[101]
[99] 勝は、原典では比較的整った楷書ですが、現在の新字体とも旧字体とも異なる字形になっています
>>50。
[100] 江戸時代に広く紹介した紀伊国名所図会本では、 現在の新字体に近い楷書の字形になっています。 >>85
[97] 読みは 「わしょう」 >>157, >>257, >>259, >>288, >>298, >>299, >>305, >>3163 (歴史的仮名遣 >>30 / 振り仮名表記 >>296: 「わしよう」) とされます。
[420] 現在までに2系統4点の用例が報告されています。
[70] 高野山に伝来する文書を江戸時代に装幀した 宝簡集 に収録されています。 高野山金剛峯寺の宝物を収蔵する高野山霊宝館の平成28年の機関誌は、 当資料のカラー写真を掲載していますが、それによると 宝簡集 は霊宝館に収蔵されています >>154。
[76] 宝簡集本には手印もあり、写本ではなく原本そのものでしょうか。
[71] 宝簡集本は、 大日本古文書 に白黒写真と明朝体翻刻が収録されています。 >>56 また、 東京大学史料編纂所ウェブサイトで影写本白黒画像が公開されています。 >>62
[72] 他にもいくつか写本があるようで、うち宮内庁書陵部本 >>110 はウェブで公開されています。 >>65
[74] 紀伊国名所図会は、全文を掲載しています。 >>23 近世や近代に一部または全部を引用した書物の多くは、 この系統と思われます。
[73] これら、ウェブ公開されている諸本はいずれも同系統と思われ、少なくても日付部分は同一内容です。
[78] 当文書は一般的な寄進状案です。 差出人は鑁阿とあります。 和勝紀年は当該文書の日付として記載されています。 文書の本文と和勝には特段の関係性は見出だせません。
[79] 鑁阿 (? - ) は、高野山の僧侶です。 、 後白河法皇から旧平家領備後国大田荘を寄進され、これを経営しました。 >>77
[80] 下野国鑁阿寺の開基である足利義兼 (法号: 鑁阿) とは同一人物説と別人説があります。 >>85, >>77, >>11, >>38, >>40, >>204, >>14, >>15, >>151, >>154
[81] 宝簡集には、用例文書以外にも鑁阿に関係する文書が多数収録されています。 >>59, >>4, >>7, >>54, >>55, >>53
[113] 特に、鑁阿による年のない6月24日付け文書があり、関連が指摘されています。 >>17
[421] 高野山系の用例は、高野山や紀伊藩では江戸時代中に研究対象となっていました。
[422] 幕末までには中央の私年号研究者にも知られるようになりました。 私年号全体の中では早い時期ですが、近世に研究対象となった私年号の中では遅い部類です。
[423] 紀伊国での研究成果が近世末期から近代に中央の私年号研究の体系に取り込まれる形で、 通説の形成に寄与しました。
[159] 鎌倉時代の初め頃に色定法師が書写した数千卷の一切経は、 もと宗像神社 (現在の所在地: 日本国福岡県宗像市) 境内の經庫に収められていたとされますが、 近代には日本国福岡県宗像郡田島村 (現在の日本国福岡県宗像市田島) 興聖寺の倉庫に所蔵されていました。 明治時代末期に調査が行われました。 >>170
[173] この一切経書写は、40年以上にわたって行われました。 宗像神社やその近辺で作業され、 基本的には同一人物によって書かれたものであるものの、 他者による校合の記録が残るものもあります。 >>21
[177] >>174 によれば、1月から7月8日までと12月3日から閏12月までに建久2年の日付が確認されています。 >>29 によれば11月の日付もあります。 建久元年は1月から12月まで、月に1つ以上の日付が確認されています。 >>21
[319] 色定法師の一切経は、その一部の画像が文化財紹介などの形で Web 上にあるものの、 「和勝元年」の画像は見当たりません。
[320] 色定法師の一切経の多くは現在宗像大社神宝館に所蔵されています。 「和勝元年」の巻もこれに含まれるのかは不明です。
自一交畢、 他一交了、/和勝元年〈辛亥〉七月卅日書之了、一切経一筆行人僧□□〔良祐〕/本経主綱首張成 墨助成綱首李栄 筆勤覚□□〔成房カ〕
自一交畢、 他一交了、/和勝元年〈辛亥〉八月二十三日、一切経一筆書写行人僧良祐/本経主綱首張成 墨助成綱首李栄 筆勤覚成房
[424] 宗像系の用例は、明治時代に入ってから研究対象として認知されました。
[425] その存在は昭和時代には全国的に知られるようになったものの、 中央の私年号研究者には断片的な情報しか伝わりませんでした。
[426] 宗像系の用例やその研究成果は、大局的な私年号研究に取り込まれることのないまま、 令和時代の現在に至っています。
[336] 和勝の用例は高野山系と宗像系の2つの系統が知られています。 両者が同じ元号であるか明確に議論したものは見当たりませんが、 両者に触れたものはいずれも同じ元号であることを暗黙裡に前提としています。 両者に大きな矛盾が確認されない限りは、一応単一元号説に從うのが妥当と考えられます。
[337] 和勝の発生機序については、二説が提出されています。
[340] 他に、私年号の一般論として、次の諸説も検討するべきと考えられます。
[341] まず、単純誤記説については、「和勝」と誤記または誤読され得る他の公年号、 外国元号、元号以外の固有名詞等が知られていません。 >>46 の字形は比較的明瞭で、しかも元号名であることは明らかです。
[342] 次に、偽文書偽造元号説については、 >>46 は寄進状という性格上偽文書の可能性が皆無とまでは断言できないものの、 >>139 は仏典の書写奥書であり、偽造の動機に乏しいと考えられます。
[343] いつを表すかについて、次の説があります。
[345] >>344 は通説となっていますが、その根拠は江戸時代中期の >>82 に遡ります。 ところが >>82 は根拠を明示していません。 >>130 >>115 >>116 は >>82 の解釈に従い建久元年説を採用する旨を記述していますが、 時代が下って >>209 >>152 >>158 は >>82 を建久元年説の根拠とみなしており、 >>82 が >>46 と独立した建久元年説の傍証たり得る史料であると誤認した疑いが持たれます。
[350] >>209/>>210 は、高野山系と宗像系の両系統に言及した、確認されている最古の研究です。 ところが宗像系に干支年が併記されている情報を得ていなかったらしく、 >>348 説を検討せずに >>344 説が双方に妥当と判定しています。 これは情報不足に起因する誤判定であり、採用できません。
[347] >>346 >>352 >>351 は >>344 >>348 を含みつつ、それらに限定しない説です。 原型は >>346 であり、その根拠は >>46 に記述された事実関係の分析です。年単位で特定できる史料が存在しないため、 曖昧な範囲指定に留まっています。
[358] なお、 >>46 の本文には文治3(1187)年5月1日とあり (>>135)、 和勝元年はこの日よりも後に当たると解するのが妥当です。
[349] >>172 は一切経奥書に併記された干支年を根拠とする説です。
[387] なお >>187 は一切経報告直後の見物録であり、 正治から嘉禄までの一切経の時代範囲に混ざって私年号の和勝が見られることを指摘しています。
[353] 総括するに、明確な史料的根拠を有するのは宗像系の建久2年説 >>348 のみです。 高野山系は史料の分析から文治の終わりから建久の始め頃 >>346 まで狭められますが、 それ以上に狭めた諸説は伝言ゲームによる劣化、 いわゆる留保の剥奪によって生じた幻説に過ぎません。
[354] もし宗像系が先に注目されていれば、建久2年説が普及し、 高野山系もそれに基づき解釈されていたはずです。 東洋の日時表示の一般論に基づけば、干支年は年次比定の強い根拠となり、 他に矛盾する情報がない限り断定できるほどのものです。
[355] 従って、建久2年説に基づき高野山の史料を改めて分析し、 時系列に矛盾が生じないか確認する作業が必要とされています。
[356] いつ使われたかについて、諸説ともそれが表す年と同じと想定していると思われます。 高野山系、宗像系とも文書の日付としての利用であり、 妥当な解釈と考えられます。
[357] 継続期間については、1年とするものと不明とするものがあります。1年とするのは、 元年の用例があるというだけの理由と考えられ、これといった根拠は見られません。 年より細かな時期については諸説沈黙しています。
[367] 宗像系の用例を見ると、和勝の利用中には公年号の利用が見られません。 前後の公年号の用例から、
... ことがわかります (>>177)。
[370] 高野山系では6月25日であり、 >>367 の期間の外となります。両者が同系統の元号だとした場合、 地域その他の要因によって利用期間にずれが存在したことになります。 一般論でいえば、高野山系の方が情報源に近く、より古い時期に利用を開始したのでしょう。
[371] なぜこの時期に使われたかについて、 α説系の >>221 は源平合戦の終結と源頼朝の覇権を関連付けています。 比定年の出来事や利用者の人脈を根拠としています。
[372] δ説系の >>93 は、建久元年説により、建久への改元が4月だったにも関わらず、 6月でも改元伝達がないところに和勝の改元デマが流れていたのではないかと推測しました。 これは建久の改元時期との辻褄を合わせるための仮説に過ぎず、 物証は提示されていません。
[373] 誰がどこで使ったかについて、 用例そのものは >>46 が鑁阿、 >>139 が色定によるものとするのが定説であり、 異論はほとんどありません。 ただし、 鑁阿の人定には長年の論争があります (>>80)。 また、 >>139 の全体が色定本人によるものかに異説があるものの、 説得力ある根拠は提示されていません (>>200)。
[374] >>46 は高野山に現存しますが、 鑁阿がどこで発給した文書であるのかは定かではありません。 当文書に関係するのは、 高野山根本大塔, 天野宮 (現在の日本国和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野の丹生都比売神社), 備後国大田庄 (現在の日本国広島県) です。鑁阿は現地で荘園経営に関わっており、 当時どこに滞在していたか検討する必要があります。 現在では否定的見解が有力視されている (>>80) とはいえ、下野説も要検討です。
[377] >>139 は宗像大社に伝来したもので、奥書で宗像大社およびその周辺で書かれたことが知られます (>>173)。 色定は宗像大社近辺を拠点としつつも、京都などに出向くこともあったとされ、 「和勝元年」前後の所在や動向が確定できるのか、調査を要します。
[378] どちらもよく研究されている人物ではあるものの、「和勝元年」 の行動はほとんど検討が進められていません。
[380] 利用者層について、 α説系の >>221 は源家や源頼朝の勢力の者、 それも公年号に満足できない者が使ったと推測しています。 >>258 >>160 も同様です。 利用者の人脈や元号名から推測したものですが、物証に欠けます。
[385] >>156 は、鑁阿の人脈の再検討により >>380 はそのままでは成り立たない可能性があると指摘しつつも、 鑁阿の思いをよく表す元号であると推測しています。すなわち、 人的つながりを否定しながら利用集団の性格は旧説を継承するものですが、 その根拠は何ら示されていません。
[379] >>215 >>318 は畿内および九州北部を分布地としていますが、これは現所在の説明であって、 どこで使われたかの説明ではありません。
[382] β説系の >>119 は、 乱世の現況に義憤を感じた鑁阿が反抗の意思表示として和勝を用いたとしています。 鑁阿が考案者かどうかは明言していませんが、 鑁阿個人またはその同志らが利用者という説なのでしょう。 説得力ある根拠は提示されていません。
[375] γ説系の >>130 は「公武ともに僭称した」説を掲げています。具体的に特定しない一般論的性格の議論とはいえ、 朝廷を蔑ろにする何らかの勢力の主体性を主張しています。 しかし、その根拠は何ら提示されていません。
[383] 誰が考案したかについて、 α説、β説、γ説の諸説は必ずしも明確に述べていませんが、 利用者と考案者が同一または近しいと想定していると考えられます。
[384] α説系の >>290 は、鎌倉幕府の尊厳の誇示のため、 朝廷の手続きを待たずに作られ使われたと主張しています。 具体的に誰かは述べていないものの、鎌倉幕府の中枢に近い者を想定しているのではないかと思われます。 しかし、何ら物証を示していません。
[386] δ説すなわち改元デマ説は、その出所を論じていません。 この説が正しいとすると、偶発的に発生したにせよ、 最初の考案者は居たにせよ、その特定は困難でしょう。
[388] いつどのように伝播したかについて、諸説積極的には主張していません。 高野山と宗像という遠隔の地で同じ元号名が見つかっている以上、 これを地理的、時間的、人脈的に説明できるモデルが必要ですが、 用例の2つの系統に同時に言及している文献すら数えるほどしかないのが現状です。
[389] α説を取るのであれば、 源氏方の勢力内部の情報伝達や情報交換のネットワークを通じて流布したと主張するのでしょう。
[390] δ説を取るのであれば、 日常の情報伝達・情報交換の媒体や公年号の改元伝達のルートを通ったと主張するのでしょう。
[391] 時間軸でいえば高野山系が先行しています。これが高野山で書かれたものか、 大田庄で書かれたものかは定かではありませんが、いずれにしても宗像よりは京都に近く、 畿内方面で発生した元号が一月後には宗像まで到達したと考えることは可能です。 しかし、これもあくまで可能性であり、物証は存在していません。
[392] 元号名の意味とその利用の意図について、 α説系の >>221 は、 和平を願い理想とし、 源頼朝の勝利を祝う意図があったと説明しています。 この説は、元号名の文字と時代背景からの推測です。 >>258, >>290, >>160 もこれと同様の主張です。
[401] >>290 は更に一歩踏み込んで、鎌倉幕府の尊厳の誇示であると主張しています。
[398] 源頼朝が覇権を得た時期、源頼朝と朝廷の間に大きな対立はありません。 源頼朝自身も公年号を用いていたと考えられます。 にも関わらず源頼朝の勢力の者が公年号を用いず私年号を用いるのは不自然に感じられます。
[399] α説系の >>221 は、平氏政権時代に源頼朝が延長年号を用いていたことを指摘し、 和勝の頃にも公年号に満足できない者が源氏方がいたのだろうと主張します。
[434] しかし、源頼朝に属し称賛する者が源頼朝も使わない私年号を進んで使うことがあり得るのか、 依然として疑問は残ります。江戸時代以来、関東の延長年号が私年号を誘発した説はあり、 源頼朝の延長年号を指摘する当説もそれと同型とはいえますが、 関東の延長年号を足利成氏の配下の者が考案し利用したとする説は近年では否定傾向です。
[400] β説系の >>119 は、乱世への義憤から、反抗的な態度の表示として利用したと説明します。 しかし、この説明は寄進状本文の曲解であり、周辺環境の分析が不十分なまま結論を急いでいます (>>121)。
[395] γ説系の >>130 は、「公武ともに僭称した」と説明しています。 すなわち、諸勢力が公年号と異なる元号を好きに建てる環境があったと主張しています。 この説に從い利用者の意図を推し量るなら、
... のいずれかとなるでしょう。 もっとも、実際には同時期にそのような環境が存在した兆候は確認されていません。
[393] δ説系の >>93 は、改元デマだと主張するので、利用の意図は無く、 公年号と誤認したことになります。 物証はなく、改元デマが他に実在したとの記録が傍証として提示されています。
[394] 寄進状と書写奥書の日付という、まったく性質の異なる、 しかし特殊な性格を持たないありふれた種類の文献の年表記に「普通」 に用いられていることも、δ説の一つの根拠として良いでしょう。
... のであり、「和勝」の組み合わせ方は珍しいといえます。
[431]
現代の視点からすると、和は元号名として非常に馴染みがあり、
勝には違和感が強いものの「しょう」という音には慣れており、
順序を逆にした昭和はよく知っていますから、
初見で違和感を持ちつつも納得感は強いといったところでしょうか。
当時の人はどう感じたのでしょう。
[432] α説はこの2字の組み合わせの意味は解釈するものの、その必然性は説明しようとしません。 β説やγ説も、なぜこの2字を組み合わせたのか説明を要します。
[433] 説明を要するのはδ説も同じであり、何らかの誤りで発生したとしても、 それは公年号や候補では無さそうです。
[402] どのような形態で使われたかについて、諸説積極的には主張していません。
[403] 宗像系は宗教的文脈で使われており、 高野山系も宗教的儀式に関係する文書です。従って、 何らかの宗教的意味を持って使われたと主張することも可能でしょう。
[407] しかし、
... は否定的要素です。
[408] たまたま現存する用例が宗教的要素のあるものであっただけで、 この元号自体は広く一般的、実務的に使われたと主張することも可能であり、 こちらの方が説得力はありそうです。
[409] 寄進状という他者に見られる前提の文書で使われていること、 他者の校合が行われ得る書写で用いられていること、 から見ると、 少なくても筆者らが属するコミュニティーに於いては、 これを特に秘密にするべきものとも見ていなかったと考えられます。
[410] 公年号との使い分けについては、諸説積極的に議論していません。
[411] 宗像系の用例については、 一切経の中で公年号と和勝の利用期間が重ならないことがわかっています (>>367)。 δ説など、特殊な性格を想定しない説に有利な状況といえます。
[412] なぜ使われなくなったかについて、諸説積極的には主張していません。
[413] α説、β説、γ説は利用者の私年号を利用する強い意志を想定するものですから、 なぜそれを停止したのか、説得力ある理由を提示する必要がありますが、 いずれも沈黙しています。
[322] 高野山系では、 鑁阿を差出人とする寄進状案の末尾に「和勝元年六月廿五日」が見えます。 この文書は宝簡集に収められ、さらに近世の地誌や編年史書に引用されました。 ところが、それらの文献は十分な根拠を提供しないまま、 しばしばこれをの記事として配置します。高野春秋、 紀伊国名所図会、 紀伊続風土記などがその流れを形作り、 近代以降の大日本史料、古事類苑、各種辞典・概説書も、 おおむねその比定を前提として継承しました。すなわち、 建久元年説は原史料の自明な読解結果というより、 近世以来の整理が累積して定説化した面を強く持っています。
[323] これに対して宗像の色定法師の一切経奥書では、 「和勝元年辛亥七月三十日」「和勝元年辛亥八月三日」「和勝元年辛亥八月二十三日」 のように、年号とともに干支年が記されています。この辛亥年は、 当該の書写事業の年代の中ではに当たるため、 こちらは建久二年説がかなり強く支持されます。実際、明治末から昭和初年にかけての調査報告や、 の宗像市史でも、和勝元年辛亥を建久二年と注記しています。
[325] すると、高野山文書系から導かれた建久元年説と、 宗像資料の辛亥に基づく建久二年説とが併存することになりますが、 両説は不思議と交わらず、詳細な検討がされることなく現在に至っています。
[324] 久保常晴などの研究が、和勝を源氏の勝利と和平の到来を寿ぐ年号とみる解釈を提示しています。 鑁阿と色定がともに真言系の有力僧であり、 しかも源頼朝方と接点を持つ勢力圏で活動したことから、 和勝を源家の勝利を祝う私年号とみる推測です。 しかし、これは史料から直接に読み取れる事実というより、 用例の分布と時代状況から組み立てた解釈です。
[82] 高野山の僧侶である春潮房懐英 ( - ) が編纂しに成立した高野山の編年体史書である 高野春秋 は、 >>46 と同内容の記事を建久元(1190)年庚戌夏6月25日に掛けています。 置文が宝簡集にあると注釈しています。 >>51 すなわち >>46 が出典そのものであると考えられます。
[83] 高野春秋 には和勝の私年号の記載はありませんし、なぜこれを建久元年に置いたのかも何も語りませんが、 著者がこの年が適切であると判断したのでしょう。
[84] 日本紀伊藩の国学者である加納諸平 ( - ) が編纂した 紀伊国名所図会三編 (1月序、9月出版) は、 >>46 を全文収録すると共に、 注釈を掲載しています。 >>85
[86] 「某」は不明です。どこまでが「某」の見解かも不明瞭です。 後半の按語は「某」の見解なのか、そうでないのか。 そうでないとすれば、編者の見解ということになります。
[417] >>92 は史料から慎重に範囲を狭めていますが、 >>95 はを前提としているようで、 若干の見解の相違が見られます。
[102] 伴信友の 逸號年表補考 は、 加納諸平の出版物に高野山に「和勝元年」があり、 文治・建久の頃だろうか、と書かれているとしています。 >>103 紀伊国名所図会 のことを指しているようです。
[123] 日本紀伊藩で編纂されに成立した地誌 紀伊続風土記 には、 和勝に関連する記述が2個所あります。
[128] 1つは、 >>46 と同内容の記事を掲載しています。 >>19 /48, >>36
[124] この記事は、「建久元年庚戌」に「古文書作和勝元年」と注釈しています。 また、「寄進状在宝庫」とも注釈があり、出典は高野山の宝庫に所蔵されていた >>46 そのものと考えられます。 >>19 /48, >>36
[126] これ以上の説明はなく、なぜ和勝元年をちょうど建久元年に比定したのかは不明です。 記事の文面は >>82 と酷似しており、記事の直接的な由来は高野春秋である可能性があります。
[129] もう1つは、 >>46 の全文を掲載し、その記述内容を検討しています。 本文は宝簡集丹生御位記卷を出典としています。 >>36 /128
[130] こちらでは、和勝は「諸文に逸す」と述べて逸年号であるとの認識を示した上で、 「謂ふに」、戦争の世で公武ともに僭称したためであろう、と私年号であるとの見解も示しています。 そして「山史」は建久元年と考えて記している、と述べています。 高野春秋を指すと考えられます。
[132] 「公武ともに僭称した」というのは南北朝時代のような状況を想定しているのでしょうか。 私年号の生じた世相を一般的に説明しているだけであって、 和勝という具体的な私年号を誰が作ったかまでは特定していません。
[131] また、本文の他の記述も他の文書等を引きながら検討しており、明記していないものの、 建久元年説で矛盾が生じないことを確認する形になっています。
[125] なお、紀伊続風土記は加納諸平も編纂に関与しています。
[137] に鑁阿寺が発行した寺史は、 >>46 を掲載し、
(和勝󠄃と云ふ年號な
し 2画連続 尙ほ考ふべし 2画連続 )
と注釈しています。 >>4
[138]
の鑁阿に関する論文は、
>>46
に言及し
「
[114] の 大日本史料 は、建久元年雜載 に 宝簡集 から >>46 >>113、 高野春秋 から >>82 を続けて掲載しています。 >>17
[115] 大日本史料 は、高野春秋 が和勝元年をもって建久元年としているので、今これによりて姑く建久元年に収めたと注釈しています。 >>17
[116] の 古事類苑は、 逸年号の部に >>46 の一部を掲載しています。高野春秋 が和勝元年をもって建久元年としていると注釈しています。 >>6
[169] に色定の一切経を調査 (>>159) した山崎宗雄の報告では、 書写奥書の日付が元号ごとに集計されています。 >>170
[171] それによると、和勝のものが3件ありました。 >>170
[172] これについて、和勝の年号はなく不審であるものの、 元年辛亥とあり、辛亥は建久2年に相当する、と注釈があります。 >>170 一切経の書写時期の辛亥年がしかなく、 断定できるという意味です。
[174] に一切経を調査した伊東尾四郎は、 >>176 が和勝元年辛亥の8月23日であることについて、 辛亥に相当する写経の年号は建久2年しかない、 として建久2年に含めています。 >>29, >>21
[178] の報告には
の3点が掲載されています >>29 が、 なぜかその後の報告には和勝元年8月23日だけしか掲載されていません >>21, >>16。
[187] なお、 に京都帝国大学の史学の学生らが研修旅行で福岡県立図書館を訪問しました。 館長の伊東尾四郎が案内しました。京都帝国大学側の記録によると、 田島の彦山三所権現で発見された一人一字一切蔵が収蔵展示されていたようで、 正治から嘉禄の頃のものであるところ、 和勝元年8月3日の私年号が注意されると指摘しています。 >>12
[308]
に関西大学講師の新町德之が執筆した
改元考
には、「
[271] に発行された宗像市史は、 和勝元年の3件を含む諸奥書を収録しています。 >>139
[272]
和勝元年
[206] 久保常晴の昭和39年の論文および昭和42年の日本私年号の研究に和勝が収録されています。
[207] 日本私年号の研究 は、 >>46 の全体の白黒写真 >>202 と一部の明朝体翻刻 >>203 を掲載しています。 >>82 の該当部分を引用しています >>203。 (ただし >>82 の割書が正しく反映されていません。)
[208] また、 >>139 に言及しています >>203。
[209]
日本私年号の研究は、
近代の諸辞書等の多くが建久元年説を取っていることを確認し
[210] 加えて、 >>139 は文治3年、建久6年、建暦3年の奥書のものがあるため、 和勝を建久元年とする推定に抵触しない、としています。 >>203, >>3114
... を出典とし、19個の建久 - 嘉暦の奥書が引用されています。
[215]
しかし >>211 には和勝の日付は含まれません。
また、私年号資料一覧表には
「
[216] >>214 は >>29 ではないかと思われますが、 >>29 には和勝の年月日が3例記述されており、 >>215 とは符合しません。 なお >>220 >>217 には奥書日付の記載がなく、消去法で >>214 が奥書の出典となります。
[221] 日本私年号の研究および先行論文は、 和勝の使用者と元号名の意味について、次のように考察しています。 >>204, >>3114
[244] すなわち、源頼朝による天下統一の喜びを祝うものというのが結論とされます。
[312] 昭和39年論文は、次のことも書いています。 >>3114
[140] に近代日本の代表的な日本史研究者である黒板勝美 ( - ) が出版した日本史概説書 国史の研究 は、 >>46, >>139 に言及しつつ和勝󠄃を最古の私年号として紹介しています。 和勝󠄃元年は建久元年に当たるとしていますが、その根拠は説明していません。 >>2
[118] >>46 は日本中世史の重要史料として、多くの歴史系の文献等に掲載、参照されています。 その多くは建久元年の私年号であることを所与の前提であるかのように扱っています。
[141] >>18 >>22 >>13 >>3 >>15 >>34 >>278 >>311 は、 和勝元年をとしています。 >>282 >>283 >>284 も同様で、日本私年号の研究系です。
[142] >>9 >>257 は和勝元年を建久元年を意味する私年号としています。
[119]
昭和時代の日本中世史研究者の中村直勝
( - )
は、
の著書で和勝をの私年号と説明しています >>35。
の著書では、
乱世で「
[121] しかしこれらはいずれも客観的な根拠の提示されない論者の推測に過ぎないのであります。 乱世で「万民滅亡」云々というのは >>49 の本文、寄進の趣意説明に出現しますが、 義憤以下は論者の「かもしれない」です。 後白河法皇との関係などは検討どころか言及もされていません。 建久元年に比定されるべき理由の説明すらありません。
[105]
の広島県史は、
>>46 の明朝体翻刻を掲載していますが、
和勝に右ルビで「
[147] の和歌山県史は、 >>46 の明朝体翻刻と、 高野春秋の該当部分 (>>82) の明朝体翻刻を掲載しています。 >>14
[148] ここで、 >>46 には、和勝が私年号であり、和勝元年は建久元年に当たるとみられると注釈があります。 >>82 には、 >>46 の私年号和勝元年を建久元年とみていると注釈があります。 >>14
[152] の書籍秘宝は、 >>46 を紹介し、和勝という私年号は他の文書によればに当たると解説しています。 >>151 具体的に何によりどのように求められたのかは説明されていません。
[255] >>254 は出所不明の PDF ファイルですが、 宝簡集 所収文書の目録のようです。 ここでは >>46 が
CDNo. 文書No. 名称 題 目 年月日 西暦 01 214 宝簡集018 僧鑁阿天野宮八請米寄進状 和勝元年六月二十五日 1190
となっています。
[249] 明治時代以来多くの辞書、年表、歴史系の書籍などが私年号の情報を掲載していますが、 その大部分が和勝元年をに比定しています。 典拠を示すものもありますが、その多くが >>46 のみを典拠としています。 >>250, >>257, >>296, >>298, >>299, >>302, >>305, >>306
[251] 例外は少数であり、所功の一覧表 >>250 と 中世の元号 の一覧表 >>250、 山川 日本史小辞典 改訂新版 >>259 が頃と曖昧性を持たせています。 典拠については 中世の元号 が >>46 「など」と含みを持たせ、 >>10 が >>139 をも掲げています。 >>250
[260] もっとも、
山川 日本史小辞典 改訂新版
は異説のない建教もの「頃」と含みを持たせています。
>>259
令和時代の雑学系ブログサイトが
「1190年頃には「和勝」というのも存
[258] 平凡社の世界大百科事典(旧版)は、 和勝を源平騒乱の終結による平和を寿ぐ者が、 祝意を公年号を拒否する政治的態度で表明した私年号と解説しています。 >>257
[286] の元号事典は、 日本私年号の研究 を参照しながらも、根拠不明の独自色をかなり盛り込んだ私年号の解説を有しています。 >>285
[149] ウィキペディアはその初期から建久元年説を断定的に記載しています。 >>46 >>139 と典拠としています。 >>10, >>150
[297] 私年号の中では古いものの1つであり、私年号をいくつか例示するとき代表例の1つに選ばれることがしばしばあります。 >>296, >>259, >>300, >>301, >>302, >>303, >>306, >>3168, >>3163, >>3165, >>436
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 和勝 - 建久元年(1190年) 不明 『高野山文書』宝簡集18、宗像色定法師一筆書写一切経
わしょう【和勝】
鎌倉時代の私年号。元年が建久元年(一一九〇)にあたる。
[初出の実例]「和勝元年六月廿五日」(出典:高野山文書‐僧鑁阿天野宮八講米寄進状)
出典 精選版 日本国語大辞典
また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
中世前期には和勝(わしょう)(1190年頃)や建教(けんきょう)(1225年頃)などが用いられたが,使用された階層や範囲はごく限られていた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
中世前期には和勝(わしょう)(1190年頃)や建教(けんきょう)(1225年頃)などが用いられたが,使用された階層や範囲はごく限られていた。(山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
[193] 、 平成時代の歴史研究者の服部英雄は、 毎日新聞 に寄稿した連載記事中で和勝について記述したようです。 しかし、その後誤りだとして「削除訂正」して「おわび」しました。 >>24
[194] 本人の Webサイトで公開されている記事は、付けで訂正されており、 和勝に関する記述がありません。 >>25
[195] 現在公開されている記事は、 >>139 について扱ったものであり、 正治元年六月二十四日の後に建久十年六月二十五日があり、 改元を知って使った直後に旧年号を使うのは不自然だとの記述が残されています。 >>25 これは「削除訂正」の範囲外と思われます。
[197] 事情の詳細は説明がなく不明です。記事本文は、一切経が通説のように一人で書いたものではなく、 複数人の手による「誇大キャンペーン」だったと主張していたようです >>25。
[198] ところが、その根拠は「数点の写真」の「印象」だけのようです。 新聞記事という媒体の制約もあったのかもしれませんが、 自身の研究報告を参照しているわけでもなければ、先行研究による分析への言及もありません。 >>192
[199] 日本史を読み直す >>25 と題した連載で専門外の読者に対しては歴史を塗り替える新発見のような見せ方をしておきながら、 実際には調査すらしておらず >>24、 わずかな例示写真を見た個人的な「印象」に過ぎない推測を強い調子で新説として宣伝していたのだとすれば、 郷土の偉人への冒涜と取られても致し方ないのであり、相応の反発も受けたのでしょう。
[200] 実見によって当初の「印象」は実態と大きく異なることを認めたようですが、 なおも複数人説へのこだわりを滲ませています。 >>24 その後本件について本格的な研究成果が発表されたのかどうかは不明です。
[201] 和勝と建久の「混同」も、複数人説の根拠として提示され、後に誤りと判明したものでしょうか。 どのような主張がなされていたのか気になるところです。
「色定法師一筆一切経」の伝説 −−巨大プロジェクトには誇大キャンペーンが必要
服部英雄
『宗像市史』や『チャイナタウン展』図録(福岡市立博物館)に数点の写真がある。比 較してみたが、同筆という印象を受けない。別人が書いたのではないか。お経は長いもの の代名詞である。一巻平均一〇メートルの長さはある。広い畳の上で、投げるようにひろ げる。これまでの解釈のように一人で五千巻を筆写したとすると、四十年間、毎日毎日、 一日も休まずに、三日ごとにあの長大な経巻一巻を書き上げていったことになる。あり得 ないと思う。
建久十年は四月二十七日に改元され、正治となった。奥書に「正治元年六月二十四日書 之畢」とあるが、続いて「建久十年六月二十五日始之」とある。改元後の新年号を使用し た人間が、ふたたび旧年号を使用することはない。正治年号を知る人間と知らない人間が 別の場所で作業していたのではないか。
(05/12/30訂正)。
毎日新聞・色定法師一筆一切経の伝説の中で、和勝年号と、建久年号の混同を 述べた部分は誤りでしたので削除訂正し、各位におわびいたします。 なおそののち宗像大社神宝館のご好意により、一切経を拝読する機会を得まし た。
初期のものと末期のものでは筆跡に異なる印象を受けました。あとのものに装 飾文字的な印象を受けた箇所もあります。しかしこの点は種々のご意見があろ うかと思います。
[153] に高野山霊宝館が発行した機関誌に、 >>46 を紹介する記事があります。 >>154
[155] 高野山霊宝館は >>46 を所蔵しており、そのカラー写真が掲載されています。 >>154 ただし PDF ファイル中の画像の解像度はそれほど高くありません。
[326] 同時代の出来事 :