[40] 勝山記と妙法寺記は、 中世の日本甲斐国の歴史記録です。
[41] 戦国時代の甲斐国の社会の様子を伝える貴重な史料として歴史研究に活用されています。
[56] 勝山記・妙法寺記の諸本の系統関係は、 平成14年の論文 「勝山記」・「妙法寺記」の諸本について で詳細に調査されています。 >>55
[57] それ以前は勝山記系と妙法寺記系の2大系統 (とその混合も含めた3系統) に分類されていましたが、 勝山記と同じ系統で妙法寺記と題した本があったり、 勝山記と題する本が2系統に分かれるなど、 混乱の元となることから、 「勝山記」・「妙法寺記」の諸本について では a系統、 b系統、 c系統、 d (その他) に区分しています。 >>55
[77] >>55 は良好な本文を得る方法を次のように述べています。 >>55
[74] 写本 a-1 が最善本と考えられています。 >>55
[75] 山梨県史 資料編六 中世三上 県内記録 に、 a-1 の全文と、 巻頭の欠損を a-2 で補い、 巻末の欠損を b-3 で補ったもの >>99 があります。 >>55
[70] b系統は甲斐国志編纂時にa-1の書写で成立した可能性が高いと考えられています。 ただしb系統の諸本はその祖本から派生したものと考えられています。 >>55
[65] b-3 は 27.5 × 190.0 cm、 表紙・本文60丁・裏表紙、 「清水氏蔵書」朱印、 題箋「勝山古記 全」 とされています。 >>55
[67] 現在日本国の山梨県立博物館の所蔵品に堀内亨収集資料としてそれらしきものがあり、 「堀内氏」とは堀内亨のことと考えられます。博物館収納前には堀内亨の個人所有だったのでしょう。
[69] >>63 では59帖、 >>65 では60丁と表紙裏表紙とされていて、微妙に合わないのですが、 数え方の違いでしょうか。
[71] 甲斐国志の成立は11月です。 その勝山記への言及はの稿本まで遡れるとされます。 >>24 編纂事業はに開始されていました。 >>72 b系統の祖本が編纂作業のどのタイミングで作られ、 どのような役割を果たしたのか明らかではありませんが、 文化年間初期なのでしょう。
[73] b-3 から b-4 が派生したとされます。 b-4 (静嘉堂文庫所蔵勝山記) は色川三中の旧蔵品です。 >>55
法量(縦:mm) 275 法量(横:mm) 190
備考 ・頁数59帖 ・題箋「勝山古記 全」 ・「清水氏蔵」朱印。 ・前書に、「源朝臣定能」(「甲斐国志」を編纂した松平定能)が、「都留郡勝山記」を書写したことが記されている。
資料群名 堀内亨氏収集資料
[76] 山梨県史 資料編六 中世三下 県外記録 に、 c-1 の全文に c-3 校合の結果を注記したもの >>100 があります。 >>55
[21] 勝山記と原本の考証, 流石奉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539750/1/14 (要登録)
[1] 続群書類従. 第30輯ノ上 雑部 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 塙保己一, 大正12-14, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936497/145
[16] 史籍集覧 〔7〕 相京職鈔,妙法寺記, 近藤瓶城, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769648/1/48
[17] 信濃史料叢書 下巻, 信濃史料編纂会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537179/1/343 (要登録)
[9] 新編信濃史料叢書 第8巻, 信濃史料刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537187/1/13 (要登録)
[18] 歴代残闕日記 第13巻(巻58-60), 黒川春村, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12208288/1/122 (要登録)
嘉永の序文あり
[22] 鶯宿雑記 巻362-363, [駒井乗邨], , https://dl.ndl.go.jp/pid/10300928/1/55
[23] 甲斐志料集成 第7, 甲斐志料刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1913095/1/12 (要登録)
[26] 妙法寺記系統と勝山記系統の存在は江戸時代から知られてきましたが、 昭和時代中期頃に両系統の関係が積極的に研究されるようになり、 平成時代半ば頃まで論争が続きました。
[27] 平成時代初頭の末柄豊の研究でおおよその成立過程が解明され >>14、 その推測に基づく現地調査で原資料が発見されました >>15。
[30] 末柄豊によれば、 勝山記と妙法寺記の共通の祖本は、 常在寺の衆中によって書き続けられた年録でした。 明応、永正の頃の記録者は、 妙法寺の住持職を努めた後に常在寺に移った日国でした。 天文の頃の記録者は、 吉田の寺にいた日将でした。 その他の時代も含めて常在寺を拠点とする日国の法脈の衆中の記録と考えられ、 常在寺衆中記 と呼ぶべきものでした。 >>14
[32] 平成6年、 常在寺所蔵の聖教教機時国教法流布五段鈔写本の末尾に、 福徳2年辛亥と延徳4年壬子の2年分のメモ書きがあることがわかりました。 これは日国覚書と通称されています。 >>15
[33] 日国覚書は、勝山記の該当年の一部分と対応関係があり、 日国覚書を約に要約したものが勝山記の該当部分となります。 つまり勝山記の祖本は日国覚書や同様の他の1年もしくは数年の断片的な記録を編集したものだったと判明しました。 >>15
[34] この聖教の表紙には「日国之筆」と題䇳が付されています。 しかし堀内亨は、 日国覚書の辛亥年と壬子年は異筆ながらも同一人物によると推測し、 内容から日国によって記されたとしつつも、 聖教本文、奥書、日国覚書を同一筆跡とし日国によると断定することは、 更に検討が必要だとしています (肯定も否定もしていません)。 >>15
[35] 日本語版ウィキペディアは、聖教と日国覚書は同筆と鑑定されていると書いています。 >>3 出典は不明です。また、 柴辻俊六が日国覚書を日国の筆と断定するのは慎重にするべきと述べているとも書いています >>3。
[39] 日国覚書や同様の年録も、日々の記録をもとにして書かれたものと推測できます。 >>15
[2] 勝山日記と妙法寺記, 丸子亘, https://rissho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2248&item_no=1&page_id=13&block_id=21
[92] 戦国史料叢書 第2期 第13, 人物往来社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2973949/1/6 (要登録)
[8] 妙法寺記の研究 : 富士山麓をめぐる戦国時代の古記録, 萱沼英雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2981315/1/1 (要登録)
[88] 信濃 [第3次] 44(6)(510), 信濃史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6069992/1/2 (要登録)
[90] 信濃 [第3次] 49(12)(575), 信濃史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/19 (要登録)
[3] 勝山記 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E8%A8%98
[96] 勝山記諸本は編年体形式で、各年に対して記事が書かれています。 年は元号年で表され、干支年が併記されることもあります。
[101] 現状勝山記祖本に最も近いとされる >>99 本によると、 前半年代記部分と後半年記録部分で形式的にも内容的にも違いがあります。
[110] 前半、後半含めて全体的に、細かな体裁は不統一です。例えば干支年は縦書きだったり横書き (割書) だったりします。 また、干支年は漢字が多いですが、たまに片仮名表記も法則性なく混じっています。 改元は「開元」と表記されることが多いですが、 たまに「開ケン」や「カイケン」とも表記されます。 「年号を賛る」という表現もたまに出現します。 >>99
[328] >>99 本と >>24 本はどちらも a-1 本を底本とした明朝体の翻刻ですが、 >>24 本は >>99 本と違って干支斜め書きが混在しています。 原本のニュアンスをどれだけ再現するかの違いなのでしょう。
[118] 条に「今上院後二条」 とあります。 >>99 前半年代記部分の元になったある段階の本は、 この頃に成立したということなのでしょう。
[119] 条に「新院」 とあります。 そして天皇の記事はこれが最後です。 >>99 前半年代記部分の元になったある段階の本は、 この時代に書き足されたものだったのでしょう。
[111] 全体的に紀年の乱れが多いです。前半には欠落している年も多いです。
[162] 年の字は、年数につくものも、「年号」という語に現れるものも、 >>99 本の翻刻では年と秊の2種類に書き分けられています。 原資料の成立過程の何らかの違いを反映している可能性はありますが、 一見してわかる法則性はありません。
[112] 前半には「年号始」紀年が100年ごとにあります。 条に年号始から100年とあります >>99。 逆算するとが年号始になります。 >>99 本の先頭はで、 それ以前は欠損して現存しませんが、その前に少なくても25年分は存在したと推測できます。
[113] この「年号始」紀年はが400年となるところまでは、 (欠落している年を補えば) 計算が合っていますが、その後ずれが生じてきます。 (正しくは899年) 条に900年辛丑とあるのが最後です。 >>99 後半部分に当たるのあたりに1000年が本来ならあるべきです。
[114] 条に如来御入滅2000年で末法に入るとあります。 >>99 第2000年に末法に入るのか第2001年に末法に入るのかよくわからないところがありますが、 それはともかくこの年が第2000年だとすると、仏暦γ2年ずれ型に当たります。 当時の日本のデファクト標準だった仏暦γ型と2年ずれています。
[115] 条に如来滅後2340年とあります。 >>99 仏暦γ2年ずれ型だとこの年は2213年のはずで、ずいぶんとズレています。
[116] 条に像法1000年が終わったとあります。 >>99 仏暦γ2年ずれ型だとこの年は1928年のはずで、 像法の終わりが仏滅1500年だとしても仏滅2000年だとしてもずれています。
[117] >>114 は仏暦γから変化したものなのでしょうが、 >>115 と >>116 は仏暦の諸説とも一致せず何から算出したのかよくわかりません。 >>114 と >>116 は定義上同じ年になるはずで、2説が同時に書かれているのはおかしいのですが、 別々の情報源から入り込んだのでしょうか。
[120] こうした前半年代記部分の年紀の不審点やその他の記事内容を分析すれば、 数多ある年代記類のうちどの系統のものから派生したのか、 ある程度の推測はできるかもしれません。
[121] 勝山記祖本は、 おそらくある時代の甲斐国で入手できた何らかの年代記類に、 末尾の方に書き足し、書き入れのような形で地元の出来事を追補していき、 現在の前半と後半のような形になったものだったのでしょう。 後半をいつ誰が書いたのか (何度にわたって書かれたのか)、 後半がまったく独自に作られたのか、 それとも後半も元となる年代記があったところに常在寺関連の記事が増補されたのか、 といった事項は検討が必要でしょう。
[123] 前半は、元号ごとに元年には元号名だけを書き、 元号の2年からは元号年だけを書いています。 そして旧元号の最終年 (改元のある年) は旧元号側で省かれて、 新元号側扱いになっています。 ただ途中から徐々に崩れていき、 たまに元年に「元」や「初」と元号年が明記されることがあります。 >>99
[124] 後半はかなり乱れています。
[158] 多くの研究者はこれらの年表記の混乱を編集上の誤りとみて、 適切な年次になおして解釈しようとしています。
[159] また、山梨県史所収勝山記は永正年間と天文年間にそれぞれ1件ずつ、 実際は1年後にあるべき記事の錯簡を注釈しています。 >>99 この翻刻は記載内容についての注釈をほとんど入れていないにも関わらずなので、 両者はそれだけ自明な誤りと見なし得るのでしょう。 どちらも元号年と干支年とのずれは生じていない時期なので、 編集時点で誤りが発生したということでしょうか。 また、この部分の編集が行われたのはそれなりの時間の経過後 (当該記述の翌年など、 誤りに簡単に気づける時期ではない) ということでしょうか。
[160] 後半部分には「当年」という表現が頻出して、その掲載年のことを表しています。 他の年を参照する表現はほとんどありませんが、 わずかに出現する参照は、 元号年ではなく、 干支年や十二支年によっています。 後半部分の編集に使われたであろう原資料も、干支年や十二支年が使われていたのでしょうか。 (c.f. >>50)
の3つの書法があります。
[167] 新旧両方が書かれる場合、どちらも本来同じ年なので、干支年は同じになるはずです。 ところが干支が併記された長享、文亀、永正の3つとも、 この扱いを誤ったために干支のずれが生じています。 しかし3つとも違う誤り方をしているのが興味深いです。
[168] 特に長禄は、元年に本来2年の干支を書き、2年に干支を書かず、 3年は本来の干支を書いています。 なお長禄元年には記事本文がなく、直後が2年になります。 >>99
十九
、開元、 丁 未 長享元戊申
二
三
、三年テ開元、 己 トリ
[174] 文亀のように2年にも干支を書いてそのまま3年以後も干支がずれてしまうケースもあれば、 長享のように2年を意識的に(?)飛ばして干支を書いているケースもある、 というのは干支が成立過程のどのタイミングでどのように書かれたか考えるヒントになりそうです。 長享前後で干支はみな横書きされているにも関わらず、長享元年だけ縦書きなのも、 何かしらそうなってしまった理由がありそうです。
[173] 中盤から後半における3つの書法の混在と、 新旧年両方があるときの干支の扱いの違いは、 統一性、規則性の感じられない無秩序で、 意図的にこのように編集された可能性よりも、 偶発的な誤りの累積という説明に納得感があります。
[178]
「
[50] 日国覚書は見出し、書き出しに当たる部分で元号と干支年を併記していますが、 文中では干支年、十二支年を使っています。 元号が信用ならないこの時代、もしかすると原資料も本文は干支年を使っていたのかもしれません。
[51]
この資料や甲斐国の他の資料から、辛亥年に甲斐国では
「福徳二年」
と福徳の私年号が使われていたことがわかります。
>>15
[179] 日国覚書は現存勝山記の元になった資料、ないしはそれに近い位置にあるものと考えられています (>>33 >>34 >>35)。
[180]
「
[36] 奥書には福徳2年辛亥5月16日の日付があります。 ところが日国覚書には辛亥年と壬子年の記事があります。 辛亥年記事中には6月2日の日付があります。 壬子年記事中には夏、秋が云々とあります。 >>15 同筆かどうか、日国が筆者かどうかはともかくとして、 日国覚書の各年の記事が書かれたのは奥書よりも後、 場合によっては壬子年より後ということになります。
[47] 壬子年が「又云」から始まるのもちょっと気になりますね。ただの接続詞に過ぎないのかもしれませんが...
[181] 福徳2年条を書いた後に、時間を置いてから、やはり 「延徳四秊壬子」 条の一部も書き足すことにした、ということになりますが、 前条とは違う体裁で書いたことにはどのような意味があるのでしょう。 福徳2年条はそのまま年代記の一部分になりそうな表記なのに、 延徳4年条は「又云明年・・・也。」とわざわざ文章形式にしてつなげています。 「年」の位置と干支の書き方も違います。 これは気分でなんとなく変わったのでしょうか。 それとも何らかの原資料の表記の違いが残ったのでしょうか。
三
、三年テ開元、 己 トリ 延徳
開元 元 二 庚 戌 京ニハ正京二年ト延徳ヲカヱ玉フナリ、
「元」「二」の2つの元号年がなぜか併記されています。 そして元号年と干支年の間に謎の 「開元」が入り込んでいます。 「開元」は通常は旧元号末年の記事の末尾にあり、 この付近では延徳元年の前項 (本来は同年) の長享3年で実際末尾に置かれています。 年号途中にある意味の通らない謎の「開元」は延徳の1箇所だけです。 なお、長享3年まで年の下に記事本文があったのが、 延徳からは年の次の行に記事本文が置かれるように変わります。 >>99
[170] 長享やそれ以前の表記を参考にすると、本来
延徳元
二 開元、
とあったものが、「開元」の下に記事が書き足され、 2行が近接していたため合体し、 「開元」とその下の記事本文の間に空白があったため誤って「開元」 の下に干支年が書き入れられた、 という過程が想定できます (が、この想像に強い根拠があるわけではありません)。
[171] 続く明応への改元も酷く錯綜しています。 延徳元二年の次が明応元年、その次が延徳4年に一旦戻って、 その次が明応2年になります。 >>99
延徳
開元 元 二 庚 戌 京ニハ
明応元
此年モ 辛 亥 延徳四秊
壬 子 此年
明応二年
癸 丑 此年
延徳以後、年の後改行されて記事本文に続く形式になりますが、 明応元年だけ年の下に記事本文が入る形式に戻っています。 明応元年までは年数の下に「年」の字がありませんが、 延徳4年からは「年」の字が入ります。 このような形式的な変化も、成立過程の解明の大きなヒントとなるはずです。
[182] 日国覚書の年表記の違い (>>181) との関係も気になります。
[172] 本来延徳3年になるべき年に「明応元」が来ているのがこの部分の最もおかしなところですが、 次のように考えるのはどうでしょう。はじめに
延徳元
二
三 此年
延徳四秊
此年
明応二年
此年
とあったとします。改元のため「明応元年」は表記されていないのですが、 後からこれを見た人が「延徳四」の右横に「明応元」と注釈を書き入れたとします。 ところがその書く位置がよくなかったのか、伝来の過程で「三」が消えてその位置に 「明応元」が収まったとすると、現在の状態になります。 (この想像にも強い根拠はありません。)
三
、三年テ開元、 己 トリ 延徳
開元 元 二 庚 戌 京ニハ正京二年ト延徳ヲカヱ玉フナリ、 此年ハ多日テリ、後ニハ大風大雨フリテ、作モウ皆実モナシ、 大飢饉無申計、 天下ニ此年サヽラヲ老若共ニスル事無レ限、 又京ニ王崩御トテ福徳二年
年号ヲ賛ル也、 此年一秊中ニ三度秊号賛ルナリ、 以ノ外ニ大飢饉シテ、 其ノ年ノ内ニ米ハ七十、大豆ハ六十、粟ハ更ニナシ、 牛馬カツヱ死ル事大半ニ越タリ、 人民餓死無限、 庚 戌
[176]
延徳条は年号だけでなく記事本文にも違和感があります。
本文内容を見ると、改元、天候・飢饉、改元、飢饉という構成になっています。
このように改元記事が2回もあるのはこの年だけで、
それはこの記事にもある通り1年で3度の改元という珍事ゆえかもしれません。
しかし本文の真ん中あたりに改元記事があるのはこの年と弥勒元年だけです
(享禄5年も末尾ではないですが、最終盤です)。
また、「福徳二年
[177] これもあまり強い根拠があっての想像ではありませんが、 この年の本文は元々「延徳」と「福徳2年」の2つの別の年だったと考えてはどうでしょうか。 成立過程のある段階の本で共存していたのかもしれませんし、 別々の原資料の記述を無理に統合したのかもしれません。
[183] 日国覚書が原資料の様子をとどめていると仮定すると、
延徳元
二開元
庚 戌 福徳二
此年 辛 亥 延徳四秊
壬 子 此年
明応二年
癸 丑 此年
のような構成だった時代もあったのではと想像がはかどります。
[191] 延徳条には元号に関する説明が次のようにあります。 >>99
三
、三年テ開元、 己 トリ 延徳
開元 元 二 庚 戌 京ニハ正京二年ト延徳ヲカヱ玉フナリ、 、 又京ニ王崩御トテ福徳二年
年号ヲ賛ル也、 此年一秊中ニ三度秊号賛ルナリ、 、 庚 戌 明応元
此年モ秊号イロ〱也、 、 辛 亥 延徳四秊
壬 子
[192] 記事中に改元のことが書かれている箇所は本書中多いですが、 ほとんどは「開元」程度の簡単な記述です。 この2年間は特に詳しく異様な説明文です。
京ニテハ正亨二年ト延徳ヲ改玉フ也
又京ニ王崩御トテ福徳二 年ト年号ヲ改ル也 庚 戌
となっています。 >>100
[325]
>>24 /54, >>24 /137
にこの部分の一部の「
[194] まず、「正京二年」「正亨二年」なる年号が出てきます。 正京や正亨、あるいは正享だとしても、 このような公年号は存在しません。 この時期に似た音の公年号もありません。 京都でそのような元号が使われていたとする情報が、 この頃の甲斐国には流布されていて、 筆者の記憶または何らかの資料にあったのでしょう。 「京」「亨」は字形と音が似ていますから、 伝写の過程で変化したものと思われます。 祖本に近いとされる >>99 本では「京」だとはいえ、 「亨」や「享」が原形だった可能性は十分あります。 (どちらも噂としてあった可能性もあり、「原形」 を追求してもさほどの意味はないかもしれませんが。)
[196] そしてその 「正京二年」「正亨二年」 と 「延徳」 の改元があったとのことですが、延徳「を」変えたのか、 延徳「に」変えたのかの2説があります。 つまり新旧なのか旧新なのか正反対の2通りの解釈があり得ます。 普通に考えればここは延徳条なのですし、 「正京」には「二年」とあって「延徳」には年数がないので、
と解釈するべきなのでしょうが、 このあたりは紀年が混乱している時期なので断定し難いのも事実です。 ここが延徳2年条だとすると、
と「京都で」 改元されたことになってしまいます。 >>99 本が「延徳を」替えると書いているのをそのまま解釈するなら、
のどちらかになってしまいます。これも新元号が2年になっておかしいのですが、 >>99 本も >>100 本の本文も「を」としているのは簡単には無視できません。
[208] 京の王の崩御が理由で、福徳2年と改元されたとあります。 そのような情報がこの頃の甲斐国には流布されていて、 筆者の記憶または何らかの資料にあったのでしょう。 しかしその「王」とは一体誰なのか、も問題です (>>201)。
[209]
この記事は延徳庚戌条にかけられており、
「福徳二年」の直後にも「
[210]
日国覚書
との関係も問題があります。
日国覚書
には
「福徳二年
[211]
「福徳二年
[212] さて、この1年では3度も元号が変わったのだと書かれています。 この3度とは具体的にどれを指しているのでしょうか。 ここが延徳元年条なんか延徳2年条なのかという大問題がありますが、 一応延徳2年として、
の3つでしょうか。3度変わるとあるのに2回しか改元はありませんが、 言い方の違いと言えないでもありません。が少し引っかかります。 前条の長享3年や、次条の明応元年が入るのでしょうか。 しかしそれでは「1年で」3回とはなりません。 あるいは
で3回変わったという解釈もできるでしょうか。
[214] 正京の改元にわざわざ「京には」と修飾があるのも不審です。 わざわざ京都の改元と明記しているのはここだけです。 次の福徳の改元も「京に」とはあってこれも不審なのですが、 これは王の崩御に掛かっていると取れないこともありません。 正京は改元の噂だけで実施されなかったという解釈もあり得ます。 現に東国で福徳の用例は多いですが、正京は 勝山記諸本以外でまったく発見報告がありません。
[215] 年号が3度も変わったと書いたのがいつ、誰であるのかは重要な問題かもしれません。 当時を知る人が書いたのではなく、 現在の延徳条にある程度の情報しか持っていない編集者が書いたのだとすると、 文面上にみえる3つの年号でこれは異様だと感想をそのまま記したと解釈できるかもしれません。
[217] 次の明応元年条 (本来は延徳3年) には、この年も年号色々なりとあります。 >>99, >>100 この年に至っては色々あったということしか筆者は伝えてくれていません。 その「色々」とは一体何だったのでしょうか。 なにか理由があって書けなかったのでしょうか、 それとももう面倒になって書くのをやめたのでしょうか。
[218]
果たして、
日国覚書
の
「福徳二年
[219]
東国に残る史料によればこの年は延徳3年、
福徳元年、
福徳2年、
福徳3年などと表現されていたようです。
[220] また、「明応元」はその「いろいろ」に含まれているのでしょうか。
[327]
大機翁曰、昆陽漫録ニ載ス鎌倉鶴岡八幡宮座不冷所着到ノ軸ニ福徳二年四月一日ト彫テアリ、
同所光明寺ニ祈禱ノ額ノ裏ニ福徳二年辛亥九月吉日トアル由鎌倉志出、
一条過去帳ニ延徳二年十二月十七日板垣善満逆修、福徳二年正月四日同五月一日トアリ、延徳三年七月六日、八月十三日同九月十六日ト記セリ同六月十日云云、按ニ庚戌十二月ノ末ニ改元、但シ復二延徳
一ニ 六月十日ノ後七月六日迄ノ間ナリ
[201] 延徳条の福徳の改元事由には京都で「王」が崩御とあります。
[232] この時期、
が相次いで京都で死去しています。
[233]
この「王」は通常は足利義政と解されているようです。
足利義政と足利義視を指すとする説もあります >>251
[206] 「王」は前後の年の記事には出現しません。 天皇や将軍と明確にわかる記述も前後の年にはありません。
[236] 少し遡って条に、 11月14日、 「王」が京都から東に逃れて日本甲斐国小石澤観音寺に入ったとの記事があります。 >>99, >>235 この王が延徳条で崩御した王と同一人物かは定かではありません。 >>235
[238] 少し進んで条に、 11月に「王」が三島に流され、 北条早雲により更に相模に送られたとあります。 >>99, >>237 延徳条で「崩御」した王とは明らかに別人です (「崩御」が事実なら)。 文明10年の「王」と同一人物かは定かではありません。
[239] 文明10年、明応8年にぴったり該当する足利将軍家の人物は見当たりません。 またそもそも将軍を「王」「崩御」と表現し得るのかどうかは、 なかなか微妙なラインではないでしょうか。
[241] 文明10年と明応8年の「王」は、後南朝の皇族とする説があります。 >>237, >>240
[330] 松平本勝山記明応8年条には書き入れがあります。 >>24 /59
按ニ南朝亀山第四宮尊親法王始後村上之春宮即位而後為僧、延文中在藤沢遊行十二世尊親他阿上人也、是ヨリシテ遊行賜論旨三島西福寺ニ色紙歌アリ、此ニ王ト云親王此時藤沢ニ入ルナルベシ、己下畧
[242] 文明10年についてウィキペディアは、 菅政友が後南朝の当主ではないかと疑われると書き残しているのを引いています。 >>240 他の出典はよくわかりません。
[336]
昭和時代の熊沢天皇系後南朝説の1つで、
明応元年に西陣南帝が建元し、
明応10年に甲斐国に移ったとしているものがあります。
[243] 晴富宿禰記 は、 文明11年7月19日条で小倉宮王子が越後国から越前国へ向かったとし、 文明11年7月30日条で出羽王が高野へ向かったとしているようです。 >>240
[244] それに先立ち応仁の乱中のには、 京都で小倉宮が西陣南帝を称したといわれています。 >>240 おそらくこの時期後南朝について京都でもそれ以外でも、 いろいろな噂が出回っていたのでしょう。 その中には真実も混じっていたのかもしれませんし、 まったくのでまかせも混じっていたことでしょう。
[246]
ここで思い起こされるのが、
文明元(1469)年11月21日に奈良に流れた噂で、
吉野と熊野の後南朝勢力が挙兵して明応元年と建元したといわれていた記録です。
[333]
江戸時代から明治時代には、彌勒や福徳を後南朝の元号とする説がありました。
[334] これといった根拠があった説ではなく、 私年号というものの全体像が見えていなかったなかで一部の後南朝の元号 (と伝承されていたもの) の存在を拡大解釈したに過ぎないと思われますし、 「王」の伝承やそれについての研究を参照しているわけではありません。 しかしあながち無下にもできないようにも思われます。
[335] 「王」や他の落人伝説が皇胤であるかはなかなか疑わしいですし、 中世東国私年号を後南朝と結びつけるのも誤りとみてほぼ間違いないと思われます。 後南朝の「王」がそう簡単に東遷できる状況ではなかったでしょう。 しかし「噂」の東遷はもっと簡単で、まったくの偶然とは限りません。
[52] 堀内亨は日国覚書と勝山記の比較により、 当時辛亥年が福徳2年と認識されていたこと、 翌年公年号に復帰したこと、 勝山記祖本の編者がその認識を持たなかったために年紀の乱れを生じさせたことを指摘しました。 >>15
[53] そして、 勝山記で前年の庚戌年に「延徳元」「延徳二」を併記したり、 「正京」「福徳」の私年号を用いられたとしたり、 辛亥年を「明応元」として年号色々と書いたりするなど、 記述に混乱が見られるのも当然だと評しました。 >>15
[222] 平成時代初期の歴史研究者渡部恵美子は、 紀年の混乱、特に延徳条の中に福徳2年の記述を指摘して、 これを長享3年から延徳元年への改元の直後に福徳の私年号が使われたためだと推測しました。 >>492
[223] そして 日国覚書 の福徳2年条が明応元年条に対応するだけでなく、 その前の延徳条の後半にも対応しているとしました。 両年とも大飢饉の記述があり、 売買の記述と、 牛馬や人民の死亡の記述があると構造が共通しているからです。 >>492
[224] しかし福徳2年条と明応元年条は一応は対応関係があるのに対し、 福徳2年条と延徳条後半は数値が違っています。また、 日国覚書と勝山記で福徳2年の干支が違います。 これらは細かいながら重要な違いですが、 なぜか言及されていません。 大飢饉があり牛馬と人がたくさん死んだと2年連続で書かれているのは、 2年連続で大飢饉があってたくさん死んだ可能性もあります。 同じ人が2年連続で記録したなら同じような文面になるのは当然なので、 むしろ細かな違いがなぜ生じたかを重視する必要があるのではないでしょうか。
[225]
渡部恵美子はまた、
日国覚書
は福徳2年のうち1月から6月の記載しかないこと、
甲斐国で福徳が辛亥年の1月から6月に使われその後延徳3年に変わったと考えられること
(
[226] 渡部恵美子は加えて、 延徳条の改元記事は「京」という場所や「王崩御」という改元事由の説明があることを、 公年号と違う私年号と正京や福徳を認識していた表れだと主張しました。 >>492
と主張しました。 >>258
[305] しかしこの主張はその大部分を推測や根拠不明の断定に頼って積み上げられています (ここで紹介するにあたって省略したのではなく、これだけの内容しかありません)。 前提となる事実認定にも問題があります。
[184] 永正4年条には私年号の弥勒の記述があります。 >>99
永正三秊丙寅
此年春ハ売買去年ノ冬ヨリモ尚ヲ高直也、 秋ツクリハ悉ク吉シ、 但シ春ノツマリニ秋吉ケレトモ、 物モツクラヌ物イヨ〱明ル年ノ春マテモ貧ナリ、 此年半ノ比ヨリモ年号賛ルナリ、 此年冬雪フラスシテアタヽカナル事先代ニモカヤウナル事無レ之、 海モコヲラス、
永正四年
弥勒二秊
、此年 丁 卯 永正五年
戊 辰 此年
[185] この前後の時期は年と秊の違い、干支の縦横や仮名表記など、 表記の微妙な違いがあり注目されます。
[186] 永正4年条は干支がありません。そのかわりに記事本文冒頭に弥勒2年とあり、 干支が書かれています。 この付近で年に干支がないのは文亀4年 = 永正元年で1年が2回書かれているうちの永正元年の方だけで、 永正4年は異例です。 そして本文中に元号年と干支の割書があるのは延徳条と永正4年だけで、 やはり異例です。
[187] 元々
永正四年
弥勒二秊
丁 卯 此年
ないし
弥勒二秊
丁 卯 此年
とあったのが変化して現在の形になったのではないかと想像できます。
[248]
なお、「弥勒」は本によっては異体字で表記されています。
[188] 永正3年条にはこの年の半ば頃に元号が変わったとあります。 次の年は永正4年・弥勒2年なので、「弥勒元年」に変わったと解釈するのが穏当です。 この部分の筆者の記憶または何らかの資料には、 永正3年の途中で改元情報が流れてきたことがあったのでしょう。
[189] しかしその後弥勒2年は永正4年に戻り、永正5年と続いていったのでしょうが、 その事になんの説明もないのは不思議です。 この直前いくつかの改元はすべて旧元号末に改元の記述があり、 永正3年にも改元の記述があるのですから、 改元が取り消される(?)という珍事はもっと重大な事件として書かれていてもいいはずなのに、 何もありません。 (なお次の改元は少し離れて永正18年、大永8年と続くのですが、これらには改元記事がありません。)
[190] 永正年間に入ると年と秊の違い、干支の縦横や仮名表記といった表現のぶれが増え、 見せ消ちによる訂正もしばしば見られます。こうした特徴も本書の成立過程の何がしかと関係しているのでしょうか。
[331]
>>24 本は、永正3年記事に「
弥
勃 年号創作使用シタノハ、庶民ニ精神的安心ヲ与ヘル立場ニアル、僧 輩、社僧連デ、飢饉、米価高騰ナド ガ理由トナリ、弥勒菩薩󠄁ノ救ヲ求メ タ、弥勒年号銘名(日本年号所功氏) (松平本勝山記書キ入レ)
「弥勒、都留郡黒野田村 (笹子町)
奥明神棟札ニ弥勒二年丁卯仲冬十 二日敬誌トアリ」 弥勒菩薩󠄁ハ現実ノ世ニ於󠄁テ不運不幸、
苦ニ耐エカネテ居ル人ノ為ニ、如来 トナリ兜率天ノ浄土ヘ生キナカラニ シテ導ク、救ノ菩薩󠄁
[229]
渡部恵美子は、
公年号のあとに何の断りもなく私年号が記載されていることについて、
編者が公年号と私年号だとわかって併記したもので、
(千々和到の私年号説
[231] しかし公年号と違う私年号があって併用されていたと編者が知っていて、 それが勝山記の時代のうち延徳とこの年だけの特殊事情だったとすると、 なぜ編者はそのことを明記してくれなかったのでしょう。 渡部恵美子の考えるように延徳条の「京」「王崩御」 がそのサインだった (>>226) とすると、弥勒2年はそれがない唯一の年です。 数十年間に1回しかない特別な出来事を、 ただ単に公年号と私年号を併記して何も注記をしないでも当然に理解されるはずだと、 編者は考えられたのでしょうか。
[266] 勝山記は一部の研究者の主張する元二年説の根拠にもなっています。
[260]
平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、
長享,
延徳,
文亀,
享禄,
天文の各改元は誤記でも誤写でもなく
「
のだと主張しました。 >>258
[264] しかし実際には「編集方法」はまったく「一貫」しておらず、 改元ごとにバラバラの混乱を招いています。
[265]
また、 >>99 本では「
[332]
ちなみに >>24 本では
「
此年五月、六月、七月、八月マテ
大雨フリ候て、カウサク悪シ、
とあります。
此ノ年ハ、始ノ
年八月ヨリ、明ル年ノ四月マテ、ワラヒヲホリ候て、 皆ナ身命ツキ候、
とあります。
[269] 勝俣鎮夫は、 天文2年条で8月よりの飢饉の始まりを記しているので、 天文3年条の「始ノ年」は天文2年であり、 編者が天文の年号の「始ノ年」を天文2年としたことは明らかだとします。 そして >>258
[270] そしてこれが 「改元による年号の年次は二年(実質的には元年と二年)よりはじまる」 という年号観なのだと述べています。 >>259 (「実質的」とはどういうことなのでしょう?)
[271] しかし、このような解釈は一案としてあるのでしょうが、とうてい「明らか」とは言えず、 論証が必要と思われます。
[272] まず、5月から8月までの大雨の記事から8月が飢餓の始まりと認識されていたとは直ちには結論付けられません。 作物の十分実らなかった秋から食糧事情が悪化した可能性は確かに高いですが、 実際には前後したかもしれませんし、食料供給の実態と「飢餓」 レベルに達しているとの認識も前後していたかもしれません。 文中で言えば、天文2年条に飢餓の直接の記述はなく、 天文3年条の「春」になって飢餓が酷い旨が出てきています。
[273] 次に、「始」が天文の時代の始めとはどこにも書かれていません。 「始ノ年」と「明ノ年」が対句になっています。 飢餓の期間を示しているに過ぎないとも解釈できます。 その始まりがたまたま天文2年だっただけです。
[274] そもそも天文3年条の該当する文は「此ノ年ハ」から始まっています。 にも関わらずその文中に「始ノ年」「明ノ年」が登場するのは不審です。 原資料からの転載時に無理に年単位に再編集したためにおかしくなったのではないか、 などまずは編纂時の不手際を検討しておく必要があるでしょう。 そうでないとすれば、編者の「年」の認識を考察しないことには、 この文は正しく読めないおそれがあります。 基礎的な検討なしに結論を急ぐべきではありません。
[275] また、本書の他の部分で干支年や十二支年を使いながら、 元号年を使った記述が皆無であることにも注意が必要です (>>160)。 ここで唐突に、しかし暗黙に、元号年で時代が記述されることがあるのか、 慎重にならざるを得ません。
松ヲ二度立ル也、
とあります。 >>100 本では
門松二度立ル也、
となっています。
[252] 阿部浩一は閏正月を表す可能性があり、その場合京暦とは異なると指摘しています。 >>251
[253] 妙法寺記の閏月と配月 >>251 (>>255):
[254]
>>251 は妙法寺記 >>255 から引いて
[58] a系統の多くは蔵知5年から始まります。 a-2 (内閣文庫所蔵小佐野正秀覚書) は明要8年から始まります >>59。 >>55
[62] d-2 (神奈川県足柄上郡中井町鴈丸フミ子所蔵年代古事記 全) は貴楽元年から始まります。 >>55
[60] b系統は巻頭に天平感宝についての「常ノ年代記」には書かれていないので云々との記事を持ちます。 >>55
天平感宝 愚管抄云、天平感宝元年七月二日、孝謙 天皇即位、コノ天平感宝ハ四月十四日ニ斯ク改元ア リケレト、其年ノ七月二日、又天平勝宝トカワリニ ケレハニヤ、常ノ年代記ニハ此年号ヲハ書ノセスナ ルヘシ、続日本紀天平二十一年四月丁未、改元、為 天平感宝元年、
七月甲午、又改元、為天平勝 宝元年、 五月 有閏、
とあります。 >>55
[61]
b-3 には承運についての記事
[91] 甲斐叢書 第7巻, 甲斐叢書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1209124/1/187