延徳

延徳

[76] 延徳は、日本の元号の2つです。29年の間を置いて私年号公年号の2種類があります。

延徳 (日本私年号)

[1] 延徳は、日本の私年号の1つです。

[8] 日本私年号の研究に詳しい。

[4] 寛正2年12月、 日本鎌倉鶴岡八幡宮の供僧香蔵院珍祐は、 「当年寛正二年十一月より改元なり、 延徳元年十二月日」 と記しました。 >>3

[97] 鎌倉鶴岡八幡宮には、 寛正2年11月に改元の情報が伝わりました。 >>444 (>>95)

[98] 鶴岡八幡宮はその後半年間延徳を使っていました。 ところが寛正3年7月に改元が誤りだったと判明し、 元の寛政に復しました。 >>444 (>>96)

[5] 翌年7月、 「延徳二年」 としていたところ、 堀越公方足利政知から延徳改元されてはおらず、 京都では引き続き寛正が使われていると知らされ、 寛正に復しました。 >>3, >>7

[6] つまり延徳私年号改元デマで広まったものだったようです。

[99] 千々和到が「寛正3年を延徳と改元したとする風説に半年間従ったが、 豆州様から京都では延徳と改元していないことを知り寛正3年に復した」 と解釈して私年号をそうと知らずに主張した >>492 (金石文から見た中世の東国) のに対し、平成時代初期には異説もありました。

[100] 「京方は寛正3年を使うべきだとの堀越公方からの命令で、また寛正3年に復した」 と解釈するべきで、私年号と認識しながら使っていたとの説です。 >>101, >>492 (>>101) それは当時東国で人の往来は頻繁だったことと、 香蔵院珍祐記録 寛正3年6月条に 「寛正 ((三ヵ)) 延徳二年比」 とあることを根拠にしています。 >>101

[102] そしてこれらは私年号呪術説の根拠 (呪術説を否定する 「私年号は公年号と誤認された」説を成り立たせない根拠) に使われています。 しかしその後の研究者にこうした解釈はあまり指示されていないようです。 中世私年号

[103] 「寛正三延徳二年」と併記するのは理由があるはずだ (それは私年号の呪術性だ) >>101 と論じられていますが、単純に改元の年だったから新旧を併記した、 で十分説明がつきます。この事例が特殊だと主張するなら、 例えば前後の他の時代や他の寺社では通常どう表記されるものか、 など材料を揃える必要がありそうです。 特殊例が特殊であると示すには、まず通常例を知らなければなりません。

[104] また、寛正への復帰については、千々和到の解釈の方が原文に忠実に感じられます。

[105] 情報伝達についての指摘は重要です。 戦乱の時代とはいえ鎌倉という要所、 鶴岡八幡宮という重要神社に人の往来が途切れるとは考えられません。 「延徳」への改元もそこから入ってきた情報の1つだったのでしょうが、 その後半年間もそれと矛盾した情報が入ってくることがなかったのか、 入ってきたらどう処理していたのかは、よくよく考える必要があるでしょう。

[106] これは豆州様にも言えることです。 鶴岡八幡宮が「延徳」紀年文書を堀越公方に発給するか何かの機会があって問題が発覚したのでしょうが、 それまで半年間両者のやり取りが何もなかったとは考えにくいことです。 堀越公方はその間どうしていたのでしょうか。 京都に使者を派遣して確認でもしていたのでしょうか。

[107] 平成時代の歴史研究者勝俣鎮夫は、 命禄の事例 ( 命禄 ) から類推して、 延徳も通常得ていた確かな根拠に基づき改元情報を得たに違いなく、 それは三島神社からの改元情報だったと考えました。 >>258

[108] 勝俣鎮夫は更に、堀越公方延徳への改元の事実を否定したのではなく、 「京方ハ」とある通り京都元号を用いることを要求したものだと主張しました。 >>258

[109] 勝俣鎮夫堀越公方が正式な京都元号を 「支配圏のものに使用を強制するのは当然であった」 としています。 >>258 ということは堀越公方の目と鼻の先にある三島神社はよほど強力な勢力で堀越公方の支配に対抗していたのでしょうか。 堀越公方はなぜ敢えてそんな土地を拠点に選んだのでしょうか。

[13] 香取文書纂 巻之1,2, 伊藤泰歳, 村岡良弼 校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/815200/1/10 (要登録)

凡例, 三中

[74] 香取文書纂 巻之17,18, 伊藤泰歳, 村岡良弼 校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/815214/1/33 (要登録)

[69] 千々和到は、公年号享徳の1字置き換えと考えました。 >>68 中世私年号

[12] 板碑とその時代

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
延徳-寛正元年(1460年)不明『旧新福寺文書』(『香取文書』)、『本土寺過去帳』など

[14] ナ~ノ, , http://saitama-myouji.my.coocan.jp/3-5na.html

[73] >>72 p.29

えんとく

1461年。 香蔵院珍祐記録

[22] 日光市史 上巻, 日光市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641847/1/513 (要登録)

[24] 千葉県史料 金石文篇 3 補遺, 千葉県企画部県民課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641996/1/79 (要登録)

[25] 神奈川県史 通史編 1 (原始・古代・中世), 神奈川県県民部県史編集室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9522771/1/498 (要登録)

[26] 戸田市史 資料編 1 (原始・古代・中世), 戸田市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642301/1/214 (要登録)

[27] 品川区史料 10 (品川御殿山出土の中世石造物), [東京都]品川区教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644889/1/22 (要登録)

[71] 浅沼徳久は、私年号延徳を記した石像祭祀物はなく、 公年号に紛れている可能性があるため板碑等は注意して観察する必要があると研究者に注意を促しました。 >>289 当時の研究状況が知られます。

日光

[31] 日光山輪王寺記録より >>207:

[34] 延徳および福徳は当時日光山全体で使われた (公年号は使われなかった) と推測されています。 室町時代における日光山の私年号使用

会津

[38] 会津塔寺八幡宮長帳, 是沢恭蔵編所収 会津塔寺八幡宮長帳 巻二ノ下第四紙表に、

延徳二年正月八日開白同十日結願

とあります。 >>37

[52] 会津塔寺八幡宮長帳 の原本は日本国福島県会津坂下町塔寺の心清水八幡神社に所蔵されています。 からまでの記録があり (一部欠失)、 以降ほぼ1紙に1年ずつ記されています。 巻末ほど古くなります。 >>37

[39] この日付を記入したのは、 会津塔寺八幡宮長帳 の内容の検討により、 その年の早い段階か前年末であるのがほぼ確実と考えられています。 会津塔寺八幡宮長帳 には何年分も記録がありますが、 新元号はほとんどが2年から使われています。 >>37

[40] 会津塔寺八幡宮長帳 には

があります。 >>37

[48] 第4紙の延徳2年が壬午年の錯簡とすると重複と欠落がちょうど解消されます。 記載内容もそれと矛盾しないことがわかっています。 >>37

[51] 第4紙をこの位置に置いた者は、おそらく庚戌年が重複していることに気づいてはいたと考えられます。 長享4年 (延長年号) も福徳2年 (公年号) も本来あり得ないもので、 干支年により排列したであろうからです。 しかし私年号延徳を知らなかったために、 おそらく戸惑いながらも、ここに置く他なかったと推測されます。 >>37

[53] 書誌学的な考察は 会津塔寺八幡宮長帳, 是沢恭蔵編の巻頭解説に詳しく、 それによるとの修復で8巻構成となる前は4巻構成で、 更に遡って近世中期の新編会津風土記の頃には1巻構成でした。 からの修復で原構成がわからないほど散乱した状態から4巻構成に整理されたと推定されています。 >>37

[54] 明治の修復は、帝国大学編年史編纂委員の星野恒永徳以前の体裁に従ってそれ以後も整理したと記録されています。 「延徳二年」紙が現行の位置に置かれたのもこのときだったと推測されています。 >>37

[113] 会津塔寺八幡宮長帳延徳私年号と最初に指摘したのは、 昭和時代の歴史研究者太田晶二郞でした。 第5紙長享4年と第3紙福徳2年の間の第4紙延徳2年がその位置ではなく、 欠けている寛正3年だと内容が前後につながること、 福徳2年はその位置のままで内容が前後につながることを示して、 延徳私年号と考えられるとしていました。 >>50 当時は延徳私年号の存在は広く知られておらず、 太田晶二郞会津塔寺八幡宮長帳 の紀年の矛盾のみから私年号の存在を推定しました。

[114] 太田晶二郞の論文は私年号研究の方面ではしばらく見落とされていました。 日本私年号の研究福徳永亀会津塔寺八幡宮長帳 を引いて、福徳の項では延徳2年と延徳4年の間に福徳2年があることまで指摘していますが、 その延徳2年が正しくないことは見落としていました。 延徳を立項している日本私年号の研究でもこのようなミスを犯すところに、 同名別元号の取り扱いの難しさを感じてしまいます。

[49] 平成時代の歴史研究者佐々木茂は、 会津塔寺八幡宮長帳 を改めて検証して延徳2年が私年号であることを示し、 太田晶二郎の先行研究の存在を紹介しました。 >>37 (>>50)

山形

[55] 慈恩寺梅本坊文書私年号延徳文書が2点あります。 慈恩寺梅本坊文書は現存しませんが、 東京大学史料編纂所の影写本と、 山形県史 資料編五 梅本坊文書 に収録されています。 >>37

[56] 山形県史国会図書館デジタルにありますが、なぜか非公開です。

[57] 中世の慈恩寺鎮護国家と領主の除災招福を祈る祈願寺的性格の寺院でした。 梅本坊はその有力な子房でした。 >>37

日時事例

[61] これらは佐々木茂まで私年号史料として紹介した者はなく、 私年号とこの地方が結びつかないというなんとなしのイメージがあったのではと指摘されています。 >>37 平成時代初期まで私年号は中世関東のものと学界では思われていました。

[66] 佐々木茂は、当時知られていた最北端の慈恩寺 (>>57) と最南端の鶴岡八幡宮 (>>4) でほぼ同時期に改元伝達があったことに注意を求めています。 >>37 中世私年号

[152] 出版物 | 神奈川大学院 歴史民俗資料学研究科 () http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/publication/memories.html

歴史民俗資料学研究 第7号(2002.02)

東北の私年号

―「延徳」の事例を中心に― 佐々木 茂

[153] 論文題目一覧 | 研究活動 | 神奈川大学院 歴史民俗資料学研究科 () http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/activity/thesis.html

平成7(1995)年度修士論文

私年号「延聴」の襲用について 佐々木 茂

[15] >>153 修士論文。入手困難?

[16] 「延聴」は他に情報が出てきません。 (Google検索で1件発見される PDFOCR の誤読。)

[17] いかにも字面が似ている「延徳」 についての7年後の論文 >>152 には前の論文について何の言及もなく、 「襲用」要素もないので、無関係でしょうか。

[18] 「延聴」で検索して内容を確認できるものは、 国会図書館デジタルでも Google Books でも、みな「延應」か「延徳」の OCR 誤読のようで。

[19] 歴史民俗資料学研究 = History and folk culture studies (2), 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4428956/1/102 (要登録)

私年号「延󠄁徳」の使用について

[20] 平成7年度修士論文の題名が >>19 のように掲載されています。 >>153 のウェブ掲載論文リストはOCRの誤読か入力者の変換ミス?

香取

日時事例

[89] 香取文書中、壬子年の文書はみな延徳2年表記で、 公年号の寛正3年表記のものはありません。しかし翌年にはみな寛正4年表記になります。 >>148

[81] 色川三中による香取検杖文書 (静嘉堂文庫所蔵) 所収の >>79 >>80 の影写には、

  • [82] >>70 に「按、延徳元己酉ナリ、壬子ナシ、イカヽアヤマルカ可考、四十一丁可考合」
  • [83] >>80 (= 四十一丁) に 「按延⿰彳⿱匕匕二ハ庚戌ナリ疑大永 二壬子ナラン」 (楷書)

と注釈があります。 (>>83>>148 に写真あり) >>148

[84] つまりと推測しました。理由は不明ですが、 元号年干支年が一致するためかもしれません。

日時事例

[91] 香取文書でこの年は寛正6年とするものが多く、 延徳5年とするのはこの1例だけです。 >>148

[92] 平成時代の歴史研究者山田邦明は、地域年号説を支持しており、 香取文書に現れる延徳2年の私年号をその1つとしました。 そして翌年寛正3年には使われなくなり、 寛正6年もほとんどは公年号が使われていたものの、 1例だけ延徳5年であることを、 「その後もしばらく人々の 意識の上に存在しつづけ、このような形で表面化することもあった」 と理解しました。 >>148

[93] その意図はいまいち測りかねるところもありますが、 いったん消滅して使われなくなったものの記憶には残っていてなにかのきっかけで再登場した (記録が現存しないだけで細々と使われ続けた、というわけではない) という考えでしょうか。

[110] 河内町誌, 河内町教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642484/1/474 (要登録) 右

延徳 (日本公年号)

[2] 延徳は、日本の元号 (公年号) の1つです。

[11] 板碑概説, 服部清五郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/384 (要登録)

延悳龍集庚戌霜月8日 延徳2年

[136] 郷土要録, 大分県師範学校郷土室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1232609/1/29 (要登録)

大分県の板碑の私年号「延悳」、意識的に使用したかは不明 (具体例なし)

[9] 仏教考古学講座 第五卷, 雄山閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82 (要登録)

延悳 延徳のこと

[23] 久喜市史 資料編 1 (考古・古代・中世), 久喜市史編さん室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644349/1/255 (要登録)

延長年号

[29] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/318 (要登録)

延長年号

[70] 中禅寺納札 「延徳五天卯月十二日」 (同一人物によるもの 福徳 ) >>289

日時事例

[111] 史蹟と史話, 大阪染料商壮年会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042168/1/181 (要登録) 左

日光 延徳五年

メモ

[21] 町田市史 上巻, 町田市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641034/1/386 (要登録)

改竄事例

[28] 板碑入門, 小沢国平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78 (要登録)

[30] 延真 >>117