以後、 戦後を使うようになりました。 その理由を、
今日は憲法記念日です。
戦争を放棄した日本国憲法を、ぼくは大切にしていきたいと願います。
このページの記載日の年号だけですが、今日から西暦でも元号でもない「戦後歴」(明良佐藤さん提唱・元旦は8月15日)で現すことにしました。 日本が二度と戦後を繰り返さぬことを祈って。
... と説明しました。 >>48
[68] 同じ「日本国憲法を大切にする」態度でも、 前文を重視すればそのような考え方になり、 第1条を重視すれば日本の元号を大切にしようということになるはずです。 紀年法とは政治的態度の表明であるという、わかりやすい例ですね。
[69] この Webページには 「戦後52年(1997年)4月1日に新設しました」 と説明があり、 目次にも 「(戦後52年4月11日)母性社会日本の病理 (戦後52年4月1日)愛媛県老施協が介護実習受け入れ保留」、 範囲は 「戦後52年4月~5月分」 とあって、戦後が4月に遡って使われました。 >>48
[70] 「(戦後53年9月23日)永和良之助さんの講演会 (戦後52年7月20日)父権復興」 と8月を境に年数がインクリメントされており、 元来の戦後暦に従っていることがわかります。 >>62
[73]
「戦後57年(2001年)10月15日」
まで戦後が使い続けられましたが、
その後の
「非戦元年(2002年)9月11日」
記事から、
非戦なる新元号に改元されました
>>65。
アメリカ同時多発テロ事件
()
との関係が推測されます。
[72] 目次では 「戦後55年9月4日」 () まで、 戦後が単記されました >>64。 その後の 「[非戦元年(2002年)12月11日] 矢野舜一さん [非戦元年(2002年)9月11日] 1年前 [戦後57年(2001年)10月15日] 広瀬隆さんの講演会 [戦後57年(2001年)10月6日] ひさびさの、このごろ思うこと」 は、 西暦年と併記されました >>65。 ただし記事見出しでは単記が継続されました >>65。 記事の間が空いていること、 その間に新ミレニアムが到来したことの影響でしょうか。
[74]
この
Web日記は
JavaScript
で表示日時を表示しており、
本項執筆の (= から起算して120年)
時点で、
最初のページには
「19120年8月20日19時10分」
と表示されます >>48。
[76] 著者が断っている通り、 戦後を使っているのはこの Webサイト内でもこのWeb日記だけでした。 他では西暦年が使われていました。 1990年代は西暦2桁年号も頻用されていましたが、 4桁と混在しているようで、 使い分けははっきりしません。 (もっとも当時平均的な日本人はたいてい使い分けも曖昧に併用していたと思われますが。) Web日記内も引用文はもちろん記事本文でしばしば2桁・4桁の西暦年が使われていました。 戦後と西暦の使い分けの理由はよくわからないのですが、 私的な日記でだけ戦後を使い、 普及に貢献する意図はなかったのでしょうか。
[60] 佐藤克朗は、 平成16(2004)年頃の時点で毎年、 戦後カレンダーの宣伝活動を続けていました。 天皇制的元号にこだわるかいを主宰し、 日常生活でも元号や西暦のかわりに戦後を使っていました。 >>39
[159] この他にも支持者は多いようですが、 戦後暦の実用例は Web ではなかなか見かけることができません。 口だけ賛成の人ばかりなのでしょうか。 それとも Web を使っていない人が多いのでしょうか。
[303] 若い世代に広がっていないし普及させる意志もないのだとすると、 このまま時間が経てば消えていくのでしょうか。 明良佐藤の活動を若い世代が継承するという動きもみられません。 当初存在した年号戦後カレンダーをつくる会はどうなったのでしょうか。 今は明良佐藤の個人活動のように見えます (支持者は若干名いるようですが)。
[24] 敵対勢力の敗北を年始にするとか仏蘭西共和暦みたいだな。 (あっちは自勢力の勝利の翌日が年始だが。)
[268] 作家の猪瀬直樹と井上ひさしが、 戦後は元号的なものと発言したようです。
[87] 徳島県立文書館は企画展パンフレットで戦後暦 y~1759 を使いました。
[88] このパンフレットは基本的に元号年を使い、 横書きの表紙で 「平成17年8月2日[火]」、 縦書きの本文で 「平成一七年八月二日」 (縦書き)、 「昭和四〇年代」 (縦書き) のように書いていました。 >>86
[89] 2頁分の大きな表が2つあり、 そのうちの1つ、 キーワードで見る戦後徳島の社会・生活史年表 (縦書き) は、 年号と出来事を並べた表で、 「戦後暦」「西暦」「和暦」 (縦書き) を示していました。
[95]
もう1つの
昭和二〇年生まれ ある女性の前半生の歩みから戦後史を見つめる (縦書き)
は、
「
[96] この他には「戦後六〇年」と当年を説明する箇所があるくらいで、 戦後暦は使われていませんし、 戦後暦の説明もありません。
[97] ある事件に関係する年表でその年次を書き入れるのはよくあることで、 伝記なら年齢、 社史なら創設からの年数を紀年法と並列に表記するのは普通のことです。 戦後何年と書き入れた年表もあるはずです。 それを 「戦後暦」 と特別な名前で呼んでいるのは珍しいですが、 説明がないので根拠は不明です。 特別な名前に見えても、 「戦後の年数を数える」 という程度の造語の可能性もあります。 機械的な年数と範囲の曖昧な時期をどちらも同じ 「戦後暦」 で括っているのも、 深く考えていないのだとすれば納得です。
[98] 戦後カレンダーの戦後暦 (>>78) との関連は不明です。 戦後カレンダーは年始を に置いていますが、 こちらの戦後暦は西暦年や元号年と対応付けられています。 素直に考えればこちらの戦後暦はグレゴリオ年と一致するはずです。 ただし昭和20年8月生まれ女性の年表でも年齢が西暦年や元号年と対応付けられており、 厳密には8ヶ月分のずれが生じているのに何の注釈もありませんから、 そう断言するのも憚られます。 とはいえ戦後暦と女性の年齢の対応関係が意識されたことは明らかです。 0歳から数える年齢と、 1年から数える戦後カレンダーの戦後暦には、 1年のずれがあります。
[140] 東百道は、 明良佐藤の戦後暦 (>>78) から派生した独自の戦後暦を使っています。
[141] (当時の表記で戦後63年8月11日、 ただし本文によると「開館」の (「戦後63年8月06日」 = 明良佐藤の戦後暦の「戦後62年8月06日」))、 東百道の Webサイト 感動をつくる・日本朗読館 は、 戦後暦を採用すると発表しました。 明良佐藤に賛同し、 「先の大戦(私は個人的には先の大戦を「東アジア太平洋戦争」と呼んでいます)の悲劇を、日本史のみならず人類史に深く刻印するためのささやかな一助」 となるのが目的だといいます。 >>20
[142] 当初発表によると、 からは戦後元年とし、 から戦後2年とすることにしました (y~1772)。 明良佐藤の戦後暦からの変更は、 グレゴリオ年と一致させた方が実用的だからだと説明されました。 >>20
[143] (戦後62年8月15日)、 変更が発表されました。 マスコミの戦後何年の表現とのずれを解消するためと説明されました。 それによると次のように表記することになりました。 >>21
[148] つまり従来表記よりも1年少ない年数 y~1759 に変更されました。 Webサイトの日付はすべて修正された >>21 とされますが、 当初発表の記事は変更された旨が追記されただけのようです。 そのため 「戦後63年8月11日新規」なのに「戦後62年8月15日更新」 という不思議な更新履歴が残っています >>20。
[151] このWebサイトの記事は、 全面的に戦後暦が使われています。 (ブログシステムによる西暦年は除きます。) イベントの開催日時や題名などで西暦年との併記も多いです。 書籍の出版年のように西暦年単記もありますが、 そうしたものすら戦後暦併記とした例もあります。 >>149, >>150
[155] 本項執筆時点で継続して利用中のようで、 「戦後75年(西暦2020年)10月17日(土)」 >>156 ()、 「戦後75年08月18日」 >>154 () のような用例がありました。
[278] 「戦前」 の用例は確認できません。 「1909年(明治42年)〜1948年(昭和23年)」 のように西暦と日本の元号が併記された例はありました >>277。
[157] 日時制度は、 共通の理解によって支えられるものです。 ある日時表示が人によって違って解釈されるなら、 情報交換は成り立ちません。 明良佐藤の戦後暦が実用的でないというのは、 確かにその通りでしょう。 だからといって同じ戦後暦を違う意味に改変してしまうと、 戦後暦が通用するコミュニティーが分断され、 意思疎通の障害になります。 かつてオープンソースコミュニティーと敵対していた Microsoft がプロトコルの脱共有化を企てたのを想起させます。 「昭和60年」と「戦後60年」は容易に区別できますが、 「戦後75年」と「戦後75年」は区別できません。
[10] 日本語版 Wikipedia は戦後を私年号だとし >>1、 日付表記に用いた例 >>1 まで示していました。 日本の紀年法の1つにも挙げていました >>6 が、 削除されました >>4。 これらの箇所は平成21(2009)年から平成22(2010)年にかけて編集されました。
[31] それによると昭和20(1945)年が0年 >>1、 昭和21(1946)年が1年です (y~1759)。 0年を基準点とする考え方は東洋式元号の数え方と違います。 元号に相当する代替紀年法として発達したものではなく、 周年の延長として広まったものだからでしょう。 過去の版には1年を 「元年」 と訂正したものもあって、 捉え方が混在していたようです >>233。
[33] 戦後 記事はこの年の数え方に言及しつつも、 年表には西暦年と元号年を書いており、 戦後年は 「戦後50年」 以後の10年単位の節目の年に付記するだけです。 >>36
[32] 削除されたり残されたりしている様子を見るに、 Wikipedia 編集者間でも位置付けに見解の差があるのでしょう。
[27] Wikipedia 以外に日付表記で用いる真の紀年法と説明した辞書は見つかっていません。
[264] 虚実歴史研究家、 虚実歴史漢字論懐メロなどと名乗る Twitter やブログの著者は、 平成25(2013)年頃から戦後何年 y~1759 と書いた投稿を頻繁に続けているようです。
[265] 当初は一般の用法のようにこの年は戦後何年だったという程度でしたが、 次第に利用頻度が増していき、 元号や西暦との対照表を作って戦後暦と呼んで公開したり、 日付の表記に使ったりもしているようです。
... のような形で年を表していました。 >>128 西暦年が最初と最後の年だけ違う表記になっているのが独特です。
[134] 個別記事には、
... のように年が表記されていました。 >>128 こちらでは「戦後○年後」と違う表記が取られていました。
[292] 「後」の重複が落ち着きません。 昭和20年に「戦後」と呼ぶべき瞬間があったと考えて、 そこからの経過年数を表しているのでしょうか。
[138] 西暦や和暦と併記されて年の表記に使われていますが、 表記が一定せず未だ紀年法として確立しきっていないのでしょう。
[139] 実効的に徳島県立文書館の戦後暦と同じ紀年法 (y~1759) ですが、 内容に関係は見出だせません。 自然と同じものになったと考えるべきでしょう。
[269] 作家の保阪正康が、 著書で戦後を元号扱いしているようです。
[270] 弁護士の堀新が、 戦後は元号だと繰り返し主張していました。
[271] 作家の池澤夏樹は、 戦後が改元で変わらない「陰の元号」 と主張しました。
[282] 余程感銘を受けたのか、 それを主題に楽曲を制作した人もいました。 反政府主義的思想を、 「忖度元年」、 「差別元年」 といったスローガン的元号の形式で歌っていました。 >>226 昭和時代にベトナム戦争反対を歌った左翼団体の活動を想起させる他、 同じように元号と思想を織り込んだオウム真理教の楽曲 真理元年 も連想されます。
[101] 昭和時代の 元号法案が検討された頃、 小田実が 「戦後何年」 の数え方を提案したといいます。 明良佐藤はそのことを後から知ったとしています。 >>16
[218] 堺屋太一はそのような本を書いていますが >>217、 この Twitter の投稿 >>220, >>216 より出版が後です。 同じような題材で他で言及しているのでしょうか。
[296] 刊行のが戦後70年だとすると、 通常の周年式の数え方 y~1759。
[38] この人は西暦が良いと考えているようだが、 折衷案がこれらしい。 天皇在位による時代区切りは恣意的と非難しながら、 対案は別の政治的な時代区切りというのが興味深い。 時代感覚がどうこうと理論武装しても、 結局は政治的態度の表明という紀年法の基本原理からは逃れられないものなのか。
[231] その他戦後を紀年法として使うことを提案する人は少なからずいます。 しかし実用を確認できる人はなかなか見つけられません。
[267] これだけ熱心な人がいるのだから、もっと用例が見つかってもよさそうなものですが、 なかなか見つかりません。 役所に西暦を使えと怒る人はいるのに、 戦後を使えといっている人は全然いません。 勤務先から元号を排除したとイキっている人はいますが (>>229)、 勤務先に戦後を導入させた人は見当たりません。
[163] 積極的に提案する意思がなくても (または意思があるか判断できない表現でも) 戦後を元号として、または元号のようなものとして認識している人がいます。
[222] Twitter では令和改元前後に特に増えていたようです。 この時期は元号関係の投稿が全般的に増えていました。
[223] 全体的な傾向として、 反日本の元号、 反日本政府的な思想と戦後との親和性が高いようです。
[171] 逆に元号 (や西暦) と対比してその性質を語ろうとする人もいます。 元号でないとしても、 元号に匹敵する存在と理解しているようです。
[256] 昭和20(1945)年を元年 (1年) とする数え方 y~1772 もあります。
[297] 元号としては出来事を元年とするこちらが正統的な数え方になるのでしょうが、 戦後の私年号では少数説のようです。
[276] 一般的な「戦後何年」の周年の数え方 y~1759 と1年ずれるためでしょう。
[253] 戦後を元号とする提案は冗談と捉えられています。 敢えて態度を表明しない人の多くは同じような受け止めではないでしょうか。
[254] 戦後という元号の存在を知っている人はそれなりに注意して見ているのでしょうが、 やはり用例は見たことがないようです。 これだけ提案する人、賛同する人がいるのに、 使っている人はどこにいるのでしょうか。
[286] 趣旨の似た核時代が、 比較的知名度が低そうな割に用例が多いのとは対照的です。 知名度が高く提案する人、賛同する人が多いのに使われない戦後と、 特定の人が熱心に使う核時代の差はどこでついたのでしょうか。 どちらが元号として成熟しているといえるでしょうか。
[252] 終戦の日以後の戦争被害を軽視するものとの批判もあります。
[283] 元号と考える人も、そうでない人も、 いつまでも戦後何年と数え続けるのは適当ではないとする人がいます。 一般的な元号と違って明確な制定主体が存在しないため、 気にしなければいつまでも数え続けられます。
[284] 元号として高評価する人は、 戦後何年と数え続ける限り次の戦争は起きないと考えているようです。 厳密に言えば「大東亜戦争の戦後」を表す戦後は次の戦争の有無に関わらず続きます。 しかも 「先の戦争」が戊辰戦争だ、応仁の乱だ、アテルイの乱だ、 と未だに言われているように、 どの戦争をカウントするかは恣意的でもあります。 人によっては、 朝鮮戦争、 ベトナム戦争、 湾岸戦争、 カンボジアPKO派遣、 アフガニスタン紛争・イラク戦争あたりも日本に関係した戦争と考えるでしょう。 そして日本以外まで目を向けるとこの数え方は破綻しています。
[288] アフターウォー - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC
[272] 元号と理解する人が一定数存在するなら、 戦後は元号の1つと理解するほかないでしょう。 公定ではなく元号と理解しない人がいる反面、 特定のコミュニティーでのみ通用するならば、 まさに私年号というべきものです。
[273] ただし元号と理解する人がいるのに、 元号として利用され流通している用例が確認できないのは、 やはり気になります。
[274] メディアが8月や時代の節目に 「今年は戦後何年に当たり云々」 と言い出す一般の用法は、 広義の紀年法には属しますが、 これを狭義の紀年法、 しかも元号と言うべきものかどうか、 判断は分かれています。 元号と理解する人は圧倒的少数のように見えます。 当のメディアも元号として使っているのではないでしょう。
[275] だとすると、元号ではないものも、 受け取り手の思考によっては元号となる、 という非対称性があるのでしょうか。 紀年法の定義やコミュニケーションの根本にも関わる興味深い問題です。
[175] 史劇的伝言板過去ログ8301~8400 (, ) http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/bbsa/kakolog/log84.html
[287] 明治39年(丙午)・征露元年(午年特設展示-レトロ年賀状美術館) (, ) https://www.fuyuki-nenga.com/museum/umadoshi/2-meiji39.html
[289] 朝日新聞 校閲センターさんはTwitterを使っています 「年目 「戦後75年目の終戦の日」との表現に引っかかりました。 「年目」だと起点となる年も含むので、1945年が終戦1年目で今年は76年目。終戦から「満」75年とは言えますが75年「目」ではありません。 ただ、「戦後」に続くなら1946年を1年目とし75年目で良いようにも思えました。(隼) #校閲 #ことば https://t.co/IIaNLA5Z3e」 / Twitter (午後7:30 · 2020年9月14日 , ) https://twitter.com/asahi_kotoba/status/1305453740154068993
[290] digidepo_10205749_po_77(7)amakawa.pdf, https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10205749_po_77%287%29amakawa.pdf?contentNo=1&alternativeNo=#page=9
1965年というのは戦後20年で、今と同様、「戦後二十年の節目」というようなことが言われた頃です。また1968年というのは明治百年なんですね。当時、「戦後二十年か明治百年か」、そういう議論をしている人がいました。一方は、明治百年の日本の成果を問うというような、ある意味でナショナリズムの復活的な意味合いをもつようなニュアンス。もう一方の、戦後二十年というのは、デモクラシー、民主主義が入ってきた戦後の価値を擁護しなくてはならないという動き。当時ベストセラーになった『危険な思想家』11)という本がありましたが、その副題が「戦後二十年か明治百年か」でありました。
[304] https://dl.ndl.go.jp/pid/6044969/1/28 (非公開)
教育評論 (584)
雑誌
(アドバンテージサーバー, 1996-01)
28: は横浜市立大学教授。戦後暦を採用する野本流の時間の刻み方で書くと、こうなる。これほど、かれの
[305] 俳句の素顔 : 随想集, 河野南畦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1346693/1/36 (要登録)
[306] べにひいろさんはTwitterを使っています: 「私子供の頃、大伯母が戦後すぐに建てた隙間だらけの離れで練炭火鉢愛用してたけど、戦後10年辺りに建てた祖父母の家では使用不可だった(´・ω・`)一酸化炭素中毒で死ぬで言われて(´・ω・`)木造平屋隙間そこそこある家でも危険だったものを今の気密性の高い家で使うの大丈夫なんだろうか」 / Twitter, , https://twitter.com/akayf1/status/1618004135114330112