[76] 延徳は、日本の私年号の1つです。 中世日本の東国の広範囲で使われたことが記録に残っています。
[115] 他に公年号延徳もあり、時代が近接しているので注意が必要です。
[55] 慈恩寺梅本坊文書に私年号の延徳の文書が2点あります。 慈恩寺梅本坊文書は現存しませんが、 東京大学史料編纂所の影写本と、 山形県史 資料編五 梅本坊文書 に収録されています。 >>37
[57] 中世の慈恩寺は鎮護国家と領主の除災招福を祈る祈願寺的性格の寺院でした。 梅本坊はその有力な子房でした。 >>37
[52] 会津塔寺八幡宮長帳 の原本は日本国福島県会津坂下町塔寺の心清水八幡神社に所蔵されています。 からまでの記録があり (一部欠失)、 以降ほぼ1紙に1年ずつ記されています。 巻末ほど古くなります。 >>37
[39] この日付を記入したのは、 会津塔寺八幡宮長帳 の内容の検討により、 その年の早い段階か前年末であるのがほぼ確実と考えられています。 会津塔寺八幡宮長帳 には何年分も記録がありますが、 新元号はほとんどが2年から使われています。 >>37
があります。 >>37
[48] 第4紙の延徳2年が壬午年の錯簡とすると重複と欠落がちょうど解消されます。 記載内容もそれと矛盾しないことがわかっています。 >>37
[51] 第4紙をこの位置に置いた者は、おそらく庚戌年が重複していることに気づいてはいたと考えられます。 長享4年 (延長年号) も福徳2年 (公年号) も本来あり得ないもので、 干支年により排列したであろうからです。 しかし私年号の延徳を知らなかったために、 おそらく戸惑いながらも、ここに置く他なかったと推測されます。 >>37
[53] 書誌学的な考察は 会津塔寺八幡宮長帳, 是沢恭蔵編の巻頭解説に詳しく、 それによるとの修復で8巻構成となる前は4巻構成で、 更に遡って近世中期の新編会津風土記の頃には1巻構成でした。 からの修復で原構成がわからないほど散乱した状態から4巻構成に整理されたと推定されています。 >>37
[54] 明治の修復は、帝国大学編年史編纂委員の星野恒が永徳以前の体裁に従ってそれ以後も整理したと記録されています。 「延徳二年」紙が現行の位置に置かれたのもこのときだったと推測されています。 >>37
[113] 会津塔寺八幡宮長帳 の延徳を私年号と最初に指摘したのは、 昭和時代の歴史研究者太田晶二郞でした。 第5紙長享4年と第3紙福徳2年の間の第4紙延徳2年がその位置ではなく、 欠けている寛正3年だと内容が前後につながること、 福徳2年はその位置のままで内容が前後につながることを示しました。
文明十一天(己亥)夷則初六及傾日。於下野佐野庄山越密藏院(俊深)僧都御自筆ニテ書之
... となっています >>430 から、17年後の文明11年に下野国に所在したと考えられます。
<lb ed="T" n="0652c17"/><span class="tx"> 延德第二之曆</span><note place="inline">歳次壬午</note><span class="tx">狹鐘初四之夜。金鷄</span>
[214] >>212, >>215 は私年号の可能性があるとされています。 >>217
[122] >>67 >>11 は私年号延徳、それ以外は公年号延徳と考えられます。
[228] >>192, >>226 は私年号延徳、それ以外は公年号延徳と考えられます。
[366] >>85 >>86 は私年号延徳と考えられます。
[89] 香取文書中、壬子年の文書はみな延徳2年表記で、 公年号の寛正3年表記のものはありません。しかし翌年にはみな寛正4年表記になります。 >>148
【管理番号】 XA000000429463
【和暦年月日】 (寛正3年)2月22日(14620020220)
【文書名】 要害七郎左衛門入道譲状
【詳細内容】 ○延徳二年は私年号で、寛正三年にあたる。以下、同じ。
[312] 御殿山の板碑群には、 から文明14年のものがあります。 >>27 /22
[314] >>311 が公年号延徳ならは最新となります。 私年号延徳の可能性が指摘され、 それによればとなります。 >>27 /22
... があります。 >>423
[524]
このうち、「寛正□延徳二年」の判読不能文字を三か、とする論文があります。
>>335
しかし、その根拠は説明されておらず、三のように読めた、または読めたとする文献があったのか、
筆者の当論文の主張に従えば三に当たるという注釈なのか、不明です。
[522] 延徳私年号の記憶は近世には完全に失われていました。 延徳は公年号にも同名のものがあり、時代が非常に近いため、 その区別は一般に困難です。 干支年の不一致を疑問に思う人は近世・近代にもちらほらいましたが、 多くは何らかの誤りではないかと処理されました。 実際ただの誤記の可能性が高い干支不一致はどの時代にも頻出するので、 事例の蓄積がない時代にそう判断してしまったのは致し方ないことです。
[523] しかし、用例が集まってくると、干支が一致せず、しかもその不一致の在り方が同じであるものが、 非常に多いことがわかります。これは単純な誤記の偶然の一致では説明がつかないほどの規模です。 従って、よく知られた公年号延徳と異なる延徳があることは、 疑いようがありません。これを便宜上私年号延徳と呼びます。
[596] 私年号延徳に関する検討では、公年号延徳との混同に特に配慮が必要となります。 どの私年号も限られた現存し報告されている用例のみしか知り得ないという限界に注意する必要がありますが、 私年号延徳の場合は現存し報告もされていても、公年号延徳と誤認され私年号と認識されていない用例がかなり存在するであろうことにも常に留意しなければなりません。
[537] また、他の各史料で時系列的矛盾が生じません。
[597] かつてはを元年とする説もありました。 寛正より60年後となります。
[598] この説では >>533 と矛盾してしまいます。また、60年を経て異なる延徳が使われたと考えるべき理由も見当たりません。
... と記述しています。
[97] これについて、 鎌倉の鶴岡八幡宮に寛正2年11月に改元の情報が伝わった >>444 (>>95) と説明されることがあります。
[119] 文面通り、11月に改元されたとの情報が12月に伝わったとするべきでは?
[541] つまり鶴岡八幡宮では巳年11月か12月頃から午年7月頃まで第二類の私年号延徳を使っていたわけです。 しかも鶴岡八幡宮だけでなく他も使っていたとのことで、 他も似たような時期に似たような情報が届いていたと予想されます。
[542] 実際、
... があり、ほぼ同時期に鎌倉から山形までを含む相当広範囲に第二類の改元情報が流布されたことが知られます。
[545] 2年午の1月から6月まで、関東地方と東北地方で多くの第二類用例があります。
[568] この期間はあちこちに順序なく用例が出現しており、情報の伝播の順序と用例の日付は関係なさそうに思われます。
[554]
ただし、本土寺過去帳は大部分の項目の原資料が年をまとめて旧元号で表記していたと思われます。
[560] 香取では長く残ったように見えますが、2年9月、12月はともかく5年は時期が離れすぎており、 同年の他の文書はすべて公年号寛正6年のため、誤記説があります。
[556] 同時期に干支が1年ずれた第一類用例がいくつか見られます。
[563] これらは年数が3で干支が壬子であり、誤記説もあるものの、 同じ時期に複数の事例があるのは見逃せません。
... というちょうど1ヶ月前に当たる公年号と私年号延徳第二類の併記の日付があり、 どうにも不審です。
[567] これら7月以後の用例の解釈は悩ましいですが、 改元デマ訂正情報の流布の後も、関東地方の辺縁部では混乱がしばらく続いた、 と考えるのがいいでしょうか。
[582] 公年号の寛正3年への訂正情報が歪んで伝わって延徳3年が生じた可能性もありそうです。
[569] 多くの用例は、寺社や仏教に関係する媒体に見られます。
[570] 利用者は寺社に所属する僧侶、板碑建立に関わった地域の僧侶や地元の有力者のような人々と考えられます。
[571] 鶴岡八幡宮、日光山、香取神宮といった主要な寺社が含まれます。
[572] もっとも、香取文書のように寺社関連とはいいつつ領地経営関係の宗教色のない資料も含まれています。
[601] 大名クラスの有力な武家の用例は知られていません。 用例が現存しないだけなのか、使われることがなかったのかは不明です。
[573] 延徳は、利用者が改元に反応した経緯がはっきり記録されている稀有な私年号の事例です。
[98] 鶴岡八幡宮はその後半年間延徳を使っていました。 ところが寛正3年7月に改元が誤りだったと判明し、 元の寛政に復しました。 >>444 (>>96)
[5] 翌年7月、 「延徳二年」 としていたところ、 堀越公方の足利政知から延徳と改元されてはおらず、 京都では引き続き寛正が使われていると知らされ、 寛正に復しました。 >>3, >>7
[6] つまり延徳の私年号は改元デマで広まったものだったようです。
[99] 千々和到が「寛正3年を延徳と改元したとする風説に半年間従ったが、 豆州様から京都では延徳と改元していないことを知り寛正3年に復した」 と解釈して私年号をそうと知らずに主張した >>492 (金石文から見た中世の東国) のに対し、平成時代初期には異説もありました。
[100] 「京方は寛正3年を使うべきだとの堀越公方からの命令で、また寛正3年に復した」 と解釈するべきで、私年号と認識しながら使っていたとの説です。 >>101, >>492 (>>101) それは当時京と東国で人の往来は頻繁だったことと、 香蔵院珍祐記録 寛正3年6月条に 「寛正□延徳二年比」 とあることを根拠にしています。 >>101
[102]
そしてこれらは一部の研究者によって私年号呪術説の根拠 (呪術説を否定する
「私年号は公年号と誤認された」説を成り立たせない根拠)
に使われています。
しかしその後の研究者にこうした解釈はあまり支持されていないようです。
[103] 「寛正三延徳二年」と併記するのは理由があるはずだ (それは私年号の呪術性だ) >>101 と論じられていますが、単純に変更があったので新旧を併記した、 で十分説明がつきます。この事例が特殊だと主張するなら、 例えば前後の他の時代や他の寺社では通常どう表記されるものか、 など材料を揃える必要がありそうです。 特殊例が特殊であると示すには、まず通常例を知らなければなりません。
三は判読不能とされており、三とするのは論者の解釈です。
同じ年の併記ではなく期間だった可能性もあるかもしれず、(判読不能とはいえ)
実物に基づき検討する必要があるでしょう。これを唯一の併記史料として根拠に何かを主張するには弱い史料といえます。[104] また、寛正への復帰については、千々和到の解釈の方が原文に忠実に感じられます。
[575] よく読んでみると、寛正2年12月条では明確に改元として延徳への切り替えを行っています。 特別な私年号としての受け入れ (公年号との選択的切り替えや併用) とは書いていません。寛正3年7月の復帰でそうしたように、 特別な事情があっての切り替えなら、そう明記していそうな資料です。
[105] 一方で、情報伝達についての指摘は重要です。 戦乱の時代とはいえ鎌倉という要所、 鶴岡八幡宮という重要神社に人の往来が途切れるとは考えられません。 「延徳」への改元もそこから入ってきた情報の1つだったのでしょうが、 その後半年間もそれと矛盾した情報が入ってくることがなかったのか、 入ってきたらどう処理していたのかは、よくよく考える必要があるでしょう。
[106] これは豆州様にも言えることです。 鶴岡八幡宮が「延徳」紀年文書を堀越公方に発給するか何かの機会があって問題が発覚したのでしょうが、 それまで半年間両者のやり取りが何もなかったとは考えにくいことです。 堀越公方はその間どうしていたのでしょうか。 京都に使者を派遣して確認でもしていたのでしょうか。
[594] 各地の寺社とやり取りしていたであろう武家の用例が皆無なのも不思議です。 武家には改元情報が伝わらなかったのでしょうか。それとも信じなかったのでしょうか。
[595] 堀越公方は鎌倉の直接の領主ではないので、半年間紀年文書のやり取りが発生しないとしても、 訝しむほどのことではないとも考えられます。 とはいえ堀越公方は他の武家や寺社とも何らかのやり取りはしているはず。 それらは公年号だったのでしょうか。
[576] そもそもの問題として、どこの誰が、どういう経緯で誤った改元情報を流したのかが問題となります。 意図的に流した可能性もあれば、偶発的な噂に尾びれ背びれがついて正式な改元情報となった可能性もあるでしょう。
[577] 昭和時代の久保常晴は、 足利成氏の勢力圏内で使われているとし、 その政治的対立の中で足利成氏勢力の者 (ただし本人ではない) が意図的に作ったものと考えました。
[578] その後の一部の研究者はこれを支持したものの、 用例は必ずしも足利成氏の勢力圏内にあるものではないことが指摘されています。 それでも足利成氏配下で作られて圏外にも流布された、 という可能性は一概に否定できるものではありませんが、 足利成氏勢力圏に重心があるとも言えない以上、 足利成氏関係者に積極的に関連付ける根拠は現状では皆無です。
[579] 天災・飢餓の対策として作られた・使われたとする説があります。 他の私年号に対する理由の説を援用し発展させたものと思われます。 しかし、同時期に飢餓があったというだけで、 これを積極的に結び付ける物証があるわけではありません。
[580] 地域年号説と称して三島神社の制定とする説があります。 命禄に関する傍証を他の私年号にも類推したものです。 しかし延徳に関して証拠となる史料はありませんし、 三島神社と近しかったであろう足利政知が京都の元号を知らせたことと整合するようには思われません。
[583] 千々和到は、 延徳の改元デマの流布が公年号の改元と同じ寺社間の情報伝達経路で行われた可能性を指摘しています。
[584] 佐々木茂は、改元デマが鎌倉から山形までほぼ同時に拡散したことを指摘しています (>>66)。
[585] 地理的に遠く離れ、宗派も様々な寺社間にこれほど高速な情報伝達手段が存在したとすると、 驚くべきことであり、改元以外の情報伝達も含めてよく検討する必要があると思われます。
[586] この時期、意図的かどうかは不明ながら数ヶ月レベルの延長年号が散見されることを考えると、 これはますます不思議で、たとえ公年号の改元伝達でも津々浦々に浸透するのに時間を要することが多い (前年寛正2年は7ヶ月経っても旧元号が使われている地域がある >>292) 一方で、 延徳私年号だけは一瞬で広まるのは異様です。
[590] 少なくても鎌倉, 埼玉, 千葉, 福島, 山形に約2ヶ月で用例が出現しています。 (厳密に言えば11月の初見以前から噂が広まっていた可能性はあるので、 2ヶ月でこの範囲に拡散したとは断定できませんが。)
[587] 訂正情報の拡散については寛正3年の紀年用例の情報が集められておらず詳細不明ですが、 延徳2年用例がほぼ皆無になるので、やはり高速に伝播したと推測されます。
[588] 記録が残るのは鶴岡八幡宮だけですが、堀越公方から、または鶴岡八幡宮経由で、 改元伝達と同じような経路で訂正情報が散布されたのでしょうか。
[589] 延徳への改元は年末なので暦書による拡散が推測でき、 だとすると高速な流布も納得感はあるのですが、 夏に訂正が同じ速度で流布されたとすると、他の媒体を考えなければなりません。
[591] 香取文書の用例や日光山の用例のように、7月以後に特異な用例が残るので、 訂正情報は改元情報より不安定な方法で流布された可能性があります。
[592] あるいは、改元というよくある操作より、改元の取り消しという異例の操作の情報は、 正しく理解されにくかったとも考えられます。
[457] 化政期に編纂された 新編武蔵風土記稿 は、 >>245 を紹介し、次のように述べています。 >>456
[461] すなわち、公年号延徳と干支が合わないので、近い公年号延徳の4年の誤りでないかと考察されていました。
[463] これに起因して、社殿再建時期を
... があると令和時代の解説に記載されています。 >>462
延徳年間の社殿再建について、資料によって延徳2年(1492)とするものと延徳4年(1494)とするものがある。これは、かつての御神体であった「銭丸」の銘にある「延徳二年壬午」の問題に由来する。
これを紹介した『新編武蔵風土記稿』は、延徳2年は庚戌であるため、二とあるのは□であり、午は子の誤りとして、延徳四年壬子が正しいのではないかとしている。そのため、銘文通り延徳2年とする資料と、風土記稿に従って延徳4年とする資料があるようだ。
[229] 近世後期に色川三中によって編纂され明治時代に刊行された 香取文書纂 は、 私年号延徳と思われる
[230] これらは公年号延徳と混ぜて年番号・月番号順に配置されていますが、 >>192 に
按ニ延德元
年己酉ナリ 壬午ナシ、 イカヽ誤テ ルニヤ可考
... と注釈があります。 >>129
[81] 色川三中による香取検杖文書 (静嘉堂文庫所蔵) 所収の >>79 >>80 の影写には、
と注釈があります。 (>>83 は >>148 に写真あり) >>148
[231] 本書凡例に異年號の記述があり、その1つとして、次のようにあります。 >>2
又撿杖家文書卷二に。延德
といへる文書二枚あり。此年は庚戌 壬 午 にして。壬午の年には遠し。疑らくは大永二年壬午にやあらん。しかれ 共。其證據たしかならねば。しばらく延德二のもとに收む。
[232] つまり、延徳2年壬午は大永2年壬午と推測しつつも、断定せず公年号延徳に暫定的に含めたとされます。
[84] 令和時代時点の東京大学史料編纂所のデータベースは、 >>192 を紹介し、 私年号で延徳2年は寛正3年としています。 >>118
[2399] 明治時代初期の書籍は、 足利氏が正朔を乱したとし、
... の3つが知られているとしています。 >>2403
[400] の史料集は、 香取文書の延徳私年号の用例を延徳公年号の用例に混ぜて収録しています。 干支年に「ヵ」注釈で延徳公年号への校訂案を示しています。 >>132 延徳私年号の存在を意識していなかったようです。
[322] 昭和時代の歴史研究者太田晶二郞は、 >>113 より、 延徳は私年号と考えられるとしました。 >>50 当時は延徳の私年号の存在は広く知られておらず、 太田晶二郞は 会津塔寺八幡宮長帳 の紀年の矛盾のみから私年号の存在を推定しました。
[114] 太田晶二郞の論文は私年号研究の方面ではしばらく見落とされていました。 昭和42年の 日本私年号の研究 は福徳と永亀で 会津塔寺八幡宮長帳 を引いて、福徳の項では延徳2年と延徳4年の間に福徳2年があることまで指摘していますが、 その延徳2年が正しくないことは見落としていました。 延徳を立項している日本私年号の研究でもこのようなミスを犯すところに、 同名別元号の取り扱いの難しさを感じてしまいます。
[49] 平成時代の歴史研究者佐々木茂は、 会津塔寺八幡宮長帳 を改めて検証して延徳2年が私年号であることを示し、 太田晶二郎の先行研究の存在を紹介しました。 >>37 (>>50)
[143] 昭和40年の久保常晴の論文には、 次のようにあります。 >>142
[146] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 次のように述べています。 >>144
[234] 昭和52年11月、 浅沼徳久は、古文書学会大会で発表し、 足利成氏の時代の日光山で公式記録に私年号の延徳や福徳が用いられた、 と述べました。 >>22
[235] 同趣旨と思われる浅沼徳久の論文が昭和52年、53年に発表されています。 >>289, >>207
[34]
そこでは、
延徳および福徳は当時日光山全体で使われた (公年号は使われなかった)
と推測されています。
[239] >>234 を引用したものによると、 >>32, >>33 より、延徳2年は寛正3年に当たるとされました。 >>22
[71] 浅沼徳久は、私年号延徳を記した石像祭祀物はなく、 公年号に紛れている可能性があるため板碑等は注意して観察する必要があると研究者に注意を促しました。 >>289 当時の研究状況が知られます。
[242] の地域史は、 千葉県下の私年号金石文の解説において、 延徳私年号は >>195 >>198 の2件があるとしています。 延徳2年壬午は寛正3年にあたると述べています。 >>24
[386] の史料集は、 >>201 >>205 を紹介し、 私年号としています。 >>131, >>380
[359] の書籍は、 次のように述べています。 >>194
[256] の地域史は、 次のように述べています。 >>120
胤直の敗死から七年後の一四六二年に建てられた板碑が北中の浄妙寺にある。それには延徳二年壬午(みずのえうま)正月六日と記されているが、公年号の延徳二年は庚戌(かのえいぬ)(一四九〇)であって壬午ではない。壬午はそれより二八年さかのぼり公年号の寛正三年(一四六二)に該当する年である。このような年号は私年号といわれるもので、中央政府が公式に制定した公の年号に従わず、地方の有力者などが独自に制定して、その勢力圏で使用したり、僧侶などが私的に使ったりしたものである。しかし広く一般に使われたわけではなく、政治的な意味はないといわれている。
この浄妙寺板碑の「延徳」年号は、足利成氏の勢力圏で成氏の部下または支持者の豪族たちによって建元され使用されたものである。成氏の勢力圏ではこのほかに「享正」も用いられている。享正元年は公年号の享徳三年に、享正二年は康正元年に対応している。康正元年は千葉胤直の敗死した年である。
「延徳」の使用例は香取文書に五例見られるほか、松戸市小金井の本土寺過去帳、茨城県高萩市赤浜の妙法寺過去帳、栃木県日光市の輪王寺文書にも見られる。また八千代市米本長福寺の武蔵板碑(断碑)が延徳と推定されている。それに対して「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基にとどまっている。
足利持氏は、幕府に対立した永享(一四二九~四一)のころ、公年号が嘉元に改元されて後も永享をそのまま使用し続けたが、その子の成氏もまた改元を無視して旧年号である享徳(一四五二~五五)を長く使っていた。享徳は四年で終わっているが、成氏は享徳十七年正月十六日付の香取大禰宜からの祈祷巻数(かんじゅ(ず))を受け取っており、配下の千葉孝胤は享徳二十年八月付で香取神領の葛原・小野・織幡に安堵状を出している。中央にそむいた成氏の勢力圏でその私年号が使用され、長く持続していたことがわかる。
「延徳」の私年号が使用されていた松戸市小金井は御所方の原胤房が城を築いて拠点とした所であり、日光も成氏を支持した宇都宮氏の支配圏であったが、「享正」使用圏よりも「延徳」使用圏の方が広範囲であり、浄妙寺の板碑もその範囲にあったものと理解される。ただし成氏自身は公年号の享徳を使い「延徳」は用いていないので、この私年号はその配下と支持者の間で建元され使用されたものである。そして香取神宮や輪王寺を始め宗教者の間で使われ、特に妙法寺・本土寺は北中の浄妙寺と同じ日蓮宗の寺であった。民間における改元の情報は、行政のルートとは別に宗教者の間にもあったらしいといわれている。
「享正・延徳」という私年号の考案にあたっては公年号の享徳を母胎にしたものと見られている。しかも享徳を成氏が長く使用したことと関係がありそうで、享に正を、徳に延の字を結びつけた意図が感じられよう。要するにこれらの私年号は、成氏が関東公方を僣称していたころの公年号である享徳を、成氏自身が二十数年も使用し続け、中央で改元されていた康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明などの公年号を拒否していたところからその勢力圏で生まれたのであった。
以上、久保常晴著『日本私年号の研究』(吉川弘文館)などを参考にして述べてきたが、同書によれば、関東には鎌倉時代末期から私年号の知識と、使用の伝統があり、それが室町時代、「享正・延徳」などの私年号を生み出す母胎となっている。そしてこの地方の文書などで干支(えと)を欠く「延徳」年号の記されたものには注意を要するとされている。
[494] の 本土寺過去帳 資料は、 私年号延徳もあると断りつつ、 すべて公年号延徳にまとめています。 >>493
[128] の史料集は、 >>124 の延徳二年壬午用例を公年号延徳2年に配置し、 壬午にママ注を付しています。 >>127
[69]
昭和時代後期から平成時代の板碑研究者千々和到は、
延徳は公年号の享徳の1字置き換えと考えました。
>>68
[581]
千々和到による当社記録の紹介は、
中世東国私年号の少なくても1つ、
もしかするとそれ以外もが、
意図的に使用されたものではなく広域的に拡散された改元デマだったと明らかにしたもので、
私年号研究を根本から覆す画期的なものでした。
[346] の山崎真佐恵の論文は、 次のように述べています。 >>101
[347] すなわち、この頃提唱されたばかりの千々和到の改元デマ誤認説を否定し、 私年号と公年号が併記された事例があるのだから、 私年号は呪術的目的で意識的・選択的利用されたと主張しました。 延徳についても併記の事例を提示すると共に、 千々和到が誤認説の根拠とした公年号復帰の記録は、 公年号使用命令だとの解釈を示しています。
[602]
当説は公年号と私年号の併用に注目を促した点に研究史的意義を見出だせます。しかしそこから導かれる議論には論理の飛躍も少なくなく、後続の研究者にはほぼ支持されていません。
[219] の報告書は、 >>205 を紹介し、 延徳3年は寛正3年の私年号とし、 古河公方足利成氏も使い、 茨城・千葉を中心に関東にみられるとしています。 >>218
[421] 平成2年12月21日、 >>201 が文化財指定されました。 >>419
[498] の史料集は、 >>201 を紹介し、 私年号で寛正2年にあたることこれまでの研究で明らかとし、 千々和到を引いて寺社間の情報伝達に起因して伝播したと説明しています。 >>495
[317] の史料集は、 >>311 を紹介し、 公年号延徳説を基本としつつ、 私年号延徳説を併記しています。 >>27
[318] 板碑群の他と比べて公年号延徳では時期が新しすぎるのが理由と思われます。
[107]
平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、
命禄の事例 (
[108] 勝俣鎮夫は更に、堀越公方は延徳への改元の事実を否定したのではなく、 「京方ハ」とある通り京都の元号を用いることを要求したものだと主張しました。 >>258
[92]
平成時代の歴史研究者山田邦明は、地域年号説を支持しており、
香取文書に現れる延徳2年の私年号をその1つとしました。
そして翌年寛正3年には使われなくなり、
寛正6年もほとんどは公年号が使われていたものの、
1例だけ延徳5年であることを、
「
[93] その意図はいまいち測りかねるところもありますが、 いったん消滅して使われなくなったものの記憶には残っていてなにかのきっかけで再登場した (記録が現存しないだけで細々と使われ続けた、というわけではない) という考えでしょうか。
[488] の地域史は、 >>201 を紹介し、 寛正2年の私年号としています。 >>487
[61] に佐々木茂は >>59 >>60 を紹介しましたが、 それ以前に私年号史料として紹介した者はなく、 私年号と東北地方が結びつかないというなんとなしのイメージがあったのではと指摘しています。 >>37 平成時代初期まで私年号は中世関東のものと学界では思われていました。
[66]
佐々木茂は、当時知られていた最北端の慈恩寺 (>>57)
と最南端の鶴岡八幡宮 (>>4)
でほぼ同時期に改元伝達があったことに注意を求めています。
>>37
歴史民俗資料学研究 第7号(2002.02)
東北の私年号
―「延徳」の事例を中心に― 佐々木 茂
平成7(1995)年度修士論文
私年号「延聴」の襲用について 佐々木 茂
[16] 「延聴」は他に情報が出てきません。 (Google検索で1件発見される PDF は OCR の誤読。)
[17] いかにも字面が似ている「延徳」 についての7年後の論文 >>152 には前の論文について何の言及もなく、 「襲用」要素もないので、無関係でしょうか。
[18] 「延聴」で検索して内容を確認できるものは、 国会図書館デジタルでも Google Books でも、みな「延應」か「延徳」の OCR 誤読のようで。
[19] 歴史民俗資料学研究 = History and folk culture studies (2), 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4428956/1/102 (要登録)
私年号「延󠄁徳」の使用について
[20] 平成7年度修士論文の題名が >>19 のように掲載されています。 >>153 のウェブ掲載論文リストはOCRの誤読か入力者の変換ミス?
[220] 平成20年3月の 東国板碑データベース は、 >>218 (記入者: 諸岡勝), >>221 (記入者: 吉田義和) を私年号としています。 >>217
[63] この他、いくつかの延徳銘板碑を私年号としています。
[367] このデータベースの多くは出版済みの報告に基づいて収録しているようです。
[406] の解説は、 次のように述べています。 >>405
[248] 付 (初出不明) の Webサイトは、 >>245 を紹介し、干支年から私年号で寛正3年と説明しています。 >>14
多摩郡平尾村椙山神社懸仏銘(東京都稲城市)に「延徳二年壬午五月五日、武州児玉郡金屋住人中林五郎左衛門家吉敬白」。延徳二年(一四九〇)は庚戌である。延徳は私年号で寛正三年壬午(一四六二)が正確である。
[388] の報告書は、 延徳に3種類があることに注意を促し、 うち私年号延徳は2年が寛正3年に相当するとしています。 >>191
[377] の報告書は、
... と注釈しています。 >>566
[137] 。
[138] #page=23 では私年号延徳としているのに。 #page=23 の方の数え方を延長すると、 私年号延徳5年乙酉になる。
[401] 近世・近代の一覧表等には掲載がありません。 >>402
[403] 日本私年号の研究以来の表の多くには寛正元年・寛正2年を元年として掲載されています。 一方だけないし「頃」などの不正確な表記もみられます。 >>402
[404] 千々和到の系統の表には元年・2年・5年の用例があるとなっています。 >>402
[28] 日本語版ウィキペディアは初期から掲載しています。 >>21
[349] の元号の解説書は、 改元伝達と私年号に関する説明の中で、 改元デマが実用されて復帰した鶴岡八幡宮の事例を紹介しています。 >>3
[391] の SNS 投稿は、 優れた為政者の徳を広く行き渡らせることを意味する、 と主張しています。 >>141 根拠は不明です。
[123] 令和時代の書籍は、 延徳はで、 香蔵院珍祐記録 に記述があるとしています。 >>72
[348] その他、 年表で 香蔵院珍祐記録 >>7 や日光山 >>110 の改元/私年号の事例を紹介するものがあります。
[126] また、私年号の事例として延徳を挙げるものも多くあります。 >>1157, >>422
[298] 足利成氏が使用したと断言するものもありますが、根拠は不明です。 >>295
... と主張しています。 >>450
[455] この記事は久保常晴と浅沼徳久の論文と網野善彦を引用していますが、 前2者はここまで断定的には書いていません。網野善彦の発言なのでしょうか、 それとも著者の独自見解でしょうか。
[449] の Webページは、 >>210 が情報源と思われますが、私年号延徳を公年号延徳と誤認した西暦年の比定を記載しています。 >>437
宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 延徳 - 寛正元年(1460年) 不明 『旧新福寺文書』(『香取文書』)、『本土寺過去帳』など
日光は、男体山頂上を中心に平安後期を中心とした大祭祀遺跡が存在し(註69)、山岳信仰の霊場として屹立するが、この当時は、太田道灌の扇谷上杉氏側と敵対する古河公方の庇護者となっており、宗教的権威を背景に、古河公方を中心にして関東に通用する「延徳」「福徳」などの異年号をつくっていたともいわれる。(註70)したがって、太田道灌の城と町を祝福する詩の中には日光山は登場しないというふうに理解することができる。
註70 久保常晴「足利成氏勢力圏の私年号―享正と延徳―」『日本私年号の研究』吉川弘文館 1967、浅沼徳久「室町時代における日光山の私年号使用―下野に現存する私年号資料の紹介をかねて―」日本古文書学会『古文書研究』第12号 1978、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』そしえて文庫7 そしえて 1982、森浩一 網野善彦『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』大巧社 2000 における網野の発言
また「延徳」や「福徳」といった、朝廷が正式
に定めたものでない年号を用いた板碑もある (写真3)。これらの年号は私年号と呼ばれ、 社寺や有力者が時の年号をめでたい字に置き 換えたもので、元号の攘災や招福のためと考 えられている。
1490年(延徳2年)に京都建仁寺の一牛という僧が立ち寄り寄贈した『礼記集説』(元天暦元年刊本、現存)に「能化肥後之産天矣」とある。
| 干支年 | 西暦年 | 公年号 | 私年号延徳 第一類 | 私年号延徳 第二類 |
|---|---|---|---|---|
| 庚辰 | 寛正1 | 延徳1 | ||
| 辛巳 | 寛正2 | 延徳2 | 延徳1 | |
| 壬午 | 寛正3 | 延徳3 | 延徳2 | |
| 癸未 | 寛正4 | 延徳3 | ||
| 甲申 | 寛正5 | 延徳4 | ||
| 乙酉 | 寛正6 | 延徳5 |
| 干支年 | 西暦年 | 公年号延徳 | 公年号 |
|---|---|---|---|
| 己酉 | 延徳1 | 長享3 | |
| 庚戌 | 延徳2 | ||
| 辛亥 | 延徳3 | ||
| 壬子 | 延徳4 | 明応1 | |
| 癸丑 | 延徳5 | 明応2 |