光永

光永

[16] 光永は、戦国時代日本の私年号の1つです。

元号名

[109] 読みは、 「こうえい」 (歴史的仮名遣: 「くわうえい」) です。 >>32, >>31

用例

北関東の用例

[187] 昭和時代の年表大日本年表に、光永は天正4年に相当する私年号とあります。 ただし、出典は不明です。

[188] 昭和42年までに久保常晴大日本年表編集に関与した岡山泰四が尋ねたところ、 「北関東の金石文資料だったか」 との回答を得ました (>>71)。

[189] 「だったか」との表現から推察できる通り、当人の記憶は曖昧になっており、物証は存在しないようです。

[190] 昭和時代中後期に関東の石造物等の調査が盛んに行われましたが、 現在に至るまで再発見の報告はありません。記憶違いだったか、 実在したとしても既に失われてしまっている可能性が高そうです。

後藤家信関係文書の用例

日時事例

[54] 時点で、 光永文書は4点知られていました。 4通中2通は後藤家信発、2通は後藤家信着でした。 >>3

[126] 後藤家信 ( - ) は、龍造寺家に生まれましたが、養子として後藤家に入りました。 後藤家はその後佐賀鍋島藩鍋島名字を与えられ、 家老格で明治まで続きました。

[193] 昭和時代中期頃の地元の研究者による記録が残り、 私年号として認識されたのはその頃と思われます。

[202] 令和8年現在、 >>41 は全文翻刻がありますが、他の3つは Web 上で全文を確認できません。

[194] 令和時代に至るまで、全国的な私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

佐賀県下の記録

日時事例

  • [116] 直茂公譜
    • [117]一同五年六月中旬、>>113 /35
      • [118] 朱字イニ、 今年、光永元年といふ、 此年、空𛂌光ル物有之て、西東𛂌永くたなひく、時の人 光永と唱候、古キ證文𛂌も書載有之なり>>113 /36
  • [119] 直茂公譜考補
    • [120]一同五年丁丑今年、光永元年ト云、 此年、空ニ光物有之テ、東西ニ永ク ((たなび)) キ候、時ノ人 光永ト唱候、古キ證文ニモ光永ト書載有之、>>113 /204
  • [42] 北肥戦誌
    • [38] 「天正五年丁丑或旧記にいふ、今年光永元年と唱ふ。東西に光永く映く故と云々>>4, >>5

[127] 北肥戦誌 は、 馬渡俊継が編纂した戦国時代佐賀県近辺の歴史書です。

[121] 直茂公譜は、 日本佐賀藩江戸時代に編纂された鍋島直茂の伝記的な歴史書です。 厳密な成立時期は不明ですが、 刊本は付の奥書のある写本を底本としています >>113 /18

[122] 従って >>118 は延享4年本に朱書で注釈された異本の校合であり、 いくつか存在する写本の中に天正5年を光永元年と言った旨を追記したものがあったのか、 原本にあった注釈が延享4年本では脱落していたのか、のどちらかとなります。

[123] 鍋島直茂は、もと龍造寺家に仕えていましたが、 龍造寺家にかわって現在の佐賀県下を領し、 佐賀鍋島藩の藩祖とされています。

[124] 直茂公譜考補 は、 直茂公譜 の改訂版です。 春に編纂が開始され、 夏5月の紀年があります。 >>113 /18

[125] 該当部分は 直茂公譜異本朱書と直茂公譜考補で内容が一致しており、 直茂公譜考補で参照した直茂公譜がこの部分を有する本だったことがわかります。

[203] 現在に伝わる写本はいくつかあるようで、該当部分の諸本の違いの検証が望まれます。

[199] 北肥戦誌所引「或旧記」が何を指すのかは不明です。直茂公譜なら 「旧」記とはいわないように思われますが、どうでしょう。より古い記録があったのでしょうか。 直茂公譜一本の出典もその旧記だったのでしょうか。

[200] 「古き証文」が何なのか、どこかに現存するのか、もまったく不明です。

[195] 平成時代北肥戦誌ウィキペディアに引用されたのを除き、 私年号研究の文脈でこれらを紹介した事例は知られていません。

熊本県下の用例

日時事例

[191] 昭和時代中期に学術的に初めて報告されました。 民間人宅敷地内にあり、地元住民はそれ以前から知っていたようです (私年号との認識があったかまでは不明)。

[192] 全国的な私年号研究の場で知られるようになったのは平成時代初期頃のことです。

[204] >>34 によると元号名の第1字はであること明瞭で、 第2字も異体字の可能性がかなり高いと思われます。

[205] >>34 では元号年は不明瞭ですが、とみて問題なさそうに思われます。

[206] >>34 では干支年の判読が困難で、なんとなく文字がありそうな気はしますが、 どんな字形なのかよくわかりません。 >>103 では干支年に薄い辛巳の字形を読み取れます。

鹿児島県下の用例

日時事例

[131] 情報なく現況不明です。

[142] 紫尾神社廃仏毀釈の被害により宝物は破壊されたといいます。 >>140 >>129 なども現存しない可能性がありそうです。

[196] 幕末に地元の歴史研究者によって検討されたのを除くと、 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

[207] 奈島については詳細不明ですが、 >>138 を参照。

諸説

[14] 関東九州をつなぐ存在とされた当私年号ですが、 関東説は曖昧な証言しかありません。 再発見されない限りは保留とせざるを得ません。

[208] 北関東を除いて数点の用例があります。 これら全てが同系統の元号であるか断定する材料はありませんが、 いずれも九州で、中世末期的な時代感がありますから、 ひとまず同時代と見て考察し、大きな矛盾がある用例は別系統と考えるのが良さそうです。

[209] なお、 古代年号 (>>9) と令和新元号予想 (>>148) にも光永がありますが、 無関係であること明らかと考えられます。

[210] ここで最も注目するべきは後藤家信関連文書、特に >>49 の光永元年戊寅です。 この文書が正しいとすれば、 後藤家信の生没年は - ですから、 この間の唯一の戊寅年である (16才、に養子となった翌年) でしか有り得ません。

[211] これを基準に他の用例を見ると、次のようになります。

[15] すべての用例が正しいとすれば、5系統の光永が存在したということになってしまいます。

[218] これらのいくつかが何らかの誤りを含むと考えることもできましょうが、 明確に干支年を伴って同時代的に利用されている後藤家信元年、 薩摩元年、 熊本元年の3系統は実在した可能性が高いのではないでしょうか。

[219] 同名で1,2年のずれがある私年号が利用される現象は、 中世関東私年号等でしばしば見られます。 だとすれば、いずれかの系統が1巡60年前後したとする説より、 すべて天正年間に使われたとする説の方が幾分説得力を持ちます。 が、それだけで完全に断定するだけの根拠とはできません。


[220] >>211 以外の比定説は次のものがあります。

[235] ところで後藤家信元年8月から後藤家信2年12月まで間が空きすぎていることも注意されます。 たまたま残存していないだけかもしれませんが、他の可能性も検討を要するかもしれません。


[236] 佐賀藩史書には改元理由の記録が残ります。当時光永元号と共に流布されたものか、 後から回想的に記録し説明が付加されたものか判断は付きませんが、 公年号でも私年号でも改元理由と共に記録が残るものは珍しく、貴重な史料です。

[237] その理由は次のように説明されます (>>116, >>119, >>42)。

[241] この説明は天正5年丁丑6月中旬に掛けられていますが、 ここは天正5年条のはじめであり、「この年」と説明が始まっているのですから、 6月とは関係あるともないとも主張していないと解釈されます。

[246] 天正頃の天変の記録として、次のものが知られています。

[259] この中でも天正5年の彗星は特に記録が多いようで、 注目の高さが窺えます。

[260] 天正5年の大彗星は、10月の松永久秀の滅亡と関連付けて語られました。 >>243

[263] 天正10年の彗星は、本能寺の変と関連付けて語られました。 >>262

[258] 公年号でも彗星が理由で改元されることは度々あります。

[264] こうした時代背景を考慮すると、 彗星出現により改元との風説が信憑性を帯びて流布されることは、 十二分に考えられます。

[265] 天正5年の一度に留まらず、何度も繰り返し流布されることも有り得るでしょう。 彗星記録の中で時系列が合致するのは天正5年のみですが、 もともとデマは繰り返し流布される傾向にあるものですし、 一度衝撃的な光り物が観察されると、過敏になって目撃証言が増加した可能性は考えられるでしょう。

[268] 天正5年の諸記録によって日本で彗星が観測されたと確認できることは、 佐賀藩史書の注釈の信憑性の裏付けとして極めて重要です。 少なくても光物目撃という天文現象は実在のもので、事実を正しく伝えていると確定できます。

[266] もし天正5年の彗星私年号光永」発生の決定的要因だとすると、 天正4年の北関東説は誤りだった可能性が相当に高い、 少なくても比定年は間違いと考えられます。

[267] 逆に、光永という私年号が最初にあって、 あとから天正5年(など)の彗星と結び付けられた可能性も一応考えられます。 その場合でも、天正5年か、それに極めて近い時期に、 光永彗星を結び付けた噂が広まったことは間違いなさそうです。

[269] 天正5年彗星は天正6年になってもまだ見えていたといいます。 すると天正6年正月が光永元年だ、とする説が広まった可能性はあります。 後藤家信元年はこれで説明が付きます。 それとは別に天正5年を元年とする噂 (佐賀藩元年) があったのか、 佐賀藩元年は彗星目撃の始まった年に佐賀藩史書が記事を掛けた結果に過ぎないのか、 はどちらも有り得ます。

[286] なお、佐賀藩修史担当者が史書にわざわざ光永を注釈した理由としては、 彗星による天意と、 龍造寺家から鍋島家への「継承」を結び付けた正当化、 といった側面も考慮するべきかもしれません。ただし、 本文ではなく注釈に過ぎないことにも注意するべきとは思われます。 天文現象を前面に押し出して説話的に記述するスタイルを取っているわけではありません


[270] 建元の趣意や使用者について、次のような説がありました。

[278] これらの説はいずれも単独系統の用例だけが知られていた当時に提唱されたものです。 複数系統の用例が知られている現在となっては、 他の系統とまったく無関係に生じた蓋然性が高いと説明できない限りは、 こうした説は支持し難いと考えられます。

[280] 特定勢力との結び付きを唱える説は、 私年号の制定者と使用者を暗黙に同一視する昭和時代頃の私年号研究風潮から生じたと思われます。

[281] 後藤家信については、龍造寺家/鍋島家との関係を抜きに後藤家だけで結論を出すのは適切とはいえません。 後藤家に、あるいは当時の武家に家督相続で私年号を建てる風習でもあったなら別ですが、 当説自体が珍しいことだと主張しています (>>62)。

[282] 主家で出身家でもある龍造寺家私年号を制定したとするならまだ理屈は通りそうですし、 佐賀藩史書に記録が残ったこととも整合します。しかし、もしそうだとすると、 佐賀藩史書が逆に簡単な注釈だけ、それも第三者的な立ち位置であり、 龍造寺家鍋島家の関与を窺わせない書き方をしていることと矛盾する、 というより大きな問題に発展します。


[283] すべての系統が同一起源で伝播したと仮定すると、時系列は (佐賀藩史書 →) 後藤家信 → 薩摩 → 熊本、 の順となります。

[284] もし薩摩と熊本が逆だったなら、九州を北から南へ伝播した、と単純な話になるのですが、 そうもいかないようです。

[285] 現在知られている確実な記録はすべて九州のものですが、 これが九州で発生したことを意味するのか、それとも中国地方、 もしかすると畿内あたりから伝わってきたものなのか、 は決めかねるところです。しかし現状の史料では肯定も否定もしようがありません。

研究史

[197] 江戸時代半ば頃の日本国佐賀藩で行われた歴史書 北肥戦誌直茂公譜一本の編纂で、 公年号とは異なる光永元号が用いられたことが記録されました (>>116, >>119, >>42)。

[198] 歴史書本文には直接関係しない注釈ですが、 光永を使った「古き証文」があったとも書かれており、 編纂事業の過程でそうしたものを参照することもあって、 記述する必要性を感じたのでしょう。


[132] 幕末頃成立と思われる日本国薩摩藩の研究者伊地知季安寺社巡詣録 は、 >>129 を紹介しています。 >>128

[133] 文久2年から3年に伊地知季安は藩内寺社を巡見しており、 その成果と考えられています。 >>128 PDF1つ目 #page=5

[134] 本書には次のようにあります。 >>128


[182] 昭和時代頃、一部平成時代私年号の一覧表の類は、 すべてではないものの、多くが光永を掲載し、 としています。 >>180

[184] 昭和16年の大日本年表が現在知られる最古です。 >>180

[185] しかし出典の記載なく、どこから採録されたものか不明です。 関係者の証言はあるものの (>>71)、曖昧です。

[186] 大日本年表の著者辻善之助史料編纂所幹部です。 大日本年表私年号一覧の初出である私年号として他に永傳があり、 こちらは薩摩藩系の史料から史料編纂所で検出されたものと推測されます。 永傳 光永も同様に九州由来の可能性が考えられますが、 永傳とは異なり、光永は令和8年現在史料編纂所の公開データベースの検索で1件も発見できません。

[108] 日本歴史大辞典は、 光永私年号で、 継続年数等不明としています。 >>32, >>31


[39] の史料集は、 >>41 を収録しています。 「光永元年 ((天正五年カ)) 八月廿二日」 と注釈しています。 >>2

[45] 後藤家信発給文書で、 がなく天正5年と推定されるものなど数点があります。 >>2 本書では前後に配置されており、日付も近く時系列的関係が想定されます。

[55] の地域史は、 >>46 >>41 >>49 >>52 を紹介し、 次のように述べました。 >>3


[12] 昭和時代後期頃の研究者が私年号を数個挙げるときに、 光永が選ばれることがままあったようです。 Google Books の検索などから伺えます。 >>6 もその類。なぜこれが選ばれたのかは謎です。

[63] の論文は、 私年号の代表例で時期を「推定し得るもの」をいくつか挙げるうちの1つとして、 光永元年はと「なるようである」 と述べています。 >>6

[64] この論文は「弥勒 (美禄)」 のように中世の実用例がみつかっていない美禄をわざわざ挙げる >>6 など、 例示の基準が謎です。

[11] 昭和42年の日本私年号の研究は、 次のように述べています。 >>66

[288] それに先立つ昭和40年の論文では、 大日本年表 に天正4年とあることのみ記載していました。 >>287


[112] の書籍は、 >>41 を起請文の事例一覧に掲載しています。 光永元年は異年号で、天正4年頃にあたるものだ、 と注釈しています。 >>111


[85] , の文化財報告書では、 >>78 について、次のように述べられています。 >>27, >>17

[18] 平成時代初期、 日本国熊本県で活動する金石文研究者の前川清一は、 >>78熊本県私年号用例の1つとして紹介しました。 光永元年は干支よりとされました。 >>513 pp.31-32, >>23

[82] の史料集は、 >>78 を紹介し、 光永私年号であり、 干支種子からもしくはとみられる、 と説明しています。 >>28

[35] の書籍で前川清一は、 >>78 を紹介し、 (2年を)もしくはとしています。 >>33

[83] その続刊での地域史は、前川清一の執筆において、 >>78 を紹介し、 天皇が定めた公年号ではなくそれ以外で定めた私年号であり貴重であるとし、 熊本県内の他の私年号が16世紀前半に集中することから、 と推測される、 と述べています。 >>30

[20] 大日本年表 は天正4年としていること、 日本私年号の研究 によれば関東の板碑が出典かといわれていることを引きながらも、 その実物が確認不能となっているために、 熊本県では干支により天正9年、よって元年は天正8年だとされました。 >>513 pp.31-32, >>23

[24] 天正とするのは旧説の時代に従ったものであるようです。 60年遡って大永元年とし、よって元年は永正17年となる可能性もあり、 その場合子平加平とも同時代になるとも指摘しています >>23

[25] 千々和到の指摘によると、同時代の公年号に近い文字が使われる傾向がみられますから、 その場合永正説が有力となります。ただし関東の私年号の法則性が適用できるかはわかりません。 >>23

[234] 要するに千々和到1字置き換え説が駆動力となって熊本の光永の比定説が60年ずらされたような構図に見えます。

[13] 前川清一によって熊本私年号の事例(の1つ)として報告され、 関東中心と考えられてきた私年号研究に一石を投じることになりました。 日本私年号の研究には間に合いませんでしたが、 千々和到の表には途中から反映されています。

[181] 千々和到の系統の一覧表の多くでは、 光永またはの2説併記となっています。 それに17年を加えた3説併記、「頃」としたものもあります。 >>180

[201] 国史大辞典版の表が3つ目の候補に17年を加えた理由は不明で、 天正17年の意としか取れないのですが、 説 (>>25) が本来かもしれません。

[146] Webサイト私年号一覧表は、 光永に相当し、使用実例が「1・2年」であるとしています。 >>145

[172] 日本語ウィキペディアの一覧表は初期から光永を掲載していますが、 記載事項は少しずつ変化しています。 >>171

[177] いずれも出典は不明です。

[179] ウィキペディアの記事にも、 この年が私年号の光永元年だと記載しています。 >>1

[178] SNS 投稿は、 出典不明ですが、 内容からみてウィキペディアの改変転載と思われます。 >>166 明智と関連付けていることは、著者自身も「関係ない」とはしていますが、 ウィキペディアに無いので著者の独自の発想でしょう。

[144] 中文维基百科は、 日本私年号の研究 を出典に、 光永大日本年表にあるものの出所不明の私年号であり、 から継続年数不明、 としています。 >>143

[183] その他、中世私年号の紹介などで元号名等を列挙するときに、 代表例の1つとして光永を選んだ事例が散見されます。 必ず選ばれる超代表的な私年号では無いものの、 中世末期に当たることや、九州で用例が見つかっているということで、 目につきやすいのでしょうか。 比定年まで示されるとすると天正4年とする場合が多いようです。

関連

[9] 日本私年号の研究によると古代年号光元の異説で塩尻光永があるとのこと。


[148] 令和改元時の新元号予想光永を推した者もいました。 かなり多いので一部を挙げると:


[29] 土佐派絵画資料目録 7 (画帖 1), 京都市立芸術大学芸術資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13323758/1/15?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8 (要登録)

[110] >>29 は「光永十二才」と年齢で、光永人名と思われる。


永光

メモ